2012年9月2日

いじめの解決方法

山岸俊男氏『心でっかちな日本人』第二章からひけるのは、機会頻度によったいじめ行動がみられる、という実験的知見だろう。
 何人がいじめをやめさせるかあるいはみてみぬふりをするか、というclassの平均期待値によって結果が真逆になる。この臨界値がすべての集団にあり、よいときは本来の正義感のある者らによってのぞましい社会秩序としての個性の尊重があらわれ、わるいとき、こどもでは校内犯罪の隠蔽であるいじめとなり、おとなでは組織的な犯罪の隠蔽になる。

 すべてこの犯罪隠蔽をさけさせるには、消極的には2012年9月現在滋賀県大津市で大々的におこなわれている様な事後的な刑罰もきくだろうが、積極的にはその社会集団での臨界値を風変わりだが無実な少数者をかばうがわにもっていくのが必要となる。
 排他的集団はかれらの多数がもっていない特徴のもちぬしをしいたげる。この際に、かれら根っからのわるものをとりかこむ多数者が個性尊重的な行動原理をもっているとき、あきらかに少数者の権利をまもろうとするだろう。日本でこれがおこりにくいのは、かれらの多数が遺伝的同族性をもっているうえ、かつて村八分という管理された農村社会で規制されていたふるい風習があるから。このなれが特に日本社会とよべる日本の土着人らのみの集団では頻繁に先祖返りででてくる。

 あるべきなのは個性尊重がわの人数を擁護する事、そしてそういった行動習性をもつ人間をclass、つまり一定の組織集団にふやすこと。
 それにはこどもの社会では単なる動機づけだけではなく、無実の少数者へのいじめ行為をとめさせた者へおおやけに褒章をあたえる、傍観者は潜在的ないじめ加担者だからこれをふくめとめなかった者へ厳罰をほどこす、という賞罰の原理を教育指導要綱あるいは条例規則へいれる必要がある。またおとなの社会では無実の少数者への迫害と多数者への追従によっておこした事件にあきらかな法的罰則をもうけること、そして無実の少数者への擁護やてだすけをおこなった者へ公的褒賞や報酬をあたえる必要がある。冤罪に関しての同様の場合もおなじ。
 もっとわかりやすくまとめてしまうと、とらえかたによって語弊もあるかもしれないが、「判官贔屓ほうがんびいきの制度化」をするのがいい。
 これらの無実と罪への個人主義的賞罰原理は単なる制度だから、精神論より具体効果があるだろう。さらに、単なる道徳心理をうえつけるという方法をとるばあい、新渡戸稲造『武士道』の弱い者いじめへの心理的制裁をしめす該当箇所またはおとなのばあい全体を教本としてあつかうのも実効性があるだろう。仁:benevolenceの項目につぎの文がある。

やぶれたる者をいつくしみ、おごれる者をくじき、
平和の道を立てること、これぞなんじわざ

��まけたものをいつくしみ、わがままなものをくじき、
おだやかなみちをたてること、これがおまえのすべきこと。)

 また自分自身がそこにまきこまれたばあいは、
1. 「自分が第三者であるか現にまきこまれそう」なとき無実の少数者の味方をして悪人らへみずから抵抗したり信頼できる他者へ通報するなどさまざまな手だてで「たたかう」か、
2. 「自分自身が被害をうけている」ときは「勝てそうならばたたかい、てだすけがすくなく勝ち目がなさそうならばその社会集団からのがれ別の集団に所属する」のが有効。
3. これらの中間的な「傍観」が、なにもしていなくともおこなわれていく罪へ間接加担することになるばかりか、その悪意ある集団とそっくりな一員とみなされてしまうので「もっとも危険」ということになる。
4. 勿論、「自分自身が無実の少数者への犯罪にてをそめている」ときは「もっとも損害をこうむっているのは自分自身」となるだろう。この無益なばかりか害のある行動へついやされる時間を自分自身の向上にあてた方が合理的なばかりか、犯罪そのものは外的には警察から処罰され、内的には良心から制裁されるから。