岡倉天心の映画はもう大部分できあがってしまっているのかもしれないが、重要だとおもうのは、芸大を排斥された失意の岡倉が、再起の地をさがしていたとき磐城四倉から五浦辺りまでの海岸を紹介した飛田周山。はじめ四倉を案内したが岡倉のきにはいらなかった。そこでいつうらまで南下してきたら、あの雅趣に富む景観を岡倉はきにいり、地元にくわしい飛田へ周辺の敷地を買う様たのみ改めて日本美術院の本拠とすることにした。
飛田は市内の大塚生まれの人物で子孫や生家がのこっており、美術院の人物達のかげにかくれてめだたなかったがごく大きな美術史上の功労者だろうし、市内でも精華小と明徳小にかれの手になる立派な日本画があるという。かれがいなければ岡倉も再起する機会をのがしたかもしれなかった。
ほかに、県内の重要史跡として、佐竹寺と西山荘がある。自分の知るかぎりこの2つの建築的価値はきわめて高く、法隆寺や桂離宮に単独で張り合えるだけの威力や歴史的位置にある。現在までに建築関係者からの取材や、近代建築史学のおもな流れからみのがされてきた故に有名ではないが、単に芸術性とみても法隆寺や桂離宮という有名どころに劣っていないばかりか超えている。ある質実剛健さ、質朴さ、しかも唐風の影響をほとんどうけていない日本古来の建築様式をたもっているという面で自分は、建築学上ほとんど無名なこの重要な文化財に大いに衝撃をうけた。この2つの建物、景観は優先して保護しておく価値がある。
軽視してる人間へも、実物を目の当たりにすればかならず、大和王朝以来の中央政府中心史観・大和民族中央史観へ必然な疑問符をなげかけるだけの文化論的インパクトがある。まえに日本の代表的建築物とされている有名な2つと同時期に見比べたらなおさらだろう。明治新政府の不当な冷遇によって不毛な地方とおもわれていた場所に古代から伝統された剛毅朴訥で偉大な技量、質素を重んじる高貴な精神性があった。歴史の見方を変えるほどの建築だ。
文学の面からは、『神皇正統記』が書かれた県内つくば市(常陸国筑波)の小田城も日本史の転換を期している面で保全するべき遺構だろう。大日本史や水戸学を経て皇国史観に至った往時を偲ばせる史跡として整えるべきだろう。南北朝時代に県内で記された思想からの変遷としての、日本の中での文治への啓蒙を行う価値は、反省的遺産としても十分あるから。
弘道館・偕楽園と好文亭、六角堂・天心邸と五浦海岸、或いは門を含む水戸城跡はいうまでもないからのぞくが、近代の建築でも現茨城県庁や磯原駅舎などは技術力や芸術性の高さから重要な建築的価値をもっている。これらは日立駅舎、天心記念五浦美術館、水戸芸術館ほど設計者が有名ではない故に建築的に価値をことさらたかくみとめられていないが、自分はなんらかの指標をつくって重要な文化財として優先して保護すべきだとおもう。近世のものとして大津駅前・磯原中学校横・中郷駅前の煉瓦倉庫、雨情生家などもこれに入るだろう。
国際的な鑑識による評定も重要なはたらきをする。
追記:或いは戦時に京都が原爆の目標からはずれたのはその文化財としての価値をGHQの一部がみとめ、回避させたからという都市伝説もあるが、この真相は「敵国」の文化財を破壊させる方が略奪の次点に合理的な事から、偽の可能性も十分ある。America側に証拠がない限り、京都の人のprideの高さからきた風説かもしれない。