県の芸術祭の運営方式はつぎの点でよくないか、まちがっている。以下の方針をかえればよくなるだろう。
まず淘汰方式、いわゆる試験監査によって排除的に展示作品をえらんでいるので質がさがってしまう*1)。だから参加希望者全員の展示場を確保することが重要。あらゆる傾向を決して排除してはいけない。よしあしは見物人がきめる。
*1) これは一般論としておかしく感じられるかもしれない。しかし、芸術界の原則として独創性は非排除方式のときにもっともさかえる。パリでサロン・ギルドの落選者展から近代美術が萌芽したのはそのいい例。日本でもアンデパンダン展が現代美術の萌芽になった。既存の潮流からすくなくとも適度以上にはなれた傾向が独創なので、あるいは審査をおこなう立場についている既得権益者は同時代からみれば賛同者がえられやすい保守的古典主義者なことがおおいゆえ、かれらのギルド談合方式できめてしまうとほぼ、この本来とうとぶべき独創的な芸術作品は排除されてしまうことになる。真逆に、むしろ「観客からの審査投票」というのがすぐれた芸術性をえらびだすかなめになる。しかも、ここに審査投票する観客がおおければおおいほど、消去法的な意味でだが失敗がなくなり、えらばれる趣味の傾向はよくなるだろう。世代別の投票というのも興味ぶかい結果をもたらす。若い世代がえらんだものの方が当然、既存の知識量がすくない分だけ独創性をつよくもっていることがおおいだろう。高齢世代がえらんだものはむしろ古典的になるだろう。
つぎに、この会場構成が問題になる。せまい近代美術館をかぎられた期間だけつかうと、展示の絶対量がすくなくなってしまう*2)。だから県の芸術祭は水戸芸術館やほかの転用会場なども利用し、現代美術作品も候補にいれ、会期期間をのばして展示の絶対量を参加希望者全員分にひろげなくてはならない。
*2) 自分が実際にみたところ、審査委員から落選させられていて、展示する機会がとざされ日の目を見ないまま地下収蔵庫おくりになっていた作品の方へはるかに現代性をもったものがきわめて複数あった。展示されていたのは、お年寄りのカルチャースクール級のなれあい傾向、なんの魅力もない枯れた近代美術前座のまねごとで、いまさら芸術として評価される質のものではなかった。いいかえればとじられたなかまうちでの自己満足にすぎない展示で、わざわざ遠方からひとがきたり、若者をふくめたおおくの人類が熱狂することは永遠にない芸術祭だった。
以上のことは単なるかりる会場と会期規模の問題だから、十分な参加費をつのれば十分できること。むしろ箱物、公園、会議場、空きビルなどありとあらゆる空間と場所は県のあちこちにありあまっている。していないのは単に芸術祭に関係するお年寄りたちの気力がなく、体力面からずるをしようとしているから。上座にいてよくしったなかまをほめ、まあたらしいわざつまりすぐれた芸術性を排除しながら次世代をみくだしていれば楽ちんなわけだ。しかし魅力がひくいとおもわれている原因が、これらの怠惰なおとしよりたちにあるとしたら? 世代交代を強要し、運営委員そのものを気力と体力のありあまっている若い人間で構成することが世代間の所得移転、という深刻な不況におちいっている日本社会発展に必要な、第一歩ともなるだろう。
これは義務だ。もしこれまでどおりよぼよぼギルドのすくえない排除方式カルチャースクールをやりたいなら、おとしより限定で県のなをかりずにおこなえばいい。どうせかねならあまっているだろうし。どこへみせようとくだらないなれあいは自分たち自身で茨城県の魅力に関する評判をおとす最悪のやりくちでしかない。さもなければわれわれ全員が、芸術面でそういったたちのわるい排他ギルドのおとしより級にセンスがにぶく全体として美意識が劣っているとおもわれてしまい風評被害によって将来世代をふくめて多大な損害をこうむることになる。くりかえすが、これは県民としての義務だ。