2012年8月28日

No title

映画天心は、はっきりいうといまの時点で失敗ではないか?
 茨城新聞によると竹中直人氏を起用というのでかれの過去の役柄の傾向がそうだったということと直接関係するとはかぎらないとしても、監督は天心という人物をわりと喜劇的に扱おうとしているのがわかる。
 自分もそれなりに岡倉天心について研究してきたのでわかるが、この人は根っから悲劇的な人物だ。その時点で監督と解釈が全然ちがう。寧ろ、自分くらい岡倉天心の経歴についてわかっていると、竹中氏をつかうというところにある深い悪意を感じる。和辻哲郎『岡倉先生の思い出』や岡倉自身の三部作、晩年の横山大観による天心評、或いはドナルド・キーン氏『明治天皇』に引用されている天心による皮肉が果たす歴史上の役割を読めば、岡倉という人は歴史上、きわめて深刻な理想主義者という事が理解できる。決して適当に笑っていい様な人柄ではないのだ。
 明治時代の決定的なイデオローグとしては福沢諭吉に対して決然と屹立する人間で、文明論の次元でも岡倉がいなければ世界史上、日本はただのおくれてきた野蛮な帝国主義国という烙印を押されて終わる。かれが、北茨城市内五浦、おそらく六角堂や天心邸辺で書いた有名なつぎの文で明治新政府側に組した人間へ致命的批判を最初に行っているのは、桶谷秀昭氏による『英文収録 茶の本』(講談社学術文庫)の解説にくわしい。

Those who cannot feel the littleness of great things in themselves are apt to overlook the greatness of little things in others. The average Westerner, in his sleek complacency, will see in the tea ceremony but another instance of the thousand and one oddities which constitute the quaintness and childishness of the East to him. He was wont to regard Japan as barbarous while she indulged in the gentle arts of peace: he calls her civilised since she began to commit wholesale slaughter on Manchurian battlefields. Much comment has been given lately to the Code of the Samurai, --the Art of Death which makes our soldiers exult in self-sacrifice; but scarcely any attention has been drawn to Teaism, which represents so much of our Art of Life. Fain would we remain barbarians, if our claim to civilisation were to be based on the gruesome glory of war. Fain would we await the time when due respect shall be paid to our art and ideals.
'The Book of Tea' by Kakuzo Okakura, I. The Cup of Humanity

おのれに存する偉大なるものの小を感ずることのできない人は、他人に存する小なるものの偉大を見のがしがちである。一般の西洋人は、茶の湯を見て、東洋の珍奇、稚気をなしている千百の奇癖のまたの例に過ぎないと思って、袖の下で笑っているであろう。西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国と見なしていたものである。しかるに満州の戦場に大々的殺戮を行ない始めてから文明国と呼んでいる。近ごろ武士道――わが兵士に喜び勇んで身を捨てさせる死の術――について盛んに論評されてきた。しかし茶道にはほとんど注意がひかれていない。この道はわが生の術を多く説いているものであるが。もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。われわれはわが芸術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう。
『茶の本』第一章 人情の碗 (*村岡博訳)


 いわば岡倉というひとは明治の弱肉強食;Social Darwinismへ隷従した専制政治、によって封建時代に確立されていた貴族の義務がうしなわれていくのを美術社会を焦点にして憂い、儒教的な君子の生き方をつらぬこうとした。新渡戸稲造にとっては『武士道』として体系化されたその精神の源流は、世に正しい道が行われなければ隠遁してそれを後世に伝えるといった『論語』にみられる東洋の理想だった。

子曰、篤信好学、守死善道、危邦不入、乱邦不居、天下有道則見、無道則隠、邦有道、貧且賤焉恥也、邦無道、富且貴焉恥也。

子曰く、篤く信じて学を好み、死を守りて道を善くす。危邦には入らず、乱邦には居らず。天下道あれば則ち見れ、道なければ則ち隠る。邦に道有るに、貧しく且つ賤しきは恥なり。邦に道無きに、富み且つ貴きは恥なり。

孔子がいわれた。「篤く信じて学問を好み、死ぬ時まで善い道を守れ。危ない国へ入らず、乱れた国には居ない様に。天下に道が行われているなら現われて、道が無いならば隠れなさい。国に道があれば、貧しく地位が低いのは恥である。国に道が無ければ、金持ちで地位が高いのは恥である。」
『論語』泰伯第八の十三


 これは総合ブランド研究所による地域ブランド調査、いわゆる魅力度という言い振りによる商業地礼賛へもあてはまる至言ではないか? 現実には堕落した低俗な商業社会なのに、その地位や商品の有名さを魅力と印象論で自慢するのは道が無い、虚栄に染まった地域かもしれない。孔子や岡倉天心に学ぶのならば、重要なのは地味であっても道を行う地域にある事、つまり良識的な生活態度ではないか。又『論語』に「君子は人の己を知らざるをうれえず、その不能を患い己の人を知らざるを患う」とある。
 市長が旗振り役で市の宣伝を目的に発足されているとおもわれる映画天心は、2億円近くを行政の単位で拠出するわりに、市民の良識には何の意義もないものになりそう。竹中氏の起用から勝手に類推したにすぎないが、アリストテレス『詩学』以来、喜劇というのは一般に劣った人物を描写する様式で、その分だけまわりから北茨城市への印象や評価がさがってしまうかもしれない。

 起用した監督の松村克弥氏について少ししらべたが、市政がかかわっているかぎり語弊をおそれずにいえば際物ともいえる暴力映画を撮ってきた人物で、非教育的な劇作家なのがまずもってまちがいない。この純心質朴にくらしてきた地方発の映画制作というたった一つのきっかけだけで、魂をいれかえ君子豹変するものだろうか? それに、東京都出身というのがまたあやしい。というのも、自分の経験上、この東京都の大勢というのは江戸時代から御三家としてときに一目置くことはあっても、出自のしれない俗書といわざるをえない『人国記』『新人国記』にみられるとおり常陸国をある偏見から軽視している。現実には商業化した東京は上述の論語の文面でいう「邦無道」にかぎりなく近いゆえ、旧水戸藩の領域をふくめた田園社会の方がおそらく江戸時代を通じてもはるかに道がおこなわれている訳*1)だが、この東京出身者はまけずぎらいとされる江戸っ子気質もからんで、地方社会を特にわけなく現代でもいなかもの、ということばに象徴されるある軽蔑の念で等閑にしている可能性もある。

*1)東京が多くワーストを占める都道府県別犯罪件数、また多い側に属している都道府県別犯罪率を見ればよい。
http://area-info.jpn.org/CrimPerPop.html
http://area-info.jpn.org/CrimPerPopAll.html
同様の事は当然、家康の江戸開発による大都市化後もあったろう。この商業都市化のすすみかたの状況は鎌倉幕府以後、江戸幕府の開幕までより相模国に近いという地理の条件で弱い程度ではつづいていたろう。さらに、東国で唯一現存する『常陸国風土記』(713-721年)の記録をかえりみると、『万葉集』(756?-806年頃)巻14、東歌に多摩での調布の描写が初出する武蔵国よりも、常陸国はおよそさきに文明化がすすんでいたと考えられる。826年親王任国の一つになって、国司に常陸介が任官された事も関係するかもしれない。


 すくなくとも歴史にまなぶとして、水戸市のさきの映画はまさに、東京という場所、いわば傲慢な俗塵からのこういったおおきな偏見でつくられていたとおもえてならない。水戸藩士やその背景となる常陸国の人物群像がそれほど実現されず、江戸社会とひとつづきの大衆的かつごく土着的な人間として示されていたのでそう感じられた。実際には弘道館での藩士教育があったわけだが、東京の人間の手になる小説台本に忠実ともいえるとしても、そういった哲学的核心部分を蜷川幸雄監督はなおざりにしていた。
 明治から昭和を生きた雨情の全集によると「利根川以北」はある程度人間がすみわけられ、風紀がちがう。おおよそ、現代でも低俗化に染まっている東京圏とはことなりそれ以北はよい意味で清浄である。関、つまり国境があったおり、交通の不便によってそうなったかもしれない。おなじことは歴代の水戸藩主が憂うところでもあり、最後の将軍を江戸藩邸ではなく水戸でそだてようとした理由でもある。
 中国史にも孟母三遷で教育的居住地を市場からはなしたという例(『列女伝』母儀)があるが、country gentlemanはどの国でも、商業地としての大都会によってはぐくまれにくいのだろう。戦国末期、空の江戸城を居城に幕政をとるにあたって家康にとって一帯の商業化はさけられなかっただろうから仕方ないのかもしれないが、それ以降、特に第二次世界大戦後の民衆政下ではその風紀差は民度そのものにかかってくる。

 いずれにせよ誰が当監督へ依頼したのか不明。そのおそらく市役所の人の趣味の質と、判断ミスではないか。はじめから監督の過去をしっていれば予想できたはずだが、家族で安心してみられる映画にはおそらくならず、教育上のぞましくない描写に焦点があてられることになりそう。暴力や犯罪、狂気ある変質行為の描写に満ちた映画を見たい頽廃主義の人間はいざしらず、人選に疑問符がつく。責任者は実行委員長を兼ねてる豊田稔市長ではないだろうか。
 なぜ市の宣伝をしたいのか。これは市長が市の福祉をますために、経済効果をみこんだ映画製作によって市の売名をおこなおうとするからだろう。だが本当に映画というやりかたが最善で、しかもその監督がかつて頽廃主義的な傾向のある映画を撮ってきた人物でよいのか? 自分の一市民としての意見では、まちがっている。むしろ宣伝よりも市内の福祉を改善すべきであり、同時に、仮になにかしらを上映するにしても頽廃的なそれではなく市民の良識性を啓発するtypeの映画をつくりだしみせるべきだ。よってこのたぐいの仕事に向いている監督、たとえばスタジオジブリで有名な宮崎駿氏に映画製作をたのむことなどがすぐれた判断だったとおもわれる。
 制作費は2億円と2012/8/28づけ茨城新聞にあるが、それに市税を投機する意義をとうべきだ。遠目にみていれば理想的な像にみえていた岡倉の暗部をほじくりだして公然とかかげ、わざわざ波及的に市の印象をさげることになりかねない、喜劇色をもち淫靡かつ陰惨になりそうな映画へ公共の税金をつかうのはまったく賢明とはおもえない。しかも現実的に言ってその投資は専ら映画製作者らに配分されてしまい、現に被災している市内に環流するわけではないのだから。最悪のばあい、東京やその土着した人々にとって都合のいい、儒教的な理想主義の隠遁者である岡倉の劣等性をいじりまわしてさらし者とし、さらにはそれへ盲目的に追従していると悪解釈して実際には教授の高邁な理想へ殉じた日本美術院の面々の地方やそこに住まう人間を揶揄するといった悪意ある趣きの映画化で、市のよい意味での宣伝とはまったく逆効果になるのではないか。その場合、先ず監督を変える事が最善だろうとおもう。