「まずしくとも生きのこるのがいいのか、それともかねもちだが死にかねないのがいいのか」
この2択を、東海第二原発の即時廃止決定問題として首都圏の住民、そして東海村の村民へ問う。もし金に目がくらんで後者をえらぶのならば、そのひとびとのうえにはつねにダモクレスの剣(権力の不安定)がおどしかけられていることになる。たとえ官僚といえど、あるいは日本原子力発電株式会社とその株主としての主要電力会社関係者といえどおなじだろう。
先楽後憂となる政策は、先哲にくらべれば堕落としかいえない。報徳に応じた来世という思想、現世の業をしらねばならない。
そういう劣った決定をする利己主義者、公害への加担者は、当然それ相応のむくいがある。少数の悪意ある意思決定者のいのちを失わせられれば、後生にわたる無数のいのちをすくえるのだから、当然ひとびとに簡単な計算ができればそういった推進派のひとびとのいのちは狙われる可能性もあるだろう。
「金と命、どちらが大事なのか」。金とこたえれば殺されてもしかたない。そうすれば金はのこるのだから。理屈上、大株主と経産官僚の癒着体制から集団虐殺されかねない県民、あるいは県の生命体の一員からはそういえる。勿論、自分自身は穏健派で説得を重んじ、暗殺や殺害をのぞまないが、過去数度の歴史経験則からいえば、水戸藩士というものは本気をだすと確実に実行力をしめすはずだ。
正義のために身を呈するのをいとわないひとが水戸藩、いまの茨城県のなかにはいたことがおおかった。その意味でここは江戸時代以来正義の番人の様なところがある。なおかつ首都圏全体からみれば鬼門にあり、今回も、あまりにたみをしいたげつつ暴利をむさぼろうとするやからがのさばりゆけば、当然そういうおおきな粛清劇の反動がおきうると予想できる。
賢明なのは、そうなるまえに即時廃炉と産業転換をはかることでしかない。県民、国民、世界の市民からみれば単なる東海村付近の少数者の食いぶちのためだけに、こどもやわかものをふくむいのちをおびやかされるのは不合理でしかなく、そういう公害をもたらす欠陥のある産業の国策的転換、転職・転業の助成を講じてひきかえとするしかない。
この点で東海村村長の主旨、廃炉技術による再開発を期待するべきだ。いつまでも地方の善意におぶさった、悪意ある全体主義官僚と利益至上主義大電力会社の株主との癒着からたらしこまれた交付金麻薬につかっているのはわるいことで、きっぱりやめるべき。これからつぎつぎ原発がふえている全世界でおなじ問題がおこり、確実にはやめにあしをあらった先輩格をみならうひがくる。