2017年9月6日

内部快適性と外部都合性

 東京都に住む事の不快さ、不幸さ、虚栄心を鑑みると、県外の情弱衆愚から魅力があると思われ地価が高騰し、人口密度が上がってしまう事の不条理を十分再考しなければならない。最も合理的なのは、茨城人にとって有利になる県政をとることだ。
 簡単にいえばおもに西日本のど田舎者を悪意の都民に騙させるままにしておき、ますます人口を東京に集めさせ、その対比効果として都民に驕らせ北関東を「旧態依然のいなか」「(西日本のどいなかから出てきた田舎者にとって)地元の風景と変わらない環境」「遅れた場所」という虚偽情報だけで塗り固めさせておいた方が得策だ。つまり、今までの茨城がとっていた方向性は、費用対効果で居住快適性が圧倒的に高い環境を実現できていたのであり、謎の風評から魅力度が高いと思われてしまえば穴場として地元を知る人だけにとって好都合な点を失う上に、観光地として居住性が最悪である京都市のように、生活者にとって地獄化してしまう。何らかの風評や、古都としての観光収入があがれば努力の必要がないため、大仏商法化してGDP最下位の奈良のように県民所得が下がる。要するに、県外から何もないと思われ都民が悪意で差別している茨城県内に、県外人にとってではなく(これが大事なところだ)、県内人にだけ快適性が向上するあらゆる工夫をし尽くす事が、県政のとるべき道なのだ。
 魅力度なるものは「都道府県外の人」にとって、その土地の持つ何らかの特徴が好都合かどうか、という外人好都合性、市民不都合性に相関した指標なのである。内外人にとって同時に魅力がある、という場合も考えられるかもしれないが、現時点でその様な例は見受けられない。県内人にとって不都合だが県外人にとってのみ好都合な改悪は、県民に対する迫害だというべきだろう。
 日本国民の9割は田舎に住んでいる。現実の都心を知らない田舎者の憧れといえば、原宿、渋谷、六本木、千代田区の皇居辺、或いは京都市の洛中である。これらの妄想は天皇制と神道への狂信、テレビやマスメディア、インターネットを通じた日々の洗脳、拝金主義による成金への羨望、大衆商業文化による精神汚染などが原因として考えられる。他方で現実に都会生活している側は高エントロピーからきた不快や不条理の鬱積した高ストレス環境なので、大自然への憧れが生じる。このため手付かずの自然と思われている北海道、沖縄といった北国・南国のイメージを担う両極端な自治体に憧れられる。これらが魅力度調査に現れている傾向である。いいかえると、生活にとって快適で過不足のない調和的な環境が最も低く評価されるのだ。低魅力度とおもわれる地域が憧れの対象ではないと見なされるのは、現実的快適性や功利性が大衆一般の妄想の中では、完全に見逃されているからだ。いいかえると、現実の快適さ、県民の質的・量的快楽の最大化による幸福が、茨城県の現に高く保っている特長であって、更に我々県民の生活環境における幸福に直結する調和を高めていく方に進化するべきなのである。国民の9割を占める田舎者はバカなのであり、1割の都会人も悪意に過ぎない。その様な人々からの評価を受ける必要は何もない。現に自分たちが快適ならいいし、自分たちの快適性のみを上げ、田中章雄という福井出の田舎上がり新東京人による悪意と偏見報道を利用して、外部の人たちについては茨城限定の快適性を享受できないほど愚かなままに保った方が、我々には誠に好都合なのである。


2017年9月5日

橋本氏の県政情報確保

 橋本昌氏の経験的に蓄積した県政情報を県民福利に生かすため残すべく、茨城新聞は橋本氏に週刊コラムの連載を依頼し、それを本にするべきだ。

謙遜による情報非対称性の徳について

「茨城県の魅力度があがったら別の都道府県が落ちるので、茨城県は永遠に最下位でいい」「他の県が差別されるよりいいではないか」「県外の人には茨城より、他県の魅力をもっと知ってほしい」、という論理が、対外的に正しい。なぜなら実際に茨城自体の情報を知らないか、わざと一定の観点からのみ偏見を強化しようと扇動する県外人が愚かで悪意なのだし、結局、愚者や悪人に知られないまま県外人から我々について完全に誤解させ、情報戦に勝利していく方が我々にも断然、有利有徳なのだから。
 県外人一般が初期状態で茨城の味方だとは一切思わない方がよい。日本人一般とは、根本的に営利や搾取のみを目的に茨城並びに関東北部に接してくるだけの、暗愚な存在である。県外人に県内情報を知られる事にはなんの得もないし、損害のみある。政治的にも軍事的にも、茨城から発信する情報は必要最小で、営利に限らねばならない。互恵的な意図を持つ茨城県民自身が県内で幸福に益する情報を共有しながら知り尽くし、なおかつ、受信機能と受信機会の最大化によって外部情報も知り尽くしている事が最も重要だ。
 他方で日本政府については、茨城県の営利が政府のよき目的と一致する場合に限って、利用価値がある。国政一般が県政の味方と思うべきではないが、当の政権が茨城の功利性にとって有利、もしくは長期的得という意味で有徳になる場合のみに、政府に県内の何らかの情報を伝達する価値があるのだ。
 茨城県内にのみ流通する内外情報量の最大化と、県内にのみある情報の発信を最小化する事。この情報非対称性を強化し続ける事のみが戦略的に正しいのである。魅力度報道は日本人一般の階級固定による思考単純化の習癖に合致する(つまり衆愚に都合のよい低知能さにあわせた心地よい嘘を更に強調する、post truth)。今後とも、国内において東京発のマスメディアに扇動され続けたがる衆愚側に、情報強者や道徳的存在となるだけの向上の余地は全くない。端的に言えば虐めが大好きな日本人一般は、一度虐めの対象を定めて相手が何らかの反応をしようものなら、相手が自殺するまで追い詰め続ける。田中章雄をみよ。彼が東京都民や西日本人一般と共に死ぬまで茨城を偏見報道で虐待しながら、金を儲け続けることは100%疑いようがない。田中や県外人一般が確証バイアスからきた何らかの錯誤によって場合によっては致命的に損害するは明らかだから、我々がわざわざ我々の費用で彼らに損害のある誤解を解く意味は全くない。彼らは悪意な上に愚劣だが、その邪悪で、失敗している不良集団から逃れ出る為の誘引がないのだ。
 逆に茨城県がなすべきなのは、日本という国の民一般からの侮辱や差別を受けたとき、更に我々について理解させないよう自己謙遜で素通りする事だ。徹底して自己ステルス化し、相手側に内情を見抜かれない事が重要だ。他方、相手がどの程度我々についての正確な情報を知っているかを暗に調査せよ。衆愚を無視して素通りし、県民の実質幸福度を最大化する事。かつ、直接国外の我々にとって役立つ自治体とつきあうこと、つまり日本人集団からの抜け駆けと自己差別化による県民の幸福最大化にすぎない。
 最後に強調しておくが、重要なのは茨城県民、茨城人の幸福に益する県民利得なのである。決して県外人からの羨望とか、憧れとか、人気とか、誤解を含む名誉などではない。県民の幸福が重要なのだ。ここでいう幸福の中で、マズロ―の欲求階層でいう「尊厳・承認」の欲求が満たされないという事を不満に思っている県民は、現実に北海道やら沖縄やら東京やら京都やらに住んだことのない人々でしかない。虚栄は当人の幸福には全く益さない。県外人が我々について無知で、場合によっては悪意の東京都民にあおられて誤解している事、つまり何らかの角度から無知な県外人が偏見を持ち、差別し、我々について正確な判断をできなくなっている状態は、我々には完全に有利でしかない。なぜならそれらはリトマス試験紙のよう、県外の差別主義的で非科学的な愚か者を見分けさせるから。我々は愚かな、或いは悪意ある県外人からの誤解を真に受ける必要はないのであり、単に、県民自身の価値基準に基づいて、外部からの評価を超越し、自分自身の幸福のみを極めればよいのである。北海道や沖縄に住んでいる人が、道県の外部者からうらやましがられたとしても、それが誤解に基づくものであれ、何等かの偏見によるものであれ、或いは正確なある科学的観点からのものであれ、単に己の承認欲を満たす程度のことなのだ。茨城県民は、もし県の内外について同時に知る機会があったなら、県民自身が、他県と比較して茨城には明らかに優れた点が無数にあることを熟知する結果になるので(実際に相対指標とみて多くの面で優れているから)、その時点で自尊心を十分にもつ結果になるはずであり、県外の何も知ろうとしないか、知っていても差別に使おうとする愚民を超越することになるだろう。馬鹿だの悪人に好かれて羨ましがられることは、自分自身の破滅を意味する。愚者の称賛や非難より、賢者の称賛や非難の方が優れている。共感してくる愚者は破滅の原因なのである。我々は情報の非対称性の為に、幸運にも県外人の暗愚さ、すなわち県外の日本人大衆一般が都内マスメディアから悪意で簡単に欺かれるという驚くべき暗愚さを熟知する結果になったのだから、県外日本人一般という愚者に好かれるのではなく、むしろ彼らとの縁を遠ざけ、我々のもつ長所について知っている賢者とのみ親しむよう動くべきなのである。


茨城県内虐め撲滅策

 いじめをなくすには、
1.外人含めて出入りだらけにする(人口流動性)
2.賢い子供ばかりにする(県内に知識集約産業を集積させ高給職が主な地域にする)
が主な対策で、学校については
3.県内単位制によってどの学校のどの教師のどの授業を誰とでもいつでも選択可能にする(選択流動性。オンライン授業でも可とする)
4.職場・職業・仕事の人間関係上の流動性を高める(新卒一括採用禁止条例、中途採用促進条例を通す。非正規社員(契約社員)高給条例、正社員課税によって正社員より契約社員の給与を上げ有利な環境にして固定的社員をなくす。配置転換選択義務条例によって社員の配置転換願いを一定期間内に会社側が受け入れなければ罰金刑とする)
さらに、
5.英語第二公用語化
によって、人口構成比について多様な外国人及び移民を多数派にする。


2017年9月4日

反格差財政論

 幸福な県、市町村の前提は、return of stock(株価収益率)がeconomic growth(経済成長率)以下である事。
r≦g
なおかつ、昨日より明日の方がより良くなると確信できるだけ経済成長率が高い方が望ましい。
 但しこれらの総合値が他の地域より高い事が十分である。つまりrもgも他県より高い事が要求される。
 安倍内閣の財政は失敗どころか破綻していて、彼らに反省力もなければ安倍晋三個人のマクロ経済学上の知性が低すぎ、それを補うだけの賢者も経産省や財務省にいないので、自民党政権が安倍を総裁に選出する限り国単位での経済政策の成功はおそらく今後数年の間ないだろう。衆愚国民も、東京財界村や経団連村に都内マスコミ経由で扇動され自民党狂信状態にあるのだから、なんの期待も持てない。未来があるのは、賢明な県知事あるいは市町村長を採用できる自治体であり、少なくとも橋本氏の段階から優れた経済政策をおこなってきた茨城県単位にはまだ希望がもてる。
 では何をすれば茨城経済が成功するかといえば、日本政府単位での金融緩和を利用しながら、県内では経済成長政策を徹底することだ。具体的に県庁が行うべきは、県内で株式投資をする個人にNISA制度の啓蒙等を行って外貨獲得の誘引を与えつつ、県内金融機関を通じての地方税や住民税納入に電子化による手続き簡素化や手数料の減税措置を図る。更に建設投資額を可能な限りあげるべく、県内公共施設、特に公立学校の全面耐震・免震化を行い、或いは個人宅等も含め耐震工事費を全面補助する。これらの財源は県議全廃と県民所得税、県内消費税で賄うべきだ。より詳しく説明すると、まず累進化した県民所得税はrを下げてgをあげる誘引になる。また消費税の実質負担者は消費者ではなく企業なのだが、企業はマスコミのスポンサーを通じた印象操作で衆愚を騙してきた。他方、県内消費税をあげると県民にとって県外消費の誘引となるかのように勘違いされやすいだろう。従って名称を欧州風にかえて、付加価値税とするべきだ。茨城BI分は国から実験費用として徴収すればよい。これらによって県民間の所得格差をへらしつつも、県民平均所得をあげて幸福な県を作る誘引ができる。

2017年9月3日

行政による起業促進は計画経済に過ぎない

 行政による起業の誘導は、計画経済の推進に過ぎない。従って、「計画経済は不可能」(過剰生産の問題がある)という観点から、ハイエクによればこれは間違っている。起業が不足しているのはその事業に需要がないか、民間人に能力や動機がないか、何等かの規制があって不可能か、資本金がないか、どれかである。9割潰れる起業を行政があおる理由は、単に金の心配である。
 金が減る事での人口減など何の問題もない。移民が来るか、その集団が地上から少数民族として消失していくだけで(或いは先住民として保護される)、それ自体に特別意味はない。競争力のない集団や個人が減っていく事が多様性の喪失だという批判は、生命の利己性を軽くみすぎではないか。人類は自分の利益になる範囲でのみ、他の生命を保護する。宇宙人が人類に生存価値を認めねば一瞬で滅ぼされるだけである。人類は利他的な目的で生物多様性だとか民族多様性を認めているのではない。その利他的な目的において後押しした特定の生命や種が互恵的にふるまうとは限らないし、結果的に自己の全死を伴うなら、その判断が合理的ではないのは明らかである。つまり金がなくなる事による人口減少を憂うのは、単なる杞憂である。生命は別に死んでもいいのである。自分の慣れている既存の社会が変化し、別の遺伝系統の人種が入ってくるなり、混血するなり、そもそもそれらの人種が消えて別の生命が栄えるなり、どれもありうることだが、どの様な経路をたどろうが、遺伝子が絶えようが増えようが、別にどうでもいいことなのだ。自己の遺伝的子孫が永続しうる環境をつくろう、という将来への計画本能は、根本的に不可能なことをしているのであり、なしうることといえば想像できる範囲の変化に対してある程度の準備をしていること位なのだ。金をふやさねばならない、という計画の仕方は、金が必要でないとか、金の重要性が低い社会の到来を予想できていないのだから、平成の価値観で将来を延伸させて考えている以上、確実に何らかの過ちを含んでいる。もし金の重要性がより高い社会がくるとしたら、その種の構造をたまたま計画していた部分が有利になるだけである。人口減少社会で金が足りなくなってきているのだから、もっと県外貨幣を高利率で儲けよう、という考えは、単なる地域ナショナリズムを含む資本主義イデオロギーだということだ。その考えが未来においても正しい保証はない。つまり行政が市場に何らかの計画性を持つことは、その市場の需給壊乱によって自由競争性を損なう規制に他ならないのだ。
 規制を最大限なくす。上述の様に、市場に対して特定のイデオロギーから、計画性を持たせない事が規制をなくすという事でしかないのである。行政人が金儲けとか商売について語らない事。武士の様に。それが最も賢明なのだ。
 民間人が需給秩序の中で勝手に商う。行政は、生じる公害について外部不経済を内部化させる。過度の儲けについては一定の累進課税を行う。最低限度の生活保障を除けば、徴税したものが余った上に当県が大不況に陥って失業率が高すぎた場合に限って建設投資によって雇用を創出する。普段は節税に努め、公務員は小さな政府をめざし、清貧を是として清く正しく生きる。基本的には、これで財政的に十分なのである。行政による余計な起業の促進は、単なる無駄の制度化であり税金の浪費なのだ。それどころか商業が無用か、有害にさえなる状況がやってくるかもしれない。行政単位でのシリコンバレー模倣は米国追従による計画経済にほかならず、市場の失敗をもたらすにすぎない。それどころか世界一熾烈なIT利益の奪い合いをしているシリコンバレーと競合するのだから、それを超える世界一のIT能力者を県内外から多数ひきつける方途がない限り、茨城の取り分が増える事はありえない。少なくとも赤い海である。茨城県政がなすべき事は、市場の秩序に対して特定の肩入れをしない事でしかありえない。そして市場の競争者の一部がたまたま見いだした青い海から、所得として上がりうる成果について、一定の地方税を徴収するだけなのである。
 わざわざ世界で最も過酷な競争をしている最中の分野に、自ら飛び込むというのなら、勝算がなければならない。大井川氏に世界IT界での勝算があるのか。最低でも国内で覇権を握るだけの方途があるのか。もしある程度はっきりとした勝算がないなら、飛んで火にいる夏の虫のよう無惨にIT業界で敗残し、起業促進に費やした税金は無駄になる。その分を既定路線で利益のあがっていた、経験効果を十分蓄積してきた日本トップレベルの農工業の環境整備に費やした方が、得策だったとなるはずだ。産業単位での差別化とは、農工両全の究極の方にあるのではないか? 多角化は選択集中の逆である(厳密にいえば高い程度の多角化は選択集中の逆である)。高利率とは選択集中である。競争力とは市場シェアである。可能ならITを農工業の洗練に適用する事、それによって既存の茨城の強い農工業を更に強くする事。これが全てと私には思える。IT産業を単独で、県内で新たに創出したサービス業の促進に適用させようとするなど、創造には模倣より高費用がかかる上に、単に海外の強豪と競合する。国内ですら六本木界隈の既存業種と被る。よって勝ちづらく利益をとりづらいだろうし、実際にやる前から経営判断として不合理だとわかる。万一この路線を行くなら綿密な勝利の筋書きを大井川氏には提出してもらいたい。


認知バイアスの利用

ハンロンの剃刀(ハンロンのかみそり、: Hanlon's razor)とは、次の文で表現される考え方のことである。

Never attribute to malice that which is adequately explained by stupidity.
無能で十分説明されることに悪意を見出すな

例えば、ある製品に欠陥が見つかった場合、(大抵の場合、一般論としては)それは製造した企業が無能であるか愚かであるということを示しているのであって、消費者を困らせるために企業が悪意を持って欠陥を忍ばせたわけではない、という考え方を示すのに用いられる。

 魅力度バイアスは、無知(愚かさ)と、悪意の2つの面がある。西日本人一般は相対的に所得と学力が低く、発信したがらない首都圏北部について基本的に無知であるし、知ろうとする誘引もない。他方、関東南部人、東京圏の人々は都会で過酷な生活をしている上に商人根性に染まり、意地が悪く、競争的で差別する相手を常に探し、炎上させて視聴者を稼ぐ事で金儲けをしようという悪意がある。この為、東京都民、南関東人には、群れて魅力度バイアスを悪用している面がある。田中章雄は明らかに後者の類型である。名誉棄損による敗訴費用を大したことがないと見積もり、47県のうちどれかを差別する確証バイアスをあげつらい、都内マスコミに疑似科学的ないんちき統計情報を売りながら衆愚扇動で金儲けして逃げ切ろうという、福井出身の東京人が田中容疑者だ。
 このうち無知な人々、特に西日本人一般に対して何らかの情報を提供する事で認知度を上げる、という事は恐らく可能だろう。だが魅力度調査対象者である総合ブランド研究所に登録している西日本のほぼ固定的な数百人を調べ上げ、彼らに対して茨城について当該調査で高い評価を与える誘引を与えたとして、それにどの様な実益があるのか。県内の観光業者にとって利益誘導である面。県民一般にとって名誉心や自尊心を満足させる面。そして前評判の上昇による何らかの得。Loss効果(事前評判が実力より高すぎると欠点がよけい目立つ)など、幾つかの面がある。それらを総合的に計算し、西日本人一般の無知を正すような、県が使えるなんらかの税源からの宣伝費支出、または、特定のブランド総研会員への誘引提供費の支出について、費用対効果は高いといえるだろうか。私の印象にすぎないが、あまり有益な方途とは思えない。Gain効果を意味する実入りと、情報非対称性を利用した各種面で有利な取引の方が茨城の為ではないだろうか。観光業が主要産業になった地域は経済衰退していく。それは大規模雇用になりえないからだ。京都、東京、北海道の前評判を無駄に上げていく認知バイアスを強化させる事は、それらの地域との対比で割安感を得られやすい茨城の地元界へ、実利的に有利な結果をもたらす。その上、県内外人についてマスコミの報道を鵜呑みにしているかどうかという面で、茨城についてどの程度の認知バイアスを持っているか見極められるので、その面で無知な人間、知性の低い人間が見分けやすい。西日本の無知と東京圏民の悪意による謎の汚名を着せられているという一見不利に見える条件下にいれば、人間性の美醜を見分ける条件としてかなり有徳である。
 また、田中章雄を代表とした東京マスコミ、東京圏人の悪意についていえば、救い様がない。寧ろ彼らにはその悪意をまっとうさせ、さらに扇動しますます悪徳に染めて、破滅に至らせるのが賢明だ。チバラキだとかグンマーだとか川崎国のバカナガワだとかダサイタマだとか、トンキン(東京の唐音読みで中華的であると揶揄する差異化語)周辺の自治体を侮辱するネットスラングは、東京都民がどの様な知識も自己利益と他者損害を目的とした悪知恵に乱用するという悪意のみを示している。この東京都民性は幕府と天皇の中華思想、明治旧政府の藩閥的傲慢、そして町人・商人達の抱くダニング・クルーガー効果(無能の自己評価は過度に高い)による過剰に高く見積もった自己評価バイアスからきている。都民の全てが無知とは言えないにもかかわらず、少なくとも西日本よりは関東北部に出入りする確率の高い立場にもかかわらず、東京圏人の中では悪意の方がまさっているのだ。この様な場合、いくら東京人に宣伝してもむしろその知識を東京に有利で茨城に不利な方へ悪用してくることは疑いようがない。
 このどちらの類型についても、この状況で対県外人に印象付けられる魅力度、或いは総合ブランド研究所の登録者達の高評価誘引を上げようという意思は失敗なのである。逆に東京人の悪意を極めさせ、ひたすら非科学的で誤った認知をおごり高ぶった都民に持たせながら、東京圏民に無知をも与える事が必須である。悪意に無知が重なれば最悪の状態になるが、西日本人は東京の悪意などつゆ知らず、マスメディアや東京圏発の悪意ある虚偽情報を「都会から来た立派なもの」として仰ぎ奉るだろうから、ますます悪質な東京圏人による詐欺に遭い破滅的になっていくだろう。無知な人、愚かな人、不勉強な人が損害する事は、どちらかといえば人道の為には正当なのであって、それ以上助けてやる必要は何もない。悪意も無学も自業自得というべし。県外人に比べて、県民が共有しつつ県内利潤の最高化に応用できる知識や知恵が多ければ多いほど、我々に有利なのだ。石破氏の様に茨城県の統計的真実をかなり深く知ってしまっている県外人を脅威と感じるべきだし、その様な人を1人でも減らす必要がある。逆に橋本氏の様に県内事情を知悉する人、郷土検定で育つ子供の様に茨城学に徹底して詳しい県民に愛県心をも喚起する事が何より重要だ。それには、茨城が県民同士に利他的な風土である事が最も役立つ。茨城愛の啓蒙。茨城人同士の助け合いの精神。これが最後に役立つ。なぜならこの県内で人助けされたという幸福な経験がある事で、反抗期や何らかの理由で県外に一度流出した人も、もっと意地の悪い県外での経験をへて、望郷の念や何らかの自己利益の為にUJIターンの確率があがるから。ふるさと納税などでの利益も期待できるうえ普段の県民生活にとっても幸福感に直結する。


県政革新論

 茨城県政革新の第一弾として、自民党県議46名の逮捕を機に県会議員を全廃し県議選を終わらせ、代わりに市町村長計44名による市町村長議会を県議にあてて大幅な節税を図るべきだ。そもそも県議は必要ないのだ。市町村長を直接選挙で選んでいるのだから、彼らが県議を兼ねればいい。
 更に国政革新を図るべく、偕楽園内にある旧レイクボウル付近に妹島和世設計による全面ガラス張りの前衛建築として全国知事会議事堂を建てる。そして国会を知事会議で代替する事で国会議員と国会を全廃し、大幅に節税する。これを大井川県政第一期目、つまり2021年までに実現させる。


茨城経済学――トップバリュー効果とノンブランド戦略

 地域の魅力度とブランド総合研究所に登録している西日本の数百人から偏見される何らかの生活要件、は、一言でいうとおもに観光地としての魅力度なわけだが、この観光地としての客観認知度を日本の47県のうちの平均値に近づけるという思考自体が、横並び若しくは中庸志向だというしかないだろう。大井川氏の、経営学を援用した論理、すなわち差別化が市場原理において青い海(競争相手のいない新興市場)を泳ぐのに有効だという革新理論的発想からいえば、すでに「魅力が日本で最もない」という認知biasを、(ブランド総合研究所所長の東京都民)田中章雄の資本だの、東京の非科学的で悪質な報道機関だのの俗受けを狙う商業的悪意を利用して、かなり巧妙に宣伝できているのは明らかではないだろうか。この観点は既に青木智也氏がイバラッパーの活動で、魅力度最下位はオイシイという表現(吉本興業的ミームでいう「巧く喜劇的に目立てる」という意味)で提出済みだった。
 さらに青木氏はかれのサイト『茨城王』「茨城県が裏魅力度調査2010で第1位を獲得」 のページで、次の様に述べている。

 これ、ほんとにこんな値段するの?いくら有名だからって高すぎでしょ・・・って正直思ったことはありませんか?


 ブランド力が高い商品ほど、はっきりいって値段も高いですね。●海道の有名なお菓子はみんな高いでしょ。←水海道じゃないですよ(笑)。
払った対価に比例して満足度は高まるものですから」なんて言われちゃうと、なるほど確かにそうかもなあ・・・なんてだまされねえって(笑)。それより、もっと「安くていいもの」のほうが普通はいいでしょ。

この指標は主に農産物や特産品を対象としていますが、質が高いにも関わらず、あえてブランド価値を高めずに、なるべく安い価格で提供しようとしている生産者や商品をもっと高く評価すべきであるという主催者側の意図が見て取れますね。


 茨城県はこのノンブラン度でも第1位を獲得しています。
評価の高い産品を挙げていけばキリがありませんが、コシヒカリ、メロン、栗、水菜などその品質のわりに価格が安いものが多いです。

以前農業関係の仕事に就かれていた方がおっしゃった一言を私は忘れることができません。
その一言とは「かしこい消費者は茨城産のコメを食う」。
なるほど!と思いました。
グルメ志向、ブランド志向の方だったら●沼産などに手を出しそうなものですが、賢い方は同レベルの品質であるにもかかわらず価格の安い茨城産を選ぶということなんですね。高けりゃいいってものではなくて、いいものを安く買うのがかしこい消費者です。

メロンだって夕張が有名ですが、たくさん作って安く提供しているのは茨城産ですし、なんて有名な小布施の栗菓子にどんだけ茨城産が使われていると思ってるんですか。
水菜にいたっては、京都産の半額ですからね。
そりぁ日本一の産地になっちゃいますよ。
水菜は元々京野菜で関東ではあまり食べられていませんでしたが、これだけ水菜が普及したのはきっと茨城産の水菜があったからといってもいいすぎではないでしょう。


 それと、茨城には有名な割には値段の高くないブランドというのもありまして、それは水戸納豆ですね。納豆って栄養価が高い割には値段が安く、非常にコストパフォーマンスの高い食品だと思います。

 ここにみられるのは日本や世界の賢い消費者を馬鹿にしている、高く余分をとった高付加価値のわりに質の低い、東京や京都の様な見栄っ張り「ブランド志向」の逆の発想で、コストパフォーマンスを最重視した高品質の割に無名であるから値段が安い「ノンブランド志向」が茨城県の既存の好条件を最も生かしやすいのだ、という観点である。このブログの中でも何度か似た意見を述べてきた。茨城ブランドとは現時点でノンブランドと同質の意味を持っている。「有名じゃないから大したことがないのだろう」という日本人の偏見をゲイン効果に逆利用して、国内市場では有利に高品質・低価格な製品サービスを提供できる、というわけだ。橋本県政が工場誘致力を日本でトップにしたのも、農業力も2位にまで成長させたのも、この消費者にとって最もありがたいトップバリュー効果を活かしていたのだ。しかも、茨城産の商材は国外では日本ブランドに他ならず、国内で費用対効果面で競争力をもった時点の茨城製品・茨城サービスは、国外ではブランドマージンを得られるのだからさらに高値で売れる。
 茨城県の特質を生かして高付加価値を生み出す要因は、ブランド価値を最小化する事の方にある。目立つ宣伝をしたり、押し付けがましいブランド名をつけて高級感を演出したりしてはいけない。素っ気ない、どう見ても過剰サービス精神のない、あたかも売る気がないように見える。しかし裏返せば消費者には全然ありがたくない宣伝費や無駄に他ならない過剰包装的・偽装的な価値の上乗せに過ぎない余分を極限まで切り詰めてあり、お徳感、実のコスパにおいて圧倒的に世界一の水準にある、という商品価値の実感を奨励する方向に進むのが、逆差別化という茨城経済のノンブランド(無名)戦略に違いない。既に無印良品とかプライベートブランドとかに似た傾向の戦略はあったが、県単位で自覚的にこの経済戦略をとろうとしたところはないのだろう。
 他方、マージンを取れないなら製品サービスのコモディティ(日用品、似たり寄ったり)化によって(過当競争の血の海の様に)赤い海になりやすいという批判が考えられるが、競争力を持って市場で勝利できる限り、隙間市場においても同様の、魅力を削いだ実の効用を求める製品サービスの入り込む余地はあるかもしれない。たとえばオーディオスピーカー分野で実を求める人に有名なオラソニックや、海外ではおそらく日本一のクラフトビールである常陸野ネストの木内酒造、皇室献上品でもあるカガミクリスタル等はこのような例なのかもしれない。要は市場競争力を志向しながらも、品質/価格において勝利する事を目指し、虚栄より実質をとる賢い消費者のみにターゲティングする。裏返せば、ブランド志向で見栄を張り、低品質・高価格な製品サービスを購買したがる愚かな消費者を標的から大胆にはずし、過剰な高値付けをもたらす非消費者目線の余分を極限まで切り詰めた良心価格を目指す。京都・東京・北海道・沖縄の逆を張ってブランド依存またはブランド志向を脱却する事が茨城的なのだ。
 もしこの種の戦略が現実に成功度を高めていった場合、必然に、市場シェアを独占する分野が複数生まれるはずだ。結果的に、世界市場における持続競争力を茨城が確保していく事ができるだろう。この戦略をとる場合、いかに県内の企業・労働環境を低費用化できるか、しかも、県内の何らかの職人的な起業風土、社内外教育(ON-JT・OFF-JT)に有利な条件付けによって市場と比較して高品質な製品サービスを生み出して当たり前だ、という意識をどう作るかが重要だ。いいかえると、品質/価格の高い商品において潜在価値をうみだす両輪として、低費用化と高品質化の誘引が必要になる。前者については公害を主とした外部不経済の内部化を除いて、企業活動に世界一有利な県内誘致環境を生み出す事が重要で、これは法整備を含む税制改革によって県庁に十分なしうる。また労働者に関しては公務員が高い税を貪らないという県内公務員の給与削減によって模範を垂れる効果と、公務のIT化・高効率・合理化によって、武士道的な、高利益を得る事のない低廉な仕事の方が立派で、代わりに名誉を付与されるのだという貴族精神の啓蒙が重要だ。後者、高品質化については教育風土によると思われるが、恐らく高品質の飽くなき追求と言う意味での芸術家・職人気質の啓蒙が役に立つのだろう。求道的な職人は無限に高品質を志向するものだし、それはいかにも売らんかなというデフレ経済下の消費者にとってはうんざりする態度、もしくはより高い差額を得ようという商人気質の逆を張る為、ノンブランド戦略との調和がし易い。前衛芸術家(後衛の作家はそうではない)はまだ評価されざる領域へ決死で常に挑戦していくという意味では革新の原点だし、この種の人々を集める事は精神面でのイノベーティブな環境を生み出しうる。


堤防の工夫

 常総市は高規格堤防、スーパー堤防を導入した決壊災害からの復興によって、鬼怒川沿いをむしろ快適性の高い広大な運動場につくりかえるべきだ。
 同様に、北茨城市も今つくりなおしている高さのある海辺堤防に、どこからでも海の眺められる遊歩道を付属する、そして景観に害を及ぼすテトラポットはむしろ海水浴場部以外で積極的に撤去し、自然のままの砂浜を残すという考え方をしなければならない。いわゆる災い転じて福を為す、転んだら只では起きないという発想である。


水戸遷都の最優先

 大井川氏は一期目のうちに水戸遷都を実現するべく、中央政界を茨城県勢で牛耳るよう地方自治介入の復讐と自民党粛清、天皇家処刑に全力を尽くすべきだ。将軍を裏切った東国侵略犯である天皇を古巣の京都に逃がしては絶対にならない。再び天皇支配の世襲封建制を期して潜在的独裁者を残してしまう。国民による国民のための共和政府を全国一致で実現する。この為には神道信者の政界からの全数粛清が必須である。皇族の死刑も含め、政界からの皇族閥全数粛清を期すのみである。皇族が逃亡しようものなら宇宙の果てまで追いかけて最短距離で処刑する。

茨城BIによる世直し

 所得の高齢者側に片寄った極端な世代間格差が、子供だの家庭だのパートナーをもてるほど、それどころか生活するだけの金もない結婚適齢期の若者を生み出す。少子高齢化、つまり茨城滅亡の第一原因はこの「所得の世代間格差」なのであり、一言でいえば老人が青年をむさぼっているのだ。
 だから青年を搾取して暴利を得ている年金を廃止し、代わりに生活必需品を無税にした軽減消費税を欧州並みに引き上げ財源を確保した上、社会保障を一元化した茨城独自のBI、最低所得保障制度を導入して、世代間格差を是正するべきなのだ。今すぐに。待ったなしで。これをなしえないかぎり茨城も日本も100%滅亡する。断言してもいい。裏返せばこれを実現したばあい、茨城の若年人口は同等の制度をもつ欧州並みに回復し、経済成長率と或る種の繁栄を確保できる上、若い世代の移民による人口増大と起業の為の必要最小資本が確保され県内とその関連経済も回りだし、暴利を貪る老人世代の実質負担率があがることによる非生産・非消費集団の県外排出を促し、老害の貪欲という悪徳による風紀紊乱も糾すことができ、タンス預金の切り崩しで死資本の淀みも一気に解消する。

国民政府論

 天皇家や皇族、そしてその縁戚である安倍家、麻生家、小泉家、石原家、石破家など自民党の世襲国会議員らを全員国政から粛清し、天皇家並びに皇族全数を処刑して未来永劫、日本国を侵略させないように地上から滅ぼし去った上で、世襲禁止法を通して親が国会議員または閣僚、官僚、公務員いずれかであった人が国政に関われないよう制度を革命しなければならない。
 竹田恒泰の様な皇族利権にたかる民間人も、あるいは皇族閥にしがみつき国税利権やら後光による虚栄にあやかりたがっている京都府知事および京都市長も、国権の正当な行使が図らしめる範囲において、同時に地上から粛清するべきである。

2017年9月2日

日本国の人口減少は、世襲権力者への人道の裁きにして復讐である

 人口減少がまずいと考えている政治家は、たとえば東京の詐欺に引き寄せられて都内で死んでいく様な悪徳に満ちた強欲で浅はかな在来種とか、そもそも子供を産む価値もない様な有害で悪意の日本人が大勢いる、という事について、何の言及もない。生き残った方がよい善良かつ賢明な人が子供をもてず、死んだ方がいい様な極悪非道な人間が子供を産んでいるといった事象も観察できるだろう。日本国で生まれた少なくとも2800年程度前に移民してきた弥生人と呼ばれる大陸の中韓人と共通のDNA(Y染色体ハプログループO1b2またはO1b)と混血した人々、つまりは移民なわけだが、この様な連中が繁殖することを是とする理由は単なる人種差別以外なにものでもない。純血アイヌとか、3~5万年以上の先住民族であるにもかかわらず急激に減っている東北の在来縄文系の純粋日本人DNA(Y染色体ハプログループD)であるとか、どう考えても、人種的に保護するべき価値がより高いのは希少価値の高いこちらの方だというほかないのだが、そのような人たちを殖やそうという意図は国政には全然みうけられない。ただでさえ人口増加率の高い九州は、沖縄経由で多少のD系統の流入がある南九州の一部を除いて、弥生人の集住移民地区である。九州人に人種差別的な意図に基づく保護価値など全然みいだせない。なにしろ低教育のヤンキーだらけで放っておいても勝手に繁殖していくのだし、希少価値もないし、そもそも元々の日本人ではなく移民の末裔なのだ。
 政治家が恐れている被侵略の恐怖など、侵略者である弥生民族の末裔に他ならない西日本に生まれ育った人間が言えた義理ではないのは明らかで、それをいうなら弥生人の末裔達は最初から侵略犯なのだからそれを言うなら今すぐ天皇を連れて日本国から、朝鮮半島、或いは中国江南地方を経由し、故郷であるユーラシア北部へと帰ってもらうべきである。しかもこの西国の薩長土肥だの関西地方の弥生民族の末裔たちは、今から150年前に自分から東国だの周辺諸国だのを侵略し、賠償に値する多大な生命への恐怖と現実の殺戮という大犯罪の数々をもたらしてきたのであるし、今現在も商売、利己、性悪、金儲け、そして民族・人種・門地差別と天皇狂信といった移民初期から健在のあさましい本性を手に、日本中・アジア中・世界中を目下侵略中である。つまり天皇家だの長州閥だの関西人をはじめとした弥生人の末裔の政治屋らは、自分達の世襲権益が侵害されるのを恐れているだけなのだ。大体、東日本にこの人たちが入ってきている事そのものが、2800年間も迷惑極まりないのである。侵略者は帰れとしか言いようがない。現に濃度こそあれ混血者も多かれ少なかれいるにせよ、この弥生人と呼ばれてきた侵略者連中は自分が犯している侵略罪に自覚がなく、他人から侵略される事はゆるせないという無礼千万かつ無神経極まりない無感覚で、大公害の恥知らず、浅はかで陰険で自己中心的な大ばか者としかいいようがない、救いようがない連中なのである。
 人口が減る事について、天皇家のような生まれつき付与された「世襲権益」を持っているのでない、一般人には何の心配もいらない。我々はどちらにしても、天皇家という侵略者に毎日、被支配という不愉快な経験を2800年間もさせられているのだし、天皇家が故郷の中韓ならびに大陸北部にさっさと帰ってくれない限り、京都だの奈良だの中韓系帰化人の植民地に引っ込もうとその被侵略状態という移民社会の状態は何も変わらないからなのだ。百歩譲って自分と遺伝傾向が近い人間が同調し易いという妄念があったとする。これをいうなら、縄文系の本来の日本人であるハプロDと、弥生人という中韓人の末裔であるハプロO1bは、7万年分も遺伝子分岐の時点が離れているのだから、完全に赤の他人なのだ。いやいやながらの呉越同舟なだけで弥生人という汚い侵略犯を、アイヌはじめ日本人は昔も今も少しも好んでなどいなかったし、卑劣な暴力で2800年の間、独立を侵害され抑圧され文化文明を破壊されたという完全な民族弾圧犯罪の被害者にほかならず、今後もそうだろう。混血があるという反論については、天皇家が自分で万世一系とほざき、男系がハプロO1bという中韓人の系譜なのは出自からも身体特徴からも歴史からも完全に明らかで、アイヌや縄文人(中韓系の侵略者である天皇は、日本人を蝦夷と呼んで差別してきた)では全くもってないのだから、はっきりいえば男系の天皇は科学的に、未来永劫、極悪犯罪人にして迷惑千万な、恨み多き罪人にして、移民の外人なのである。
 この論理は背理法であって、私は人種差別主義者でもなければ民族差別を奉じる者でもない。人口減少が恐ろしいと述べている人の根底にあるのが、これら、人種差別と民族差別にほかならず、しかも彼らがそれら2つの差別を用いて何をしているかといえば、自分自身の既得権益を維持したいという天皇家レベルの旧態依然なばかげた封建制に他ならないのだと、のべているだけである。日本国など守る必要は一切ない。日本国政府が滅亡したところで、我々一般の個人には何の問題もない。中国を見ればいい。何度王朝が後退し、何度新しい国ができた事だろう。中国人はそんな制度変化に一切関係なく、生き続けていくのだ。
 易姓革命のなさを日本らしさの様に定義づけた水戸の徳川家は皇族権益を奉呈して、唯我独尊状態にあった江戸の徳川家とのすみ分けをしていた存在なのであり、水戸家が天皇を崇拝させるように藩士にしつけたのは彼ら自身の女系DNAに皇族経由の流入があったため、完全に封建的既得権の維持促進が目的でしかなかった。明治以後の島津家、毛利家、そして吉田茂を含めて、皇族の親戚関係になった人間が、自分の母系DNAに既得権をあつめる為にいかにあらゆる政治制度的抑圧と報道統制、そして宗教的洗脳を彼らが弾圧してきた水戸藩の学問を乱用してさえ行うかは、天皇2800年の世襲独裁制度そして国民奴隷化の延長にある現在がまざまざと証明している。要するに、搾取する対象である奴隷国民が減るため、こういった既得権が旨みを搾取できなくなり、人口と経済力という意味で、近隣のより健全なまつりごと、国民への利益還元をしている有能な国民集団からの侵略或いは移民で滅び去る事は、人道の正義としかいいようがない。天皇家も安倍家も、麻生家も、いや、東電株を手放していない石破家やら、非正規雇用法を通したポピュリストの子である小泉家であれ、滅び去ればいいのである。これらの人々と私に何の関係もない。私にこれらの人々が、1円でもくれたことはない。一方的に徴税され、私は被害だけを受けた。何の利益還元もない奴隷側が、搾取だけされ極貧状態の中ふえられるわけがないのである。経団連から不道徳な献金を受けながらぬくぬくと世襲政治屋を続けてきた自民党員だの、国民全体を、どんな貧民からさえ税金を搾取しつくして贅沢三昧で2800年の天皇家など全員滅び去れ。それが正義なのだ。日本国民がどんどん人口減少し、搾取する対象がいなくなって慌てている悪の天皇家とその手先の自民党員共は、(彼ら自身の、西日本側とおもとする大部分が移民そのものなのだが)新たな移民の奴隷欲しさに躍起になっているが無駄である。なにしろ、苛斂誅求の暴利によってひたすら民を虐殺し、2800年間もの間、すさまじい悪政をしているのだから、今後来る移民についても同じく、不幸な奴隷国を作ろうと最後には滅亡する。
 天皇家と自民党員は、奴隷が足りなくなって慌てだし、どんどん移民を増加させようとするだろうし、それによって政治参加者も投票傾向も帰化した人々や混血した人々により激変し、遂に彼ら既得権を寡占する支配者らが、悪の世襲独裁者や独裁政党員として国政から排除され、場合によっては国外追放もされるであろう。それでいいのだ。奴隷に再び生まれなおすより、国ごと滅びた方がよい。無論、天皇家や安倍家や麻生家や小泉家や石原家や石破家を、つまり世襲権力者の悪政既得権の連中を、全員我が国の政治界から永久追放できれば今すぐにでも、我が国の税金について本来の恵まれない国民への健全な利益還元が可能になる。だがこれらの極悪集団は、国民側の正義に最大限の悪意で弾圧し続けるだけだ。日本人の衆愚、ニコ動だの2chだの東京大阪の愚鈍マスコミに洗脳された馬鹿な若者だの中年だの老人側には群衆化や自己奴隷化の狂信傾向以外でまっとうな思考力や理解力が欠けている。天皇家含む政治屋も衆愚も両者とも今後も反省や精神的成長が期待できないこともまた疑いようがない。こうして日本国が周辺諸国に侵略されるまで、徹底的に日本人が減少し経済衰退した方が全人類の正義の為なのだ。
 ちなみに、相対的に他の列島より人口増大傾向にある愚劣な九州人は貧しさのなか増大しすぎた若者やくざ集団が余って暴走し、再び自らの口減らしのため侵略戦争の惨禍をくりかえしたがるだろう。もっぱら我々はアジア諸国及び多国籍軍と協調し、国内外でバカな九州人暴力団からの侵略被害を防止する事、彼らの暴虐を最大限の暴力による実力行使で徹底的に潰す事だけで十分である。


平成維新論

 梶山弘志氏を全力で擁護し、県知事選における自民党県議の贈収賄事件をすべて大本営のボス安倍晋三一人の責任に帰す為に、全人類を糾合し、悪の安倍晋三及びその手先である同内閣構成員、そしてその派閥・細田派(96人)の全数が加計、森友に続き、まことに有罪であるという本質を一貫して主張し続けねばならない。自民党本部はブレーンの世耕を中心に、安倍の責任逃れの為に全方位から虚偽答弁と冤罪、国策捜査を駆使し、茨城県側に想像を超えた悪意で、衆愚の扇動と共にぬれぎぬをきせてくるはずだ。この際、不正なテロによってなった明治政府から来た現今の長州閥独裁の日本国政府を全て滅ぼそうが構わないという覚悟で、安倍晋三という不正の根を完全に除去しきるのが絶対に必要である。国民をあらゆる権力乱用で繰り返し欺く重罪人である安倍晋三と細田派96名の自民党国会議員はこの国に巣食ったがん細胞にほかならず、全て完全に消滅しきるまで叩き潰しまくる事に何のためらいもいらない。
 この際、安倍晋三並びに安倍内閣のみならず、自民党及びそこからきた悪の子分に他ならない平成日本政府の一切を解体しきるまで、安倍晋三の不正による独裁罪業の追及を未来永劫ひたすら怨嗟と怨恨によって続けるべきである。唯一の正解は倒幕だ。


茨城の独自性について

 もし大井川氏のいう独自の事をしたいなら、300万人が一斉に起業家を目指してはいけない。なぜならそれが米国の模倣だからだし、その時点で模倣者、追随者、よくて初期採用者にしかならないのだから(それが商売としてうまくいったとしても)。米国とか西洋の価値基準に乗らない事象が真の独特なのだし、それは欧米側にとって必ずしも評価に値しないものかもしれない。日本の県外に対してもあらゆる外国に対しても同じことだ。
 資本主義の制度に乗る範囲で、米国の今現在はやっている商業をまねよう、少なくとも金儲けになる範囲で商品を差別化しようという考えは、秀才的な発想でしかない。資本主義潮流にそのまま乗っているだけだからだ。管理された独自性、合法な商取引というルールの中にある革新、これは真の革新ではない。単に資本主義の改良だ。
 過去の茨城県・常陸国・下総国史できわめて独創的だといえるのは、全世界でこの地域にしかない水戸学が代表的なものだ。象徴天皇制と明治維新、広くは植民地独立、人種差別への反対、民族独立運動の礎となったのはこの思想であり、人々が気づいていようがいまいが全人類にプラスの影響を与えている。共産主義が生まれる前の考えだから、マルクス主義以降の知識人にとっては乗り越えるべき批判対象かもしれないが、非西洋圏における近代化の基礎理論となったことは明らかであると同時に、単に茨城県のみならず日本国、そしてアジア、いや有色人種の多かった全地球の国々単位での非西洋性、独立の背骨を保つよすがとなったのも、この水戸学なのである。特に天皇家はこの思想を生み出した偉人達に未来永劫、感謝するしかないほどだ(現時点の皇室は単なる英米追従者であるうえに傲岸不遜で無知かつ不勉強だからそうはしないだろうが)。岡倉天心の『茶の本』をはじめとした著述と思想にも、水戸藩士である横山大観の父、そしてその子である天心第一の弟子・大観当人から来た、日本の独立、独自性尊重の思想が流れ込んでいるのは、偶然ではない。
 では水戸学とそこから流れ出た独創性について、世界人類が何らかの高い評価を与えているかといえば、決してそうではないだろう。なぜそうなのかといえば、単に理解していない、理解する誘引もなければ必要もない、それどころか未来永劫この種の哲学に関心を持つほどの知能がない等、いくら優れた意義を持つ達成であれ、他者からの評価がそれに比例するとは限らない。では、大井川氏は一体、この水戸学の様な独創性をまっとうに評価し、その種の独特さをのみ選好しようと思っているだろうか。思っていない。
 彼は単にアメリカかぶれ、その追従者である東京かぶれなのである。はっきりいうと、米国の評価基準に合わせた何らかの価値等級を、茨城県域にもたらせばそれが革新だと思っているのだ。シュンペーター理論は経済学にすぎない。大井川氏が革新を興したいと思っているのは、実は「商業」という、全体から言えばごく限られた分野であるか、少なくとも商業性を経由したイノベーション理論の援用であるというほかない。勿論、生き方の多様性とか、傑出した個性とか、独特の能力といった言葉で、その理論体系を補う様な発言もしばしばみられるが、大井川氏の行政論の本質にあるのはイノベーションという概念を中心にした米国的な技術革新の模倣であるというべきだろう。
 この議論で見えているのは、真の独自性は潮流或いはパラダイムそのものが違う為に、外部者から正当に評価されえない、という観点である。芸術でいえば真の前衛が同時代人から常に無理解にあい当の芸術家らは孤立しながら貧窮に陥り、場合によっては悲劇的な死を遂げた、他方で過去の同時代に高く評価される類の今日では全く知られていないいわゆるサロン芸術家らが伝統模倣者にすぎないがゆえ、当時の俗物受けがよく当時の凡愚な称・文化人らにとっても重要とされていた上に、経済的にも人気的にも全く恵まれていたといった例に事欠かない。イノベーション理論でいえば、市場参加者には下記の別がある。
  1. イノベーター(Innovators:革新者):
    冒険心にあふれ、新しいものを進んで採用する人。市場全体の2.5%。
  2. アーリーアダプター(Early Adopters:初期採用者):
    流行に敏感で、情報収集を自ら行い、判断する人。他の消費層への影響力が大きく、オピニオンリーダーとも呼ばれる。市場全体の13.5%。
  3. アーリーマジョリティ(Early Majority:前期追随者):
    比較的慎重派な人。平均より早くに新しいものを取り入れる。ブリッジピープルとも呼ばれる。市場全体の34.0%。
  4. レイトマジョリティ(Late Majority:後期追随者):
    比較的懐疑的な人。周囲の大多数が試している場面を見てから同じ選択をする。フォロワーズとも呼ばれる。市場全体の34.0%。
  5. ラガード(Laggards:遅滞者):
    最も保守的な人。流行や世の中の動きに関心が薄い。イノベーションが伝統になるまで採用しない。伝統主義者とも訳される。市場全体の16.0%。http://www.jmrlsi.co.jp/knowledge/yougo/my02/my0219.html より
これらの種類の展開のうち、イノベーターの中には単に革新的であっても商業上の流行が決定量(クリティカルマス)に到達しなかったままの、無数の前衛的な実験、発見や発明が含まれているというべきで、その様なものの中には非利益的な探求、それどころか努力なしに得られた特殊性も大いに含まれている事だろう。大井川氏は、一体この問題についてはどう考えているのだろう。
 私の意見をいえば、茨城からビルゲイツをとかジョブズみたいなのを出せとか出そうぜいうのは、戦後日本の典型的思考法、単なる模倣者でしかない。実際、まねがうまい国民性だから川上量生だの孫正義以上の存在は、本気でやればうみだせるだろう。どころか、その種の類型に当てはまる人物は既に、茨城にもいたのだ。Winny開発者の金子勇氏。今もいるに違いない。ウィニー事件にあった京都みたいに陰湿な社会では反社会的個性を弾圧するから、ジョブズみたいな本物の不良、狂人が潰されてしまうという面は大いにあるだろう。ジョブズはソニーの不完全模倣者だったかもしれないが、ビルゲイツはだれかを模倣したろうか。真の独創性とは世界に類例がないことなのだ。ビルの様になろうとした時点で革新的では全くないのだ。「金儲けなんてどうでもいいや」とか、「武士はくわねど高楊枝」とか、「役に立つ仕事なんて下民がやる事だ」と言って、金になるかならないかわからない対象に命懸けで取り組んでいる人の方が、非米国的かもしれない。金儲け以外の目線から見て幸福追求に成功した人の方が、実は市場にあっても十分に差別化されて青い海を泳いでいるかもしれない。つまり大井川氏が本当に茨城を独自にしたければ、米国追従をやめるべきなのである。シアトルだのシンガポールだの、フランスだのといった前例はある種のモデルかもしれないが、それらから何をどう学んでいようが、或いは学ばなかろうが、自分自身にしかありえないもの、しかも価値観や評価基軸そのものを独自で作り上げる事が重要なのだ。独りよがりになるからそんなものは意味がない、県外から中身があろうとなかろうと何らかの妄想だか事実の側面だかによって魅力があると思われる自分になりたい、こういう発想は間違っているのだ。ランキングは無意味なのだ。他人に順位付けされない価値は、自分自身が作り出すしかないのである。そしてこういう意味で、橋本氏は正しかったのである。なぜなら橋本氏独自の哲学を持ち、他人からどう思われようが、彼の理想とする茨城の理想像をいだき、それを実現していったからなのだ。
 もっと根本的に言うと、独自になろうとする努力そのものが、元からある個性が非独自な場合に限るのだから、最初からある自然や文化条件が沖縄だの北海道みたいに非典型であるとき、或いは朝鮮人植民地として始まった中世都市の京都みたいに出自からして非日本的である場合、普通や平凡になる事自体が難しい。彼らは逆に、あまりに正規分布から外れた各種の特殊性のため日本で「普通の人」になる為に努力さえ必要なのだ。自分の持っている個性を丸ごと受け入れる事。底抜けの自己肯定感、そして自分自身の現時点でもっているありのままの個性の特徴をそのまま、他人の前に押し出す事。これが本当に独自であるという事なのだ。アリストテレスは言っている、変化するのは悪い特徴なのだと。最高の存在である不動の動者が神なのだと。平凡な人が特殊な人に憧れるのは矛盾しているのである。茨城の良さは、かなりの程度、中庸にあるのだ。人徳の最高の特性とは中庸にある。『常磐線中心主義』の中で、茨城はコモディティの供給地というイメージ、つまりは平凡な農工業地帯といわれる。魅力がないと思う人達は、その個性を嫌っているだけだ。我々が満足しているのに、我々は生まれ故郷の良さ、なつかしさ、美しさ、言葉にならない崇高な光景、自然の奥行と神秘、偉大な文化文明を生み出してきた立派な人々、親しみのある仲間を語りつくせないほど、幼児のころから知っているというのに、くだらない人達に嫌われたからなんだというのだろう。自分が好きな人とだけつきあえばいいではないか。茨城は神のごとき世界一優れた自治体であり、その本質において、変わる必要がない。他人から好かれるために作った偽物の個性などになる必要は、まったくない。自分達が理想の中庸に到達する様に努力していればいい。中庸より極端を好む人達は、おろかなのである。愚かな人の評価基準に合わせる人も愚かなのである。
 茨城県という法人格としての行政単位と、その中に属する個人達、或いは県内企業を比べて、後者が中庸でなければならない、という事は確かにないのかもしれない。個人が市場における利益を得る能力としての差別化された仕事が必要だ、として、それを行政がおしつけることは完全に誤りだ。個性や企業は自由でなければならない。中庸を選ぼうが極端を選ぼうが、その個人の選択が正義だ。特定の企業優遇についても、ハイエクの論理によれば、実際は市場原理によらなければ計画経済的な非効率や失政を免れないだろう。対して、行政単位としての茨城県が極端な個性になる、つまり、あらゆる観点から見て大いに欠けたところと大いに優れたところがある、という事が、道徳的に正しいのかについては議論の余地がある。全体奉仕という理念と矛盾をきたすからだ。むしろ行政単位というものは欠けた所のない全能を志向するべきなのかもしれない。その単位で暮らしている人たちは現代世界の市場原理秩序に最適化しきってしまえば、産業転換に追随できず、古都となって滅び去れるのだからだ。茨城、常陸国は3万年以上、一貫して持続発展をしてきた世界一偉大たるべき自治体なのであり、未来もこの星が太陽に呑まれて滅びる50億年後までの期間、最低でもそうあるべきだ。


茨城経済学

 TED(米国ニューヨーク市に本部のある非営利の講演団体)における演説の中で、アメリカの超富裕層に属するニック・ハノーアー氏は、安定した消費力を持つ豊かな中流階級が起業家の母体になるにも、彼らの購買する商品・サービスのある安定的な市場を形成するにも必須で、さもなければ暴動が起きるであろうと述べている。下記に引用した当演説の要旨にあたる記事でわかるように、資本主義の最も重大な欠陥は、格差拡大が極大化し、あたかも資本奴隷制下での新封建主義の様相を呈することにあるのだ。

 シアトル市の最低賃金を他連邦に比べ2倍にした、というニック氏が良識的な上に賢明な、特別な金持ちだという事は明らかで、この様な高徳の持ち主は、残念ながら現日本には私の知る限りだが一人もいなかった。勿論、商売人は言うに及ばず政治家の中にも皆無だった。柳井正の様な悪質な成金は、年収100万でしょうがない等と、ニック氏の真逆の悪徳を述べてさえいた。安倍晋三は賃上げ要求をしていたかもしれないが陸に実現もしていないし、経団連から企業献金という不正な受益をしている立場の自民党員が、民主・民進党と結び付けて蔑視した労働組合を排除しながら経団連に何を要求しても、出来レースであり同じ穴の狢でしかない。

 単なる模倣だから二番煎じに見えるかもしれないが、ただシアトルのまねをして茨城の最低賃金を旧来の2倍にする条例をのみ制定するのではなく、欧州で一般的な秩序をとりいれ、非正規雇用者の最低時給を正規社員以上にすることを企業に義務付ける条例を通しつつ、その最低額を5千円にするべきではないだろうか? 必然的に、生活保護を受けているより非正規雇用者になった方がかねがもらえるし、そのうえ先の知れない正社員にとどまるより流動的であっても挑戦的な新雇用に属する方が、むしろ安定的に豊かな生活を送れる土壌が作れるはずだ。豊かな中流の厚みが、結局は、消費やら資本増加の差益による搾取を旨とする富裕層の躍進についても有利なのだという啓蒙が、茨城の役割として期待されていると思えてならない。大井川氏は「【Pivote TV】Pivote Meeting”新しい茨城”の話を聞いてみよう!ゲスト:大井川かずひこ氏 from YouTube」の動画中で、知事・社長報酬が高すぎるという司会の指摘について無視を決め込んで、むしろ社長報酬より知事報酬の方が少ないのだから、といった横柄な態度でさえいる。大井川氏は、ニック氏のTED動画で述べている内容に比べて資本主義の本質的欠陥について無知だし、改善についても積極的でないということかもしれない。が、ニック氏のいうCEO、つまり取締役員もしくは社長の数と取り分の増大に比べて、末端労働者側の取り分の減退という致命的な社会複利の失敗について、もっと自覚的になるべきだ。はっきりいえば、複数いる会社役員もしくは社長に当てはまるのと同様に、知事報酬を現状の非正規雇用者が納得できる程度に下げたうえで、逆に非正規雇用者らの報酬を正社員以上に増大させれば、それが最大の経済効用を持つのだ。これは知事局の仕事の大変さに比べて低すぎる報酬による過酷労働をもたらすという点については、社会的共通認識として許せる程度に知事周辺の取り分を減らすべきだといえるだろう。

 また、この演説の中で、ニック氏はもう一つ重要な観点を提出している。それは「住民のために生産を改善した解決策の度合いが、起業家の報酬であるのだが、この解決率は、問題解決に参加できた起業家と消費者の母数によっている」即ち可処分所得の面で豊かな中流を意味する消費者がいない限り、生産・消費不順の解決率、つまり経済成長率は大幅に下がる、といいかえられる見解だ。単に起業家を育てようとするだけでは不十分なのだ。どれほど優れた製品サービスがあっても、それを消費しうるだけの可処分所得がある人々、つまり最低限度以上に余ったかねのある一般県民も育っていなければ、県の優れた経済を構築することはできないのだ。

 竹中平蔵を有して以降の自民党の経済政策とは頑として縁を切る必要がある。トリクルダウン、おこぼれは起きなかったし今後もごく一部の高級品の需要、それも県内に事業があるとは限らないものを除いては、起きないだろう。竹中は単に愚劣で自身の人材派遣会社で儲けただけの意地汚い政商で、政治家として完全に無能だったのだ。そして竹中に騙され非正規雇用法を通して以後の小泉純一郎、その後の安倍晋三、麻生太郎らによる自民党政権も、経済的には完全に無能だったと評するほかない。科学的に誤りであった施策を継続している、不正選挙までして権力維持に躍起の、反国民に違いない資本家による資本家のための租税回避地を無視する、腐敗した世襲権益・自民党幕府から離れよ。茨城単独で正しい理想の模範国ヒタチとなって、国連と全世界のトップを率いる世界一の国として、全人類にあるべき人道を教える。わが県に新しいリーダーとして期待される責務をはっきりと目標化して、旧日本国という失敗した泥舟から出よう。

ニック・ハノーアー: 超富豪の仲間たち、ご注意を ― 民衆に襲われる日がやってくる

8/25(金) 13:57配信

TED

皆さんは私をご存じないでしょうが 私は皆さんがあちこちで耳にする 上位0.01%の富裕層の一人で つまり紛れもないプルートクラット (超富豪 政治権力者)です

(中略)

問題は 格差そのものではありません 高度に機能する 資本主義下の 民主主義において ある程度の格差は必要です 問題は今日の格差が 史上最大であり 日々悪化しているということです そして もしこのまま富や力や所得を 一握りの超富豪に 集中させていたら 私たちの社会は 資本主義下の民主主義から 18世紀のフランスのような 新封建主義へ変わってしまいます それは革命前の 農具を持った民衆が 反乱した頃のフランスです


私には伝えたいことがあります 私と同じ超富豪や大金持ち バブルの世界で 優雅に暮らす人々へのメッセージです 「目を覚ませ」 目を覚ましましょう いずれ終わりが来ます 私たちがこの社会における あからさまな経済格差に対して 何もせずにいたら あの民衆が襲いに来ます 自由で開かれた社会で 今のような経済格差の拡大が 長く続くはずがないのです 過去にも 続いた例はありません 極めて不平等な社会には 警察国家や 暴動が付き物です 手立てを講じなければ 世直し一揆が私たちを襲いますよ 可能性の話ではありません 時間の問題です その時が来たら それは誰にとっても 酷いことになりますが 特に私たち超富豪にとっては最悪です

(中略)

私が訴えたいのは この経済格差の拡大は 馬鹿げていて 最終的には自滅につながるということです 格差拡大は私たちが 民衆に襲われる危険性を 高めるばかりでなく ビジネスにも大打撃を与えます 私たち金持ちの手本は ヘンリー・フォードでしょう フォードは有名な 「日給5ドル」という― 当時の一般的な賃金の 倍増計画を導入しましたが 彼の功績は 工場の生産性を 向上させただけではなく 貧しく搾取されていた自動車工たちを 自分たちの作る商品を買うことができる 成長した中流階級に転換させたことです フォードは直感していました 現代の私たちが認めるとおり 経済は生態系になぞらえて考えるのが 最適で 自然界の循環システムと 自然界の循環システムと 同様の特徴があり 経済にも企業と顧客の間に 循環システムがあるのです 賃上げによって需要が増し 需要によって雇用が増え それによって賃金や 需要や利益が増えます この景気の好循環こそが 今日の経済回復に 欠けているものです


だから私たちは 両政党で強い勢力を誇る― トリクルダウン政策とは手を切って 私が「ミドル・アウト経済」と呼ぶ やり方を採用する必要が あるのです ミドル・アウト経済では 経済というのは効率的で線形で メカニズム的であるから 均衡や公正に進む傾向があるという 新古典派経済学の考えを却下し 21世紀型の考え方を採用します 経済は複雑、適応的、生態系的なので 均衡や公正とは逆方向に進み 不平等になる傾向があり 効率とは程遠いが うまく管理されていれば 効果的であるという考え方です この21世紀型の観点でとらえると 現存する資源の効率的な分配によって 資本主義が機能しているのでは ないということが はっきり見えてきます


資本主義は人類が抱える問題に対して 新たな解決策を生み出すことで 機能するのです 資本主義の特質は 解決策を見つけるべく 進化するシステムだという点です 他の人たちの問題を解決した人々に 報酬が与えられます 貧しい社会と豊かな社会の違いは そこに住む人々のために 生産という形の解決策を どれほど生み出したかという 度合いの問題であることは明らかです 私たちの社会が保有する 解決策の総和が すなわち 私たちの繁栄であり このことが グーグルやアマゾン マイクロソフトやアップルなどの会社や こうした会社を作った起業家たちが 我が国の繁栄に大きく貢献したと言える 理由になるのです


この21世紀型の観点でとらえると 私たちが問題を解決した率をもって 経済成長を理解するのが 最も適切だということも はっきりしてきます しかしその率は問題を解決した人の数― 問題を解決する能力のある多様な人々を 私たちが何人持っているかに かかっています つまり私たち市民のうち何人が 解決策を提供できる起業家として また その解決策を購入する消費者として 積極的に参加できるかによるのです しかしこの参加の最大化というのは 偶然 起きたりはしません 自然に起きる訳ではないのです 努力と投資が必要です だからこそ大いに繁栄した 資本主義下の民主主義は どれも皆 中流階級と 彼らの生活を左右する インフラに対し 大規模な投資を行うという 特徴があるのです


私たち超富豪は この 私たちがさらに富めば 他の人にも富が浸透するという トリクルダウン経済から 脱却する必要があります トリクルダウン理論は間違いです そんなはずがないでしょう 私には平均賃金の 千倍の収入がありますが 千倍多く買い物したりはしません そうでしょう? 私はこのズボンを2本買いました パートナーのマイクいわく 「経営者ズボン」 私はこれを2千本買えますよ でも買ってもしょうがないでしょう? (笑) 私が床屋に行く回数も 外食する回数も そう多くはありません 超富豪がいくら富をかき集めたところで 国家規模の経済を動かすことは 絶対にできません それが可能になるのは 中流階級の成長によってのみです


「手の打ちようがない」と 超富豪の友人たちは言うかもしれません ヘンリー・フォードの頃とは 時代が違います 出来ないことはあるでしょう でも出来ることもあるでしょう

2013年6月19日 ブルームバーグに私の書いた記事が 掲載されました 『最低賃金15ドルという資本家の理論』 という題です 賢明なフォーブス誌の人々の中には 私の熱狂的なファンがいますが 彼らに「ニック・ハノーアーによる とんでもない提案」と呼ばれました しかし その記事が掲載されて ほんの350日後 シアトル市長のエド・マレーが シアトルの最低賃金を 時給15ドルに上げるという条例を 法律として成立させました これは連邦内で一般的な 時給7ドル25セントの 倍以上に当たります 何故そうなったのか 分別ある方なら疑問に思うでしょう その理由は私たちが共同で 中流階級の人々に 彼らこそが資本主義経済の 成長と繁栄の源であると 再認識してもらったからです


労働者が持つお金が増えれば 企業は顧客が増え 雇用を増やす必要が出てくると 再認識してもらいました 企業が労働者に生活賃金を払えば 納税者は食糧配給券や 医療扶助、家賃補助などの 労働者が必要とする 生活保護制度の財源を 負担することから 解放されるということを 再認識してもらいました 低賃金の労働者は 納税状況が極めて悪く すべての企業が 最低賃金を引き上げれば どの企業も潤い 競争も起きるということを 再認識してもらいました

(後略)






2017年9月1日

交通網について

 大井川氏が新幹線を通すといっている事は、ストロー効果による経済衰退をもたらすといって間違いないだろう。もし新幹線を茨城県から非東京圏に通すなら、特に北関東・東北・上越新幹線といったたぐいなら、それは成功するかもしれない。東京都に交通網を接続してはいけない。交通網はより大きな都市に人口を引き寄せる効果しかない。現高萩市長は勉強不足であって、そんな外からの捕らぬ狸の皮算用を期待する暇があるなら、海抜から高さがない高萩市内の海付近の住居に対して、1階部非居住化の改修を促進する条例を作るべきである。
 つくばエクスプレス沿いが人口増大に成功したと考えている人は、スプロール現象は都市計画的に失敗だという観点がないのである。職住近接の反対である様な郊外からの長距離通勤や、大都市民の中で決して所得が高い方でない人達のベッドタウン化は、どちらも大企業本社の属する都民にとっての好都合でしかない。茨城側にとって都合がいいのは、県内に本社が属し、そこを中心として交通網が存在し、県内都市に比べて人口比の少ない自治体としか利便性の高い交通がない状態をさす。高萩にとっても例外ではない。県の振興にとって筑波型の開発計画は必ずしも模範ではないのだ。
 この動画「大井川かずひこの街頭演説、石破茂元地方創生大臣激励の挨拶」の冒頭に近いところ、2分頃から、石破氏は出生率が最高の沖縄から最低の東京に人口、特に若い女性が集まる事で、人口が半減していくといっている。更に食料・人口・エネルギーの生産地である地方が、それらを消費する一方の東京に人口を搾取されて、滅びに向かっているといっている。この意見については統計的にはその通りかもしれない。そしてなぜ人口が東京で減るか、沖縄でふえるかといえば低俗な退廃社会である東京は悪い売春・商業社会であって2割の若い女性は性搾取され事実上、子供を産めない悪習に堕落させられ殺され、8割の若い女性は限界まで仕事にこき使われて子育てにも嫉妬羨望させる見栄を張らされる浪費生活の面にも最悪の環境である都内では子供を産み育てる費用を払えないからだし、逆に沖縄で出生率が高いのは学力が極端に低い上に雇用先が少ない上に暑すぎて勤労意欲がわかないから所得が極端に低い人が過半で、が為に先のことなど考えずに性欲のまま妊娠するからに他ならない。日本国民の多数派はこの様な事象について無知な衆愚であって、都内立地企業への利益誘導・利ざや自慢に過ぎない東京を過度に美化した宣伝や、田舎へのネガティブキャンペーンを鵜呑みにしつつ上京が理想であると妄想し、なおかつ批判的な思考の欠如によって、群衆化してこの大勢の失敗もしくは自死に流されるばかりだからだ。東京都民の悪意など変えようがない。彼らは性だの労働力だの電気だのエネルギーだの資源だの食料だの人材だの知恵だのの搾取によって単なる我欲で利益を独占したいだけだし、虚栄心の塊として、善良で騙されやすい田舎者を偏見流布で差別する事で天皇家の中華思想を後光に、ひたすら個人単位で利己的に金儲けをしていればいいと信じている。要するに都民一般とは、福島原発事故の原因となっていながらに再稼働を要請している現実をそのまま映し、しかも東電株の主要株主が都庁だから東日本中にばらまかれている原発汚染の原因が最終受益者である東京人だと自覚すらしていない、うま味である暴利だけ得ながらに最終処分場を貧しい自治体に平気でおしつけたがってさえいる完全な人間の屑なのだ。冷たい現実を悟っているのは都内に内部事情まで深く出入りし客体的に知悉しながら、その悪徳に満ちた大都市の考えと対極にある、自然と調和した田園地帯に生まれ育つ事のできる茨城県民の一部はじめ、一部の啓蒙的な北関東人、その他のUJIターン組くらいだろう。
 江戸から至る東京圏は、農民が9割だった江戸時代の土地相続にあずかれなかった次男坊以降の実質的な口減らしスラムが出自で、現代においては商人および皇族閥の虚栄を目指す強欲スラムとして、労働者或いは娼婦としての実質的な人身売買による相変わらず口減らしを内部の機能的目的にしているという事実を顧みても、東京圏との交通網の接続は茨城人の人口比や生活健全性を減少させ、悪意ある都民にのみ都合がいい。高萩市長は駅前に私企業の格安ホテル誘致を図る条例などに手をだしているが、特定の企業への肩入れは行政の不正な癒着というのである。行政は全体の奉仕者でなければならない。空地は全員に得がある様な公園にすればいいのである。高萩駅前にビジネスホテルを作れば地域が活性化するなどまったくありえない。寧ろ悪意しかない都民がそこにきて、性犯罪の現場にするなど、当然のことながら悪用されると予想がつく。目立った観光地のない地帯でこのホテルを運用する会社も東京都民なら、既に周囲に民宿や観光ホテル、ビジネスホテルそのものがあるのだし、割安の場所に一時的に泊まる人が高萩市民ではないのは明らかなのだからだ。尤も近いうちに採算がとれず、高萩駅前からこの会社が撤退するのは明らかだが。


茨城の革新について

 商才がない人のうち、別の何かに能力がある人と、生存しているという価値以外では全般に無能でほとんど役に立たない人がいるだろう。大井川氏の主張する政治体制は米国の能力、実力、成果主義を地で行くシリコンバレー文化を模倣しようというわけだが、それは個人の商才にボトルネック、瓶首効果を持つ淘汰圧をかけ、ただでさえ商才がない上述の2類型の人達をさらに不利な状況に追い詰める結果になるだろう。
 大井川氏は経歴からいっても元来、脳の遺伝が学習能力について凡庸な観点からかなり正規分布的によい方で、努力が日本人一般の他人と比べて結果になりやすかったのだろう。しかし生き方の多様性を語るとしたら、ベンチャー起業家の様なごりごりの商売人気質をのみ模範的類型かの様に語ることは単に矛盾している。
 経済学においてシュンペーターのいうinnovation、革新が覆っている範囲は、実際は営利追求を是とした企業組織的行動という末端部分でしかない。このイノベーションという魔法の言葉がバズワード、つまり、巷で話題となっている理由は、停滞ばかりか縮小する経済状況下でますます営利にのみ関心を持つおいつめられた商人が多いからだ。現実に何らかの革新的な事業成績の飛躍が産業革命的におきるとき、役に立つかまったくわからない遊びとか無為の為である様な非実用的な発見が先ずあって、それがさらに応用を試みる実験家の手になりいままでなかった事物間の結合をうみだす発明に偶然つながり、最終的にというべきか末端で商人が市販や販促を計画しつつ金儲けに利用して革新と呼んでいる。そしてこの産業構造の転換という現象は、本来、生活現場の工夫として日々おきているが、それが或る特定のまれな結合をとるとき、他とは違った利益またはなんらかの高い効用を伴い、大幅な革新、すなわち営利性の向上となる。おおまかにいってシュンペーターのイノベーション理論はこの様な枠組みをもっている。
 そこからいって、単に末端だけをみて利益追求を主張しても、事はそれほど変わらない。単に商人気質の蔓延によるギスギスした、よく解釈すればぎらついたpragmaticな営利的金欲とか自称社会変革をかたくなに信じる資本主義的狂人とかを啓発する。前者がビルゲイツやバフェット、後者がジョブズやザッカーバーグだったのだろう。これら革新者に対してかつてニュートンやガリレオ、小保方氏がやったのが決定的発見なら、エジソンやライト兄弟がやったのが発明といえるだろう。いいかえると、革新を実現するに最も重要なのは、意外性のある、非典型的な、今までとは違う様な知識、技術、商いの結合を見いだす文化風土なのであって、それは独創または新規性の選好といいかえてもいい。米国西部は開拓精神と移民と実用主義、資本主義、そして大戦による軍需とそこからの情報技術のおこぼれ的民営という偶発的な結合があったので、シリコンバレーの世界が生まれた。
 結論をいうと、逆説を含む論理だが、革新の模倣は全然革新性とは逆に位置し、本当に革新的である様な人とか地域というのは、シリコンバレー文化とは全く違う新規性とか独創性を明らかに独自の属人的かつ属地的結合について強固にもっている場合をいうのだ。茨城県にしかありえない様な、自然ならびになんらかの風土、集団の文化に、発見、発明、革新の各部位が偶発的にくみあわさり、そこに世界一の強度を伴う成果を見いだせるばあいに、それは革新自治体ということができる。つまり模倣あるいは今までにない角度からの模倣は確かに創造の本質にある要素かもしれないため、シアトルとかフランスとかシンガポールを単にまねて、よせあつめつつ改良した自治体となることは、半分くらいは正しいのかもしれない。だが他人が追随できない企業並びに生活風土という意味で、たとえば役に立たない事をなにより面白がるだとか、実際にイギリスのケンブリッジとかパリはニュートンを筆頭にした探求的学者だのエコールドパリの実例からそういう面があるかもしれないが、逆に田舎らしい田舎なので人間関係が狭すぎて医師が定着しないだの非愛知人に排他的だの非洛中には差別的だの、これらは国内の秋田、愛知、京都にみられる或る側面だが、この種の地域特殊性が偶発的・偶有的に結び付くときに、外から見たときの価値とか、衝撃とか、なんらかの意外性が生じる。後者の例は営利と必ずしも結び付いていない非成果的なものかもしれない。すなわちここでいいたいことは、革新自治体もしくは個人とは非典型的な生存のあり方を偶然を含めて見いだせた者をいうのであり、それはトップダウンの方向づけとは実は逆なのだというわけだ。
 もし本当にシュンペーター的な意味のみで革新的な茨城をつくるとしたら、知事がいうべきことは、利益をあげれるなら原則としてなんでもやっていいし、今までとは違う事であれ失敗しようと役に立たなかろうと普通ではないことを含めて自由にします、ということである。但し行政としては外部不経済が生じる様な場面に備えて、公共福利の立場から最低限の法整備と、あまりに所得格差が開きすぎて不平や不幸感がはびこらないために累進税制もある程度はとります、そして全く商売にならないばかりか失敗ばかり起こしてしまう人にも、最低限かもしれませんが生活保障は任せてくださいということである。

保守と進歩という家畜論理

 自民党、天皇家、小泉進次郎の三者に共通しているのは、保守と名乗りながら自分だけは進歩的便益を得て、後進的な状態のままにしつけた大衆を家畜化、奴隷化しようという悪意、もしくは偽善の作為に他ならない。水戸に大井川応援演説にきた進次郎の演説をみると、保守的ではない自民党が自称保守と名乗るのは、馬鹿国民をだますためでしかない、というのがよくわかる。落語の様に巧言令色、水戸市の愚民を手駒にとってあおり、薩摩藩の末裔が自称保守政党を気取りながら進歩を主張のご都合主義な矛盾振りは健在で、かつて水戸藩や将軍を裏切って徳川の世を乱したこともどこ吹く風、今度はスパイの内乱分子であった西郷隆盛を模範と仰ぐ老公橋本氏を追い詰めて扇動政治を行うなど、どこからどう見ても水戸市民ならびに茨城県民を利用価値しかない奴隷として愚弄しているのである。
 大井川氏はたまたまこの様な悪辣な寡頭政治集団にバックアップされてしまっただけで、この点は罪がないかもしれない。また公明党の山口代表も、小中高大まで一緒の人物に肩入れしたくなるのも、自民党との対立を緩和したいという政略も理解できなくはない。他方で、自民党と天皇家の権力亡者振りがいかに偽善的で、利己心しかないと同時に、彼らを信じる人々を明々白々に裏切るかという事はどれほど強調してもしすぎはないといえるだろう。福島県の現状をみながら、原発再稼働を茨城県に要請する。この様な偽善、いや、完全な悪意が平気で表意できるような人間はもはや悪魔以外なにものでもない。長州閥のマキャベリズムや、天皇家の神道による自己洗脳を超えて、ポピュリストの小泉進次郎氏はバカな市民をあおって諧謔を弄し、現実には保守性と呼べる何も中身などないにもかかわらず、愛県的かつ良心的な県民を自民党やらその総元締めである天皇家の言いなりにしようというだけなのだ。
 ここまで分析できれば、ナショナリズムの正体も明らかになる。それは支配者、具体的には独裁権益を持つ政治屋連に都合のいい衆愚を、あたかも良識めかした自縄自縛の妄信、「仲間意識」という嘘によって相互依存的な洗脳にかかりやすい精神状態にしておくための扇動でしかなかったのである。水戸駅前での進次郎演説に現れていた、茨城人の素朴な価値観をあおる様な皮肉や、保守政党に属しながらの進歩の希求つまり自民党独裁の誘導、それにもかかわらず口さがない落語的な韻を踏むことで一種喜劇的に聴衆の心理を自分に都合がいい方向へ扇動する手法、これらは不仁の特徴に違いない。剛毅木訥の対極にある進次郎氏には扇動政治屋、デマゴーグの称号が相応しい。だが、問題の本質はこの扇動屋以外にあり、要するに権力維持のためには手段を択ばず民衆を操作する、という本格的な悪意が自民党や天皇家の行動にはっきりとみられるという事の方にある。現代の皇族は全く保守的ではない。私大から米英の一流大に単身留学しつつマックを操る。20代半ばで数億円の持参金をもらいながら結婚する。これらは国民からの税金でやっていることだ。一体、この様な生活をなしうる保守的な国民、県民がどの程度いるというのか。進歩的な己(官)が保守的な民からの搾取構造を独占し続けたい。これ以外に、自民党や天皇家の目的はないという事が明らかになった。
 大井川氏はもっと単純で純粋だ。本気で地元に還元したいのだろう。彼が経てきた一般的に華麗に見える経歴は、実際は彼の鋭い努力の経過を意味していて、その高いハードルを自己へのプレッシャーによって乗り越えてきたという自信から、海外の高い進歩力を持つ地域同様に、自分自身の生まれ故郷を革新できるはずだと信じてやまないのだろう。だが彼を今回背後から後押ししながら国民を操り人形にしようとしていた勢力、自民党とその奥にいる皇族は、茨城や福島、その他、青森、新潟など東京に被害がないと想定する地方に住む民の犠牲のもと、原発再稼働から得た税収益でぬくぬくと、贅沢に暮らしたいだけなのである。
 地域ナショナリズム、愛国あるいは愛県心は二重の意味で岐路に立たされている。第一に、この考えは多数決の結果に従順たることを要求するという意味で、多数派が支持しやすい寡頭政治政党のもたらす独占という結果、もしくは弊害にいかにも好都合である。第二に、この考えをもたない完全に利己的な個人や多国籍企業が、国家や国税、地方税さえ無視しtax haven・租税回避地を利用していても、皇族や自民党員あるいは官僚といった調整的正義を軽んじながら搾取の末端にいる連中が継続的に収奪できる財産の母数がへるのを危惧して何の指摘も対策もしなかったよう、つまり既得権益を持つ世襲政治家連が金持ちに逃げられるのを恐れていたよう、超国家的な個人主義者、単なる利己主義者が有利になる現代社会の構図に対して、自称民主主義国家はまったくの無力だという事だ。要するにナショナリストはその規模が小型でも、他人などキャッシュディスペンサーにしか思っていない根っからの商売人に簡単に騙され、搾取される存在でしかない。その事をしりながら愛国心、愛県心、愛郷心を家畜民の洗脳に都合がいい理屈として、既得権を持つ連中は彼らの良心を堂々と悪用しているのである。愛国心や愛郷心など天皇の金蔓に他ならない。それなのに、この偽善や悪質さに多かれ少なかれ勘付いているのに、なおも自分自身の利益のためだけに皇族閥に関連付けられた既得権の側に属していよう、というのが、進次郎であり安倍晋三であり麻生太郎なのだ。これらの人々はここまで見ていくと極悪人に違いないが、その極悪人達に善人面で支援された大井川氏に何の罪もないといえるだろうか。やはりすべてを顧みると、橋本氏の方に正義があったとしか言い様がない。なぜなら橋本氏は良心を持つ純朴な民を守ろうと戦っていたのだからだ。自民と皇族は今日、民衆抑圧目的の既得権益に他ならず、その利益の片棒を、ビルゲイツや川上量生の様な純粋な利己主義者の組織で、或いは
裕仁や明仁の様なより巧妙な偽善者の組織で、自己洗脳の癖を身に着けて担ごうとしている大井川氏は、はっきりいえば騙されているのである。いや、彼自身を欺いてもいるのだ。彼はやりがいという言葉で、公然と金を儲けていた商売人や、隠然と金を儲けていた世襲権力者といった利己主義者たちが、さも社会のため、さも人類のためと嘯く様子をまのあたりに、自分自身さえ欺いて、高い給料をもらえるだけ自分の働きには価値があったのだと思い込もうとした。現実には彼らの作り出した巧妙な策略によって貧民を貪っていただけなのだが。
 保守と進歩という論理は、どちらも既得権を奪い合う野蛮な政争の具にされているにすぎず、置き去りにされた、或いは狡猾に扇動された民衆の側は、いずれにせよ搾取収奪の対象でしかありえない。経営者を兼ねた大資本家・大株主が最も目立つ独占者だとしても、現実には皇室関連予算として毎日9000万円以上を国税から公然と浪費している天皇家の方が悪質だ。この顕示的消費によって愚民に威圧的な後光効果をもたらし、格の差を見せつける事によって、帰依させ洗脳する。既に権益の維持とは完全犯罪に他ならない。だが衆愚がこの事実に悟り、怒りや悲しみや憤りのあまりに、清貧な君主を求め真の共和政を志向するのでない限り、そして専らその様な賎貨思想の価値観は米国の前で時代遅れの様にうちすてられているが、民衆が家畜や奴隷として都合よく誘導される現実は変わらないだろう。もし大井川氏が真に善良な人物であったら、却って、国政の悪意、寡頭政治を目指す悪党である自民構成員や、神道信者の露悪的本性と、良識的県民の板挟みにあって進退相極まるかもしれない。なぜなら本当に民衆の便益と弱者の優先救済をめざして善政を行う清貧な首長、ホセ・ムヒカの類が登場したなら、大井川氏がそうなる可能性はかなり低いにせよ、利己的な天皇、自民、東京マスコミといった商売人達に唆されている愚かな民衆は、スポンサー企業の意向やら宮内庁2階の記者クラブやら官邸の大本営発表やらそれらの煽りに祭りといって馬鹿踊りするニコ厨やらに群衆として群れながら、聖徳の持ち主に逆上して濡れ衣まで着せて倒そうとするだろう。そればかりか、彼ら衆愚は搾取され気ぜわしい自分達が経営資本家たちに騙されるほど愚かなのが苦しい労働生活の原因である事を反省していないため目先の利益欲しさ或いは無能な人々への悪意ある嫉妬と虐待の意図によって、最初からこの種の君主道徳の持ち主を自主的に選びえないのである。


2017年8月31日

地域ナショナリズムと移民社会

 もし大井川氏の公約にみられる理論を政治的に実践すると、この県で最善なのは、移民促進県として人口流動性を極大化し、かつ個人主義に基づいて行動する習慣を身に着ける事となりそうだ。
 これまで橋本氏が行ってきた行政は、現北茨城市長の豊田氏と同様に地域ナショナリズムに由来し、水戸の徳川氏の愛民思想の延長にある、健全な愛国・愛県・愛市民による功利主義的な行政の類だったといえるだろう。大井川氏はこれに対し、刷新を唱えつつ米国型のIT産業を誘引しながら、人と財をあつめるという考え方をもちこんでいる。そして大井川氏の方法論では、地元人を優遇するより、無能な地元人を切り捨てていきながら、有能者を選好する(或いは逆に無能移民を切り捨てつつ有能地元人を採用でもそうだが)という米国資本主義の実力優遇的な展開が必要不可欠となるはずだ。当然これまでも県は実力本位で人物を評価してきただろうが、橋本氏の根底には最大多数の最高幸福を目指す様な功利的・福祉的な考え方も存在していた。大井川氏側に弱者救済という主張はあまり強調されていない。なぜならこの人は、ご自身が成功者の属する組織の渡り歩きをしてきた経歴からも、生まれながらに恵まれない人だとか、無能であるから出世の見込みが初めからあり得ない人、挫折の末に再起不能になっている人といった本来の弱者に、殆ど認知がないのである。
 橋本氏は「強く優しい県」をsloganにしていた。これは強い経済と優しい福祉を意味するといってもいいだろう。大井川氏に、優しさの面は見逃されているが、実際はこちらの側面、調整的正義の方が、商売ではない行政の必要条件なのだとこのブログで述べてきた通りだ。別にIT業が悪なのでは全くない。虐めをなくすことも重要だ。問題は大井川氏の理想の社会としてこの動画(【Pivote TV】Pivote Meeting”新しい茨城”の話を聞いてみよう!ゲスト:大井川かずひこ氏 from YouTube)内であげられている米シアトルやフランスはliberalな移民社会の典型といえる。勿論、強烈な人口流動性、つまり早いメンバー入れ替えのある移民社会にすればそこで虐めが発生する確率は相当に下がるはずだ。その代償に、田舎らしい田舎としての既存の茨城のある面は、恐らくかなりの可能性で消滅していくはずだ。外来種の方が強壮な場合が殆どなのだから、わけても人においてウィンブルドン現象(外人の方が活躍し母国人を駆逐する)が起きないはずがない。はじめから移民の主要な都市部で大井川氏の支持率が比較的高かったのも、この様なリベラル・寛容政策による犠牲をこうむる可能性が都市部ほど低いからなのだ。農村部の平和や低い犯罪率は、村社会性からくる相互監視にもよっているのであり、移民による人口流動性が高くなればなるほどこの秩序は破壊される。橋本県政にあっては、彼の田舎に対する理解や尊重の念から、商業地や、移民地区となってきたつくば市等との間に多様の統一が図られていたといえるだろう。大井川氏はおろかではないのだろうし、今後この種の当県の地域多様性やそれらの利害や目的としての幸福間の違いの調和を図らざるを得ないだろう。茨城は単なる商人気質である東京都の様に単純ではない。金儲けさえできれば皆が一様に幸せになるという訳ではないのだ。しかもこの県は、全日本のみならず全地球の縮図といえるほど自然、田園、都市の全面にわたっての最大級の多様性とそれらに固有の生態系がある。東京都民の様な浅はかな目先の利害だけを追いかける衆愚からみれば、金が儲かっている場所が繁栄、そう見えないところが衰退にすぎないと偏見しているのだろうが、実際は、都市化してしまった田舎町は自然破壊を憂い、工業発展をも環境の悪化として迷惑がっている場合も大いにあるし、つくば市にさえ天狗党どころか?歌以前から住む在来の住民が新住民のお高く留まった地元民に交わらない態度をいけ好かないと考え、国策による施設の押し付けに対し平和な農村の伝統破壊だと感じている層は確かにいるのだ。
 更に厳しくいうと、大井川氏は余りに単純に茨城を思い、全県土についてつくば市をベンチャー起業特区にする類の、ITなりICTの応用で金儲けをさせられれば、それが即ち繁栄にして羨望なり尊敬される新生の県になりうるのだと空想しているのだろう。これは東京都民という商人或いは小人集団が持っている類の、目先の利害損得でしか行動しない浅薄な知能における、生活多様性の否定でしかない。田舎暮らしの幸せは、経済最優先では決して得られない。商売人の幸福は農民の幸福ではないのだ。移民や外来者に荒らされる地域を繁栄していると考えているのは、愛すべき故郷のない哀れな都民だけだろう。いつまでも変わらない、少なくとも変化がゆっくりしているという事、自然がそのまま残っているという事、これらはどれほど大金を積んでも永遠に得られない、かけがえのない価値なのだ。金儲けなどどうでもいい。静かにゆったりと自然に包まれて暮らしていたい。この様な考え方を持つ人の生活感を、東京かぶれやシリコンバレーかぶれには理解も想像もできない。幾らでも変化したいのは、元から故郷を捨ててきた浮浪集団としての都市民だけである。その様な人々が国際資本や金融経済の波に乗って世界一の成金富豪になったところで、一体なんだというのか。虚栄に他ならない。自分の力で全世界を支配したところでなんだろう。その人には自然一つ生み出すことはできない。小川一つ形作ることはできない。小磯一つ守れない。大井川氏の人生観はまだまだ洗練されていないというべきだ。民俗学や自然学、文学だけでは十分ではない。老荘や仏教哲学ですら、茨城県の中にある無数の生の深みを知りはしないのだ。
 私に言う事ができるのは、経済弱者の救済とか、無為自然だとか、士農工商だとか、農本思想だとか、旧水戸学を一つの大きな流れとして現代の茨城まで伝わってきている深い哲学の束をつかみ、茨城県史の学習を、まず一度大井川氏は真剣にやるべきだ。常陸国史、茨城県史を知っていれば、移民政策に殆ど等しい大規模な改造を、この県土全体に適用する事が全く文化的ではないと悟るかもしれない。この県のことをより深く知っていたのは、恐らくだが、橋本氏の方だった。無論、大井川氏はそこから比べたら若すぎる。いかにも無鉄砲にすぎない。公明党の山口代表はおそらく大井川氏と国内学歴が等しいがゆえ長期関係を見込めると考えたろうし、都議選で裏切った自民党への再度のすり寄りもあって、彼が大井川氏側にこびたという事は、単なる政略行動だろう。安倍氏は長州閥を種にした権力亡者であるから、東京に続き茨城でも惨敗にするわけにはいかないと、保守王国を票田として少なくとも死守するべく自民推薦候補に肩入れしたのも明らかであった。橋本氏の地方自治法に基づく地方の知事選挙に、中央政界が介入するなという正論は、安倍氏の様な公徳の足りない、世襲の因縁や自尊心と思い込む虚栄心だけで持っている類の独裁主義者には馬耳東風である。大井川氏はこの様な幸運が重なって、県民のうち約半数を敵対させた状態で県政に入るのだから、今後、移民を中心にした県内社会を、つくばや日立の様な一部の都市部に集中させるか、全体に適用する事でこの県そのものを移民社会にするかについて慎重に選択してもらいたい。橋本氏の愛県的施政と、大井川氏のいう営利的な施政は、要求される生活態度に大幅な違いがある。前者は地縁や地元を優先する方が有利になりやすい条件をつけるが、後者は県だとか市だとか町だとかの地権者を無視し機会費用を節約しつつ、個人単位で金儲けする方が有利になりやすい国際適応を意味する。なるほどこれは大幅な転換だ。これから4年間で、移民だらけとなるのならその様な県を、私個人はなにも否定しない。むしろ歓迎さえするが、水戸徳川氏の主義していた尊攘理論は、そこでは時代遅れの産物として完全に無視か否定されていくのだろう。では、尊攘志士らは一体何の為に忠義で大量死していったのか。回天神社や弘道館に記録されている精神があるなら、地域ナショナリズムとは一体なんだったのかを問い直すべきだろう。


魅力度に関する最適戦略について

 もし、これといって不足のない、恵まれた立場にあったといえる茨城県民が、大井川県政によって何らかの方途をとって西日本人のうち数百人のブランド総合研究所会員の偏見を正したとしよう。それによって、石破茂氏や小泉進次郎氏らが音頭をとってもちあげようとしていた類の当該調査の変化があったとしよう。そして大井川氏はご満悦で挑戦すれば変化を起こせるのだと、新政は成功したと考えたとしよう。これは本末転倒だ。
 田中章雄という極悪人による魅力度調査の根源問題は、それが差別や偏見による非科学的、もしくは疑似科学的な悪意ある報道スクラムによって、弱い立場にある者、不利な人間を殺意を込めて徹底的に虐め殺そうとする、日本国と日本人、村社会と島国根性の一番悪質な面をまざまざと示しているということにある。だからたとえ茨城が別の評価のされ方をしようが別の県、別の誰かが再びストレス解消或いは集団の便宜的結束の為のいけにえ、scapegoatとして虐殺対象になるばかりで、日本人も日本国も、東京やら各地のマスコミも、西日本も、田中章雄容疑者も一切なにも変わらない。日本人一般が虐め大好きの極悪国民なのだということを、田中章雄は金儲けに利用しているにすぎず、たまたまその標的に、過不足のない調和のとれた我が県がなっている、というだけなのだ。
 いわば自分だけ被害を受けなければ他の誰かの被害なら構わないと、大井川氏はいいそうなものだ。日本国民がなぜ虐めを好むかといえば、この国が閉鎖的な村社会、島国であり、固定された成員がわかりやすい地位を保ちその押し付けられた役割、階級、性格のなかで極力型にはまった、天皇家はじめ支配者に都合がいい奴隷の様に、機械の様にふるまってほしいからである。これは天皇やその家来にとって管理しやすい従順な奴隷民が搾取するのに好都合だからというだけではない。当の国民自身が固定メンバー間での差別を含む順位制を、思考の節約の為に選り好みしているということなのだ。だから一度はりつけたレッテルや汚名を、その日本人の知能指数が低ければ低いほど徹底して信じようとするのである。凡そ日本国民自身からなる集団では、どこでも凄まじく陰湿な差別や贔屓といった硬直的な階級化の現象が現れるのは、それが彼らの脳内では正義や公正とすりかえられて理解されているからだ。
 これほど魅力度調査問題に現れた日本国民のもつ病根は深く、単に数百人単位の西日本人の一部脳内を変えられても、日本人一般の狂信的階級志向、つまり虐めや偶像崇拝の精神構造は変わらないだろう。報道で水戸市の恥知らずで愚かな一市民が小泉氏を様づけでよんでいたが、この種の人物が他方ではなんの罪も落ち度もない人を徹底した悪意ある偏見で虐待するのだ。偶像崇拝と虐めは、自己懐疑という思考習慣を持つには余りに単純で低知能な脳にあって表裏一体の関係にある。弱い立場にたたされた人を集団で押し殺そうとする悪意。強い立場にたまたま立っている人に落ち度も欠点も無視してひたすら隷属する卑屈さ。大井川氏は、一体この種の愚民の何をどう変えようというのか。バカは変えられない。日本人一般は単なる愚民である。西日本人一般についてはいうまでもない。愚民をまともに相手にするな。差別や偏見をもつことは、それを持っている人自身に最大の不利さがあるのだ。つまり茨城県民自身は、橋本氏が行っていた通り、郷土検定の様な啓蒙教育によって自分自身を正確に捉えることができればそれで十分すぎる。あとは、通常通り他県や他国について学べばいい。知的障害という場合を除き、愚かな人間にまともに対応しても、何一つとして得はない。悲惨と悪意しかない人間の現実と救いようのなさだけを得るだろう。
 ニコ動は衆愚から会員登録によって金をまきあげる商売型があった為に愚民にサービスしていたかもしれない。だがそれは視聴者数の一定割合が有料会員になるという計算下に大衆に訴求した結果、そうなのだ。茨城県の宣伝がこの種の営利構造をもっているだろうか。通俗的な大衆社会ならすでに東横、関西、名古屋があるではないか。わが県まで大衆向けの営利構造をもって自己宣伝する意味はなにもない。
 まとめると、
・魅力度調査は不正確な似非統計による単なる衆愚扇動の例にすぎず、その問題の核心は日本人のもつ階級化という思考節約の癖にある。
・愚かな人ほど差別、偏見、偶像崇拝という認識の誤謬をもち自損しやすいので、知能指数も大部分遺伝する以上、単に自分自身もしくは茨城県民がそれら非科学的な誤りを免れていれば十分すぎる。
・天皇家は愚民化でより楽に統治するべく宗教による洗脳を図り、今日では東京都民がマスコミによりこの役割を踏襲しているのだから、ドワンゴの様な大衆販促や西日本のブランド総合研究所会員である特定数百人への集中宣伝による営利構造を、茨城県庁単位で行う意義は凡そ見いだせない。百歩譲ってこの種のPRが茨城の金儲けか観光集客か移民増大につながったとして、それが虚栄以外のなにかになるとは到底いえない。なぜなら、日本人一般の階級志向自体を国民成員の過剰流動性によって破壊できないかぎり、別のどこかの都道府県か個人が標的になりかわって延々虐めや崇拝がつづくから。
 ここまでくると、大井川氏のやろうとしている茨城県に関する評判を西日本の特定数百人を標的にするなり県外の衆愚を標的にするなりして差別的偏見を変えさせて向上させるという方法が、対症療法をこえた根本的な問題解決を果たすには、日本国そのものへ英語公用語化をはじめとした移民国家になる施策をとらせることで人口構成に激しい流動性をもたせるしかないといえることになるだろう。しかも階級化をもたらす特定の価値付けにも猛反対してこれを個性の多様性とか価値の多角性を旗印に次々破壊するという、ほぼ完全に米国的な政策を実践するしかなくなる。それならはじめから米国に移民してしまえばいいのではないか、と反論がありそうなものだ。もしこの種の移民政策が可能ならつくば市の様な英語公用可能な国際特区に茨城県単位をする程度しかありえないだろう。だがそれは茨城県民が向上はしようと県外愚民の脳をとりかえることにはならないのだから、堂々巡りにしかならない。結局、バカを相手にするだけ損害なので、魅力度ネタで侮辱している愚民をみたら低知能フラグだと見なし原則無視し、程度が酷ければ関わらない方が得策の相手と理解できようからかえって激しく誤解させたままにさえし煙に巻き、一方では自分を含む茨城県民自身のみに県内の有益かつ県民の幸福に正に相関する情報を敷衍させることが戦略的かつ利口なのである。

2017年8月30日

国政論、県政論

 経済成長。それどころか金融緩和による格差拡大を最優先するという安倍政権、麻生副総理の商売第一行政は、弱者に犠牲を強いるという致命的欠陥をもっている。それは安倍、麻生両氏が衰退していく国の行政において、国民から支持を得る為に朝三暮四で目先の利己の金で釣り何とか保身しているという人気取りのやり口で、日本の先進国では低劣な民度に丁度適合しているのだ。この国民と天皇家は、特に東京以西の民衆は米軍に原爆投下されて敗北した事については負け戦として反省していると述べるが、それは負けた事を後悔しているというべきで、将軍にぬれぎぬを着せて放伐した(西軍が徳川にやった事)とか、悪意で徳川家に親族争いを生じさせてそれをかばった人たちを一方的に侵略虐殺したとか(鹿児島県が東日本にやった事)、独裁政権を牛耳って大規模な植民地侵略を行い搾取の為に平和に暮らしていた民を事実上奴隷化して苦しめたとか(天皇家が日本国各地及びアジアの周辺諸国に対してやった事)、こういった己の悪事についてはひとかけらも反省心がないのが、主に西日本の日本国民一般なのである。侵略の意図にその目的で加担したことがないという意味で、茨城以北・常陸以北の自治体はこの様な罪は着せられないだろう。それどころか徳川の正当さをかばって大いなる被害を受けた福島県や、更にその正義に殉じた奥羽越列藩同盟の様な殊勝な自治体もある。だが我々もまた、旧水戸学をのりこえて天皇家が独裁した国家体制に於いて最後まで徹底してその悪意もしくは偽善に抵抗し続けなければならなかった。西日本一般では「勝てば官軍負ければ賊」、つまり覇道政治、Winner takes allに類した海賊の論理、やくざの理屈がいまだに信じられており、吉田松陰の侵略思想や植民地主義が現役で正当化されている。先進国では最低級の民度としか言いようがない野蛮な国民が約半数を占めているのが日本なのだから、そこで選出される野蛮の極みにある山口県選出議員が弱者を蹂躙して恥もしないのは疑問もない。それほど公徳の低い、単なる覇者、暴政による独裁を図る極悪人が日本政府の象徴とか首相を名乗れるだけ、卑しい国家がこの島国なのだ。
 勿論理想はその逆にあって、ロールズの第二原理にあるよう社会で最も恵まれない立場にある者の利益が最大化する場合にのみ、正義がある。
ジョン・ロールズの正義
第一原理
・政治的自由や言論の自由、身体の自由などを含む基本的諸自由を全員に平等に配分する
第二原理
・社会的または経済的な不平等を機会の均等を図りながら、最も不遇な人々の利益を最大化する(機会均等原理)
・結果的に発生した社会的・経済的不平等に対しては、最悪の状況は可能な限り改善する(格差原理)
大井川氏にはこの種の正義に関する認知など今のところ全くないだろう。無学なのである。彼の演説を聴く限りそこで語られているのは、配分的正義だけである。それは民間企業でやるべきことだ。行政は弱者救済が第一でなければならないのだ。全体の奉仕者である行政が有能者へ集中配分をしてはならないのだ。いうまでもないが、安倍晋三氏も麻生太郎氏も不勉強すぎる為に国民全体を不幸にする悪政をしている訳だが、それを批判し正道に戻すだけの知恵や公徳がある国民一般ではない。だから筆者が自分自身の犠牲によって、一円にも名誉にもならないこの文章で公共の奉仕者達を叱咤しているのだ。そうせざるを得ないからである。これは行政人が愚劣であるという意味で、政治家候補者の不勉強が原因だ。
 大井川氏は、もし自由主義を推進するなら市場介入の類であるベンチャー起業を促進するといった発言は矛盾しているし、民社的な福祉政策をとるつもりでもない様に見える。大井川氏の行政理論は自治体社会主義もしくは都道府県社会主義なのだ。それは国政にあっては安倍・麻生両氏が国家社会主義者であるという事にあたる。安倍氏に至っては企業に賃上げの圧力すら加えているのだ。勿論これらは市場放任を意味する自由主義から、新自由主義や自由至上主義(libertarianism)からさえ大幅に逸脱している。
 辛うじて大井川氏の自治体社会主義政策、よくいえば修正資本的な新自由主義もどき政策が功を奏し、わが県が経済発展したとしよう。こういった可能性は皆無ではない。ケインズ政策、公共投資の矛先が福利耐久性のあるインフラ事業からICT関連を主とした情報関連の産業に移行していくことだろう。それは建設分野ほど耐久性がないから、お祭り騒ぎ、ITバブルの類へ火に油を注ぐ結果になるのではないか。勿論これ自体に、停滞している経済の促進効果がないわけではない。アベノミクス、安倍財政による一時的な株価バブルによって格差拡大と一部富裕層の資産増大が見られた事、また偶然ながら団塊世代の大量退職が重なり若者が非正規に置き換えられつつ雇用に吸収されたこと、これらの様な例があるから、大井川ミクスにも地域社会主義的ながら一定の有効需要の喚起があるかもしれない。しかもこの場合、新産業を促進すると明言している以上、IoT(Internet of Things、物のインターネット、つまネット日常化)やIT教育が進むという副作用があるだろう。それは農工業に対しても何らかの複合をもたらし、産業転換が進むかもしれない。だがこれらは政治と経済の役割の混同に基づく結果なのであって、経済弱者への福祉という県民全体の幸福にとって最も有用な点が完全に見逃されている。
 税収が減るから金を儲けねばならないのだと大井川氏は言う。仮にそうだとしても、地方税と国税を混同している面もあるかもしれない。企業か個人の儲けの一部が国と県に徴収される。もし富裕層の集積を促進したければ、シンガポールの様な減税措置が必要だろう。ベンチャーを促したければ、スタンフォード大学の軍需産業の様に有効需要がなければならない。これらは格差拡大をも意味するのだ。停滞する国家での経済成長と、県民の幸福としての多少あれ結果平等な高福祉社会は、両輪でなければならない。そしてこの国家の殆どの自治体、三大都市圏を除くほぼすべての自治体は、地方交付税のおこぼれにただ乗りして楽して福祉政策をしようとするに違いない。東京が稼ぎその他の自治体が乞食する。この構図から、茨城まで稼ぎ頭になった場合、更に東京を追い抜いた場合、果たしてそれが茨城県民にとって幸福な未来だったろうか? 大井川氏はこのことについてもっと真剣に考えるべきではないだろうか。はっきりいえば、東京都民一般は首都を称する虚勢とひきかえに不幸な生活をしている。だがそれは彼らが野蛮だからで、営利の欲、性欲や物欲や名誉欲にあてられて金儲けに追い立てられているからだ。動物精神、アニマルスピリッツがそうさせているのだと解釈もできるが、大量のホームレスや生活保護を受けている経済弱者も量産している。大井川氏はマイクロソフトやドワンゴの起業精神に熱を入れられて、その精神の功罪について本気で問い直したことがないと、私には思われるのだ。なぜならそれらの企業がもたらしたのは決して、国民や県民の幸福ではない。単に、株主、経営者、労働者の金儲けであり、事業に付随したサービスや製品はそこにくっついてこの様な機械をもたらした。茨城県民の所得はまだ4位~11位ほどを行き来している。所得格差の拡大は、いわゆる幸福度を下げる事が北欧の実例でわかっている。配分、調整、それらの調和のうち、大井川氏が安倍政権の国政のもとで推進しようとしているのは配分的な正義でしかないが、日本の殆どの自治体が選択しようとしているのは地方交付税にぶら下がる事によるただ乗りでの得である。上述の侵略に対して無反省に違いない西日本の自治体のほぼすべてがそうしてきているし、今後もしていくつもりなのだろう。この様に集団埋没による怠惰と妬み、足の引っ張り合いの合理化でできているのが、日本国政や日本国民一般の現実のあり様なのに、大井川氏はあまりにお人よしな、あまりに世間知のない、努力が報われる人にのみ負担が行くような政策を執ろうとしている。
 世界一の所得を持っているのはノルウェーという国だ。そして、私の意見では、世界中で最も模範になる政策を執っているのも、この国だ。この国はその所得の殆ど半分を福祉に回しているからだ。もし大井川氏が行政の最も重要な役割である調整について学べば、そしてマイクロソフトやドワンゴの呪縛から離れ心の余裕を取り戻し、光が強くなるほど濃くなる影の中に目を凝らせば、アメリカ、シンガポール、フランスの様な闇の深い国々とは異なって、真実に知恵ある政治をしている国、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、デンマークといった幸福な国々、真実の成功をしている国、経済成長という正の面のみではなくそこで必然に生じる敗北者達の救済義務という負の面に真摯に希求されている正義を高い公民度によって悟っている人々との差について知る事ができるだろう。私は大井川氏が県知事職の期間に、行政がいかに企業経営と違うか、金儲けをすればいいだけではないのだと、単に税収をあげて成功者により多く配分していればいいだけではないのだと、成功の影には表裏一体の悲惨があるのだと、より人間社会の深みについて学ぶ事ができるだろうと考えるが、それは期待しすぎだろうか。勿論、差別化という意味で、茨城に最も希望されているのは北欧の模倣でも米国の模倣でもなく、配分も調整もまこと公正に行われる調和的正義を極めるような第三のより理想的な社会なわけだが。


2017年度県知事選挙の分析と情報戦略

 今回の県知事選挙で、橋本氏の県民党を称した公徳と善意に対して、大井川氏は新政に於ける利益で釣ったというべきだろう。この意味で茨城県民の一部は忠義より利益をとったのであり、禅譲でなく放伐を選んだのである。
 わが県民は総合ブランド研究所の田中章雄と一部ネット民や東京マスコミの悪ふざけや無知無学と完全な地域差別感情の偏見、そして日本国民の中華思想や天皇制における皇居崇拝に基づく田舎差別の悪意を真に受けて、橋本氏と大井川氏の本質を見誤っているか、軽薄な選択をしたのだ。世代交代や新陳代謝、新しい状況への変化適応、これらは当然理解できる事だが、選挙期間中にみられたあらゆる動きの中に働いていたのは、善意や公徳ではなく、東京都の報道関係商人や日本政府の自公政権に媚びを売る人々の悪意と、日本国民の無知と無邪気な(それ故に一層罪深い)偏見と差別感情である。そしてこの種の悪意が支配力を働かせてきた理由は、東京都に置いた政府が利益と公徳を混同している事にあり、しかもこの悪意もしくは無知は資本主義経済と民主主義政治の結合という衆愚政が原因なのである。衆愚政とは自らの利益を公の徳目より優先する、堕落した多数派が牛耳った体制である。
 たとえば私立高校の学費無償化は、富裕層の負担を減らす上に、そもそも教育内容の差別化やすみ分けが果たされなくなるため誠に有害だ。なぜこの種の教育の独立を侵す市場介入を行政人がおこないたがるかといえば、当然の様に一部民衆の利己心に訴える為でしかない。全体に有害で一部の既得権にのみ利益がある。私学助成は単なる悪政でしかない。
 勿論これが単なる深読みすぎで、県民は流石に民主主義とされている現状で長期政権すぎる事を危惧しているか、IT・ICT(Information and Communication Technology、情報通信工学)系の新人物で産業振興し、魅力度云々でうるさい対県外状況を打破してほしいという面もあるだろう。
 他方もし上述の衆愚化論にも一理あるとすれば、ではなぜ衆愚化が進んでいるかといえば、政治に関する教育や知識の不足としか言いようがない。扇動政治がはびこる理由は民の無学に他ならない。また、総合ブランド研究所の様なサイバーカスケード状のいかもの或いは完全な差別を含む疑似統計を、平然と既成事実として流し恥もしない悪質な東京マスコミの報道を無批判にうのみにする県外人達の民度は、低落しきっているというべきだろう。本質的に問われているのは公徳を問う政治民度なのであって、有権者のうち投票した人が完全にどちらかに偏らなかった点で、茨城県民の選挙権の精度は決して劣っているとは言えないどころか、やはり総じて高いのだといえるのだろう。
 緻密に再分析した結果としても、今後4年間、大井川県政が橋本県政時代を超えた実績を残せない限り、単に自公を中心とした扇動政治屋によるテレビ政治の影響で県民が堕落していた結果であると判断しなければならない。そして徳に関する古道という意味においては、県民の約2割は忠義より放伐による裏切りを選んだのであって、武士道に反するというべきだ。勿論、武士道イデオロギーなど既に時代遅れであるという批判は理解できるが、更に根本的には、県政の風紀や伝統を作っているという解釈もできる。橋本氏は決して悪政をしていた訳ではないどころか、凡そ善政をしていた。原発という過ちも改めると明言した。それにも関わらず県政を変えようといって放伐を行った大井川氏は、一体何を期待されて当選したかといえば、東京都民の1人である田中章雄による偏見的な統計による地方差別という公的犯罪への対策が第一なのだとしか言いようがない。その他の点について、ICT推進という面は第二に期待されていると考えられる。橋本氏が対外発信メディアの主役なのでは基本的にない。対外発信メディアは、テレビ局の様に民間企業が行う。行政の長がメディアの長なのではない。寧ろ表現の自由を鑑みれば、県庁がメディア的に扇動力を持つ方がよほど悪質だというべきだろう。政府が媒体発信力を持ったらそれは単なる公的情報の公知のみならず何らかの政治イデオロギーに関する喧伝に使われる事だろうし、その種のpropagandaで現に失政を隠蔽する事ばかりしてきたのが日本政府、大本営なのである。田中章雄と東京都のマスコミ関係者そしてその他の日本国民が地域差別を平気で行い、しかも無知を恥じる事のないだけ悪質な衆愚なのだ、という事を、行政人がどう変えろというのだろうか。実質、不可能な解決課題だとしかいいようがない。もし行政としてなしうるとすれば、強権政治によって田中章雄を訴え勝訴する、或いは国会か内閣に訴えて、その種の地域差別的偏見報道を法的に制限させる事だけである。前者については類似の判例があるが、勝訴する可能性と量りにかけて行うというきわどい綱渡りになる。後者については首相または与党議員が報道管制に直接言及せざるを得ないという意味で茨の道である。どちらにしても、県庁単位で地域の宣伝をするについては、多かれ少なかれ政治的喧伝行為とならざるをえない面で、禁じ手に触れ易い。
 かつてイギリスがクールブリタニアのキャンペーンを打ち、YBA(Young British Artists、若手英国人芸術家)と共にハイアート業界との協働を行った。韓国政府も民間のKPOP業者と組んで同様のPRを行った。日本政府は遅れて、サブカルチャーを利用してクールジャパンの活動を行おうとした。これらは経済的に沈没していく途中の斜陽国とか、政治的原因や競合との関係で汚名を着せられているか人気に欠ける国が、何らかの芸術界の人気にあやかって自らの後光効果に利用しようとしたものだった。また京都府と京都市は日常的にこの種の目的での古都・文化遺産PRを常態として行う慣習があり、当人達の中では観光業及び自尊心を高める表裏を使い分けた自己宣伝の方法論として用いられている。つまり政治界または行政組織が人気取りのため、何らかのPR活動を行う時は、それぞれ目的が異なるにせよ、個人や民間の事業または過去の遺産を政治目的に流用してきたのだ。対してわが県はどうかといえば、確かに華風月や和楽器バンドの鈴華ゆう子氏、或いは喜劇役者のピース綾部氏、グラビアアイドル出身の磯山さやか氏など主に県出身者のうち何らかの大衆人気がある気鋭の若い人々を使ってネット上でPRを行ってきた。橋本氏は十分PRしてきたのだ。それでも魅力度調査の結果は変わらない。なぜなら総合ブランド研究所の登録者である数千人の調査対象者が、毎年行われているウェブアンケートでわが県に高い評価を入れる誘引がないからだ。ここまで短絡的な事なのである。その数千人の調査対象者が標本として一般大衆に対して不正確であるから、所詮結果に偏りがある。当然そうだろう。東京のマスコミや一般大衆にその種の統計学的理解など到底ない。だから日本国民という人々は汚名やスティグマを与え、平気で差別し、偏見や色眼鏡で或る地域を攻撃し、ひたすら虐待して面白がっているのである。
 大井川氏は自サイトで、はじめから海外に向けてPRをする事を主張している。

「魅力度ワースト1からNo.1へ」プロジェクト推進

  • 茨城魅力度発信戦略【ネットメディアをフル活用した海外市場開拓を強化し、日本より先に海外で話題作りをするなど、新しい手法による発信力強化】
http://k-oigawa.jp/policy/dream.html より
これをみると、日本国民という硬直化した村社会的集団、いやいわばテレビ厨やニコ厨の様な日本人ネット衆愚を無視し、海外における評判を勝ち取ろうという公約の様に見える。彼はワシントン大学ロースクールを卒業していると、またマイクロソフトアジアを経験しているという事から、恐らくインターネット上で行政主導の宣伝サイトを作ろう程度の考えなのかもしれない。そして日本人は外圧に弱い、或いは海外崇拝の気質があり、特にアメリカに劣等感を持っている上に福沢『脱亜論』以来の西洋崇拝の影響で米国はじめ西洋圏での評判を直接あげれば日本側が手のひらを返して追従してくるのではないか、とみているのではないだろうか。なるほどその種の傾向は、確かに日本人には存在するだろう。そして主に茨城県域に行政力を最適化してきた橋本氏に比べ、多少なりとも海外経験のある大井川氏の方がまだ宣伝できるのだ、と大井川氏は踏んでいるのだろう。果たしてそんなにうまくいく戦略だろうか? 私の意見をここで述べれば、問題はそんな所には全然ないのである。
 この問題の核心は、茨城県が保守的な自治体である、少なくともそう見なす方が好都合なレッテル張りが日本国民側に潜在しているというところにあるのだ。それは行政がそうだからなのではない。県民が保守的だ、と見なしたいのである。その保守性は他の日本国内の自治体と比べて、相対的に保守である、という意味であり、絶対的な保守ではない。宣伝しようにも(特に西日本を主とした、茨城県に全く無知な類の)日本人一般にとって茨城県の長所も短所も、この決定的な保守性にかなりの部分含まれてあるのだから、どれほど外国人に同様の面を我々は保守的なのだと説明したところでへえそうなんですね、としかならない。無論、イギリスも大いに保守の面がある国だ。日本全体も保守の傾向がある国だ。自民党が強権政治を長期的に行ってきて天皇制が敷かれた国民性は極めて保守的としかいえない。だが魅力度云々で日本国民達が侮辱しているのは、この保守性の事なのである。彼ら日本人一般の脳内では、保守性は田舎と結び付けて認知されていて、保守的であることは「田舎い(これをダサいと東京人が俗語で呼んでいる)」のであり、軽蔑すべき反面教師であって、それとは逆に進歩的であるか革新的であることが格好いいことにされている、というわけなのだ。価値観の根底にある評価基準が違う。或いは茨城県には先進的な面も大いにあるのだ、と述べる事は全く正しい。勿論、各種工学面でも思想面でも天下の魁である。だから保守性という茨城の本質的特徴のある部分が、強調されて捉えられていること自体は完全に偏見なのだというしかない。なぜこの偏見が流布されているかといえば、東京との対比効果である。大衆は複雑で緻密な思考より安易な単純化やレッテル張りによる偏見での情報処理を、脳の経済の為に好むといいかえてもいい。だから平均IQが低い人達にとって、それはテスト成績からいえば西日本に余計その傾向があるが、関東地方を南部で分断し、南部は進歩的で模範に足り、北部は保守的すなわち後進的だから反面教師なのだと偏見でレッテル張りし差別で済ます事が、最も楽だったのである。これが、橋本県政下で茨城の張ってきたステルス性の本質にあった情報の一部であり、この種の偏見の煙は、実はわが県にとって大いに好都合だったのだ。橋本氏が意図して県外人を誤解させたままにしておいたか、偏見の強化を図ったかは差し置いて、実際に煙幕的に茨城県側の何らかの先進的な情報を県外に容易に認識させないという情報の非対称性が実現してきた。戦略的にこれが正しい、という事はこれまでもこのブログで説明してきた。大井川氏と、県内の商業都市部住民は、まだこの種の情報非対称性、ステルス性による利益を認知していないというべきなのだろう。
 東京都はテレビ局をはじめとした大規模な情報発信機関を民間に無数に立地させ、しかもそれらが商業と緊密に結びついた組織になっているため、その情報を発信する東京人の利益になる偏見、多くは自慢とか自画自賛とか、対照的な個性を持つ都外の自治体や対象物を差別したり蔑視したりする事による自己宣伝を図る慣習が蔓延している。この傾向はパリ症候群の類である東京症候群を生み出す原因ともなり、遠勝りの効用追求を実質的なスラム街での輝かしい自己イメージの喧伝で行い続ける、という自己偶像化をもたらす。元々この空威張り、虚栄という文化気質は、徳川宗家や天皇家が地方人の次男以降の掃きだめである町人・商人社会に深く植え付けたものかもしれない。西日本の様に東京に一度も訪れた事のないか深く知るまで住んだこともなく、テレビを通じて眺めた機会しかなく、このメディア上の嘘や自慢偏見を信じる衆愚状態にある人々が多数派の場所では、現実と幻想がいれかわっている。東京都民はこの種の仮想を詐欺に応用してきたし、今後もしていくつもりだろう。だが、大井川氏の目指す筈このメディアバイアス・媒体偏見による地域の外の人をだましたり欺いたりする慣習は、本当に賢明だろうか。はっきりいえばレモン市場問題にあるよう、情報の非対称性を明らかに悪用しているという意味で、期待値を過度にあげて実質が劣っている自己を売りつける、商業的にも詐欺に類した業者たらざるをえず、もし取引相手、ここでいえば評価する主体が愚劣であればあるほどこの種の偏見の植え付けが効果を持つのだというほかない。フランスのパリは、京都はどうなったろう。観光客だらけとなった末に、経済的に凋落した、もしくは落ちぶれつつある。これが近い将来の東京である。情報戦略上、間違った方向性をとってきた為、必然的に没落する。実のない宣伝は害毒である。いや、実があっても宣伝は害毒なのだ。堅実な商業者は堅実な取引相手を選好するべきであり、それはいわゆる地元客や固定客が殆どだろう。嘗て京都にも、祇園という高級遊郭でに過ぎなかったかもしれないが、一見さんお断りという慣習があった様に言われてきたが、現在の商業主義化した国際通俗的な山城国にその面影はない。その種の戦略は、目先の観光収入に蹂躙されて消し飛んでしまった。
 橋本氏の執っていた情報戦略は、彼自身の意図と一致していたかどうかとは別に、全く正しかった。それは行政面でも情報非対称性を生み出し、常に県民優位になる様な受信優先体制を構築してきた。大井川氏は何を宣伝するというのだろう? 東京都民が愚かにも行っている類の、とるに足らない自慢だろうか? 勿論、ひろいあげれば県内にも、他国や他県と違いのある有用な物品やら情報の束やらはごろごろ転がっている。そしてそれを何らかの意味で商業と結ぶことも、意図してやれば多少あれ可能かもしれない。だがこの種の宣伝はわが県に不利な結果をもたらすと断言できる。一般的な県や地域は、中程度の情報非対称性があるに過ぎないだろう。またマスメディアを持つ主要都市は、発信優位の情報非対称性をもっているだろう。比べてわが県の優位性は受信優位の県環境にあったのだ。県外人がどれほどわが県を誤解や偏見で侮辱して差別してきていたとしても、それらが県内の情報のうち何らかの面が、最も他県民の為になる場合ですら、わが県の或る個性に有利でない場合、情報非対称性が存在する方が有徳なのだ、と判断できる。現実の経験で、県外人がわが県の何らかの面に否定的な態度をとっていたとして、その人が何らかの意味で有利になるだろうか。もしそういう態度をとっていたとしたら、その人はわが県について殆ど何も知らないか、保守性または一般的な失敗を示している何らかの点を、新しさへの狂信や反対例から比較して侮辱しているにすぎないのだ。
 詐欺の反対概念が堅実だとすれば、地域への肯定的偏見が初めからない方が、明らかに実力を証明し易い。この意味で受信優位の情報環境を今後も構築していくべきでしかありえない。日本国民一般が今後も、茨城や北関東への差別や偏見を強化していき、京都や北海道・沖縄への逆差別や贔屓感情を更に極端に持ち続けていく方が、実際にはわが県と県民の利益や幸福にとってプラスなのだというべきだろう。この結論は、確かに常識的な見解とは矛盾していると思えるかもしれないが、この課題の本体に見いだせるのは日本の情報環境における政治戦略の差異なのだ。
 更に次の時代を見据えた分析をここから述べれば、今後、日本国の各地は経済衰退期に当たって少ない利益を奪い合う構図に入っていく。その中では他県への敵意が顕在化し、これまでとは比にならないほど他県からの搾取が横行するだろう。当然この市場闘争を前提とした時代にあって、他県民にその地域の情報が知られている事は不利でしかなく、そのばあい共有地の悲劇が起きる。そして国際経済環境も変容の為、国内取引の機会費用が増大していく。つまり自国民への差別偏見による機会費用の節約という悪しき慣習はますます役立たなくなっていくのだ。偶然、北関東は情報障壁によって県外国民による機会費用的な取引状況から多かれ少なかれ守られた構図にある。いわばブランドがないことが有利な条件をもたらしてきている。市場における競争が激しくなるとは、ますます詐欺と堅実の間で費用対効果が試される過程なのであり、ブランド依存の企業は淘汰され易くなる。既存のブランドイメージを利用して利益を占めようとする傾向の自治体は、確かに一定の有利な条件から出発しているかもしれないが、それは過剰評価されるという前提にあるのだから、徐々に凋落する可能性が高くなるのは否めない。経営学でいうhalo、gain、loss効果(halo・ハロー、後光:何らかの特徴が全体の印象に影響。gain・ゲイン、得:最初の印象が悪いほど相手のプラスが目立つ。loss・ロス、損:最初の印象が良いほど相手のマイナスが目立つ)について言及すれば、茨城の実が優れていればいるほどそれを卑下や謙遜し、相手側に低評価のhaloという幻惑を持たせておいた方が得し易い。だから最も高徳なのは、gainを究極する様な、無意味で害のない悪印象のhaloで自己隠蔽しておくことなのだ。既にこの点については完成段階にあり、あとは実質を強化していくだけでいい。行政については全く発信力を抑制し、飛耳長目のあらゆる情報収集とその適切な管理に特化しつつ、宣伝は県民自身の利益になる範囲のみで民間人による市場原理に任せておくのが最も賢明なのである。沈黙は金、雄弁は銀こそ行政人についても当てはまる最善策なのだった。そして橋本氏はこの黄金律を知ってか知らずか踏襲していた。だから今回の選挙で県民のうち大井川支持者である2割は、単なる多数政治狂信者であるか、自己利益を公的忠義より優先する悪意の裏切り者であるか、自公の喧伝活動に扇動された愚民だといってもそれほど外れてはいないだろう。


2017年8月28日

茨城県内の職場

 職住近接が自主出生率の向上に繋がる以上、茨城県内にできるだけ多数の職場を作り出す事が、わが県の経済成長率を高める事になるだろう。対して東京圏との交通はできるだけ遮断するべきだろう。こちらはストロー効果によって県内経済を沈滞化させてしまう上に、犯罪率の上昇や低俗化、また郊外からの通勤というロスタイムによって出生率まで減少させ、他の東京圏自治体と同様の失策となるのだからだ。


大井川県政について

 橋本氏の功績はどれほど強調してもしすぎはないだろう。明らかにこの県がここまで発展してきたのは彼の有能さがあってこそだったのだし、現に東海第二原発による致命的被災から免れているのも彼の功績に他ならない。特に農工両全の潮流が果たした質実剛健な県政は、彼の茨城県に対する深い愛と思い入れを示しており、今回の選挙結果をみても総じて商業者に偏った都市部しか刷新を求めていない傾向にあったという意味で、中央政界に及ぶ経済強者の横行に対して水戸徳川家の思想を受け継ぎ農本的に全県民あたりの不公平を正し、堅実な県政によって地固めをした素晴らしい公選王政の期間だったというべきだろう。
 対して現状の大井川氏の政策理論は、水戸、日立、筑波の各商業中心都市が主に求めているだろう新産業、つまりは彼らの脳内ではIT業なのだろうが、そこへの政治的助成や何らかの補助政策を喚起するものだったといえる。経営学によれば、後発者にとって模倣は創造より費用が安い。この意味で、大井川氏は自民党と経産省をはじめとした官公庁に何らかの口利きをし、茨城を東洋のシリコンバレー化するつもりだろうし、実際にそれは筑波界隈等で可能かもしれない。現実にそれを推進するよう早速、大井川氏に県民は圧力をかけるべきだろう。この意味で農工両全の潮流を脱構築する可能性が大井川県政にはあると捉えられ、それは日本政府が日本経済全体の沈没中に望むところでもある為、自公政権は茨城県民に恩義があるうちに、茨城県域へのIT特区の設計に全力を費やすべきだろう。
 今後の先進国経済は金融とITを中心に成長していくことは明らかなのだから、農工業に関してはGDPに占める割合が更に減っていくことを前提に、省力化を図る方針に進むべきだろう。最少人数で最大の利益を図る事が農工業の今後の方向性であるべきで、効率を求め機械化や自動化を更に推進するべきなのだろう。第六次産業といわれる高付加価値的な農業、また農家を脱農協により会社化するといった方向については理論上可能としても、英仏米、或いはブランドに依存していた夕張市の様な先例を見る限りは、こちらは各種の県内農業政策上の規制緩和や民営促進策による自由競争市場に任せるしかないのだろう。グリーンツーリズム、或いは田舎住まい、週末の農村体験等の需要については、県民側の幸福に寄与し利益になる範囲でのみ実践するべきだろう。
 問題は、これらの新政策のうち、IT業をシリコンバレーの模倣によって仮に成功させたとして、それは模倣都市、つまりkitschな第二カリフォルニアにしかならないということだ。勿論それでも満足だという人もいるだろうが、私にいうことができるのは、シリコンバレーのIT技術者達はITを目的にああなったのではなく、アメリカのpragmatismに基づいて資本経済に適応しようとした結果、最も利益のえられる分野に集積した、ということなのである。しかもはじめはスタンフォード大学辺でショックレー研究所にいて軍需の下請けにあずかっていた人々が、のちのインテルなどを興して。だから茨城県政が産業育成面で今後なすべきなのは、実は模倣そのものではなく、またITの追従でもない。士農工商のどれであれ、単に利益の最大に上がる分野の市場を最大限に伸ばすこと、つまり国政県政が何らかの規制によって民間人の利益追求を阻害しない様にするばかりか、その種の高利益分野を減税によって集積することができるにすぎないのである。勿論これは調整、或いは福祉に対して格差拡大として働くものでもあるから、県民の幸福度からいえば累進課税と医療介護・教育・生活保護によって世帯所得の平準化を図った方がよいのであって、矛盾を孕んだ考え方だ。シリコンバレーの闇まで模倣する事なしに、即ち格差拡大を避けながら更に高利益率の産業構造に県の経済界全体を推移させていくのが、大井川県政に求められている課題なのだということができる。この格差は少なくとも県内の地域間、世代間を問わない。主に所得格差についていえることだろう。
 一言でいうと、茨城県は経産省と協調しながら県単位でBI(Basic income)を実験し(つまり社会保障の一本化によって再分配時にも徴税時にも節税し)、所得格差が開きすぎない様にしながら、シンガポールやシリコンバレーそのものより進んだ形で企業と個人に大幅に減税を行ったIT特区、金融特区を県内の特定地域に集積させる事で、高付加価値な新産業の誘致を進める事が有益なのだろう。結果、世界から安定した生活を求めてやってくる人口増大の効果も得られるはずだ。この政策が成功したとき、北欧型の高福祉な幸福な国家と、米国型の強い産業がわが県にあって調和しうるかもしれない。専らこれらの新産業と既存の十分強い農工業の両立を図りつつも、日本又は世界全体で最も所得の高い地域になる事をわが県は目標にするべきだろう。
 また懸案の魅力度問題については、今までの分析から県外人の無知が原因であり、その県外の無知はわが県に対外発信のマスメディア、特に地上波テレビ局がないため、ステルス的効果を持っている。そしてこの点は、皇居や政府があり人口最多な首都として、国内に対して傲慢な差別感を持ち、特にメディア依存度の高い東京都を含む南関東や、全体として所得が低く国内旅行に使う余裕もない上、そもそも東京以外の東日本に対して無関心な西日本に、茨城県そのもの(と北関東)への更なる誤解を招いているということだ。日本のネットの衆愚民度は真実を探求するより、自分達に都合がいいサイバーカスケード現象による炎上を広告収益を目的としたマスマーケティングとして好む為、このステルス性は東京以西の衆愚による、誤解に基づく偏見や地方差別的報道とその鵜呑みという状態をもたらしている。これがこれまで分析できたことであった。そして橋本県政にあってこの現象に対して県庁によるネットテレビ(いばキラTV)の開局や、おはよう茨城の打ち切りと磯山さやか氏による「旬刊!いばらき」による発信、銀座のアンテナショップ・茨城マルシェ等での情報展開を試みているが、これらはマスマーケティングとずれがある為、西日本の大衆一般に訴える内容ではなかった、ということになる。魅力度調査(ネット上の偏見を集めた類のもの)をしている東京の小さくて底意地の悪い犯罪的会社・ブランド総合研究所の田中章雄によれば、わが県(とおそらく同様の傾向を持つ関東北部)に関する情報をほぼ全く持っていないし関心もないのは西日本だということがわかっている。また東京圏は「都会」に憧れてでてきた地方人の塊であることもあって、農地面積が日本一の茨城を(彼らの故郷であった、何らかの事情で捨ててきた)「田舎」としてカテゴライズし、主に合理化(酸っぱいブドウの論理)による捻くれた物の見方で蔑視なり差別的言辞を吐くという悪質なもしくは低俗な傾向も持っている。これらすべての事情を顧みると、大井川県政が魅力度問題に対してどんな解決策をとろうとするのか注視する必要があるといえるだろう。ニコ動(ニコニコ動画。動画投稿のウェブサイト)に関係を持っていたことを利用して、ネット衆愚やニコ厨(ニコニコ動画のマニア)に何らかのアプローチをするのかもしれないし、その種のネットテレビ関連の発信局を強化するのかもしれない。ただ、私としていえることは、茨城のもってきたステルス性は孔子や孫子の哲学を水戸学を経由して延伸させてきた根強い徳目によるのであって、それは単に今の時点においてのみならず長い目でみても、わが県の得であると考えられる。情報の非対称性が茨城側に有利になるよう県全体の情報条件を維持促進するべきなのだから、発信力を強化せず、むしろますます受信力を再強化するべきであって、あらゆる情報収集機関をわが県に集めていく方向にさらに進んでいくべきだと思う。マスメディアは衆愚に効果があるが、賢者へはそうでない。欧米側でマスメディアをうのみにする傾向は非常に低く、単にG8先進国では日本だけが扇動に弱い衆愚社会なのである。日本の県であるからこの傾向に合わせるべきだと思うかもしれないが、独自性とはその種の横並びを拒否する事なのである。少なくとも、西洋でも東洋でもマスメディアの扇動に弱いというのは欠点なのであり、県民自身が批判的思考力、懐疑的な物の見方を身に着けている上に、発信より受信を選好する傾向の徳目を有しているという事が望ましい文化性向に繋がると自分には思える。この最後の発信力の抑制については諸意見あるだろうが、「沈黙は金、雄弁は銀」という諺がある。何らかの無知に基づく偏見によって、非科学的なり不道徳に誤解する県外人が侮辱的態度や差別をしてくるとしたら、彼らが損害するだけである。我々茨城県民側が科学的に正しい情報を受信し取捨選択でき、県内外で自分達の功利性(即ち県民及びその他の人類の最大幸福)に合致する様に道徳適応できることが合目的なのである。
 大井川氏は日立出身なこともあり、これを機に茨城県を元来のひたち県に戻す事を主張したい。漢字は常陸(ひたみちに由来したもの)と日立(義公によるもの)があり、風土記によれば浸しにも由来があるが、単にひらがなでいいのではないだろうか。それは全国で唯一のひらがな県名にもなるし、日立製作所によって国際的にも有名だからだ。


2017年8月24日

公共施設の屋上のテラス化について

 災害公営住宅や市立図書館、市民病院の屋上は、市民の憩いの公共空間として簡単な植栽をし、椅子とテーブルを設置しテラスにして誰でも気晴らしができるよう開放するべきだ。

国道を渡る架橋

 磯原町から図書館の前を通る遊歩道は、国道を跨ぐ箇所をも橋の下を潜らせるか、別個に歩道橋を設けるかして、天妃山、雨情記念館、磯原海水浴場、二つ島、大津漁港、六角堂、五浦美術館と回遊できる様にするべきである。国道を渡るのは現時点では危険だからだ。

回天神社の世界遺産登録

 水戸市と茨城県は回天神社を、偕楽園、弘道館と共に世界遺産登録するべきだ。回天神社は、欧米列強の植民地化の脅威の前で、近代化に際して自発的な政治革命行為により、日本はもとよりアジアで最大の犠牲を払ったのが貴族の義務を果たした水戸藩であると人類の歴史遺産として証明しているのだからだ。

2017年8月12日

TXにまつわる東京圏との切断論

TX、茨城空港延伸で期成同盟会設立へ 小美玉と周辺5市

この手の東京圏との接続は、茨城県にとって不利で有害である事を認識するべきだろう。ストロー効果を避け都内との交通を遮断する事、勿論、新幹線や幹線道路なども水戸との接続を最優先し、東京圏との交通はむしろますます不便にしなければ県内経済の発展はありえない。県南自治体は目先の利益に飲まれ結果的には、他の衰退地方、或いは東京圏の自治体と同じ失敗を犯しているのに自覚していないということだ。

 茨城に望ましい交通網は県内の中心都市とその衛星都市に対する利便性が最大で、接続性を高める自治体はこの中心都市、今日でいえば水戸市より規模が小さな都市でなければならない。国家にとってもこれは然りで、首都圏において実際には交通可能でありながら関東平野の大部分を占める上に都市計画の分散がうまくいき人口密度が低い状態の茨城が東京のスプロール、虫食いに毒される事は、首都圏内における政府機関の分散(これが集積の利益からいっても最も望ましい未来である)に対しても無意義だというべきだ。つまり茨城空港と幹線による接続性を高めるべきなのは水戸市、いわき市、宇都宮市、前橋市、そして日立市の方なのだ。勿論つくばと茨城空港の接続に需要があるのは明らかだが、これに伴う県内にできる幹線沿いの衰退は免れない。便宜的にこの不利を解消するには、TXではなく茨城空港と筑波の直通シャトルバスを運用する方が合理的だといえるだろう。退廃した東京都との縁を切る事、これが必要だ。



偕楽園を世界遺産へ

 千波湖と弘道館、好文亭を含む偕楽園を世界遺産に登録するべきだ。これらは私邸の一部を公に開放したものとして世界一の広さを持つ都市庭園であり、東洋文明における天下の先駆けとしての近代化への自主的な先駆意志、好文木としての学問の志、愛民思想に基づく戦時への備えなど梅にまつわる故事からも世界遺産になるのに全くふさわしい普遍性を持つ精神的価値を有している。「尊王攘夷」の思想、つまり『大日本史』に由来した(易姓革命のない)万代一系による独自性の自覚や、攘夷論にみられる欧米植民地主義への世界史的な意図に基づく抵抗の意思は、思想史における重要な独創性と根本的な転換点を示しており、近代化した日本の独立を保つ原因となった文化遺産であると、偕楽園(弘道館を含む水戸市街の、水戸徳川家による歴史遺産)は評価される。この考えは欧米列強による世界大戦や国連での人種差別を終焉させる最初の起点となっている事が、偕楽園(弘道館を含む)のもっている真の意義である。有色人種への差別や搾取、奴隷化、迫害に対する勇猛果敢な抵抗、そして水戸武士道の根本にある世界平和主義。この様な精神的意義を英語や中国語を含む世界の言語で、或いは実体験によって世界人類すべてに知らせる事が、ユネスコや日本政府が茨城県及び水戸市と共に偕楽園を世界遺産に登録する重大な地球的文化行政上の義務である。


2017年8月7日

東電と田中章雄への行政訴訟論

 東電による外部不経済である「電柱の景観に対する害」「電柱の災害時の危険に対する無策の害」「災害時の電柱による害」を、諸外国では電力会社による公害として無電中化を進めてきた事例から、東電の費用負担による市内の無電柱化を求める行政訴訟団として、北茨城市が原告となって東電に賠償させるべきである。更に、水沼ダムの底や北茨城沖での放射性物質の堆積、及び市内の海水浴場や市内小中学校等における放射線データとを証拠データとして、市内で起きた観光客の減少、観光収入の減に関しても、同様に市内原告団を形成し、東電に賠償させるべきである。
 前者の賠償費用は当然徴収されねばならず、即ち東電の費用負担で市内の無電柱化を果たすべきなのであって行政すなわち被害者である住民の費用負担によって行うことは明らかに不正なのである。更に市内で増大してきた観光客減に関しても責任は、風評及び市内の放射能増大による実害をもたらした、東京電力にあるのだ。これらを行政努力によって解決しようとするなら、先ずその費用負担は、税収からなる国民政府の側でなく、東電側にあるのだと認識しなければならない。
 これらに加え、ブランド総合研究所(〒105-0001東京都港区虎ノ門1-8-5)の田中章雄を被告人として、北茨城市が茨城県代表として魅力度調査による10年以上にわたる経済被害に対し、行政団体(即ち法人格としての県民)への名誉棄損として行政訴訟を起こし、賠償をとる必要がある。北茨城市をはじめ茨城県において魅力あるとみなせるあらゆる証拠を集めて、田中章雄が偏見による少数者のネット風説をさも、国民総意かの如くにマスコミ各社に売りつけ流し、300万県民へ与えた心理的・精神的・経済的・政治的名誉とブランド棄損に関してはっきりと、裁判において責任を取らせ、少なくとも数十億円以上の賠償を確保するべきだろう。

2017年7月29日

北茨城美術収集促進条例案

 北茨城市は、市内で美術品への相続税を0にし、また五浦美術館や市内の私設美術館・画廊等への美術品の寄付については国内外の市価分の税控除を図る条例をつくるべきだ。この制度がうまくいった場合、茨城県についてもこの条例を充てるべきである。

2017年7月26日

龍ヶ崎市名について

ざっくり言うと

  • カッコ良いと思う「市の名前」をランキングで紹介している
  • 1位は茨城県南部に位置し、東京へ通勤する人も多い龍ケ崎市

1位は茨城県の「龍ケ崎市」!

茨城県南部に位置し、東京へ通勤する人も多い茨城県の「龍ケ崎市」が堂々の1位に輝きました。
「龍」という文字が入っている事、「りゅうがさき」という語感が、見た目にも音的にもカッコ良いと思われたようです。
正式に「龍ケ崎」という表記なのですが文字の画数が多いからか、「龍」が「竜」に置き換えられたり、「ケ」が「ヶ」になっていたりと、市内でも表記が安定しないという不思議な市名でもあります
http://news.livedoor.com/article/detail/12914959/
https://web.archive.org/web/20170726085421/http://news.livedoor.com/article/detail/12914959/
 茨城県龍ヶ崎市がこうしてかっこいい市名で1位になったため、この市名を県内外で宣伝する際に用いる必要があるといえる。龍ケ崎コロッケや龍ケ崎トマトがブランド名として有効なことが証左される。

2017年7月20日

茨城ソーラーシェアリング促進法

 茨城県と北茨城市は、水戸電力と協働で茨城ソーラーシェアリング促進法を作り、畑や田んぼ、駐車場、家屋とビルの上にソーラーパネルを設置した場合の税控除と、水戸電力への売電分を減税する法を通すべきである。但しこれらは既存の土地家屋ならびに農地のソーラーシェアに関してあてはめるべきで、自然破壊については補助しないようにする。県や市の税収が直接上がる結果にはならないかもしれないが、他に取られている電気料金を水戸電力へのクリーンエネルギー余力にできる上、県内のパネル設置業者と工事への公共投資になり、しかも県内個々の家庭の平均所得が上がることが確実である。
 これによって農地面積が1位で県土が平坦かつ日本最大の関東平野を持つ特徴を生かし、自然エネルギーの先進県として世界を最も先駆けることができるだろう。

2017年7月19日

廃炉に関する分析

 先進国で最大の原発立地国フランスは、会計検査院の勧告により最大17基の原発の廃炉を発表最大17基を廃止すると発表した(NHK BS)。19箇所にある58基のうち老朽化した原発から廃止する。これにより原発による電力を25%削減できる。
https://twitter.com/yuiyuiyui11/status/885096091753918464
 原子力規制委員長・田中氏「再稼動の判断には関与しない」
 内閣菅官房長官「原子力規制委員会が安全性をチェック、その判断にゆだねる」
 原発立地自治体・薩摩川内市の岩切長「国が責任を持って再稼動を判断すべき」
https://twitter.com/MabANmD35bQyIT0/status/885141028310614016
 これらのニュースからいえることは、日本では責任をおしつけあってなあなあにし、責任転嫁する事による保身を図る政治が行われており、全国で最も老朽化している東海第二原発の再稼動の可否についてすらそうなのだということだ。そしてこの国民性は世界大戦以前から続いてきたものであり、決断力のなさ、責任を取って身を切る覚悟のなさ、集団責任論、責任回避、保身、逃げ、危険回避傾向などがあてはまるだろう。天皇家が敗戦時に保身を図って存続した事も、全くこの国民性に合致している。一言でいえば幼稚なのである。尤も、共謀罪を手にした安倍内閣という強権的な独裁政権が支配中の国政に対して反抗的な言動が危険である事は確かなのだが。
 老朽原発の危険性が明らかの上に原子力事故が複数回起き隣接自治体では世界最悪の大公害が起きたばかりなのだから、脱原発を図る方針転換にいたるのは誠に自然な事なのだが、日本国民の民度(特に西日本)からいって、この種の進歩的な言動を抑圧・弾圧しようという衆愚的な保守派がいることもまちがいない。だが謝った見解を恥じない悪意ある衆愚からの風評を気にするより、わが身の安全を図るべきだろう。すなわち日本で唯一、廃炉に全面的に成功した自治体(そして最も先に商業原発に成功してきた自治体)が茨城となるよう率先垂範すべきである。
 東京五輪をかかえた東京都庁は、原発事故の恐怖をかかえているのだから、首都圏にある老朽原発を廃止せよと茨城が(東京や主要マスコミに)強く出る事は都民の利益にも叶うと説得し、また当然の事ながら日本ですら廃炉に成功する可能性があると実証するのは国益にも叶うと政府を説得するべきだろう。この際、東京には主につくば圏への人口分散促進案を要望し、政府には廃炉後の代替産業に関して、人口減への対策として東海村から県北地区へのIT特区と金融特区(投資家育成特区)の申請要望を図るべきである。


県北成長案

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52032?page=2
石破 (略)
また、基本的に地方のほうが出生率は高いのですが、所得が高いわけではない。一番所得の多い東京の出生率が最も低く、一番所得が少ない沖縄が最も高いんですね。

では、出生率の高さは何と相関関係があるのか。この謎を探っていくと、どうやら一番相関係数が高いのは、平均帰宅時間と通勤時間なんです。

東京や神奈川みたいに、往復1時間半も電車やバスに乗っていると自由に使える時間が減るので、子供をつくる機会も少なくなってしまうわけです。

 この記事でわかることは、県北の経済成長を図るには、水戸・日立・つくば・いわき等県北圏の主要都市のとの利便性の高い(移動時間が短縮でき安価で大量に輸送できる)交通網を整備するか、県北地域自体に企業誘致活動をするか、どちらかだといえる。


2017年7月10日

海岸線の斜面の手すり

 下桜井海岸の新しい堤防は、道と傾いた下水に続く斜面の間に何の手すりも境もなく、地面の色も同じために、高齢者や子供が転落したら事故になる可能性があるため、地面の色をかえるか、警告色で斜面部分との境を塗るか、手すりを境につくるべきだろう。

2017年7月7日

茨城美術免税制

 茨城県政は県内美術館への「美術品」の寄贈を市場査定額分だけ免税する、茨城美術免税制度を設けるべきである。既に米国で同様の法がアメリカ美術を牽引してきた事を明記するべきだろう。

2017年6月29日

ひたち県改称案

 いわきFCに倣って茨城県の名称をひらがなの旧国名「ひたち県」に改称するべきだろう。それによって強制的に目立つことになるからだ。


2017年6月11日

エネルギー多岐化

 東日本大震災時に電気供給が一時停止した事例からも、わが県わが市では、最低でも緊急車両はガソリン車を含めて保守した方がよい。エネルギー源の多様性、多岐性を確保する事が望ましい。
 オランダで2025年までに電気自動車以外の販売を禁じるらしいが、明らかにいきすぎというべきだろう。

2017年5月28日

世代間調整福祉論

 老人の介護施設や奉仕を充実させつつ、若者へ経済的支援を充実する事が、適切な福祉政策である。世代間所得調整を要とし、県がタンス預金を公共投資や、若年者への経済支援策に回すべきなのだ。この逆をいっているのが東京で、2020年に老人が過半となった時点で介護施設が不足しており、大量の非正規雇用者をかかえこみ、不幸な社会となるだろう。

芸術政策論

 京都では「文化」という用語で、過去の伝統工芸、建築遺産等を観光・宣伝資源にしているといえる。文化庁も古典に関してこの種の業務が主だろう。これらは過去の記録に関する後ろ向きの見解を固定化する役割をもち、創造性に対しては抑圧的な働きを持つだろう。わが県ではかれらを反例に、「芸術」あるいはart(技)によって創造的、創作的、独創的な営為を奨励するようにすればよい。

廃炉論

 東京都民は個人の利益以外は基本的に追求しておらず、個々の東京都民の利害損得以外によっては行動しない。東海第二原発は「東京都民個々人にとって損害である上に、東京都民が保有する原発である」という喧伝活動によって、都民を誘導して停止する以外に方法はない。この種の情報をマスコミを通じて都内に流布し、東京五輪はじめ東京・横浜が壊滅するという事実で、廃炉に向けねばならない。

2017年5月14日

『常陸国風土記』前文

 常陸國司解 申古老相傅舊聞事
 夫常陸國者。堺是廣大、地亦緬邈、土壤沃墳、原野肥裄、墾發之處、山海之利、人人自得、家家足饒。設有。身勞耕耘、力竭紡蠺。者。立卽可取富豐、自然應免貧窮。況復。求鹽魚味、左山右海、植桑種麻、後野前原。所謂。水陸之府藏、物産之膏腴。古人曰。常世之國、葢疑此地。但以。所有水田、上小中多、年遇霖雨。卽聞。苗子不登之難、歳逢亢陽唯見、穀實豐稔之歡。歟。

 訓読:それ常陸の国は堺これ広大にして地もまたはるかなり。土壌うるおい原野肥えわたる。墾發するところなり。山海の利、人々自得す。家々饒に足る。もし身を耕耘に労い力を紡蚕につくす者あらば、即ち豊かに富取るべくして立ち、自ら然りして貧窮を免れるに応ず。況や鹽魚の味を求め復すに左は山、右は海。桑を植え麻を種するに後は野、前は原。いわゆる水陸の府蔵、物産の膏腴。古人曰く常世の国、けだし疑わんこの地と。ただ以てあらゆる水田上すくなく中おおし。年霖雨に遇わば即ち苗子登らずの難を聞かん。歳亢陽に逢わばただ穀實豊稔の歓びを見んか。

 現代語訳:常陸の国すなわち茨城県のあたりは広く、はるかな大地である。その土や小山はうるわしく、原野は肥え渡っている。人々が開墾をはじめれば海の幸にも山の幸にも利益があり、人々はそれを自ら得ているのだから茨城県の家々の食事はとてもゆたかで、満ち足りている。もし田畑を耕したり、蚕の糸を紡ぐ者がいたら立ちどころに富を取ることができ、すぐさま豊かになる。結果として彼らは自然に貧窮を免れるのだ。それどころか茨城県の人たちが塩気のある御数やら、魚やらの味わいを求めにかえってくれば、土地の左手は山でしかも右側は海、どこにいても食材が手に入ろうという世界である。彼らが桑の木を植え麻の種をまこうとしたら茨城県土の後ろは野原、前は草原であり、この県には水産業のみならず農林業にさえ、どこにでも適した土地があるといえよう。いわゆる水陸の府蔵といい、物産の資源があぶらのように滴っているのだ。昔の人がいった常世の国、すなわち天国とは茨城県のことなのだろうかと疑うほどだ。但し、一ついえるのは水田に上々のものは少なくむしろ並程度のものが多いので、ある年に長雨が続くと、苗が育たないことがある。それが難点だと人々から不満の声が聞こえる。よく陽射しの照る年に逢えれば、ただただ穀物の実りは豊かで、いかに喜ばしい事か。

2017年4月25日

水戸納豆は愛国食品である

 糸引き納豆は世界中で基本的に日本人にしか食べられない、日本発の民族料理であるという観点から、「納豆は愛国食品である」として、日本の保守層に大いに宣伝し販売していくべきだ。朝鮮半島の人々、韓国人や北朝鮮人はじめ、中国人には基本的に食べられない食品であるから、納豆を食べている人は日本人であり、愛国者であると、安倍内閣下の農水省からお墨付きをもらって、ブランドとしての水戸納豆の販売益につなげるべきである。

2017年4月8日

心のない国日本

 青森の高校を卒業後、ひとり、蒸気機関車の夜行列車に揺られてきた。早朝、福島の平駅(現いわき駅)付近で車掌に起こされた。「次は水戸ですよ」。外を見ると、地吹雪だった青森とは別世界。きれいな海岸線に田園風景。新生活への不安と故郷を離れた寂しさが重なり、涙ぐんで車窓を見続けた。18歳だった。
 学生服に長靴姿で降り立った水戸駅。右も左も分からない中、茨城弁のおばあさんにバス停まで案内してもらった。勝田市(現ひたちなか市)市毛いちげの日立製作所の寮では、全国から来た先輩たちと共同生活。休日には、県内出身の同僚から「俺の実家に行くべ」と誘われ、家庭料理に涙した。5年後、縁あって日立市出身の娘と結婚、3人の子供に恵まれた。多くの人に支えられ、ますます茨城が好きになった。
 今でも生粋の茨城県人に囲まれ、働かせてもらっている。なぜ、本県が魅力度ランキングで最下位なのだろう。美しい山や川、何よりも優しい人たちがたくさんいるではないか。そう心の中で叫んでいる。
(茨城県日立市 会社役員 豊田修造 65歳)
――『茨城新聞』2017年4月8日、23面、県民の声
この様な記事を読んでも、日本国民、茨城県外人という「心のない人々」は、わが県を辱めて平気でいるのだ。日本国は心のない国である。

2017年3月21日

納豆早食い世界大会についての留意事項

 水戸納豆早食い世界大会は、滋賀県のJA東びわこ(本店・滋賀県彦根市)が同市安食中町の彦根総合地方卸売市場で開いた農産物PRイベント「ふれあいフェスティバル」「おにぎりの早食い競争」で参加者が2016年11月13日にのどにつまらせ救急搬送され、3日後に死亡した事件を反例に、健康に留意し、高齢者か年少者、あるいは健康にさしさわりのある人の参加を制限し、かつ、万一のどにつまらせたときの救急体制を安全値がさらに高くなるように日々構築していくべきだろう。

おにぎり早食い競争参加者が死亡 滋賀・JA催し、喉詰まらせ

 JA東びわこ(本店・滋賀県彦根市)が13日に同市安食中町の彦根総合地方卸売市場で開いた農産物PRイベント「ふれあいフェスティバル」で「おにぎりの早食い競争」に参加した同県甲良町の男性(28)がおにぎりを喉に詰まらせて救急搬送され、3日後に死亡していたことが21日分かった。

 JA側の説明によると、同競争は近江米のおいしさを知ってもらう目的で開き、15人が参加した。おにぎり5個を用意し、3分以内に食べられる量を競うルールで、男性は5個目を口に入れ終わった後に倒れ、たまたま居合わせた医師や看護師が救護して救急搬送され、16日に亡くなったという。

 JA東びわこは「アクシデントが発生し、午後のイベントを中止した」とする「お詫び」を14日付でホームページ上に掲載した。担当者は取材に対し「遺族には誠心誠意対応している。死亡について公表する予定はなかった」とし、「(喉を詰まらせないよう)お茶を用意するなど安全に配慮しており問題はなかったと考えている。事故が起き残念。今後このようなことがないようより一層注意を払いたい」と話した。『京都新聞』【 2016年11月22日 06時53分 http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20161122000010



戦略論

 東京以西を仮に西国か関西と定義すると、東京を含む西国・関西に対応するには完全に勝利するか、間違った方向で勝たせる、どちらかしかない。例えば経済力や学力体力で勝る事、民度で勝る事は正しいとわかるかもしれないが、犯罪率や虐め発生件数で負ける事も関西西国に不利な正しい戦略である。なぜなら西国は弥生民族の侵略者としての由来から日本国内で遺伝的に少数派であって増殖戦略として自己利益優先的で勝てば官軍と思っているにすぎないからであり、東京圏はピラミッド状の公徳についての等級を仮定したとき低教育で生活可能な労働階級の構成人数の多さから正否や徳に気づかない驕れる衆愚にすぎないからでもある。
 魅力度は宣伝性の観光指数であり、どちらかといえば相手に全てを知られたり内情を見抜かれたりするより県外人に誤解させて共有地の悲劇になる事を避けたり、知られない為に情報の非対称性を生かし政治的優位に立つ方が正しい戦略である。そして質の高い観光集客、高級客およびリピーターが多い為に評価力の高い地元客に宣伝戦略をきりかえ、大衆的な一見向けの外来観光市場、つまり浮動客向け大衆観光市場は原則として捨てていく事が有益となる。魅力度が低いと大衆及び西国に思われている場所を選り好む高質な固定客は茨城のブランド化に際しても有利な標的となるだろう。端的にいうと、支払いや趣味の良い顔見知りに対して極めて高品質な親切を行い、そうでない大衆的な外来客の風説(東京の会社による西国人の一部のネット衆愚風説を集めた魅力度調査や東京都のキー局報道の類やそれらに煽られた衆愚)に一々対応せず原則無視する事が重要である。なぜなら、これらの虚偽の風説は、誤解の面紗によって却って善意で美質な茨城を神秘化させ、衆愚に対しては忌避効果を持つ上、ますます既にわかっていそうで知らなかった茨城県民や茨城県の本質に対しての二重性、つまり内国的な情報の非対称性を拡大させていくからだし、国内にも関わらず全く知らない、知られていないという事は、他の日本人に対して最大に有利なのに加え、外国人に対しては日本の持つブランド価値を初期状態で利用できるという点で、茨城人の立場を更に知恵ある者と化し、いわば茨城県の神格性に寄与することができるからだ。

2017年3月20日

若年層財政支援論

「成長と格差の縮小は同時にやるべきです。まず成長、その後に格差に対処するという考えは間違っています」
「日本は若年層を優遇する税制に変更すべきです。特に、資産が少なく、労働所得しかない若者を優遇すべきです。若者が多い非正規雇用の待遇改善も重要です。これは、格差の縮小だけでなく、人口増加につながる政策です」
「若い世代が子供を持つのを支援することは、日本の長期的な経済成長にとって極めて重要な課題なのです」(2016年2月2日(月) WBS、ワールドビジネスサテライト、テレビ番組)
ピケティ氏のこれらのせりふは、茨城県に関しても同様にあてはまる。県政は先ず格差の是正、そして若年層への傾斜的調整をはかりつつ、内部人口の自主出生による増大をめざすべきである。他方、つくば市にあまたいる外国人研究者に対して国際通義に照らし二重国籍を認め、帰化の支援を図るべきだろう。移民排斥におちいるのではなく、単に高齢者に偏った資産の若年層への調整、世代間格差の是正を行う必要がある。個人消費の半分は全人口の3分の1いる60歳以上世帯で占められ、個人金融資産1700兆円の8割は50歳以上が独占している現状で、すでに遅きに失しているにせよ、さらに手遅れになるまえに若年層への財政的経済支援は必須の政策だといえよう。

 日本に存在する金融資産1500兆円のうち高齢者が82.4%を保有し20代はわずか0.3%

茨城財政戦略論

 ピケティ『21世紀の資本』のr>gは、return of equity:株の配当、growth of economy:経済成長の略で、資本収益率>経済成長率というよりややこしい訳にされている。
 また、岩井克人『経済学の宇宙』(2015年)によれば、資本成長率とはr×s(sは恐らくsave of moneyの頭文字、貯蓄あるいは貯蓄率)で、ピケティの式は正確にはr×s>gであるという。つまり株の配当と貯蓄率をかけた値が、経済成長率より大きい、として当数式は考えられるが、実際はrs ところで、私の見解では、幸福な社会とはr≦g、gがr以上、つまり株の配当より経済成長が大きい、経済成長率が資本収益率以上であるような状態の社会である。そしてr>gである社会は不幸な社会だ、と定義できる。なぜなら後者は相対所得の開きによる格差にまつわる負の感情、痛みの感情であるねたみとか、地位財の低さによる惨めさを感じやすく、その裏返しとしてうらみ・resentmentによる村社会的な攻撃性とか妬む対象への集団虐めによる卑しい喜びが発露されやすい状態であるからだ。裏返せば、幸福な社会ではねたみが生じづらい上、以前貧しかった人達が相加平均的に、つまり殆ど等しい歩調で成長していくので、他者の幸を己の事のように感じる機会がふえるのである。調度、よい学校や部活でみなが努力し成績をあげていく、切磋琢磨の状態に近いといえるだろう。
 これらの議論は、究極のところ、アリストテレス『ニコマコス倫理学』でいう配分・調整的正義の議論に戻る。rとは配分、gとは調整の正義に関する観点だと考える事もできる。ピケティはフランス人だが、古代ギリシアの政治学的伝統を、マルクス『資本論』の搾取に関する議論、労働価値説を上空でとびこえて、bypass的に通過してしまいつつ、再び経済の議論に接続させているのだ、ということができる。だから、一部の論客はピケティが資本主義という経済論の趣旨を逸脱している、財政問題と混同している、よって共同体主義者・共産主義者・communistにすぎず、新自由主義とか自由至上主義・libertarianismとか自由主義の純粋経済論としての側面を越権していて、端的にいえば有利な立場であり続けられるはずの資本主義信奉者、株主に不利な論者にすぎない、と難詰しているわけだ。更にいえばピケティは英米ユダヤ的な個人主義に対する反論者とみなされているといえよう。だが上述の様、これは伝統回帰に過ぎない。アリストテレスは商売と財政が不即不離か、もしくは相見互い、互助的であるとみなしていたからだ。
 話を進めると、労働というものについて、私は次の様に定義する。労働には大まかに2つあり、生産労働と搾取労働が存在する。前者を生産、後者を搾取と定義する。そして生産とは農漁業と工業が該当する。いわゆる農工、つまり第一次、第二次の産業である。他方で搾取にはサービス・奉仕の業態を含む商業、不動産業、株・為替業が該当し、いわゆる第三次産業を意味する。これらのうち、生産にあたる農工業を市場に作物や製品を出す前の生業を純粋にみてとると、収穫のほか、物々交換や寄付が実質的な生産物の交換である。これらをここで無償所得と定義する。また商活動のうち、製造物の卸売り、小売、物品を介さない単なるサービスの提供、徴税にまつわる活動と行政サービスとしての福祉活動(ここには図書館や博物館、美術館などの行政機関での奉職、自衛隊や警察による防衛活動、宗教法人上の収益性のある活動、立法・行政・司法の全ての働きを含む)、そして貿易を、搾取と定義したわけだが、これはNPOによる非営利活動に際しても、集団の上下関係や能力差、そして主客の立場により、人が働く事によってより富んだ側がより貧しい側から金銭を移動させる場合が基本的に全てだから同集合に含むのである。もし微視的により貧しい側がより富んだ側から奉仕を受けたとし、それは寄付的・慈善的な活動とみなせるとして、全体として例外的であって、上述の無償所得の場合に比べて、金銭を介して継続的に何らかの富の不平等性を結果させるという意味において、対価を要求する意味で乞食、あるいは搾取という用語を労働価値説の定義から引いて、やはり同集合にあてはめよう(共産主義やマルクスへの偏見を持った人々がなんといおうと、或いはピケティがなんといおうと)。この搾取のうちにある商活動を勤労所得と定義する。また、搾取には他に不動産による家賃や土地代からの収入、そして株や為替における差額を売り買いのうちに儲けるか、株主配当をえる事による収入があって、これらを最後に、不労所得と名づける。まとめると、次の様な図にすることができる。
労働ー生産ー農工ー収穫、物々交換、寄付ー無償所得
   |ー搾取ー商ー卸、小売、奉仕、福祉、貿易ー勤労所得
         |ー不動産、株、為替ー不労所得
ここで、累進課税は所得の種別に不労>勤労>無償の順で、不労の方から大きく徴税し、無償からは限りなく免除しなければならない事がわかる。これを累進課税度、或いは累進課税の調整的正義と定義しよう。宗教団体への寄付は、宗教法人が対象である場合、蓄財による収益性があるとみなせるので、勤労所得にあたるという事になる。自営業者も営利性がある為に勤労所得がある。ここでは、金銭による蓄財が不可能である類の所得を、無償所得と定義してある。より厳密には、文化資本、非地位財的な資本、例えば土地資本だとか勲章、賞など何らかの名誉に関する資本、技術資本、人的資本など、蓄財性を換金可能な形態で保持している場合があるだろうが、これを「準資本」と定義し、無償所得の中で課税検討に値する例外とみなそう。資本とは資産とか株、より日用語ではたくわえといいかえることもできる。ピケティがr>gの不等式で指摘していたのは、利益÷投下資本によるreturn of equityが4~5%程度なのに対し、経済成長率は1.5%程度(1~2%)程度であるという認識による、不労所得>勤労所得>無償所得の順でより蓄える効率が高い、という分析だったのであり、これは配分的正義の理法であって、財政的には徴税による結果の所得調整をめざし、累進的に課税しなければならない。そして幸福な社会とは、無償所得、勤労所得、不労所得の順で実質的効用が得られる状態をさしている。今のGDPは企業の消費が、三面等価の原則、つまり生産・配分・支出の等価性を前提に算出基準とされているが、これは実際のところ、実の豊かさ、実質的な価値の効用性を測る数値ではなく、単に企業活動の活発性を意味にしているに過ぎない。特に無償所得に関してGDPの外にあり(磯原指標で示したように)、tax haven・租税回避地を国際的囲い込みでなくさない限り、不労所得に関しても余りあてはまらなくなっている。つまりGDPとは勤労所得の値に関するかなり曖昧な指標なのだということができる。
 アリストテレスの正義論における配分・調整の両正義は全体的・普遍的正義に対して部分的正義の枠内で定義されている。従って不労>勤労>無償の順に累進課税すべしとは、部分的正義のうち調整的正義に関する理論だといえる。なぜ累進課税度が必要かといえば、g≧rが多数者の幸福に感じる社会だからで、最大多数の最高幸福に該当する状態だからだ。脳科学の見地からいえば、前部帯状回は妬ましい他人を認知すると己に痛みを感じさせ、その相手の不幸で線条体が報酬系の快楽をもたらすという(放射線医学総合研究所(千葉県千葉市)による研究)。いわゆる人の不幸は蜜の味という諺に該当する脳の反応だが、r>gの状態では地位財を保有する超少数者が虚栄心を満足させるべく浪費し、顕示的消費に対する多数派は不平不満をねたみによって常に持ち続ける状態となり、不幸感が増す。北欧圏が社民主義、民社主義的な社民党の与党化によって所得の結果調整を行い、不幸感を感じにくい社会にしているのは、これらの見解をつぶさに見ていく限り、極めて賢明な事だったといえよう。対して米英圏はユダヤ財閥が主導してきた配分正義への極端な偏りが顕著な社会であり、この傾向はglobalismやAmericanism、或いは英語帝国主義、米国第一などの覇権主義的な傾向、Hegelismによって増長されているが、西日本の南西地区、薩長土肥は薩英戦・下関戦以来、彼らの利己的な社会構築を天皇に媚びるか天皇を駒にする形で継続してきた。自民党は薩長藩閥の明治寡頭政を内的に体現している、天皇帝国主義の野望を吉田松陰から陰に陽に引用している政党であるということができる。実際のところ勝てば官軍とはwinner takes allという海賊のやり口にすぎない。つまりは無法者の蛮行なのである。植民地主義や侵略主義という松陰の野蛮な理法は、米英の保守層が持つ愛国的な利己性や、司馬遼太郎に洗脳された西日本・すなわち西国の底辺が持つ明治懐古趣味を通じ、開国信仰(既に日中韓の学者間の共同研究により、明治時代より江戸時代の日本列島の各地の方がアジア及び国際的な平和外交の態度であったし、あるいは平常の貿易が活発だったのが証左されている為、薩長藩閥による反徳川の悪意ある汚名に過ぎない)、globalism信仰、貿易信仰、自由経済信仰のなかに形をかえて展開し続けている考え方である。福沢諭吉という大分出身の下級武士が、九州山口高知のもっている反中央的かつ弥生的な裏返った反日の敵愾心、反逆精神を引いて、脱亜入欧を唱えて脱構造主義以前の民族差別を中央政府の東京界隈で成り上がる方便にしていたり、西日本各地の人々が坂本竜馬という小説上の人物が東日本各地を侵略殺戮した薩長兵の日本人殺しの武器を己の利益のためにスコットランド商人から売り買いした事象を美化していたりするのは、華族制度や西国系政商への利権誘導、薩長寡頭制下の天皇帝国の建設による新たな身分差別をもたらしたにすぎず、要するに恨みに過ぎない。『明治維新という過ち』を書いた原田伊織は誤解しているが、旧水戸学はこの種の松陰的侵略主義を意図していた事は一度もなく、専守防衛や象徴天皇の元での国会を主張していた、戦後政府の理念に寧ろ近い、より先駆の考え方だったといえる。いずれにせよ、安倍・麻生家が表向きどういおうとも彼らの日本史上の実質目的は皇族閥と薩長藩閥による二極化、つまり天皇主権と国民奴隷化を松陰の引いた中国的な一君万民論(つまり皇帝制。『極東史』で示したよう天皇家の先祖も弥生系の中国江南人だが)で推進しつつ、米国の軍事の傘の元で安倍・麻生家の構成する皇族閥が天皇家を中心とした諸財閥の元で格差社会の最上位層となるための諸手順なのだといえよう。そしてこの公家・華族志向の傾向、寡頭政治的ないし独裁政治的な傾向は、天皇が渡来しヤマト王朝を奈良に建設した古墳・飛鳥・奈良の300年代~700年代頃から天皇家の界隈に擦り寄っていく家系にずっと存在するものであって、米英圏のもつ利己的な商業主義の傾向、それはユダヤ財閥がAnglo-Saxon民族のうちにあって内政的に体化させたものかもしれないが、世界侵略と大規模な植民地化による悲劇と副作用としての近代化や単文化・monocultureをもたらし、南北格差や現国連常任理事の形成につながり、また人種差別や民族差別をもたらしていた原因になっていたのが事実である。
 国連調整税による国際徴税と、再分配による南北格差の是正、これらはある近い将来において実現する以外ないだろうが、その間、政府開発援助(ODA、Official Development Assistance)によって日本が名誉を得る為のひもつき寄付を行ったとして、それは仮言命法の様な不完全な善意かもしれない。勿論、究極のところNPOやNGOを通じた無償の寄付、かけがえのない善行は政府単位では殆ど望むべくもないかもしれない。国連も当初のカント的な(つまりイマニュエル・カントが『永遠平和の為に』で考えていた様な)永遠平和をめざす国際機関としての目的はどうあれ、第二次大戦の戦勝国による利権団体という実態である限り、定言命法的な真の善行を、多くの場合に自主的には行わないだろう。日本国憲法の前文にある目的のうち、名誉ある地位を得たいとする考え方はただの地位財による虚栄、虚飾だろう。貧乏公家の様な空威張りは、幸福とは大して比例も相関もしていない。
 茨城県は単独で善行をするべきだろう。余裕があってもなくとも、単独でひもつきでない政府開発援助をし、積極的にボランティア、奉仕団を形成し、恵まれない地域の人々、あるいは国外および県内の虐げられている人々を助けて回るべきだろう。この種の行動は、米英圏・西国圏の拝金営利主義的な自由主義論者からは小ばかにされ、無意味だと罵られるかもしれない。薩長土肥ら暴力主義者、侵略主義者、Machiavellistらは所詮、米英文明の模倣を中華皇帝の模倣者としての(元来の自然崇拝を意味していた神社を、中国江南移民としての己の遺伝子への祖先崇拝にすりかえる形で盗んだ)天皇家による天皇独裁国民奴隷制で完成させたい、寡頭政治主義者に過ぎない、と既に当論考で私は論じた。彼らもまた、利己以外を無意味あるいは自損と侮蔑するであろう。彼らの利己性向からは、無条件の利他行動は名誉ある負担と捉えられることはなく、あるいは返礼や報酬の期待される条件つきの営利的な互恵利他行動とも予想されず、お人よしに過ぎないただの失敗となるのである。そして仮に薩長土肥人が利他行動に見える何かをしたとしても、上記のよう互恵的利他とかひも付きの寄付商売とかであって、利己の目的を完全になくした無我と完全な慈悲の為ではないだろう。彼らは遺伝濃度について弥生人の末裔であって、2800年前の列島への侵入以来、明治維新のクーデターと戊辰以後の全戦争を勝者の立場に立ったつもりで完全に美化し、また太平洋戦争において侵略が失敗したのは原爆暴力で負けたせいだとしか反省できないほど、従来の遺伝傾向が前頭葉の点でただでさえ思いやりが薄いうえに共感や同情を重んじないほど利己的に生まれついているからであり、かつ、弥生人の遺伝子がとった、日本の多数派を構成していた母体集団として縄文人に対しての獅子身中の虫的な増殖戦略なのだろう。

 保守、すなわち鎖国や保護貿易の傾向は、愛国主義、愛郷主義、nationalism、patriotism、これらの利己的な集団主義傾向と同様に、長期的には当地域が損失する事になるだろう。逆説的に、進歩あるいは革新・改革・開放経済・寛大寛容あるいは自由志向の傾向、つまり個人主義、自由主義、globalism、英語帝国主義、そして国連主義、国際連携主義の傾向は、覇権主義との同盟傾向すら、有利な前置きになりやすいだろう。人種差別や民族差別、家柄とか世襲による血統差別は保守についてまわる特性であって、自由はこれらに反し、能力とか成果とか現実的な結果本位の性向を持つ。むしろ、競争的に優位になるのは後者だろうと予想されるが、それは新たに格差を生じさせ、累進課税度の程にもよるが、必ずしも幸福な社会を保証せず、場合によっては新興階級の勃興による入れ替え戦があるだけだろう。また麻生・安倍両人と皇族閥は、自民寡頭制の元での政教一致の神道政治(旧水戸学の烈公・藤田東湖による『弘道館記』を、安倍・麻生両人が恣意的に断章取義し、烈公と藤田の一国文明主義的な和平統治への志向を無視、松陰的開国侵略主義へ政教一致の規則を皇帝独裁か側近による寡頭政治を有利にする一君万民論へ改悪させ恣意的に濫用する事)により、保守と自由の両面を使い分けつつ、表面的には保守を偽装して明治寡頭制の理念を美化し、独占的な権益を得ようとする筈である。
 茨城県は県内を自由にし、日本国外に対して可能なだけ善行を以て処するべきだろう。他方で、g≧rの状態を可能なだけ維持できるよう、県内の累進課税度を高めているべきだろう。無償所得に関しては免税するべきだろう。なぜなら県内の保守は他県との競合的に不利なばかりか、閉鎖的村社会は機会費用の増大をもたらし、革命と呼ばれる一揆か被侵略によって多少あれ遅速あれ駆逐されてしまうものだからだ。日本政府の単位で、これらの事は凡そ不可能である。西国民度は国内の保守を志向するし、安倍・麻生家の薩長藩閥退行的な自民寡頭政治(これを安倍麻生寡頭政治と呼び、通常の自民党寡頭政治・自民寡頭政治と区別もできるが)は皇族閥の元でr>gの極大化を図るだろう。また、米英両国はフランスと共に、グローバリズムの元で英語帝国主義を敷衍していくだろう(フランスは英語帝国主義を望んでいないが、国際的な力関係のため妥協的に)。これはイスラエルによって支持され、中東への弾圧、内乱化による死の商売を無限大に拡大させようとする安倍氏の松陰的侵略主義とも、キリスト教原理主義的な麻生氏の反イスラム志向とも一致し、日本政府を米国の属国的な従属状態に置き続けるだろう。他方、シリアや他の中東諸国の世俗派は、米英イスラエルの政府における情報機関に内的な紛争分子として操られるとされるイスラム国(
スノーデンの暴露によれば)を、イスラム教に汚名を与える不都合な内乱分子とみなしつつ、純粋なイスラム原理主義を志向する点で世俗派への離反者や内通もうみだすだろう。関西もしくは西国、西日本各地は、東日本、首都圏、関東、茨城へ根底的に大体においてどこまでも悪意しかもっていない、とみなしてまず間違いがない。勿論、包含された例外の遺伝子や一部の性善な集団集合があるにせよ、弥生民族の基本性質は性悪であって、西日本の各地は初期状態で利己的な害意をもって対外的に処する性質がある。だから茨城は対西国・対東京戦略として対国内的には保守、愛郷の態度で接さねばならない。国外に対して自由に、国内の県外の南西県側に対して原則保守に、そして県内に対して自由に、という三重の戦略が最適である。国外と県内の自由、そして西国東京への保守。なぜ西国や東京に対して保守愛郷でなければならないかといえば、相手が無知や低民度のあまり侮辱的な意図や悪意ある搾取、騙しを目的にしているのが諸調査から明らかだからだ。国政に対する態度も同様に、愛郷無限でなければならない。但し、県内の自由、そして国外に対しての善行が、茨城の取るべき道のりである。茨城にあっては県内自由、県外保守、国外善行、これらを是とみなすのが好ましい。


2017年3月19日

検索逆算購入システム

 北茨城市立図書館、あるいは県内図書館およびいわき市立図書館は、検索システムで検索された単語から逆算し、購入図書をきめる仕組みを導入するべきである。

2017年3月15日

弥生衆愚について

 魅力度報道にみられる東京~西国で起きている現象は一言でいえば、商業化である。大規模な商業化に対して適応的な人達を上位者につけ、商業化に適応していない人々を下位化しようとする利己的な悪意である。この悪意は上位につく事ができた人が、商業化されたマスメディアを通じて下位者とみなした非商業的な位を差別し、蔑視し、侮辱し、誹謗し、確証偏見による汚名を与える、という中華思想的・京都的な悪業をもたらす。
 この悪業の目的は搾取による権力強化のみであり、道徳や善についてはこれら商業地の商売人、都会商人の目的では一切ない。寧ろ大衆を煽ったり炎上させる事で金が儲かるならいかなる悪行も平気で行い、時には政府に干渉し法を商売に有利で民衆に不利なものへかえさせようとさえする。
 既に以前の記事(『西日本の分析)で解説したように、東京から中部を含む西日本は主にこの商業化に対して平伏的な意図しかない。仮に反抗しても薩長土肥に見られるよう暴力による場合、及び京都にみられるよう天皇を利用したもの、そして愛知や大阪にみられるよう金権を利用したものである。東京都は金権政治を是としており、蓄財による権力独占を志向している為、東京以西のすべての地区に道徳や善に関して親近的な意図を持つ地域はおよそ皆無である。そして東京以西のすべての地区では多数決を是とする民主主義と、天皇独裁や天皇下での軍部独裁を目指す神道原理主義が跋扈している為、商業化された大衆洗脳をも是と見なし疑う余地がない。
 従って東京以西の大衆は商業化を脱却する目的も意図もない。果てまでも田舎、つまり田園地帯を辱め、貶め、生産地を侮りつつ徹底的に搾取しようとするだろう。この人々を仮に西国商業衆愚、弥生衆愚と呼ぶと、この衆愚が目的としている事は強欲、貪欲、傲慢である事が理解できる。その手段となっているものが衆愚化による大衆商業であり、また権力の独占独裁による世襲化である。弥生衆愚を突き動かす利己的衝動はかつて天皇、皇族、公卿、公家、そして旧華族の中で薩長土肥系の世襲政治家がやっていた二極化、上下階級化を、朝鮮における両班中人・常人・賎人、或いは士農工商の様な身分差別のように、商業地(都会)と生産地(田舎)という地域差別を含めて広めたい、という悪意なのである。
 また弥生衆愚の思想は勝てば官軍、弱肉強食を狂信する態度であり、松陰や西郷・島津にみられるような侵略主義と暴力主義、マキャベリズムへの堅固な妄信である。西国衆愚の中で原爆投下が正当化されないのは、この侵略暴力主義的な帝国主義が「敗北したから」であり、侵略戦争としての戊辰、日清、日露戦争自体は完全に正当化されている。弥生衆愚はこうして、搾取の罪、階級差別、地域差別の悪を疑う余地も基本的にまったくもっていない。上述のよう弥生衆愚は利己的・害他的・有害的な行動規則を信奉しているのであり、2800年に及ぶ弥生人らの侵略行動の全記録を省みる限り、この利己と害他の文化傾向を改める事は未来永劫ないであろう。この事実は天皇家に関しても全く等しい。天皇家の行ってきた全洗脳は、すべて利己の為のものだった。天皇家に利己である行動の集合はその他の人たちに有害な集合を常に含むのであるから、弥生衆愚の行動原理をそのまま持っている世襲の独裁血族であり、彼らの目的は、極論すれば周囲の人々を奴隷化する事に過ぎない。
 成すべき事は、全ての地域の全ての人々が等しい権利、等しく尊重される立場である状態の統治であり、しかも商業において生じた格差を政治が調整する様な善徳の政治であって、マスメディアにおける公平な報道、偏見や差別のないメディアや言説の使い方、大企業や株主、世襲政治家の利害損得に関わらないジャーナリズム、ジャーナリストの良識的な啓蒙であって、しかも階級化やその安易な固定に対して反対を表明する事である。また高貴高徳な隙間産業の追求でもある。現状、弥生衆愚は全てこの逆の悪政を行っているのであって、しかも、九州地方の出生率が相対的に高い為、この商業的な衆愚政、暴政への悪意はますます強まっているのが現状だ。天皇家の周囲にたかった安倍家、麻生家などの皇族閥は階級化を悪意をこめて推進しており、虐げられる貧困層は絶望し、革命や改革すら諦め、それどころか最低賃金で奴隷化され、インターネット上の匿名掲示板やSNSでも荒廃した衆愚から虐待を受けて時間や考える自由を奪われ、マスメディアに受けた洗脳を解く事もできず、寧ろ悪意で自ら洗脳を促進し弱者を虐げる有害な言動をまきちらし、最低でも自殺願望を抱いているのでなければ、単に惨めに群れている。東京都民の持っている悪意の全貌、西日本の人々の持っている悪意の全貌が上記の叙述で説明された。そして為すべきなのは、弥生衆愚の政治権力を打破し、それは旧水戸学を超えて天皇家の打破も含むだろうが、調整的な公徳による善政と質の高い公平で啓蒙的な報道、高級隙間市場を開拓かつ確立する事である。但し、弥生人と呼ばれる集団の末裔の人々、西国から東京圏の人々の利己害他傾向の行動規則は未来永劫かわることがないだろうから、この善政には一定の限界がある。西日本の人々は有害な社会に暮らす事を愛しているのであり、彼らの根っからの性悪さはあらゆる悪に対して寛容な社会、犯罪率の高い社会の方をえりごのむ傾向すらあるのであって、根本的に、純日本系の北東側の日本とは全く違うのである。日本と、渡来系、帰化人達の住み着いた西日本がお互いにとって幸福なのは、互いに国を分けて、不可侵にするのでなければ、永久に別れる事だ。天皇家は帝国主義によってこの弥生衆愚的な不幸社会を拡大する本能しかないのであり、脱天皇制の共和国家を弥生衆愚とは別に取り戻す事が、日本の今後のわが国政の要といえるだろう。


2017年3月14日

茨城ステルス戦略論

 住み辛い所が見栄を張る。住み易ければ宣伝しない。
 茨城は明らかに後者であり、ステルス性を高める事、外部から窺い知れない状態を都民の悪意ある偏見報道、西国の無知による蔑視を増幅させた煙幕で強化する事が、更に我々の好適さと真の名誉を最大化し、悪徳まみれの県外人に侵入させない方略となる。寧ろ幸福とは充実した実生活によって得られ、県民の高貴化・高品位化・善良化こそ、宣伝活動による共有地の悲劇の典型となっている京都、東京、そして観光収入以外の生活が破滅的になっている北海道、沖縄の欠点を乗り越えつつ、真の非一見人、高級客を収穫する方途である。

防波堤の遊歩道、下桜井海岸の自然保存について

 磯原海岸、下桜井海岸に今整備している高い防波堤の隣に遊歩道を整備し、海がどこからでも眺められるようにととのえるべきだろう。また住居地区とのあいだに排水路があるが、うえを蓋で塞ぎ、手すりをもうけて転落を防止するか、もしおりても危険ではなく悪臭がしないように考慮するべきだろう。ところどころで防波堤のほうが遊歩道上で人の身長より高い場所があり、海が見えなくなるのが問題があると思う。
 また下桜井海岸の中洲に大量にテトラポットが配置されてしまったが、もともと、あれほど美しく、人の手が入っていない白浜の海岸は北茨城の最大の名誉であるから、綺麗なままに保つようにするべきだった。自然を破壊するのではなく、自然に手を触れずに防波堤で解決することが調和した遺産の保存だというべきだろう。


東京都民の鴨川比呂志が行う恣意的統計による差別捏造の実例

これは〒140-0002 東京都品川区東品川4-12-4品川シーサイドパークタワー3Fで鴨川比呂志が資本金2億9600万円でやっているジー・プラン株式会社の「地域差別の為の誘導尋問アンケート」の実際の画像だ。
 このようにして都内の極悪の会社、極悪の人間がネットアンケート上で地域差別の偽統計を、恣意的質問の誘導によって捏造しているのである。はっきりいえば、これは天皇制および東京都への資本集中による門地差別をつくりあげる実例であるが、あらゆる場面でこの種の傲慢、差別の為の悪業が都民の中にみられるのは、かつての京都における天皇の中華思想とまったく同じ構図である。
 このような恣意的な偽統計によって日本人がある確証的バイアスをサイバーカスケード状に強化していくとして、茨城県にとって不利ではない事、またむしろ強化したほうが有利であろう事は、過去の当論考集で論証してきた。一方、東京都が資本及び権力を乱用し、マスコミやネットメディアを乱用して偏見と地域差別を広める事が、東京都民に有利になる方向へ、また関東北部の県民に不利になる方向への悪意ある誘導である事もまた我々は証明してきた。そしてその核心にあるものが、水戸学が召還した天皇制の中の中華思想であるとは、なんとも皮肉である。ただ今日の旧水戸藩領における一個人として私が出す結論は、東京都のこの卑しい習癖は、むしろ衆愚を失敗へ誘導していくのであるから、茨城県域における高度な啓蒙、しっかりした教育が図られている限りにおいて、ますます我々にとって有利有徳であるという事だ。いわゆるネット衆愚、またマスコミに洗脳された衆愚に対して無知のヴェールをかけてくれている都内の悪人達、嘘つき達には、感謝しなければならない。それは無料でやってくれるステルス戦略とまったく同じだからだ。
(以下資料、同恣意的差別のアンケート調査はここに記述された「誘導尋問」の結果をマスメディアにさも統計的真実かのように流布するのである)
なお、同アンケートでジー・プラン株式会社は東京都に関する質問で「東京へ行くなら?」と、ポジティブな回答が得られる質問を事前に用意していた。要するに自分自身に有利、関東北部に不利になるような恣意的な誘導尋問を、悪意で、アンケートを受ける人達に渡しているのである。この会社は、秋田や青森、佐賀、他の都道府県に関する質問でも、秋田なら「美人」など、典型的な地域差別の偏見を強化するように誘導尋問していた。

2017年3月8日

西日本の倫理分析

 九州山口は暴力主義であり、関西は拝金主義、東京は権力主義である。それぞれ、四国中国は九州山口と関西の中間形態、また中部北陸及び神奈川山梨は東京と関西の中間形態である。
 また九州山口にあって鹿児島は権謀主義、マキャベリズムを信じており、山口は侵略主義を、四国にあって高知は政商主義を信じている。関西にあって京都は虚栄主義、大阪は実利主義である。沖縄は日和見主義である。長野、三重、愛知、静岡など中部は迎合主義である。
 これらが生まれてきた原因は、彼らの過去の歴史と文化、民族的生活の混交である。
 これらが南西日本それぞれの持っている倫理規則であり、彼らの倫理にかなう相手を尊敬する。従って、彼らを操りたければこの倫理規則に沿って操ればよい。またこれらの倫理にかなった宣伝にも彼らは弱い。


2017年3月2日

大井川氏及び自民討伐の是

 大井川氏はいかなる手段を使っても全力で潰す事が全人類の正義の為である。ニコニコ動画は宮崎駿と川上量生の動画を見てもわかるよう、単なるゼニゲバのネット成金である。マスメディアを乱用してネット衆愚を煽って金を儲ける事が奴らの世界支配の最終目的であり、大井川氏の背後にいる裏ボスの川上氏は角川書店と組み京大学閥によって経産省官僚の妻をもらい、国と民を操る「陰の独裁者」になろうと陰謀している。陰の独裁者をはじめの時点で二度と立ち上がれないまでに叩き潰す事は全人類の正義を実現することである。したがっていかなる手段を用いてもよい、大井川氏ならびに自民討伐を是とするがよい。
 ネット衆愚はこれまで10年以上に渡り茨城県民ならびに茨城県を侮辱し、辱め、落としいれ、その名誉を汚してきた。此の種の悪魔どもには徹底報復のみが義なのであり、既存マスメディア、天皇家、日本政府、出版業界、スタジオジブリふくむニコニコ動画会員を敵とみなし全ての関係勢力を絶滅する為に情報ゲリラ戦争を開始するべきである。この戦いで倒すべきは愛媛出身の京大学閥、陰の独裁者である川上量生ただ一人である。
 政治と商業を厳正に区別し、相互批判関係を死守する事。これが日本国政を正し、全人類に範を垂れる結果となる。全人類で最も進んだネット先進県としての茨城の真義をこの戦いで見せ付けることが肝要だ。勿論、川上が愛媛からのこのこ現れるはるか以前、日本ではじめにインターネットに接続した地域こそが筑波、そして我らの常陸国だからだ。あらゆる技術と世論扇動を駆使し、ネット上を血の海にしても構わない。この一戦で未来が共和善の世界になるか、川上量生による悪魔の独裁体制になるかが決定される。決死で大井川氏と自民独裁の旧体制を破滅させよ。川上氏を討伐後は天皇旧体制が京都勢によって陰謀されている。このネット独裁者川上に対しての第一戦を全人類を巻き込んで完全勝利する事が、我々の世界を善にする為に絶対に必要である。断言する。インターネットは悪だ。勿論、茨城人は善用しようとして導入した。だが金儲けしか関心がない東京愚民(ライブドア騒動でみな知っている)、日本人(朝鮮系殖民地京都人の悪習のごとき陰湿な虐めと陰口の場2chをみたことがない人の方が少ないかもしれない)はこの装置を悪用して、虐め、陰謀、独裁に使おうとしている。日本で最初にインターネットを使いこなした我々であるからいえる。この道具は悪用されてきた。2chをみよ。ひろゆきをみよ。ホリエモンをみよ。大井川氏をあやつる裏ボス川上量生をみよ。ニコニコ動画の衆愚ども、魅力度を捏造して辱めで銭を儲ける極悪商人田中章雄をみよ。そしてインターネットを権力装置に用いようとする陰謀は、芽が出た段階でネット民も総出で叩き潰すことのみが絶対に必要なのである。インターネットが終わる時まで、ネット衆愚を味方にしては絶対にならない。なぜなら奴らは本物の悪魔だからだ。ネット民とは悪魔なのだ。社会からおちこぼれたことを他人のせいにしている、陰湿な愚民のあつまりであり、小沢氏や小保方氏を冤罪にかけて陥れ辱めた。卑しいルサンチマンの結晶であり、匿名であらゆる悪業を目的に、東京五輪を失敗させ汚染した福島県を侮辱したのもこの連中だ。下卑きったデイトレードだの盗用まとめサイトのアフィリエイトで浮利を追って隣国すべてをレイシズムで侮辱し続け、セロトニン不足の不安脳であるがゆえに無意義に群れて安倍自民への世論扇動を行いながら多数派と天皇独裁体制に盲従、最低最悪のヘイトスピーチを発生させているのも、松戸でハセカラ騒動を起こし、無罪の少年を集団虐待したのもネット衆愚、いや匿名ネットヤクザどもなのだ。いまもなお愛知県の精神疾患者aiueo700氏を辱め続けるこの悪魔を絶滅に向ける最終戦争を今開始しよう。最初に打倒し叩き潰すべきは、わが県のテリトリーを侵害しようと陰謀しだした極悪ネット独裁者川上量生である。下賎な大井川氏は政商行為にいとまがないあしき川上の手先に過ぎないが、対抗馬の全てを使って軽く片手でひねり潰す事が重要だ。これが日本でもっとも進んだインターネット人としての茨城県民の義務ですらある。
 このネット戦争で戦うのは、全人類とネット独裁者川上量生だけである。全人類は独裁者を打倒する為に立ち上がる義務がある。インターネット世論を陰で操ろうとする悪魔の手先、大井川氏を県政に就けては絶対にならない。それは独裁者の陰謀だからだ。
 もしこの戦いを逆の目からみてみれば、構図が丸わかりとなる。成金川上は茨城を舐めてインターネットの中心地が東京だとおもいあがっていたのである。上場企業の会長になって地方自治体の支配に触手を伸ばし、元経産省官僚やら元日製役員やら出版業界の異端、いやヤクザやらの手先を使って、辱められていると感じているはずの(実は辱めてきたのがニコ厨ことニコニコでありドワンゴなのだが)低民度のはずの田舎にすぎないはずの300万人を陰から支配してやろうというのだ。まことににわか。まことに浅はかというしかないではないか。我々はいうまでもないことだが、子供である川上がパソコン通信に手をつける京大時代のはるか以前にこの装置をアメリカから最もさきがけ輸入した立場であり責任があるのだ。独裁者川上は成金生活で甘味小太りの中年腹をカバンで必死に隠しながら冷酷な独裁者として宮崎駿の職場で身障者風の映像を流して荒らし、宮崎氏から憤怒をこめて冷静に説教され、というか穏やかに激怒されNHKに晒された。勿論だ。当然である。川上の目的は技術乱用による享楽主義的なゼニ儲けであり、宮崎駿のそれは病弱な子供であった宮崎の見たアニメーションという作画芸術の美や希望を再現することだからだ。人間性に天と地の違いがある。そして日本国で最も卑しい、最も浅ましい衆愚、いや匿名ヤクザどもの巣窟に、日本国どころか世界で最も高貴、世界で最も偉大、世界で最も遠大にして深遠な、神聖なる茨城県、常陸の国がされる事は、絶対に許可されるべきではないことなのだ。ニコ厨、すなわち川上が搾取してきた衆愚は毎月500円近く払って醜悪な猥褻ゲームだの二次創作と名づけたコメントでの弱い者虐め動画だの陰険で低俗なマンガアニメだのに狂喜乱舞し、いわば恥さらしとなってきた。恥を晒して愚昧な外人にめずらしがられ、それが文化だとほざく始末である。これが川上側の内幕の全てである。今後、独裁者川上はスタジオジブリをのっとり、出版業界をのっとり、インターネットの乱用を基礎に、政治ののっとりまで画策しだした。なるほど、潰さねばなるまい。手始めに選挙戦でやつ等が2chやニコ動画でやってきた極悪のあらゆるネット乱用を逆用し、悪の手先大井川氏から血祭りにあげるべきなのだ。善と正義の為に、ネットヤクザどものやってきた手法を鏡返しに復讐する。ゲリラ政治の勢いあまってニコ動の株価だのあちこちに潜在している悪の世論扇動株主どもの生活破綻だのをさせても川上独裁後のジブリだの川上の妻に操られだした日本政府だのネットをふくむ全マスコミを独裁洗脳する天皇家だのを滅亡させてもわれらの王道なる徳治国政的には全然構わない、むしろ容赦なくすべきである。正義と金、重いのは正義。金は正義を実現する際の道具の一つに過ぎない。これは悪との戦いなのであり、独裁者である川上の政商権力の端緒を序盤で完全消滅させる、という全人類の公儀の模範となる一戦なのだから。やられたらやりかえせ、これまで10年以上に渡り我々日本人を侮辱し続けたネット衆愚の核が、ドワンゴの裏ボス川上量生と裁判所から長年指名手配される西村博之の周辺にいるネットヤクザ連中なのであるからには、ネット世論悪用で名誉毀損罪の死屍累々の山を死ぬほど積み重ねた田中章雄の討伐より先に、いや諸共、時代の藻屑と化すのが最終清算としての対大井川戦でのインターネット受刑であるというべきだろう。要するに、大井川氏討伐の大義名分を立ててその背後にいる新参権益、川上勢と経産省官僚の妻を通じた悪徳自民独裁政府全体を討伐してしまえばよいのである。勢いの余り天皇家を滅亡させてしまえば、二度と京都勢の地域差別、人種差別の悪政の世がもどってくることもない。
 ネット世論の誘導など少しもなすべきことではない。だから大井川氏の掲げる名分など何一つ意味もない。発信力? 何のための洗脳を誘導しようというのか。戦後日本政府が明治寡頭政治、薩長藩閥やら天皇独裁制の後釜としてテレビ政治でやってきた稚気じみた蛮行の猿真似をせよというのだろうか。アメリカの混乱をみてわからないのだろうか。愚かすぎる東京都の低民度は嘲弄にも足らない程度であり、歯牙にかけるほどの価値すら感じない。だから大井川統治によってネット衆愚にのっとられた茨城が最低最悪の悲劇の共有地になる事が丸わかりなのに、要は醜悪極まる第二東京にされるのが丸見えなのに、誰が協力するというのだろう。自民独裁? 新幕府のつもりだろうか。東京都が福島原発だの東海原発だので散々我々に迷惑をまきちらしてきたというのに、その政商勢力に加担する者は中国移民の天皇であれ全人類、全生命体のいかなる存在であれ絶滅させるのみである。


茨城環境表彰案、ごみの出ない商材について

 茨城県内の生産物に対して、ゴミを減らす為の簡易包装など環境先進的なとりくみをおこなった企業や個人に対して顕彰し、環境優良表彰を与えて商品や店舗などに優良マークを表示できるようにするべきである。「NPO法人ごみじゃぱん」の活動は大変参考になる。茨城は農工業が主な生産地として、県内の商活動に際してもブランディング時に無駄な包装を最小化するという循環社会に対応した先端的方向性を後押しする様にするべきだ。

水戸政府の大義

 全ての国々が平和であり、全ての国々、全ての人々が互いを慈しみ助け合う地球を作る事が、水戸政府の目的でなければならない。これはたやすくあるようでごく尊い理想であって、実現する事は大変難しいが、いずれの時代にか必ずや達成すべき当為である。地球外の生命体と戦いになる様な場合があっても、我々常陸の国の民が定義し政治的に実現したこの大義はやはり地球的な理念として次世代に受け継がれる事になるだろう。
 現時点の京都府知事と京都市長とは皇族を京都に再移住させたり文化庁をとって「庇を貸されて母屋を取る」式に東京都から首都としての実権を奪おうと画策し、実行している。だがこの種の私的な利権、利己的な目的の為に政治は行われるべきではない。水戸、茨城の意義は、全ての地域が上下関係なく尊重される社会の構築であって、政治権力が人口や財産の多寡、あるいは歴史的経緯や文化的な違いによって何者かを贔屓しないことであり、地方と都心のあいだに中国移民としての天皇家に由来して2800年余り輸入されてきた中華思想を打破することである。魅力度が最下位などと関西人や東京人がネット世論を乱用して茨城県を陥れたり貶めたりしている事は、この目的の為にはかえって都合がいい。最低といわれ貶められている地域が全体を指導する政府をつかさどる事は、地域差別の対象がなくなる、という逆転劇につながるからだ。


2017年3月1日

東海原発廃炉の大義

 首都圏の制空権を持つ百里が使用不能になる、という大義を以て防衛省と国土交通省にかけあい、原子力規制委員会に茨城県総出で圧力をかけ、東海原発の日本最初の脱原発決定を遂行すべきだ。戦時に備える事は単なる絵空事ではなく、防災そのものだから、これがわが県で最優先の防災措置ともいえる。

2017年2月28日

水戸市の田園保護法案

 水戸市は遷都を迎えるにあたって、田園保護法を施行し、政府機関を立地させる水戸市行政区の領域を現時点の市街地部に限定、周辺の田畑を商業地区化または住宅地化で虫食いさせないよう事前に法をつくってから移転を実施べきである。さらに、行政区画を商業地区とは分離しておくように都市計画を工夫していかねばならない。これは中華思想の焼き直しを防ぎ、都会・田舎の上下関係のような考えをなくし、商業と政治の癒着を防ぐ為に必要なことだ。

2017年2月12日

No title

 茨城の貧困世帯が浮浪者にならないよう、水戸市、つくば市、日立市、そして土浦市という都市部で、路上生活をしているように見える人に対して民生委員が生活保護制度の手続きを代行する声かけをしていくべきだ。また生活保護申請に対しても、原則として許可するように、県政が全市町村行政側に命令を発さねばならない。これらは、「国税」(特に東京都民の納税)からの合憲的な調整を意味し、県内の消費量・流動資本を増やす効果がある上に、低所得層がふえることは、実は中・高所得層にとっては地位財・ヴェブレン財による見栄のための浪費の理由をそぎ、県内資本の増加に有利なばかりか、民度の向上にすら寄与するものだからだ。しかも、茨城県の浮浪者の少なさは割れ窓理論にあるよう、序盤でゼロ化をめざしていれば将来にも良い結果を残す。大阪とか北海道といった産業体制が悪化している地域の生活保護者数や割合に到達する事は、もっぱらありえないことなので、どれほど県内の貧困層に生活保護を与えても、それは国税(実質、都内富裕層の過度の所得に対する喜捨に類した義務的な寄付として)の負担なのであって、しかも国家に対してさえ、経済的にプラスの効果をもつものだ。

2017年2月11日

茨城通勤税案

 茨城圏通勤税によって、常磐線の水戸駅周辺、日立駅周辺、筑波駅周辺という混雑し易い通勤ラッシュ時の電車・自動車利用者課税するべきだ。それには会社・学校側に、朝と夕方のこの時間帯を使用する分の県税を払わせるべきである。
 ダニエル・カーネマン氏による909人の女性調査によれば、
http://citeseerx.ist.psu.edu/viewdoc/download?doi=10.1.1.320.928&rep=rep1&type=pdf
朝と夕の通勤時が幸福を最も損なっていることが明らかであり、この分の苦痛を緩和する事が功利主義的に正義となるだろう。


2017年2月10日

茨城経済学

 茨城県内の流動資本(使われる貨幣量、経済のやりとりの絶対量)をふやす事が、日本経済(日本単位の経済)の失敗に対する解答だ。そしてこのとき、公共投資の使い道は、県民すべてが利用する固定的な公共財、特に複利性のある公共財(あればあるほど豊かになる類のもの、例えば図書館、利便性の高い交通、エンゲル係数を下げる賞味期限ぎれ食料品の無償配布など)に対してであるべきだ。
 茨城県北芸術祭は単に「茨城芸術祭」または「茨城トリエンナーレ」と名義をかえ、恒久設置するパブリックアート、特に風景・ランドスケープとの関連性、全世界で茨城のその地点にしかありえない作品を毎年、ふやしていくという方向性にすれば、上述の固定的な複利公共財の増大となるし、魅力度向上になるだろう。さらに経済効果という面では流動資本量を増やす結果となり、一石三鳥である。
 アメリカ大企業は本社が郊外にあることが多く、これを茨城県内への大企業本社の誘導策としてとりこむ必要がある。それは長引く不況下で本社の地代を節約し、またより安価な労働力を茨城県内に募集でき職住近接で幸福な仕事や家庭を増やすこととなり、さらに企業法人税収をます、という効用になるだろう。


2017年2月4日

田中章雄の不幸調査

<函館市>「魅力度1位」「幸福度最下位」民間調査で正反対

 北海道函館市について、民間の調査で「魅力度がトップ」と「幸福度が最下位」という正反対の結果が相次いで公表され、市民の間で話題になっている。

 「魅力度トップ」となったのは、民間コンサルタント会社・ブランド総合研究所(東京都港区)によるアンケートの結果。昨夏、主要な全国1000市区町村を対象にインターネット上で「観光に行きたいか」「特産品を買いたいか」など地域の魅力度に関する77項目を質問し、3万人から回答を得て点数化、函館市がトップとなった。

 一方、日本総合研究所(同区)が人口20万人以上の中核市のうち一部を除く42市を昨年、各種統計で分析し「幸福度」をはじき出したところ、函館市は最下位だった。人口増加率や財政の健全度といった基本指標に加え健康・仕事・生活・文化・教育の5分野で、全39項目を調査。「健康」分野の評価が特に低く、自殺者数▽生活保護受給率▽大学進学率といった項目はワーストだった。

 函館市は北海道新幹線開業により、昨年度上半期(4~9月)の観光客数は前年同期比14.1%増の366万5000人を記録して好調。一方、15年の国勢調査では人口減少数が全国で4番目に多い1万3148人と、地域の「衰退」に歯止めがかかっていない。

 対照的な調査結果は市議会でも取り上げられ、市民も注目。工藤寿樹市長は、街や市民生活に課題があることを認めつつ、「まちの魅力だけでなく、(市民の幸福度に直結する)人に関する部分も魅力を上げていきたい」と話している。【遠藤修平】

 「ブランド総合研究所」の田中章雄が調査対象にしているのは、上記の様に信用ならないネット衆愚だと考えられる。ネット衆愚の感じる魅力に反している事は、恐らく重要なのだろう。
 要するに、田中章雄がやっているのは「煽り」であり、東京都の下賎マスコミと衆愚が発狂することで金を儲けたいだけの炎上マーケティングだったのである。


2017年1月31日

茨城県食料管理条例案

 北茨城市及び茨城県は、ノルウェイやフランスに実在する食料廃棄規正法を参考に、県内スーパーやコンビニ等の食料品を扱う業者が賞味期限ぎれの食品を廃棄する時に、希望する個人及び、それがみつからなかったばあいは公共の団体や慈善団体への寄付を義務付け、さらに人の食用に適さなくなった消費期限切れの場合、家畜の餌や堆肥としてのみ廃棄を認める条例を定めるべきだ。これらに違反した場合、その食品販売業者に対して課徴金を科すべきである。さらに、本社が東京等にある場合も、この課徴金を本社に訴追する条例とすることで、東京本社に対しても県内での無駄を減らすようにしなければならない。

2017年1月29日

雨情記念館のバリアフリー化

 野口雨情記念館には、2階に足の不自由な人でものぼれるよう、エレベーターを設置するべきだ。

2017年1月28日

水戸の街灯

 水戸の駅前通り商店街にある片屋根式のアーケードの明かりは、あたたかみのある電球色に、冷たい昼光色からかえるべきだ。

2017年1月14日

茨城コンテンツ産業集積計画

 ハイカルチャーに属した芸術を主とした情報業、またサブカルチャーを含めたIT産業を茨城に積極的に集積する事が、わが県の永続的発展に鍵となるだろう。コメ生産性の高い場所は人口減少する傾向があるが、これは工業についても半ばあてはまる。農は機械化の為に従事者数を減らし、工も芸術を除けば半ばそうだが、需要が無限であるため生産性の向上が無限の分野では、人手が限りなく必要となる。つまり商業系は人口増大を伴うが、農工業が近隣に欠けている時は地価・物価上昇を伴い、生活程度が低下する。つまり東京圏は人口増大に不利であり、茨城圏は有利である。芸術及び情報に関する商業、要するにコンテンツ産業をわが県に密集させていくのが今後の筋道である。


茨城ブランド相談役

 茨城ブランド相談役として、県庁はグロービスの堀義人氏を任命するべきだ。彼を通じて最先端のビジネスと県内の日本一の農工産業力を結ぶ事が、産業資本的なわが県のイメージをも副次的に向上させる結果をもたらすだろうから。

2017年1月13日

茨城郷士教育論

 茨城県民を郷土愛的な戦士の性格に育てる事が、県民教育の方向性であるべきだ。いいかえると、かつてでいう郷士、武士、侍の気質、郷里に対する国防者の気質を涵養するべきだ。
 現状の茨城県民の子供の体力は全日本で1位から2位であり、五輪選手のメダル数も全国で2番目に多い。これらに加え、男性比率が最も高く、武張る方面にかけては非常に有利な条件にある。東京都の平均的な子供の体力は全国47位、最下位であり、体力及び武に関して圧倒的に不利である。それに加え都民の子供の学力は8位ほどと頭でっかちであり、また人口過密や文化慣習から来た性の堕落により軟派であって、都外の雄々しい男性を過度に恐れて群れるほど比弱で女々しい傾向にある。これをかんがみると、男性らしい男性という気質を茨城県民の過半数がかつても今も持っているし、今後ももっていくだろう事が予想され、この特徴は九州地方に見られるよう単に放任されるべきではなく、郷里とそこの仲間を愛し、茨城県、常陸の国を優先的に防衛する郷士として育てられる事で最良の成果となることだろう。いいかえると、茨城の善美と日本最古の地層の残る前石器時代から現代まで一貫して続く長い独自の歴史に対する愛県教育が最も優先的になされるべきことで、それに加えて、他県及び他国との違いから、他をも十分に知るという地域学的な興味を、県民全てに啓蒙するべきである。
 ジェンダー、性差の問題があるとすれば、武張るという表現にあわないかもしれないが、少なくとも女性も愛郷心の高い人間となるように、基本的に同様の教育が与えられるべきだといえるだろう。そしてこれらの愛県教育は、日本国というものへの帰属心や依存心ではなくて、茨城県の独立心を強化するようになされるべきといえる。なぜなら日本国政側は各県を目的とはしておらず、単に部分としてみているからであり、我々自身とは根本的に目的が違うのである。我々の目的はこの県、茨城と常陸国並びにその後裔にとって可能な限りにおいての永遠幸福と自足であり、仮に茨城県民が何らかの形で日本国に貢献したとしても、それは我々の公徳からきた副作用でしかありえないからだ。要するに日本国政は茨城県民にとって飽くまでもオプション、おまけなのだと教える事が有益である。この自己本位性が啓蒙された県民は、己の良心と判断に基づいて郷里の仲間の幸福を図るのであり、東京や西国をはじめ無知無学でしかない外部の衆愚や独裁者からのうつろいやすい偏見や悪意ある風評、わが県に関してあらゆる分裂を画策する陰謀、侵略に頑として抗い、そしてあらゆる嫉妬をも気にしない、気骨ある、心魂逞しい人間となるだろう。


2017年1月9日

商業衆愚の貪欲

 低俗な大衆、衆愚は大商業都市を「有」とみなし、その他を「無」とみなす傾向にある。また自らの身近にみあたらない現象を「観光上の有」と見なし、類似現象が周辺に確認されている対象を「観光上の無」とみなす。これらをまとめると、衆愚の周りにみあたらない現象であふれ、しかも大商業都市がある地区を、衆愚は「有る」とみなす。
 魅力度として衆愚が認知する対象は衆愚の周囲にないものと、商業都市部である。すなわち評価する者は無知な商人であるということだ。観光商業地化する事が魅力度を高めるという事なのである。この目的を冷静に分析し、一体それが茨城にとって長じてプラスなのかについて長期戦略を立てていく必要がある。
 衆愚は消費者にすぎず、観光地を共有地化し、少々のカネを落としながらゴミを捨てて汚して終わる。この種の外来者は、地元人向けの質の高いサービスを維持している地域にとって邪魔でしかないだろう。高品質・高級化という方向性と、低品質・衆愚化という方向性があり、総合ブランド研究所の極悪人田中章雄が評価対象にしているのは主として後者である。


2017年1月7日

小笠原選手と石井監督の茨城県民栄誉賞

 鹿島アントラーズの小笠原満男選手を被災地への慈善活動やJ1リーグ・天皇杯の優勝への貢献の功で、また石井正忠監督を同様に2冠の優勝に関する功で、茨城県民栄誉賞に択ぶべきである。

2016年12月28日

市立図書館のカート

 市立図書館2階には利用者がえらんだ本をのせて館内を運べるよう、カートを設けるべきだ。

2016年12月17日

市内運動場の開放

 市民サッカーラグビー場、市民野球場、雨情の里テニスコートは、公式戦など特別の事情がない限り、出入り自由にし、市内の子どもがいつでも練習できるようにオープンにしておくべきだ。実際かつてはそうだったのだ。子供の男女体力において全国1、2位を誇る潜在力の極高いわが県のわが市で、1位を占める50m走の陸上選手はじめサッカー選手や野球選手、テニス選手などが次々生まれないとすれば、単に練習環境が整っていないからにすぎない。
 市民の体力および健康を促進するという意味でもこれは必須の施策であり、普段これらの施設を立ち入り禁止にしている市は、市民が支払っている市民税で市民に奉仕する義務を負っていることを忘れその職務を放棄するばかりか、市役所員の施設維持管理の為の手間を省く事を市民への直接奉仕より優先している点で、単なる怠慢でしかない。そしてこの施設の維持管理費を市の雇用または民間への委託でまかなえば、市民に新たな仕事をうみだすことにもつながり市内経済を促進する。

2016年12月16日

情報経路について

 茨城県にとって重要なのは、ひたすら県民に対して県内情報を徹底的に周知させ、かつ、県民向けに他県・他国についての要点を知らせる県政専用経路を持つことだ。これらと逆に、県内情報を県外に発信してはならない。魅力度は最低だと思われていること、つまり茨城情報が県外人に全く知られていない現状のステルス性を維持するが得策だ。茨城に取材に来るとか、何らかの情報を県外から得に来る人々には最大限に懐疑・排除的になる方がよい。孫子と孔子の戦略の核がこの情報の非対称性にある。わが県は安定して県外、及び海外に全勝していくべきなのであり、現県知事の県政方針は既に正しい方向性にあったのだ。この数年の宣伝策は得策ではなく、県外に情報が更に渡っていなかった過去の状態の方が、県外に発信をしようという昨今より優れていた程だ。
 今後も、茨城は県外から更に誤解され、あるいは理解されない方へと自己の情報を地味に隠蔽し続ける事が必須である。代わりに県内への県外情報経路をさらにふやしつづけるべきである。


2016年12月13日

つくば再生計画案

 つくば市の中心部に複数ある公務員宿舎の一部をとりこわして筑波大学生協を設け、そこで学生ふくめ市街部の住民の基本的生活物資が購買できるようにしつらえたうえで、廃止されている宿舎や空き部屋をつくば市が借り上げ、民間の建築家・デザイナーを設計協議によって公募、市民を含めた投票式の審査の上ですべて再生し、学生が格安で借りられるようにつくば再生計画を進めるべきである。

新磯原中学校舎の設計依頼案

 新磯原中学校舎は、日立出身の世界的建築家・妹島和代氏に依頼するべきだ。通常の設計費と同額で、裏手にある大北川や市街地を流れる花園川など周辺の自然をとりこみ、かつ、中心市街地の精華小学校・磯原郷英高校と一体的に、童謡の町として世界一美しい学区をつくる計画にするよう頼むべきである。