2017年8月30日

2017年度県知事選挙の分析と情報戦略

 今回の県知事選挙で、橋本氏の県民党を称した公徳と善意に対して、大井川氏は新政に於ける利益で釣ったというべきだろう。この意味で茨城県民の一部は忠義より利益をとったのであり、禅譲でなく放伐を選んだのである。
 わが県民は総合ブランド研究所の田中章雄と一部ネット民や東京マスコミの悪ふざけや無知無学と完全な地域差別感情の偏見、そして日本国民の中華思想や天皇制における皇居崇拝に基づく田舎差別の悪意を真に受けて、橋本氏と大井川氏の本質を見誤っているか、軽薄な選択をしたのだ。世代交代や新陳代謝、新しい状況への変化適応、これらは当然理解できる事だが、選挙期間中にみられたあらゆる動きの中に働いていたのは、善意や公徳ではなく、東京都の報道関係商人や日本政府の自公政権に媚びを売る人々の悪意と、日本国民の無知と無邪気な(それ故に一層罪深い)偏見と差別感情である。そしてこの種の悪意が支配力を働かせてきた理由は、東京都に置いた政府が利益と公徳を混同している事にあり、しかもこの悪意もしくは無知は資本主義経済と民主主義政治の結合という衆愚政が原因なのである。衆愚政とは自らの利益を公の徳目より優先する、堕落した多数派が牛耳った体制である。
 たとえば私立高校の学費無償化は、富裕層の負担を減らす上に、そもそも教育内容の差別化やすみ分けが果たされなくなるため誠に有害だ。なぜこの種の教育の独立を侵す市場介入を行政人がおこないたがるかといえば、当然の様に一部民衆の利己心に訴える為でしかない。全体に有害で一部の既得権にのみ利益がある。私学助成は単なる悪政でしかない。
 勿論これが単なる深読みすぎで、県民は流石に民主主義とされている現状で長期政権すぎる事を危惧しているか、IT・ICT(Information and Communication Technology、情報通信工学)系の新人物で産業振興し、魅力度云々でうるさい対県外状況を打破してほしいという面もあるだろう。
 他方もし上述の衆愚化論にも一理あるとすれば、ではなぜ衆愚化が進んでいるかといえば、政治に関する教育や知識の不足としか言いようがない。扇動政治がはびこる理由は民の無学に他ならない。また、総合ブランド研究所の様なサイバーカスケード状のいかもの或いは完全な差別を含む疑似統計を、平然と既成事実として流し恥もしない悪質な東京マスコミの報道を無批判にうのみにする県外人達の民度は、低落しきっているというべきだろう。本質的に問われているのは公徳を問う政治民度なのであって、有権者のうち投票した人が完全にどちらかに偏らなかった点で、茨城県民の選挙権の精度は決して劣っているとは言えないどころか、やはり総じて高いのだといえるのだろう。
 緻密に再分析した結果としても、今後4年間、大井川県政が橋本県政時代を超えた実績を残せない限り、単に自公を中心とした扇動政治屋によるテレビ政治の影響で県民が堕落していた結果であると判断しなければならない。そして徳に関する古道という意味においては、県民の約2割は忠義より放伐による裏切りを選んだのであって、武士道に反するというべきだ。勿論、武士道イデオロギーなど既に時代遅れであるという批判は理解できるが、更に根本的には、県政の風紀や伝統を作っているという解釈もできる。橋本氏は決して悪政をしていた訳ではないどころか、凡そ善政をしていた。原発という過ちも改めると明言した。それにも関わらず県政を変えようといって放伐を行った大井川氏は、一体何を期待されて当選したかといえば、東京都民の1人である田中章雄による偏見的な統計による地方差別という公的犯罪への対策が第一なのだとしか言いようがない。その他の点について、ICT推進という面は第二に期待されていると考えられる。橋本氏が対外発信メディアの主役なのでは基本的にない。対外発信メディアは、テレビ局の様に民間企業が行う。行政の長がメディアの長なのではない。寧ろ表現の自由を鑑みれば、県庁がメディア的に扇動力を持つ方がよほど悪質だというべきだろう。政府が媒体発信力を持ったらそれは単なる公的情報の公知のみならず何らかの政治イデオロギーに関する喧伝に使われる事だろうし、その種のpropagandaで現に失政を隠蔽する事ばかりしてきたのが日本政府、大本営なのである。田中章雄と東京都のマスコミ関係者そしてその他の日本国民が地域差別を平気で行い、しかも無知を恥じる事のないだけ悪質な衆愚なのだ、という事を、行政人がどう変えろというのだろうか。実質、不可能な解決課題だとしかいいようがない。もし行政としてなしうるとすれば、強権政治によって田中章雄を訴え勝訴する、或いは国会か内閣に訴えて、その種の地域差別的偏見報道を法的に制限させる事だけである。前者については類似の判例があるが、勝訴する可能性と量りにかけて行うというきわどい綱渡りになる。後者については首相または与党議員が報道管制に直接言及せざるを得ないという意味で茨の道である。どちらにしても、県庁単位で地域の宣伝をするについては、多かれ少なかれ政治的喧伝行為とならざるをえない面で、禁じ手に触れ易い。
 かつてイギリスがクールブリタニアのキャンペーンを打ち、YBA(Young British Artists、若手英国人芸術家)と共にハイアート業界との協働を行った。韓国政府も民間のKPOP業者と組んで同様のPRを行った。日本政府は遅れて、サブカルチャーを利用してクールジャパンの活動を行おうとした。これらは経済的に沈没していく途中の斜陽国とか、政治的原因や競合との関係で汚名を着せられているか人気に欠ける国が、何らかの芸術界の人気にあやかって自らの後光効果に利用しようとしたものだった。また京都府と京都市は日常的にこの種の目的での古都・文化遺産PRを常態として行う慣習があり、当人達の中では観光業及び自尊心を高める表裏を使い分けた自己宣伝の方法論として用いられている。つまり政治界または行政組織が人気取りのため、何らかのPR活動を行う時は、それぞれ目的が異なるにせよ、個人や民間の事業または過去の遺産を政治目的に流用してきたのだ。対してわが県はどうかといえば、確かに華風月や和楽器バンドの鈴華ゆう子氏、或いは喜劇役者のピース綾部氏、グラビアアイドル出身の磯山さやか氏など主に県出身者のうち何らかの大衆人気がある気鋭の若い人々を使ってネット上でPRを行ってきた。橋本氏は十分PRしてきたのだ。それでも魅力度調査の結果は変わらない。なぜなら総合ブランド研究所の登録者である数千人の調査対象者が、毎年行われているウェブアンケートでわが県に高い評価を入れる誘引がないからだ。ここまで短絡的な事なのである。その数千人の調査対象者が標本として一般大衆に対して不正確であるから、所詮結果に偏りがある。当然そうだろう。東京のマスコミや一般大衆にその種の統計学的理解など到底ない。だから日本国民という人々は汚名やスティグマを与え、平気で差別し、偏見や色眼鏡で或る地域を攻撃し、ひたすら虐待して面白がっているのである。
 大井川氏は自サイトで、はじめから海外に向けてPRをする事を主張している。

「魅力度ワースト1からNo.1へ」プロジェクト推進

  • 茨城魅力度発信戦略【ネットメディアをフル活用した海外市場開拓を強化し、日本より先に海外で話題作りをするなど、新しい手法による発信力強化】
http://k-oigawa.jp/policy/dream.html より
これをみると、日本国民という硬直化した村社会的集団、いやいわばテレビ厨やニコ厨の様な日本人ネット衆愚を無視し、海外における評判を勝ち取ろうという公約の様に見える。彼はワシントン大学ロースクールを卒業していると、またマイクロソフトアジアを経験しているという事から、恐らくインターネット上で行政主導の宣伝サイトを作ろう程度の考えなのかもしれない。そして日本人は外圧に弱い、或いは海外崇拝の気質があり、特にアメリカに劣等感を持っている上に福沢『脱亜論』以来の西洋崇拝の影響で米国はじめ西洋圏での評判を直接あげれば日本側が手のひらを返して追従してくるのではないか、とみているのではないだろうか。なるほどその種の傾向は、確かに日本人には存在するだろう。そして主に茨城県域に行政力を最適化してきた橋本氏に比べ、多少なりとも海外経験のある大井川氏の方がまだ宣伝できるのだ、と大井川氏は踏んでいるのだろう。果たしてそんなにうまくいく戦略だろうか? 私の意見をここで述べれば、問題はそんな所には全然ないのである。
 この問題の核心は、茨城県が保守的な自治体である、少なくともそう見なす方が好都合なレッテル張りが日本国民側に潜在しているというところにあるのだ。それは行政がそうだからなのではない。県民が保守的だ、と見なしたいのである。その保守性は他の日本国内の自治体と比べて、相対的に保守である、という意味であり、絶対的な保守ではない。宣伝しようにも(特に西日本を主とした、茨城県に全く無知な類の)日本人一般にとって茨城県の長所も短所も、この決定的な保守性にかなりの部分含まれてあるのだから、どれほど外国人に同様の面を我々は保守的なのだと説明したところでへえそうなんですね、としかならない。無論、イギリスも大いに保守の面がある国だ。日本全体も保守の傾向がある国だ。自民党が強権政治を長期的に行ってきて天皇制が敷かれた国民性は極めて保守的としかいえない。だが魅力度云々で日本国民達が侮辱しているのは、この保守性の事なのである。彼ら日本人一般の脳内では、保守性は田舎と結び付けて認知されていて、保守的であることは「田舎い(これをダサいと東京人が俗語で呼んでいる)」のであり、軽蔑すべき反面教師であって、それとは逆に進歩的であるか革新的であることが格好いいことにされている、というわけなのだ。価値観の根底にある評価基準が違う。或いは茨城県には先進的な面も大いにあるのだ、と述べる事は全く正しい。勿論、各種工学面でも思想面でも天下の魁である。だから保守性という茨城の本質的特徴のある部分が、強調されて捉えられていること自体は完全に偏見なのだというしかない。なぜこの偏見が流布されているかといえば、東京との対比効果である。大衆は複雑で緻密な思考より安易な単純化やレッテル張りによる偏見での情報処理を、脳の経済の為に好むといいかえてもいい。だから平均IQが低い人達にとって、それはテスト成績からいえば西日本に余計その傾向があるが、関東地方を南部で分断し、南部は進歩的で模範に足り、北部は保守的すなわち後進的だから反面教師なのだと偏見でレッテル張りし差別で済ます事が、最も楽だったのである。これが、橋本県政下で茨城の張ってきたステルス性の本質にあった情報の一部であり、この種の偏見の煙は、実はわが県にとって大いに好都合だったのだ。橋本氏が意図して県外人を誤解させたままにしておいたか、偏見の強化を図ったかは差し置いて、実際に煙幕的に茨城県側の何らかの先進的な情報を県外に容易に認識させないという情報の非対称性が実現してきた。戦略的にこれが正しい、という事はこれまでもこのブログで説明してきた。大井川氏と、県内の商業都市部住民は、まだこの種の情報非対称性、ステルス性による利益を認知していないというべきなのだろう。
 東京都はテレビ局をはじめとした大規模な情報発信機関を民間に無数に立地させ、しかもそれらが商業と緊密に結びついた組織になっているため、その情報を発信する東京人の利益になる偏見、多くは自慢とか自画自賛とか、対照的な個性を持つ都外の自治体や対象物を差別したり蔑視したりする事による自己宣伝を図る慣習が蔓延している。この傾向はパリ症候群の類である東京症候群を生み出す原因ともなり、遠勝りの効用追求を実質的なスラム街での輝かしい自己イメージの喧伝で行い続ける、という自己偶像化をもたらす。元々この空威張り、虚栄という文化気質は、徳川宗家や天皇家が地方人の次男以降の掃きだめである町人・商人社会に深く植え付けたものかもしれない。西日本の様に東京に一度も訪れた事のないか深く知るまで住んだこともなく、テレビを通じて眺めた機会しかなく、このメディア上の嘘や自慢偏見を信じる衆愚状態にある人々が多数派の場所では、現実と幻想がいれかわっている。東京都民はこの種の仮想を詐欺に応用してきたし、今後もしていくつもりだろう。だが、大井川氏の目指す筈このメディアバイアス・媒体偏見による地域の外の人をだましたり欺いたりする慣習は、本当に賢明だろうか。はっきりいえばレモン市場問題にあるよう、情報の非対称性を明らかに悪用しているという意味で、期待値を過度にあげて実質が劣っている自己を売りつける、商業的にも詐欺に類した業者たらざるをえず、もし取引相手、ここでいえば評価する主体が愚劣であればあるほどこの種の偏見の植え付けが効果を持つのだというほかない。フランスのパリは、京都はどうなったろう。観光客だらけとなった末に、経済的に凋落した、もしくは落ちぶれつつある。これが近い将来の東京である。情報戦略上、間違った方向性をとってきた為、必然的に没落する。実のない宣伝は害毒である。いや、実があっても宣伝は害毒なのだ。堅実な商業者は堅実な取引相手を選好するべきであり、それはいわゆる地元客や固定客が殆どだろう。嘗て京都にも、祇園という高級遊郭でに過ぎなかったかもしれないが、一見さんお断りという慣習があった様に言われてきたが、現在の商業主義化した国際通俗的な山城国にその面影はない。その種の戦略は、目先の観光収入に蹂躙されて消し飛んでしまった。
 橋本氏の執っていた情報戦略は、彼自身の意図と一致していたかどうかとは別に、全く正しかった。それは行政面でも情報非対称性を生み出し、常に県民優位になる様な受信優先体制を構築してきた。大井川氏は何を宣伝するというのだろう? 東京都民が愚かにも行っている類の、とるに足らない自慢だろうか? 勿論、ひろいあげれば県内にも、他国や他県と違いのある有用な物品やら情報の束やらはごろごろ転がっている。そしてそれを何らかの意味で商業と結ぶことも、意図してやれば多少あれ可能かもしれない。だがこの種の宣伝はわが県に不利な結果をもたらすと断言できる。一般的な県や地域は、中程度の情報非対称性があるに過ぎないだろう。またマスメディアを持つ主要都市は、発信優位の情報非対称性をもっているだろう。比べてわが県の優位性は受信優位の県環境にあったのだ。県外人がどれほどわが県を誤解や偏見で侮辱して差別してきていたとしても、それらが県内の情報のうち何らかの面が、最も他県民の為になる場合ですら、わが県の或る個性に有利でない場合、情報非対称性が存在する方が有徳なのだ、と判断できる。現実の経験で、県外人がわが県の何らかの面に否定的な態度をとっていたとして、その人が何らかの意味で有利になるだろうか。もしそういう態度をとっていたとしたら、その人はわが県について殆ど何も知らないか、保守性または一般的な失敗を示している何らかの点を、新しさへの狂信や反対例から比較して侮辱しているにすぎないのだ。
 詐欺の反対概念が堅実だとすれば、地域への肯定的偏見が初めからない方が、明らかに実力を証明し易い。この意味で受信優位の情報環境を今後も構築していくべきでしかありえない。日本国民一般が今後も、茨城や北関東への差別や偏見を強化していき、京都や北海道・沖縄への逆差別や贔屓感情を更に極端に持ち続けていく方が、実際にはわが県と県民の利益や幸福にとってプラスなのだというべきだろう。この結論は、確かに常識的な見解とは矛盾していると思えるかもしれないが、この課題の本体に見いだせるのは日本の情報環境における政治戦略の差異なのだ。
 更に次の時代を見据えた分析をここから述べれば、今後、日本国の各地は経済衰退期に当たって少ない利益を奪い合う構図に入っていく。その中では他県への敵意が顕在化し、これまでとは比にならないほど他県からの搾取が横行するだろう。当然この市場闘争を前提とした時代にあって、他県民にその地域の情報が知られている事は不利でしかなく、そのばあい共有地の悲劇が起きる。そして国際経済環境も変容の為、国内取引の機会費用が増大していく。つまり自国民への差別偏見による機会費用の節約という悪しき慣習はますます役立たなくなっていくのだ。偶然、北関東は情報障壁によって県外国民による機会費用的な取引状況から多かれ少なかれ守られた構図にある。いわばブランドがないことが有利な条件をもたらしてきている。市場における競争が激しくなるとは、ますます詐欺と堅実の間で費用対効果が試される過程なのであり、ブランド依存の企業は淘汰され易くなる。既存のブランドイメージを利用して利益を占めようとする傾向の自治体は、確かに一定の有利な条件から出発しているかもしれないが、それは過剰評価されるという前提にあるのだから、徐々に凋落する可能性が高くなるのは否めない。経営学でいうhalo、gain、loss効果(halo・ハロー、後光:何らかの特徴が全体の印象に影響。gain・ゲイン、得:最初の印象が悪いほど相手のプラスが目立つ。loss・ロス、損:最初の印象が良いほど相手のマイナスが目立つ)について言及すれば、茨城の実が優れていればいるほどそれを卑下や謙遜し、相手側に低評価のhaloという幻惑を持たせておいた方が得し易い。だから最も高徳なのは、gainを究極する様な、無意味で害のない悪印象のhaloで自己隠蔽しておくことなのだ。既にこの点については完成段階にあり、あとは実質を強化していくだけでいい。行政については全く発信力を抑制し、飛耳長目のあらゆる情報収集とその適切な管理に特化しつつ、宣伝は県民自身の利益になる範囲のみで民間人による市場原理に任せておくのが最も賢明なのである。沈黙は金、雄弁は銀こそ行政人についても当てはまる最善策なのだった。そして橋本氏はこの黄金律を知ってか知らずか踏襲していた。だから今回の選挙で県民のうち大井川支持者である2割は、単なる多数政治狂信者であるか、自己利益を公的忠義より優先する悪意の裏切り者であるか、自公の喧伝活動に扇動された愚民だといってもそれほど外れてはいないだろう。