2017年9月1日

保守と進歩という家畜論理

 自民党、天皇家、小泉進次郎の三者に共通しているのは、保守と名乗りながら自分だけは進歩的便益を得て、後進的な状態のままにしつけた大衆を家畜化、奴隷化しようという悪意、もしくは偽善の作為に他ならない。水戸に大井川応援演説にきた進次郎の演説をみると、保守的ではない自民党が自称保守と名乗るのは、馬鹿国民をだますためでしかない、というのがよくわかる。落語の様に巧言令色、水戸市の愚民を手駒にとってあおり、薩摩藩の末裔が自称保守政党を気取りながら進歩を主張のご都合主義な矛盾振りは健在で、かつて水戸藩や将軍を裏切って徳川の世を乱したこともどこ吹く風、今度はスパイの内乱分子であった西郷隆盛を模範と仰ぐ老公橋本氏を追い詰めて扇動政治を行うなど、どこからどう見ても水戸市民ならびに茨城県民を利用価値しかない奴隷として愚弄しているのである。
 大井川氏はたまたまこの様な悪辣な寡頭政治集団にバックアップされてしまっただけで、この点は罪がないかもしれない。また公明党の山口代表も、小中高大まで一緒の人物に肩入れしたくなるのも、自民党との対立を緩和したいという政略も理解できなくはない。他方で、自民党と天皇家の権力亡者振りがいかに偽善的で、利己心しかないと同時に、彼らを信じる人々を明々白々に裏切るかという事はどれほど強調してもしすぎはないといえるだろう。福島県の現状をみながら、原発再稼働を茨城県に要請する。この様な偽善、いや、完全な悪意が平気で表意できるような人間はもはや悪魔以外なにものでもない。長州閥のマキャベリズムや、天皇家の神道による自己洗脳を超えて、ポピュリストの小泉進次郎氏はバカな市民をあおって諧謔を弄し、現実には保守性と呼べる何も中身などないにもかかわらず、愛県的かつ良心的な県民を自民党やらその総元締めである天皇家の言いなりにしようというだけなのだ。
 ここまで分析できれば、ナショナリズムの正体も明らかになる。それは支配者、具体的には独裁権益を持つ政治屋連に都合のいい衆愚を、あたかも良識めかした自縄自縛の妄信、「仲間意識」という嘘によって相互依存的な洗脳にかかりやすい精神状態にしておくための扇動でしかなかったのである。水戸駅前での進次郎演説に現れていた、茨城人の素朴な価値観をあおる様な皮肉や、保守政党に属しながらの進歩の希求つまり自民党独裁の誘導、それにもかかわらず口さがない落語的な韻を踏むことで一種喜劇的に聴衆の心理を自分に都合がいい方向へ扇動する手法、これらは不仁の特徴に違いない。剛毅木訥の対極にある進次郎氏には扇動政治屋、デマゴーグの称号が相応しい。だが、問題の本質はこの扇動屋以外にあり、要するに権力維持のためには手段を択ばず民衆を操作する、という本格的な悪意が自民党や天皇家の行動にはっきりとみられるという事の方にある。現代の皇族は全く保守的ではない。私大から米英の一流大に単身留学しつつマックを操る。20代半ばで数億円の持参金をもらいながら結婚する。これらは国民からの税金でやっていることだ。一体、この様な生活をなしうる保守的な国民、県民がどの程度いるというのか。進歩的な己(官)が保守的な民からの搾取構造を独占し続けたい。これ以外に、自民党や天皇家の目的はないという事が明らかになった。
 大井川氏はもっと単純で純粋だ。本気で地元に還元したいのだろう。彼が経てきた一般的に華麗に見える経歴は、実際は彼の鋭い努力の経過を意味していて、その高いハードルを自己へのプレッシャーによって乗り越えてきたという自信から、海外の高い進歩力を持つ地域同様に、自分自身の生まれ故郷を革新できるはずだと信じてやまないのだろう。だが彼を今回背後から後押ししながら国民を操り人形にしようとしていた勢力、自民党とその奥にいる皇族は、茨城や福島、その他、青森、新潟など東京に被害がないと想定する地方に住む民の犠牲のもと、原発再稼働から得た税収益でぬくぬくと、贅沢に暮らしたいだけなのである。
 地域ナショナリズム、愛国あるいは愛県心は二重の意味で岐路に立たされている。第一に、この考えは多数決の結果に従順たることを要求するという意味で、多数派が支持しやすい寡頭政治政党のもたらす独占という結果、もしくは弊害にいかにも好都合である。第二に、この考えをもたない完全に利己的な個人や多国籍企業が、国家や国税、地方税さえ無視しtax haven・租税回避地を利用していても、皇族や自民党員あるいは官僚といった調整的正義を軽んじながら搾取の末端にいる連中が継続的に収奪できる財産の母数がへるのを危惧して何の指摘も対策もしなかったよう、つまり既得権益を持つ世襲政治家連が金持ちに逃げられるのを恐れていたよう、超国家的な個人主義者、単なる利己主義者が有利になる現代社会の構図に対して、自称民主主義国家はまったくの無力だという事だ。要するにナショナリストはその規模が小型でも、他人などキャッシュディスペンサーにしか思っていない根っからの商売人に簡単に騙され、搾取される存在でしかない。その事をしりながら愛国心、愛県心、愛郷心を家畜民の洗脳に都合がいい理屈として、既得権を持つ連中は彼らの良心を堂々と悪用しているのである。愛国心や愛郷心など天皇の金蔓に他ならない。それなのに、この偽善や悪質さに多かれ少なかれ勘付いているのに、なおも自分自身の利益のためだけに皇族閥に関連付けられた既得権の側に属していよう、というのが、進次郎であり安倍晋三であり麻生太郎なのだ。これらの人々はここまで見ていくと極悪人に違いないが、その極悪人達に善人面で支援された大井川氏に何の罪もないといえるだろうか。やはりすべてを顧みると、橋本氏の方に正義があったとしか言い様がない。なぜなら橋本氏は良心を持つ純朴な民を守ろうと戦っていたのだからだ。自民と皇族は今日、民衆抑圧目的の既得権益に他ならず、その利益の片棒を、ビルゲイツや川上量生の様な純粋な利己主義者の組織で、或いは
裕仁や明仁の様なより巧妙な偽善者の組織で、自己洗脳の癖を身に着けて担ごうとしている大井川氏は、はっきりいえば騙されているのである。いや、彼自身を欺いてもいるのだ。彼はやりがいという言葉で、公然と金を儲けていた商売人や、隠然と金を儲けていた世襲権力者といった利己主義者たちが、さも社会のため、さも人類のためと嘯く様子をまのあたりに、自分自身さえ欺いて、高い給料をもらえるだけ自分の働きには価値があったのだと思い込もうとした。現実には彼らの作り出した巧妙な策略によって貧民を貪っていただけなのだが。
 保守と進歩という論理は、どちらも既得権を奪い合う野蛮な政争の具にされているにすぎず、置き去りにされた、或いは狡猾に扇動された民衆の側は、いずれにせよ搾取収奪の対象でしかありえない。経営者を兼ねた大資本家・大株主が最も目立つ独占者だとしても、現実には皇室関連予算として毎日9000万円以上を国税から公然と浪費している天皇家の方が悪質だ。この顕示的消費によって愚民に威圧的な後光効果をもたらし、格の差を見せつける事によって、帰依させ洗脳する。既に権益の維持とは完全犯罪に他ならない。だが衆愚がこの事実に悟り、怒りや悲しみや憤りのあまりに、清貧な君主を求め真の共和政を志向するのでない限り、そして専らその様な賎貨思想の価値観は米国の前で時代遅れの様にうちすてられているが、民衆が家畜や奴隷として都合よく誘導される現実は変わらないだろう。もし大井川氏が真に善良な人物であったら、却って、国政の悪意、寡頭政治を目指す悪党である自民構成員や、神道信者の露悪的本性と、良識的県民の板挟みにあって進退相極まるかもしれない。なぜなら本当に民衆の便益と弱者の優先救済をめざして善政を行う清貧な首長、ホセ・ムヒカの類が登場したなら、大井川氏がそうなる可能性はかなり低いにせよ、利己的な天皇、自民、東京マスコミといった商売人達に唆されている愚かな民衆は、スポンサー企業の意向やら宮内庁2階の記者クラブやら官邸の大本営発表やらそれらの煽りに祭りといって馬鹿踊りするニコ厨やらに群衆として群れながら、聖徳の持ち主に逆上して濡れ衣まで着せて倒そうとするだろう。そればかりか、彼ら衆愚は搾取され気ぜわしい自分達が経営資本家たちに騙されるほど愚かなのが苦しい労働生活の原因である事を反省していないため目先の利益欲しさ或いは無能な人々への悪意ある嫉妬と虐待の意図によって、最初からこの種の君主道徳の持ち主を自主的に選びえないのである。