2017年8月31日

地域ナショナリズムと移民社会

 もし大井川氏の公約にみられる理論を政治的に実践すると、この県で最善なのは、移民促進県として人口流動性を極大化し、かつ個人主義に基づいて行動する習慣を身に着ける事となりそうだ。
 これまで橋本氏が行ってきた行政は、現北茨城市長の豊田氏と同様に地域ナショナリズムに由来し、水戸の徳川氏の愛民思想の延長にある、健全な愛国・愛県・愛市民による功利主義的な行政の類だったといえるだろう。大井川氏はこれに対し、刷新を唱えつつ米国型のIT産業を誘引しながら、人と財をあつめるという考え方をもちこんでいる。そして大井川氏の方法論では、地元人を優遇するより、無能な地元人を切り捨てていきながら、有能者を選好する(或いは逆に無能移民を切り捨てつつ有能地元人を採用でもそうだが)という米国資本主義の実力優遇的な展開が必要不可欠となるはずだ。当然これまでも県は実力本位で人物を評価してきただろうが、橋本氏の根底には最大多数の最高幸福を目指す様な功利的・福祉的な考え方も存在していた。大井川氏側に弱者救済という主張はあまり強調されていない。なぜならこの人は、ご自身が成功者の属する組織の渡り歩きをしてきた経歴からも、生まれながらに恵まれない人だとか、無能であるから出世の見込みが初めからあり得ない人、挫折の末に再起不能になっている人といった本来の弱者に、殆ど認知がないのである。
 橋本氏は「強く優しい県」をsloganにしていた。これは強い経済と優しい福祉を意味するといってもいいだろう。大井川氏に、優しさの面は見逃されているが、実際はこちらの側面、調整的正義の方が、商売ではない行政の必要条件なのだとこのブログで述べてきた通りだ。別にIT業が悪なのでは全くない。虐めをなくすことも重要だ。問題は大井川氏の理想の社会としてこの動画(【Pivote TV】Pivote Meeting”新しい茨城”の話を聞いてみよう!ゲスト:大井川かずひこ氏 from YouTube)内であげられている米シアトルやフランスはliberalな移民社会の典型といえる。勿論、強烈な人口流動性、つまり早いメンバー入れ替えのある移民社会にすればそこで虐めが発生する確率は相当に下がるはずだ。その代償に、田舎らしい田舎としての既存の茨城のある面は、恐らくかなりの可能性で消滅していくはずだ。外来種の方が強壮な場合が殆どなのだから、わけても人においてウィンブルドン現象(外人の方が活躍し母国人を駆逐する)が起きないはずがない。はじめから移民の主要な都市部で大井川氏の支持率が比較的高かったのも、この様なリベラル・寛容政策による犠牲をこうむる可能性が都市部ほど低いからなのだ。農村部の平和や低い犯罪率は、村社会性からくる相互監視にもよっているのであり、移民による人口流動性が高くなればなるほどこの秩序は破壊される。橋本県政にあっては、彼の田舎に対する理解や尊重の念から、商業地や、移民地区となってきたつくば市等との間に多様の統一が図られていたといえるだろう。大井川氏はおろかではないのだろうし、今後この種の当県の地域多様性やそれらの利害や目的としての幸福間の違いの調和を図らざるを得ないだろう。茨城は単なる商人気質である東京都の様に単純ではない。金儲けさえできれば皆が一様に幸せになるという訳ではないのだ。しかもこの県は、全日本のみならず全地球の縮図といえるほど自然、田園、都市の全面にわたっての最大級の多様性とそれらに固有の生態系がある。東京都民の様な浅はかな目先の利害だけを追いかける衆愚からみれば、金が儲かっている場所が繁栄、そう見えないところが衰退にすぎないと偏見しているのだろうが、実際は、都市化してしまった田舎町は自然破壊を憂い、工業発展をも環境の悪化として迷惑がっている場合も大いにあるし、つくば市にさえ天狗党どころか?歌以前から住む在来の住民が新住民のお高く留まった地元民に交わらない態度をいけ好かないと考え、国策による施設の押し付けに対し平和な農村の伝統破壊だと感じている層は確かにいるのだ。
 更に厳しくいうと、大井川氏は余りに単純に茨城を思い、全県土についてつくば市をベンチャー起業特区にする類の、ITなりICTの応用で金儲けをさせられれば、それが即ち繁栄にして羨望なり尊敬される新生の県になりうるのだと空想しているのだろう。これは東京都民という商人或いは小人集団が持っている類の、目先の利害損得でしか行動しない浅薄な知能における、生活多様性の否定でしかない。田舎暮らしの幸せは、経済最優先では決して得られない。商売人の幸福は農民の幸福ではないのだ。移民や外来者に荒らされる地域を繁栄していると考えているのは、愛すべき故郷のない哀れな都民だけだろう。いつまでも変わらない、少なくとも変化がゆっくりしているという事、自然がそのまま残っているという事、これらはどれほど大金を積んでも永遠に得られない、かけがえのない価値なのだ。金儲けなどどうでもいい。静かにゆったりと自然に包まれて暮らしていたい。この様な考え方を持つ人の生活感を、東京かぶれやシリコンバレーかぶれには理解も想像もできない。幾らでも変化したいのは、元から故郷を捨ててきた浮浪集団としての都市民だけである。その様な人々が国際資本や金融経済の波に乗って世界一の成金富豪になったところで、一体なんだというのか。虚栄に他ならない。自分の力で全世界を支配したところでなんだろう。その人には自然一つ生み出すことはできない。小川一つ形作ることはできない。小磯一つ守れない。大井川氏の人生観はまだまだ洗練されていないというべきだ。民俗学や自然学、文学だけでは十分ではない。老荘や仏教哲学ですら、茨城県の中にある無数の生の深みを知りはしないのだ。
 私に言う事ができるのは、経済弱者の救済とか、無為自然だとか、士農工商だとか、農本思想だとか、旧水戸学を一つの大きな流れとして現代の茨城まで伝わってきている深い哲学の束をつかみ、茨城県史の学習を、まず一度大井川氏は真剣にやるべきだ。常陸国史、茨城県史を知っていれば、移民政策に殆ど等しい大規模な改造を、この県土全体に適用する事が全く文化的ではないと悟るかもしれない。この県のことをより深く知っていたのは、恐らくだが、橋本氏の方だった。無論、大井川氏はそこから比べたら若すぎる。いかにも無鉄砲にすぎない。公明党の山口代表はおそらく大井川氏と国内学歴が等しいがゆえ長期関係を見込めると考えたろうし、都議選で裏切った自民党への再度のすり寄りもあって、彼が大井川氏側にこびたという事は、単なる政略行動だろう。安倍氏は長州閥を種にした権力亡者であるから、東京に続き茨城でも惨敗にするわけにはいかないと、保守王国を票田として少なくとも死守するべく自民推薦候補に肩入れしたのも明らかであった。橋本氏の地方自治法に基づく地方の知事選挙に、中央政界が介入するなという正論は、安倍氏の様な公徳の足りない、世襲の因縁や自尊心と思い込む虚栄心だけで持っている類の独裁主義者には馬耳東風である。大井川氏はこの様な幸運が重なって、県民のうち約半数を敵対させた状態で県政に入るのだから、今後、移民を中心にした県内社会を、つくばや日立の様な一部の都市部に集中させるか、全体に適用する事でこの県そのものを移民社会にするかについて慎重に選択してもらいたい。橋本氏の愛県的施政と、大井川氏のいう営利的な施政は、要求される生活態度に大幅な違いがある。前者は地縁や地元を優先する方が有利になりやすい条件をつけるが、後者は県だとか市だとか町だとかの地権者を無視し機会費用を節約しつつ、個人単位で金儲けする方が有利になりやすい国際適応を意味する。なるほどこれは大幅な転換だ。これから4年間で、移民だらけとなるのならその様な県を、私個人はなにも否定しない。むしろ歓迎さえするが、水戸徳川氏の主義していた尊攘理論は、そこでは時代遅れの産物として完全に無視か否定されていくのだろう。では、尊攘志士らは一体何の為に忠義で大量死していったのか。回天神社や弘道館に記録されている精神があるなら、地域ナショナリズムとは一体なんだったのかを問い直すべきだろう。