2017年8月31日

魅力度に関する最適戦略について

 もし、これといって不足のない、恵まれた立場にあったといえる茨城県民が、大井川県政によって何らかの方途をとって西日本人のうち数百人のブランド総合研究所会員の偏見を正したとしよう。それによって、石破茂氏や小泉進次郎氏らが音頭をとってもちあげようとしていた類の当該調査の変化があったとしよう。そして大井川氏はご満悦で挑戦すれば変化を起こせるのだと、新政は成功したと考えたとしよう。これは本末転倒だ。
 田中章雄という極悪人による魅力度調査の根源問題は、それが差別や偏見による非科学的、もしくは疑似科学的な悪意ある報道スクラムによって、弱い立場にある者、不利な人間を殺意を込めて徹底的に虐め殺そうとする、日本国と日本人、村社会と島国根性の一番悪質な面をまざまざと示しているということにある。だからたとえ茨城が別の評価のされ方をしようが別の県、別の誰かが再びストレス解消或いは集団の便宜的結束の為のいけにえ、scapegoatとして虐殺対象になるばかりで、日本人も日本国も、東京やら各地のマスコミも、西日本も、田中章雄容疑者も一切なにも変わらない。日本人一般が虐め大好きの極悪国民なのだということを、田中章雄は金儲けに利用しているにすぎず、たまたまその標的に、過不足のない調和のとれた我が県がなっている、というだけなのだ。
 いわば自分だけ被害を受けなければ他の誰かの被害なら構わないと、大井川氏はいいそうなものだ。日本国民がなぜ虐めを好むかといえば、この国が閉鎖的な村社会、島国であり、固定された成員がわかりやすい地位を保ちその押し付けられた役割、階級、性格のなかで極力型にはまった、天皇家はじめ支配者に都合がいい奴隷の様に、機械の様にふるまってほしいからである。これは天皇やその家来にとって管理しやすい従順な奴隷民が搾取するのに好都合だからというだけではない。当の国民自身が固定メンバー間での差別を含む順位制を、思考の節約の為に選り好みしているということなのだ。だから一度はりつけたレッテルや汚名を、その日本人の知能指数が低ければ低いほど徹底して信じようとするのである。凡そ日本国民自身からなる集団では、どこでも凄まじく陰湿な差別や贔屓といった硬直的な階級化の現象が現れるのは、それが彼らの脳内では正義や公正とすりかえられて理解されているからだ。
 これほど魅力度調査問題に現れた日本国民のもつ病根は深く、単に数百人単位の西日本人の一部脳内を変えられても、日本人一般の狂信的階級志向、つまり虐めや偶像崇拝の精神構造は変わらないだろう。報道で水戸市の恥知らずで愚かな一市民が小泉氏を様づけでよんでいたが、この種の人物が他方ではなんの罪も落ち度もない人を徹底した悪意ある偏見で虐待するのだ。偶像崇拝と虐めは、自己懐疑という思考習慣を持つには余りに単純で低知能な脳にあって表裏一体の関係にある。弱い立場にたたされた人を集団で押し殺そうとする悪意。強い立場にたまたま立っている人に落ち度も欠点も無視してひたすら隷属する卑屈さ。大井川氏は、一体この種の愚民の何をどう変えようというのか。バカは変えられない。日本人一般は単なる愚民である。西日本人一般についてはいうまでもない。愚民をまともに相手にするな。差別や偏見をもつことは、それを持っている人自身に最大の不利さがあるのだ。つまり茨城県民自身は、橋本氏が行っていた通り、郷土検定の様な啓蒙教育によって自分自身を正確に捉えることができればそれで十分すぎる。あとは、通常通り他県や他国について学べばいい。知的障害という場合を除き、愚かな人間にまともに対応しても、何一つとして得はない。悲惨と悪意しかない人間の現実と救いようのなさだけを得るだろう。
 ニコ動は衆愚から会員登録によって金をまきあげる商売型があった為に愚民にサービスしていたかもしれない。だがそれは視聴者数の一定割合が有料会員になるという計算下に大衆に訴求した結果、そうなのだ。茨城県の宣伝がこの種の営利構造をもっているだろうか。通俗的な大衆社会ならすでに東横、関西、名古屋があるではないか。わが県まで大衆向けの営利構造をもって自己宣伝する意味はなにもない。
 まとめると、
・魅力度調査は不正確な似非統計による単なる衆愚扇動の例にすぎず、その問題の核心は日本人のもつ階級化という思考節約の癖にある。
・愚かな人ほど差別、偏見、偶像崇拝という認識の誤謬をもち自損しやすいので、知能指数も大部分遺伝する以上、単に自分自身もしくは茨城県民がそれら非科学的な誤りを免れていれば十分すぎる。
・天皇家は愚民化でより楽に統治するべく宗教による洗脳を図り、今日では東京都民がマスコミによりこの役割を踏襲しているのだから、ドワンゴの様な大衆販促や西日本のブランド総合研究所会員である特定数百人への集中宣伝による営利構造を、茨城県庁単位で行う意義は凡そ見いだせない。百歩譲ってこの種のPRが茨城の金儲けか観光集客か移民増大につながったとして、それが虚栄以外のなにかになるとは到底いえない。なぜなら、日本人一般の階級志向自体を国民成員の過剰流動性によって破壊できないかぎり、別のどこかの都道府県か個人が標的になりかわって延々虐めや崇拝がつづくから。
 ここまでくると、大井川氏のやろうとしている茨城県に関する評判を西日本の特定数百人を標的にするなり県外の衆愚を標的にするなりして差別的偏見を変えさせて向上させるという方法が、対症療法をこえた根本的な問題解決を果たすには、日本国そのものへ英語公用語化をはじめとした移民国家になる施策をとらせることで人口構成に激しい流動性をもたせるしかないといえることになるだろう。しかも階級化をもたらす特定の価値付けにも猛反対してこれを個性の多様性とか価値の多角性を旗印に次々破壊するという、ほぼ完全に米国的な政策を実践するしかなくなる。それならはじめから米国に移民してしまえばいいのではないか、と反論がありそうなものだ。もしこの種の移民政策が可能ならつくば市の様な英語公用可能な国際特区に茨城県単位をする程度しかありえないだろう。だがそれは茨城県民が向上はしようと県外愚民の脳をとりかえることにはならないのだから、堂々巡りにしかならない。結局、バカを相手にするだけ損害なので、魅力度ネタで侮辱している愚民をみたら低知能フラグだと見なし原則無視し、程度が酷ければ関わらない方が得策の相手と理解できようからかえって激しく誤解させたままにさえし煙に巻き、一方では自分を含む茨城県民自身のみに県内の有益かつ県民の幸福に正に相関する情報を敷衍させることが戦略的かつ利口なのである。