2017年9月6日

内部快適性と外部都合性

 東京都に住む事の不快さ、不幸さ、虚栄心を鑑みると、県外の情弱衆愚から魅力があると思われ地価が高騰し、人口密度が上がってしまう事の不条理を十分再考しなければならない。最も合理的なのは、茨城人にとって有利になる県政をとることだ。
 簡単にいえばおもに西日本のど田舎者を悪意の都民に騙させるままにしておき、ますます人口を東京に集めさせ、その対比効果として都民に驕らせ北関東を「旧態依然のいなか」「(西日本のどいなかから出てきた田舎者にとって)地元の風景と変わらない環境」「遅れた場所」という虚偽情報だけで塗り固めさせておいた方が得策だ。つまり、今までの茨城がとっていた方向性は、費用対効果で居住快適性が圧倒的に高い環境を実現できていたのであり、謎の風評から魅力度が高いと思われてしまえば穴場として地元を知る人だけにとって好都合な点を失う上に、観光地として居住性が最悪である京都市のように、生活者にとって地獄化してしまう。何らかの風評や、古都としての観光収入があがれば努力の必要がないため、大仏商法化してGDP最下位の奈良のように県民所得が下がる。要するに、県外から何もないと思われ都民が悪意で差別している茨城県内に、県外人にとってではなく(これが大事なところだ)、県内人にだけ快適性が向上するあらゆる工夫をし尽くす事が、県政のとるべき道なのだ。
 魅力度なるものは「都道府県外の人」にとって、その土地の持つ何らかの特徴が好都合かどうか、という外人好都合性、市民不都合性に相関した指標なのである。内外人にとって同時に魅力がある、という場合も考えられるかもしれないが、現時点でその様な例は見受けられない。県内人にとって不都合だが県外人にとってのみ好都合な改悪は、県民に対する迫害だというべきだろう。
 日本国民の9割は田舎に住んでいる。現実の都心を知らない田舎者の憧れといえば、原宿、渋谷、六本木、千代田区の皇居辺、或いは京都市の洛中である。これらの妄想は天皇制と神道への狂信、テレビやマスメディア、インターネットを通じた日々の洗脳、拝金主義による成金への羨望、大衆商業文化による精神汚染などが原因として考えられる。他方で現実に都会生活している側は高エントロピーからきた不快や不条理の鬱積した高ストレス環境なので、大自然への憧れが生じる。このため手付かずの自然と思われている北海道、沖縄といった北国・南国のイメージを担う両極端な自治体に憧れられる。これらが魅力度調査に現れている傾向である。いいかえると、生活にとって快適で過不足のない調和的な環境が最も低く評価されるのだ。低魅力度とおもわれる地域が憧れの対象ではないと見なされるのは、現実的快適性や功利性が大衆一般の妄想の中では、完全に見逃されているからだ。いいかえると、現実の快適さ、県民の質的・量的快楽の最大化による幸福が、茨城県の現に高く保っている特長であって、更に我々県民の生活環境における幸福に直結する調和を高めていく方に進化するべきなのである。国民の9割を占める田舎者はバカなのであり、1割の都会人も悪意に過ぎない。その様な人々からの評価を受ける必要は何もない。現に自分たちが快適ならいいし、自分たちの快適性のみを上げ、田中章雄という福井出の田舎上がり新東京人による悪意と偏見報道を利用して、外部の人たちについては茨城限定の快適性を享受できないほど愚かなままに保った方が、我々には誠に好都合なのである。