2017年3月20日

茨城財政戦略論

 ピケティ『21世紀の資本』のr>gは、return of equity:株の配当、growth of economy:経済成長の略で、資本収益率>経済成長率というよりややこしい訳にされている。
 また、岩井克人『経済学の宇宙』(2015年)によれば、資本成長率とはr×s(sは恐らくsave of moneyの頭文字、貯蓄あるいは貯蓄率)で、ピケティの式は正確にはr×s>gであるという。つまり株の配当と貯蓄率をかけた値が、経済成長率より大きい、として当数式は考えられるが、実際はrs ところで、私の見解では、幸福な社会とはr≦g、gがr以上、つまり株の配当より経済成長が大きい、経済成長率が資本収益率以上であるような状態の社会である。そしてr>gである社会は不幸な社会だ、と定義できる。なぜなら後者は相対所得の開きによる格差にまつわる負の感情、痛みの感情であるねたみとか、地位財の低さによる惨めさを感じやすく、その裏返しとしてうらみ・resentmentによる村社会的な攻撃性とか妬む対象への集団虐めによる卑しい喜びが発露されやすい状態であるからだ。裏返せば、幸福な社会ではねたみが生じづらい上、以前貧しかった人達が相加平均的に、つまり殆ど等しい歩調で成長していくので、他者の幸を己の事のように感じる機会がふえるのである。調度、よい学校や部活でみなが努力し成績をあげていく、切磋琢磨の状態に近いといえるだろう。
 これらの議論は、究極のところ、アリストテレス『ニコマコス倫理学』でいう配分・調整的正義の議論に戻る。rとは配分、gとは調整の正義に関する観点だと考える事もできる。ピケティはフランス人だが、古代ギリシアの政治学的伝統を、マルクス『資本論』の搾取に関する議論、労働価値説を上空でとびこえて、bypass的に通過してしまいつつ、再び経済の議論に接続させているのだ、ということができる。だから、一部の論客はピケティが資本主義という経済論の趣旨を逸脱している、財政問題と混同している、よって共同体主義者・共産主義者・communistにすぎず、新自由主義とか自由至上主義・libertarianismとか自由主義の純粋経済論としての側面を越権していて、端的にいえば有利な立場であり続けられるはずの資本主義信奉者、株主に不利な論者にすぎない、と難詰しているわけだ。更にいえばピケティは英米ユダヤ的な個人主義に対する反論者とみなされているといえよう。だが上述の様、これは伝統回帰に過ぎない。アリストテレスは商売と財政が不即不離か、もしくは相見互い、互助的であるとみなしていたからだ。
 話を進めると、労働というものについて、私は次の様に定義する。労働には大まかに2つあり、生産労働と搾取労働が存在する。前者を生産、後者を搾取と定義する。そして生産とは農漁業と工業が該当する。いわゆる農工、つまり第一次、第二次の産業である。他方で搾取にはサービス・奉仕の業態を含む商業、不動産業、株・為替業が該当し、いわゆる第三次産業を意味する。これらのうち、生産にあたる農工業を市場に作物や製品を出す前の生業を純粋にみてとると、収穫のほか、物々交換や寄付が実質的な生産物の交換である。これらをここで無償所得と定義する。また商活動のうち、製造物の卸売り、小売、物品を介さない単なるサービスの提供、徴税にまつわる活動と行政サービスとしての福祉活動(ここには図書館や博物館、美術館などの行政機関での奉職、自衛隊や警察による防衛活動、宗教法人上の収益性のある活動、立法・行政・司法の全ての働きを含む)、そして貿易を、搾取と定義したわけだが、これはNPOによる非営利活動に際しても、集団の上下関係や能力差、そして主客の立場により、人が働く事によってより富んだ側がより貧しい側から金銭を移動させる場合が基本的に全てだから同集合に含むのである。もし微視的により貧しい側がより富んだ側から奉仕を受けたとし、それは寄付的・慈善的な活動とみなせるとして、全体として例外的であって、上述の無償所得の場合に比べて、金銭を介して継続的に何らかの富の不平等性を結果させるという意味において、対価を要求する意味で乞食、あるいは搾取という用語を労働価値説の定義から引いて、やはり同集合にあてはめよう(共産主義やマルクスへの偏見を持った人々がなんといおうと、或いはピケティがなんといおうと)。この搾取のうちにある商活動を勤労所得と定義する。また、搾取には他に不動産による家賃や土地代からの収入、そして株や為替における差額を売り買いのうちに儲けるか、株主配当をえる事による収入があって、これらを最後に、不労所得と名づける。まとめると、次の様な図にすることができる。
労働ー生産ー農工ー収穫、物々交換、寄付ー無償所得
   |ー搾取ー商ー卸、小売、奉仕、福祉、貿易ー勤労所得
         |ー不動産、株、為替ー不労所得
ここで、累進課税は所得の種別に不労>勤労>無償の順で、不労の方から大きく徴税し、無償からは限りなく免除しなければならない事がわかる。これを累進課税度、或いは累進課税の調整的正義と定義しよう。宗教団体への寄付は、宗教法人が対象である場合、蓄財による収益性があるとみなせるので、勤労所得にあたるという事になる。自営業者も営利性がある為に勤労所得がある。ここでは、金銭による蓄財が不可能である類の所得を、無償所得と定義してある。より厳密には、文化資本、非地位財的な資本、例えば土地資本だとか勲章、賞など何らかの名誉に関する資本、技術資本、人的資本など、蓄財性を換金可能な形態で保持している場合があるだろうが、これを「準資本」と定義し、無償所得の中で課税検討に値する例外とみなそう。資本とは資産とか株、より日用語ではたくわえといいかえることもできる。ピケティがr>gの不等式で指摘していたのは、利益÷投下資本によるreturn of equityが4~5%程度なのに対し、経済成長率は1.5%程度(1~2%)程度であるという認識による、不労所得>勤労所得>無償所得の順でより蓄える効率が高い、という分析だったのであり、これは配分的正義の理法であって、財政的には徴税による結果の所得調整をめざし、累進的に課税しなければならない。そして幸福な社会とは、無償所得、勤労所得、不労所得の順で実質的効用が得られる状態をさしている。今のGDPは企業の消費が、三面等価の原則、つまり生産・配分・支出の等価性を前提に算出基準とされているが、これは実際のところ、実の豊かさ、実質的な価値の効用性を測る数値ではなく、単に企業活動の活発性を意味にしているに過ぎない。特に無償所得に関してGDPの外にあり(磯原指標で示したように)、tax haven・租税回避地を国際的囲い込みでなくさない限り、不労所得に関しても余りあてはまらなくなっている。つまりGDPとは勤労所得の値に関するかなり曖昧な指標なのだということができる。
 アリストテレスの正義論における配分・調整の両正義は全体的・普遍的正義に対して部分的正義の枠内で定義されている。従って不労>勤労>無償の順に累進課税すべしとは、部分的正義のうち調整的正義に関する理論だといえる。なぜ累進課税度が必要かといえば、g≧rが多数者の幸福に感じる社会だからで、最大多数の最高幸福に該当する状態だからだ。脳科学の見地からいえば、前部帯状回は妬ましい他人を認知すると己に痛みを感じさせ、その相手の不幸で線条体が報酬系の快楽をもたらすという(放射線医学総合研究所(千葉県千葉市)による研究)。いわゆる人の不幸は蜜の味という諺に該当する脳の反応だが、r>gの状態では地位財を保有する超少数者が虚栄心を満足させるべく浪費し、顕示的消費に対する多数派は不平不満をねたみによって常に持ち続ける状態となり、不幸感が増す。北欧圏が社民主義、民社主義的な社民党の与党化によって所得の結果調整を行い、不幸感を感じにくい社会にしているのは、これらの見解をつぶさに見ていく限り、極めて賢明な事だったといえよう。対して米英圏はユダヤ財閥が主導してきた配分正義への極端な偏りが顕著な社会であり、この傾向はglobalismやAmericanism、或いは英語帝国主義、米国第一などの覇権主義的な傾向、Hegelismによって増長されているが、西日本の南西地区、薩長土肥は薩英戦・下関戦以来、彼らの利己的な社会構築を天皇に媚びるか天皇を駒にする形で継続してきた。自民党は薩長藩閥の明治寡頭政を内的に体現している、天皇帝国主義の野望を吉田松陰から陰に陽に引用している政党であるということができる。実際のところ勝てば官軍とはwinner takes allという海賊のやり口にすぎない。つまりは無法者の蛮行なのである。植民地主義や侵略主義という松陰の野蛮な理法は、米英の保守層が持つ愛国的な利己性や、司馬遼太郎に洗脳された西日本・すなわち西国の底辺が持つ明治懐古趣味を通じ、開国信仰(既に日中韓の学者間の共同研究により、明治時代より江戸時代の日本列島の各地の方がアジア及び国際的な平和外交の態度であったし、あるいは平常の貿易が活発だったのが証左されている為、薩長藩閥による反徳川の悪意ある汚名に過ぎない)、globalism信仰、貿易信仰、自由経済信仰のなかに形をかえて展開し続けている考え方である。福沢諭吉という大分出身の下級武士が、九州山口高知のもっている反中央的かつ弥生的な裏返った反日の敵愾心、反逆精神を引いて、脱亜入欧を唱えて脱構造主義以前の民族差別を中央政府の東京界隈で成り上がる方便にしていたり、西日本各地の人々が坂本竜馬という小説上の人物が東日本各地を侵略殺戮した薩長兵の日本人殺しの武器を己の利益のためにスコットランド商人から売り買いした事象を美化していたりするのは、華族制度や西国系政商への利権誘導、薩長寡頭制下の天皇帝国の建設による新たな身分差別をもたらしたにすぎず、要するに恨みに過ぎない。『明治維新という過ち』を書いた原田伊織は誤解しているが、旧水戸学はこの種の松陰的侵略主義を意図していた事は一度もなく、専守防衛や象徴天皇の元での国会を主張していた、戦後政府の理念に寧ろ近い、より先駆の考え方だったといえる。いずれにせよ、安倍・麻生家が表向きどういおうとも彼らの日本史上の実質目的は皇族閥と薩長藩閥による二極化、つまり天皇主権と国民奴隷化を松陰の引いた中国的な一君万民論(つまり皇帝制。『極東史』で示したよう天皇家の先祖も弥生系の中国江南人だが)で推進しつつ、米国の軍事の傘の元で安倍・麻生家の構成する皇族閥が天皇家を中心とした諸財閥の元で格差社会の最上位層となるための諸手順なのだといえよう。そしてこの公家・華族志向の傾向、寡頭政治的ないし独裁政治的な傾向は、天皇が渡来しヤマト王朝を奈良に建設した古墳・飛鳥・奈良の300年代~700年代頃から天皇家の界隈に擦り寄っていく家系にずっと存在するものであって、米英圏のもつ利己的な商業主義の傾向、それはユダヤ財閥がAnglo-Saxon民族のうちにあって内政的に体化させたものかもしれないが、世界侵略と大規模な植民地化による悲劇と副作用としての近代化や単文化・monocultureをもたらし、南北格差や現国連常任理事の形成につながり、また人種差別や民族差別をもたらしていた原因になっていたのが事実である。
 国連調整税による国際徴税と、再分配による南北格差の是正、これらはある近い将来において実現する以外ないだろうが、その間、政府開発援助(ODA、Official Development Assistance)によって日本が名誉を得る為のひもつき寄付を行ったとして、それは仮言命法の様な不完全な善意かもしれない。勿論、究極のところNPOやNGOを通じた無償の寄付、かけがえのない善行は政府単位では殆ど望むべくもないかもしれない。国連も当初のカント的な(つまりイマニュエル・カントが『永遠平和の為に』で考えていた様な)永遠平和をめざす国際機関としての目的はどうあれ、第二次大戦の戦勝国による利権団体という実態である限り、定言命法的な真の善行を、多くの場合に自主的には行わないだろう。日本国憲法の前文にある目的のうち、名誉ある地位を得たいとする考え方はただの地位財による虚栄、虚飾だろう。貧乏公家の様な空威張りは、幸福とは大して比例も相関もしていない。
 茨城県は単独で善行をするべきだろう。余裕があってもなくとも、単独でひもつきでない政府開発援助をし、積極的にボランティア、奉仕団を形成し、恵まれない地域の人々、あるいは国外および県内の虐げられている人々を助けて回るべきだろう。この種の行動は、米英圏・西国圏の拝金営利主義的な自由主義論者からは小ばかにされ、無意味だと罵られるかもしれない。薩長土肥ら暴力主義者、侵略主義者、Machiavellistらは所詮、米英文明の模倣を中華皇帝の模倣者としての(元来の自然崇拝を意味していた神社を、中国江南移民としての己の遺伝子への祖先崇拝にすりかえる形で盗んだ)天皇家による天皇独裁国民奴隷制で完成させたい、寡頭政治主義者に過ぎない、と既に当論考で私は論じた。彼らもまた、利己以外を無意味あるいは自損と侮蔑するであろう。彼らの利己性向からは、無条件の利他行動は名誉ある負担と捉えられることはなく、あるいは返礼や報酬の期待される条件つきの営利的な互恵利他行動とも予想されず、お人よしに過ぎないただの失敗となるのである。そして仮に薩長土肥人が利他行動に見える何かをしたとしても、上記のよう互恵的利他とかひも付きの寄付商売とかであって、利己の目的を完全になくした無我と完全な慈悲の為ではないだろう。彼らは遺伝濃度について弥生人の末裔であって、2800年前の列島への侵入以来、明治維新のクーデターと戊辰以後の全戦争を勝者の立場に立ったつもりで完全に美化し、また太平洋戦争において侵略が失敗したのは原爆暴力で負けたせいだとしか反省できないほど、従来の遺伝傾向が前頭葉の点でただでさえ思いやりが薄いうえに共感や同情を重んじないほど利己的に生まれついているからであり、かつ、弥生人の遺伝子がとった、日本の多数派を構成していた母体集団として縄文人に対しての獅子身中の虫的な増殖戦略なのだろう。

 保守、すなわち鎖国や保護貿易の傾向は、愛国主義、愛郷主義、nationalism、patriotism、これらの利己的な集団主義傾向と同様に、長期的には当地域が損失する事になるだろう。逆説的に、進歩あるいは革新・改革・開放経済・寛大寛容あるいは自由志向の傾向、つまり個人主義、自由主義、globalism、英語帝国主義、そして国連主義、国際連携主義の傾向は、覇権主義との同盟傾向すら、有利な前置きになりやすいだろう。人種差別や民族差別、家柄とか世襲による血統差別は保守についてまわる特性であって、自由はこれらに反し、能力とか成果とか現実的な結果本位の性向を持つ。むしろ、競争的に優位になるのは後者だろうと予想されるが、それは新たに格差を生じさせ、累進課税度の程にもよるが、必ずしも幸福な社会を保証せず、場合によっては新興階級の勃興による入れ替え戦があるだけだろう。また麻生・安倍両人と皇族閥は、自民寡頭制の元での政教一致の神道政治(旧水戸学の烈公・藤田東湖による『弘道館記』を、安倍・麻生両人が恣意的に断章取義し、烈公と藤田の一国文明主義的な和平統治への志向を無視、松陰的開国侵略主義へ政教一致の規則を皇帝独裁か側近による寡頭政治を有利にする一君万民論へ改悪させ恣意的に濫用する事)により、保守と自由の両面を使い分けつつ、表面的には保守を偽装して明治寡頭制の理念を美化し、独占的な権益を得ようとする筈である。
 茨城県は県内を自由にし、日本国外に対して可能なだけ善行を以て処するべきだろう。他方で、g≧rの状態を可能なだけ維持できるよう、県内の累進課税度を高めているべきだろう。無償所得に関しては免税するべきだろう。なぜなら県内の保守は他県との競合的に不利なばかりか、閉鎖的村社会は機会費用の増大をもたらし、革命と呼ばれる一揆か被侵略によって多少あれ遅速あれ駆逐されてしまうものだからだ。日本政府の単位で、これらの事は凡そ不可能である。西国民度は国内の保守を志向するし、安倍・麻生家の薩長藩閥退行的な自民寡頭政治(これを安倍麻生寡頭政治と呼び、通常の自民党寡頭政治・自民寡頭政治と区別もできるが)は皇族閥の元でr>gの極大化を図るだろう。また、米英両国はフランスと共に、グローバリズムの元で英語帝国主義を敷衍していくだろう(フランスは英語帝国主義を望んでいないが、国際的な力関係のため妥協的に)。これはイスラエルによって支持され、中東への弾圧、内乱化による死の商売を無限大に拡大させようとする安倍氏の松陰的侵略主義とも、キリスト教原理主義的な麻生氏の反イスラム志向とも一致し、日本政府を米国の属国的な従属状態に置き続けるだろう。他方、シリアや他の中東諸国の世俗派は、米英イスラエルの政府における情報機関に内的な紛争分子として操られるとされるイスラム国(
スノーデンの暴露によれば)を、イスラム教に汚名を与える不都合な内乱分子とみなしつつ、純粋なイスラム原理主義を志向する点で世俗派への離反者や内通もうみだすだろう。関西もしくは西国、西日本各地は、東日本、首都圏、関東、茨城へ根底的に大体においてどこまでも悪意しかもっていない、とみなしてまず間違いがない。勿論、包含された例外の遺伝子や一部の性善な集団集合があるにせよ、弥生民族の基本性質は性悪であって、西日本の各地は初期状態で利己的な害意をもって対外的に処する性質がある。だから茨城は対西国・対東京戦略として対国内的には保守、愛郷の態度で接さねばならない。国外に対して自由に、国内の県外の南西県側に対して原則保守に、そして県内に対して自由に、という三重の戦略が最適である。国外と県内の自由、そして西国東京への保守。なぜ西国や東京に対して保守愛郷でなければならないかといえば、相手が無知や低民度のあまり侮辱的な意図や悪意ある搾取、騙しを目的にしているのが諸調査から明らかだからだ。国政に対する態度も同様に、愛郷無限でなければならない。但し、県内の自由、そして国外に対しての善行が、茨城の取るべき道のりである。茨城にあっては県内自由、県外保守、国外善行、これらを是とみなすのが好ましい。