2017年9月5日

謙遜による情報非対称性の徳について

「茨城県の魅力度があがったら別の都道府県が落ちるので、茨城県は永遠に最下位でいい」「他の県が差別されるよりいいではないか」「県外の人には茨城より、他県の魅力をもっと知ってほしい」、という論理が、対外的に正しい。なぜなら実際に茨城自体の情報を知らないか、わざと一定の観点からのみ偏見を強化しようと扇動する県外人が愚かで悪意なのだし、結局、愚者や悪人に知られないまま県外人から我々について完全に誤解させ、情報戦に勝利していく方が我々にも断然、有利有徳なのだから。
 県外人一般が初期状態で茨城の味方だとは一切思わない方がよい。日本人一般とは、根本的に営利や搾取のみを目的に茨城並びに関東北部に接してくるだけの、暗愚な存在である。県外人に県内情報を知られる事にはなんの得もないし、損害のみある。政治的にも軍事的にも、茨城から発信する情報は必要最小で、営利に限らねばならない。互恵的な意図を持つ茨城県民自身が県内で幸福に益する情報を共有しながら知り尽くし、なおかつ、受信機能と受信機会の最大化によって外部情報も知り尽くしている事が最も重要だ。
 他方で日本政府については、茨城県の営利が政府のよき目的と一致する場合に限って、利用価値がある。国政一般が県政の味方と思うべきではないが、当の政権が茨城の功利性にとって有利、もしくは長期的得という意味で有徳になる場合のみに、政府に県内の何らかの情報を伝達する価値があるのだ。
 茨城県内にのみ流通する内外情報量の最大化と、県内にのみある情報の発信を最小化する事。この情報非対称性を強化し続ける事のみが戦略的に正しいのである。魅力度報道は日本人一般の階級固定による思考単純化の習癖に合致する(つまり衆愚に都合のよい低知能さにあわせた心地よい嘘を更に強調する、post truth)。今後とも、国内において東京発のマスメディアに扇動され続けたがる衆愚側に、情報強者や道徳的存在となるだけの向上の余地は全くない。端的に言えば虐めが大好きな日本人一般は、一度虐めの対象を定めて相手が何らかの反応をしようものなら、相手が自殺するまで追い詰め続ける。田中章雄をみよ。彼が東京都民や西日本人一般と共に死ぬまで茨城を偏見報道で虐待しながら、金を儲け続けることは100%疑いようがない。田中や県外人一般が確証バイアスからきた何らかの錯誤によって場合によっては致命的に損害するは明らかだから、我々がわざわざ我々の費用で彼らに損害のある誤解を解く意味は全くない。彼らは悪意な上に愚劣だが、その邪悪で、失敗している不良集団から逃れ出る為の誘引がないのだ。
 逆に茨城県がなすべきなのは、日本という国の民一般からの侮辱や差別を受けたとき、更に我々について理解させないよう自己謙遜で素通りする事だ。徹底して自己ステルス化し、相手側に内情を見抜かれない事が重要だ。他方、相手がどの程度我々についての正確な情報を知っているかを暗に調査せよ。衆愚を無視して素通りし、県民の実質幸福度を最大化する事。かつ、直接国外の我々にとって役立つ自治体とつきあうこと、つまり日本人集団からの抜け駆けと自己差別化による県民の幸福最大化にすぎない。
 最後に強調しておくが、重要なのは茨城県民、茨城人の幸福に益する県民利得なのである。決して県外人からの羨望とか、憧れとか、人気とか、誤解を含む名誉などではない。県民の幸福が重要なのだ。ここでいう幸福の中で、マズロ―の欲求階層でいう「尊厳・承認」の欲求が満たされないという事を不満に思っている県民は、現実に北海道やら沖縄やら東京やら京都やらに住んだことのない人々でしかない。虚栄は当人の幸福には全く益さない。県外人が我々について無知で、場合によっては悪意の東京都民にあおられて誤解している事、つまり何らかの角度から無知な県外人が偏見を持ち、差別し、我々について正確な判断をできなくなっている状態は、我々には完全に有利でしかない。なぜならそれらはリトマス試験紙のよう、県外の差別主義的で非科学的な愚か者を見分けさせるから。我々は愚かな、或いは悪意ある県外人からの誤解を真に受ける必要はないのであり、単に、県民自身の価値基準に基づいて、外部からの評価を超越し、自分自身の幸福のみを極めればよいのである。北海道や沖縄に住んでいる人が、道県の外部者からうらやましがられたとしても、それが誤解に基づくものであれ、何等かの偏見によるものであれ、或いは正確なある科学的観点からのものであれ、単に己の承認欲を満たす程度のことなのだ。茨城県民は、もし県の内外について同時に知る機会があったなら、県民自身が、他県と比較して茨城には明らかに優れた点が無数にあることを熟知する結果になるので(実際に相対指標とみて多くの面で優れているから)、その時点で自尊心を十分にもつ結果になるはずであり、県外の何も知ろうとしないか、知っていても差別に使おうとする愚民を超越することになるだろう。馬鹿だの悪人に好かれて羨ましがられることは、自分自身の破滅を意味する。愚者の称賛や非難より、賢者の称賛や非難の方が優れている。共感してくる愚者は破滅の原因なのである。我々は情報の非対称性の為に、幸運にも県外人の暗愚さ、すなわち県外の日本人大衆一般が都内マスメディアから悪意で簡単に欺かれるという驚くべき暗愚さを熟知する結果になったのだから、県外日本人一般という愚者に好かれるのではなく、むしろ彼らとの縁を遠ざけ、我々のもつ長所について知っている賢者とのみ親しむよう動くべきなのである。