2017年9月2日

茨城の独自性について

 もし大井川氏のいう独自の事をしたいなら、300万人が一斉に起業家を目指してはいけない。なぜならそれが米国の模倣だからだし、その時点で模倣者、追随者、よくて初期採用者にしかならないのだから(それが商売としてうまくいったとしても)。米国とか西洋の価値基準に乗らない事象が真の独特なのだし、それは欧米側にとって必ずしも評価に値しないものかもしれない。日本の県外に対してもあらゆる外国に対しても同じことだ。
 資本主義の制度に乗る範囲で、米国の今現在はやっている商業をまねよう、少なくとも金儲けになる範囲で商品を差別化しようという考えは、秀才的な発想でしかない。資本主義潮流にそのまま乗っているだけだからだ。管理された独自性、合法な商取引というルールの中にある革新、これは真の革新ではない。単に資本主義の改良だ。
 過去の茨城県・常陸国・下総国史できわめて独創的だといえるのは、全世界でこの地域にしかない水戸学が代表的なものだ。象徴天皇制と明治維新、広くは植民地独立、人種差別への反対、民族独立運動の礎となったのはこの思想であり、人々が気づいていようがいまいが全人類にプラスの影響を与えている。共産主義が生まれる前の考えだから、マルクス主義以降の知識人にとっては乗り越えるべき批判対象かもしれないが、非西洋圏における近代化の基礎理論となったことは明らかであると同時に、単に茨城県のみならず日本国、そしてアジア、いや有色人種の多かった全地球の国々単位での非西洋性、独立の背骨を保つよすがとなったのも、この水戸学なのである。特に天皇家はこの思想を生み出した偉人達に未来永劫、感謝するしかないほどだ(現時点の皇室は単なる英米追従者であるうえに傲岸不遜で無知かつ不勉強だからそうはしないだろうが)。岡倉天心の『茶の本』をはじめとした著述と思想にも、水戸藩士である横山大観の父、そしてその子である天心第一の弟子・大観当人から来た、日本の独立、独自性尊重の思想が流れ込んでいるのは、偶然ではない。
 では水戸学とそこから流れ出た独創性について、世界人類が何らかの高い評価を与えているかといえば、決してそうではないだろう。なぜそうなのかといえば、単に理解していない、理解する誘引もなければ必要もない、それどころか未来永劫この種の哲学に関心を持つほどの知能がない等、いくら優れた意義を持つ達成であれ、他者からの評価がそれに比例するとは限らない。では、大井川氏は一体、この水戸学の様な独創性をまっとうに評価し、その種の独特さをのみ選好しようと思っているだろうか。思っていない。
 彼は単にアメリカかぶれ、その追従者である東京かぶれなのである。はっきりいうと、米国の評価基準に合わせた何らかの価値等級を、茨城県域にもたらせばそれが革新だと思っているのだ。シュンペーター理論は経済学にすぎない。大井川氏が革新を興したいと思っているのは、実は「商業」という、全体から言えばごく限られた分野であるか、少なくとも商業性を経由したイノベーション理論の援用であるというほかない。勿論、生き方の多様性とか、傑出した個性とか、独特の能力といった言葉で、その理論体系を補う様な発言もしばしばみられるが、大井川氏の行政論の本質にあるのはイノベーションという概念を中心にした米国的な技術革新の模倣であるというべきだろう。
 この議論で見えているのは、真の独自性は潮流或いはパラダイムそのものが違う為に、外部者から正当に評価されえない、という観点である。芸術でいえば真の前衛が同時代人から常に無理解にあい当の芸術家らは孤立しながら貧窮に陥り、場合によっては悲劇的な死を遂げた、他方で過去の同時代に高く評価される類の今日では全く知られていないいわゆるサロン芸術家らが伝統模倣者にすぎないがゆえ、当時の俗物受けがよく当時の凡愚な称・文化人らにとっても重要とされていた上に、経済的にも人気的にも全く恵まれていたといった例に事欠かない。イノベーション理論でいえば、市場参加者には下記の別がある。
  1. イノベーター(Innovators:革新者):
    冒険心にあふれ、新しいものを進んで採用する人。市場全体の2.5%。
  2. アーリーアダプター(Early Adopters:初期採用者):
    流行に敏感で、情報収集を自ら行い、判断する人。他の消費層への影響力が大きく、オピニオンリーダーとも呼ばれる。市場全体の13.5%。
  3. アーリーマジョリティ(Early Majority:前期追随者):
    比較的慎重派な人。平均より早くに新しいものを取り入れる。ブリッジピープルとも呼ばれる。市場全体の34.0%。
  4. レイトマジョリティ(Late Majority:後期追随者):
    比較的懐疑的な人。周囲の大多数が試している場面を見てから同じ選択をする。フォロワーズとも呼ばれる。市場全体の34.0%。
  5. ラガード(Laggards:遅滞者):
    最も保守的な人。流行や世の中の動きに関心が薄い。イノベーションが伝統になるまで採用しない。伝統主義者とも訳される。市場全体の16.0%。http://www.jmrlsi.co.jp/knowledge/yougo/my02/my0219.html より
これらの種類の展開のうち、イノベーターの中には単に革新的であっても商業上の流行が決定量(クリティカルマス)に到達しなかったままの、無数の前衛的な実験、発見や発明が含まれているというべきで、その様なものの中には非利益的な探求、それどころか努力なしに得られた特殊性も大いに含まれている事だろう。大井川氏は、一体この問題についてはどう考えているのだろう。
 私の意見をいえば、茨城からビルゲイツをとかジョブズみたいなのを出せとか出そうぜいうのは、戦後日本の典型的思考法、単なる模倣者でしかない。実際、まねがうまい国民性だから川上量生だの孫正義以上の存在は、本気でやればうみだせるだろう。どころか、その種の類型に当てはまる人物は既に、茨城にもいたのだ。Winny開発者の金子勇氏。今もいるに違いない。ウィニー事件にあった京都みたいに陰湿な社会では反社会的個性を弾圧するから、ジョブズみたいな本物の不良、狂人が潰されてしまうという面は大いにあるだろう。ジョブズはソニーの不完全模倣者だったかもしれないが、ビルゲイツはだれかを模倣したろうか。真の独創性とは世界に類例がないことなのだ。ビルの様になろうとした時点で革新的では全くないのだ。「金儲けなんてどうでもいいや」とか、「武士はくわねど高楊枝」とか、「役に立つ仕事なんて下民がやる事だ」と言って、金になるかならないかわからない対象に命懸けで取り組んでいる人の方が、非米国的かもしれない。金儲け以外の目線から見て幸福追求に成功した人の方が、実は市場にあっても十分に差別化されて青い海を泳いでいるかもしれない。つまり大井川氏が本当に茨城を独自にしたければ、米国追従をやめるべきなのである。シアトルだのシンガポールだの、フランスだのといった前例はある種のモデルかもしれないが、それらから何をどう学んでいようが、或いは学ばなかろうが、自分自身にしかありえないもの、しかも価値観や評価基軸そのものを独自で作り上げる事が重要なのだ。独りよがりになるからそんなものは意味がない、県外から中身があろうとなかろうと何らかの妄想だか事実の側面だかによって魅力があると思われる自分になりたい、こういう発想は間違っているのだ。ランキングは無意味なのだ。他人に順位付けされない価値は、自分自身が作り出すしかないのである。そしてこういう意味で、橋本氏は正しかったのである。なぜなら橋本氏独自の哲学を持ち、他人からどう思われようが、彼の理想とする茨城の理想像をいだき、それを実現していったからなのだ。
 もっと根本的に言うと、独自になろうとする努力そのものが、元からある個性が非独自な場合に限るのだから、最初からある自然や文化条件が沖縄だの北海道みたいに非典型であるとき、或いは朝鮮人植民地として始まった中世都市の京都みたいに出自からして非日本的である場合、普通や平凡になる事自体が難しい。彼らは逆に、あまりに正規分布から外れた各種の特殊性のため日本で「普通の人」になる為に努力さえ必要なのだ。自分の持っている個性を丸ごと受け入れる事。底抜けの自己肯定感、そして自分自身の現時点でもっているありのままの個性の特徴をそのまま、他人の前に押し出す事。これが本当に独自であるという事なのだ。アリストテレスは言っている、変化するのは悪い特徴なのだと。最高の存在である不動の動者が神なのだと。平凡な人が特殊な人に憧れるのは矛盾しているのである。茨城の良さは、かなりの程度、中庸にあるのだ。人徳の最高の特性とは中庸にある。『常磐線中心主義』の中で、茨城はコモディティの供給地というイメージ、つまりは平凡な農工業地帯といわれる。魅力がないと思う人達は、その個性を嫌っているだけだ。我々が満足しているのに、我々は生まれ故郷の良さ、なつかしさ、美しさ、言葉にならない崇高な光景、自然の奥行と神秘、偉大な文化文明を生み出してきた立派な人々、親しみのある仲間を語りつくせないほど、幼児のころから知っているというのに、くだらない人達に嫌われたからなんだというのだろう。自分が好きな人とだけつきあえばいいではないか。茨城は神のごとき世界一優れた自治体であり、その本質において、変わる必要がない。他人から好かれるために作った偽物の個性などになる必要は、まったくない。自分達が理想の中庸に到達する様に努力していればいい。中庸より極端を好む人達は、おろかなのである。愚かな人の評価基準に合わせる人も愚かなのである。
 茨城県という法人格としての行政単位と、その中に属する個人達、或いは県内企業を比べて、後者が中庸でなければならない、という事は確かにないのかもしれない。個人が市場における利益を得る能力としての差別化された仕事が必要だ、として、それを行政がおしつけることは完全に誤りだ。個性や企業は自由でなければならない。中庸を選ぼうが極端を選ぼうが、その個人の選択が正義だ。特定の企業優遇についても、ハイエクの論理によれば、実際は市場原理によらなければ計画経済的な非効率や失政を免れないだろう。対して、行政単位としての茨城県が極端な個性になる、つまり、あらゆる観点から見て大いに欠けたところと大いに優れたところがある、という事が、道徳的に正しいのかについては議論の余地がある。全体奉仕という理念と矛盾をきたすからだ。むしろ行政単位というものは欠けた所のない全能を志向するべきなのかもしれない。その単位で暮らしている人たちは現代世界の市場原理秩序に最適化しきってしまえば、産業転換に追随できず、古都となって滅び去れるのだからだ。茨城、常陸国は3万年以上、一貫して持続発展をしてきた世界一偉大たるべき自治体なのであり、未来もこの星が太陽に呑まれて滅びる50億年後までの期間、最低でもそうあるべきだ。