2012年4月18日

都庁の電源対策

以下引用
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2012年4月 6日 (金)
災害時の司令塔になる東京都庁舎は非東電の電力供給体制でリスク分散する。初めて公開した地下の現場。

 災害時の司令塔になる東京都庁舎の電力供給体制のリスクを分散するため、電源の一部を250メートル離れたパークハイアットホテル(52階建て)地下の東ガス系の「新宿地域冷暖房センター」から供給することにした。

 1枚目の写真は都庁へと通じる地下の熱供給の配管。地下発電所から供給されるのは冷暖房の蒸気と冷水だけだったが、これからは電力も供給してもらうのだ。


 2枚目の写真は都庁の地下。そこまで配管が来ている。送電線もこの配管の近くに設置してパークハイアットホテルと都庁を結ぶのである。



 パークハイアットホテル地下7階に巨大なガスタービン・コージェネレーション発電機(2基合計8500kw)やボイラーが冷水管などで連結されて複雑に入り組んだ構造物を形成している。

 地域冷暖房施設は西新宿で22本の高層ビルに熱供給をするために計画的な都市計画でつくられすでに40年稼働している。地域冷暖房は蒸気を使うのだが、蒸気をつくるために発電機も当然備えている。

都庁舎は1万1000kWの電力を使っているが東電の値上げのために9500kW に契約を下げ電気料金を3000万円安くさせた。

さらに災害時の安定的な電源確保策として、地域冷暖房センターの発電設備からも順次電源を調達し、多元化させる。

 まずは今年12月に3000kW、2015年までにさらに3000kW増強し、9500kWのうち3分の2を非東電にリスク分散できる体制にする。

 3枚目の写真。都庁2階のフロアーでぶら下がり会見。


「エリアごとに生き残れるようにすることが、原発事故から得た教訓である」
2012年4月 6日 (金)

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http://www.inosenaoki.com/blog/2012/04/post-81a9.html より

2012年4月6日

多元分散型のエネルギーについて

http://www.inosenaoki.com/blog/2012/04/post-81a9.html
以上のURL先の記事によると、東京都庁は各フロアごとに分けて近くの別の発電源と分散させていくらしい。

 これとおなじことは、おおくの公共機関、特に防災機能をもっている基盤施設で必要。まねるしかない。
 すくなくとも経験則とみても、このあいだの大震災で1週間程度の停電がおこったわけだから東電の後身だけにたよっていると致命的になりかねない。
 1つの電力源だけにたよっているとそれがおそらくローテクでないほど(多くの連鎖的な手間がかかって複雑なほど)、危機に可塑性を発揮しにくいことが、おおきな災害でわかってくる。

 できるかぎり多重に電力源を分散させてそれぞれが連携的につかわれる様にした方がいいのだろう。
 消防署とか病院とか行政府の庁舎はこのしくみをつかうしかない。
しかも、できればおなじ施設でも致命的な施設だけは必要最小限の分量を自力で発電できなければならないだろう。
「多元分散型の電力源」。あるいは電力以外でも普段からそれが基盤的なほど、情報にわたるまでこのしくみがきくのかもしれない。

この市内にかぎっていうと、かりにうみべに防災無線をもうけようと、ほかにも防災ラジオをつかってまで多重に防護をおこなう方がいいし、すでにある半鐘もなんらかの場面でつかえる可能性があるので放棄するよりは維持していく方がいいのだろう。

 特に、ラジオは災害時以外でも市報とかなんらかの情報伝達、宣伝とか、あるいは市議会中継(これはネットラジオでも可能)などかなりねばりある使い道のできる機械だから、配布してあった方がいい。
��いまの時点で大量に購買して1個100円以下くらいになっているのではないか。5万人の市民全員にくばっても500万円程度ですむはなしになる)
日立市は防災ラジオをつかっていたので普段も広報がしやすいのだろうし、緊急時もそこから地域に密着した死活的な情報をあたえていた、みならうべき優等生とおもった方がいい。ラジオ局そのものは高萩市のそれと代替的に契約・交渉すればいい話だろう。

2012年3月30日

社会学

 人類の社会でのありかたは、結局「幸福」をめざしているとおもわれる。
 幸福の定義はさまざまあるが、基本的には経済性といっていいかもしれない。どんな経済がいとなまれるか、はそのばでくらす人々の教養度によっている。一切の学問や芸術は、この教養度をおぎなうためにある。

 幸福はもとめとあたえ、つまり需要と供給の輪で説明できるとすれば、金銭を媒介とするかどうかにかかわらず、このもとめにこたえたあたえがあるほどそのばでくらす個性の欲求がみたされ、幸福感がえられる、というしくみ。これが社会というもの。
 だから、社会学には政治や経済や歴史とさまざまな分野があるが、根本としては経済の程度を問うものではないだろうか。政治行動はときどき、これをこえて戦争ということをこころみる。侵略や略奪によって領土を拡大したり、それによってさらに市場からえられる調整税の膨張につとめるといった。
しかし、アリストテレスやプラトンまでさかのぼると、この政治というものは実際には市場の防衛役でしかないのだろう。防衛をこえて帝国の拡大をこころみるばあいは市場がひろがったりせばまったりするが、個々の人類の属したがわによって滅亡したり攻防の際に心理的傷害を負ったり賠償をしたりするが、単に市場規模のひろがりの問題でしかないだろう。

 この視野にたつと、人類はどうまちを築くかどういちを作るかという面できわめてながく試行錯誤してきたとわたしにはおもえる。人類史の全体がそうなのかもしれない。

 市場には量的なおおきさとみれば、現在でいう共通貨幣のとりひき高が一応のはかりになる。しかし、この貨幣価値に換算できないかしにくいその外でのやりとりもあるから厳密にはいえないが。
 ところで、市場には量のほかに、質というものがあるかもしれない。わたしがいまここで説明したいのは、この市場の質の問題だ。取引高の問題ではなく、市場にはやりとりされるもとめとあたえのあいだに、単なる通貨価値ではない単位がある。この単位は上にのべたことばでいえば単に教養といえるかもしれない。
 おそらく、根本的にはこの教養の程度は、個々人単位のGNIに還元されるかもしれない。だれであれ、かしこい個人はそうでない個人よりも、経済的にくらすはずだ。Microにみればちがうことがおおいかもしれないが、macroにみればほぼ、この教養の程度がそのまま市場の質。かつその集積具合によって量的経済性も上下する。

 この理論をみると、つまり、人類がめざしているのは教養の高い類いの量的にも大きな市場ではないだろうか。
 不思議なことに、こうやってできたある時代の帝国はなんらかの要因で解散してしまう。無限に膨張した帝国はいままでなかった。だから、おそらく実際の道徳としていいえるのは「中庸の大きさ」の市場がもっとも理想的なのかもしれない。教養の程度というのは、一般に無教養の生態にくらべてかなりのむずかしい成長過程を個々にしいる。それは現生人類の本能にはかなりさからうばあいもおおいかもしれなかった。
だから、きわめて広範に全員が一様にたかい教養をえるということは、群れの本性としての形質や行動のばらつきからいってもありえない。教育過程でも偏差値が出現してくるのは個々人が学術にどれだけ秀でるかに生前生後の差があるから。
 すなわち、のぞましい人生とは、この極端な拡大路線によってほろびに転じる大帝国ではなく、かといって無教養の不経済な人間のあつまりでもなく、それらの調度よい具合の中間にあってしかも外部の社会との程よい市場をたもっている様なくにのつくり映えだろう。
 原則としてはごく高い教養の成員が大量に集積した理想国家を想定しがちだが、現実にこういう場所は歴史上にいくつか帝国の中心としてあったことがあるが、一定期間をへると消失してしまうらしい。現在、イギリス帝国、ローマ帝国、中華帝国、エジプト帝国、あるいは日本国内では奈良、京都、鎌倉といった時勢の移り変わりで古びることになった帝国の残りをみると一か所の過剰によってかえって中心が移る、という歴史現象がある様にみえる。ほかの生物でいう生態異常による大移動があるのかもしれない。結論をいうと、この経済性の過剰としての帝国の盛衰はそこで生み出されたなんらかの文化をひろく伝播させるのとひきかえに、永続できずほろびてしまう系なのだったろう。

 だから、ありたい社会とはこの経済の帝国化にも至らないが、かといって人後におちる話にならない小さく質のひくい市場でもない、ある中庸さをもった程々の規模の市場を、教養をあたえ得る程度や域内の相対的な人口をうまく調節しながら維持していくことなのだ。
そういうとき、みずからの文化もそれなりにひろがり、生命もたもたれ、歴史上に名をあらわしながらわる目立ちすることもなく、うまく人類という一筋縄ではいかない世間ずれしたずるがしこい者たちのなかでも、都合よく苦にもされず生存していけるはずだ。

2012年3月22日

Mega solarのおわり

http://www.anlyznews.com/2012/03/blog-post_21.html
http://megalodon.jp/2012-0322-1143-06/www.anlyznews.com/2012/03/blog-post_21.html


2012年3月21日水曜日
あっさり明確になったメガ・ソーラーの終焉

太陽光発電所の建設で旗をふっていた孫正義氏が「(FITの買い取り価格を)40円を下回った場合、自治体が要望した二百数十カ所のほとんどで事業を断念せざるをえない」と言い出したようだ(SankeiBiz)。再生可能エネルギーに熱心であったドイツ政府も買取価格を?0.2443(約27円)/kWhに下げており、40円/kWhはかなり高い。

追記(2012/03/21 13:01):2013年からは全量買取も廃止される(電気新聞)。
1. パネル価格の下落はコストに影響なし?

再生可能エネルギーのコスト構造を見ると、大半は固定費用と言うか初期設備投資に依存する。太陽光パネルの価格が重要になるわけだが、実際はパネル価格は下がっている。中国サンテックパワーが安売り攻勢を仕掛けており、価格下落で米ソリンドラとエバーグリーン・ソーラーは経営破綻に追い込まれた(Newsweek、BusinessWire)。国内のモジュール価格に大きな変化は無いが、調達価格等算定委員会が孫氏の言い分を飲む可能性は少ないであろう。
2. 強気の将来予測と弱気の収益計画

以前に孫氏率いる自然エネルギー協議会の資料を検討したことがあるのだが、コスト分析、賦存量分析、需要追随度分析、出力変動分析、生産量予測の点で、説得力の無いものであった。特にコスト分析に関しては、技術進歩による将来性があるのであれば買取価格を低く買取期間を短くできるはずだが、20年間40円/kWhを保証しろと言うのは将来性が無いと言っているようなものだ。孫氏も将来性など無いと思っているのかも知れない。
3. 去るものを追わない心の広さが必要

調達価格等算定委員会がドイツのFITの失敗事例を意識していれば、30円/kWh程度の買取価格を提示すると思われる。そして孫正義氏は政府の無能を非難しつつ、メガソーラー事業から撤退する。残念に思う人は、太陽光発電所の一週間を見てから、メガソーラーが本当に必要なのか考えた方が良い。浮体式洋上風力発電などと比較して、ずっと見込みが低い技術だ。

孫正義氏がこのビジネスから離脱する事になっても、特に非難にはあたらないと思う。企業家はルール内で収益を上げることが指名であって、ルール違反をしたわけではない。この手の産業政策は、乗って来る人がいないと何も成立しないものだ。問題は、どのような政策を立案するかだ。

2012年3月13日

放射能の蓄積加減

http://mainichi.jp/select/jiken/news/20120313k0000e040167000c.html

福島原発事故:放射性物質蓄積範囲をチェルノブイリと比較

 文部科学省は13日、東京電力福島第1原発事故で生じたセシウム137の土壌への蓄積分布を、旧ソ連のチェルノブイリ原発事故(86年)と比較した結果を公表した。福島事故の影響範囲は、チェルノブイリ事故の8分の1程度だった。

 チェルノブイリ事故では1平方メートル当たり1480キロベクレル以上の高濃度地域が、原発から半径30キロ圏内と、北北東160~250キロ圏内に分布。福島事故では最も遠いのが北西32.5キロの浪江町だった。

 同40キロベクレルの低濃度地域は、チェルノブイリ事故では1700キロのノルウェーまで達した。福島事故では同30キロベクレルの地域が、遠いところでも千葉県柏市など250キロ圏内だった。分布面積は比較できていない。【野田武】

毎日新聞 2012年3月13日 13時01分

2012年3月9日

偶像崇拝の国家でそれをさけること

 偶像崇拝を平気でする国民、だからといってこの市内でもしていいですとはおもわない。すべきではないのだ。具体的にいうと、市報のすみかなんかにのってたけど気色悪い鮟鱇の擬人化漫画みたいのに名前を考えてね! とかかいてあった。なぜそんな馬鹿げたことを大の大人がさせているのだろうか。

 偶像崇拝が悪徳なわけは、「ありもしないものをおがませる」から。子がその擬人化にだまされやすいというのをみればわかるが、悪徳だ。ありもしない生き物を勝手に想定して、それをかわいがらせる。わるふざけというしかない。

甲状腺の数値

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120309-00000176-jij-soci

甲状腺被ばく最大87ミリシーベルト=福島で65人調査―弘前大

時事通信 3月9日(金)18時50分配信
 東京電力福島第1原発事故の1カ月後、福島県の0歳から80代の住民65人の甲状腺を調べたところ、50人から放射性ヨウ素が検出されたと、弘前大(青森県弘前市)の調査チームが9日、発表した。最大値は同県浪江町の成人で、87ミリシーベルトだった。
 調査は昨年4月11~16日、浪江町の住民17人と、原発のある沿岸部から福島市内に避難した48人を対象に実施。事故翌日の3月12日にヨウ素を吸入したと仮定し、半減期を考慮して4月の実測値を補正、推計した。 

市の方向性へ忠告

普通にいって、一市民の自分の意見でしかないが、でかい工場とかばんばんつくりたがるのとかどうかとおもうしやめてほしい。市民のくらしの質がよくなるのとはまったく関係ないしどちらかといえばわるくなるから。

 ひとことでいうと、芸術・(そのなかでも特定の文物をあつめたりつくったりひろめたりする集散機能なわけだが)学問とか、いわゆる学術教育機能の向上に行政のうえのほうのひとも市のなかでつとめてほしいと自分はおもう。具体的にいえば、最低でも図書館機能の充実、できたら大学の建設につかってほしい。

 なぜ自然がとくべつ綺麗なところに、つまり風趣地区にわざわざ自然破壊させる工場を誘致したいかがわからない。漁業者を吸収する雇用ということだろうか。それならそれでもっと重点的に漁業団体の構成員にだけ直接の資金助成と起業のための投資すべきだ。かれらが自力でたちあがれることがのぞましいのであって、どこかの大企業のつかいすて労働者におとすことではない。
 よかれとおもって協議されてるのかもしれないけど、どちらかといえば、無理に人口をふやして税収がっぽりもうけたいとかいうちょっとどうかなかんがえがその工場誘致の根っこにあるのではないか。これがわたくし企業ではなく、公共事業を営んでいる地方政府からみた、福祉への勘違いであることをカンタンに説明する。
この日誌でもたびたびくりかえしてきたが、もっともありえる既存の経済学のことばでいえば「人口扶養力」、つまり人口あたり所得とか、またこの日誌でいうGDPに換算されない種類の奉仕度とみた磯原指標(定義はhttp://kamomenome.exblog.jp/12729539/による)のおおきさがその実質のゆたかさなのであって、いわゆる人口の多さがそのまま、ではないのだ。貧しいひとをどれほどふやしても社会の経済性からみた幸福度があがることはない。*1
さらにあらたにつくられたのが工場だったばあいは、既存の自然環境の審美性を普通に破壊させ環境排出物質でよごすので、二重に不幸度をふやす。もしすぐれた建築家や芸術的な設計者などに工場を建設させその周辺住民にとっての美観を整え、働く者にとっての機能を快適にしたとしても、やはり緩和にしかならないだろう。国際分業のなかでくみたてた製品を買うのがわれわれとはかぎらない、という付加価値貿易の流れの素朴な観点をおもえばよい。むしろ設計・開発ないしは営業販売部門といった上流部支配への投機というのならばいまの状況からいってかしこいというだけだ。医薬品のばあいもおなじ。

 こうしてみてくると、行政で協議されている北茨城辺りへの工場誘致というものは「先憂後楽」の真逆を行なおうとしている。はっきりいうと、経済学的な理解のよわさからくる、全体主義からのまちがいなのではないか。得をするのは税収をもうける行政の上層部だけ、ほかの市民は期間労働力として最低賃金で使いすてされるくらいが関の山、すくなくとも50年単位でみれば全員損失をこうむるとおもわれる。

  将来世代のしあわせを真面目にかんがえるなら目先の金儲けなんかどうでもいい。とりあえず不健全な換金してるので違法ぎりぎりの警察利権状態になっているパチンコ潰すなり最低でも単なるゲームセンターとあつかって賭博にならないよう経営改善要求後どかす。そこにさっさと市立大学を、だれもに出入り自由な大規模運動場とともに建設する。
――普通にかんがえて、弘道館と偕楽園の構想というのは一張一弛ということばに象徴されているが総合大学に付属したrecreation機能をもたせた運動場の設置なので、水戸をいわば理想的な大学街にしようとした創設者によるひとつの模範なのだが、そのみぢかにあって至極立派なideaを市は小型であろうとまねればいい。要は将来の為になる学問・芸術の教育関係予算、いわゆる水戸学の風土の後継者として文治政策に投資してくれということ。*2
あるいはくりかえしかいているが、もっとも単純なことでも放送大学の無料放送電波を現にほかの関東圏でもそうなっている様に、日立の電波中継局で地上波へ変換して県北部へ流すのでもいい。
 地方自治体でもこういうことをはっきりめざしてやっている地域もある。巨大で先端的なハイテク文化ホールをおもいきってつくってる山口市とか、美術館や図書館の機能あつめてる金沢市、遺跡に併設させた現代美術館つくった青森の十和田市とか。
どうせ一世紀以内にぜんぶ潰れる工場つくってみましたけど、とか派遣労働で下請けさせられ自然破壊が起こってまた悲しいという結末で庶民にそういう叙情歌がつくられて同情ひきましたけど、って下らないはなしが予測つく。
常磐炭鉱の栄枯盛衰を実際に見たのに無反省力のおさるさんではないとすればだが、自分がいま書いたことにはそれなりの見識、ある道徳があるとかんがえた方がいいとおもう。世代をへてもなお不動なのは定常的な教養レベルでしかない。ほかの資本は人の身に着いていないならば、つまり文化として習性化されていないならばいずれあとかたもなく世を流れてうしなわれてしまうのだ。*3
たとえば、これは現実的にいって、個々人が何を伝えるかとみたとき相続税のある国に続けて住んでいるひとはいくらかのこせるとはいえ家財さえそっくりそのまま次世代まではもちこせないし、生物とみれば遺伝形質しか遺伝しない。いいかえれば、伝えられた交換資本は失われやすかったが文化資本は生きているあいだ決して失われない。

―――
��1 それどころかまえより生活の実質が不幸になってしまう。人口密度の高さなどからくる心理的ストレス、地価の高騰、ほか河川や大気汚染物質の排出などによるさまざまな健康への恵まれなさ、広い土地がないので運動不足に陥りがち、ほかの動物でもみられるが性的異常の発生、交通事情の悪さによる時間や移動手段の費用負担などなど、つまりはくらしの余裕のなさによって。――ちなみにこれらの逆になっていれば、『常陸國風土記』じゃないがというかそのままだが、そこは単位所得あたりの人口比でみてもゆったりしておりすばらしい庭付き一戸建てとか貴族みたいなお屋敷に住み、物価は安く移動も容易でたくわえもあり、一切がすこやかで恵まれておりゆたかといえる。

��2 できたら基礎科学系。芸術系は師弟制よりおしえがたいし、哲学系はそれをやってて工学が遅れると経験的に敗戦しがちなのであとまわし。医学とか薬学は付属病院で稼ぎ手になりやすいからできたらあった方がいい。

��3  なお政経的に巨視すると貿易で富んでいる国が富みつづけたことはないが、よく産業革命が起きた国が自力で繁栄した、というのは通常みられる。だから工学と産業なのだが。そしてこの工学の基礎レベルを与えるのがいわゆる科学であって、大学で重点的におしえていくべきところだろう。

2012年3月8日

修学旅行さきの意見

 茨大にうかったとかいう水戸三高だかの女が、韓国留学したいとかほざいてるのを新聞でみたけど、整形大国の中心国いってもまずもって反面教育にしかならんから留学じゃなくて旅行というべきだ。これは自分の私的な意見だから別にみんながそうおもえとはいわないし、日本にきてる韓国へ国籍あるひとや先祖がすんでるとか、混血されたご子息のかたがたがどう感じるにせよ。

 あとおもうのは、実際、いま星中みわたして日本よりすぐれてるnationalityもってるのは戦勝国側だろうし、伝統ある島国だから似てる部分がおおいイギリスへ留学する、ってのが一番あたまがいい。
どうせおなじ労力つかって学業の総まとめしにいくならだけど、県内の高校も、中学なら私立以外はそんなにとおくへいかないんだろうけど、修学旅行イギリス、イングランド周辺のどっかへいったほうがあたまがいい。

 普通にかんがえて、われわれの学校でならう教科の過半は、特に天文・物理・化学・生物といったいわゆる理系の基礎科学は、つまりメイン教科はほとんどイギリスか、ヨーロッパで作られたのをまねしているわけだ。
韓国発祥のものなんかまずない。高校倫理でもすみっこでしか理気二元論とかおしえていない。これは敗戦国の文化が否定されてきたこともあるが、ただの哲学だからかならずしも自然の知識ほどは普遍性がなく、だれもが勉強しといた方がいいとはかんがえられてないからだ。
京都発祥のものだって一部の文芸の古典といおうか、内容は陸でもないものもよくみればおおいのだがいちおう古文なので、国語でやるってのぞけば、すくない。自分の私的意見をいうと、悪影響といおうか乱惰な風習を記録している文面読解での弊害もそれらをおしえてしまっていることには当然あるとおもう。というか、こっちなら水戸学があるってのにわざわざなにを修学しにいくといいたいのだろうか。自分のときもなんにもしらずに行かされたまで、なぜか芸妓なんかみせられたくらいで、いまおもいかえしても吐き気するし、決していくべきではないのだ。自分が冷静におもいかえしてみても、はっきりいってあんな僻地にいまさらいっても今後の青少年の将来的にいって、反面教育にしかならない。特に韓国は、ただ単に表面だけ着飾ったあさはかで低俗なポップカルチャーを一部の芸能プロダクションが商売目的にうりこんできているだけ、いくだけ金をしぼられ、東京よりもっと汚いからおおいに失望するわけで、どうしてもいきたいひとを強制帰還措置まではできないが、特に未成年は理性そだってないから無意識にまねさせてしまいやすく、かかわってもおそらく教育とみれば損害がおおきすぎるだろう。
しかも、これらにくわえて韓国や北朝鮮では戦時中のことをおしえまくっているのであれら薩長藩閥中心ではあったけどとんでもない侵略をした日本人へ、深いレベルでうらみをもっているのを、県内の教育家らは十分かんがえるべきである。

 あえてにほん国内でいえば、最古都だしのんびりしているので奈良なら気が休まって古代王朝におもいをはせられていいのかもしれないけど、交通機関の発達でいえば宿泊学習とかの距離感じゃないか。別に家族でいこうとおもえば、当日いけるのだから。関東圏でいう鎌倉もおそらくおなじことがいえるのではないかとおもう。

 よくできた科学がでてきた地帯はどこか。イギリスか、ドイツ発祥のものがもっともおおく、フランス、イタリア、そしてギリシアやほかのヨーロッパ諸国、北欧あるいはアラビア、インドそして中国などとつづくわけだが、基本的には戦勝国イギリスを公立学校では留学先として決めるべきだ。アメリカは最近すごいがなにせ歴史があさい。近代科学の大成国家はいわゆるUKなのだ。これが真実であり、ニュートン、ダーウィン、ファラデー、ケインズなんかがどうやって勉学していましたか、というのをみてくるだけで偉大な啓発効果が未成年にも引率者にもあるだろう。別に費用とみれば先進国内ならどこにいっても飛行機があるから、そんなにかわらない。物価高が異常になってない普段ならまったくかわらないか、日本が円高ならむしろ国内へいくよりもっと余裕のある贅沢な旅になるくらいだろう。ノーネクタイの詰めえり学生服やツイッギーを歪めすぎたみたいなセーラー服くずしのミニスカートでずらずらいくと「一体あれはなんのジョークだ。東洋人はおかしなことをするな」とおもわれるでしょうから自分たちの普段している、奇形的で恥ずかしい格好もよく理解できる様になるだろう。最後に落ちだけど、大阪府内の教育関係者のかたはこの方針まねないでください。わらわれてしまうからです。

2012年3月6日

評価と才能について

 ノーベル賞権威主義というのは、スウェーデン・アカデミーを他の文化圏より上位におく構えにしらずしらず力をかすかんがえになってしまう。
 むかし、すこし意味あいはちがうがサルトルというひとはこのことを先にいおうとした。しかし、大勢とみればほかの文化圏のひとも、このスウェーデンへのてだすけ、ヨーロッパのかんがえへの礼をはらってきたといえる。

 以前、このweblogをこえて市内のかば氏というひとと電子的に通信して、自分はこのことをつたえようとしたが、どうもかば氏の方は「どうして世界へ羽ばたくのが間違っているのだろうか」とかツイッターでわたしではない他人へいって対話をうちきってしまった。
すこしはなしをつづければ誤解はとけるだろうに。

 まちがいなのではなく、タンジュンにあさはかなのだ。以下はそのことの説明。
全世界で、いのちあるいきものにとって大事なのはその独自さの確保だろう。生態系はさまざまな変異としてほしのすみずみまでその居場所をのばしていった。なぜか。単に、その多様化という方法は生命という宇宙のなかでみられる特別な単位をいきのびさせえたからだ。
 この多様化は、地球が激変していた時代をへても安定してどこかに生命をのこすことができた。もともと一つの生命からこれら一切のいのちの系統樹ができたというのがわれわれの知見だと私はおもうが、この系統樹は枝葉をそれぞれさまざまにのばすほかではいきのびえない。

 だからこそ、ある一定の方向とか、ある一定の偏見からのみこの生命体を剪定してしまうのはかならずしもよい結果にならない(これは、自分がこのjournal上で社会学の文脈上に再三しめす見解として、資本主義経済というかんがえかたがもっている「商業能力」という一方向のみからみた社会淘汰の危険性、あるいは群れに及ぼす結果的な形質の単一化による脆弱さ、絶滅可能性とおなじ構造でもある)。
そうではなく、さまざまな生命があり、そこにもさまざまなしごと、さまざまなくらしとかんがえがあることの方が、いいかえれば多様性が維持される条件であるということの方がとりあえずいまの同類からの評価よりも重大事なのである。
なぜなら、ある変化が環境にあったとき、以前の評価基準がおおはばにかわるというのはわれわれの祖先もふくめ、人類もほかの生命体さえもみなどこかで何度も経験済みだったはずだからだ。
 一定より文化史を勉学した者は潮流やparadigmということばでこの潮目がおおきくかわっていったしわざを目撃してきただろう。それは同時代にしりあった大勢がかれらの仕事をもしどれほど評価していようと、やはりそうだった。われわれの学問というもの、このまなばれるべきとされた文物の体系さえ過去に於いては相当ちがっていたのだから、少なくとも学問史または科学史をしるにおよんでほとんどうたがう者はないだろう。

 このために、世界からの評価という指標は、その世界とやら、つまりほかのにかよった人類のなかまが、なにかどこかがまちがっている可能性がつねにあるかぎりいずれあやういのだ。たとえば現時点でいえば、冒頭に書いたノーベル賞審査委員会が、全地球での学術的権威になりつつある。
しかしやはり、いまかいたことをしればこの世界からの評価とやらがはたして生命の徳であるとはいいきれないことがわかるだろう。それが「多様」でありえるさまざまなしごとの業績を、ほかの世界からの眼差しで一定にちぢめたり型にはめてしまうのが、このほまれとされる人々への大衆からの偶像崇拝じみたもちあげかたを通してみてとれよう。

 各国がわかれているとか、人の肌の色がちがうとか、言葉がさまざまであるとか、得意なしごとがちがうという状況のさまざまさは、そのなかの一定地域からの出現者が「世界に羽ばたいて」結果として大多数からなんらかの評価をうけた一様の型にわかりやすい特徴があるばあいより、その個性に関して状況が変化しても再適応しえる可能性が高いことがわかるだろう。いわば集団行動の規模の程としての個性の属した世界観が、これは家族とか会社とか国とかいろいろな単位があるがその現状や業績やもしくはさまざまな観点からされた評価やその程度に於いても多岐にわたるとき、それら単位が評価された一様性に置いてあるときよりもはるかにすぐれて高適応的とみなせるはずだ。
こうしてみかえせばむしろこの多様性が、まったく「ほかの」世界からは無評価でもなんらかまわないほどだ。なぜならこの系を単純に物理系にまで還元してしまえば、その半開放性の単位にみられる多様系の質こそがかれらの母集合(ある単位Aをふくむ全体集合U)やそれとは逆に補集合(ある単位Aをふくまない全体集合U)との関係性は別に、いいかえれば共生状態にある恒常さの質とは別に本当にもとめられている生命体の独自にもった宇宙へののびかたなのだから。より専門的にくわしくいえばentropy最大の乱雑ではなく、かといって最低の整然でもなく、energyに関しても同様にそれらの情報の出入りにかかわりない恒常さがもっとも多くの状態をたもっているのが理想的だろう。
実際こういういきものの体系を自らうみだす、いいかえればauto poiesisを機能として超越したはたらき、昔ながらのいいかたにしてしまうと神とよべるほど全知全能のなにものかそういう計画的機能主体がこの世にもしいたとして、かれは世界からなんらかの人間がつくる賞によって評価されるだろうか。むしろ世界という場所に住んでいる個々のあたまにかぎりある生命体にとっては理解不能なので、拝むとか畏れるくらいが関の山で同類にくらべては評価しえないのではないか。おなじことは、一般的にはどんな種集団であれその上位者への従事がいるときはどこでもおおかれすくなかれ生じている、といっても過言ではないだろう。
いいかえれば、わずかに同類にとってほしい能力からすぐれている、といった程度の変異がかれら一般的な人類からの評価にかなう、と定義できるだろう。そしておおはばにその水準をこえてとてもではないが到達しえないとき、崇拝され神格化される。またその基準からずれすぎていると、相手にされないかそうするあたいのない変なものとされてしまう。しかし重要なのはこの評価という類人猿などでもされている、おそらく協業のためにはじまったほかの個性への役割分業の作用だけではない。
かりにそれも一つの微妙な平均さからの進歩を達する方法論なのだとしても、本質的にもっと重要なのは、相対的な有能さというより種とそこでの技のもとからの多様化である。
 閑話休題。
 話をさらに簡単にしよう。大多数からの評価をうけるという作用を一般概念にすると、究極でいえばそれは「審美性」をおびやすい。このことばは、最も普通で且つ最もまれな変異のことだとしよう。
この超中庸さは人口やなんらかの変異のなかで、その大多数にとって上述のありたい程度の有能さがもっとも想定されそうな中間性、つまりもっともおおきな評価主体数のもっとも中間の変異であるとき、そうと目されるはずだ。
きわめて世界中に通じやすいことばで、といおうか経済学の用語だけど美人投票という説明がある。これは当人の本来のこのみではなくて、市場でこの変異が美人であると評価されやすいだろうという予想を大多数がつづけることでえらばれるしくみ、というおもに投機市場での銘柄ゲームへつかわれることばだが、これとおなじことが「世界からの評価」にはその世界が無限にひらかれているとすれば必ずはいりこむだろう。そうすると、この評価されるなんらかの人物やそのしわざは、ほかの大多数にとってはもっとも中間さをしめすだけにおわるだろう。
 こうなると、多様化という生命本来の方法論はすたれてしまう。ほとんど評価されないが、激変にたえていけるなんらかのまれな変異は、この美人投票モデルによって社会から淘汰、つまりえらばれずに排除されてしまうかもしれない。
この悪徳が結論にくる確率がたかいので、私は一応市内のひとでなおかつ今のところおなじ国家の成員だから、webを介して通信できる状況にあったかば氏へ以上の内容説明をできるかぎり理解しやすく省略しながら忠告しようとしたわけだ。「多様化をうしなうほど美人投票モデルにしたがう評価社交界にかかわっていけば、やがて環境変化にたえきれず衰亡してしまいますよ」という生命体が経験値としてもっている真理だ。

 こういうわけで、ノーベル賞権威主義も一面ではあやうさをもっている。それはおとろえあるいはほろびなかった帝国が地上に一つもなかったのとおなじ真相なのだろう。ノーベル賞帝国は、過去から類推するかぎりではおそらく永遠ではないのだ。このことはほかの典型的な評価体系でもおなじなのである。いいきれば、重要なのは生命体が、つまり個性がそれ自体として独特であること、そのuniqueさそのものなのであって、なんらかの評価体系の固定化ではなさそうだ。しかしこの評価固定化paradigmにのっているひとびとには独特さの本来の価値はなかなか理解されない。だから啓蒙と説明がいるし、それが個々のかんがえへあたえる因果としての、行動系列の多岐さからきた結果とみた母集合における社会集団の生き残りの割合にさえこの徳のもった範囲はほとんど比例するかもしれない。
これは中華帝国の衰亡をへてきたにもかかわらず、いまだに個性個性へ一様な試験をほどこす、官僚主義を慣習化している科挙の風土としての極東アジア社会にとってはまさに、深刻な社会問題とかんがえられる。

2012年3月2日

岡倉と雨情の共通点

多分岡倉の映画をつくっているとおもうのだけど、きわめて重要と感じるのは、つぎのはなし。
 岡倉は伝説おおいが、息子さんと利根川だかで釣りにでて、釣果があがらずかえるときに、月のかかるしんとしずまりかえった寂然たる風景のなかで河口にむかってふとたちあがり、おもむろにへさきから矢をはるか沖の方に向けてはなったという。
 息子さんはこれをとてもつよい印象として記憶にのこしているらしかった。

 かれの詩情をしめす意味をもつepisodeとされてるけど、おそらくだが、一矢を報いるというおもむきをかれをとりまく自然に対してhumorousに実践でしめしたのではなかったか。
全体とみて、岡倉という人物はこういうところがあった。つまりまるで小さな、平和愛好者の様にみせた無意味そうな行動のなかにかなり深い哲学や皮肉、文明批評を込めている、という性格だ。

 これはいままでの人類史でもどういいあらわせばいいかわからないがきわだった特徴なのだけど、この戦わずして勝つみたいなところにわれわれは感服できるわけだ。かれの仕事が文明界でもっている意義もそこにあるのだろう。
少なくとも、実際にいつうらにちかくてよく行ったりするきたいばらきあたりの市民などは、本気でこれをなんとはなしに肌身で理解しているとはおもう。
またそれは、基本的な通奏低音としてこのあたりの地風といおうか風のならわしのなかに音もなく染み込んでいる感じもする。
ある賢明なゆるしみたいな意識が、さまざまな社会矛盾に向けてつくられている傾向があるとおもう。これは、初めてこの地域にきたひとにとっては「さみしさ」として伝わるものかもしれないが、それにちかいけど、実際にはそれだけではないらしい。むしろことばとしては孤高とか悟り澄ましとか超然とか、仏教語でいう自然(ジネン)、ありのままであること、天衣無縫という感覚にちかい。

 童心(すなわち漢語でいう赤子の心、国学の語でいうとうまれつきたるままのこころという理念。あるいは英語でいうとgentleとなる生まれ持ったこころのよさ)、にこれをもとめたのだろう雨情というひとも地域に特有でもあるのかもしれない、特徴ある性格をもっている人とみなされているとおもうのだが、そういうこばなしがいくつかある。
けど、かれらはやはり実質上の平和愛好者であったという面ではある程度似ていて、しかもその象徴能力での感化による戦わない勝利をおさめようとした気がする。

 和辻哲郎がmonsoon気候、つまり、季節風のふく風土では自然へ対抗するのではなく、それと調和しようとする意識がはやると分析している(『風土』『倫理学』)。
これを含め、どうもその調和というものを象徴化しようとする意識がきたいばらきの先人にはかなりあるとおもわれる。たとえば、駅。玄関といおうか中心部だから手の込んでるって意味でも磯原なんかわかりやすいが、あきらかに海や山や川、あるいはある深い古風な情趣、童謡の風土なんかを象徴して示そうという意識が市民自身以外のだれにたのまれたでもなく、あらわされていないだろうか。この象徴化の作用が非戦闘的か和平尊重的、もしくは隠されたたとえとしてhumorousに示される、というのがこの地域で生まれ育って感じる、どうもほかにはない性質の特徴だと考える。

ひと昔まえは野原に点在した街道沿いに少しの商店がある農村だったわけで、そこでは水戸藩ならびに常陸國に属する地域だからすこしの郷士がいたらしいとはいえ、基本としては農民のたちを引いていると捉えていい。
そしてこのたちが非戦闘性をおびさせたとして、なおかつ、これは仮説だけど水戸藩士の質実剛健さと自然風土のもっているすばらしい繊細さと結びついて、気質あるいはかたぎのたとえによる象徴化作用らしき性質をもたらしたのではないか。

この作用は独特で、いろんな土地や人々をみてみてもあまりおおくは示されていない。
つよく戦闘性を示すとか逆に自然をあいてどらずそもそもそれを形象にしめさないし意識にもないとか、まったく自然そのものに土着しているとか、風変わりさをおうとか流行に後れまいと気張るとか、さまざまな変異があるが、きたいばらき圏に典型的にみられるたちの自然界との調和の象徴をとうとぶみたいなものはほとんどみあたらない。これははっきりいっていい。どんな観光地でもそういう感じはしない。辛うじて京都の郊外は風雅をめざしていたという意味で少しは近いのかもしれないが、似て非なり。各地のいろんな文化をみていくと、格式張るとか人工物を誇るとか歴史を示すとか自然風景を見るとかそういうものがとてもおおい。意図がそもそもちがっている。
 自分らはそこにいわば適応しているのできづいていないが、当たり前みたいにかたられているこの「自然との調和」をはっきり普遍性のあるすがたかたちにしめす様な性質は実にめずらしい。
六角堂、までいわなくとも山海館なんかあきらかに海につきだしていて普通にかんがえればあぶないわけだが、平気でわれわれはそれをつくったりそのすがたになれている。茜平もあるいは昔のレストランのたてものなんか特にそうだったけど崖に面してあった。いまも思い出せるがそこでは幽谷の趣のなかで、皿うどんなんかをたべられた。いまも直接まどをあけたりしづらいけど、なかばそれに似たつくりにはなっているけど。川床なんか日本各地にあるだろうけど、当然これらでなくとも無数に例をあげられる。たてものの設計思想というだけのはなしでもないとおもう。まわりの自然に親しみを持ってあるいはそれを尊重して行動する、という明らかな風儀がめずらしいわけだ。なるほど、ボコボコ道路や誘致した工場をつくりまくるだれとかさんとか、資本主義にそまりきった団塊の世代の大規模郊外店からの土地買収へ無策なだれとかさんによっていろいろありえないといおうか残念な自然破壊が起きていることは、ずっと地域をみている側にはたしかだけど、それにもかかわらずこういうありのままの風景はやはりそれなりにのこっている。
わかりやすいたとえを引くと、一帯でつばめの営巣がみられるので駅員さんがおそわったでもなくその巣をつくりやすい様な工夫をほどこしているというやさしさとも繊細さとも詩情ともいえない感覚とかは、ここにくらしてるときづかないけど世界的にみても大変にめずらしい。普通はそんなことわざわざしないし、あくまで公共物の構内にくる害鳥とでもおもって、網を張るとか排除かなんかするものなのだ。

 ついていえば、この資質、つまり自然界との象徴的一体化を姿形にあらわすという特別な才能は、自体がきわめて希少価値のたかいものとおもう。人でも仕事でもある。これは、海と山の距離感にもよるのだろうけど、わりと海と山が隣接していない高萩市や日立市までいくと段々と拡散して目に見えてはあらわれなくなっていく特定の資質なのだ。瓶首効果があるのかもしれない。
勿来より北にもこの拡散してしまうということはある程度いえる様で、しかも、おそらくは常陸國水戸藩域ではなかったからだろうけど、高文化への感受性がいくらか低まっていく傾向があるのかもしれない。かたぎさが減る、といってもいい。勿論それはそれでおおらかともいおうか、気楽そうでいいのかもしれないが。
風土も、この海と山が急峻にいりまじったきたいばらきあたりとはそれなりにちがってかなり広い平地のはばがあるので、そこにくらす人々にも厳しさや繊細さが少ない、よくいえばおだやかで目くじらをたてない質がある感じがしている。こまかな変異はあるけど、全般としてみてとるとそういうことだろう。

 とかく、自分が発見しているこの特質、自然界との象徴的一体化を姿形に示す調和の才能はそうといわれなければはっきりとはしないが、たしかにきたいばらき一帯にあるもので、しかもそれはいくらか先人のなかにも生き方や生涯にしみわたっていたりする。勿論なんらまったくそうでないひとが生きていようとまったくもっていいのだが。
 原理としてみると、単にむかしからくらしてる地主もそうだけど、そういう風土や特質をこのむひとが移住や適応して定着しやすいのかもしれない。ごく単純にいうと藝術の才能となるのかもしれないけど。
このばあい、藝というのは原義にならって「うえもの」、つまり植栽や自然界の再制作や配置換えのことでもある。そもそも、artや技とみて人類がしていることも、とある自然界からでてきた(もしくは神からつくられた)動物たちの園づくり、いいかえれば社会とか国家の建造とは自分たちのくらす自然の部分集合としての巣づくりにすぎないのだからこの言い方はただしいとおもう。Polisや村の形成としてのpoiesisや作り事とは、音楽をはじめたてもの一切、政治経済の演劇一切がそのなかでのふるまいだ。人類は0からなにかを作ったりはしない。単に自然のentropy配列をくみかえたり、素材のくみたてを工夫して日々を住みやすくするだけだ。

 ただ、一般に星中へひろがっている人類とこのきたいばらき市民あたりにみられる気質の差というか、よい意味での個性があるなら、われわれは「調和した藝術」をみいだす能力がすぐれているといったところだろう。いろんなものごとがそれを実証していると私はみている。象徴とされるかもめぶっていてさえも。

2012年2月26日

釜石市のNHK特集を見て

早い者勝ちということで、北茨城市の復興計画、そのmaster planは妹島氏に一任すればよろしい。まちがいなく。

つくばareaのnewsのうつし

つくばエリアの子どもの夢、男児の1位は「科学者」
 関東小学男児の将来なりたい職業1位が「サッカー選手」なのに対し、茨城県つくばエリア(つくば市・つくばみらい市・守谷市)在住男児の1位は「科学者・研究者」であることが、子どもが育つ街研究会事務局が発表した調査で分かった。

 同調査は今年1月、つくばエリアと関東1都5県在住の小学生の保護者計700人を対象に実施。関東の平均では「サッカー選手」が25.0%、「野球選手」が12.5%だったが、つくばエリアの男児では「サッカー選手」(21.4%)を上回り「科学者・研究者」(25.0%)がトップだった。

 つくばは研究学園都市として知られ、教育施設や研究施設が数多くあるだけに、科学者や研究者の存在を身近に感じているようだ。

 なお、女児は「お菓子屋さん・パティシエ:パン屋さん」が関東平均(37.0%)、つくばエリア(32.5%)ともに1位だったが、関東の2位に「芸能人」(14.2%)が入っているのに対し、つくばエリアの女児は「芸術家」(15.0%)と回答している。

オリコン 2012年02月14日 18時23分
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120214-00000335-oric-ind

��~~

こういうことをかんがみても、陸でもない東京資本であるつくばTVとかほざいている名称はつくば市が訴えでてかえさせるべきではないかと遠目にみえる。事実上、売却された資本なのになぜもとの名前を維持しているのか。これは名義のなりすましにちかい状況で、放っておいてもそんなにいい結果になりはしないだろう。

2012年2月25日

身体の美と雄性形質の関係

 地域性の話題が出る時、大抵、いばらき乃至は水戸の特質として美人がいないという風評がある。秋田にながれてしまったという伝説も。

 これは、自分の感じでは事実ではない。というか、東京は人口が過剰なので当然審美的と評価されやすい個体もおおいだろうことをかえりみれば、どちらかといえば水戸や茨城圏に質の高い美がある傾向がつよい。概して、神奈川と東京の美というのはかれらがきづいていなくともそれなりに低俗な感じがあるので、わかるひとにはわかるだろう。
 おおよそ、関西圏では京都がになっている「伝統的な」役割を、むしろ関東圏ではいばらき乃至は水戸がになっている感じがする。地政の保守性がその原因なのだろうし、たとえば、それぞれ独自の哲学体系をもっているのでもその理念の深さが知れる。武蔵学派とか大阪学派なんてきいたことがない。ないのだ。東京・大阪というのはおお昔からの商業地だからそういった金にはなりそうもないものが甘んじてはぐくまれにくかったのだろう。

 なにがいいたいか。
 美醜もそうだが、性選択の結果としてある形質は集積するのだろうというはなし。
なぜ水戸には美女が少ないと風評されるか。これは武士の本丸だからなのだ。御三家として侵略や破壊されなかったというのが真相なので、その場では厳しい風儀といおうか、ある保守的徳義が重視される雰囲気がのこっている。だから性選択の方向が、たとえば東京・江戸にあってむかしから歓楽街でおこなわれていた様な「女性の美」へは向かいづらかったのだ。 *1
逆に、水戸であきらかにめだつ姿というのはある威風堂々とした男性陣の形質である。高校生一つとってもそうだ。
これは同時に、東京圏の男子高校生と、水戸あるいはいばらきの男子高校生を見比べてみるとはじめてはっきりする。まこと質実剛健としか言い様のない姿がかなり保守されているのは水戸の方なのだ。具体的に比べるために、ここに学習院高等科の男子と水戸一高の生徒を任意に何十人つれてきて見比べてみるといい。風紀から仕業から立ち振る舞いから体格から志からまったくちがっているわけだ。*2

 これが真実、「なぜいばらきでは女性的な意味での美人、つまり美女が少ないと風評されるか」の根源因なのだろう。性選択される余地が比較的すくないという土地・政治あるいは市場と社会、要は環境の条件がつづいてきたから。実質、自分もそのはしくれだからわかるが、ある照れ隠しという性質の古風さもあって、いばらき圏の男子というのは美女そのものをその美的であるという意味だけで人前で堂々と褒めたりしない。いや、できないのである。勿論できる人もいるだろうが、これをよむひとにはたしかにそういう傾向はないだろうか。
むしろ、性格のよさというものに仮託して間接的に褒めるくらいが関の山だろう。*3
しかし、これが武士道のなかの性的選択の方法論だったし、いまもいきのこっている古きよき日本の、いわば侍らしさのかけらなのだったろう。これらの土地でそだったものは知らずしらずその風紀にのまれていく。
――おおきくみると、封建道徳というもののなかにあった宗教感覚らしきもの、つまり一夫一妻的な堅い価値観、貞操観念やいわば良識的であれとのぞむ家庭観が身に着いているかそう導こうとしたがる傾向がつよいというわけだ。
そしてここは、実に関西圏で、或る意味では対蹠的だが、公家風がしみついた京都とのおおはばな違いでもあるのだろう。公家は「暮らし向きのきびしい武家とはちがって」家庭的なのを理想とするのではなかったから。

たとえば、いばらき乃至は水戸がくにがらとみればアメリカよりもイギリスの方がちかいふしがあるのはこういうわけなのだろう。保守性がのこっている場所には、上に書いた旧来の封建道徳のなかの特定の資質をそれなりの程度もしくはそれ以上に無意識であれ前提にする文化の素があるから。そしてどちらかといえば、無論一般市民に関してはだが、厳格な一夫一妻制度にちかい資質をもっている。

 これらの要素から結論づけると、美女の性選択というのは秋田や京都にまかせて、水戸は男性陣の佳さにかぎってものごとを推進していければとりあえずいいということになりそうだ。雄々しさのよい特質を守り、あるいは高めていけばいい。いいかえれば、英雄性をもとめ、それを尊ぶ風儀を守り抜けばいい。*4
一般論として、女性からの選り好みというのは男子の見た目よりその能力にあてはまりやすい。

このおおきな理由はY染色体が生物学的にみて、母体としてのX染色体に対して「付け加え」という位置にすぎないことにあるのだろう。(たとえば女子がうまれたときこのX染色体が父母どちらに由来しているかは不透明でわからない。しかし、男子のときはY染色体の系譜というものは確実に父に由来する。これらから単純に類推すれば、ただの人類学的な一学説ではあるが、地位の高い男性との配偶からは男児の出産率がたかまる傾向というのもこの雄性系統の着実な遺伝にあるのかもしれなかった。より緻密にいうと、「男児の出産率の高い系統」がいきのこりやすく、かならずしも配偶まえにはわからないわけだが、社会淘汰の結果としてえりごのまれやすいとされていくのだろう)。
またいいかえると、Y染色体は有性生殖のしくみのなかでは副次的であって主体性をもってはいないということだろう。健康な男子との配偶であれ、母体が不健康なときその子が健康である保証はない。つまり全体としての個体性ではなく、ただそのなかの特徴のみが雄性的なのだろう。この意味でも、特徴的なほど(なんらかの、できればより一層のこと実利的な)優秀さを高めていくことこそ水戸らしさ、いばらきらしさを極めるみちのりなのだろう。*5
選良的な優秀さをもとめよ。これが結論だ。

―――
��1 旧水戸藩の地域にすんできたひとにはわかるだろうけど、水戸の吉原と東京の吉原(あるいは江戸の吉原)というとまったくはなはだしい意味のちがいがあるのはこのためだ。

��2 衣服は少々着古しているが、他人にもたれかかってなよなよとした者がいないのはどちらだろうか。

��3 あたりまえだが、こんなことをしていれば恥やあとさきもなにもかえりみず、女性がすこしでも美しいと思った途端に目の前で褒めて褒めてほめまくるたちの集団にくらべれば、そういう特徴をもった人がどんどんと集まらないのもしかるべきではないだろうか。いわば軟派か硬派か。直接どちらも訪れるなかでフランスのパリと、イギリスのロンドンをくらべればはっきりするわけだが、やはりあつまっている人々のもっている地域性というものはあって、似たものがあつまってしまいがちなのが人類の村、ギリシア語でいえばpolisというものなのだろう。同様の原理は、今の段階でもたとえば東京の原宿と茨城の日立を比べれば全然ちがっているとおもわれる。

��4 ここが不思議なところでもあるが、それが結果とみれば浮ついた風紀にながれやすい東京とのすみわけのなかでむしろ美女と配偶される機会、つまり健康な個体の性選択にとっても好都合という逆説さえあるはずだ。

��5 サッカー常勝集団としての鹿島アントラーズ、或いはプリツカー賞の妹島氏などはこのそれぞれ一つの模範だろう。特徴には実利性をもったものと虚栄性をもったものが大きくみて二つあるとすれば、質実さを基本とした地風をよりよい方向へみちびくには、文質彬彬という論語の文句もあることにはあるが、より実力にちかいものを選りごのむべきだし、どうせ大都市圏ほどお飾りにつかえる余裕がそれほどあるわけでもなければ個々が必然的にそうならざるをえないだろう。
たとえば、とりにはトサカもあればクジャクのみせびらかし用の羽もあったわけだが、前者が実利をもっているのにくらべて、後者はただ虚栄のためだけにつかわれる。性選択は連続的に、世代をまたいで暴走するのがしられてきたので、環境の変化に持ちこたえ易いのが実利性、実用さ、つまり「つかえる」というたちだといってもまずまちがってはいないだろう。人類の中でおこなわれている選択も、ほかの動物とその複雑さについて同質のものとはいえないとはいえ、おそらく因果関係としては似た結果をもたらすかもしれない。環境の激変にたえられるのは役立たずすぎるそれよりは、少なくともどうなろうとつかえる形質ならびに文化的習性のがわなのだろうから。

2012年2月24日

海の熱点

http://www.nikkei.com/news/article/g=96959996889DE1EAE1EBEBE2E3E2E1E2E2E3E0E2E3E086989FE2E2E2

海にもホットスポット 海底土汚染、宮城・茨城沖に
文科省調査 放射能測定域を拡充

2012/1/30付
日本経済新聞 朝刊

 東京電力福島第1原子力発電所から放出された放射性物質による海の汚染の実態が、海底土の調査で明らかになってきた。宮城県や茨城県沖には、放射性物質の濃度が周辺より高い「ホットスポット」が点在する。海流や河川からの流入が複雑に絡み、まだら模様の汚染を引き起こしていると専門家はみる。現段階では調査地点が限られており、政府は今後、海洋汚染の調査を拡充する。…

2012年2月22日

福島原発まえの海底



福島第一の前、海底に「フタ」…汚染土拡大防止


http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120221-OYT1T01050.htm?from=y10
~~
特集 福島原発

 東京電力は21日、福島第一原子力発電所の前面海域で、放射性物質で汚染された海底土の巻き上がりを防ぐため、セメントを混ぜた粘土(被覆材)で海底を覆うと発表した。

 クレーンを載せた船で「シルトフェンス(水中カーテン)」の内側に被覆材を投入する。今月下旬から本格工事に着手し、3~4か月で完成させる。

 覆土の範囲は、海岸から沖合約80メートルまでで、幅は計約900メートル。面積は約7万2000平方メートルで、東京ドームのグラウンド面積の5・5倍。被覆材の厚さは約60センチの見込み。

 福島第一原発では、4号機前の海底で昨年11月に採取した土から1キロ・グラム当たり最高160万ベクレルの放射性セシウムが検出されるなど、汚染水の漏出などによる汚染が深刻だ。周辺海域への拡散を防ぐためにシルトフェンスを設置しているが、今後、作業船の出入りが頻繁になることなどから、より確実な対策を取ることにした。被覆材の寿命は約50年とみられ、その後の対応は改めて検討するという。
��2012年2月22日01時40分 読売新聞)
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50ミリシーベルトでこどもは検査が必要らしい

以下の引用記事によれば、筆者が下線部を引いたところをよくよんでほしいが、IAEAが甲状腺への累積被曝量50ミリシーベルトで、こどもに甲状腺癌のあやうさがたかまる、と判断したらしい。だからこれをこえそうならば、事前に経口ヨウ素剤を手配して(医師から服用を注意されていない者は)その適量を被災当日24時間以内ににのませるべきなのだろう。
 これはとても重要なしらせだ。つぎにちかくで原子力災害があったとしても、おなじ原則から、50ミリをこえそうな子はみな、精密検査させるべきということだから。

したの記事でもわかるが、国家はアジアではどこの政府もそうなっているわけだが、やはり官僚制をひいているからなるだけ失敗をしない様にうごき、できるだけなにもしないことにしてしまおうと普段からの業を延長してくる。だから事前にてをうってでも、強制的にうごかす方途をねりきっておくしかない。行政といおうか、公務員は最後までうごかないし、うごいたとしてももっとも消極的な理由で、というわけだ。概してなまけものといわざるをえない。
 だがそれが現実なのだから、われわれは単にそれを改良してもちいることに集中すればいい。うごかざるをえない様にかこいこんでいくことだ。
 それでしか無能な、つねに腐りつづけていく巨大な体制がかわってくるわけがないのだから。政府の義務となってくれば、うごかなければ訴訟する、という次元でおいつめておくしかないのだ。これが真相なことはあの被災をしたすべての人がもうわかっていることだろうけど。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120221-00000041-mai-soci
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��甲状腺内部被ばく>国が安全委の追加検査要請拒否

毎日新聞 2月21日(火)15時0分配信
 国の原子力災害対策本部(本部長・野田佳彦首相)が東京電力福島第1原発事故直後に実施した子供の甲状腺の内部被ばく検査で、基準値以下だが線量が高かった子供について内閣府原子力安全委員会からより精密な追加検査を求められながら、「地域社会に不安を与える」などの理由で実施に応じなかったことが分かった。専門家は「甲状腺被ばくの実態解明につながるデータが失われてしまった」と国の対応を問題視している。

 対策本部は昨年3月26~30日、福島第1原発から30キロ圏外で被ばく線量が高い可能性のある地域で、0~15歳の子供計1080人に簡易式の検出器を使った甲状腺被ばく検査を実施した。

 安全委が設けた精密な追加検査が必要な基準(毎時0.2マイクロシーベルト)を超えた例はなかったが、福島県いわき市の子供1人が毎時0.1マイクロシーベルトと測定され、事故後の甲状腺の積算被ばく線量は30ミリシーベルト台と推定された。対策本部から調査結果を知らされた安全委は同30日、この子供の正確な線量を把握するため、より精密な被ばく量が分かる甲状腺モニターによる測定を求めた。安全委は「ヨウ素は半減期が短く、早期に調べないと事故の実態把握ができなくなるため測定を求めた」と説明する。

 しかし、対策本部は4月1日、(1)甲状腺モニターは約1トンと重く移動が困難(2)測定のため子供に遠距離の移動を強いる(3)本人や家族、地域社会に多大な不安といわれなき差別を与える恐れがあるとして追加検査をしないことを決定した。

 対策本部被災者生活支援チーム医療班の福島靖正班長は「当時の詳しいやりとりは分からないが、最終的には関係者の合意でやらないことになった。今から考えればやったほうがよかった」と話す。安全委は「対策本部の対応には納得いかなかったが、領分を侵すと思い、これ以上主張しなかった」と説明する。

 国際原子力機関(IAEA)は昨年6月、甲状腺の積算被ばく線量が50ミリシーベルト程度の子供でも甲状腺がんのリスクが上昇するとして、甲状腺の発がんを防ぐためのヨウ素剤服用基準を100ミリシーベルトから50ミリシーベルトに引き下げている。30ミリシーベルト台はこれに近い数字だ。

 東京工業大の松本義久准教授(放射線生物学)は「データに基づけば、福島で実際に甲状腺がんが増えることはないと思う。しかし当時精密に計測していれば住民の安心につながっていた」と指摘している。【久野華代】
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2012年2月18日

くらしとみた学問の意味

基本として、よりよいくらしをしたい、というのが人間フツウの心情ではないか。

 そこからみると、学問をするということ、なにか書かれたものからなにかをよみとるおおきなわけも、このよりよいくらしを知ること、よりよいくらしに役立てること、そしてよりよく文を読むことができる世界をつくることにさえあるだろう。

まこと千差万別もしくは一様のどちらかのあいだにすべての「ヒト」はいるわけだが、この個性の差をどう社会のなかにいかすか、がすべての学問のわけではないかとおもう。なぜこういうことを書いたかいえば、水戸が学問系をもりあげようとしているから。

 星の東西でかなりちがいもあったが、学問といえば要はむかしの、またはいまの文をよみかくことだろう。このばあいの文はすべての数理記号も、詩も、あるいは図形もdataも、すべてのことばの一切もふくめていう。いわば時系列的な重畳さをもつすべての情報からなにごとかを体系的にうけとることをいう。こういうもの、いわば文物のなかから、なにかしらみずからの個性にとって役立つ情報を得てそれによってよりよいくらしをする、というのが学問の、学業の本位ではないだろうか。

ごくわかりやすいたとえをひくと、もしサルがことばをもったとしよう。こういうサルはなにをするだろうか。サルとしてよりよく、よりすぐれた生きかたをするためにそれらのしくみをつかうのではないだろうか。
――ヒトが信じるところでは、サルなどの動物みんなより高等と全知全能の神さまから指定されているらしいのだから、あるいは単にダーウィニズムからみるだけでもサルよりあとに進化したいきものなのだからなおさらかもしれない。

 端的にいえばpragmatismというアメリカのなかにある哲学はこういう立脚点を古代ギリシアのアリストテレスの有用性のかんがえあたりから、もっとも基本的な場所にまでさかのぼってかんがえているととらえていい。これにくらべて、イギリスではutilitarianism(使用者のかんがえ、これは日本語では功利主義と慣習的に訳されてるが)、そこでは逆に「どうやってさまざまないきかたをする個性をつかうか」に焦点がある。このふたつは、にてはいるが同時に対照的といおうか、逆さでもある。
他人をつかうためにはどうしたらいいか、というのが最大多数の最高幸福をめざそうとする功利主義者らの基本にもったかんがえ。だからそれはつかわれるヒトにとってのかんがえ、つまり成長や自己実現のために道具をかきあつめみずからの成功をきわめようとする考えとは必ずしもいえない。

 これらを通しておもうのは、プラグマティズムであれユーティリティタリアニズムであれ、使う・使われるという雇用関係のかんがえであったというわけだ。そうしてみてくると、実はといおうか、水戸学の古典的体系とそれほど矛盾するわけではないといおうかほとんどおなじものでもありえる。君臣関係を正当化する理論が水戸学の本質であった。これを朱子学と儒学からひっぱってきたわけだ。

 弘道館(もしくは、自分がおもうにはだが、一張一弛的な意味で偕楽園すべての景観までいれれば確実に理想的な学際環境の理念として立派だから成功するとおもうが)を世界遺産に登録するにあたっては、国際機関だから当然ユネスコの中枢でも実権をもつ人物を説得する為にもこれらをみかえす需要がかなりあるのではないだろうか。要は近代にきわめておおきな力をしめした英米哲学を援用するべきなのだろう(*1)。

 はなしをもどすと、かつ、これらからいえるのは、この小論でいう「よりよいくらし」とは人それぞれことなっている。全体主義的に一意でいえば幸福となるかもしれないが、このしあわせは習慣や感覚、うまれもった遺伝子によっておそらく人それぞれそれなりにちがいもあるのだろう。
だから分業の推進は、法規範というそれらの利害関係の調整をのぞけば、基本としては為されるほどよいといまのところいわざるをえない。ある個性が、そうでない個性と混同され、みずからに不向きなしごとにつかわれたり、そういう役目をなんらかの不条理、いわゆる世継ぎだとか伝統だからといった理由で当人へ不本意にあてがわれるのが市民のくらしを不幸にする最大の因習となるだろう。ただしこれらもきちんと法規範のとりしまりがおこなわれるといった前提で、あるいは自らが世襲に適応している場合はのぞくのだろうけど。
 もっともやさしくいえば、「適材適所」あるいは向き不向きというはなしになる。社会がこの道理をみのがしているほど、すなわち、どんな勉学や教育課程でもそうだが、個人へ向いてない仕事をさせてしまっていると結果として個人主義のつよい英米哲学との矛盾もおおきくなっていくだろう。やりたくなければやらなくていいのだ。なぜならその方が、よく経営学でも上位3割があと7割分の仕事をするとかいうが、向いているみなが得をするのだから。子女に普通教育をあたえる義務とやら、あるいは勤労の義務さえこの点ではかなりの寛容さをもたせられていいはずだ。

 はなしをすすめると、学問をすすめるのはいい。しかし、もともと勉学が好きではないとか向いてない人にそれを必要以上に強制しなくてよいのだ。孟子のいった教育(教え育む;おしえはぐくむ)と、孔子のいった啓発(啓き發る;ひらきゆみいる)のちがいとかもここにはいるだろう。ここでいっているのは、啓発が重要だが教育はまあそれほどでもなさそうだということ。もともと、孟子の場合はいわゆる義務教育ではなくて英才教育(*2)についていったことばであるのをかんがみてもなお。
要は、できるものはその特徴をしめすためだけにでも自分から勉強してしまうものだが、そうでない人にはかれらの興味にこたえておしえていくべきなのだろう。以下にわけを説明する。
 これらの「不勉強な」人は実は、日本社会では不足しがちでもある。
 ポスドク問題をみればあきらかであり、外国人労働者がもとめられてくる理由も実は、この日本国内ではだれもそうなりたがらない「不勉強なゆえに予想がつかず応募してくる単純労働者」が先進国の自然ではへってしまいがちだから、なのだから。これは一昔前は日本国内では女工が担っていた分野でもあり、男女雇用機会均等法のせいもあるのだろう。だが、ここにはある骨もある。いってしまうと、教育された程度が世界中の自由貿易圏でもっとも中間的なほどその社会は富みやすいのである。なぜなら、当分つづくだろう資本経済の浸透下ではかれら(少しはもしくはかなりの良識ある先進国の世界的にみて中程度の教育をうけた市民を中心とした)大衆を最大の市場としておおくの資本が投下される傾向があるからだ。しかし、最高の教育程度あるいは学問の段階に進歩した人と、そうでないかなり古代からかわらない祖先の姿をのこした人たちとの習性にまつわる幅、というものはどれほどの文明の高度化のもとであってもただ希少価値それそのもののために保守されていいはずだ(*3)。
重要なのは自由貿易についてより大きな国富を占めるという目的性があるばあいは、この中間的な人口をもつかどうかが鍵になるというわけ。実質、これがEUというものを成立させた根拠でもあるといっていい。
この不思議な道理といおうか労働力の二極性が、たとえば学歴制度にかけてマイケル・スペンス氏あたりのシグナリング理論なんかを通して水戸市内でも多くが当然わかってくるはずであり、藩士教育(つまり市場への「使用者」がわの思想啓発)というものをおこなったのは実はかなり先見的だったともいえる。
なぜかといえば、結果は天狗党の乱などをおよぼしたという副作用込みだったわけだが、単純労働者不足は教育格差をもうけることで逆説的におぎなえるからなのだ(*4)。それが安定した大国づくりの一つの骨なわけだ。
――経済学上みれば、社会の中の教育程度の二極性が法的もしくはすみわけにすぐれて調和しながら進むほど、その社会集団は多様な分業をおこなえるので全体と見た効率も高まるはずだ。ここに一般庶民とはあたえられる教育の程度が土台からちがうので特権化されていく貴族あるいは王室のおこる余地があったのだ。
 またこれは自分が歴史学からみちびいてきた一般則だが、帝国の強度はこの社会層の二極性を如何に国内につくりだすかにかかっているともいえる。いわばpyramid状に、世界一頭を抜いたきわめて強靭かつ強固な高等教育をうけた超少数の支配者層と、そうでない無教養な享楽的庶民のきわめて大きな数がおなじ国で調和的にかなり大勢生存できたとき、そしてこの中間にもっとも多くの国民がいればその国は成功する(*5)。この二極性が強ければつよいほどその帝国が結果としてほかの文明圏にも大変なちからをもつのがこの世の真相なのだろう。前例をひくと、ローマ字を含むラテン語や漢字として居残っている中国語、そしていまのアメリカから由来した英語がどれほどおおくの人々に影響をあたえたかはかりしれない。

 水戸学派は、現在に於いてこの支配者層をつかさどる目的をもって出立しているといえる。はじめからそれは儒教の理念を日本史のなかで窮めるために、当時の最高権力だった将軍家に最近侍であった義公によって創始されたという歴史がある。この理想は、すくなくとも現代までの状況では立派な志というしかない。最大の商圏としてのいまの東京都であれ、あるいはアジア、太平洋の市場でもいいが、何らかの理想もしくはすぐれた指導者が必要なのだから。そういう母体となるべき運命が、水戸にはある気がするのだが。


―――
��1 ――ここから数行はかなり哲学にくわしいひとむけにかくと、いわゆる封建制を脱却せずその中で主従秩序を完成させようというのが儒教の理念でもあったのだから、キリスト教の神と僕の関係、ほかイスラム教等でもみられるこれらの忠義もしくは忠誠の正当化はかなり古くからみられる普遍的意思でもある。英米哲学の中で講じられていた一切も、実はその上位集合としてのキリスト教的主従秩序の中で如何に人間性を導くかという話でしかない。そこでプラトニズムは象徴化され、清教徒思想になった。カルヴァンの考えの核、そしてそれに親和したアダム・スミスの素朴な資本主義的富の肯定はこの主従秩序をたくみに商業と一致させたものだった。帝国主義の意味もそこに求まる。(*参考文献マックス・ヴェーバー著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)。
 つまり、基本的姿勢としては水戸学がめざしていた皇室の擁護は、その神格化さえ除けば、すなわち「王権神授説の否定」(*参考文献ジョン・ロック著『統治二論』--原文‘Two Treatises of Government’ )さえ除けばまったく類似の態度だといえる。なにがちがったか。それはキリスト教がひろく伝わったか伝わっていなかったか、だけだろう。それがひろくつたわった場所では人そのものの神格化はおこなわれえなかったわけだ。
 この一点さえのぞけば、ほとんど同じことが水戸学の態度のなかには英米哲学の使用・被使用の関係性にはある。単にそこへは功利主義者つまりutilitarianには統治的優良さと、実用主義者つまりpragmatistには労働者の自己実現とがみられるにすぎないだろう。プロテスタンティズムを極端にした場合はそこに統治者の代表としての王権が除かれたわけだが、この方法が成功するか、それともそれを保ったままにしておいたイギリスなどの王室の方法が成功するかは歴史をみないと分からないところだ。ちなみに世界の王室は以下の分類がある。
現在1の帝室と20の王室と3の公室。
http://www.geocities.jp/operaseria_020318/kikyo/contents/royalfamily/oushitsu.html
��http://megalodon.jp/2012-0218-0257-49/www.geocities.jp/operaseria_020318/kikyo/contents/royalfamily/oushitsu.html)
http://www.geocities.jp/operaseria_020318/kikyo/contents/royalfamily/Royal/ichiran.html
��http://megalodon.jp/2012-0218-0259-13/www.geocities.jp/operaseria_020318/kikyo/contents/royalfamily/Royal/ichiran.html)
あるいは http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E5%AE%A4
 より長い目でみれば、致命傷にさえならなければ保守的な方をえらぶのが賢慮あるといわざるを得ない気もする。礼をおしむ、あるいは間接的に失うなと云った孔子(参考文献『論語』八?第三、十七、「子曰く賜や、爾は其の羊を愛む。我は其の禮を愛む。」)はその儀式のなかの精神的態度を擁護したのだろうが、単に装飾とみてもそうかもしれない。これらの儀式は、きわめて不合理かついわゆる非科学的な通過儀礼であって現実の世界情勢とおおはばに矛盾して負担が過剰になりすぎるといった特別な事情がないかぎりは、伝統的壮観をあたえるという効用がある、という可能性をもっている。しかし、たとえば受験地獄の様な「役立ちもしない」異様な風習は勿論この虚礼にあるのだろうが、それらを避けていく自由まで規制しなければ、一定数これらの風習が残存した方がまだ伝統的格式を高めるのかもしれなかった。
 もっと科学的に無用の用とみたとき、これらの集団の礼儀にさえなっている種類の風儀は、なんらかの意味で現代まで人々を社会文化の環境でいまある姿まで淘汰もしくは選択してきたわけになっているのだろう。通過儀礼のたぐいも、比較文化論なんかみればあきらかだがなんらかの意味でその土地や地政でかつてもとめがあったかそれをrunawayのきっかけとした性選択の際の特徴の強化なのかもしれなかった。だから、ここでいう「礼(旧字体では禮)」は、いわゆる人間のばあいのなんらかの特徴の強化のためのなれなのだろう。日本人全般が他人にあたまを下げるのはなるほど、巨視的にみればまことに奇妙な風習で、ほかの土地のひとびとはそんな習慣や礼儀をもってさえいない。しかしこの礼儀が維持されている範囲の外では、赤の他人に済まなさを示すときはみぶりではなくかならず言葉でおこなうしかないわけだ。むかしでいう言行一致(近世の文献では新渡戸稲造著『武士道』あるいは、陽明学の「知行合一」までさかのぼれる)という哲学がうみだしたひとつのいきのこりの戦術として、この「あたまを下げる」という演劇的行動の風習は働いているはずだ。だれであれ目の前にあたまを下げている、どう見ても弱ったよわそうな人物をひとまえで暴虐であつかったりすればすこしはそうされている降参しているがわが第三者からさえ同情される可能性があるかもしれなかったろう。
おそらく人類学とみたその一つの起源は、武士の戦いの儀礼化にあったのかもしれない。問答無用の戦国時代に二本差しからその場で首を取られるのを防ぐ目的でもあったのだろう土下座という降参の儀礼、つまり命乞いの風習が軽くなったのが、そのいまにのこるあたまを下げるという慣習でありならわしなのではないか(和辻が郷里で家族の葬儀の際に済まなさの表現のためにならわしから土下座したときに涙を流して感激的にこの意義を感じたという逸話もあった)。この風習がいまに生きているのは、たとえば小泉首相がブッシュ大統領との対話のなかで、日本では変わった風習があるらしいな等と質問されたとき、小泉首相はその場で演技として土下座してみせ、「わたしはあなたへこうしなければならないな」といったなかばあぶないjokeを言ってみせたらしかった。これは推測だが、およそ日米安保条約のことが念頭にあるんだろう。それがfairかどうかはわからないが、まさにいまは座をおりている当時の大統領、ブッシュさんはアメリカ人らしくこのperformanceで大声で笑って気をよくしたらしい。効き目とみればおよそこの法則を、ほとんど人体の物理的には無意味な運動である頭を下げるという言行一致の慣習は示しているのだろう。

��2 『孟子』尽心・上、「天下に英才を得てこれを教育するは三の楽しみなり」。原文は「得天下英才而教育之、三楽也。」。ちなみに孟子のいう他の二つの楽しみはまず家族の安泰、もう一つは天を仰いでにも人間にあってもはずかしさがないこと。

��3 「上知と下愚とは移らず」、と孔子曰く『論語』陽貨第十七・三、にある。どの社会の常態でも形質あるいは姿の幅はつねにあるという意味だろう。

��4 おもに福沢諭吉なんかには旧態依然な愚民政策の根源としてさかんに攻撃されていた点だが、『論語』泰伯第八・九「民に知らしむべからず由らしむべし」の意味も、およそここにあるかもしれない。

��5 たとえばアリストテレスの『政治学』やマキャベリ『君主論』にもこの要諦が部分的にかかれているとおもう。

2012年2月17日

Liberal arts(引用)

文法学・修辞学・論理学
Grammar, Rhetoric and Logic

were the core liberal arts. In medieval times these subjects (called the Trivium)

were extended to include

数学・幾何学・天文学
音楽
mathematics, geometry, music and astronomy (which included the study of astrology).

 This extended curriculum was called the Quadrivium. Together the Trivium and Quadrivium constituted the seven liberal arts of the medieval university curriculum.

--from Wikipedia 'Liberal arts'.

2012年2月13日

工学の知識について

 現実社会と自然現象に数理modelをあてはめること、が科学(scienceつまり「知り」の訳語)がしてきた発明であり発明だった。このおこないが、人類のできたことのなかでもっともおどろくべきだろう。なぜそれができたのか、ある地球の奇跡というしかない。いいかえれば、定量を法則的にとらえられた、というのがあたまのしたすべてのしごとのなかでもおどろくべき才だった。川とか山ということば、あるいは万有引力とかentropy増大則がどれほどおおくのことを簡単に説明できるだろう。ことばがもっているある可能性は、しるということ、なにかをとらえるということにすばらしい力をもっている。
 また、知識は「ことばや記号による、つくりごと、つくりもの」であるのもたしか。これはほかの惑星にいる生命体に通じるかもわからないわけだ。われわれの三世代前の個体は、情報量ということばからなにをしりえただろうか。Computerと情報理論がでてくるまえは、熱力学をしっているすくないひとをのぞけば、entropyははっきりとした概念でさえなかったのだった。

 こうしてみかえしてみると、実用性をもった技術、日用にされるある技術、わざ、というものが、われわれが科学をいかす本当のみちだとわかる。ここで安定的に応用されている分野は、すでにくらしにとって不可欠なほどそれらの文化にすごす人間のうえにくいこんでくる。
 火が燃える、という単純な酸素燃焼の式
H2+1/2(O2)→H20+286kJ
は、地球上ではものがもえると酸素がへっていくという事実を密室の危険さとともにおしえている。同時に、閉鎖系での情報理論とみた混沌度、つまり物理量とみた‘熱量⇔entropy’増大の法則もおしえているわけだ。
 結局、実用や実利性つまりutilityをもった、なんらかの工学に応用されていく種類の知識、これがもっとも重大なのだろう。

 知識も千差万別あるが、形而上学という「現実にはたしかめられないか、たしかめがたい」ある曖昧な学識もふくめて(避けようとしても倫理とか道徳、法律がのこるかぎり完全に排除しきれないので)、ほかのすべてより重要なのは工学的に日用化される範囲の知識の系列なのだろう。
 そしてこれが立派なほど、その種族集団は未知の道具をつくりだしくらしていけるのだから、不測の事態にもそうだろうし、普段から経済効率をたかめて、結果的にはほかの集団にまさって生存確率をたかめていけるのだろう。

2012年2月11日

ある必要な計画

http://www.affility.co.jp/archives/797
��~~
私は図書館でフィヨルドの津波を調べていると、1950年代に世界最大級の大津波が発生しており、その遡上高はどうも数値がおかしい。

波高150m以上 遡上高約520m 1958年 アラスカのもの。

��ナショナルジオグラフィック 警告!最大級の自然災害ビッグ4 第2話 破滅的大津波の恐怖 で詳しく述べられています)
��~~

という歴史の事実があって、ここはフィヨルド地形ではないからこの たかさに つなみ が なることは ほとんどなさそうだけれども、念のためにつくっておいてほしいのは、市役所の高台から海抜高さをたもったまま安全にあかねひらまでつながってくれるrouteの開拓。

市内の主要な基盤はおもにほぼ市内中央にある市役所の高台にあつめていくのが合理的だが、そこが奥地と分断しないために、また(温暖化による海面上昇をふくめて)最終的に浸水域がそこをこえてしまう万一の事態でも避難路をあけておくために。

 道路を作りまくるという手法は行政の命題としてほとんど時代おくれになりつつあるが、いまの市長の得意分野ではあったらしいからこの際。任期中になんであれ計画しておいてほしいところだ、後生のために。

以下、冒頭の引用とおなじく参考資料。
��~~
http://www.affility.co.jp/archives/503
※明治三陸大津波
津波の遡上高海抜 38.2m
最大震度 「3」

※今回の東日本大震災 岩手県宮古市の例
津波の遡上高海抜 39.8m
津波の到達時刻 35分
津波の時速 「115km」

2012年2月10日

矢野新一という人

矢野新一という人、
http://www2k.biglobe.ne.jp/~yano/
このホームページで個人コンサルタントをしている東京出身・横浜育ち・専修大卒の63歳(1949年生まれ)の人物だが、この人がはっきりいうと、ある種の風評被害でもある「都道府県別魅力度調査」を個人でやって個人で広めている人だ、と突き止めることができる。
 いうまでもなく常識以上の判断があればわかっていたことでもあるが、そもそもが魅力とかいう個人の感覚に依存している曖昧模糊なものは厳密緻密に帰納的データを重ねて公的統計をとらないかぎりは真相など検証できようはずもないが、いままで何年も何年もそうやって順位付けをしてけっこうたのしく過ごしてきたのはすべて、この人が東京生まれの横浜育ちで専修大卒だからだ、とかんがえてあながちはずれてもいまい。
この人はなんのダメージもないのであるから、データがどの程度実証的かどうかなどコンサルタント業がもうかればいいのである。新興宗教レベルのあやしげな商法でも顧客としての企業が適当に占いみたいにうけとってくれればありがたいというからくりだ。

 すべて、以上に書いた事がわかれば、県民がとるべき道は二つのうちどちらかだ。
 一つはこの人による風評被害を個々人中心にでも訴えてこの人による風説流布を罰し(これは曖昧でかならずしも確証的価値の担保されない心理洗脳的な他の風評調査で迷惑をこうむっている各都道府県自治体と協調できる)、法に於いて名誉回復措置を講じさせること。
もう一つは、逆にこの人を「逆の風説」を流布させるいわば逆諜報として金目で利用してしまうことだ。情報社会の必然をおもえば、後者の方がより利用価値が高いととらえていいだろう。この人物の先は長くないだろうが、その期間、およそ平均年齢からいえばあと十数年(神奈川県78.24東京都77.98歳(資料link)だから残り時間約15年間)だろうが、ずっと占いまがいのくだらないテキトウで恣意的な東京・横浜偏見にかぶれた個人ネット調査による風評被害を、約3,000,000人がなんの功徳もなしにうけつづけるのは全然賢明ではない。
しかも、なんと県税からこのある特定の個人の(はっきりいって失礼だが、「専修大学の」「経営学部(当然、経済学ではないし、理学部の中の統計学科でもない)」からノコノコやってきた)、非科学的な、いわゆる‘確証偏見’調査による風評払拭のためだけに、わざわざ、われらが県庁に、対策班まで組まれて現に支出があるのだ。信じられない。

わたしもそれに風評被害対策費用をわずかながら確実に支払っているのである。どれほどの悪業だろうか、矢野新一どのよ。それでも、これらの大変に迷惑こうむる大の魅力度とやらが一体、ただの平穏に暮らしてきた平和愛好的かつごく風雅な人類最高度に高級趣味人である一北国市民のこの私が、わざわざあなたの無意味で暴力的な名誉毀損による県民侮辱罪のためだけに税金を支払ってまで横浜と東京の悪意ある低俗きわまりない自己満足や自慢劇場につきあわされるほど立派な懸案だとおもうのだろうか? 彼は。63歳にもなって。じゃああなたの現にしていきている、東京都と神奈川県の現にしてきている数かぞえきれない醜悪な業のかずかずをマスコミ経由で大々的に暴露してもいいというのだろうか。勿論、私は大変に魅力的なのでそんな意趣返しは決してしないのだが。

2012年2月8日

ある手本になりそうな復興designの写真

大津や平潟の復興designにはつぎの写真が参考になるかもしれない。
ネット上の画像だから、学術目的の引用なら日本の著作権法上ゆるされるはずだけど、とったもちぬしがとりさげてくれとコメントしてくればとりさげます)。



この写真のpointは3つある。
1.逃げ場としての高台と一体的に開発されている
2.風趣地区として船着場・海岸までおりていけるテラス・場の照明を含めて上手に美化されている
3.たてものが津波にも流されにくい石造(日本でいえば鉄筋コンクリート造)

2012年2月2日

科学とは何か

人は科学、scienceとよばれる自然(仮に社会も含む)への学び、習いとりを通して、ある記号による文物の体系を得る。つまりいまでいう教科書というものを得る。
 これは学校でつかわれるいまの文部科学省が指定しているものだけではなく、もともとは論文やそういう記号表現のあつまりだった書物も入れて。たとえばダーウィンの『種の起源』も、ニュートンの『プリンキピア(自然哲学の数学的原理)』もそうだろう。

こういうものが、結局どうつかわれるか。応用という面だけみれば、結局は工学そして技術・芸術に、つまり「わざ」につかわれる。
電子レンジや電灯や自動車や信号や電車やバス。そして工業製品をたてこんだ建築物。これらだけみても、科学は、実はもっとも素朴には「わざの素(もと)」なのだととらえるのが自然だろう。

 日本というか、日本語圏がどちらかといえば応用にかたよっていて、理論がよわいというのが以前から比較文化論とかでいわれている傾向があった。
そのために、ほかの先進国からおおはばに劣らないばかりかまさるべく、より理論そのものを重視すべきだとは信じるが、うえにかいたこともまたそのものとして真実ではないか。

――震災があって、技術のたまものであった原発が牙を向いた。これだけでも道具というものへ応用してきたのが、科学・知識・サイエンスの高度さだったとわかる。
状況を理解するだけでもかなりの物理学が必要だったのをかえりみれば。放射線の段階の物理知識はいまでいう高等学校以上のものだったから、そのレベルより勉学しなかった者は混乱するばかりか誤解や、状況がのみこめず見当ちがいな行動をしたろう。

 結局、この道具そのものの進化をよぶための方法、あるいは目的性が科学という営みなのだろう。いろいろ過去の哲学者をたどると、さまざまな意見があるのだが、自分がいままでの人類史をふりかえっておもうところによれば、神はすぐれた道具をもった人々へ味方してきた様だ。
イギリス海軍から先に最新式の武器を輸入できた薩長軍が、あるいは原子力爆弾が、どれほど人類のあいだの競い合いに決定力をもっていただろうか。それ以前にも、そもそもアメリカ大陸やオセアニアに土着していた旧人類は侵入してきた「つよい武器」つまり新型の道具をもっていただけだろう新人類とやらにあっという間に滅亡させられほぼ全滅させられた。
たったこれだけみても、神様がもしいるならなぜこころよい旧人類を救わなかったのか、大変に疑問視できるだろう。そういうこころよさ、ある精神の高さ、独特の文化や風物、変わった風習はまったく人類間の競争のまえでは現実には無意味だったのだ。神様は、この地球人類の段階へは、より高度な道具をもつ側へ味方したのだ。
たとえば、単なる装飾のための美術・芸術・文芸あるいは音楽や演劇に関してはヨーロッパでもっともゆたかだったはずフランス軍がなぜ、植民地の獲得・維持・発展度についてもっと冷徹で真面目で実利的なイギリス軍にはなをあけられてしまったのだろう。アリとキリギリスの童話ではないが、事実そうだったのだから。これは、究極で言えば、産業革命を起こした国が一歩さきがけて軍備の近代性があった、というだけの因果だとかんがえられ、もっと過去に辿ると自然についての知識が少しだけイギリスの側がまさっていて、その根本にはフランスとイギリスをくらべればイギリスの方へいくらか真面目で探求的・求道的・数理的な自然学者がいたというだけのことなのだろう。
 たったこれだけの理由、たったこれだけのいきのこりのためのきっかけで、わたしたちが「科学と技術」を信じる、すくなくともそれらを十二分に利用したがるというのは浅薄だろうか? 私は絶滅する側に入るのはなんにせよ、まったく賢くないと考える。
それによって、まさにここが不可思議でもありおよそ心理とみればいくらか慈悲心へのあざむきもしくはこころぐるしい自己正当化らしき ふしまわし でもあるところなのだが、生き延びた側にしか、こころよさでさえかたられえないのだった。なんとしてでもいきのびねばならない、というのが人類の科されている課題らしかった。すでに亡くなった、あるいはほろびてしまった、この世にはない人種の声は、残念ながら直接にはきこえない。大変恐ろしい歴史の一幕だが、たしかにその通りであり、神はかならずしも善意へ報いないらしいのだ。神は道具に味方するが、必ずしも人類のこころばえには味方してこなかった。これが冷厳な人類の歴史の真実でありこの世の真相らしい(*1)。

そこから引けば、だから、社会のなかで取引がいとなまれる一切の原因も、結局はこの希少にして重要な道具のやりとり、となるだろう。(交換貨幣とみた金銭も、交換の仲立ちとみればこの道具の一種としてはたらいているとおもわれる)。
 数学を部分集合とした科学という自然分析の道具も、技術を経由して経済社会つまり商業市場をつくり、それらの総体を防衛しながら調整する役割としての、警察ならびに政治機構がととのえられる。
これが全人類のいままでやってきたすべての仕業であり、いわゆる文明といううごきのすべてだろう。だから、科学の進展は「道具の進化」をうながしながら、ほか一切の社会構成をかえていく原動力なのだろう。
そして、実に不可思議なことながら神はかれら高度な道具人あるいは工作人(homo faber: ホモ・ファーベル。といういいならわしかたがある)へ、総じてみて味方してきたのだった。それはどういうわけか、勉強好きもしくは器用な人種が好きなのか、それともこの神秘にみちた、わたしたちをとりまいており、かつわたしたちを含んでいる自然界の学習と応用を通して、本当はなにごとかを知らせようとしているのだろうか? それがなにか、いまだわたしはしらない(*2)。


―――
��1 二つの対立する意見が、むかしから西洋にはあった。つまり人工vs自然といういつものはなし。本当は、人工そのものが自然の一種でありその一部でしかないのに。物理系とみてもそうとしかいいようがなく、大半の環境学ではすでに巨視的にそう定義されているだろう。入れ子的に人工⊆自然、という集合なだけ。
 中国にも似た機械嫌悪というのがあったことはあった(『荘子』天地、十一「機械ある者は必ず機事あり」。有機械者、必有機事。この周辺の文をよめばくわしいが、つまり、機械にたよると人間の精神がおろそかになる、といったよくある精神論だが。
これは現代ではほとんどかえりみることのできない謬説といおうか、よくない意味でかなり幼稚な議論だったのだろう。二足歩行にともなってあいた両手での器用な道具の使用が人類をそうでない類人猿らから別れさせていまにいたるというのが、現代水準の知識なことから。
そこからみれば、旧態依然な技術のもちぬしは大抵、反動形成も手伝って体面上、偏屈であると捉えるのが自然な条だろう)。
 が、もっともむかしからいわれているのは旧約聖書で「知恵によって神を知る事はなく、信仰によって救われる」という感じをのべる箇所がある(『新約聖書』コリント人の手紙Ⅰ: 1-21)。
同時に聖書そのものは、『旧約聖書』のなかの「箴言」の冒頭でもわかるが知識自体を否定してはおらず、むしろ信仰の理解を助けるとして勧めているふしがある。
つまり、聖書は、有り体にとらえれば神への素朴な信仰を失うな、ということをいっているあるいは、そういう文脈が総体としてはかかれていると捉えられる。
いろいろ議論はあるが、このばあいの神というのは唯一で、全知全能で、この世界の創造主という、ある人間の想像を超えたもの、といった意味だろう。
日本語でいうカミサマ、というと やおろずのかみがみ とか おかみさん とかあげくは特定の政治機能とかあやふやに意味がゆらいでしまったりするが、このばあいは英語でいうGodへの素朴な信仰ということだろう。
この超越した権威が、民族や人種や出自をこえて、アメリカの建国をささえたのだろうし、社会生物学のリチャード・ドーキンスがいう様に、Godの素(もと。訳の原語はmeme: ミーム といわれる)こそ人々共通のよりどころとして人類の言葉のなかで広まったのだろう。
 いまにいたるまで、特にイギリスのホーキング博士などのなかでくすぶっているのは、高度な技術があたえる莫大な力への恐怖なのだろう。ホーキング博士自身は、かなりまえから工学が誇大化しすぎたすえの文明破滅型の世界観をもっているらしいが、その起源は上述の、旧約聖書の信仰なのだろう。――だがこの見解そのものがただの彼自身の信仰であって、実証された科学ではないことに注意する必要が、一層思慮深くなおかつ信心深いはずのわたしたちにはあるだろう。

��2 当然、それ、つまり世界の置かれている神秘的なしくみも科学的な知識、つまり自然界の分析によってしかよりよく分かることはないだろう。ほかの理由づけというのなら人間のあたまで勝手にできるが、どれも人々の勘違いとか、まちがいだろうから。はやりの哲学用語にすると、象徴界とか想像界というものはなんの意味もないのだろう。
哲学用語でいえば現実界、つまり、一般語でいう「自然界」はすき勝手くみかえてしまえる言葉などではなくて、むしろ目の前にほとんど無限みたくすでにつくられて、ひろがってある。
それが分析すべきものごとであって、言葉とか記号はこれを指示したり、人のあつかえる記述、あるいは舌とノドからの空気振動で伝えられる用のしかたであらわしたりする、「道具」でしかない。
 よって言葉、これも道具の一種らしい。記号を言葉の一種としてその部分集合(記号⊆言葉)と定義すれば余計に。

2012年1月20日

原発と地震学のゆらぎ

したのニュースでわかるのは、地震の科学はかなり修正がいるらしいということ。このゆっくりすべりなるものはこれまで想定されていなかった概念だとおもわれ、原発の構想が「地震のすくなそうな」とみてきた場所も、こうやって修正されていくのだろう。
 事実、このあたらしい知見によれば東海第二原発はあきらかに大地震のおこりそうな場所にあるのであって、国政やほかの地域の利害関係と緻密に協調しながら危機を事前に回避していくしかなさそうだ。廃炉はおそらく前提になるだろう。

 また、現東京都知事の動向をみているとどうも東京の商業覇権主義になんらかの違和感をあたえる「北関東」という地政を、単にそれだけのために搾取しよう暴力的に侵害しようという悪意がうらに透けている。いわゆる関東6都道府県連合なるものを過剰に意識しているのだろう。また同時にその広さほかの面で旧来の大国らしさを内内おそれてもいるのだろうが。
だからいまの知事やその息がかかった者からの東京都の行政権なるものを、この点についておよそ信用しすぎてはいけないはずだろう。第一東京のためだけにつくっている様な施設なのに、それを背負ってきた巨大な荷物とその負担への最大の貢献者に裏切りの悪意をみせるなどはおなじ関東の国民性として人間業ではないのであって、おそかれはやかれ実際にこのあいだの震災時の様な先に停電させるとかいう悪業のわざわいをしめせば、あるいはしめしそうなものなら事前に警察権の裏を取って厳罰か尽忠報国せざるをえないだろうし。実際この際にもっとも頼りになるのは長州、いわゆる山口県の人々かもしれない。かれらは報道陣の陥穽になっていた北茨城市へ単独で来た某芸能人でもそうだが危機に際した尋常ではない行動力がみいだせるし、大局観というかこまやかな巨史観はないのだろうがとりあえず実行力だけはある。
 以前からほかの道府県となんらかのきちんとした法的・権力関係的なうらづけをとって、東京都なしでも、国政やアメリカやイギリスほかEU諸国との技術的協力関係で危険を避けていくべきだった。

そこからながらく卑劣にも利益だけをとっているのはなにも敵視するわけではないが東京都市圏、およびそのスネ夫的な手下をふるまっている横浜界隈なことはどれほど強調しすぎても喧伝しすぎても足りない偽善である。電力ばかりか薄利多売の第一次生産物まで黙々と提供してきたはず、裏切られた福島県民の涙をみよ。だから本質からいえば「マスメディア権力のさきどり」こそが真実をあばくキーなのだ。
こういう事情は実はここだけではなく、福島・新潟・青森についてもまったく同様なのであるから、それら東京の企業から過剰な負担をかけられている地域の首長たちおよび市民と緊密な結託と、できるだけ透明化した情報提供をあたえあうのは絶対に必要。むしろその意味では都政より国政とかれらとの情報交流の方がいまのところ市民・県民や都民含む周囲のたみを救う意味をもつのだろう。
 一つヒントをだせば、宮城の河北新聞社は新潟新聞と協定をむすんでいたので震災当日もきちんと紙面をつくれた。これは茨城新聞にはできなかったことなので、あいての徳からまなぶべき点だった。いいかえれば訳ある広域な地方同士の提携こそがリスク、危うさの分散化なのだ。今の分権思潮の段階では中心首都依存、そして一極依存がすべてのはなはだしい災いの根になるのだろう。

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本震前2度「ゆっくり滑り」=東日本大震災の発生促進か―東南海、南海も注意・東大

時事通信 1月20日(金)4時5分配信
 東日本大震災の本震(マグニチュード=M9.0)が起きる前の約1カ月間に、岩手・宮城沖のプレート境界の震源域がゆっくり滑る現象が2回起きていたことが分かった。本震2日前の最大前震(M7.3)を挟んで発生しており、本震の発生を促す「最後の一押し」になった可能性があるという。東京大地震研究所の加藤愛太郎助教や小原一成教授らが19日付の米科学誌サイエンス電子版に発表した。
 東北地方の太平洋側沖合では、太平洋プレートが陸側プレートの下に年間10センチ弱のペースで沈み込んでおり、本震はプレート境界が一気に最大20メートル以上滑って発生した。震源域北側の青森沖や南側の茨城・千葉沖では今後、再び大地震が発生する恐れがあり、小原教授は「ゆっくり滑りが起きた場合、力が1カ所に集中するか注意する必要がある」と話している。
 ゆっくり滑りは東南海、南海地震の想定震源域より北方の紀伊半島東部や四国北部などの地下30~50キロでも観測されている。想定震源域に近い浅い場所で起きた場合、大地震につながる可能性があるという。
 研究チームは岩手・宮城両県沿岸14カ所にある地震計のデータから、本震前の約1カ月間に起きた約1400回の微小地震を調べた。その結果、震源域の長さ約90キロの領域で、1回目のゆっくり滑りが2月中旬から末、2回目が3月9日の最大前震から11日の本震にかけて起きていたことが判明。全体の滑り量は約20センチで、M7.1の地震に相当する。
 ゆっくり滑りは2回ともこの領域の北から南へ伝わっていた。発生地点の移動のペースは1回目が1日2~5キロだったのに対し、最大前震後の2回目は同約10キロと速かった。このため、領域の南端付近にプレート境界がずれようとする力が集中し、本震の破壊が始まった可能性が高いという。 

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2011年12月29日

清掃員をやとうことのわけ

市内の清掃員は市税からたとえば1人あたま1ヶ月1万円で100人くらい雇えばいいのではないか?

特に、公園をつくったからだろうけど中心市街地のかわぞいにすてられているゴミがひどい。Moralに期待するだけでは限界があるんだろう。

ひとりあたま1万円で、100人だと、月に100万円、年に1200万円だが、市長の懐手にくらべれば安いものではないか? 総合病院の新築にあたってご自身の土地へ市税を投下した分がいくらかはいうまでもないけど。

 あたりまえのはなし、市税は「公共の共有財産」であって、市長のもちものではない。
そこからいくらかを差っ引いてもゆるされているのは、まともに公共奉仕をしてくれるという期待のもと、いいかえると全体のために犠牲になってくれる長のためにその自己犠牲の精神を信任しかりに預けているのに代えた、当人がほしいという賎しい分の報酬にすぎない。それはpremiumあるいは手数料であって、無代で働くものがもっとも尊くおよそ効率もいいのはあたりまえだし。利己的で性悪の人類はすぐ相手をあざむくわけで、理想の相互奉仕がなかなかならないので「共通の交換価値」をもつ財貨がいわゆる人質みたいに用意されてきた現実の人類史がある。
市内消化の原則からいえば、おそらくどこかの銀行にあずけっぱなしになっている市長の家の財産は、市内で流動資本状態になっている資財にくらべれば、不況時には価値の低いものなのだ。
選挙にかかる費用高を増徴させてしまうという面でも、二重に時代遅れといわざるをえないだろう。日本の弱点は、土建票で談合や裏金による財政赤字がすすむ行政にかぎっては、特にそこにあるんだから選挙費の節減しすぎは今のところないだろう。

2011年11月27日

保存すべきたてもの

 大津駅前と中郷駅前にある、煉瓦づくりの建造物、あれらは文化財として保護すべきだとおもわれる。

 磯原にもにた石づくりの蔵が磯原中学校付近にあるが、個人のもちものらしく転用されて今も喫茶店につかわれている。中郷のものもいまでは飲食店になって応用されているみたいだが。

 特に大津駅前のは屋根瓦がおちてしまったみたいだが、修復しつつ保存しておくことで大津駅付近の発展にも対応できるとおもう。いまは倉庫かなんかになっているのかもしれないが、なにかに転用してもいいほどよく設計されたものではないかとおもわれる。明治から大正の時期のものかもしれない。その時点でも土地の職人や建築家に相当の技術力や審美眼があった証明でもある。

都市の防災

水戸の耐火化、火に耐えられる様にすること、これは建築関係者が相当先駆けておもいをはせねばならないことだ。だから模範がロンドンなのだ。あそこは石造へロンドン大火で一新したことになる。
 ただ、全国紙情報によれば、県庁所在地としての水戸は、原子力災害時は放棄される予定らしい。可能性として、放射能が納まるまで地下生活を一週間程度できる様にする方が除染による財政投機効果をかんがみても現実的だとおもう。が、その予定通り移行地計画が遂行されれば、県央は廃墟になるだろう。だからここへ費用をかけてこれから耐火性能をあげるのもあまり経済的ではなくなるかもしれない。

 自分が薦めたいのは、やはり地下shelterでの県央部の保護ではある。これは県北をみすてることになるからというのも勿論あるが、同時に、この種のshelter事業によって公的な部門での投機活動がすすむからだ。巨視経済学的にはいまのところ有効な手なのがまちがいないとおもうのだが。日立をかかえる常磐道を放射能shelterで包む構想も当然はいる。
 放射能汚染は、心理的被災のひどさにくらべれば、戦争とかほかの生化学兵器によるものと比べれば、直接の致命傷になる人数そのものの具体数はおもいのほか少ないというのが自覚されねばならない。5万人あたり50年間で最悪のときでも139人程度しか新規の知的障害にならないだろうと分析された(http://kamomenome.exblog.jp/14825315/ による)。この危険度は理性的に見れば、そして大勢のいきのこりという条件に於いてはだが、それほど極端に深刻なものかどうか疑える。尤も、軽いというつもりはないし、悲惨なのはまちがいないが。
警察庁交通局の統計資料(www.npa.go.jp/toukei/kouki/0102_H21dead.pdf)によれば、平成21年度の交通事故死亡者数は、茨城県で199人。また、
・http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7345.html
・http://passageiro.blog54.fc2.com/blog-entry-58.html
・http://api-net.jfap.or.jp/status/2007/0711/hyo_03.pdf
 これらの資料から、茨城県が居住地の者では「人口当たり」全国で二番目にHIV感染者(エイズ発症前の患者数)が多いというのもおどろきだが(*1)、たとえば東京都では2010年度で毎年507人があらたに感染している。
純粋な数とみればこれで死んでしまう者は様々な理由で性的に乱れているばあいがほとんどだから、放射能汚染による事故と心情について純粋に比較できないが、すくなくとも外部被曝を注意深くさけられれば、そして食品からの内部被曝をその後の経過に於いてきちんと制限すれば、危険性とみたばあいの放射能被災というものは全体から見たときという最大多数の最高幸福をめざす政治に於いてという仮の条件付ではあるが、非常に悲惨とまではいいきれない可能性がある。
 勿論、これらは経口ヨウ素剤をとらなかった大量の外部被曝や汚染食品の摂取による内部被曝のばあいの累積患者数、そして事故に際した作業者の生命は除いている。だから百人程度以内での死者または患者数の上下はありえるとかんがえていい。

 結局、原子力災害の最悪のばあいは交通事故死者数と同じか、それより長引いて少々深刻、というくらいだといえ、その殆どはむしろ全面除染の困難さに加えた土地の汚染からくる風評や輸出農業の破滅にあるのだろう。総じてみて、これらを捨てるつもりならばそれほど極端に怖がる必要はないともいえる。だから、むしろ東海村の政策へもっとも適応的な態度というのは、それを誘致または受け入れした村が県内にはいりこんでいた時点で農業の継続は将来むずかしいかもしれないとの予想だったし、今からでもそうすべきだ。廃炉にしても万が一の爆発または事故時にはその放射能漏れの可能性がありつづけるのだし、そういった危険性をともなう土地の作物が比較値で広範に売れるか疑問だから。
 水戸あるいは県都の耐火化、火災への強さは以上をかんがみて、慎重でも確実にすすめられるべきだとおもえる。つまり都市の防災機能を強化するべきだ。あるいは、全焼にあったばあいにおもいきって一新させるというばあいも想定できるが、その予定がたてにくい以上は徐々にすすめるしかない。日本の風土で石造にするとヒートアイランドがすすみがちだから、それを解決する方法、さらに温暖化で予測できる害虫の増殖にも対策できねばならない。

―――
��1 茨城県は首都に近いにもかかわらず人口密度がどちらかといえば低い、そして特に県南では東京の風紀からの影響をうけやすい、またはその種のあおりにつながる営業の状態が特に土浦あたりでは放置されているというのがそのおもな理由ではあるだろうけど。これへの解決は、この種の営業へ法的にも取り締まり的にも厳正な対策をとること、そして風紀としての悪影響を比較的よわくしかうけない、県北側の人口動態を相対的にはふやすこともその一つだろう。
同様に、全国から圧力をかけて、東京都での性的異常を批判する必要もあるといえる。当人達のみならず、周辺が大変困る。
http://passageiro.blog54.fc2.com/blog-entry-58.html という前述の資料によれば、統計的にはあきらかに、東京・大阪・神奈川・千葉・愛知の順で感染者の数が多い。だから人口当たり感染者の割合という面での不名誉は、おそらくだが、我々が県南部に足をひっぱられる格好になっている。もう一つ注目すべきはなぜ長野にその割合が高いかだが、これがはっきりすれば低い場所の佐賀・徳島・山形・鳥取などと比べて、なんらかのより明確な対策のとりかたも考えられるだろう。

2011年11月21日

‘文化財は再建してはいけません(修復は価値毀損です)’

文化審議会は、被災地の悲惨な心情を逆なでし、しかも絶望させる様なことを平気でやったというわけ。
これが真にただしい方針なら、当然ながら再建をくりかえしてかたちをたもっている多くの文化財とやら、つまり東大寺・紫宸殿・桂離宮・東京駅なんかもぜんぶ登録抹消しろというのが当然の道理である。当然修復工事後、その過半の材料がかえられるすべての建造物は永遠に文化財になりえない。
 こういってはなんだが、文化審議会は知能がひくいのだろうか? 建造物の本質はその設計あるいは計画なのである。すべての材料はつねに時間の中でほろびていくのだから。修復工事をしたら抹消される文化財、ならば第二次世界大戦で破壊された為まったく再建をめざして新築されたものにすぎないロンドンの国会議事堂は、いうまでもなく文化財ではないし、世界中でおそらくストーンヘンジと古代ギリシアの廃墟群しかのこるまい。実際に、こういう判断をしめすというのはなにもこの世にのこしたくないのだろうけど。どっちかといえば、人間の手がくわえられたものはすべて文化財ではない、ということがいえるとおもう。なぜなら国民ひとりひとりの辛苦を積み重ねて払った御血税によるご立派すぎる自称国営権威なる大審判法王機関大先生さま・文化審議会どのさま(ただし権利平等に国民のなかから雇われた日本文化の一構成員にかぎる)によればという限定つき条件下ではあるけれども、登録抹消しなければならないほど不純なものであるはずか少なくともどうやらそうでなければならないか絶対そうしろというわけなのだからだ。たとえ自然災害の影響でも! 再建や建造などもってのほかである。――こういうことが、あたまのおかしいか、もしくは超越的に創造主狂信的な文化庁のかんがえのなかにはっきりといえるはずだ。そのとおりにするがいい、別にだれであれ困るものはない。
 しかしながら、今後、文化庁の文化審議会が、皇室関連のものやら国家もしくは政治経済界関連のなにかをほとんど材料をのこさず修復工事後(構造物の過半に及ぶ修繕や単なる構成部材の大規模修理ならびに新築あつかいは当然ながらその他の計画的再建も含む)、てきとうないいわけしてそれを文化財として登録抹消しなければ、理性をもつ全人類は確実に破壊しつくし日本の文化財をなのる権利を徹底剥奪しきるしかないだろう。それが文化を担う者の尊厳、そして人の道理というものだ。


�� ちなみに、ご立派な代々大先生だらけの文化審議会とやらの構成員さまは以下の20人でござる。

第11期文化審議会委員
http://www.bunka.go.jp/bunkashingikai/about/meibo.html より

��平成23年8月8日現在)

一、青柳正規(あおやぎまさのり)
 独立行政法人国立美術館理事長,国立西洋美術館長
一、石上英一(いしがみえいいち)
 大学共同利用機関法人人間文化研究機構理事
一、岩澤忠彦(いわさわただひこ)
 財団法人NHK放送研修センター理事・日本語センター長
一、内田伸子(うちだのぶこ)
 お茶の水女子大学大学院教授
一、岡本真佐子 (おかもとまさこ)
 桐蔭横浜大学教授
一、河東義之(かわひがしよしゆき)
 元千葉工業大学教授
一、佐々木丞平(ささきじょうへい)
 独立行政法人国立文化財機構理事長,京都国立博物館長
一、里中満智子(さとなかまちこ)
 マンガ家
一、道垣内正人(どうがうちまさと)
 早稲田大学大学院教授,弁護士
一、東倉洋一(とうくらよういち)
 国立情報学研究所副所長
一、都倉俊一(とくらしゅんいち)
 作曲家,一般社団法人日本音楽著作権協会会長
一、土肥一史(どひかずふみ)
 日本大学大学院教授
一、中村紘子(なかむらひろこ)
 ピアニスト,ノンフィクション作家
一、中山信弘(なかやまのぶひろ)
 明治大学特任教授,東京大学名誉教授,弁護士
一、◎ 西原鈴子(にしはらすずこ)
 元東京女子大学教授
一、林史典 (はやしちかふみ)
 聖徳大学教授
一、林田英樹(はやしだひでき)
 国立新美術館長
一、○ 宮田亮平(みやたりょうへい)
 東京藝術大学学長
一、森西真弓(もりにしまゆみ)
 大阪樟蔭女子大学教授
一、鷲田清一(わしだきよかず)
 大阪大学総長,哲学者

��◎会長,○会長代理)


なお、以下の記事参照
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111121-00000402-yom-soci
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六角堂など文化財登録抹消へ…津波でさらわれ

読売新聞 11月21日(月)11時33分配信
 文化審議会は21日までに、「茨城大学五浦美術文化研究所六角堂」(茨城県北茨城市)や蔵元「酔仙酒造」(岩手県陸前高田市)の本社事務所など、東日本大震災で被災した国登録有形文化財の建物6件の登録を抹消するよう中川正春文科相に答申した。

 近く答申通り告示される見通し。同震災により登録文化財が登録抹消されるのは初めて。

 六角堂は、思想家、岡倉天心(1863~1913年)の設計で1905年建設。今回の震災で建物ごと津波にさらわれた。酔仙酒造は倉庫、守衛所を合わせた3件が登録されていたが、いずれも津波で全壊した。

 ほかに抹消答申されたのは、米国人建築家ヴォーリズが設計した「日本基督教団福島教会会堂」(福島市)と「旧北上町役場」(宮城県石巻市)。答申は18日付。

最終更新:11月21日(月)11時33分

読売新聞
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また、
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111121-00000074-mai-soci
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��東日本大震災>岡倉天心創建の六角堂復元へ起工式

毎日新聞 11月21日(月)20時59分配信
��東日本大震災>岡倉天心創建の六角堂復元へ起工式
拡大写真
六角堂再建起工式に参列する池田幸雄学長(前列奥から2人目)ら=北茨城市大津町五浦で2011年11月21日、山崎明子撮影
 茨城大学は21日、東日本大震災の津波で流失した北茨城市の同大五浦美術文化研究所六角堂(六角堂)跡地で、再建起工式を行った。美術家・思想家の岡倉天心が1905年に創建した当時の姿に復元することをめざし、来年3月完成予定。六角堂は03年に国の登録有形文化財になったが、再建は「新築」となり、文化財登録は抹消となる見通し。

 再建される六角堂は、高さ約6.2メートル、一辺が約1.8メートル。屋根の頂点に宝珠(ほうじゅ)を頂く。創建当初の設計図がなかったため、県建築士会などが無償で技術協力し、写真や証言、近年の改修で作製した実測図などを基に、新たに設計図を作製した。

 同大は当初、4回の海底調査で部材を引き揚げ、登録文化財のまま復元する方針だった。しかし、発見されたのは昭和時代にふき替えた瓦約180枚や明治期の宝珠と水晶などで、構造が分かる物はなく、文化庁に7月、文化財がなくなったという届けを提出した。

 起工式には同大や市、県教委、県建築士会などの関係者約20人が出席し、工事の無事を祈願。その後の式典で池田幸雄学長は「六角堂の完成が、北茨城と茨城県と東日本の復興の象徴となることを期待している」と話した。【山崎明子】
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2011年11月19日

Networkの独立進化

Internetではない、internetをつつみこむそれより広くつたわるnetwork mediaをつくりだす必要がある。アメリカ政府がいま、ホワイトハウス主導で公的ウェブを介さないネットを開発しているらしいが、これより優秀なde facto standardをさきに開発し、流通させるしかない。単なるプログラミング言語みたいなものかもしれないが。

 自分がしってきたことによると、ウェブは検閲や阻害のあやうさがありすぎる。「自由な」ネットワークではすでにないのだ。軍がもっともくわしいことだろうけど。
 単に言論のためだけに、あたらしいsystemが必要。それを独立させてつぎつぎ進化させるのがいきのこる最大のかなめではないかとおもえる。

2011年11月17日

社会学

「福祉国家」系の福祉主義、welfarism:ウェルフェリズムとでもいうべき方向性はある負債をともなうらしい。それは一定数以上のただ乗り層、つまり世代を超えた長期失業組(いわゆる生活保護層)やその性質の滞留または固定化。
http://news.livedoor.com/article/detail/6035691/ のイギリス社会についての記事も参考にせよ)。

 いままでの人類文明では、おおまかにつぎの方向性が検討されてきたとおもう。
1.自由放任系のliberalism
2.中央調整系のsocialism
3.国有資産系のcommunism



日本はこれらの、かなり中間にちかいリベラリズムに属しているとおもう。そしてイギリスはかなり中間にちかいウェルフェリズムにいる。
 つよいウェルフェリズムに属しているのは北欧諸国(デンマーク、スウェーデン、フィンランドなど)、つよいソーシャリズムにあるのは北朝鮮、コミュニズムを信じているのは中国(中華人民共和国の方)。

 日本のなかでも地域ごとにすこし、またはかなりのcivilityの差があって、極端に資本主義的な陣営はおもに近畿から関西、特に大阪にいて(*1)、かなり社会主義的なひとは九州南部(民主社会党系)に多い(*2)。で、わたしは日本のなかではもっとも福祉主義にちかいたちばだ。資本主義・自由主義では社会福利・公的福祉のすきま充足に限界があると感じている。
 しかし、うえのlink先によれば福祉主義下ではやはり怠けとかただ乗りの問題がかなりでてくるらしい。これはいまの北茨城(いわば関東の東北端)でもおなじことだろう。もしここがUKのたちばにかなりちかづく施策をとったとする。それでもやはり一部の分子が「なまけ・制度の悪用」によって楽していきようとするとおもわれ、結果として全体とみた知的水準はさがりかねない。こうしてみてくると、よりくわしく、日本の内部思想を比べて次の構図がでてくる。

これはすくなくとも経済規模についてもそれほど遠くなく一致しそうな図だ(*3)。ここからみちびけるのは、「かんがえかた」のちがいによってその地域のたみのたちもかなりかわりそう、という社会淘汰的要因。
 おそらく地震で資本についての先取権は大阪または東京、あるいは両方の中間地にある名古屋がとる。大阪が筆頭にくる理由は、現在の知事・市長がそれらの格差肯定的価値観を唱導しているから。よって、最大の経済圏としての東京とのあいだに東海道megalopolisはより資本主義的価値観にしたしむ。そして文明化がこれらの社会思想、よのなかのつくりへのかんがえかたのちがいのなかでかなりことなった姿をとっていきそうなことは、ある地政学的必然性をともなっている様に感じられる。
 EUとアジア太平洋圏は世界経済の二大中心になっていくかもしれない(*4)。このとき、言語文化か国境、そして地理的障壁がないとき、ゆるやかにつながった地方同士はにた社会思想をもちがちだ。

 日本の中で東北圏が属している状況からいえば、地産地消をともなった物価水準のたやすさと最も農業に近いという条件ならびに寒冷な気候による冬季人口の低さと活動抑制性からきた潜在失業率の低さの為に、日本国内では最も福祉主義に近い施策がえらばれていく確率が高い。ただし、そのときの単なる経済からの心配は特に青森・北海道・そして宮城や秋田でめだつ生活保護の層(*1の都道府県別失業率を参照)の固定化と再生産、ということになるだろう。しかし、自分の意見だが、これが極端になりさえしなければ人口辺り一定数以上いた方が、おそらく「種の多様性」「性質の多岐」という面でほかの社会体制のもとでよりずっと有徳なばめんが多いのではないかとわたしはかんがえている。なぜなら経済能力といった一定方向からのみの淘汰よりは多方面からのそれが働いた方が、総合してみたときにその種のなかに多様な才能をといでいく可能性があるからだ。このため、自分はやはり程度の弱い福祉主義を採用していくのが東北圏ならびに北茨城にとっても有利であると結論する。
 もっとも端的にいえばはたらくよりも生活保護をうけつづけていた方が楽だから、はたらきものへ資産の面で寄生してろくでもない最低限度のくらしをつづける。こういった暗すぎる或る偏見をもった見方は、おそらく才能の多重性という面からくわしくみていけば決してまっとうではないだろう。なぜなら一部や現在の世論で悪評高い「所得格差」にともなった社会不安を広げすぎずにこの種の社会内生態の多様性をたもつには、いままで人類の文明内でみつけられたところによれば福祉主義が最善の選択肢なのだから。こういう人達のなかには、ただのり防止ならびに罰則の十分な議決と制度の社会状況に合わせたゆっくりすすむ改良がおこなわれていけばだが、たしかに、はたらくよりも別の才能をつかって社会・文化的貢献をしていた方が向いている、といった特徴種がしばしまぎれこんでおり、そのまま連続的に選好されれば次々世代ごとにとがれていくはずだ。そしてそういう人たちのもつ功利的・功績的・趣味的能力、要は一風変わったたくみさの特殊化が社会分業の内部組織として立派にすすむほど、その集団の効率や最高の達成というものは程度があがっていくだろう。

 こうして、はじめに引用したイギリスの暴動からわれわれがまなべることは、あの島に潜在した層の複雑さと自治組織や警察の不備だ。そこから良い点だけをならいとり、悪い点はしりぞければよい。

―――
*1 
・都道府県内所得格差: http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7357.html
・都道府県別開廃業率、失業率の相関: http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7365.html
・都道府県別失業率: http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7347.html
*2 2010年参議院比例代表:社会民主党得票率: http://todo-ran.com/t/kiji/12133
*3 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%8C%E6%B0%91%E7%B5%8C%E6%B8%88%E8%A8%88%E7%AE%97#.E5.BA.83.E5.9F.9F.E5.9C.B0.E6.96.B9.E8.A8.88.E7.94.BB.E5.8C.BA.E5.9F.9F.E5.88.A5
*4 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%9B%BD%E5%86%85%E7%B7%8F%E7%94%9F%E7%94%A3%E9%A0%86%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88_%28%E8%B3%BC%E8%B2%B7%E5%8A%9B%E5%B9%B3%E4%BE%A1%29

2011年11月16日

Susuki waves

The earth quake is not a something autumn bless?

How loud voice of Yankee bike did global autumn change-able the law

Great something susuki waves all over the Kitaibaraki society

森谷武男博士によるある警告

Sensationalなtitleでうわさが多い週刊誌だが、こういう記事あり。
『研究者「12月から1月、第2の東日本大震災が東北を襲う!』
http://www.news-postseven.com/archives/20111116_70694.html

確定的な事実ではないし、
以下の、研究者兼先生ご自身の参考URLによっても
・http://nanako.sci.hokudai.ac.jp/~moriya/fm.htm
・http://nanako.sci.hokudai.ac.jp/~moriya/index.htm
・http://nanako.sci.hokudai.ac.jp/~moriya/M99.htm

この‘FM電波(VHF)との地震波干渉説’の研究が確定された権威とはいいきれないが、当教授がいち研究者として自身の知識に於いて警告をしたことは評価できる。予言の正否によって研究のすすみぐあいや評価もかわるでしょう。
 でこの予測があたったばあいの重要案件は、まさに原発だ。

 制御不能時には手動ででも水素ventと非常電源を接続できる体制がいる。なおかつ、最悪の事態のために半径50km程度の住民へ経口ヨウ素剤をくばる準備を怠り無くすすめる必要がある。万一のときは国家をあいてどってでも50km圏の住民をすべて国内外の適切な安全地へ強制避難させるしかない。前例をみれば、もしこの費用負担をケチりそうものなら…。いのちとひきかえにでも…。という徹底した態度で!
 なおかつ、市内では今度こそ「契約された食料供給先(つまり、「市税からの補填」)」としての市内の小売業者からの支援物資開放。これはtop downではなく市民主導でおこなわれねばならない。
 そして給水車をだすばあいには「整理券」をくばり、高齢者や女子供が寒空のなか半日たちつづけるという不条理をなくせねばならない。最低限度、やれなければ行政へ罰則をあたえるしかない。

 これらにくわえ、地震があれば津波も可能性があるので、消防署からすべての車両をまず市役所の高台へ移動させ(これはそもそも消防署ごと移動しておくべきだったが1年かかっても市長の行政から実行されなかった)、つぎに「考慮」したらしい防災無線ほかで避難を勧告できねばならない。むしろ義務として。

 また、市内の各学校は避難所としての体育館を開放できねばならず、市外からの避難者をすすんでうけいれられねばならない。教育者らの良識で。

2011年11月14日

ひまわりの吸収効果についてのある知見

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/24558?page=5
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/24558?page=4

この二つの記事によると、どうやらひまわりの吸収効果の低さは「農地」だから、らしい。ということは、有機農法などで高い栄養価を土壌にあたえていない土については、農地でよりも、ひまわりによる吸収効果が期待できそう。
 具体的に市内でいうと、森や林、耕作放棄地、市街地にはひまわりの種をまくことで、実験的に土壌の放射能が十分に低下する可能性がある。

上の記事から重要部分の引用
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野中昌法(新潟大学教授、以下野中):ヒマワリや菜の花プロジェクトで、ヒマワリにはあまり移行しないとわかったんですが、これは非常によいことだと私は思ってるんです。たしかに、チェルノブイリではそれなりにヒマワリや菜の花の効果があったというデータはあります。私も当初はそれを発信しましたが、日本のデータを見るとほとんど吸収していない。これはやはり日本の土壌が、農家にとって何十年もかけて作り上げて来た肥沃性の高い土だということです。有機物などがたくさん入っている、そのおかげで固定能力が高かったのだと思っています。
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野中:関東地域は、特に東北を含めた太平洋側は雨が少ないので春野菜がたくさん作れるんです。ですから、ちょうどホウレンソウにしろ、春野菜が土壌の上に葉を伸ばしていた。ですから春野菜がたくさん沈着吸収して、制限値を超えた春野菜がたくさんあったわけです。土壌の汚染はあるのにはあったんですが、それほど作物への移行吸収が少ないとわかったんです。
��

予備のミラーページ
http://megalodon.jp/2011-1114-2041-20/gendai.ismedia.jp/articles/-/24558?page=5
http://megalodon.jp/2011-1114-2040-37/gendai.ismedia.jp/articles/-/24558?page=4

ある採掘されたデータ




数年前くらいのかば氏のツイッターかなんかだったと思うが、この写真がのっていたと思われる。
どうやら常磐沖の石油採掘船のタンカーかなんかだったというツイートをしていた。

 Hintとして、これが東日本大震災の引き金になった可能性もある。この船がどこのどういうものか分析できる人がいればいいのだが。

2011年11月13日

放射能対策へのことなった態度

http://ht.ly/7oYqG
引用
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2011年11月10日(木)
放射線対策費5178万円、東電に請求 日立市
東京電力福島第1原発事故を受け、日立市は9日、同社に対して放射線測定器の購入費や焼却灰、上下水道汚泥の一時保管費、観光施設の入場者減少分など、3月から9月末までに要した経費計約5178万円の支払いを請求した。

同市の小川春樹副市長らが水戸市南町2丁目の同社茨城支店を訪れ、荒木寛支店長に請求書を手渡した。

市によると、請求したのは、空間放射線測定器140台分や食品などに含まれる放射性物質の測定器などの購入費、ペットボトル入り飲料水の購入費、焼却灰や汚泥水の一時保管費などの物件費約2824万円と、放射線測定や水道水の検査、土壌の除染作業などの人件費約570万円。

これら市の一般財源から支出した費用に加え、奥日立きららの里やかみね動物園など4カ所の観光施設入場料の前年同期と比べた減少分約1785万円も盛り込まれた。

市は今後も原発事故に絡む費用などについて一定期間ごとに請求していく考え。
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 この様に、後から正当に請求すれば相手は賠償するしかない。
 今の市長は答弁でも「東電がやるべきだと考えている」とかいって、ケッキョクさぼっているのだ。判断力の低さ、理解の低さ、物分りのよくなさ、ともいいかえられるが、公共空間について線量計をくばって計測する、健康について広範に調査する、そして率先して最もしなければならない義務なのは市内の農地の除染(特に、おちばのとりのぞき)。市民の命と共有財産である市税を預かる政治家がこれらを面倒だからとひとのせいにして何もやらないのは怠惰としかいえないのではないだろうか。日立市をお手本にするべきだ。(追記:高萩市でも同様の対策をとったというから、県北三市やいわき市も含めて団結をくむのがいい。)

2011年11月12日

温暖化に際しての対抗策

ゴキブリという南国産の害虫は非常にたちが悪く、徹底的殲滅作戦をくりひろげるしかない。これは確かな経験談だが、今から15年前それ以前には、自分はこの市内で暮らしていてその生き物を見たことがなかった。ここ5、6年のあいだに温暖化やコンクリートの都市化に伴って出現率が上がってきた。本来の生態系からいえば外来生物なのが間違いないと思われる。

 市で大量のホウ酸団子を購入または自製し、これを大量に撒くべきだ。具体的にはゴミ収集の役人へ各ゴミ集積場へそれぞれ数十個を常々撒いておく計画をたてれば、市内から相当数が減少するはずだ。
これを実行するのはおよそ2月から11月の春夏秋の期間とする。市内の生活環境、公衆衛生が向上するのだから反対者がいるとはおもえない。天敵のいまのところ見当たらない、しかも外来生物で既存生態系を乱す、きわめて厄介な害虫好きがありえるのだろうか?
ただし、飛行で移動する虫を殲滅するには周辺自治体の協力もいる。少なくとも常磐圏一帯で将来的には同等の対策をとる必要がある。

 それと、なぜかこの市ではゴミをほとんど分別しない。これは焼却炉がどういうしくみなのかわからないが、本来もやせないものも燃えるゴミに出せるのはどういうわけなのだろう? それがリサイクルの効率をさまたげたり、生ゴミの優先処理を怠らせているとしたら改善がいるはず。

2011年11月5日

財政学

 今後、単に世界的潮流になるだろうこと、それは政治の無報酬化だ。

 今の段階で「財政赤字」がなぜ生じるかいえば、単に政治費用が機会費として高くつきすぎる、国家構造に真因がある。だからおそらく近世に先進国界を牽引してきたイギリスでもこれからこの機会費用の節減という部分に改造が及ぶだろう。

 農業政策は、Britainでは既に観光・引退・リクリエーションの産業と一体化され省庁も統合されている。
Department for Environment, Food and Rural Affairs. は、「環境、食料、田園事業のための部門」とでも訳せるけど、これは日本の省庁でいう経産省・環境省・農水省を一つにまとめて国交省や文化庁といくらかかさなる部門に入れ込んだものともいえる。

 日本ではカロリーベース総合食料自給率で39%、一方でイギリスでは59%がそうなっている(*1)ことから、田園側:カントリーサイドといわれている都市化されない地域の就業人口やGDPベースの価値観に染まらない、あるゆとりをもった地域での牧歌的生業は「地主化・集積」によってかなり効率面でもききめあると確認できる。某国会議員氏もイギリスのいなかを一つの模範にしてくにづくりに精励されておられたのを私も観察していたが、すくなくともあたりに工業化の十分すすまなかった多くの国々がある日本に属しているばあい、国際分業の面からも安価な食料を輸入し、できるだけ高価な製品を輸出していくことが太平洋の連帯にとって最も有益だとかんがえられる。

 で、北茨城だけに問題をおとしこむと、この市あたりでかなり劣化しているのは政治費用の高さ、その機会費用の誇大化。前出(*1)の資料によると、イギリスで粗付加価値額にみた農業の占めるわりあいは2009年度でも0.5%でしかない。つまり、現在、TPPにからめて議論されてる日本での農業保護政策(関税)の継続観を、GDPなる数値の上下動で測ろうとするのはその時点でまちがえている。実際、いまの段階の日本でもそのGDP比は1.5%でしかない(*2)。
 これらをかえりみると、「費用の高い政治社会」をつづけているとその利権や金権によって食料自給率や農園のみならず、地方の住民生活そのものが侵略的に破壊される。なぜならば、もし金利がなければ政治的力をもてないとすれば最も機会費用をかけた人物の意向しか通らないので。いいかえると、GDPでたった1%前後しかない圧倒的に不利なたちばの農作民は否応なく、財産や所得面からも、政治的勢力図からもどんどん阻害されるにちがいない。

 こうして、論旨のはじめにもどってできるかぎり機会費用の少ない政治界をつくりあげる必要が、北茨城市民にはある。そして最もすぐれたそのしくみは、政治そのものを無報酬としてしまうことだろう。
 自分はこれらのウェブログを公益なるもののために粒粒辛苦で執筆してきたのだが、完全に一文一銭たりともてもとに入ってこなかった。100%無代の仕事だった。その一方で、自分が知る限り市政のなかで費やされている額は単に報酬という面からあまりに多すぎるといえる(*3)。もし自分がこの市の長だったら、びた一文とらずに公共奉仕していた。
それをかんがえると「貯え」になる額の政治関係者の報酬は社会にとって大変に毒である、といえる。いってみればタダでも公共奉仕はできるのだ。必要な額をこえての政治による報酬は不純なもの、そして行く末あしきものであり、本来あってはならない、となる。商売をしている者が取引差額をさしひいていくことで生じる所得不均衡の是正の為にうまれてきた政は、もしそれ自体が商業化してしまえば際限なく所得不均衡を、よって有効需要の逓減をともなう為に社会を停滞もしくは退化させる。

 最も理想的な政治家は、今現在のところ税収をすべて尊い民衆の為に(可能な限り高尚な文化活動を助成するべく)一銭ものこらず費やしてくれるタイプである――公共大学の建設は、内外の雇用と活動ならびに文物の周密を吸い込む為その最大の効果の一つとなるだろう。勿論、経済率、つまり瞬間消費財分の複利耐久財の社会資本蓄積効果はかんがみてになるべきだが。
この景気循環の波を起こす力が弱まりすぎて一切がうまくいかなくなっているおもな原因は、日本の中にあってはその消費性向の極度の弱さにある。そして問題が根深いのは、実はその大きな原因の一つに政治にかかわる機会費用の誇大化があった。この小論では以上で我々の時代が直面した停滞した社会状況という困難な課題への抜本的解決策を導いた。

―――
��1 http://www.jetro.go.jp/jfile/report/07000573/honbun.pdf
��2 http://www.maff.go.jp/j/kokusai/kokusei/kaigai_nogyo/k_gaikyo/roc.html
ただし、http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/0314.htmlによれば、同じ小さな島国でありながら模範的農業政策を実現しているともとれるイギリス(英吉利、英国)の農業出荷は輸出側にものびている。ここから分析できるのは、単に危急時用の必須栄養価防衛の為の自給率のみならず、「種類の分業」によって比較的寒冷な地方で生育・栽培あるいは加工や保存・発酵させるに適した品物のばあい、たとえ開放貿易に近い形で国開きしていても住み分け効果によって他の国の豊富に産出できる食品とかさならずに取引ができる可能性もある、ということ。米について、アメリカ米と日本米では労力のつく量的腹ごしらえ用と質のよい味そのものを目的とした高級食材用といった分業が、もし開放貿易のわくぐみの中でなら必然に起こるともおもえる。
��3 http://www.city-kitaibaraki.jp/uploads/fckeditor/14/uid000014_20110630172413f5024fdc.pdf によると、現市長は平成22年度毎月87万円(年額1044万円)を市税からふところにいれている。かつ、退職金は1期で1914万円。計2958万円が行政の長には入っている。これはたとえば東京都(年額2430万円、退職金含まず。http://kyudan.com/data/chiji_kyuyo.htmより)や大阪府(年額1711万円、退職金含まず。http://www.47news.jp/news/2010/06/post_20100630090302.htmlより)に比べて決して多すぎるとはいいきれないが、完全に無報酬で公益の為にはたらいてきた者からすると許容しがたいし、今後とも続けていいとはおもえない額だ。

バックアップ電源による文化のわざ

だれが費用負担すべきなのかは不明だけど、地震後復旧工事中の磯原駅は市を訪れた人にとっての顔みたいな目立つたてものなこともあって、屋根に広くソーラーパネルを設置した方がいいとおもう。そういうちいさなことがかなり印象をかえるし、また地震があっても瓦をおさえる効果がタブンあるだろうから。

ここでうまれた電力はJR東日本がもっていってエスカレーターやエレベーターなどにつかうか、市がもってきて公共化できるかはわからない。ただあれだけ広く、めだつ屋根が玄関口にあるのに、復旧工事でも進化がないというのは虚しい。

 おそらく市役所の屋根も、バックアップ電源と蓄電装置をかねてソーラーパネルを設置工事した方がいいとおもわれる(防災対策の面からも)が、市役所のばあいは上の場所より設置がめだたない。
この先進性や環境意識の高さを示す効果(「文化の芸術」)はどちらかといえば駅舎にある。

公共図書館の電子化のはやいながれ

土浦の西洋クラシックの音楽ライブラリー(http://www.t-lib.jp/WEB_SOUCE/howto.html)に続いて、したに引用したニュース(*1)によると和歌山県有田市でも遠隔地サービスの一種として電子図書館をはじめたらしい。
このリンク先で。(https://www.libeaid.jp/aridagawa_lib/ 有田川web library)

かなり以前の記事でも言及したが、「知識普及の意欲」に応じて、トップダウンの横並びではなく各地域の図書館管理者が独自に電子化をおこなっていくのが現実らしい。逆にいえばこういう有能な管理者がいないとき、公共の共有財産である図書館資料が電子化される日はとおい。

 この市にかぎっていえば、知的水準に問題のある地域性とくりかえしのべてきたが、したがって知識の普及のための工夫にはやりすぎというものがないだろう。もしやりすぎというほどやっても、全国や全地球水準からみて最高の知的段階にいたるのはごくむずかしいほど遅れている、とかんがえていい。さもなければノーベル賞くらい何十から何百も市内でえているだろうから。

―――
��1 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111104-00000302-yomidr-sci
全文引用
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行かずに読める「電子図書館」 iPad活用
読売新聞(ヨミドクター) 11月4日(金)11時29分配信

 和歌山県有田川町は3日、図書館に行かなくても、電子書籍をパソコンや多機能情報端末「iPad(アイパッド)」で借りることができる「電子図書館」を、県内で初めてスタートさせた。

 小説や絵本、語学教材といった電子書籍約1000タイトルを購入したほか、著作権上、電子化しても問題ない郷土資料なども用意。24時間利用でき、遠隔地でも手軽に本に親しめるようになることが期待できるほか、貸し出しや閲覧が難しかった古地図や古文書などを電子データ化することで、画面上で閲覧できるようになるメリットもある。

 同町は、図書館とカフェを融合した施設「町地域交流センター」を2009年に同町下津野にオープンさせ、本に親しみやすい環境整備を進めてきた。町中心部から遠い地域の人にも利用しやすいようにと、民間企業が開発した電子図書館システムを導入した。

 電子図書館は、インターネット上の専用ページで希望する本や資料を探して選択し、ダウンロードする。1度に5冊まで借りられ、1週間の貸与期限を過ぎると自動的に読めなくなって返却されたことになる。iPadの場合、専用の無料アプリを使って閲覧する。

 動画や音声情報も盛り込んだ図鑑など、市販されている電子書籍約1000タイトルを3冊ずつ用意。また、町史や古文書といった町の持つ資料を順次スキャナーで読み込むなどして電子化し、閲覧、貸し出しできる資料に加える。

 古文書や古地図などは資料保護のために貸し出しはできず、一般の閲覧も難しいのが実情だが、電子化すれば容易に閲覧でき、児童・生徒の学習に役立てることも可能となる。

 電子図書館の利用対象者は、有田川、湯浅、広川3町と有田市に住んでいるか、有田川町に通勤、通学している人。「有田川町Library」(http://www.town.aridagawa.lg.jp/library/top.html)のページから、「有田川Web―Library」に進む。問い合わせは同センター(0737・52・4730)へ。(仁木翔大)
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2011年11月4日

そらたかく

 そ ら た か く 飛 ぶ な り か も め へ 朝 日 か な

 人 の す む 町 へ そ そ ぐ は あ か つ き よ

 い そ は ら を わ た る 清 ら な 海 風 よ

 訪 れ し も の を 包 め る い つ う ら よ

 風 流 の は じ め ぞ 秋 の か も め う た

 や ま あ い に 咲 く な り す す き の 穂 の お ど り

 か ば の す む 沼 に お り る は か ら す か な

 な ぜ な く の か ら す は 山 に 子 の あ り し

 と お き 山 夕 日 を う つ し さ み し け り

 あ き か ぜ に の せ て と ん ぼ の み え が た し

2011年11月3日

おちばとりのぞきの義務

しばらくまえのばらシンによると、やまあいの放射性物質はおちばについてて地面にはあまりおちていないらしい。

 ということで、里山では「おちばのとりのぞき義務」がある。特に農地へかさなるところ。これをきっちりすみからすみまでやるかやらないかで、市内でこれからおこってきそうな健康障害、つまり「すこやかさへのさしさわり」につながる被曝量をさけられるかさけられないかがきまる。だから勧告だけではなくて、民生員にチェックしてもらって臨時罰則(もしジブンの農地へのおちばをとりのぞかなかったら数万円から数十万円の罰金)をいれればいい。

 また、これは技術としてはできるが費用がかかりすぎるのでいまのところしないっぽいが、人工的におおきなかぜをおこしておちばがおおくなる時期にそれをすべてふきとばすことがかんがえられる。いわゆるおろしの逆をひとのたくみとして、山がわで大規模な熱源によりあおればできそうだ。数台のロケット用エンジンをやまがわでつよくかぜのふきそうな夕方にがんがんたく、とか。これでとてもおおきなかぜがおこって市内のやまからおちばをふきとばせる。

2011年11月1日

北茨城地政学

 現行の内閣へ圧力をかけているあつまりは、つぎの理屈をよくみとめないかもしれない。

 いまの国際社会とやら(せまい世界だ)では、共通貨幣でのとりひきがとてもひろくおこなわれていて、それがとりあえずおわりそうな気配はない。先進国の一部の情報(しかも費用のひくいそれ)くらいがここからはなれてきたが、そのほかはほとんど、ひろくとりひきしようとすると有償で、しかもこの共通貨幣をへる。
 だから、野田総理は単純にオバマさんとの友好をふかめる機会、そして価値観のおおきくちがう中国の膨張への対抗策を一緒にかんがえるチャンスとしてTPPをとらえておられる。これは、はっきりいってだれでも総理になったらむずかしいたちばだ。いたばさみといえる。

 で、この共通貨幣という面からみると、放射能被害にあった一帯の食料業はかなりすさまじく痛手をおった。(第六次というのは良識層にうったえる逆の利点があるけど、第一次の産業が。)
だから、‘全体主義’の目からわけられると、東日本一帯は第一次産業やめたらいいんじゃないですか、とつめたくいわれてしまう。これへ怒っても、政府や東京電力株式会社からの補償金がばあいによってはふえるだけで、おなじなりわいがかなり不利なところにおいこまれたのはかわらない。たとえば水俣とか四日市というものについているイメージ(負の有名)は、東日本や福島にとってもかなり深刻。

 よって、もっとも単純にかんがえるとだが、共通貨幣の国際秩序へしたがってさっさと第一次産業でひろくなりわいをおこすのはあきらめろ、となってくる。これはわれわれの努力で完全にくつがえせるとはおもえない、自然一帯におよんだ環境の変化だから。(公害の主体が法人だったというのが一つの救いで、怒ったり責めたりしたければその責任がある法人格(つまり、東京電力株式会社)へすればいいことになる。)

 そこで、私がおもうにはこの賠償をもとでに、より付加価値構造の上位にある産業を地域的におこす必要があるのではないか。*1

 具体的には、この市内だと特に1番はやりそうなのは芸術品だとおもう。芸術品はもっとも伝統ある最高の付加価値製品であり情報産業だ。しかも、経年優化しやすいので蓄積するほど有利になっていく、複利耐久性がある。そのためのほとんどの条件はそろっている。たとえば飛田周山とか、地域にねざした大画家、大芸術家をできるだけひろく喧伝するべきなのだ。実際、いままでも市民、市政や市場ふくめてがんばってきた観がある。*2
 しかし、それにくわえて自分がおすすめしたいのは、日製企業の多さがすぐちかくにあるので、また地域の住民のきまじめさ、という一種の遺伝気質を有効にいかすためにも半導体素子とか超LSI、プロセッサーなど、いわゆる高機能デバイスの部品工場をできるだけ誘致すること。そして県自体へも防衛策上も有効なのは、「医薬品の研究所と工場」の立地だ。茨城空港までの運輸ふくめて、漁業でだけつかってきた港湾も貨物船をいれることでまたつかえる。これにからめて、市立大学をおこすときには医学部をはじめから含めてそれを独立させておくことが将来の県内での医師補填にも医療水準の底上げにもつながる。こういうしごとのいいところは、職住近接がひとりでに市内でおこるので兼業農家がすくわれ、田園は維持され、それらは重工業よりも排出される環境負荷物質がすくない傾向があるからこの地域最大の美質である「繊細で綺麗な自然環境」の保護にめぐまれるというところだ。
 こういうところに勤めるのに向いている性格のひとがかなり多いというのが一連の観察から自分の知識だから。むしろ、失敗するというか経験的にほろびてきたのはこの逆で、積極的に相互の人間関係上の接触がある接待・接客・談合のある生業。要は第三次産業のうち、特にサービス産業的な分野だ。こっち系は、この地域のひとびとは全体としてみるとどっちかといえば向いていないとおもう。こういう小売業態は、すくなくとも市内において、ある神様商売みたいな姿勢でしかも家内制の辛抱づよい個人事業者でないかぎり、人口やその総移動量の点からもきわめて衰えやすい。(要は、南国の大規模資本に量的にかちづらい傾向がある。)しかもくらしてきた我々というかおもに県民の方々かなりも自覚してるはずだが、我々といおうか、茨城圏のほとんどのひとはいわゆる身体距離の広い暮らしに慣れているので、あまり狭い範囲に強制的に詰め込まれるとちょっとした喧嘩や足の引っ張りあいなど負の反応が生じる。これはたとえば非常に身体距離の間隔が狭い、東京や大阪の下町とは正反対の気質というか傾向で、かれらにはむしろ人から離れると危機感や不安を感じるという逆の文化形質がみてとれる。

 で、第六次産業(二かける三で、農作物の加工後、販売まで一貫した産業のかたち。農協つまりなになにコープや、よくスーパーでプライベートブランドといわれてるのとほぼひとしい)というのもまえもかいたが一流コピーライターとかの助けをかりてやった方がやらないよりはいいとおもうけど、できるだけ市内でうみだされる付加価値を上位化することがいまの、中国や東京や新潟?などの経済社会から追い詰められている被災後の環境変化へのありえる適応だとおもう。


―――
��1 ちなみに、マルクス主義によればこの付加価値といまはよびならされているものこそ、剰余価値のしぼりとりになるので、その思想を信じているひとの政府におおい中国や北朝鮮にとってこの高付加価値主義的思考はききすてならないしわざ、だろうけれども、もし我々の地方が独立後多数派当選でもしないかぎり、自由主義側の考え方のなかでその欠点を修整しつつうまくやっていくのが利口だろう。
具体的にこういう賢明な国々として方々から尊敬をあつめてるのは、北欧諸国、つまりスウェーデン・ノルウェー・デンマーク。ときにとなりのおくのフィンランドもくわえられるけど。かれらの手だては、どっちかといえば台湾や韓国にちかい西日本より、東北という寒冷圏に属した我々の風土にとって、その社会のつくりがかなり参考になるはず。
 ちなみに、同様の修整をほどこした福祉主義を一度はおこなったが国民の世論でふたたび自由主義へもどした国にイギリス(United Kingdom, UK)がある。UKがなぜもどったかいえば、すくなくともブリテン島では福祉主義だと人々が勤労の意欲をなくしがちで、おもにアメリカの資本から侵略的においつめられてしまうかららしい。ではなぜ北欧が自由主義化(つまり租税率のひきさげ)しないかといえば、そもそも北欧はどっちかなら引きこもり的地政にあるからだろう。そこへ入ってくる人数もすくないし、出ていくのもおなじ。このため北欧諸国はできるだけ安定した長期間の得失をかんがえた結果、人口流動性からえられる国内的利点としての低付加価値産業による利潤を捨ててしまったのだととらえられる。
だから、日本はどうあれ、北茨城だけにかぎっていえば同様のことが多少あれありえる分、他国の成否を参考にして「どちらかといえば福祉主義にかぎりなくちかい自由主義」がいまのところもっとも訳あるとおもえる。つまり、教育や医療など公的service部門をできるだけ税の補填から無償にし、かわりに租税率をここから南の人口流動性が高い地域より、市内について高めることだ。しかも、いま市政がやってるらしい多産てあてはどっちかといえば教育投資にあてられた方がいい。
なぜならシンガポールなどを例にひけば、ただでさえ高学歴や高い学力の者は自然増加率が一意の時間的にはひくい傾向がひろくあるのだから、有効な人口調整策はこれへあらがうこと、つまり教育年限に比例した育児てあてなのだ。この点でも、北欧のやりかた、つまり全体税で補填して教育費を最少化し たかい教育負担がいる医療従事者をめぐむかわりに、租税率そのもののためにひくい程度の教育にとどまる者が増加傾向をおさえられる社会が模範に足る。うそだとおもうならそれぞれ逆をやっている北京とオスロを同時に訪れればいい。またはNHKの番組『世界ふれあい街歩き』の教育用DVD(これは図書館が共同購入してもいい優秀な教材だ)なんかで擬似体験的にみくらべればいい。かんがえかたのちがいというものが一発で理解できる。そしてどっちかといえば、トウキョウなんかよりキタイバラキは北欧側でしかありえない。だから市税も県税も国税もついやされてる修学旅行も、どっちかといえば我々とたちばのちかいイギリスの地方か、北欧のおだやかな地方都市をめざすべきで、決して我々から風土や理想の将来像がとおい極東諸国(ある種の反面教育かもしれないくらいだ)をさきにお手本として修学すべきではないのだろう。京都や奈良も含め。

��2 勿論、将来のノーベル賞もしくはミヒャエル・エンデ賞(あるのか?)全受賞大作家様、ああとうとき弁護士相談あいて、ことああおそれおおきサー・高橋正志大先生すなわちグレートかば氏もこの例外でない。かばさんファンことあだ名マッドもついでに大評論家としてイマニュエル・カント永遠平和賞をえられるにちがいない(あるのか?)。これは冗談とばかりはいえない。むしろそうでなければならない。極端なはなし、市民全員がノーベル賞受賞者以上の勤勉さと努力、そしてその結果としてえりぬかれてくる才質をもてればこういう世界はすぐにでも訪れざるをえないのだから。

2011年10月29日

ことばの進化

経済さからいうと、日本語をつかってくらそうとするかぎり英語の単語とかさなる日本語の分量はあたまをムダづかいしていることになる、と かいた。
またこれは日本語そのものへもあたり、まったくおなじ意味でつかう単語がいくつもあたまにいれられるとそれだけ脳のCPUとしての力がおちて、おそくなってしまう。

 いまのところ日本語にちかいことばをつかうひとは多くはない。もっとも多いのは中国語というか、むかしの漢字やその省略文字にたよっているひとで、つぎが英語(出典)。日本語はそれらよりずっと下の順位。ということは、日本語でかいたりはなすかぎりそれをそのままわかるひとはかなりすくない、ということ。
またわれわれはあまりきづかないが、日本語はとてもむずかしく、そだってしまってからふたたび十分につかえるほどならおうとするとほとんどムリにちかい。はっきりいうと漢字をとりいれたカコの関西人のせいだとおもう。
そのせいでニホンゴはわざとむずかしくする、科挙文人の悪風にそまってしまった。いまのほとんどの試験というものも、ニホンゴ圏だとイジわるをしているとしかいえないものがごく多い。それらは、はっきりいうと害しかない。どちらかといえばひとびとを無知なままにしておくことになってしまうからしまいには弱い文明、まける社会におちいってしまう。

これらをかえりみると、ニホンゴをより英語にちかいことばでおきかえるのもかなりきくとおもわれる。平易なことばが英語には多いからだし、漢字をわすれられる。いまのひとびとがまったくしらない漢字は何万とあるわけだが、それをすべてちがうしるしでおきかえればより簡易なことばのままでもモンダイはない。

こういうことをかんがえると、文部科学省のつくってきたお固い教育方針にのるだけ損かもしれない、というほかない。特に、はじめはむずかしすぎる漢字をダイタイおぼえさせてから、つぎに英語を(5、6年生から)おしえこむ、というのはシッパイだ。この逆を、カッテに各おやがやってしまう方がいい。
 そうすればたとえあまりにむずかしすぎる漢字はつかいこなせなくとも、脳はよりなめらかに回ることになる。そして一部の子はこの分量のあたまを理科につかった方がいい。そうすれば地球のひとについていく、ばあいによってはかれらをさきにたってみちびくしごとができるはずだ。

むずかしすぎる漢字で中国の古典にしたしむ層。こういうひとは多数でなくていい、とわかる。このひとたちのモンダイは、科挙のわるいくせのためにひとびとをバカなままにしようとしてあることないことわざとむずかしくかきつけて威張るというところだ。
しかし一理あることをいうことも、きわめてたまにだが、ある。たとえば漁夫の利、とか仁義忠孝ということばはこういうひとがかんがえついた(しかもこれらはくせやことわざであって、かならずしも真理、シンジツといおうか、ホントウではない。いいまわしを工夫したものでしかない)。
けどそういう確率はおどろくほどひくいから、どちらかといえばむずかしすぎてよめないためにことばを立派につかえないひとがおおくなってしまうことの方が損がおおきい。

また、注意すべきことは単純に漢字がよめない方がいいというわけではない。むずかしすぎるそれより英語がつかえた方が「人々全体の結果とみれば」いいし、さらには漢字の希少価値より科学のそれの方がいまのところ高いので理科系の研究者になった方がありがたいってわけだ。おまけに、いまのところはほとんどの科学の文献は英語でかかれているし、会議なんかも英語でひらかれている。
まったく学習しないひとたちにとってはどっちにしてもおなじみたいだが、そういうひとたちにとってもどちらかといえば英語をしっている方が得しやすいはず。

そしてすべての科学者にとってのおなじことばといえば数学だ。だから数学は必修にした方がいい。小学校だと算数とよんでいるが、これは数学のなかでもさらにキソとなるところ、もっともカンタンなところといえる。しかし、ニホンゴやニホン文化の弱点が補強されるともっといい。*1
 和をもって尊しとなすをくにのかけごえにしたカコの弊害、つまりほかのくにのひととくらべたとき議論でのよわさというなれからよい点だけをうしなわない様に、ということは「やさしさ」「おもいやり」とかのどっちかといえば文学的なこころ、感情のこまやかさをなくさずに、おなじくはなしあいのうまさによってよりひろくさまざまなものごとを知る力、ことばの通じるいろんなくにのひととの極端な論争にならない適度なやりとりの力をのばすのはできるとおもう。要するに、いまは高校でおしえてる論理という分野はもっとはやくから習わせていいとおもう。

数理論理学の初段といえる集合と論理式、いわゆる →∧∨¬⇒⇔∀∃∴⊂⊃∪∩⊆⊇∋ こういうしるしをつかって必要条件などの式をくみたてる分野は小学生の段階でもそれからの応用ができるのでむしろ詰め込みしていいきがする。算術、つまり +?±×÷=≠<>≦≧√∫∞ こういうしるしで計算する分野は、実はうえにかいた論理との両輪だ。日常でつかうのは論理だし、算術はそのなかの数というものだけをあつかっている。このふたつをあわせたものに解析幾何学(≡∥⊥∠△⌒こういうしるしをつかう)といわれている分野があって、それをいまの文部科学省の下部組織がつくっている教科書はさきにおしえているが、これはそれらのあとでいい。タブン、理想的な順序でいうと
論理→算術→解析、なのではないか。
いまは
算術→解析→論理、となっているが、これだとこどもが混乱のままに勉強することになって、のびがない。はじめに論理をおしえれば、それを便利につかって算術も解析も自在にできるカノウセイがたかい。

しかも、いまのレベルですでに「計算機」というドウグがつくられているので、これをつかわない手はない。算術のめずらしさはかなりこの計算機、それとそのしくみのキソになってるオートマトンという理屈でひくまっている。しかし、解析はかなりコンピューターでかわりをできるみたくなってきたが、論理はまだできない。つまり、論理のカチがいまのところすべての知のなかでもっともつかえるのでもっともたかい。
おまけには、とてもなのある哲学者で、自分もいいこというので尊敬しているひとだが、ジョン・スチュアート・ミルというひとが自伝のなかでいってたけども論理は哲学、というかものごとをふかくかんがえることにとっても一バンつかえるということです。

で、もっともキホンの計算のしかた、たとえば筆算のやり方がわかれば、もう手計算だけでやらない方がいい。この計算機(いまでいう電卓)のしくみというのは算術のはたらきをキカイへやってもらっている分、脳があくのでそれだけあたまがよく回るというわけだ(ザンネンなことに、このことがわからない、あたまのよくないひとがトウキョウあたり、また みと あたりにはかなりいて、そういうわるいひとは学問がすすむより脳のムダづかいの方がすきで、ドウグのつかいかたがわからない。だから計算機をつかわずに手計算しろといってくるけど、それは二本足であるけるのに四本足であるけ、といってたおさるとかわりない。ムシしてしまうことだ。学校でもそういってくる先生がいたら、そんな授業にでるかわりに、ジブンでさっさと勉強して、できるだけはやくイギリスやアメリカなどに留学して飛び級するみちすじをえがいてください。その方がみんなにとってもいい)。
 あたりまえだとおもうけど、どんな立派なカガクシャもみんながほとんどを電卓やそういう専用のプログラムをくみこんだコンピューターで計算していますし、それがもしこわれてしまったとき、てもとにない、あとカンタンすぎていちいちもちだす手間がムダなときだけ筆算で仕方なくやる。「数学そのもの」のしくみをかえていくとき、つまり代数をつかわないときも、それだけで経済生活をしているプロといおうか大学教授や研究員、印税でくらしている著作家のあいだでも電卓をつかって数値計算はすることがほとんどだろう。
どんな数学をつかうひとも、キカイの方がおなじことのくりかえしがはやくて得意ということ、だからキカイの方が人間のタイテイの頭よりどっちかといえばこまかくはやく計算できるらしいということをしっている。人間のあたまがいまのところ得意そうなのは、タブン、概算といわれるダイタイの予測だけだが、これもまちがいやすいのでどうせいつか計算機でたしかめないとならない。どうしても手計算やどうしても暗算がすきなひと、もともと計算するのがすきだからカッテにやってたい算術すきのひと(ジッサイ、こういうシュルイの天才もたまにいる)、あとすこし時代遅れになってきてしまったけど、いつまでもソロバンをつかいたいシュミの人(このひとは、なんらかの電磁波環境の変化ですべての電卓がダメになったときのために希少ではある)、こういうひとだけが計算機をきらえばいい。というか、ソロバンもむかしの型の計算機でしかない。みんながみんな計算機をきらう必要はゼロだ。もしどうしても計算機きらわせて、どうしてもこどものあたまをムダづかいさせてみんなのあたまを空回りでわるくさせたいなら、なんで現場ではそれで日々計算しているのかってはなしになる。もっと便利でつかいやすく安価なドウグをしっててそれでいいものがありますよ(タブン、論理もできるコンピュータープログラムの一種か)、ってことだとしたら、それを早速みぢかなひとびとへおしえるかベンチャー企業としてそのわざを独占して売り出した方がいい(どちらがいいかは、それをつたえるひとびとのほしがっている度合いによる。だから日本国内ではタブン子どもやまわりのひとびとにおしえる方がつたわり、たとえば英語圏にはかずおおくの研究者がいるから売り出した方がよくひろがる)。脳のムダづかいをやめることが人類のことばの進化だから。


―――
��1  これは初期の天皇家と聖徳太子のせいでもあるが、和を以て尊しとなす、を中国語からもってきて国是としたために、議論をして合理的な結論をだす、という風習をなくしてしまった。
おどろくべきことだけど、ニホンジンとよばれているひとびとはほとんど議論ができない。このとき、議論ということばをすこしかえて、論争とし、これを英語とくらべてdebateだとすると、なるほど、あいてを打ち負かすためにする議論はかならずしも長期で見て利口なstrategyとはいいきれない側面がある。たとえばもっともむかしにアメリカにわたった人らのひとりで、こっちでいう1万円札、むこうでいう100ドルのかおになってるベンジャミン・フランクリンってひとの自伝でも、議論のくせはきらわれがち、あまりよくないとある。さらにうらづけると、『徒然草』にもいくつかこの点から過剰な利口ぶりや、議論による勝利の目的視を、作者の人生経験からだろうがいましめる文がある。吉田兼好にとって教養はむしろ人格の修養のためだったのだろう(二百三十二段、百三十段)。
したがって、どちらがかしこいのか、ディベートをホンのおさないころから叩き込んでるアメリカの子とニホンのひとが論争になれば、たとえそれぞれ得意なEnglish、日本語のやりとりだったとしても9割ニホンのひとがまけるはずだ。
しかしこれもいかにも徳川的なはなしだが、負けるが勝ち、いくらか負担が重い方がえらいという評価基準があるところもしばしば、いきものといおうか人類の社会ではないことはないのである。モチロン、いまのグローバル化のなかではいまいちそういう感じではないけど。コテンパンではまったくよくないというのもたしかであって、惜敗つづきくらいならまだゆるされるし、天下統一じゃないがすこしずつひそんだ応援者がおおくなっていくかもしれない。だが全体とみれば勝った方が多くを得る、というのがありとあらゆるいきもののなかで当然なかぎりこれらの負け助けとはときたま起こる例外のばあいへのいいおよびである、とおもうのが自然だ。なぜかって、いまあなたが家にあらわれた害虫をぶっ倒して、負けるが勝ちとほざくだろうか? 単にこれらの論点は「政治的長期戦略から、いかに惜しくも負けたふりをたくみにしつづけ同情する仲間の数をふやせるか」の群淘汰(という、ありえないと科学上は否定されている生物戦略の、過去の知識人らによって偏見づけられた)問題でしかない。要は、議論に勝つのは当然だが、勝つのを目的にする必要はないというわけ。
だから、すこしこの論争ずきというありがちだが尊くはない特徴をゆるめて「はなしあい、討論」のイミでconversationまたはよりやわらかくtalk aboutだとする。ときには必要な能力であり、特に海外に適応したければ必然的な能力である、ありとあらゆるおしゃべり、おもいの口語による自己表現能力をきらいすぎる、といってもいい。ケッキョク、はなしあいというもの全般、これがニホンジンはあまりできないというか文化環境としての過去の淘汰効果からもとっても苦手としている。これをすこしできるのはどっちかというと主婦やら独身女性やらであってむしろムダばなしというか、私語といおうか、井戸端会議くらいのはなしで、それも真剣な意見交換ではなく、ただのうわさのやりとりでしかない。しかもこれは生物学的には理にかなってるっぽいのがこわいところだが(うわさばなしによって「私生活」への性選択効果をはたらかせているか? 女性の脳幹の太さと、ことばの流暢さにかかわる知能や翻訳能力は比例する、という生理学的知見もある)。
で、からだのおおきな男がなにかをまじめにはなしあっていると喧嘩とカンちがいしてとめてきたり、逃げだしてしまったり、いやなかおをする。だからますます体育会系の負の側面みたいななんでもいいからちからでおさえつけるみたいなわるい風、まちがった野蛮さにまきこまれる。こういう なれ は 第一に不条理なよのなかをつくってひとびとのうまれもったよい性質をゆがめる。まるくおさめるというイミでは訴訟や裁判をすくなくした一つの功績はあったかもしれないが、かわりに論理をよわくしてひとびとが自然や社会のこまかなことを分析していく力をうしなわせてしまった。あれほどひどかった第二次世界大戦へさそわれていったのもこれができないひとたち(いうまでもなく天皇家もその代表者だ)がこのしまをしきってたせいがかなりおおきいとおもわれる。はなしあいのなかですこしずつなんらかの知ったことをよりそとから見ても変じゃないものにみがきあげていく、という集団研究やなんちゃら協会、いわゆる興味にそっておこなう研究会、クラブ活動みたいなものがすくなくなってしまうのがつねにやばい部分だ。このしまのアカデミズムのせまいすきまでおこっているいろいろなわるさ、いやがらせやあしのひっぱりあいもかなり、こういうなにか不満を根にもって、正々堂々はなしあいで解決しないというふるい風習がまさに一つの原因だろう。いうまでもないかもだけど、市政での議論のよわさもまさにこれ。本質や重大事はいわず一般市民へは公開せずに根回しやら人間関係のごたごたでなんとかおのれの利得の為にしてしまう、というのはものごとを根にもつ、ある公徳に劣った悪どい者やそういう邪悪な手だてをどんどんはびこらせたがるわるい風儀をいつのまにかのこしてしまう。当然だが、そういうあくどい者はある長い期間でみわたしてみれば小さな居場所にしか適合しないし、地球人類の表舞台から去っていく宿命の下にある。すでに社会主義国というものがどういうたちばにおいこまれているかをみてとればいい。
モチロンそれ以前に「はなしあい」で当事者間で解決すべきなのだが、すでに裁判というしくみがあるのだから、不服でもくりかえし上告する以外には紛糾の解消のしかたがない、と人類が経験的にみいだしてきた。それをこえて人類はいまのところきめにくい問題にきりをつけることはできない。だからこの人間界で最後の土俵際以外では必死に論争するイミ、かつ、ものごとを根に持つことの合理性などほとんどゼロだ。だれもかれも損しかしない。そもそもそういういつまでもあいてをうらみつづける性根の悪さ、乃至はどうでもいいことに必死になって些細な不満に目くじらをたて争いを不断に誘発するおろかしさが文明社会に適合しないためひとりでにきらわれてきえていくか、僻地へと退散させられていく、というのが常識的にあちこちでおきている社会現象であり、日本でも まずもって例外ではない。

2011年10月27日

常磐線のつくりなおし

常磐線北部は、ある程度迂回しながら地下鉄化すれば建設可能だとおもう。
 放射能シェルターをかねた技巧だから、東海村をかかえた県民が出資するきがあれば、専用の公社などとのジョイント ベンチャーがつくられれば災い転じて福となす、って点で経験値が将来もいかせるはず。

 都知事はホーキングの科学文明自己崩壊説、を事実として信じ込んでるらしい(ある記事によれば)けど、
現在しられているこの宇宙の年齢やその果ては今後も更新されるし、どちらかといえば観測限界がひろがる可能性がたかいので、
地球とほかの知的生命との接触がすくないのは単に我々の文明が若すぎるか孤立した位置にある、またはそのどちらもであると自分はかんがえる。

で、そうするともし地球人のいくらかが原子力の利用をこれからあきらめていったとしても武器や、ほかの文明でのことなった目的への応用という部分は大いに ありえつづける。放射線治療という医学と医療での それも つづけられ さらに きわめられていくだろう。
 よって「工学上の放射能対策への高い適応力」は人類文明のなかでも先進的で貴重な技能に属することから、自己と子孫の健康をそこなわない被曝への多くの優良な技術の一貫として
合理的なshelter地下抗またはそれを応用した空中敷設の わざ を もっているのは これからの ためになる。

2011年10月26日

(再掲)東京電力株式会社が終生責任を負うべき人数

 この記事は以前より精度を高くして再掲する。過去のはhttp://kamomenome.exblog.jp/14688316/

 おもな変更点は、
・東京電力株式会社の遠い将来へおよぶ大公害によって先天的に障害をうけたと定義できる、今後うまれてくる市内人口の予測を、5万人の全市民あたりこれからさき50年間で160人増加だったのを139人増加(21人分減)と、資料から推察できる精度を高くした。
・ダーウィニズム(進化論)の観点からかれらへの最大限に慈悲深い社会体制が、同時に世の中の役に立つ、という面での社会的選択効果をはたらかせつづけるべき、という人類の中の心身の不健全への過保護を戒めた。
・追記に、上述の増加わりあいから年間約3人、つまり市内で想定できる新生児の数全体のうち毎年1%の先天性障害の発生率上昇、についての算定を記した。
・結論として、「線量をすべての食品へ表示すべき」。そうすれば幼く若い者は線量を注意深くみずからにとっての安全度からえらびぬけるし、壮年以後や老人はあまりそれをきにせずとも農耕地方を支援できる。販売業者は無論、市及び県、国も積極的にそうしなければならない。つかった計測器の種類や計測方法もつけて。

 再計算部分を変更したほかはまえの記事とほぼおなじものなので、これらの点をみてとれれば、以前の記事を読んだ方は(計算のたしかめ、詳細をみたい等のめあてなければ)もう一度以下をくわしくよみなおす必要はない。

―――


資料1. http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/Chernobyl/saigai/Lazjuk-J.html
そなえ( http://megalodon.jp/2011-1003-1533-40/www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/Chernobyl/saigai/Lazjuk-J.html )
資料2. http://radioactivity.mext.go.jp/ja/1910/2011/09/1910_092917_1.pdf
そなえ( http://megalodon.jp/2011-1003-1537-23/radioactivity.mext.go.jp/ja/1910/2011/09/1910_092917_1.pdf )


ここで、http://kamomenome.exblog.jp/14066284/ より、
37 000 Bq(Bq/㎡)=1Ci(Ci/?) ∧ 1000bq=1kilo bq

15Ci(Ci/?)=37 000Bq(Bq/㎡) ×15=555 000bq(Bq/㎡)
555 000bq(Bq/㎡)=555kilo bq(Bq/㎡)

∴
37k Bq(Bq/㎡)=1Ci(Ci/?)
555k bq(Bq/㎡)=15Ci(Ci/?)

上の二つの資料をみくらべると、
北茨城の広域は 資料2(15ページ、参考4) より、セシウム137の沈着量について最大で100k bq(Bq/㎡)。
つまり、北茨城(及び、地図上で青色のある地域)は1Ci(Ci/?)~15Ci(Ci/?)の範囲内。
⇒
千人あたり (3.87+4.57)/2= 平均4.22人から (6.90+7.07)/2= 平均6.985人 へと、事故後の頻度増加 (51+83)/2=平均67% の新生児についての先天性障害頻度の上がり、がおそらくこの市内でも起こる可能性がある(‘おそらく’、というのは、今回の事故以後は除染や、地産食品をよけたり暫定基準値食品などでのなんらかの対策をしている人民がいるかもしれないので、情報の不足したベラルーシ共和国のときよりは被害がすくなくなるかもしれないからだ。)
ただし、今回これからもとりえるあきらかな対策として、過去の記事の中の計算によれば、初年度である今年に年間2.6ミリシーベルト以下の食品からの内部被曝、そして来年度以降も年間3.2ミリシーベルト以下の食品からの内部被曝にとどめ、受胎後8~25週というこの胎児にとって被曝に敏感で重要な期間には妊婦が一切の食物を無被曝のものへきりかえる、という二つの対策を確実にとっていればそこからすくなくとも知能遅滞については確率が減ることになる。
 もし約5万人とした市内の全人口が、これから50年後までにすべていれかわるとおおめにみつもると、上述の値の平均をとって、そのうち
50 000人=1 000人×50
∴
6.985×50-4.22×50=349.25-211=138.25≒139人、の先天性障害の人口増が想定できる。

 この139人(実際にはそれよりすこし少ないかもしれないが)は、事実上、東京電力株式会社によって先天的に障害をうけた、と定義できる。その全賠償責任は東京電力株式会社にあり、基本として我々にはない。
もし周辺のくにぐにへすさまじい被害をおよぼした東京電力株式会社による大公害がなければこの139人は、おそらく五体におおきな歪みもなく生まれ育ったのだから。

と同時に、この139人がおよそ想定できるという条件は除染や、食物への注意によっても完全に払拭しきれるとはかぎらないのが現実なのだから、「福祉制度の充実」という面で、(仮にそのすべての費用を公害の主体かつ大金持ちである東京電力株式会社へ負わせるとしても)我々が市内で障害や異質な身体条件をもった他者へ寛容に、できるだけ偏見をもたず優しくすべきはうたがいない。多くの社会条件のつくりあげ、たとえば車椅子をつかった生活の為のまちづくり、電車や交通機関、周辺自治体含む各種の公共機関を立派に整備すること、該当する医療福祉と各種養護施設へのおもに賠償からきた投資、もおそらく必要だろう。運行されるバスの低床車への買い替えをお願いし市民一丸でうながし、店のいりぐちや道路の陥没やすきまのゆるい傾斜路化、駅ホームのエレベーター完備への募金、これらは今後必要性がたかまるはず。
どの個人も集団の一員であることからこれらの公共費用高への強制的発言は偽善的ではないかという観点へは、もし冷たく現実的なダーウィニズムにもとづけば、彼らのほとんどは他者の擁護なしには生活していけないかもしれない不具とそのために集団にとってはおそらく負担がかさむゆえ、その血統を我々全体が他よりあえて優先的に維持する必要はないかもしれないが、彼らはみずからの不摂生のためにではなく、単に東京電力株式会社という企業法人の悪徳によって害をうけたのだから彼らにはこの点で罪がない、とみなすべき。そして万一にではあるが、彼らのなんらかの五体健全に比べれば不具合に該当する特徴の為に、かえってそのための栄養と神経が集中した別の器官に宿った特別な才能がいちじるしい社会的有用性をもつばあいがありえる。

―――
追記: http://www.city-kitaibaraki.jp/uploads/fckeditor/04/tokei/H22toukeisyo/uid000004_20100910091524fda32087.pdf (市民課、常住人口調査)の9ページ、「人口動態」を参考にすると、現行の新生児は市内で毎年約300人、今回の震災で転出がふえたという統計はいまのところはないが、かりに目算で50人分の出産人口が市外へ転出した、とかんがえると、

平成23年(2011年)度の産児を 250人 と仮定
上述の 50年で139人の先天性障害の増加率は、139/50=2.78(人/年)つまり年間約3人と算術できる。
よって、市内で懐妊された産児のうち
(2.78/250)×100%=278/250%=1.112%
≒1%の増加がみられるはず。

つまり、確率でのみいえば、過去の人類の歴史経験からみちびける最大のばあいでも、新生児全体数のなかに毎年いままでよりも1%の先天性障害の発生率上昇がみられる、ということになる。このpercentageそのものは全体主義的な眼によれば深刻な印象をあたえない解析結果だが、現実にあの公害によってたしかにその数の増加がみられるはず、というのはおそらく疑い様がなく、したがって今のところ「大規模公害」以外に一つの名前のない大企業による犯罪だろう。
より微視的にみれば、(現在~2041年または2061年まで; 最低でもセシウムの半減期がおとずれる30年間から、5万人の全人口が世代交代ですべていれかわる最大で50年間のあいだ)、毎年2、3人ずつ新生児のなかに先天性障害をもった子がふえていく、というのは決して万人から見ても軽い事由ではない。そもそもそれ以外にも身体被爆による甲状腺癌などのかなりの発生可能性とつねなる精神的抑圧がある。
市にとってもそれらの健康被害にたしかにあたるおおくの想定できる事象があった場合、かなり深刻な打撃なのはたしかだろう。どれほどの賠償があってもこの痛手そのものは広域にわたる除染の著しい困難さから、農作地の除染をするまで、あるいは山菜や家庭菜園など自然由来の食物を摂取した市内の人々へかなり長年にわたってつづくはず。
 よって、個人は無論、市及び県、国はその提供する農作物や食品へ計測器や方法を含めて線量表示を義務付け、想定できるかぎり簡単な除染法を紹介し、それを即刻おこなってできるかぎり内部被曝量を最小化する必要がある。

2011年10月25日

磯原言語学

 ちがう言葉をつかうためにおぼえねばならない単語数の重複は、それ専用のmoduleを脳へinputせねばならないかぎりCPU非効率をおよぼす。
 単語そのものが一個にきめられればこの損失はおきない。*1

 だから、日本人が全員bilingualになれ、といった教育方針はこの時点で矛盾している。重複の省力化をほどこしたCPUが処理できる情報量は同程度の性能、つまり同等の大きさの脳同士でもより多いはず。

 文法事項は語順問題へ返る。それらのならびかえで生じるすれちがいが熟語表現をとるので、かならずしも語学が脳やその思考回路をゆたかにするわけでもない、となる。いわばこれらの文法的多重事項は脳の中のinput programの冗長性にすぎない。
 おそらくこの場合の冗長性は、ちがう出自の者へ解読しやすいならびかえを行える、という「翻訳回路」を言語setにくみこむだけだろう。そしてある科学的達成や、それに類した単純性の数理的分析だけをするかぎり翻訳回路はそのCPU性能の目的最適化の為には負担でしかないだろう。

 これらの推論に誤りがなければ、文科省の方針な英語の必修化は単に教養的な選択課目でしかないべき(きわめて幼児の際から)、となる。
 英語の国際語としてのいまの覇権的地位も、英語を母語とした使用者らにとっての利己か便宜でしかない、と単に科学上からはいえる。*2

 そしてこのprogram言語の効率を参照にした、ことばの真理から、みずからの体系とはおおはばにちがった相手とのやりとりは専門の翻訳者や通訳をつかい、教育のなかでは子女の親にとって外国語学習を自由採択としできればやらない方がよい成果をあげられる、ということがわかる。その方が脳というCPUの効率があがるのだから。*3
 ちなみに、日本語のばあいは視認性や省略をのぞいて、発音setの単位となっている「五十音(いわゆる仮名)」の単位で仕事をするのが最も効率的という面白い理論がでてくる。このばあいのみ重複が最小、かつ単語が一つだからだ。つまり、漢語や英語の思考回路は仮名によるそれより日本語にとって一段効率が落ちる。それらには子音や文字としての不確定さがのこるからだ。これらのしばしば日本語へ編入される既存で外来の要素は日本語にとっては装飾的なものなのだろう(おそらくカタカナが利用される場合も)。
 だからある極点まで効率化が日本語の中ですすめば、むしろ最も単純な仮名ことば(これからつくられたりおもいだされたりするものふくむ)が過半以上になるだろう。そして分かち書きとよばれる英語でそうしている文字と文字のすきまで単語の区切りをしらせつつ記述する手だてが、漢字をつかうより効率面でもよい場合が(きわめてすくない非常に単純な略字、つまり月や山くらいの絵文字にちかい象形字の出現確率のひくい例外をのぞいて)ほとんどだろう。
 ちなみに、自分は磯原にある図書館で小さな女の子が紙芝居を一文字ずつ結構大きな声でかなりゆっくり朗読しているところから、これらをひらめきとして導けた。幼稚園かその前の年齢だろうけど、あの子には感謝する。

―――
��1 かつ、意味の最少最多則(最も少ない発音の量と表記のbyteで最も多くの誤解されない意味をとる為の言葉が経済的)からできるだけ簡易な単語がえらばれるといい。

��2 英語によるやりとりは付け加えられた能力としては(特にイギリスの旧植民地とそこから独立した各国圏での仮のcommunicationへ)しばしば重宝だが、必須ではない、という発見は日本語使用者へまったく新しく、これまでつくりあげられてきた明治維新組の下士層によってうえつけられてしまった自らの母語への劣等文化視というあしき偏見からの解放を約束している。翻訳文化はこの翻訳回路をもつ脳をつかった情報貿易業として栄えてきたが、単に科学の意味のみに限っていえばどの言語で説明されても同じものとなるはずだ。それらの間に生じるlossはすべての異なる単語間に翻意が存在できるかぎりありえず、一種のゆるやかな期間内でのとりちがえや勘違いの差延でしかない。たとえばrevolutionは再回転、という字面の単語だが「進化」にあてたためすこしのとりちがえや既存の単語がその文化内でもっていた意味との干渉が起きるが、ひとしい物事をさすかぎり結局は同じことにすぎない。

��3 こうして、なぜ外国語学習をしないアメリカとイギリスの人達のなかに高度な科学力をもった脳が多いかが理解できた。同様のことをすれば北茨城人の中にも想定できるだけ無数に天才的頭脳をはぐくめるはずだ。はじめから通訳者なしにおおはばにちがう言葉のひととやりとりしない、とそのinputをできるだけ捨てれば、そして同時にそのための労力を理数へ注げば脳がおおはばに効率化する。そしてこの点からみると、文科省の教育方針から自主的に離脱し、わが子へは英語で0点をとれ、漢文漢字もできなくていい、そのかわり数学だけは満点をとれと教えればいいことになる。ただし、このひとはもしひとりきりなら母語、この国でいえばおおよその日本語が通じる範囲でしか深いcommunicateできないかもしれないが、脳の効率として各国で必要とされるそれにまさる効果がえられるのはあきらかだ。同時に、英語圏が広いという有利さは英語が母語のひとたちへのみ通じるのだから、すでに母語が英語でないひとたち、またはこれからも英語だけで暮らす予定のないひとたちが科学的思考を効率よく行うためには英語学習は損失といえる。そして驚くべきことは、この英語学習の不要さを翻訳可能なすべての言語圏でおしすすめた方がかえって各地の効率的科学からえられる恩恵を英語圏の人々すらえられる、というところだ。同様に、かなり政治的な問題につながってしまうわけだが、薩長土肥や天皇家などの明治テログループがクーデターによる悪意ある転覆で周辺侵略を方針とした際にことなる体系のことばの人らへ日本語教育をしようとしたことも、この世界の思考効率という面から誤りだったし、今後もそうなると結論できる。同時に、いまや日常語も方言がきえつつあるのですこし些細なことでもあるが、方言での思考の方が英才教育のためにはよい、となる(ただし、本をよめるという能力については書かれた言葉、文語だけを標準語でした方が効率的という部分はいまのところ流通シェアの面からかなりそうかもしれないが。これも将来的には、単に効率達成という経済力学のためだけにばあいによっては標準語から方言への翻訳業のおかげであたらなくなるだろう)。「他語での学習は不経済」だから。

2011年10月24日

茨城学

 典型的な水戸っぽ気質。日本全国でみわたすと、以前御三家が置かれていた地域はこれにちょっと近い民俗の性質があるみたいだ。他の民俗も茨城とはすこしたちがちがっていたりして、部分的にはかなり重なるがかならずしもまったく同じ性質ではない様だ。
 が、自分が茨城県の地域でかなり長く一連のできごとを観察していてわかったことは、彼らの行動原理は「その同質性の高い仲間うちの利益」だけをはかっているということだ。
 ものすごく単純化すると、仲間同士の利益をはかろうと同質性行動をしてしまう習癖こそが、この根であるということができる。もっといえば、もしかれらがほかの地域国家と比べても良い仲間といえる非常に学識深く知能の高いひとびとと普段から人格的親交をむすんでいれば、もともとかれらがある同質性行動をする可能性は低まるといっていいかもしれない。
 要するに、かれらの大部分はただ周りのひとと徒党を組んだり適宜に協調しあっているだけなのだが、その周りのひとのために、自動的に悪さといえる失敗行動にふみこんでしまう可能性がある、これが哲学性の欠点と結論することができる。勿論、このなかまがよい仲間であったばあいは確実に成功に到達するだろう。

 この茨城的点、つまり在来のたちといわれるだろう部分を改良するには、「想定できるかぎり最大限に人工の流動性を(できれば選良的に)高め、その異質性を広域に均衡させて低知能なひとびとの為だけの社会行動を消失させていく」のが最善の手だ。これによって、茨城とそこに住み続けているひとびとのもっている同質性はかなりつよく緩和される。
 人口流動化の例から我々が先取権をとりたければ、可能な限り選良を導入した方がよい、となるだろう。しかも想定できる限り大多数。これが行われるためには、もしそれが可能ならだが、全世界で最も多い大学数というのが一つの目安かもしれない。これは現在にとっては高すぎるハードルかもしれないから、それより一つ目標をさげれば全国で最も多くのノーベル賞受賞者数(出身、在籍どちらも含む)、というのがあり得る効果への伸びではないかとおもう。これさえもむずかしければ、自分にかんがえつくかぎり次善の策としては(現在覇権的な英語圏を第一とした)海外留学者数の最大多数さ、かもしれない。
 これらにくらべはるかに最も簡単なものとしては、英語圏をおもとした「英語を主とした国際語による。できる限り優秀な、できれば博士か最低でも修士以上の経歴を伴った各科の)教師」をきわめて多数、またはすべての茨城圏内学校の主要なポストへ導入、できたらそれを各校に義務づけることではないか(すでに日本で第一外国語の地位にあるEnglish Assistant Teacher枠を含み、それをこえて。この枠そのものもたしかにかなり重要だからそういう人数以上を死守すべきだが。なぜならつかえない英語、いわば科挙英語というのが受験社会の日本では衆目一致する国際化の弱点なのだから。
 おそらくもっともよいのは主要な戦勝国としての英米からだろうけど、たとえばカナダやニュージーランドほかの英語圏または基本的な国語の通じる諸外国でも非常な厚遇条件を前提にその中でもかぎりなくよい人物をえらんでの雇用契約を広域ですれば、彼らが外国人であって在来のもの、在来種のみによってはぐくまれ得てきた性質とかなり違った血統であればこそ、茨城のひとびとのもってきた同質性は彼らの用いる文化のみならず定着での混血によっても容易に改良されていくだろう。

2011年10月23日

かば氏とのやりとりの経過2

これらの事態(http://kabanobutaiura.blog.shinobi.jp/Entry/1548に詳しい)の進展について、ふたたび一連のできごとを省察してみるに、

結局、かば氏としては「できるかぎりカモメの善意からの忠告は耳に入らなかったことにし、その後のカモメからの誤解をとくための話し合いもパスし、できればすべてをかばが全面的に正しくカモメがまちがっていることにして済ませてしまいたい」というある安易な手順でやりすごそうとしているのかもしれない。
 まあ、(相当に人間関係へ誠実な者でもなければ、*1)ありそうなことだ。
 そして自分がおもうことには、「相手へ人格毀損を働くことは(公益に類した、人格ではなく公務についての指摘でもなければ)全般として自己の人格の尊厳への毀損でもある」って真実だ。これは人格権とでもいえるだろう。この権利を他人について尊重しない者は、当然、社会のさまざまな場面でその者の人格権も主張できない場でしか生きていくことが出来ないだろう。

 わたしは豊田稔氏という個人は、はっきり言って信用している。この人は非常に若いときから懸命に市のために働いてきたのであり、その祖先も同様だった限り、きわめて市を益するための利他的行動について信用性が高く、そのために我々の大多数はこのひとをいまのところ市長の座にえらんでいるわけだ。(*2)
 しかし、自分が再三指摘しているのは、きわめて急速な情報化・知識化の、どっちかっていうと都心・都会での進展に比べ、どんどんとその趨勢からとりのこされつつあるこの市政および市場がまきこまれている資本主義系の世界観からすると、この豊田氏のかんがえかたは幾らか時代遅れになりつつあり、したがって「公務の責め」に十分応え得るかというとはっきりいって疑問符だということです。これはあの震災の一連の記事を参照にしてもらうとわかりやすいかもしれないが、第三者その他の観察者の眼にはかなりはっきりと映っていたことだった。彼が市民主義や利他性のもちぬしだと仮定できるとしても、その高齢などの要因のためにその既存の地位へのしがみつきもしくは任期継続がかえって市の損失となりえる可能性があるとおもわれざるをえなかった。5人が亡くなったことは、わたしにとっては悲痛のかぎりでもあったから、これはもっとやりようがあったろうという意味で、やはり最終責任は防衛者としての行政の現長に求めざるをえないのが現実だ。
その職責に耐える能力がお歳にして十分なら、もっと迅速かつ優良に市内のさまざまな落ち度は改良されていいはずなのだから。

もっともわかりやすくいえば、おそらく世代交代が必要だ。その速度が遅すぎる。これが社会そのものの混沌と衰退の原因でもあるのだろう。定年退職がない行政の責めは、それがゆえに新陳代謝が一層おそくなる傾向を持つ。ひとことでいえば自主引退、ご隠居という水戸黄門イデアがあまりにこの国から忘れ去られ、欠落している。結果として持たざる若者が非常に追い詰められ、深刻な世代間対立の一歩手前まできているほどだ。くわえて、この土建的風土が残存する地方の政治風土では一層その遅さ、遅れの面がきわだってきてかなりとりかえしのつかない状況におちいりつつある――すくなくとも、自分がカバ氏という市民活動家的(もしくは、一般的に職種または仕事の種類をみなしてそれにかなり類似している活動を含むだろう)ひととしばらくやりとりしてみても、この方も随分と努力はしているみたいだが、大勢の文明から遅れていることはどうも疑えそうもなかった。権利や法益や人格さらには批評という概念を、おおむかしの野蛮時代のサル山での共闘なんかに比べてそれほど認識していないのだ。一歩の遅れではない。

 これらすべてをかんがみ、わたしが「公務の責め」という面から、市民の自由な創作活動にイデオロギーを注ぎ込む様な子分作りをしようとしているふるい型の遅れた政治家もしくはそのたちを含む扇動家らしき者を、市の足を引っ張る劣等因として指摘し、進度をむけかえ励ましたのはおおよそ正しい判断だったとおもえてならない。第一、それですら豊田氏本人の人格的尊厳はわたしにとっても重要なことがらなので一向に触れるきがないにせよ、大変に流動性の低く失業率の高くなっている閉塞的資本空間の市内でめのまえでおきている風営法違犯の悪辣な子女壊乱さわぎを放置しながらまったく無関係の一小説屋をほめたてるなどという逸脱は、もし公務員の代表者足るべき地位にして万一あるとすればだが公衆の高覧に値する事例だと確信している。かれらの大多数は貧困ラインに届くかどうかというところで自らの個性をもっとも社会福祉に益したかたちでいかせる生業をもとめてさまよいつづけている。もう任期は確実なんて浮気加減で遊んでいるばあいとは、到底おもえないのだ。
 農林漁業がどうなるのにせよ、国家の先導層として正しく世界の公益と神の恩恵に合致した盛業を志すのが、もっとも古くから大国としての関東圏にあって、首都の一角を担う者の使命だ。仮に大多数の国民にとって検査を十分にしたとして、なおかつ一切の(外部からのコピーライターやコンサルタントの招聘と手助けを加えてなお)心配と危害のおそれのためにそれらの必要(*3)がないとすれば、広域の県民がみずから鋤をタブレット端末にもちかえて産業の興隆に貢献できなければならない。いつまでも風評にこだわって大多数の国民ならびに世界の諸民族諸国民にとって安全への懸念のある品物を売り続けようとしても多くの人が感心するとはおもえない。より重要なのはみずからの力で仕事を興し、その公益への報徳のために世界の人民がより安楽に暮らせる様はかることではないか。

―――
��1 我々はしばしば地方人の人間性へ期待しすぎる。おそらく、古代の高貴な伝説を中国史書から勉強してきたのがその原因だ。どの世界であっても非常にまれな例外でなければ、隠者らしき地方住みの人物に公徳に類した大観またはその時点での国際常識の定着を見ることはできないし、彼らの持っている知識や技能も決して飛びぬけて利口と言うほどではないだろう。
然るべき能あってなおかつ相当に人間関係へ誠実な者でもなければいざこざへの適切な人格的処理を期待するのは彼らを取り巻く環境とそこではぐくまれ得る才にとって過度と言うものだ。自分はこの市内のある人物に期待をかけすぎていたのだろうし、彼の一見誠実そうにみせているものは、論語でいう郷原(地元の偽善)にすぎなかったのだろう。
 ある現実主義者が述べる様に、自然の長は最も枯れた土地である都会に才能を集め、最も豊かな地方の風土には敢えて悪種を集めてしまったらしい(犯罪率などを見返せば、総体とみてあるいはこの分析も、単なる教養に落ち度のある地方者との接触に際した一連の事象への便宜的合理化にすぎないかもしれない、多くの実例をとれないかぎりこの一般論化はまだ危険だが。少なくともこの社会的分類学は「適応性にまつわる地域間民俗差」へ少しの予備的観点または正否どちらかの発見を与えるかもしれない。おそらく大きな原因は、特定の情報量の集積度ではないかと思える、したがって移動費がますます節減されていく情報化では文化越境についての多くの予想外の事態が生じ得るとも推察できる。この事例もその一つ、知識及び情報格差から来た摩擦だった可能性がある)。
この状況を仮に説明すれば「幸福の平衡」として、都会のものには人間づきあいよさを、田舎のものには土地の清浄さを分け与え、それらの両立はなり難くなっているとかんがえることができる。しかし、多くの場合に人はこれらの両立を求めて努力を重ねているのだろうが。
――なおこれら観点へは自分の観察から経験的知見がある。御茨城県知事殿は、自分の見る限りきわめて博識で能力もごく高い。海外からも褒賞されるのは当然だ。こういう人物をみるにつけ、旧常陸の国と言う首都圏に入った領域は地方と都心の両方の特徴を兼ね備えているか、少なくとも両方が急速に混合し易いという条件下にあるとおもう。或いは自分もそういう社会構成に関わっている一人かもしれない。

��2 そして実際に一市民もその点、つまり市の利益の為に彼が行動しやすいだろう、って観点の真実性については吝かではない。勿論これは大抵の地方の長と同じ土地か地場資本の固定性が原因の一つだろうし、それが新世代から見ると地縁を軽く見て広域メディア戦略を駆使している様な斬新な型に比べて若干古びれても悪びれてもいるので新鮮味に欠け、革新的行政人たる先進性はないのだけれども。
この点で、めだった革新首長としてかなり果敢な判断をつみかさねてきている高萩の草間市長は、この市政にとってはかなり参照や参考に足るとおもえてならない。代替電源も用意しなければアナログ的時代遅れの防災無線設置で元の木阿弥にならないんですか、ってレベルの出遅れた後進性を現職の北茨城市の市長自身ならびにその行政機能は構成員らの高齢さも相まって悲しいほどもっている。しかも平気で、というのが日立の北にあって末おそろしいことなのですが。

��3 つまり、茨城がかなり長くそうしてきた首都圏へのもっとも安価で流通費用の低い、安全な食品、それらの加工地を含む原材料の提供先。もしこの為に需要よりかれらの機会損失が高くなれば、我々にとっても所得の高度化がみられるはずなのだから、我々自身の緊急時の食料源の絶対確保という条件つきで助成による産業構造の大胆な転換をはかれる。