2011年10月24日

茨城学

 典型的な水戸っぽ気質。日本全国でみわたすと、以前御三家が置かれていた地域はこれにちょっと近い民俗の性質があるみたいだ。他の民俗も茨城とはすこしたちがちがっていたりして、部分的にはかなり重なるがかならずしもまったく同じ性質ではない様だ。
 が、自分が茨城県の地域でかなり長く一連のできごとを観察していてわかったことは、彼らの行動原理は「その同質性の高い仲間うちの利益」だけをはかっているということだ。
 ものすごく単純化すると、仲間同士の利益をはかろうと同質性行動をしてしまう習癖こそが、この根であるということができる。もっといえば、もしかれらがほかの地域国家と比べても良い仲間といえる非常に学識深く知能の高いひとびとと普段から人格的親交をむすんでいれば、もともとかれらがある同質性行動をする可能性は低まるといっていいかもしれない。
 要するに、かれらの大部分はただ周りのひとと徒党を組んだり適宜に協調しあっているだけなのだが、その周りのひとのために、自動的に悪さといえる失敗行動にふみこんでしまう可能性がある、これが哲学性の欠点と結論することができる。勿論、このなかまがよい仲間であったばあいは確実に成功に到達するだろう。

 この茨城的点、つまり在来のたちといわれるだろう部分を改良するには、「想定できるかぎり最大限に人工の流動性を(できれば選良的に)高め、その異質性を広域に均衡させて低知能なひとびとの為だけの社会行動を消失させていく」のが最善の手だ。これによって、茨城とそこに住み続けているひとびとのもっている同質性はかなりつよく緩和される。
 人口流動化の例から我々が先取権をとりたければ、可能な限り選良を導入した方がよい、となるだろう。しかも想定できる限り大多数。これが行われるためには、もしそれが可能ならだが、全世界で最も多い大学数というのが一つの目安かもしれない。これは現在にとっては高すぎるハードルかもしれないから、それより一つ目標をさげれば全国で最も多くのノーベル賞受賞者数(出身、在籍どちらも含む)、というのがあり得る効果への伸びではないかとおもう。これさえもむずかしければ、自分にかんがえつくかぎり次善の策としては(現在覇権的な英語圏を第一とした)海外留学者数の最大多数さ、かもしれない。
 これらにくらべはるかに最も簡単なものとしては、英語圏をおもとした「英語を主とした国際語による。できる限り優秀な、できれば博士か最低でも修士以上の経歴を伴った各科の)教師」をきわめて多数、またはすべての茨城圏内学校の主要なポストへ導入、できたらそれを各校に義務づけることではないか(すでに日本で第一外国語の地位にあるEnglish Assistant Teacher枠を含み、それをこえて。この枠そのものもたしかにかなり重要だからそういう人数以上を死守すべきだが。なぜならつかえない英語、いわば科挙英語というのが受験社会の日本では衆目一致する国際化の弱点なのだから。
 おそらくもっともよいのは主要な戦勝国としての英米からだろうけど、たとえばカナダやニュージーランドほかの英語圏または基本的な国語の通じる諸外国でも非常な厚遇条件を前提にその中でもかぎりなくよい人物をえらんでの雇用契約を広域ですれば、彼らが外国人であって在来のもの、在来種のみによってはぐくまれ得てきた性質とかなり違った血統であればこそ、茨城のひとびとのもってきた同質性は彼らの用いる文化のみならず定着での混血によっても容易に改良されていくだろう。