2011年10月23日

かば氏とのやりとりの経過2

これらの事態(http://kabanobutaiura.blog.shinobi.jp/Entry/1548に詳しい)の進展について、ふたたび一連のできごとを省察してみるに、

結局、かば氏としては「できるかぎりカモメの善意からの忠告は耳に入らなかったことにし、その後のカモメからの誤解をとくための話し合いもパスし、できればすべてをかばが全面的に正しくカモメがまちがっていることにして済ませてしまいたい」というある安易な手順でやりすごそうとしているのかもしれない。
 まあ、(相当に人間関係へ誠実な者でもなければ、*1)ありそうなことだ。
 そして自分がおもうことには、「相手へ人格毀損を働くことは(公益に類した、人格ではなく公務についての指摘でもなければ)全般として自己の人格の尊厳への毀損でもある」って真実だ。これは人格権とでもいえるだろう。この権利を他人について尊重しない者は、当然、社会のさまざまな場面でその者の人格権も主張できない場でしか生きていくことが出来ないだろう。

 わたしは豊田稔氏という個人は、はっきり言って信用している。この人は非常に若いときから懸命に市のために働いてきたのであり、その祖先も同様だった限り、きわめて市を益するための利他的行動について信用性が高く、そのために我々の大多数はこのひとをいまのところ市長の座にえらんでいるわけだ。(*2)
 しかし、自分が再三指摘しているのは、きわめて急速な情報化・知識化の、どっちかっていうと都心・都会での進展に比べ、どんどんとその趨勢からとりのこされつつあるこの市政および市場がまきこまれている資本主義系の世界観からすると、この豊田氏のかんがえかたは幾らか時代遅れになりつつあり、したがって「公務の責め」に十分応え得るかというとはっきりいって疑問符だということです。これはあの震災の一連の記事を参照にしてもらうとわかりやすいかもしれないが、第三者その他の観察者の眼にはかなりはっきりと映っていたことだった。彼が市民主義や利他性のもちぬしだと仮定できるとしても、その高齢などの要因のためにその既存の地位へのしがみつきもしくは任期継続がかえって市の損失となりえる可能性があるとおもわれざるをえなかった。5人が亡くなったことは、わたしにとっては悲痛のかぎりでもあったから、これはもっとやりようがあったろうという意味で、やはり最終責任は防衛者としての行政の現長に求めざるをえないのが現実だ。
その職責に耐える能力がお歳にして十分なら、もっと迅速かつ優良に市内のさまざまな落ち度は改良されていいはずなのだから。

もっともわかりやすくいえば、おそらく世代交代が必要だ。その速度が遅すぎる。これが社会そのものの混沌と衰退の原因でもあるのだろう。定年退職がない行政の責めは、それがゆえに新陳代謝が一層おそくなる傾向を持つ。ひとことでいえば自主引退、ご隠居という水戸黄門イデアがあまりにこの国から忘れ去られ、欠落している。結果として持たざる若者が非常に追い詰められ、深刻な世代間対立の一歩手前まできているほどだ。くわえて、この土建的風土が残存する地方の政治風土では一層その遅さ、遅れの面がきわだってきてかなりとりかえしのつかない状況におちいりつつある――すくなくとも、自分がカバ氏という市民活動家的(もしくは、一般的に職種または仕事の種類をみなしてそれにかなり類似している活動を含むだろう)ひととしばらくやりとりしてみても、この方も随分と努力はしているみたいだが、大勢の文明から遅れていることはどうも疑えそうもなかった。権利や法益や人格さらには批評という概念を、おおむかしの野蛮時代のサル山での共闘なんかに比べてそれほど認識していないのだ。一歩の遅れではない。

 これらすべてをかんがみ、わたしが「公務の責め」という面から、市民の自由な創作活動にイデオロギーを注ぎ込む様な子分作りをしようとしているふるい型の遅れた政治家もしくはそのたちを含む扇動家らしき者を、市の足を引っ張る劣等因として指摘し、進度をむけかえ励ましたのはおおよそ正しい判断だったとおもえてならない。第一、それですら豊田氏本人の人格的尊厳はわたしにとっても重要なことがらなので一向に触れるきがないにせよ、大変に流動性の低く失業率の高くなっている閉塞的資本空間の市内でめのまえでおきている風営法違犯の悪辣な子女壊乱さわぎを放置しながらまったく無関係の一小説屋をほめたてるなどという逸脱は、もし公務員の代表者足るべき地位にして万一あるとすればだが公衆の高覧に値する事例だと確信している。かれらの大多数は貧困ラインに届くかどうかというところで自らの個性をもっとも社会福祉に益したかたちでいかせる生業をもとめてさまよいつづけている。もう任期は確実なんて浮気加減で遊んでいるばあいとは、到底おもえないのだ。
 農林漁業がどうなるのにせよ、国家の先導層として正しく世界の公益と神の恩恵に合致した盛業を志すのが、もっとも古くから大国としての関東圏にあって、首都の一角を担う者の使命だ。仮に大多数の国民にとって検査を十分にしたとして、なおかつ一切の(外部からのコピーライターやコンサルタントの招聘と手助けを加えてなお)心配と危害のおそれのためにそれらの必要(*3)がないとすれば、広域の県民がみずから鋤をタブレット端末にもちかえて産業の興隆に貢献できなければならない。いつまでも風評にこだわって大多数の国民ならびに世界の諸民族諸国民にとって安全への懸念のある品物を売り続けようとしても多くの人が感心するとはおもえない。より重要なのはみずからの力で仕事を興し、その公益への報徳のために世界の人民がより安楽に暮らせる様はかることではないか。

―――
��1 我々はしばしば地方人の人間性へ期待しすぎる。おそらく、古代の高貴な伝説を中国史書から勉強してきたのがその原因だ。どの世界であっても非常にまれな例外でなければ、隠者らしき地方住みの人物に公徳に類した大観またはその時点での国際常識の定着を見ることはできないし、彼らの持っている知識や技能も決して飛びぬけて利口と言うほどではないだろう。
然るべき能あってなおかつ相当に人間関係へ誠実な者でもなければいざこざへの適切な人格的処理を期待するのは彼らを取り巻く環境とそこではぐくまれ得る才にとって過度と言うものだ。自分はこの市内のある人物に期待をかけすぎていたのだろうし、彼の一見誠実そうにみせているものは、論語でいう郷原(地元の偽善)にすぎなかったのだろう。
 ある現実主義者が述べる様に、自然の長は最も枯れた土地である都会に才能を集め、最も豊かな地方の風土には敢えて悪種を集めてしまったらしい(犯罪率などを見返せば、総体とみてあるいはこの分析も、単なる教養に落ち度のある地方者との接触に際した一連の事象への便宜的合理化にすぎないかもしれない、多くの実例をとれないかぎりこの一般論化はまだ危険だが。少なくともこの社会的分類学は「適応性にまつわる地域間民俗差」へ少しの予備的観点または正否どちらかの発見を与えるかもしれない。おそらく大きな原因は、特定の情報量の集積度ではないかと思える、したがって移動費がますます節減されていく情報化では文化越境についての多くの予想外の事態が生じ得るとも推察できる。この事例もその一つ、知識及び情報格差から来た摩擦だった可能性がある)。
この状況を仮に説明すれば「幸福の平衡」として、都会のものには人間づきあいよさを、田舎のものには土地の清浄さを分け与え、それらの両立はなり難くなっているとかんがえることができる。しかし、多くの場合に人はこれらの両立を求めて努力を重ねているのだろうが。
――なおこれら観点へは自分の観察から経験的知見がある。御茨城県知事殿は、自分の見る限りきわめて博識で能力もごく高い。海外からも褒賞されるのは当然だ。こういう人物をみるにつけ、旧常陸の国と言う首都圏に入った領域は地方と都心の両方の特徴を兼ね備えているか、少なくとも両方が急速に混合し易いという条件下にあるとおもう。或いは自分もそういう社会構成に関わっている一人かもしれない。

��2 そして実際に一市民もその点、つまり市の利益の為に彼が行動しやすいだろう、って観点の真実性については吝かではない。勿論これは大抵の地方の長と同じ土地か地場資本の固定性が原因の一つだろうし、それが新世代から見ると地縁を軽く見て広域メディア戦略を駆使している様な斬新な型に比べて若干古びれても悪びれてもいるので新鮮味に欠け、革新的行政人たる先進性はないのだけれども。
この点で、めだった革新首長としてかなり果敢な判断をつみかさねてきている高萩の草間市長は、この市政にとってはかなり参照や参考に足るとおもえてならない。代替電源も用意しなければアナログ的時代遅れの防災無線設置で元の木阿弥にならないんですか、ってレベルの出遅れた後進性を現職の北茨城市の市長自身ならびにその行政機能は構成員らの高齢さも相まって悲しいほどもっている。しかも平気で、というのが日立の北にあって末おそろしいことなのですが。

��3 つまり、茨城がかなり長くそうしてきた首都圏へのもっとも安価で流通費用の低い、安全な食品、それらの加工地を含む原材料の提供先。もしこの為に需要よりかれらの機会損失が高くなれば、我々にとっても所得の高度化がみられるはずなのだから、我々自身の緊急時の食料源の絶対確保という条件つきで助成による産業構造の大胆な転換をはかれる。