2011年11月1日

北茨城地政学

 現行の内閣へ圧力をかけているあつまりは、つぎの理屈をよくみとめないかもしれない。

 いまの国際社会とやら(せまい世界だ)では、共通貨幣でのとりひきがとてもひろくおこなわれていて、それがとりあえずおわりそうな気配はない。先進国の一部の情報(しかも費用のひくいそれ)くらいがここからはなれてきたが、そのほかはほとんど、ひろくとりひきしようとすると有償で、しかもこの共通貨幣をへる。
 だから、野田総理は単純にオバマさんとの友好をふかめる機会、そして価値観のおおきくちがう中国の膨張への対抗策を一緒にかんがえるチャンスとしてTPPをとらえておられる。これは、はっきりいってだれでも総理になったらむずかしいたちばだ。いたばさみといえる。

 で、この共通貨幣という面からみると、放射能被害にあった一帯の食料業はかなりすさまじく痛手をおった。(第六次というのは良識層にうったえる逆の利点があるけど、第一次の産業が。)
だから、‘全体主義’の目からわけられると、東日本一帯は第一次産業やめたらいいんじゃないですか、とつめたくいわれてしまう。これへ怒っても、政府や東京電力株式会社からの補償金がばあいによってはふえるだけで、おなじなりわいがかなり不利なところにおいこまれたのはかわらない。たとえば水俣とか四日市というものについているイメージ(負の有名)は、東日本や福島にとってもかなり深刻。

 よって、もっとも単純にかんがえるとだが、共通貨幣の国際秩序へしたがってさっさと第一次産業でひろくなりわいをおこすのはあきらめろ、となってくる。これはわれわれの努力で完全にくつがえせるとはおもえない、自然一帯におよんだ環境の変化だから。(公害の主体が法人だったというのが一つの救いで、怒ったり責めたりしたければその責任がある法人格(つまり、東京電力株式会社)へすればいいことになる。)

 そこで、私がおもうにはこの賠償をもとでに、より付加価値構造の上位にある産業を地域的におこす必要があるのではないか。*1

 具体的には、この市内だと特に1番はやりそうなのは芸術品だとおもう。芸術品はもっとも伝統ある最高の付加価値製品であり情報産業だ。しかも、経年優化しやすいので蓄積するほど有利になっていく、複利耐久性がある。そのためのほとんどの条件はそろっている。たとえば飛田周山とか、地域にねざした大画家、大芸術家をできるだけひろく喧伝するべきなのだ。実際、いままでも市民、市政や市場ふくめてがんばってきた観がある。*2
 しかし、それにくわえて自分がおすすめしたいのは、日製企業の多さがすぐちかくにあるので、また地域の住民のきまじめさ、という一種の遺伝気質を有効にいかすためにも半導体素子とか超LSI、プロセッサーなど、いわゆる高機能デバイスの部品工場をできるだけ誘致すること。そして県自体へも防衛策上も有効なのは、「医薬品の研究所と工場」の立地だ。茨城空港までの運輸ふくめて、漁業でだけつかってきた港湾も貨物船をいれることでまたつかえる。これにからめて、市立大学をおこすときには医学部をはじめから含めてそれを独立させておくことが将来の県内での医師補填にも医療水準の底上げにもつながる。こういうしごとのいいところは、職住近接がひとりでに市内でおこるので兼業農家がすくわれ、田園は維持され、それらは重工業よりも排出される環境負荷物質がすくない傾向があるからこの地域最大の美質である「繊細で綺麗な自然環境」の保護にめぐまれるというところだ。
 こういうところに勤めるのに向いている性格のひとがかなり多いというのが一連の観察から自分の知識だから。むしろ、失敗するというか経験的にほろびてきたのはこの逆で、積極的に相互の人間関係上の接触がある接待・接客・談合のある生業。要は第三次産業のうち、特にサービス産業的な分野だ。こっち系は、この地域のひとびとは全体としてみるとどっちかといえば向いていないとおもう。こういう小売業態は、すくなくとも市内において、ある神様商売みたいな姿勢でしかも家内制の辛抱づよい個人事業者でないかぎり、人口やその総移動量の点からもきわめて衰えやすい。(要は、南国の大規模資本に量的にかちづらい傾向がある。)しかもくらしてきた我々というかおもに県民の方々かなりも自覚してるはずだが、我々といおうか、茨城圏のほとんどのひとはいわゆる身体距離の広い暮らしに慣れているので、あまり狭い範囲に強制的に詰め込まれるとちょっとした喧嘩や足の引っ張りあいなど負の反応が生じる。これはたとえば非常に身体距離の間隔が狭い、東京や大阪の下町とは正反対の気質というか傾向で、かれらにはむしろ人から離れると危機感や不安を感じるという逆の文化形質がみてとれる。

 で、第六次産業(二かける三で、農作物の加工後、販売まで一貫した産業のかたち。農協つまりなになにコープや、よくスーパーでプライベートブランドといわれてるのとほぼひとしい)というのもまえもかいたが一流コピーライターとかの助けをかりてやった方がやらないよりはいいとおもうけど、できるだけ市内でうみだされる付加価値を上位化することがいまの、中国や東京や新潟?などの経済社会から追い詰められている被災後の環境変化へのありえる適応だとおもう。


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��1 ちなみに、マルクス主義によればこの付加価値といまはよびならされているものこそ、剰余価値のしぼりとりになるので、その思想を信じているひとの政府におおい中国や北朝鮮にとってこの高付加価値主義的思考はききすてならないしわざ、だろうけれども、もし我々の地方が独立後多数派当選でもしないかぎり、自由主義側の考え方のなかでその欠点を修整しつつうまくやっていくのが利口だろう。
具体的にこういう賢明な国々として方々から尊敬をあつめてるのは、北欧諸国、つまりスウェーデン・ノルウェー・デンマーク。ときにとなりのおくのフィンランドもくわえられるけど。かれらの手だては、どっちかといえば台湾や韓国にちかい西日本より、東北という寒冷圏に属した我々の風土にとって、その社会のつくりがかなり参考になるはず。
 ちなみに、同様の修整をほどこした福祉主義を一度はおこなったが国民の世論でふたたび自由主義へもどした国にイギリス(United Kingdom, UK)がある。UKがなぜもどったかいえば、すくなくともブリテン島では福祉主義だと人々が勤労の意欲をなくしがちで、おもにアメリカの資本から侵略的においつめられてしまうかららしい。ではなぜ北欧が自由主義化(つまり租税率のひきさげ)しないかといえば、そもそも北欧はどっちかなら引きこもり的地政にあるからだろう。そこへ入ってくる人数もすくないし、出ていくのもおなじ。このため北欧諸国はできるだけ安定した長期間の得失をかんがえた結果、人口流動性からえられる国内的利点としての低付加価値産業による利潤を捨ててしまったのだととらえられる。
だから、日本はどうあれ、北茨城だけにかぎっていえば同様のことが多少あれありえる分、他国の成否を参考にして「どちらかといえば福祉主義にかぎりなくちかい自由主義」がいまのところもっとも訳あるとおもえる。つまり、教育や医療など公的service部門をできるだけ税の補填から無償にし、かわりに租税率をここから南の人口流動性が高い地域より、市内について高めることだ。しかも、いま市政がやってるらしい多産てあてはどっちかといえば教育投資にあてられた方がいい。
なぜならシンガポールなどを例にひけば、ただでさえ高学歴や高い学力の者は自然増加率が一意の時間的にはひくい傾向がひろくあるのだから、有効な人口調整策はこれへあらがうこと、つまり教育年限に比例した育児てあてなのだ。この点でも、北欧のやりかた、つまり全体税で補填して教育費を最少化し たかい教育負担がいる医療従事者をめぐむかわりに、租税率そのもののためにひくい程度の教育にとどまる者が増加傾向をおさえられる社会が模範に足る。うそだとおもうならそれぞれ逆をやっている北京とオスロを同時に訪れればいい。またはNHKの番組『世界ふれあい街歩き』の教育用DVD(これは図書館が共同購入してもいい優秀な教材だ)なんかで擬似体験的にみくらべればいい。かんがえかたのちがいというものが一発で理解できる。そしてどっちかといえば、トウキョウなんかよりキタイバラキは北欧側でしかありえない。だから市税も県税も国税もついやされてる修学旅行も、どっちかといえば我々とたちばのちかいイギリスの地方か、北欧のおだやかな地方都市をめざすべきで、決して我々から風土や理想の将来像がとおい極東諸国(ある種の反面教育かもしれないくらいだ)をさきにお手本として修学すべきではないのだろう。京都や奈良も含め。

��2 勿論、将来のノーベル賞もしくはミヒャエル・エンデ賞(あるのか?)全受賞大作家様、ああとうとき弁護士相談あいて、ことああおそれおおきサー・高橋正志大先生すなわちグレートかば氏もこの例外でない。かばさんファンことあだ名マッドもついでに大評論家としてイマニュエル・カント永遠平和賞をえられるにちがいない(あるのか?)。これは冗談とばかりはいえない。むしろそうでなければならない。極端なはなし、市民全員がノーベル賞受賞者以上の勤勉さと努力、そしてその結果としてえりぬかれてくる才質をもてればこういう世界はすぐにでも訪れざるをえないのだから。