2012年3月9日

市の方向性へ忠告

普通にいって、一市民の自分の意見でしかないが、でかい工場とかばんばんつくりたがるのとかどうかとおもうしやめてほしい。市民のくらしの質がよくなるのとはまったく関係ないしどちらかといえばわるくなるから。

 ひとことでいうと、芸術・(そのなかでも特定の文物をあつめたりつくったりひろめたりする集散機能なわけだが)学問とか、いわゆる学術教育機能の向上に行政のうえのほうのひとも市のなかでつとめてほしいと自分はおもう。具体的にいえば、最低でも図書館機能の充実、できたら大学の建設につかってほしい。

 なぜ自然がとくべつ綺麗なところに、つまり風趣地区にわざわざ自然破壊させる工場を誘致したいかがわからない。漁業者を吸収する雇用ということだろうか。それならそれでもっと重点的に漁業団体の構成員にだけ直接の資金助成と起業のための投資すべきだ。かれらが自力でたちあがれることがのぞましいのであって、どこかの大企業のつかいすて労働者におとすことではない。
 よかれとおもって協議されてるのかもしれないけど、どちらかといえば、無理に人口をふやして税収がっぽりもうけたいとかいうちょっとどうかなかんがえがその工場誘致の根っこにあるのではないか。これがわたくし企業ではなく、公共事業を営んでいる地方政府からみた、福祉への勘違いであることをカンタンに説明する。
この日誌でもたびたびくりかえしてきたが、もっともありえる既存の経済学のことばでいえば「人口扶養力」、つまり人口あたり所得とか、またこの日誌でいうGDPに換算されない種類の奉仕度とみた磯原指標(定義はhttp://kamomenome.exblog.jp/12729539/による)のおおきさがその実質のゆたかさなのであって、いわゆる人口の多さがそのまま、ではないのだ。貧しいひとをどれほどふやしても社会の経済性からみた幸福度があがることはない。*1
さらにあらたにつくられたのが工場だったばあいは、既存の自然環境の審美性を普通に破壊させ環境排出物質でよごすので、二重に不幸度をふやす。もしすぐれた建築家や芸術的な設計者などに工場を建設させその周辺住民にとっての美観を整え、働く者にとっての機能を快適にしたとしても、やはり緩和にしかならないだろう。国際分業のなかでくみたてた製品を買うのがわれわれとはかぎらない、という付加価値貿易の流れの素朴な観点をおもえばよい。むしろ設計・開発ないしは営業販売部門といった上流部支配への投機というのならばいまの状況からいってかしこいというだけだ。医薬品のばあいもおなじ。

 こうしてみてくると、行政で協議されている北茨城辺りへの工場誘致というものは「先憂後楽」の真逆を行なおうとしている。はっきりいうと、経済学的な理解のよわさからくる、全体主義からのまちがいなのではないか。得をするのは税収をもうける行政の上層部だけ、ほかの市民は期間労働力として最低賃金で使いすてされるくらいが関の山、すくなくとも50年単位でみれば全員損失をこうむるとおもわれる。

  将来世代のしあわせを真面目にかんがえるなら目先の金儲けなんかどうでもいい。とりあえず不健全な換金してるので違法ぎりぎりの警察利権状態になっているパチンコ潰すなり最低でも単なるゲームセンターとあつかって賭博にならないよう経営改善要求後どかす。そこにさっさと市立大学を、だれもに出入り自由な大規模運動場とともに建設する。
――普通にかんがえて、弘道館と偕楽園の構想というのは一張一弛ということばに象徴されているが総合大学に付属したrecreation機能をもたせた運動場の設置なので、水戸をいわば理想的な大学街にしようとした創設者によるひとつの模範なのだが、そのみぢかにあって至極立派なideaを市は小型であろうとまねればいい。要は将来の為になる学問・芸術の教育関係予算、いわゆる水戸学の風土の後継者として文治政策に投資してくれということ。*2
あるいはくりかえしかいているが、もっとも単純なことでも放送大学の無料放送電波を現にほかの関東圏でもそうなっている様に、日立の電波中継局で地上波へ変換して県北部へ流すのでもいい。
 地方自治体でもこういうことをはっきりめざしてやっている地域もある。巨大で先端的なハイテク文化ホールをおもいきってつくってる山口市とか、美術館や図書館の機能あつめてる金沢市、遺跡に併設させた現代美術館つくった青森の十和田市とか。
どうせ一世紀以内にぜんぶ潰れる工場つくってみましたけど、とか派遣労働で下請けさせられ自然破壊が起こってまた悲しいという結末で庶民にそういう叙情歌がつくられて同情ひきましたけど、って下らないはなしが予測つく。
常磐炭鉱の栄枯盛衰を実際に見たのに無反省力のおさるさんではないとすればだが、自分がいま書いたことにはそれなりの見識、ある道徳があるとかんがえた方がいいとおもう。世代をへてもなお不動なのは定常的な教養レベルでしかない。ほかの資本は人の身に着いていないならば、つまり文化として習性化されていないならばいずれあとかたもなく世を流れてうしなわれてしまうのだ。*3
たとえば、これは現実的にいって、個々人が何を伝えるかとみたとき相続税のある国に続けて住んでいるひとはいくらかのこせるとはいえ家財さえそっくりそのまま次世代まではもちこせないし、生物とみれば遺伝形質しか遺伝しない。いいかえれば、伝えられた交換資本は失われやすかったが文化資本は生きているあいだ決して失われない。

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��1 それどころかまえより生活の実質が不幸になってしまう。人口密度の高さなどからくる心理的ストレス、地価の高騰、ほか河川や大気汚染物質の排出などによるさまざまな健康への恵まれなさ、広い土地がないので運動不足に陥りがち、ほかの動物でもみられるが性的異常の発生、交通事情の悪さによる時間や移動手段の費用負担などなど、つまりはくらしの余裕のなさによって。――ちなみにこれらの逆になっていれば、『常陸國風土記』じゃないがというかそのままだが、そこは単位所得あたりの人口比でみてもゆったりしておりすばらしい庭付き一戸建てとか貴族みたいなお屋敷に住み、物価は安く移動も容易でたくわえもあり、一切がすこやかで恵まれておりゆたかといえる。

��2 できたら基礎科学系。芸術系は師弟制よりおしえがたいし、哲学系はそれをやってて工学が遅れると経験的に敗戦しがちなのであとまわし。医学とか薬学は付属病院で稼ぎ手になりやすいからできたらあった方がいい。

��3  なお政経的に巨視すると貿易で富んでいる国が富みつづけたことはないが、よく産業革命が起きた国が自力で繁栄した、というのは通常みられる。だから工学と産業なのだが。そしてこの工学の基礎レベルを与えるのがいわゆる科学であって、大学で重点的におしえていくべきところだろう。