2011年10月29日

ことばの進化

経済さからいうと、日本語をつかってくらそうとするかぎり英語の単語とかさなる日本語の分量はあたまをムダづかいしていることになる、と かいた。
またこれは日本語そのものへもあたり、まったくおなじ意味でつかう単語がいくつもあたまにいれられるとそれだけ脳のCPUとしての力がおちて、おそくなってしまう。

 いまのところ日本語にちかいことばをつかうひとは多くはない。もっとも多いのは中国語というか、むかしの漢字やその省略文字にたよっているひとで、つぎが英語(出典)。日本語はそれらよりずっと下の順位。ということは、日本語でかいたりはなすかぎりそれをそのままわかるひとはかなりすくない、ということ。
またわれわれはあまりきづかないが、日本語はとてもむずかしく、そだってしまってからふたたび十分につかえるほどならおうとするとほとんどムリにちかい。はっきりいうと漢字をとりいれたカコの関西人のせいだとおもう。
そのせいでニホンゴはわざとむずかしくする、科挙文人の悪風にそまってしまった。いまのほとんどの試験というものも、ニホンゴ圏だとイジわるをしているとしかいえないものがごく多い。それらは、はっきりいうと害しかない。どちらかといえばひとびとを無知なままにしておくことになってしまうからしまいには弱い文明、まける社会におちいってしまう。

これらをかえりみると、ニホンゴをより英語にちかいことばでおきかえるのもかなりきくとおもわれる。平易なことばが英語には多いからだし、漢字をわすれられる。いまのひとびとがまったくしらない漢字は何万とあるわけだが、それをすべてちがうしるしでおきかえればより簡易なことばのままでもモンダイはない。

こういうことをかんがえると、文部科学省のつくってきたお固い教育方針にのるだけ損かもしれない、というほかない。特に、はじめはむずかしすぎる漢字をダイタイおぼえさせてから、つぎに英語を(5、6年生から)おしえこむ、というのはシッパイだ。この逆を、カッテに各おやがやってしまう方がいい。
 そうすればたとえあまりにむずかしすぎる漢字はつかいこなせなくとも、脳はよりなめらかに回ることになる。そして一部の子はこの分量のあたまを理科につかった方がいい。そうすれば地球のひとについていく、ばあいによってはかれらをさきにたってみちびくしごとができるはずだ。

むずかしすぎる漢字で中国の古典にしたしむ層。こういうひとは多数でなくていい、とわかる。このひとたちのモンダイは、科挙のわるいくせのためにひとびとをバカなままにしようとしてあることないことわざとむずかしくかきつけて威張るというところだ。
しかし一理あることをいうことも、きわめてたまにだが、ある。たとえば漁夫の利、とか仁義忠孝ということばはこういうひとがかんがえついた(しかもこれらはくせやことわざであって、かならずしも真理、シンジツといおうか、ホントウではない。いいまわしを工夫したものでしかない)。
けどそういう確率はおどろくほどひくいから、どちらかといえばむずかしすぎてよめないためにことばを立派につかえないひとがおおくなってしまうことの方が損がおおきい。

また、注意すべきことは単純に漢字がよめない方がいいというわけではない。むずかしすぎるそれより英語がつかえた方が「人々全体の結果とみれば」いいし、さらには漢字の希少価値より科学のそれの方がいまのところ高いので理科系の研究者になった方がありがたいってわけだ。おまけに、いまのところはほとんどの科学の文献は英語でかかれているし、会議なんかも英語でひらかれている。
まったく学習しないひとたちにとってはどっちにしてもおなじみたいだが、そういうひとたちにとってもどちらかといえば英語をしっている方が得しやすいはず。

そしてすべての科学者にとってのおなじことばといえば数学だ。だから数学は必修にした方がいい。小学校だと算数とよんでいるが、これは数学のなかでもさらにキソとなるところ、もっともカンタンなところといえる。しかし、ニホンゴやニホン文化の弱点が補強されるともっといい。*1
 和をもって尊しとなすをくにのかけごえにしたカコの弊害、つまりほかのくにのひととくらべたとき議論でのよわさというなれからよい点だけをうしなわない様に、ということは「やさしさ」「おもいやり」とかのどっちかといえば文学的なこころ、感情のこまやかさをなくさずに、おなじくはなしあいのうまさによってよりひろくさまざまなものごとを知る力、ことばの通じるいろんなくにのひととの極端な論争にならない適度なやりとりの力をのばすのはできるとおもう。要するに、いまは高校でおしえてる論理という分野はもっとはやくから習わせていいとおもう。

数理論理学の初段といえる集合と論理式、いわゆる →∧∨¬⇒⇔∀∃∴⊂⊃∪∩⊆⊇∋ こういうしるしをつかって必要条件などの式をくみたてる分野は小学生の段階でもそれからの応用ができるのでむしろ詰め込みしていいきがする。算術、つまり +?±×÷=≠<>≦≧√∫∞ こういうしるしで計算する分野は、実はうえにかいた論理との両輪だ。日常でつかうのは論理だし、算術はそのなかの数というものだけをあつかっている。このふたつをあわせたものに解析幾何学(≡∥⊥∠△⌒こういうしるしをつかう)といわれている分野があって、それをいまの文部科学省の下部組織がつくっている教科書はさきにおしえているが、これはそれらのあとでいい。タブン、理想的な順序でいうと
論理→算術→解析、なのではないか。
いまは
算術→解析→論理、となっているが、これだとこどもが混乱のままに勉強することになって、のびがない。はじめに論理をおしえれば、それを便利につかって算術も解析も自在にできるカノウセイがたかい。

しかも、いまのレベルですでに「計算機」というドウグがつくられているので、これをつかわない手はない。算術のめずらしさはかなりこの計算機、それとそのしくみのキソになってるオートマトンという理屈でひくまっている。しかし、解析はかなりコンピューターでかわりをできるみたくなってきたが、論理はまだできない。つまり、論理のカチがいまのところすべての知のなかでもっともつかえるのでもっともたかい。
おまけには、とてもなのある哲学者で、自分もいいこというので尊敬しているひとだが、ジョン・スチュアート・ミルというひとが自伝のなかでいってたけども論理は哲学、というかものごとをふかくかんがえることにとっても一バンつかえるということです。

で、もっともキホンの計算のしかた、たとえば筆算のやり方がわかれば、もう手計算だけでやらない方がいい。この計算機(いまでいう電卓)のしくみというのは算術のはたらきをキカイへやってもらっている分、脳があくのでそれだけあたまがよく回るというわけだ(ザンネンなことに、このことがわからない、あたまのよくないひとがトウキョウあたり、また みと あたりにはかなりいて、そういうわるいひとは学問がすすむより脳のムダづかいの方がすきで、ドウグのつかいかたがわからない。だから計算機をつかわずに手計算しろといってくるけど、それは二本足であるけるのに四本足であるけ、といってたおさるとかわりない。ムシしてしまうことだ。学校でもそういってくる先生がいたら、そんな授業にでるかわりに、ジブンでさっさと勉強して、できるだけはやくイギリスやアメリカなどに留学して飛び級するみちすじをえがいてください。その方がみんなにとってもいい)。
 あたりまえだとおもうけど、どんな立派なカガクシャもみんながほとんどを電卓やそういう専用のプログラムをくみこんだコンピューターで計算していますし、それがもしこわれてしまったとき、てもとにない、あとカンタンすぎていちいちもちだす手間がムダなときだけ筆算で仕方なくやる。「数学そのもの」のしくみをかえていくとき、つまり代数をつかわないときも、それだけで経済生活をしているプロといおうか大学教授や研究員、印税でくらしている著作家のあいだでも電卓をつかって数値計算はすることがほとんどだろう。
どんな数学をつかうひとも、キカイの方がおなじことのくりかえしがはやくて得意ということ、だからキカイの方が人間のタイテイの頭よりどっちかといえばこまかくはやく計算できるらしいということをしっている。人間のあたまがいまのところ得意そうなのは、タブン、概算といわれるダイタイの予測だけだが、これもまちがいやすいのでどうせいつか計算機でたしかめないとならない。どうしても手計算やどうしても暗算がすきなひと、もともと計算するのがすきだからカッテにやってたい算術すきのひと(ジッサイ、こういうシュルイの天才もたまにいる)、あとすこし時代遅れになってきてしまったけど、いつまでもソロバンをつかいたいシュミの人(このひとは、なんらかの電磁波環境の変化ですべての電卓がダメになったときのために希少ではある)、こういうひとだけが計算機をきらえばいい。というか、ソロバンもむかしの型の計算機でしかない。みんながみんな計算機をきらう必要はゼロだ。もしどうしても計算機きらわせて、どうしてもこどものあたまをムダづかいさせてみんなのあたまを空回りでわるくさせたいなら、なんで現場ではそれで日々計算しているのかってはなしになる。もっと便利でつかいやすく安価なドウグをしっててそれでいいものがありますよ(タブン、論理もできるコンピュータープログラムの一種か)、ってことだとしたら、それを早速みぢかなひとびとへおしえるかベンチャー企業としてそのわざを独占して売り出した方がいい(どちらがいいかは、それをつたえるひとびとのほしがっている度合いによる。だから日本国内ではタブン子どもやまわりのひとびとにおしえる方がつたわり、たとえば英語圏にはかずおおくの研究者がいるから売り出した方がよくひろがる)。脳のムダづかいをやめることが人類のことばの進化だから。


―――
��1  これは初期の天皇家と聖徳太子のせいでもあるが、和を以て尊しとなす、を中国語からもってきて国是としたために、議論をして合理的な結論をだす、という風習をなくしてしまった。
おどろくべきことだけど、ニホンジンとよばれているひとびとはほとんど議論ができない。このとき、議論ということばをすこしかえて、論争とし、これを英語とくらべてdebateだとすると、なるほど、あいてを打ち負かすためにする議論はかならずしも長期で見て利口なstrategyとはいいきれない側面がある。たとえばもっともむかしにアメリカにわたった人らのひとりで、こっちでいう1万円札、むこうでいう100ドルのかおになってるベンジャミン・フランクリンってひとの自伝でも、議論のくせはきらわれがち、あまりよくないとある。さらにうらづけると、『徒然草』にもいくつかこの点から過剰な利口ぶりや、議論による勝利の目的視を、作者の人生経験からだろうがいましめる文がある。吉田兼好にとって教養はむしろ人格の修養のためだったのだろう(二百三十二段百三十段)。
したがって、どちらがかしこいのか、ディベートをホンのおさないころから叩き込んでるアメリカの子とニホンのひとが論争になれば、たとえそれぞれ得意なEnglish、日本語のやりとりだったとしても9割ニホンのひとがまけるはずだ。
しかしこれもいかにも徳川的なはなしだが、負けるが勝ち、いくらか負担が重い方がえらいという評価基準があるところもしばしば、いきものといおうか人類の社会ではないことはないのである。モチロン、いまのグローバル化のなかではいまいちそういう感じではないけど。コテンパンではまったくよくないというのもたしかであって、惜敗つづきくらいならまだゆるされるし、天下統一じゃないがすこしずつひそんだ応援者がおおくなっていくかもしれない。だが全体とみれば勝った方が多くを得る、というのがありとあらゆるいきもののなかで当然なかぎりこれらの負け助けとはときたま起こる例外のばあいへのいいおよびである、とおもうのが自然だ。なぜかって、いまあなたが家にあらわれた害虫をぶっ倒して、負けるが勝ちとほざくだろうか? 単にこれらの論点は「政治的長期戦略から、いかに惜しくも負けたふりをたくみにしつづけ同情する仲間の数をふやせるか」の群淘汰(という、ありえないと科学上は否定されている生物戦略の、過去の知識人らによって偏見づけられた)問題でしかない。要は、議論に勝つのは当然だが、勝つのを目的にする必要はないというわけ。
だから、すこしこの論争ずきというありがちだが尊くはない特徴をゆるめて「はなしあい、討論」のイミでconversationまたはよりやわらかくtalk aboutだとする。ときには必要な能力であり、特に海外に適応したければ必然的な能力である、ありとあらゆるおしゃべり、おもいの口語による自己表現能力をきらいすぎる、といってもいい。ケッキョク、はなしあいというもの全般、これがニホンジンはあまりできないというか文化環境としての過去の淘汰効果からもとっても苦手としている。これをすこしできるのはどっちかというと主婦やら独身女性やらであってむしろムダばなしというか、私語といおうか、井戸端会議くらいのはなしで、それも真剣な意見交換ではなく、ただのうわさのやりとりでしかない。しかもこれは生物学的には理にかなってるっぽいのがこわいところだが(うわさばなしによって「私生活」への性選択効果をはたらかせているか? 女性の脳幹の太さと、ことばの流暢さにかかわる知能や翻訳能力は比例する、という生理学的知見もある)。
で、からだのおおきな男がなにかをまじめにはなしあっていると喧嘩とカンちがいしてとめてきたり、逃げだしてしまったり、いやなかおをする。だからますます体育会系の負の側面みたいななんでもいいからちからでおさえつけるみたいなわるい風、まちがった野蛮さにまきこまれる。こういう なれ は 第一に不条理なよのなかをつくってひとびとのうまれもったよい性質をゆがめる。まるくおさめるというイミでは訴訟や裁判をすくなくした一つの功績はあったかもしれないが、かわりに論理をよわくしてひとびとが自然や社会のこまかなことを分析していく力をうしなわせてしまった。あれほどひどかった第二次世界大戦へさそわれていったのもこれができないひとたち(いうまでもなく天皇家もその代表者だ)がこのしまをしきってたせいがかなりおおきいとおもわれる。はなしあいのなかですこしずつなんらかの知ったことをよりそとから見ても変じゃないものにみがきあげていく、という集団研究やなんちゃら協会、いわゆる興味にそっておこなう研究会、クラブ活動みたいなものがすくなくなってしまうのがつねにやばい部分だ。このしまのアカデミズムのせまいすきまでおこっているいろいろなわるさ、いやがらせやあしのひっぱりあいもかなり、こういうなにか不満を根にもって、正々堂々はなしあいで解決しないというふるい風習がまさに一つの原因だろう。いうまでもないかもだけど、市政での議論のよわさもまさにこれ。本質や重大事はいわず一般市民へは公開せずに根回しやら人間関係のごたごたでなんとかおのれの利得の為にしてしまう、というのはものごとを根にもつ、ある公徳に劣った悪どい者やそういう邪悪な手だてをどんどんはびこらせたがるわるい風儀をいつのまにかのこしてしまう。当然だが、そういうあくどい者はある長い期間でみわたしてみれば小さな居場所にしか適合しないし、地球人類の表舞台から去っていく宿命の下にある。すでに社会主義国というものがどういうたちばにおいこまれているかをみてとればいい。
モチロンそれ以前に「はなしあい」で当事者間で解決すべきなのだが、すでに裁判というしくみがあるのだから、不服でもくりかえし上告する以外には紛糾の解消のしかたがない、と人類が経験的にみいだしてきた。それをこえて人類はいまのところきめにくい問題にきりをつけることはできない。だからこの人間界で最後の土俵際以外では必死に論争するイミ、かつ、ものごとを根に持つことの合理性などほとんどゼロだ。だれもかれも損しかしない。そもそもそういういつまでもあいてをうらみつづける性根の悪さ、乃至はどうでもいいことに必死になって些細な不満に目くじらをたて争いを不断に誘発するおろかしさが文明社会に適合しないためひとりでにきらわれてきえていくか、僻地へと退散させられていく、というのが常識的にあちこちでおきている社会現象であり、日本でも まずもって例外ではない。