2012年2月25日

身体の美と雄性形質の関係

 地域性の話題が出る時、大抵、いばらき乃至は水戸の特質として美人がいないという風評がある。秋田にながれてしまったという伝説も。

 これは、自分の感じでは事実ではない。というか、東京は人口が過剰なので当然審美的と評価されやすい個体もおおいだろうことをかえりみれば、どちらかといえば水戸や茨城圏に質の高い美がある傾向がつよい。概して、神奈川と東京の美というのはかれらがきづいていなくともそれなりに低俗な感じがあるので、わかるひとにはわかるだろう。
 おおよそ、関西圏では京都がになっている「伝統的な」役割を、むしろ関東圏ではいばらき乃至は水戸がになっている感じがする。地政の保守性がその原因なのだろうし、たとえば、それぞれ独自の哲学体系をもっているのでもその理念の深さが知れる。武蔵学派とか大阪学派なんてきいたことがない。ないのだ。東京・大阪というのはおお昔からの商業地だからそういった金にはなりそうもないものが甘んじてはぐくまれにくかったのだろう。

 なにがいいたいか。
 美醜もそうだが、性選択の結果としてある形質は集積するのだろうというはなし。
なぜ水戸には美女が少ないと風評されるか。これは武士の本丸だからなのだ。御三家として侵略や破壊されなかったというのが真相なので、その場では厳しい風儀といおうか、ある保守的徳義が重視される雰囲気がのこっている。だから性選択の方向が、たとえば東京・江戸にあってむかしから歓楽街でおこなわれていた様な「女性の美」へは向かいづらかったのだ。 *1
逆に、水戸であきらかにめだつ姿というのはある威風堂々とした男性陣の形質である。高校生一つとってもそうだ。
これは同時に、東京圏の男子高校生と、水戸あるいはいばらきの男子高校生を見比べてみるとはじめてはっきりする。まこと質実剛健としか言い様のない姿がかなり保守されているのは水戸の方なのだ。具体的に比べるために、ここに学習院高等科の男子と水戸一高の生徒を任意に何十人つれてきて見比べてみるといい。風紀から仕業から立ち振る舞いから体格から志からまったくちがっているわけだ。*2

 これが真実、「なぜいばらきでは女性的な意味での美人、つまり美女が少ないと風評されるか」の根源因なのだろう。性選択される余地が比較的すくないという土地・政治あるいは市場と社会、要は環境の条件がつづいてきたから。実質、自分もそのはしくれだからわかるが、ある照れ隠しという性質の古風さもあって、いばらき圏の男子というのは美女そのものをその美的であるという意味だけで人前で堂々と褒めたりしない。いや、できないのである。勿論できる人もいるだろうが、これをよむひとにはたしかにそういう傾向はないだろうか。
むしろ、性格のよさというものに仮託して間接的に褒めるくらいが関の山だろう。*3
しかし、これが武士道のなかの性的選択の方法論だったし、いまもいきのこっている古きよき日本の、いわば侍らしさのかけらなのだったろう。これらの土地でそだったものは知らずしらずその風紀にのまれていく。
――おおきくみると、封建道徳というもののなかにあった宗教感覚らしきもの、つまり一夫一妻的な堅い価値観、貞操観念やいわば良識的であれとのぞむ家庭観が身に着いているかそう導こうとしたがる傾向がつよいというわけだ。
そしてここは、実に関西圏で、或る意味では対蹠的だが、公家風がしみついた京都とのおおはばな違いでもあるのだろう。公家は「暮らし向きのきびしい武家とはちがって」家庭的なのを理想とするのではなかったから。

たとえば、いばらき乃至は水戸がくにがらとみればアメリカよりもイギリスの方がちかいふしがあるのはこういうわけなのだろう。保守性がのこっている場所には、上に書いた旧来の封建道徳のなかの特定の資質をそれなりの程度もしくはそれ以上に無意識であれ前提にする文化の素があるから。そしてどちらかといえば、無論一般市民に関してはだが、厳格な一夫一妻制度にちかい資質をもっている。

 これらの要素から結論づけると、美女の性選択というのは秋田や京都にまかせて、水戸は男性陣の佳さにかぎってものごとを推進していければとりあえずいいということになりそうだ。雄々しさのよい特質を守り、あるいは高めていけばいい。いいかえれば、英雄性をもとめ、それを尊ぶ風儀を守り抜けばいい。*4
一般論として、女性からの選り好みというのは男子の見た目よりその能力にあてはまりやすい。

このおおきな理由はY染色体が生物学的にみて、母体としてのX染色体に対して「付け加え」という位置にすぎないことにあるのだろう。(たとえば女子がうまれたときこのX染色体が父母どちらに由来しているかは不透明でわからない。しかし、男子のときはY染色体の系譜というものは確実に父に由来する。これらから単純に類推すれば、ただの人類学的な一学説ではあるが、地位の高い男性との配偶からは男児の出産率がたかまる傾向というのもこの雄性系統の着実な遺伝にあるのかもしれなかった。より緻密にいうと、「男児の出産率の高い系統」がいきのこりやすく、かならずしも配偶まえにはわからないわけだが、社会淘汰の結果としてえりごのまれやすいとされていくのだろう)。
またいいかえると、Y染色体は有性生殖のしくみのなかでは副次的であって主体性をもってはいないということだろう。健康な男子との配偶であれ、母体が不健康なときその子が健康である保証はない。つまり全体としての個体性ではなく、ただそのなかの特徴のみが雄性的なのだろう。この意味でも、特徴的なほど(なんらかの、できればより一層のこと実利的な)優秀さを高めていくことこそ水戸らしさ、いばらきらしさを極めるみちのりなのだろう。*5
選良的な優秀さをもとめよ。これが結論だ。

―――
��1 旧水戸藩の地域にすんできたひとにはわかるだろうけど、水戸の吉原と東京の吉原(あるいは江戸の吉原)というとまったくはなはだしい意味のちがいがあるのはこのためだ。

��2 衣服は少々着古しているが、他人にもたれかかってなよなよとした者がいないのはどちらだろうか。

��3 あたりまえだが、こんなことをしていれば恥やあとさきもなにもかえりみず、女性がすこしでも美しいと思った途端に目の前で褒めて褒めてほめまくるたちの集団にくらべれば、そういう特徴をもった人がどんどんと集まらないのもしかるべきではないだろうか。いわば軟派か硬派か。直接どちらも訪れるなかでフランスのパリと、イギリスのロンドンをくらべればはっきりするわけだが、やはりあつまっている人々のもっている地域性というものはあって、似たものがあつまってしまいがちなのが人類の村、ギリシア語でいえばpolisというものなのだろう。同様の原理は、今の段階でもたとえば東京の原宿と茨城の日立を比べれば全然ちがっているとおもわれる。

��4 ここが不思議なところでもあるが、それが結果とみれば浮ついた風紀にながれやすい東京とのすみわけのなかでむしろ美女と配偶される機会、つまり健康な個体の性選択にとっても好都合という逆説さえあるはずだ。

��5 サッカー常勝集団としての鹿島アントラーズ、或いはプリツカー賞の妹島氏などはこのそれぞれ一つの模範だろう。特徴には実利性をもったものと虚栄性をもったものが大きくみて二つあるとすれば、質実さを基本とした地風をよりよい方向へみちびくには、文質彬彬という論語の文句もあることにはあるが、より実力にちかいものを選りごのむべきだし、どうせ大都市圏ほどお飾りにつかえる余裕がそれほどあるわけでもなければ個々が必然的にそうならざるをえないだろう。
たとえば、とりにはトサカもあればクジャクのみせびらかし用の羽もあったわけだが、前者が実利をもっているのにくらべて、後者はただ虚栄のためだけにつかわれる。性選択は連続的に、世代をまたいで暴走するのがしられてきたので、環境の変化に持ちこたえ易いのが実利性、実用さ、つまり「つかえる」というたちだといってもまずまちがってはいないだろう。人類の中でおこなわれている選択も、ほかの動物とその複雑さについて同質のものとはいえないとはいえ、おそらく因果関係としては似た結果をもたらすかもしれない。環境の激変にたえられるのは役立たずすぎるそれよりは、少なくともどうなろうとつかえる形質ならびに文化的習性のがわなのだろうから。