ちがう言葉をつかうためにおぼえねばならない単語数の重複は、それ専用のmoduleを脳へinputせねばならないかぎりCPU非効率をおよぼす。
単語そのものが一個にきめられればこの損失はおきない。*1
だから、日本人が全員bilingualになれ、といった教育方針はこの時点で矛盾している。重複の省力化をほどこしたCPUが処理できる情報量は同程度の性能、つまり同等の大きさの脳同士でもより多いはず。
文法事項は語順問題へ返る。それらのならびかえで生じるすれちがいが熟語表現をとるので、かならずしも語学が脳やその思考回路をゆたかにするわけでもない、となる。いわばこれらの文法的多重事項は脳の中のinput programの冗長性にすぎない。
おそらくこの場合の冗長性は、ちがう出自の者へ解読しやすいならびかえを行える、という「翻訳回路」を言語setにくみこむだけだろう。そしてある科学的達成や、それに類した単純性の数理的分析だけをするかぎり翻訳回路はそのCPU性能の目的最適化の為には負担でしかないだろう。
これらの推論に誤りがなければ、文科省の方針な英語の必修化は単に教養的な選択課目でしかないべき(きわめて幼児の際から)、となる。
英語の国際語としてのいまの覇権的地位も、英語を母語とした使用者らにとっての利己か便宜でしかない、と単に科学上からはいえる。*2
そしてこのprogram言語の効率を参照にした、ことばの真理から、みずからの体系とはおおはばにちがった相手とのやりとりは専門の翻訳者や通訳をつかい、教育のなかでは子女の親にとって外国語学習を自由採択としできればやらない方がよい成果をあげられる、ということがわかる。その方が脳というCPUの効率があがるのだから。*3
ちなみに、日本語のばあいは視認性や省略をのぞいて、発音setの単位となっている「五十音(いわゆる仮名)」の単位で仕事をするのが最も効率的という面白い理論がでてくる。このばあいのみ重複が最小、かつ単語が一つだからだ。つまり、漢語や英語の思考回路は仮名によるそれより日本語にとって一段効率が落ちる。それらには子音や文字としての不確定さがのこるからだ。これらのしばしば日本語へ編入される既存で外来の要素は日本語にとっては装飾的なものなのだろう(おそらくカタカナが利用される場合も)。
だからある極点まで効率化が日本語の中ですすめば、むしろ最も単純な仮名ことば(これからつくられたりおもいだされたりするものふくむ)が過半以上になるだろう。そして分かち書きとよばれる英語でそうしている文字と文字のすきまで単語の区切りをしらせつつ記述する手だてが、漢字をつかうより効率面でもよい場合が(きわめてすくない非常に単純な略字、つまり月や山くらいの絵文字にちかい象形字の出現確率のひくい例外をのぞいて)ほとんどだろう。
ちなみに、自分は磯原にある図書館で小さな女の子が紙芝居を一文字ずつ結構大きな声でかなりゆっくり朗読しているところから、これらをひらめきとして導けた。幼稚園かその前の年齢だろうけど、あの子には感謝する。
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��1 かつ、意味の最少最多則(最も少ない発音の量と表記のbyteで最も多くの誤解されない意味をとる為の言葉が経済的)からできるだけ簡易な単語がえらばれるといい。
��2 英語によるやりとりは付け加えられた能力としては(特にイギリスの旧植民地とそこから独立した各国圏での仮のcommunicationへ)しばしば重宝だが、必須ではない、という発見は日本語使用者へまったく新しく、これまでつくりあげられてきた明治維新組の下士層によってうえつけられてしまった自らの母語への劣等文化視というあしき偏見からの解放を約束している。翻訳文化はこの翻訳回路をもつ脳をつかった情報貿易業として栄えてきたが、単に科学の意味のみに限っていえばどの言語で説明されても同じものとなるはずだ。それらの間に生じるlossはすべての異なる単語間に翻意が存在できるかぎりありえず、一種のゆるやかな期間内でのとりちがえや勘違いの差延でしかない。たとえばrevolutionは再回転、という字面の単語だが「進化」にあてたためすこしのとりちがえや既存の単語がその文化内でもっていた意味との干渉が起きるが、ひとしい物事をさすかぎり結局は同じことにすぎない。
��3 こうして、なぜ外国語学習をしないアメリカとイギリスの人達のなかに高度な科学力をもった脳が多いかが理解できた。同様のことをすれば北茨城人の中にも想定できるだけ無数に天才的頭脳をはぐくめるはずだ。はじめから通訳者なしにおおはばにちがう言葉のひととやりとりしない、とそのinputをできるだけ捨てれば、そして同時にそのための労力を理数へ注げば脳がおおはばに効率化する。そしてこの点からみると、文科省の教育方針から自主的に離脱し、わが子へは英語で0点をとれ、漢文漢字もできなくていい、そのかわり数学だけは満点をとれと教えればいいことになる。ただし、このひとはもしひとりきりなら母語、この国でいえばおおよその日本語が通じる範囲でしか深いcommunicateできないかもしれないが、脳の効率として各国で必要とされるそれにまさる効果がえられるのはあきらかだ。同時に、英語圏が広いという有利さは英語が母語のひとたちへのみ通じるのだから、すでに母語が英語でないひとたち、またはこれからも英語だけで暮らす予定のないひとたちが科学的思考を効率よく行うためには英語学習は損失といえる。そして驚くべきことは、この英語学習の不要さを翻訳可能なすべての言語圏でおしすすめた方がかえって各地の効率的科学からえられる恩恵を英語圏の人々すらえられる、というところだ。同様に、かなり政治的な問題につながってしまうわけだが、薩長土肥や天皇家などの明治テログループがクーデターによる悪意ある転覆で周辺侵略を方針とした際にことなる体系のことばの人らへ日本語教育をしようとしたことも、この世界の思考効率という面から誤りだったし、今後もそうなると結論できる。同時に、いまや日常語も方言がきえつつあるのですこし些細なことでもあるが、方言での思考の方が英才教育のためにはよい、となる(ただし、本をよめるという能力については書かれた言葉、文語だけを標準語でした方が効率的という部分はいまのところ流通シェアの面からかなりそうかもしれないが。これも将来的には、単に効率達成という経済力学のためだけにばあいによっては標準語から方言への翻訳業のおかげであたらなくなるだろう)。「他語での学習は不経済」だから。