2012年3月2日

岡倉と雨情の共通点

多分岡倉の映画をつくっているとおもうのだけど、きわめて重要と感じるのは、つぎのはなし。
 岡倉は伝説おおいが、息子さんと利根川だかで釣りにでて、釣果があがらずかえるときに、月のかかるしんとしずまりかえった寂然たる風景のなかで河口にむかってふとたちあがり、おもむろにへさきから矢をはるか沖の方に向けてはなったという。
 息子さんはこれをとてもつよい印象として記憶にのこしているらしかった。

 かれの詩情をしめす意味をもつepisodeとされてるけど、おそらくだが、一矢を報いるというおもむきをかれをとりまく自然に対してhumorousに実践でしめしたのではなかったか。
全体とみて、岡倉という人物はこういうところがあった。つまりまるで小さな、平和愛好者の様にみせた無意味そうな行動のなかにかなり深い哲学や皮肉、文明批評を込めている、という性格だ。

 これはいままでの人類史でもどういいあらわせばいいかわからないがきわだった特徴なのだけど、この戦わずして勝つみたいなところにわれわれは感服できるわけだ。かれの仕事が文明界でもっている意義もそこにあるのだろう。
少なくとも、実際にいつうらにちかくてよく行ったりするきたいばらきあたりの市民などは、本気でこれをなんとはなしに肌身で理解しているとはおもう。
またそれは、基本的な通奏低音としてこのあたりの地風といおうか風のならわしのなかに音もなく染み込んでいる感じもする。
ある賢明なゆるしみたいな意識が、さまざまな社会矛盾に向けてつくられている傾向があるとおもう。これは、初めてこの地域にきたひとにとっては「さみしさ」として伝わるものかもしれないが、それにちかいけど、実際にはそれだけではないらしい。むしろことばとしては孤高とか悟り澄ましとか超然とか、仏教語でいう自然ジネン、ありのままであること、天衣無縫という感覚にちかい。

 童心(すなわち漢語でいう赤子の心、国学の語でいうとうまれつきたるままのこころという理念。あるいは英語でいうとgentleとなる生まれ持ったこころのよさ)、にこれをもとめたのだろう雨情というひとも地域に特有でもあるのかもしれない、特徴ある性格をもっている人とみなされているとおもうのだが、そういうこばなしがいくつかある。
けど、かれらはやはり実質上の平和愛好者であったという面ではある程度似ていて、しかもその象徴能力での感化による戦わない勝利をおさめようとした気がする。

 和辻哲郎がmonsoon気候、つまり、季節風のふく風土では自然へ対抗するのではなく、それと調和しようとする意識がはやると分析している(『風土』『倫理学』)。
これを含め、どうもその調和というものを象徴化しようとする意識がきたいばらきの先人にはかなりあるとおもわれる。たとえば、駅。玄関といおうか中心部だから手の込んでるって意味でも磯原なんかわかりやすいが、あきらかに海や山や川、あるいはある深い古風な情趣、童謡の風土なんかを象徴して示そうという意識が市民自身以外のだれにたのまれたでもなく、あらわされていないだろうか。この象徴化の作用が非戦闘的か和平尊重的、もしくは隠されたたとえとしてhumorousに示される、というのがこの地域で生まれ育って感じる、どうもほかにはない性質の特徴だと考える。

ひと昔まえは野原に点在した街道沿いに少しの商店がある農村だったわけで、そこでは水戸藩ならびに常陸國に属する地域だからすこしの郷士がいたらしいとはいえ、基本としては農民のたちを引いていると捉えていい。
そしてこのたちが非戦闘性をおびさせたとして、なおかつ、これは仮説だけど水戸藩士の質実剛健さと自然風土のもっているすばらしい繊細さと結びついて、気質あるいはかたぎのたとえによる象徴化作用らしき性質をもたらしたのではないか。

この作用は独特で、いろんな土地や人々をみてみてもあまりおおくは示されていない。
つよく戦闘性を示すとか逆に自然をあいてどらずそもそもそれを形象にしめさないし意識にもないとか、まったく自然そのものに土着しているとか、風変わりさをおうとか流行に後れまいと気張るとか、さまざまな変異があるが、きたいばらき圏に典型的にみられるたちの自然界との調和の象徴をとうとぶみたいなものはほとんどみあたらない。これははっきりいっていい。どんな観光地でもそういう感じはしない。辛うじて京都の郊外は風雅をめざしていたという意味で少しは近いのかもしれないが、似て非なり。各地のいろんな文化をみていくと、格式張るとか人工物を誇るとか歴史を示すとか自然風景を見るとかそういうものがとてもおおい。意図がそもそもちがっている。
 自分らはそこにいわば適応しているのできづいていないが、当たり前みたいにかたられているこの「自然との調和」をはっきり普遍性のあるすがたかたちにしめす様な性質は実にめずらしい。
六角堂、までいわなくとも山海館なんかあきらかに海につきだしていて普通にかんがえればあぶないわけだが、平気でわれわれはそれをつくったりそのすがたになれている。茜平もあるいは昔のレストランのたてものなんか特にそうだったけど崖に面してあった。いまも思い出せるがそこでは幽谷の趣のなかで、皿うどんなんかをたべられた。いまも直接まどをあけたりしづらいけど、なかばそれに似たつくりにはなっているけど。川床なんか日本各地にあるだろうけど、当然これらでなくとも無数に例をあげられる。たてものの設計思想というだけのはなしでもないとおもう。まわりの自然に親しみを持ってあるいはそれを尊重して行動する、という明らかな風儀がめずらしいわけだ。なるほど、ボコボコ道路や誘致した工場をつくりまくるだれとかさんとか、資本主義にそまりきった団塊の世代の大規模郊外店からの土地買収へ無策なだれとかさんによっていろいろありえないといおうか残念な自然破壊が起きていることは、ずっと地域をみている側にはたしかだけど、それにもかかわらずこういうありのままの風景はやはりそれなりにのこっている。
わかりやすいたとえを引くと、一帯でつばめの営巣がみられるので駅員さんがおそわったでもなくその巣をつくりやすい様な工夫をほどこしているというやさしさとも繊細さとも詩情ともいえない感覚とかは、ここにくらしてるときづかないけど世界的にみても大変にめずらしい。普通はそんなことわざわざしないし、あくまで公共物の構内にくる害鳥とでもおもって、網を張るとか排除かなんかするものなのだ。

 ついていえば、この資質、つまり自然界との象徴的一体化を姿形にあらわすという特別な才能は、自体がきわめて希少価値のたかいものとおもう。人でも仕事でもある。これは、海と山の距離感にもよるのだろうけど、わりと海と山が隣接していない高萩市や日立市までいくと段々と拡散して目に見えてはあらわれなくなっていく特定の資質なのだ。瓶首効果があるのかもしれない。
勿来より北にもこの拡散してしまうということはある程度いえる様で、しかも、おそらくは常陸國水戸藩域ではなかったからだろうけど、高文化への感受性がいくらか低まっていく傾向があるのかもしれない。かたぎさが減る、といってもいい。勿論それはそれでおおらかともいおうか、気楽そうでいいのかもしれないが。
風土も、この海と山が急峻にいりまじったきたいばらきあたりとはそれなりにちがってかなり広い平地のはばがあるので、そこにくらす人々にも厳しさや繊細さが少ない、よくいえばおだやかで目くじらをたてない質がある感じがしている。こまかな変異はあるけど、全般としてみてとるとそういうことだろう。

 とかく、自分が発見しているこの特質、自然界との象徴的一体化を姿形に示す調和の才能はそうといわれなければはっきりとはしないが、たしかにきたいばらき一帯にあるもので、しかもそれはいくらか先人のなかにも生き方や生涯にしみわたっていたりする。勿論なんらまったくそうでないひとが生きていようとまったくもっていいのだが。
 原理としてみると、単にむかしからくらしてる地主もそうだけど、そういう風土や特質をこのむひとが移住や適応して定着しやすいのかもしれない。ごく単純にいうと藝術の才能となるのかもしれないけど。
このばあい、藝というのは原義にならって「うえもの」、つまり植栽や自然界の再制作や配置換えのことでもある。そもそも、artや技とみて人類がしていることも、とある自然界からでてきた(もしくは神からつくられた)動物たちの園づくり、いいかえれば社会とか国家の建造とは自分たちのくらす自然の部分集合としての巣づくりにすぎないのだからこの言い方はただしいとおもう。Polisや村の形成としてのpoiesisや作り事とは、音楽をはじめたてもの一切、政治経済の演劇一切がそのなかでのふるまいだ。人類は0からなにかを作ったりはしない。単に自然のentropy配列をくみかえたり、素材のくみたてを工夫して日々を住みやすくするだけだ。

 ただ、一般に星中へひろがっている人類とこのきたいばらき市民あたりにみられる気質の差というか、よい意味での個性があるなら、われわれは「調和した藝術」をみいだす能力がすぐれているといったところだろう。いろんなものごとがそれを実証していると私はみている。象徴とされるかもめぶっていてさえも。