ノーベル賞権威主義というのは、スウェーデン・アカデミーを他の文化圏より上位におく構えにしらずしらず力をかすかんがえになってしまう。
むかし、すこし意味あいはちがうがサルトルというひとはこのことを先にいおうとした。しかし、大勢とみればほかの文化圏のひとも、このスウェーデンへのてだすけ、ヨーロッパのかんがえへの礼をはらってきたといえる。
以前、このweblogをこえて市内のかば氏というひとと電子的に通信して、自分はこのことをつたえようとしたが、どうもかば氏の方は「どうして世界へ羽ばたくのが間違っているのだろうか」とかツイッターでわたしではない他人へいって対話をうちきってしまった。
すこしはなしをつづければ誤解はとけるだろうに。
まちがいなのではなく、タンジュンにあさはかなのだ。以下はそのことの説明。
全世界で、いのちあるいきものにとって大事なのはその独自さの確保だろう。生態系はさまざまな変異としてほしのすみずみまでその居場所をのばしていった。なぜか。単に、その多様化という方法は生命という宇宙のなかでみられる特別な単位をいきのびさせえたからだ。
この多様化は、地球が激変していた時代をへても安定してどこかに生命をのこすことができた。もともと一つの生命からこれら一切のいのちの系統樹ができたというのがわれわれの知見だと私はおもうが、この系統樹は枝葉をそれぞれさまざまにのばすほかではいきのびえない。
だからこそ、ある一定の方向とか、ある一定の偏見からのみこの生命体を剪定してしまうのはかならずしもよい結果にならない(これは、自分がこのjournal上で社会学の文脈上に再三しめす見解として、資本主義経済というかんがえかたがもっている「商業能力」という一方向のみからみた社会淘汰の危険性、あるいは群れに及ぼす結果的な形質の単一化による脆弱さ、絶滅可能性とおなじ構造でもある)。
そうではなく、さまざまな生命があり、そこにもさまざまなしごと、さまざまなくらしとかんがえがあることの方が、いいかえれば多様性が維持される条件であるということの方がとりあえずいまの同類からの評価よりも重大事なのである。
なぜなら、ある変化が環境にあったとき、以前の評価基準がおおはばにかわるというのはわれわれの祖先もふくめ、人類もほかの生命体さえもみなどこかで何度も経験済みだったはずだからだ。
一定より文化史を勉学した者は潮流やparadigmということばでこの潮目がおおきくかわっていったしわざを目撃してきただろう。それは同時代にしりあった大勢がかれらの仕事をもしどれほど評価していようと、やはりそうだった。われわれの学問というもの、このまなばれるべきとされた文物の体系さえ過去に於いては相当ちがっていたのだから、少なくとも学問史または科学史をしるにおよんでほとんどうたがう者はないだろう。
このために、世界からの評価という指標は、その世界とやら、つまりほかのにかよった人類のなかまが、なにかどこかがまちがっている可能性がつねにあるかぎりいずれあやういのだ。たとえば現時点でいえば、冒頭に書いたノーベル賞審査委員会が、全地球での学術的権威になりつつある。
しかしやはり、いまかいたことをしればこの世界からの評価とやらがはたして生命の徳であるとはいいきれないことがわかるだろう。それが「多様」でありえるさまざまなしごとの業績を、ほかの世界からの眼差しで一定にちぢめたり型にはめてしまうのが、このほまれとされる人々への大衆からの偶像崇拝じみたもちあげかたを通してみてとれよう。
各国がわかれているとか、人の肌の色がちがうとか、言葉がさまざまであるとか、得意なしごとがちがうという状況のさまざまさは、そのなかの一定地域からの出現者が「世界に羽ばたいて」結果として大多数からなんらかの評価をうけた一様の型にわかりやすい特徴があるばあいより、その個性に関して状況が変化しても再適応しえる可能性が高いことがわかるだろう。いわば集団行動の規模の程としての個性の属した世界観が、これは家族とか会社とか国とかいろいろな単位があるがその現状や業績やもしくはさまざまな観点からされた評価やその程度に於いても多岐にわたるとき、それら単位が評価された一様性に置いてあるときよりもはるかにすぐれて高適応的とみなせるはずだ。
こうしてみかえせばむしろこの多様性が、まったく「ほかの」世界からは無評価でもなんらかまわないほどだ。なぜならこの系を単純に物理系にまで還元してしまえば、その半開放性の単位にみられる多様系の質こそがかれらの母集合(ある単位Aをふくむ全体集合U)やそれとは逆に補集合(ある単位Aをふくまない全体集合U)との関係性は別に、いいかえれば共生状態にある恒常さの質とは別に本当にもとめられている生命体の独自にもった宇宙へののびかたなのだから。より専門的にくわしくいえばentropy最大の乱雑ではなく、かといって最低の整然でもなく、energyに関しても同様にそれらの情報の出入りにかかわりない恒常さがもっとも多くの状態をたもっているのが理想的だろう。
実際こういういきものの体系を自らうみだす、いいかえればauto poiesisを機能として超越したはたらき、昔ながらのいいかたにしてしまうと神とよべるほど全知全能のなにものかそういう計画的機能主体がこの世にもしいたとして、かれは世界からなんらかの人間がつくる賞によって評価されるだろうか。むしろ世界という場所に住んでいる個々のあたまにかぎりある生命体にとっては理解不能なので、拝むとか畏れるくらいが関の山で同類にくらべては評価しえないのではないか。おなじことは、一般的にはどんな種集団であれその上位者への従事がいるときはどこでもおおかれすくなかれ生じている、といっても過言ではないだろう。
いいかえれば、わずかに同類にとってほしい能力からすぐれている、といった程度の変異がかれら一般的な人類からの評価にかなう、と定義できるだろう。そしておおはばにその水準をこえてとてもではないが到達しえないとき、崇拝され神格化される。またその基準からずれすぎていると、相手にされないかそうするあたいのない変なものとされてしまう。しかし重要なのはこの評価という類人猿などでもされている、おそらく協業のためにはじまったほかの個性への役割分業の作用だけではない。
かりにそれも一つの微妙な平均さからの進歩を達する方法論なのだとしても、本質的にもっと重要なのは、相対的な有能さというより種とそこでの技のもとからの多様化である。
閑話休題。
話をさらに簡単にしよう。大多数からの評価をうけるという作用を一般概念にすると、究極でいえばそれは「審美性」をおびやすい。このことばは、最も普通で且つ最もまれな変異のことだとしよう。
この超中庸さは人口やなんらかの変異のなかで、その大多数にとって上述のありたい程度の有能さがもっとも想定されそうな中間性、つまりもっともおおきな評価主体数のもっとも中間の変異であるとき、そうと目されるはずだ。
きわめて世界中に通じやすいことばで、といおうか経済学の用語だけど美人投票という説明がある。これは当人の本来のこのみではなくて、市場でこの変異が美人であると評価されやすいだろうという予想を大多数がつづけることでえらばれるしくみ、というおもに投機市場での銘柄ゲームへつかわれることばだが、これとおなじことが「世界からの評価」にはその世界が無限にひらかれているとすれば必ずはいりこむだろう。そうすると、この評価されるなんらかの人物やそのしわざは、ほかの大多数にとってはもっとも中間さをしめすだけにおわるだろう。
こうなると、多様化という生命本来の方法論はすたれてしまう。ほとんど評価されないが、激変にたえていけるなんらかのまれな変異は、この美人投票モデルによって社会から淘汰、つまりえらばれずに排除されてしまうかもしれない。
この悪徳が結論にくる確率がたかいので、私は一応市内のひとでなおかつ今のところおなじ国家の成員だから、webを介して通信できる状況にあったかば氏へ以上の内容説明をできるかぎり理解しやすく省略しながら忠告しようとしたわけだ。「多様化をうしなうほど美人投票モデルにしたがう評価社交界にかかわっていけば、やがて環境変化にたえきれず衰亡してしまいますよ」という生命体が経験値としてもっている真理だ。
こういうわけで、ノーベル賞権威主義も一面ではあやうさをもっている。それはおとろえあるいはほろびなかった帝国が地上に一つもなかったのとおなじ真相なのだろう。ノーベル賞帝国は、過去から類推するかぎりではおそらく永遠ではないのだ。このことはほかの典型的な評価体系でもおなじなのである。いいきれば、重要なのは生命体が、つまり個性がそれ自体として独特であること、そのuniqueさそのものなのであって、なんらかの評価体系の固定化ではなさそうだ。しかしこの評価固定化paradigmにのっているひとびとには独特さの本来の価値はなかなか理解されない。だから啓蒙と説明がいるし、それが個々のかんがえへあたえる因果としての、行動系列の多岐さからきた結果とみた母集合における社会集団の生き残りの割合にさえこの徳のもった範囲はほとんど比例するかもしれない。
これは中華帝国の衰亡をへてきたにもかかわらず、いまだに個性個性へ一様な試験をほどこす、官僚主義を慣習化している科挙の風土としての極東アジア社会にとってはまさに、深刻な社会問題とかんがえられる。