2012年3月30日

社会学

 人類の社会でのありかたは、結局「幸福」をめざしているとおもわれる。
 幸福の定義はさまざまあるが、基本的には経済性といっていいかもしれない。どんな経済がいとなまれるか、はそのばでくらす人々の教養度によっている。一切の学問や芸術は、この教養度をおぎなうためにある。

 幸福はもとめとあたえ、つまり需要と供給の輪で説明できるとすれば、金銭を媒介とするかどうかにかかわらず、このもとめにこたえたあたえがあるほどそのばでくらす個性の欲求がみたされ、幸福感がえられる、というしくみ。これが社会というもの。
 だから、社会学には政治や経済や歴史とさまざまな分野があるが、根本としては経済の程度を問うものではないだろうか。政治行動はときどき、これをこえて戦争ということをこころみる。侵略や略奪によって領土を拡大したり、それによってさらに市場からえられる調整税の膨張につとめるといった。
しかし、アリストテレスやプラトンまでさかのぼると、この政治というものは実際には市場の防衛役でしかないのだろう。防衛をこえて帝国の拡大をこころみるばあいは市場がひろがったりせばまったりするが、個々の人類の属したがわによって滅亡したり攻防の際に心理的傷害を負ったり賠償をしたりするが、単に市場規模のひろがりの問題でしかないだろう。

 この視野にたつと、人類はどうまちを築くかどういちを作るかという面できわめてながく試行錯誤してきたとわたしにはおもえる。人類史の全体がそうなのかもしれない。

 市場には量的なおおきさとみれば、現在でいう共通貨幣のとりひき高が一応のはかりになる。しかし、この貨幣価値に換算できないかしにくいその外でのやりとりもあるから厳密にはいえないが。
 ところで、市場には量のほかに、質というものがあるかもしれない。わたしがいまここで説明したいのは、この市場の質の問題だ。取引高の問題ではなく、市場にはやりとりされるもとめとあたえのあいだに、単なる通貨価値ではない単位がある。この単位は上にのべたことばでいえば単に教養といえるかもしれない。
 おそらく、根本的にはこの教養の程度は、個々人単位のGNIに還元されるかもしれない。だれであれ、かしこい個人はそうでない個人よりも、経済的にくらすはずだ。Microにみればちがうことがおおいかもしれないが、macroにみればほぼ、この教養の程度がそのまま市場の質。かつその集積具合によって量的経済性も上下する。

 この理論をみると、つまり、人類がめざしているのは教養の高い類いの量的にも大きな市場ではないだろうか。
 不思議なことに、こうやってできたある時代の帝国はなんらかの要因で解散してしまう。無限に膨張した帝国はいままでなかった。だから、おそらく実際の道徳としていいえるのは「中庸の大きさ」の市場がもっとも理想的なのかもしれない。教養の程度というのは、一般に無教養の生態にくらべてかなりのむずかしい成長過程を個々にしいる。それは現生人類の本能にはかなりさからうばあいもおおいかもしれなかった。
だから、きわめて広範に全員が一様にたかい教養をえるということは、群れの本性としての形質や行動のばらつきからいってもありえない。教育過程でも偏差値が出現してくるのは個々人が学術にどれだけ秀でるかに生前生後の差があるから。
 すなわち、のぞましい人生とは、この極端な拡大路線によってほろびに転じる大帝国ではなく、かといって無教養の不経済な人間のあつまりでもなく、それらの調度よい具合の中間にあってしかも外部の社会との程よい市場をたもっている様なくにのつくり映えだろう。
 原則としてはごく高い教養の成員が大量に集積した理想国家を想定しがちだが、現実にこういう場所は歴史上にいくつか帝国の中心としてあったことがあるが、一定期間をへると消失してしまうらしい。現在、イギリス帝国、ローマ帝国、中華帝国、エジプト帝国、あるいは日本国内では奈良、京都、鎌倉といった時勢の移り変わりで古びることになった帝国の残りをみると一か所の過剰によってかえって中心が移る、という歴史現象がある様にみえる。ほかの生物でいう生態異常による大移動があるのかもしれない。結論をいうと、この経済性の過剰としての帝国の盛衰はそこで生み出されたなんらかの文化をひろく伝播させるのとひきかえに、永続できずほろびてしまう系なのだったろう。

 だから、ありたい社会とはこの経済の帝国化にも至らないが、かといって人後におちる話にならない小さく質のひくい市場でもない、ある中庸さをもった程々の規模の市場を、教養をあたえ得る程度や域内の相対的な人口をうまく調節しながら維持していくことなのだ。
そういうとき、みずからの文化もそれなりにひろがり、生命もたもたれ、歴史上に名をあらわしながらわる目立ちすることもなく、うまく人類という一筋縄ではいかない世間ずれしたずるがしこい者たちのなかでも、都合よく苦にもされず生存していけるはずだ。