2012年2月2日

科学とは何か

人は科学、scienceとよばれる自然(仮に社会も含む)への学び、習いとりを通して、ある記号による文物の体系を得る。つまりいまでいう教科書というものを得る。
 これは学校でつかわれるいまの文部科学省が指定しているものだけではなく、もともとは論文やそういう記号表現のあつまりだった書物も入れて。たとえばダーウィンの『種の起源』も、ニュートンの『プリンキピア(自然哲学の数学的原理)』もそうだろう。

こういうものが、結局どうつかわれるか。応用という面だけみれば、結局は工学そして技術・芸術に、つまり「わざ」につかわれる。
電子レンジや電灯や自動車や信号や電車やバス。そして工業製品をたてこんだ建築物。これらだけみても、科学は、実はもっとも素朴には「わざの素(もと)」なのだととらえるのが自然だろう。

 日本というか、日本語圏がどちらかといえば応用にかたよっていて、理論がよわいというのが以前から比較文化論とかでいわれている傾向があった。
そのために、ほかの先進国からおおはばに劣らないばかりかまさるべく、より理論そのものを重視すべきだとは信じるが、うえにかいたこともまたそのものとして真実ではないか。

――震災があって、技術のたまものであった原発が牙を向いた。これだけでも道具というものへ応用してきたのが、科学・知識・サイエンスの高度さだったとわかる。
状況を理解するだけでもかなりの物理学が必要だったのをかえりみれば。放射線の段階の物理知識はいまでいう高等学校以上のものだったから、そのレベルより勉学しなかった者は混乱するばかりか誤解や、状況がのみこめず見当ちがいな行動をしたろう。

 結局、この道具そのものの進化をよぶための方法、あるいは目的性が科学という営みなのだろう。いろいろ過去の哲学者をたどると、さまざまな意見があるのだが、自分がいままでの人類史をふりかえっておもうところによれば、神はすぐれた道具をもった人々へ味方してきた様だ。
イギリス海軍から先に最新式の武器を輸入できた薩長軍が、あるいは原子力爆弾が、どれほど人類のあいだの競い合いに決定力をもっていただろうか。それ以前にも、そもそもアメリカ大陸やオセアニアに土着していた旧人類は侵入してきた「つよい武器」つまり新型の道具をもっていただけだろう新人類とやらにあっという間に滅亡させられほぼ全滅させられた。
たったこれだけみても、神様がもしいるならなぜこころよい旧人類を救わなかったのか、大変に疑問視できるだろう。そういうこころよさ、ある精神の高さ、独特の文化や風物、変わった風習はまったく人類間の競争のまえでは現実には無意味だったのだ。神様は、この地球人類の段階へは、より高度な道具をもつ側へ味方したのだ。
たとえば、単なる装飾のための美術・芸術・文芸あるいは音楽や演劇に関してはヨーロッパでもっともゆたかだったはずフランス軍がなぜ、植民地の獲得・維持・発展度についてもっと冷徹で真面目で実利的なイギリス軍にはなをあけられてしまったのだろう。アリとキリギリスの童話ではないが、事実そうだったのだから。これは、究極で言えば、産業革命を起こした国が一歩さきがけて軍備の近代性があった、というだけの因果だとかんがえられ、もっと過去に辿ると自然についての知識が少しだけイギリスの側がまさっていて、その根本にはフランスとイギリスをくらべればイギリスの方へいくらか真面目で探求的・求道的・数理的な自然学者がいたというだけのことなのだろう。
 たったこれだけの理由、たったこれだけのいきのこりのためのきっかけで、わたしたちが「科学と技術」を信じる、すくなくともそれらを十二分に利用したがるというのは浅薄だろうか? 私は絶滅する側に入るのはなんにせよ、まったく賢くないと考える。
それによって、まさにここが不可思議でもありおよそ心理とみればいくらか慈悲心へのあざむきもしくはこころぐるしい自己正当化らしき ふしまわし でもあるところなのだが、生き延びた側にしか、こころよさでさえかたられえないのだった。なんとしてでもいきのびねばならない、というのが人類の科されている課題らしかった。すでに亡くなった、あるいはほろびてしまった、この世にはない人種の声は、残念ながら直接にはきこえない。大変恐ろしい歴史の一幕だが、たしかにその通りであり、神はかならずしも善意へ報いないらしいのだ。神は道具に味方するが、必ずしも人類のこころばえには味方してこなかった。これが冷厳な人類の歴史の真実でありこの世の真相らしい(*1)。

そこから引けば、だから、社会のなかで取引がいとなまれる一切の原因も、結局はこの希少にして重要な道具のやりとり、となるだろう。(交換貨幣とみた金銭も、交換の仲立ちとみればこの道具の一種としてはたらいているとおもわれる)。
 数学を部分集合とした科学という自然分析の道具も、技術を経由して経済社会つまり商業市場をつくり、それらの総体を防衛しながら調整する役割としての、警察ならびに政治機構がととのえられる。
これが全人類のいままでやってきたすべての仕業であり、いわゆる文明といううごきのすべてだろう。だから、科学の進展は「道具の進化」をうながしながら、ほか一切の社会構成をかえていく原動力なのだろう。
そして、実に不可思議なことながら神はかれら高度な道具人あるいは工作人(homo faber: ホモ・ファーベル。といういいならわしかたがある)へ、総じてみて味方してきたのだった。それはどういうわけか、勉強好きもしくは器用な人種が好きなのか、それともこの神秘にみちた、わたしたちをとりまいており、かつわたしたちを含んでいる自然界の学習と応用を通して、本当はなにごとかを知らせようとしているのだろうか? それがなにか、いまだわたしはしらない(*2)。


―――
��1 二つの対立する意見が、むかしから西洋にはあった。つまり人工vs自然といういつものはなし。本当は、人工そのものが自然の一種でありその一部でしかないのに。物理系とみてもそうとしかいいようがなく、大半の環境学ではすでに巨視的にそう定義されているだろう。入れ子的に人工⊆自然、という集合なだけ。
 中国にも似た機械嫌悪というのがあったことはあった(『荘子』天地、十一「機械ある者は必ず機事あり」。有機械者、必有機事。この周辺の文をよめばくわしいが、つまり、機械にたよると人間の精神がおろそかになる、といったよくある精神論だが。
これは現代ではほとんどかえりみることのできない謬説といおうか、よくない意味でかなり幼稚な議論だったのだろう。二足歩行にともなってあいた両手での器用な道具の使用が人類をそうでない類人猿らから別れさせていまにいたるというのが、現代水準の知識なことから。
そこからみれば、旧態依然な技術のもちぬしは大抵、反動形成も手伝って体面上、偏屈であると捉えるのが自然な条だろう)。
 が、もっともむかしからいわれているのは旧約聖書で「知恵によって神を知る事はなく、信仰によって救われる」という感じをのべる箇所がある(『新約聖書』コリント人の手紙Ⅰ: 1-21)。
同時に聖書そのものは、『旧約聖書』のなかの「箴言」の冒頭でもわかるが知識自体を否定してはおらず、むしろ信仰の理解を助けるとして勧めているふしがある。
つまり、聖書は、有り体にとらえれば神への素朴な信仰を失うな、ということをいっているあるいは、そういう文脈が総体としてはかかれていると捉えられる。
いろいろ議論はあるが、このばあいの神というのは唯一で、全知全能で、この世界の創造主という、ある人間の想像を超えたもの、といった意味だろう。
日本語でいうカミサマ、というと やおろずのかみがみ とか おかみさん とかあげくは特定の政治機能とかあやふやに意味がゆらいでしまったりするが、このばあいは英語でいうGodへの素朴な信仰ということだろう。
この超越した権威が、民族や人種や出自をこえて、アメリカの建国をささえたのだろうし、社会生物学のリチャード・ドーキンスがいう様に、Godの素(もと。訳の原語はmeme: ミーム といわれる)こそ人々共通のよりどころとして人類の言葉のなかで広まったのだろう。
 いまにいたるまで、特にイギリスのホーキング博士などのなかでくすぶっているのは、高度な技術があたえる莫大な力への恐怖なのだろう。ホーキング博士自身は、かなりまえから工学が誇大化しすぎたすえの文明破滅型の世界観をもっているらしいが、その起源は上述の、旧約聖書の信仰なのだろう。――だがこの見解そのものがただの彼自身の信仰であって、実証された科学ではないことに注意する必要が、一層思慮深くなおかつ信心深いはずのわたしたちにはあるだろう。

��2 当然、それ、つまり世界の置かれている神秘的なしくみも科学的な知識、つまり自然界の分析によってしかよりよく分かることはないだろう。ほかの理由づけというのなら人間のあたまで勝手にできるが、どれも人々の勘違いとか、まちがいだろうから。はやりの哲学用語にすると、象徴界とか想像界というものはなんの意味もないのだろう。
哲学用語でいえば現実界、つまり、一般語でいう「自然界」はすき勝手くみかえてしまえる言葉などではなくて、むしろ目の前にほとんど無限みたくすでにつくられて、ひろがってある。
それが分析すべきものごとであって、言葉とか記号はこれを指示したり、人のあつかえる記述、あるいは舌とノドからの空気振動で伝えられる用のしかたであらわしたりする、「道具」でしかない。
 よって言葉、これも道具の一種らしい。記号を言葉の一種としてその部分集合(記号⊆言葉)と定義すれば余計に。