http://kamomenome.exblog.jp/14720140/
かば氏のツイッターでこの「世界に羽ばたく」が一般語彙ではないか、という指摘に対して応えて。
世界に羽ばたく、ということばが使われる場面によっては、またその文脈でが多い訳だが、そう発言する国民の主体性のなさ、あるいは名誉勘定の空虚さを示している。美人投票の様に他者からいわれればどうとでも自分の個性を変える、固有性を否定する。この日本病、又は敗戦病とでもいえる自己確立なさ、自己本位の欠如、独立自尊の欠けは一つの名前のない失敗ではないだろうか。
この空虚な中心への観点へは、明治以後の徹底欧風化方針へのさまざまな言説もそうだがしばしば、すこし指摘があったとはおもう。たとえば漱石が『私の個人主義』の中で伝えようとしている事も、かなりこの部分にちかいとおもう。特に、日本という国号に至った経過をうらがえせば、このしまぐにに在来しているひとびとは他人から、特に大きな外国(すくなくとも文化先進国とおもっている相手)からの評価をきにしすぎる傾向がある。逆輸入というものが生じて、日本ではやる理由もそれだろう。この癖はある民族性でもあるらしく簡単にはなおらないし、まったくなおすべきかも不確定ではあるが一つの特性だろう。が、ジョン・ブルやアメリカ中部の市民の様にこの性質がいたるところは「過剰流動性」というものだ。世論になびきやすいという意味でmultitude:マルチチュードという標語であてられている層にもちかづきやすくなる。
これらへ意見できるとすれば、震災直後の記事でも書いたけど、集団主義的性向の悪影響を避けるには「個性」「個人」を出来得るかぎり最大限に人権として尊重する法益、その文化体制、風習風儀の保護がいる。もし赤の他人の評価へ盲目に従ったばかりに母集団の多様性を失うとすれば、それこそ失敗といわれねばならないだろうから。世界的評価、というのもこの点からみれば大したものではない、と言われていい。信じるべきは個性であり、個人個人の自己実現の集積でしかない。評価すべきは自分であり、また市民を含む身近な他人でもある。
まったく遠い他人からの評価(見栄、外面、肩書き、表彰)がいいばっかりに、全滅した集団は一体その世界で羽ばたきまくった結果をどうおもうだろうか? これはとべなくなった多くの鳥についてかもめ含む鳥類が日ごろ見返している点でもある。いきのこりへ重要なのは過度の見栄えより個人的達成、適応性の向上、実力の貫徹なのだと。
2011年10月21日
2011年10月20日
条例に罰則規定の必要
条例で風営法16条へ該当している広告・宣伝(当然、この県外または隣県での営業活動についての募集も含む)への罰金およびその後も改善されなければ量刑の規則をつけるべきだ。
某氏の様に、この国法の第一条にある目的を理解していない人物も散見されるので、具体的罰則が必要。仏作って魂入れず状態になっているわけだから。
某氏の様に、この国法の第一条にある目的を理解していない人物も散見されるので、具体的罰則が必要。仏作って魂入れず状態になっているわけだから。
生物としてみた社会の考察
http://kamomenome.exblog.jp/14773983/
この記事をきっかけに、すこし自分の社会生物学的解釈をかいてみたい。
動物生態の知識で、r-k戦略というものがいわれてる。
r: reproduce strategy
k: kapacity strategy
というもので、高校の生物でならった範囲では、相変異というのに該当するところだ。
イナゴでいうと、過密層ではk戦略型の変異をおこし広域へ拡散するのに向いた姿になるのにくらべ、そうでない地点ではr戦略型の単純なすがたをとっている、ということかもしれない。
さらに、a戦略というものがこれらの中間戦略としてあてはまりそうと考えられる。
a: ad hoc strategy
このばあい、生態は加速度的に進化へつながる変異を起こすだろう、という観点にもとづいた理論だ。キャパシティー戦略の中では「過密」に適応するにすぎず、さらには生態異常によって個体におよぶ健康異常で増殖がおさえられるが、一般的リプロデュース戦略下では似た変異が拡充するにすぎない。これらの中間地点でのみ、なんらかの特定能力についてもちつづけた選りぬきが起こりえる。
で、人間界におとしこむ(これは、キリスト教の国教化圏では人間を動物視させてしまうタブー理論なわけで十分進んだとはいえないが)と、
小売を中心とした商業気質はすべて、人間のr戦略なのではないか。かれらはきわめてはやくよのなかへ出て行ってすぐ配偶をみつけるために行動している(無意識であれ)。それにくらべて、この市場のとりしまりを行う役人はk戦略者なのではないか。かれらは「最大の群れ」をひきいることで、r戦略者を財産調整という名目で収奪的に利用した収税能力をたかめてくらしている。これらのあてはめがかなり正しければ、どちらの傾向でもないが特徴的な学術気質のみがa戦略的といわれねばならない。
つまり、結論づければ人類に於ける進化に該当する形質、姿はおよそ学術能力の発展としてしかみられはしないだろう。より一般語にちかづけると、我々の中でしばしば文化人とよばれている者はこのa戦略者にすぎないのだろう。
特に、五感についての大半の進化はおわっているので、人類が特定のすがたをよりつよく好み続けているかといえば、知性、もしくは単に知能ではないのか。この「知能への好み」は、いくらか前は哲学界として選択的要因にあったが、いまではそれら形而上学(=答えのでそうにない言葉遊び)は徐々に敬遠され、実証できる科学の世界が舞台として繁栄している。特に先進国の中では、かなり決定的に。我々や先進国の文民が、ノーベル賞というものについてもっているある思念といおうか、一定の見方は、結局この「知能への好み」な可能性が高い。そうでなければ、ただのちょっとした人類の中の変異傾向への褒賞がそれほど有名でありえるだろうか?
これは残酷な観点でもあるが、うまれつき知能の高下というものが十分ありえるのだろう。後天的学習に依存している科学や学問の世界。これはなおかつ、その中でもつよい淘汰の圧力がかかり、うまれつきあたまのよくできそうな個体へのみ、環境がよければ恵む様な知性やその結果としてあらわれる重要な知識をまず宿らせる。これは個人的な経験だが、自分は以前、常磐線のスーパーひたちのなかで、母親から静かにしなさいと叱られている少年をちらっと見たことがあった。その子は、黄色人種の幼児にありがちかもしれないが、見た目はとてもお猿さんに似ている。しかし、叱られてしゅんとしたのか、かわいそうに頭をかかえておとなの座席にうずくまっていた。かれらは東海駅で降りたのだけれど、あの光景から自分がみてとったのは、素朴な観点ではあるが、「猿から進化してきた人類の雄性形質は、もしうまくいけば知能への好みをまっとうしようとする」という事実であり、一連のできごとはその証左におもえた。少年はヒトにうまれついていなければ(というのもありえない話ではあるけど)、あの年頃らしく元気に車内をはしりまわったにちがいない。ヒトであったがため、母親も子もヒトらしくより知能的にふるまう様、否応なく躾けられていたわけだ。
生後の学習にもかなり依存しているという点で、学問あるいは学ぶ、ということに平等主義の面から希望がもてるのはたしかだが、同時に育ちに値する「教育環境の不平等さ」はぬぐいきれない。そしてそれは単なる政治体制や社会体制をも包み込んだ、補集合的問題だ。
接待業に従事する女性、これなんてr戦略の最たる形質なのはほとんどうたがえないとおもう。かれらの傾向としてもった主目的は、生物の戦略とみればできるかぎりはやく再生産的に増殖することだ。かねさえもらえればなんでもいい。それが、かれらの違法をなんともおもわず、すこしも学術や文化に感心をもたず、いいかたを改めずにいえばサルのごとくにすばやく発情してその同種をふやそうとする一切の無謀で早熟な性行動の数々は説明しているとおもうのだ。
この観点からもr戦略者ではない個体にとってはそれに類するすべての行動はかれらにとっての害や失敗行動にちかづいていくのだし、さらにはそのばあい、公共の福祉を向上させることで地域をすみごこちよくしその人口密度をあげるのに貢献するk戦略者、つまりは市政や公共の奉仕者らk戦略者へも反するか、最悪のばあいかれらを害する内容をもってしまう。つまり、「知能への好み」を人類がなんらかの決定的矛盾に直面してやめないかぎり、その進化の程度はすなわち、いかに学術面での伸びをその集団のなかの複数の個体がもっているか、によっている。手短な話が、進化した人類かどうかはかれらのあたまのよさに依存している。これが社会生物学としていまの段階の各人類をみわたしてみたとき、真理ではないかとおもう。
ダーウィンが『人類の起源』でのべていた、女性が古い段階の人類の特徴を示す、劣った人種に近いみたいなかなりフェミニストに反する意見は、特に女性一般が雄性形質でそうであるごとく強い誇示の舞台をもたないときに彼女らの「母体」としての機能を維持するための、配偶者選択と育児労力の必要最小性から心身についてかなりの文化段階を経てなお適応的だから、または今までそうだったからなのではないか。だから、人類では、もしこういう女性がつよい知能の高さをもたないおおくの集団では、女性からの性選択(結婚相手の見定め)が十分にはたらいてきたとおもわれる。その機構が阻害または逆転されて、社会的慣習でゆがめられ変形させられていたとき、女性自身にも逆選好としてつよく知能の高下または才能の表現がとわれる場面がおおくなってきただろうし、これからもそうなるはず。
しかし、総合してみると、人類にあっても雄性間の競争または遊戯や規則をともなった競い合いのばめんの多さはこの「知能への好み」が特に、男性にあって特徴をもちやすく、そのばあいに強くあたまのよい子孫がめばえてきやすい、と教えているとおもう。たとえばノーベル賞受賞者たちをどれほどの人類が批判的・非難的・嫌悪的・忌避的、要は心底きらってるだろうか?
この点だけみても、法的規律によって、地域や民族集団や家族によって差がつきやすい教育環境をできるかぎり向上させ、かれらにとって先取りとなるよりよく豊富に学習できる社会をつくろうとする努力は決して無駄や浪費ではないし、むしろその社会にとってはもっとも大きな課題の一つだろうとおもう。
『社会のよしあしは子どもの教育環境を見よ』。こういうかなり飛躍した鑑識も、以上の知識から推論すれば、あるいは十分なりたつのではないか。
そしてこれらをまとめると、我々は自由主義経済のもとにあっても、教育についてだけはできるかぎりその生まれの不平等をなくすために無償で、想定できる限り最高のものをほどこすべき、と教えているらしい。なぜならば、うまれつききわめてかしこく生まれた子が、完全によくない環境の為そのpotentialをほとんどいかせずに終わるときの損失は、うまれつきかしこくない子が過剰な財産のために伸び幅のないまま大袈裟な学位をひっさげて暮らし、世間を誤解させ混乱させ不条理をうみだすのにくらべても比類がなく残念だからだし、その様な社会は才能もしくは天才を二度とうみだせないかもしれないという意味では、つくりとして世界の幸福な発展にとっては残るべき星のもとにない様におもう。
人種差別や所得格差への数々の批判と非難、これらは生得的差別がその後の環境にまで延長されたとき、社会そのものへひどい損害をあたえてしまうという集団防御の本能や本性をしめしているのではないか。そしてうまれにかかわらず、よきそだちのために十分な天性を発揮できた、人類の状態を改善する才能へついて我々が持つ尊崇の念は、かれらの出世がよろこばしく又その福祉の増進を約束するがゆえに、また性選択や社会選択が有効にはたらいているという証拠でもあるがゆえにより一層賞賛にあたいするのだろう。
もし知能の発達がことばや記号の工夫で数々のimageを我々の人生のなかにのこしていくものだとして、出世や成功の傾向が堕落や失敗のそれにくらべて因果応報に於ける我々のなかの本能的平衡感覚にあたえる影響は大きくちがっている。我々が努力家や天才の飛躍にいだく希望や未来への明るい展望は、その逆に悪質や悪意のある多くのしわざの為におちぶれ、頽廃していくみじめな人々へもつ納得とは異質ではないか。これらは、科学であれ所詮は記号や図式のあつまりでしかないといった分類と認識の限界に於いても、人類のなかで賞賛とかほまれが、本来の位置におちつくためには或る経験的集団無意識が発揮されねばならない、と教えているらしい。そしてこれこそ道徳や倫理とよばれてきた確証的ではないながらもその集団に共通の経験則集合ではないだろうか。
形而上学という困難な課題についてとりくんできた多くの人とおなじわだちをふもうとせずとも、この経験則集合が特定の民族語彙にふくまれてとりこまれているかぎり、知能の発達、知能への好みもその集団特有のすがたをとる様になるだろう。だから、そこで記号化しやりとりできる知識人らのもっているすべての学識は、その社会集団のなかで懲罰の理由づけへ援用されるがためにすべて有益だと結論できる。
道徳とは社会集団の経験則集合からきた一定の判断傾向ならびにそれを及ぼす知能への好みである。
知能への好みがどこで暴走をやめるかはわからない。今のところその限界はみえてない風で、おそらく全人類で最も先鋭的な一人なスティーブン・ホーキング氏はブレーンワールドとか、いまの経験的知識によってはなかなか実在するとはおもえない数十次元の世界を本格的に構想しているらしい。しかし、西洋文明が我々に教えたところによると、「実証的知識」、具体的には天文・物理・化学・生物・社会、これらの分類に該当する数学で説明できる分野は、ほかの認識にくらべて比較してまちがえたり大きく予想を外したりすることがすくないという経験則があった。だからノーベルの遺産でつくられた罪滅ぼし賞も、文学賞と平和賞をのぞけばこれらの基礎的科学に集中している。そして、全体としての人類がこころみてきたところによれば、これらの認識をふかめる知能への好みは、どちらかといえば我々の文明を誤解や迷妄から、無知からくる多くの悪意から救うのだった。その経験則、つまり科学を使用できる才能へのかなりの好みは、いまの先進国の多くで共有されつつあり、実際、かれらがもし生き残れればほかの惑星へ進出してもある程度より維持されていく可能性が高いだろう。
もし、もっとすぐれた認識の体系があらわれ、かつての朱子学や儒学の様にそれらの再学習がほとんど重視されない時代や世界、社会構成に至っても、この好みは「議論や考察、学習と実験のための才能」としてある大人しさと真面目さをもった気質をかれらの姿のなかに遺す。その方向への好みは、まったくそれらを経験しなかった文化に比べれば、社会的選択行為による広域な人類の改良、すくなからず、現在までに人類が地球内でおかれてきた集団間競争の必然な結果的性質ではないかと思える。職業の合理化にともなう分業の必要がきわめてたかまったとき、学識の為だけの変異はよりつよく選り好まれることになったし、かれらの変異がほかの脳をあまりつかわない仕事みたいには機械によってかなり代替しにくいとわかったとき、この知能のよい人への尊敬は文明化にとって(実際の記録の才の上でも)バックアップとしてはたらいた。
そしてその経過がかなりの期間つづけられれば、きわめてことなった、最低でも二種類のちがいがはっきりと人類の種のなかにみられるはずだ。器用で、理解がはやく、利口でおとなしい変異は文明化された人類におおくみられ、粗野でぶっきらぼう且つ乱暴でききわけのわるい変異はそれが遅れた人類に残存していく。しかも、おそらくこの異なった方向への変異は、人類が野生に於ける長命化の手段をおおくもたないという条件のためいまのところすこしも縮まる余地がないか、すくなくとも予測される範囲内で文明化された側におおくの資源と幸福の為の資産をめぐんでいる。
この二種類の変異とかれらの気質を用いる知能への好みへのつみかさねは、最終的にはいまみられる人種とよばれてきたすこしの差異をさらに決定的にことならせ、もっとも有利な変異をうみだすのではないか。そしてそれは文明化された側から生じやすい。
もし知能への好みが特徴づけられねば、人類はその他の感覚器や生態の変化しかへることはないだろう。そのために、現在いとぐちがみられるrobotや機械製作の才能がそれ以上、高度に進化していくことも確率として低いはずだ。幸か不幸か、かれらがおおく宇宙進出することも考えづらいかぎり、この知能への好みと工学の恩恵による一層の励ましは少々の抵抗勢力や失敗行動もみられるにせよ、とてもかしこい者、理知的に秀でた者を雄性形質の理想形としてますます強化しつつ宇宙のどこかへと移住圏を拡大していくのではないか。そしてある政治領域もふくむ、特定の社会集団はこのつよいa戦略タイプへの好みのために地球的生活にあきたらず、より広い世界と世間をめざして進んでいくかもしれない。単に好奇心のためだけにせよ、あるいは生活の必要に駆られたにせよ。
なお帝国主義や植民地主義が否定されてきた理由づけも、これらで、要するにk戦略からの拡充はかならずしも人類の安寧に寄与しなかった、という社会集団間の駆け引きでときあかせる。つまり一定の割合では侵略行動や殲滅行動が起こってきたにせよ、多くの場面では「文化的進出」の成否がのちの当社会集団に於ける選択的効果を決定づけるということ(勿論、それ自体が生存数に決定的という証明はまだ手元にないが、社会的な同性間競合の過程ならびに性選択上はそういわれざるをえない)。
暴力や群れによる植民でこの侵略を行った種は、すくなくとも一定数の他人種らの絶滅行為をおこなったのち生存圏を拡大できたが結局いまのところは、全人類の中で最大数の群れを率いることまではできなかったし、民族らの独立を担保できもしなかった。それらの植民地経営についての不経済性は政治的意図としては国際連盟とその後の連合に於ける戦勝国の過半数を維持し、おおくの島々に同一種を起源に持つ勢力を分散できたというかなり複雑な政策的成果をあげたが、ときに、文化的完成にとっては足枷かもしれない。信用というものが世界の中で最も得難い銘柄ならば、侵略を被った側がそうでない側に比べて侵略者への根源的信用をする可能性は低くなる。
福沢ら侵略煽動家に反する岡倉による明治の皮肉「戦争をはじめた途端に我々を先進国と呼ぶ様になった」は、この信用性についてのある社会的洞察からみちびかれている風に思う。社会的ジレンマについてのゲーム理論でいうと、協調は先に裏切った側とするのを損失とし、すくなくとも裏切らない側と手を組むのはその集団内で損失を買う確率が低い。この同族集団性は同時に、数々の欠点や費用をもってくるが、おそらくアジアは一つという岡倉スローガンそのものは、この長期的損得にまつわる社会生物学の目からいえば、単に日本の美術工芸の珍奇性の維持は汎アジア様式への裏切りのばあいより総合とした対西洋貿易の際の利得にまさるはず、という審美的判定にもとづいている。だから政治的意図ではなく、美術工芸品の輸出貿易的潜在能力についてのいいおよびが、その汎アジア的美術論にはくっついている。こうしてすべてをみかえすと、南系アジア人のなかにおおくみられるまともな人格的尊重心またはもっとも基礎的な信仰を持った人間へは生理的嫌悪感を及ぼす身売りに類した稼業への市民からの拒否や非難の反応は、r戦略者としての遅れたアジアへの批判や嫌悪を含めa戦略者として当然の反応だと思う。なぜなら「当時の工芸品」についての価値観とそれらはすこしも齟齬する所ないばかりか、すでにそれらの古美術品に審美的および文化的な経済価値が十分みこめないとすれば、我々はそれらを珍重しなければならない理由などないし、さらには政治的意図から堕落した無宗教性をうけいれねばならないわけもない。文化段階がすぐれているまたは経済合理的なかぎりその生存のための規則が多くほかの文明圏へもうけいれられる可能性が高いとすれば、それらの浮気に労力と金銭をとられる劣った変異は淘汰され排除されてもなんら問題はないだろう。
この記事をきっかけに、すこし自分の社会生物学的解釈をかいてみたい。
動物生態の知識で、r-k戦略というものがいわれてる。
r: reproduce strategy
k: kapacity strategy
というもので、高校の生物でならった範囲では、相変異というのに該当するところだ。
イナゴでいうと、過密層ではk戦略型の変異をおこし広域へ拡散するのに向いた姿になるのにくらべ、そうでない地点ではr戦略型の単純なすがたをとっている、ということかもしれない。
さらに、a戦略というものがこれらの中間戦略としてあてはまりそうと考えられる。
a: ad hoc strategy
このばあい、生態は加速度的に進化へつながる変異を起こすだろう、という観点にもとづいた理論だ。キャパシティー戦略の中では「過密」に適応するにすぎず、さらには生態異常によって個体におよぶ健康異常で増殖がおさえられるが、一般的リプロデュース戦略下では似た変異が拡充するにすぎない。これらの中間地点でのみ、なんらかの特定能力についてもちつづけた選りぬきが起こりえる。
で、人間界におとしこむ(これは、キリスト教の国教化圏では人間を動物視させてしまうタブー理論なわけで十分進んだとはいえないが)と、
小売を中心とした商業気質はすべて、人間のr戦略なのではないか。かれらはきわめてはやくよのなかへ出て行ってすぐ配偶をみつけるために行動している(無意識であれ)。それにくらべて、この市場のとりしまりを行う役人はk戦略者なのではないか。かれらは「最大の群れ」をひきいることで、r戦略者を財産調整という名目で収奪的に利用した収税能力をたかめてくらしている。これらのあてはめがかなり正しければ、どちらの傾向でもないが特徴的な学術気質のみがa戦略的といわれねばならない。
つまり、結論づければ人類に於ける進化に該当する形質、姿はおよそ学術能力の発展としてしかみられはしないだろう。より一般語にちかづけると、我々の中でしばしば文化人とよばれている者はこのa戦略者にすぎないのだろう。
特に、五感についての大半の進化はおわっているので、人類が特定のすがたをよりつよく好み続けているかといえば、知性、もしくは単に知能ではないのか。この「知能への好み」は、いくらか前は哲学界として選択的要因にあったが、いまではそれら形而上学(=答えのでそうにない言葉遊び)は徐々に敬遠され、実証できる科学の世界が舞台として繁栄している。特に先進国の中では、かなり決定的に。我々や先進国の文民が、ノーベル賞というものについてもっているある思念といおうか、一定の見方は、結局この「知能への好み」な可能性が高い。そうでなければ、ただのちょっとした人類の中の変異傾向への褒賞がそれほど有名でありえるだろうか?
これは残酷な観点でもあるが、うまれつき知能の高下というものが十分ありえるのだろう。後天的学習に依存している科学や学問の世界。これはなおかつ、その中でもつよい淘汰の圧力がかかり、うまれつきあたまのよくできそうな個体へのみ、環境がよければ恵む様な知性やその結果としてあらわれる重要な知識をまず宿らせる。これは個人的な経験だが、自分は以前、常磐線のスーパーひたちのなかで、母親から静かにしなさいと叱られている少年をちらっと見たことがあった。その子は、黄色人種の幼児にありがちかもしれないが、見た目はとてもお猿さんに似ている。しかし、叱られてしゅんとしたのか、かわいそうに頭をかかえておとなの座席にうずくまっていた。かれらは東海駅で降りたのだけれど、あの光景から自分がみてとったのは、素朴な観点ではあるが、「猿から進化してきた人類の雄性形質は、もしうまくいけば知能への好みをまっとうしようとする」という事実であり、一連のできごとはその証左におもえた。少年はヒトにうまれついていなければ(というのもありえない話ではあるけど)、あの年頃らしく元気に車内をはしりまわったにちがいない。ヒトであったがため、母親も子もヒトらしくより知能的にふるまう様、否応なく躾けられていたわけだ。
生後の学習にもかなり依存しているという点で、学問あるいは学ぶ、ということに平等主義の面から希望がもてるのはたしかだが、同時に育ちに値する「教育環境の不平等さ」はぬぐいきれない。そしてそれは単なる政治体制や社会体制をも包み込んだ、補集合的問題だ。
接待業に従事する女性、これなんてr戦略の最たる形質なのはほとんどうたがえないとおもう。かれらの傾向としてもった主目的は、生物の戦略とみればできるかぎりはやく再生産的に増殖することだ。かねさえもらえればなんでもいい。それが、かれらの違法をなんともおもわず、すこしも学術や文化に感心をもたず、いいかたを改めずにいえばサルのごとくにすばやく発情してその同種をふやそうとする一切の無謀で早熟な性行動の数々は説明しているとおもうのだ。
この観点からもr戦略者ではない個体にとってはそれに類するすべての行動はかれらにとっての害や失敗行動にちかづいていくのだし、さらにはそのばあい、公共の福祉を向上させることで地域をすみごこちよくしその人口密度をあげるのに貢献するk戦略者、つまりは市政や公共の奉仕者らk戦略者へも反するか、最悪のばあいかれらを害する内容をもってしまう。つまり、「知能への好み」を人類がなんらかの決定的矛盾に直面してやめないかぎり、その進化の程度はすなわち、いかに学術面での伸びをその集団のなかの複数の個体がもっているか、によっている。手短な話が、進化した人類かどうかはかれらのあたまのよさに依存している。これが社会生物学としていまの段階の各人類をみわたしてみたとき、真理ではないかとおもう。
ダーウィンが『人類の起源』でのべていた、女性が古い段階の人類の特徴を示す、劣った人種に近いみたいなかなりフェミニストに反する意見は、特に女性一般が雄性形質でそうであるごとく強い誇示の舞台をもたないときに彼女らの「母体」としての機能を維持するための、配偶者選択と育児労力の必要最小性から心身についてかなりの文化段階を経てなお適応的だから、または今までそうだったからなのではないか。だから、人類では、もしこういう女性がつよい知能の高さをもたないおおくの集団では、女性からの性選択(結婚相手の見定め)が十分にはたらいてきたとおもわれる。その機構が阻害または逆転されて、社会的慣習でゆがめられ変形させられていたとき、女性自身にも逆選好としてつよく知能の高下または才能の表現がとわれる場面がおおくなってきただろうし、これからもそうなるはず。
しかし、総合してみると、人類にあっても雄性間の競争または遊戯や規則をともなった競い合いのばめんの多さはこの「知能への好み」が特に、男性にあって特徴をもちやすく、そのばあいに強くあたまのよい子孫がめばえてきやすい、と教えているとおもう。たとえばノーベル賞受賞者たちをどれほどの人類が批判的・非難的・嫌悪的・忌避的、要は心底きらってるだろうか?
この点だけみても、法的規律によって、地域や民族集団や家族によって差がつきやすい教育環境をできるかぎり向上させ、かれらにとって先取りとなるよりよく豊富に学習できる社会をつくろうとする努力は決して無駄や浪費ではないし、むしろその社会にとってはもっとも大きな課題の一つだろうとおもう。
『社会のよしあしは子どもの教育環境を見よ』。こういうかなり飛躍した鑑識も、以上の知識から推論すれば、あるいは十分なりたつのではないか。
そしてこれらをまとめると、我々は自由主義経済のもとにあっても、教育についてだけはできるかぎりその生まれの不平等をなくすために無償で、想定できる限り最高のものをほどこすべき、と教えているらしい。なぜならば、うまれつききわめてかしこく生まれた子が、完全によくない環境の為そのpotentialをほとんどいかせずに終わるときの損失は、うまれつきかしこくない子が過剰な財産のために伸び幅のないまま大袈裟な学位をひっさげて暮らし、世間を誤解させ混乱させ不条理をうみだすのにくらべても比類がなく残念だからだし、その様な社会は才能もしくは天才を二度とうみだせないかもしれないという意味では、つくりとして世界の幸福な発展にとっては残るべき星のもとにない様におもう。
人種差別や所得格差への数々の批判と非難、これらは生得的差別がその後の環境にまで延長されたとき、社会そのものへひどい損害をあたえてしまうという集団防御の本能や本性をしめしているのではないか。そしてうまれにかかわらず、よきそだちのために十分な天性を発揮できた、人類の状態を改善する才能へついて我々が持つ尊崇の念は、かれらの出世がよろこばしく又その福祉の増進を約束するがゆえに、また性選択や社会選択が有効にはたらいているという証拠でもあるがゆえにより一層賞賛にあたいするのだろう。
もし知能の発達がことばや記号の工夫で数々のimageを我々の人生のなかにのこしていくものだとして、出世や成功の傾向が堕落や失敗のそれにくらべて因果応報に於ける我々のなかの本能的平衡感覚にあたえる影響は大きくちがっている。我々が努力家や天才の飛躍にいだく希望や未来への明るい展望は、その逆に悪質や悪意のある多くのしわざの為におちぶれ、頽廃していくみじめな人々へもつ納得とは異質ではないか。これらは、科学であれ所詮は記号や図式のあつまりでしかないといった分類と認識の限界に於いても、人類のなかで賞賛とかほまれが、本来の位置におちつくためには或る経験的集団無意識が発揮されねばならない、と教えているらしい。そしてこれこそ道徳や倫理とよばれてきた確証的ではないながらもその集団に共通の経験則集合ではないだろうか。
形而上学という困難な課題についてとりくんできた多くの人とおなじわだちをふもうとせずとも、この経験則集合が特定の民族語彙にふくまれてとりこまれているかぎり、知能の発達、知能への好みもその集団特有のすがたをとる様になるだろう。だから、そこで記号化しやりとりできる知識人らのもっているすべての学識は、その社会集団のなかで懲罰の理由づけへ援用されるがためにすべて有益だと結論できる。
道徳とは社会集団の経験則集合からきた一定の判断傾向ならびにそれを及ぼす知能への好みである。
知能への好みがどこで暴走をやめるかはわからない。今のところその限界はみえてない風で、おそらく全人類で最も先鋭的な一人なスティーブン・ホーキング氏はブレーンワールドとか、いまの経験的知識によってはなかなか実在するとはおもえない数十次元の世界を本格的に構想しているらしい。しかし、西洋文明が我々に教えたところによると、「実証的知識」、具体的には天文・物理・化学・生物・社会、これらの分類に該当する数学で説明できる分野は、ほかの認識にくらべて比較してまちがえたり大きく予想を外したりすることがすくないという経験則があった。だからノーベルの遺産でつくられた罪滅ぼし賞も、文学賞と平和賞をのぞけばこれらの基礎的科学に集中している。そして、全体としての人類がこころみてきたところによれば、これらの認識をふかめる知能への好みは、どちらかといえば我々の文明を誤解や迷妄から、無知からくる多くの悪意から救うのだった。その経験則、つまり科学を使用できる才能へのかなりの好みは、いまの先進国の多くで共有されつつあり、実際、かれらがもし生き残れればほかの惑星へ進出してもある程度より維持されていく可能性が高いだろう。
もし、もっとすぐれた認識の体系があらわれ、かつての朱子学や儒学の様にそれらの再学習がほとんど重視されない時代や世界、社会構成に至っても、この好みは「議論や考察、学習と実験のための才能」としてある大人しさと真面目さをもった気質をかれらの姿のなかに遺す。その方向への好みは、まったくそれらを経験しなかった文化に比べれば、社会的選択行為による広域な人類の改良、すくなからず、現在までに人類が地球内でおかれてきた集団間競争の必然な結果的性質ではないかと思える。職業の合理化にともなう分業の必要がきわめてたかまったとき、学識の為だけの変異はよりつよく選り好まれることになったし、かれらの変異がほかの脳をあまりつかわない仕事みたいには機械によってかなり代替しにくいとわかったとき、この知能のよい人への尊敬は文明化にとって(実際の記録の才の上でも)バックアップとしてはたらいた。
そしてその経過がかなりの期間つづけられれば、きわめてことなった、最低でも二種類のちがいがはっきりと人類の種のなかにみられるはずだ。器用で、理解がはやく、利口でおとなしい変異は文明化された人類におおくみられ、粗野でぶっきらぼう且つ乱暴でききわけのわるい変異はそれが遅れた人類に残存していく。しかも、おそらくこの異なった方向への変異は、人類が野生に於ける長命化の手段をおおくもたないという条件のためいまのところすこしも縮まる余地がないか、すくなくとも予測される範囲内で文明化された側におおくの資源と幸福の為の資産をめぐんでいる。
この二種類の変異とかれらの気質を用いる知能への好みへのつみかさねは、最終的にはいまみられる人種とよばれてきたすこしの差異をさらに決定的にことならせ、もっとも有利な変異をうみだすのではないか。そしてそれは文明化された側から生じやすい。
もし知能への好みが特徴づけられねば、人類はその他の感覚器や生態の変化しかへることはないだろう。そのために、現在いとぐちがみられるrobotや機械製作の才能がそれ以上、高度に進化していくことも確率として低いはずだ。幸か不幸か、かれらがおおく宇宙進出することも考えづらいかぎり、この知能への好みと工学の恩恵による一層の励ましは少々の抵抗勢力や失敗行動もみられるにせよ、とてもかしこい者、理知的に秀でた者を雄性形質の理想形としてますます強化しつつ宇宙のどこかへと移住圏を拡大していくのではないか。そしてある政治領域もふくむ、特定の社会集団はこのつよいa戦略タイプへの好みのために地球的生活にあきたらず、より広い世界と世間をめざして進んでいくかもしれない。単に好奇心のためだけにせよ、あるいは生活の必要に駆られたにせよ。
なお帝国主義や植民地主義が否定されてきた理由づけも、これらで、要するにk戦略からの拡充はかならずしも人類の安寧に寄与しなかった、という社会集団間の駆け引きでときあかせる。つまり一定の割合では侵略行動や殲滅行動が起こってきたにせよ、多くの場面では「文化的進出」の成否がのちの当社会集団に於ける選択的効果を決定づけるということ(勿論、それ自体が生存数に決定的という証明はまだ手元にないが、社会的な同性間競合の過程ならびに性選択上はそういわれざるをえない)。
暴力や群れによる植民でこの侵略を行った種は、すくなくとも一定数の他人種らの絶滅行為をおこなったのち生存圏を拡大できたが結局いまのところは、全人類の中で最大数の群れを率いることまではできなかったし、民族らの独立を担保できもしなかった。それらの植民地経営についての不経済性は政治的意図としては国際連盟とその後の連合に於ける戦勝国の過半数を維持し、おおくの島々に同一種を起源に持つ勢力を分散できたというかなり複雑な政策的成果をあげたが、ときに、文化的完成にとっては足枷かもしれない。信用というものが世界の中で最も得難い銘柄ならば、侵略を被った側がそうでない側に比べて侵略者への根源的信用をする可能性は低くなる。
福沢ら侵略煽動家に反する岡倉による明治の皮肉「戦争をはじめた途端に我々を先進国と呼ぶ様になった」は、この信用性についてのある社会的洞察からみちびかれている風に思う。社会的ジレンマについてのゲーム理論でいうと、協調は先に裏切った側とするのを損失とし、すくなくとも裏切らない側と手を組むのはその集団内で損失を買う確率が低い。この同族集団性は同時に、数々の欠点や費用をもってくるが、おそらくアジアは一つという岡倉スローガンそのものは、この長期的損得にまつわる社会生物学の目からいえば、単に日本の美術工芸の珍奇性の維持は汎アジア様式への裏切りのばあいより総合とした対西洋貿易の際の利得にまさるはず、という審美的判定にもとづいている。だから政治的意図ではなく、美術工芸品の輸出貿易的潜在能力についてのいいおよびが、その汎アジア的美術論にはくっついている。こうしてすべてをみかえすと、南系アジア人のなかにおおくみられるまともな人格的尊重心またはもっとも基礎的な信仰を持った人間へは生理的嫌悪感を及ぼす身売りに類した稼業への市民からの拒否や非難の反応は、r戦略者としての遅れたアジアへの批判や嫌悪を含めa戦略者として当然の反応だと思う。なぜなら「当時の工芸品」についての価値観とそれらはすこしも齟齬する所ないばかりか、すでにそれらの古美術品に審美的および文化的な経済価値が十分みこめないとすれば、我々はそれらを珍重しなければならない理由などないし、さらには政治的意図から堕落した無宗教性をうけいれねばならないわけもない。文化段階がすぐれているまたは経済合理的なかぎりその生存のための規則が多くほかの文明圏へもうけいれられる可能性が高いとすれば、それらの浮気に労力と金銭をとられる劣った変異は淘汰され排除されてもなんら問題はないだろう。
2011年10月11日
いいシェルター
http://newcosmopower.com/menu1.html
このリンク先にあるシェルターは、津波用家庭型としてはかなりできのいい方だとおもう。
ふたたび海岸沿いにすむひとは購入して、いざとなったら入ると確認しておけば、このあいだと同程度のそれでもしなないはず。ただ、火に弱いだろうから火事にはつかいものにならず、素材が薄いので放射能にも効果はうすいだろう。瓦礫がもえてまきこまれるとか以前に脱出できれば津波が引くまでもつかも。
このリンク先にあるシェルターは、津波用家庭型としてはかなりできのいい方だとおもう。
ふたたび海岸沿いにすむひとは購入して、いざとなったら入ると確認しておけば、このあいだと同程度のそれでもしなないはず。ただ、火に弱いだろうから火事にはつかいものにならず、素材が薄いので放射能にも効果はうすいだろう。瓦礫がもえてまきこまれるとか以前に脱出できれば津波が引くまでもつかも。
2011年10月10日
高度成長ではしゃいだ報い
こないだ大量にすてられてしまったブラウン管テレビ、あれはチューナーを電機店が大量に卸して、あわせて4000円から一万五千円くらいでセット販売しなおせばそれなりに需要もあったろうし、通販すればかなり広範囲に売れたはず。
原価がマイナスどころかひきとり費でプラスだったうえその処理費も省略できたのだからおおきなビジネスチャンスだった。
市内ほかの業者が知恵を回せば、つぎの似た様な機会をいかせるはず。
なにかしら、高度成長期の世代はscrap&buildが大好きな傾向があるのでほかにも似た「まだ十分使える大量廃棄物」をいくらでもうみだしてくるだろう。新病院建設もその側面がかなりある大規模公共事業だ。
��DPの数値が幸福感よりもすきな人達へはどんな忠告も無意味なのだから、本来の道具を飽くまでつかいこなせるのは(いきのこっていれば)それより上か、ジュニアをのぞく下の世代に多数いるはず。
これは冗談やカモメ談になってないが、団塊はかれら自身もスクラップされつつあり実際、定年制や年金崩壊でされてるので自業自得ともいえるが、とばっちりをうけたあとの被害がすさまじい(自然破壊によるダメージ量からの治癒不能さ)ので、よりのぞましいのはほかの世代がなんらかのてだてでかれらの横暴粗暴を批判的に囲い込むことだ。当然この市も例外でない。綺麗なすなはまをかえせ、とどれほどカモメ連合が日本人へさけんでも浜通りのあそこいらにゃ二度と入れないのではおはなしにならないのだから。
「パンの耳」という品物があったのだが、そういう考え方は戦中を経験したひとたちが世界を去るにしたがって失われてしまったらしい。
大量生産大量消費にひたりきった団塊の世代の罪深さは、悲惨で深刻な放射能汚染と大量の処理先もない危険きわまる放射能廃棄物、そして被爆による甲状腺などの癌患者やこれからうまれてくるかもしれない胎児被曝で心身不満足な将来世代、しまいには除染されず生態系へ流出したながらく消えない放射能の影響をも一切の電気無駄遣いの果報もなくおしつけられ、負担させられている者にとっていまさら語るまでもないけど。
つまりは、経済率(=複利耐久財/瞬間消費財%)の低さはその社会体制が不完全もしくは未完成だったと示している。この際に生じた浪費はあまりにひどければ公害、すくなくとも迷惑とよばれており、来世あるいはかれらの将来世代へ罪科としてのこされる。この点で、よごしてしまったとりかえしのつかない環境のなかで不幸そうな子供をながめては決して心おだやかに死ねないというのも現世の報いだろう。
原価がマイナスどころかひきとり費でプラスだったうえその処理費も省略できたのだからおおきなビジネスチャンスだった。
市内ほかの業者が知恵を回せば、つぎの似た様な機会をいかせるはず。
なにかしら、高度成長期の世代はscrap&buildが大好きな傾向があるのでほかにも似た「まだ十分使える大量廃棄物」をいくらでもうみだしてくるだろう。新病院建設もその側面がかなりある大規模公共事業だ。
��DPの数値が幸福感よりもすきな人達へはどんな忠告も無意味なのだから、本来の道具を飽くまでつかいこなせるのは(いきのこっていれば)それより上か、ジュニアをのぞく下の世代に多数いるはず。
これは冗談やカモメ談になってないが、団塊はかれら自身もスクラップされつつあり実際、定年制や年金崩壊でされてるので自業自得ともいえるが、とばっちりをうけたあとの被害がすさまじい(自然破壊によるダメージ量からの治癒不能さ)ので、よりのぞましいのはほかの世代がなんらかのてだてでかれらの横暴粗暴を批判的に囲い込むことだ。当然この市も例外でない。綺麗なすなはまをかえせ、とどれほどカモメ連合が日本人へさけんでも浜通りのあそこいらにゃ二度と入れないのではおはなしにならないのだから。
「パンの耳」という品物があったのだが、そういう考え方は戦中を経験したひとたちが世界を去るにしたがって失われてしまったらしい。
大量生産大量消費にひたりきった団塊の世代の罪深さは、悲惨で深刻な放射能汚染と大量の処理先もない危険きわまる放射能廃棄物、そして被爆による甲状腺などの癌患者やこれからうまれてくるかもしれない胎児被曝で心身不満足な将来世代、しまいには除染されず生態系へ流出したながらく消えない放射能の影響をも一切の電気無駄遣いの果報もなくおしつけられ、負担させられている者にとっていまさら語るまでもないけど。
つまりは、経済率(=複利耐久財/瞬間消費財%)の低さはその社会体制が不完全もしくは未完成だったと示している。この際に生じた浪費はあまりにひどければ公害、すくなくとも迷惑とよばれており、来世あるいはかれらの将来世代へ罪科としてのこされる。この点で、よごしてしまったとりかえしのつかない環境のなかで不幸そうな子供をながめては決して心おだやかに死ねないというのも現世の報いだろう。
2011年10月9日
かもめのするどい目
http://kabanobutaiura.blog.shinobi.jp/Entry/1548/#comment
このURLの先にある記事は、様々な意味で秀逸だ。というのも、コメントが面白いことになっている。
自分のカモメ的観察眼(なにしろ海上から獲物をとらえることにかけては比類もない)によれば、これはもにょもにょのひと、要は市役所のとある特別な部屋でごにょごにょしてるひとではないかとおもえてならない。カモメ的推測にすぎないが。しかし、カモメのえものをとらえるときの鋭さだけは信用していい。命がかかっているのだ。
証拠もある。「世界に羽ばたく」という表現を、この人物が最近連用してるのをカモメはカモメだけにじーっと観察していた。この羽ばたきというのがフシギな表現なので、ますますめだつ。
かんがえてもみてほしい。ここは世界の一部ではないのか? カモメが世界以外に飛ぶか? まれにもジョナサン・リビングストンしかそうすることはないのではないか。
科学的業績が政治の具になる、というのはまったく純粋科学、むかしは哲学といわれていた形而上学的欲求の堕落でしかない。とはいえ、これを本格導入したのはかのニュートンというのが歴史の皮肉かもしれないが。
現代科学といおうか、かなり先端的領域でもアカデミズムの中ではなお政争という側面が大変つよい仕事といわざるをえないのも、近代文明の限界だとおもう。ウィキペディアがそれに一石を投じたのはたしかだけど、今度はこれはこれで信憑性や低俗性という点にいろいろと問題をつくりあげてしまった。
とかく、科学の進展(知識という分野のひろがり)にとって政争は邪魔でしかない。政治は政治でやってほしい。市民の自由の領域へ公人が(公務以外に於いて)安易に入ってくるなかれ! つねに、文化の発展は自由の中で、私人の創造力の羽ばたきによってより強く生じてきた。
ハンドルネーム・かば氏にはありんこじみた生ぬるい地下循環器の功績はあるが、あれほど不自然に褒めちぎるのはカモメ下ろしじみた、ありえない政争の悪質なてだて(すくなくとも、そう見てとりやすいイデオロギー的な偶像化の言説)しかみいだせない(*1)。そういう市民干渉、自由の阻害をするとようやくそだってきているすこしばかりの私的知識追求の余地もすぐに衰退してしまうだろう。これは歴史的にみたとき本当のこと(権力濫用の余地が市民の自由を阻害し、文化を破壊した)なので、あえてこうしてさらし者にするしかない。まるではまべにうちあげられた魚のごとくに。
��もし、これらがすべて単なるかもめらしい勘違いであったとして、すくなくとも権力濫用による干渉の余地らしき兆候を、第三者へしらせる効果だけはあると考えられる。なぜなら、もしすべてが単なる勘違いでしかなかったとすれば、その指摘を無視すればよいだけだ。これらは単なる推測なのだから。)
公務に属したひとは、できるかぎりその能力をすべて公務のみにそそいでほしい。この衰退しつつある手狭かつ袋小路化しつつある僻地になにも余裕などないはずだ。現に小学校のすぐちかくに風営法抜けがみられることからこの市域での条例の改良と、以前から指摘されている裁判所の自製、これもすぐ必要なことではないか。
市民のあいだにおりてきて、できないものを異様にはげましてその競争心をあおるみたいなかもめ下手なまねはどうかしないでほしい。
��現実に、すべてはかもめじみた推測のまちがい(=つまり、ある扇動的コメンターは市民間言論干渉に権力維持や指摘者排他の面から参与していない)にすぎず、この市の公務員のかたがたが少したりとも公私混同などしてないことを願っているが。)
かば氏はできないのではないだろうが、多少ライトノベルじみたSFを書くのが趣味なのだから仕方ない部類の寄り道である(*2)。いちカモメとしてのメッセージですが。
―――
��1 かば氏のツイッターでこの「世界に羽ばたく」が一般語彙ではないか、という指摘に対して応えて。
世界に羽ばたく、ということばが使われる場面によっては、またその文脈でが多い訳だが、そう発言する国民の主体性のなさ、あるいは名誉勘定の空虚さを示している。美人投票の様に他者からいわれればどうとでも自分の個性を変える、固有性を否定する。この日本病、又は敗戦病とでもいえる自己確立なさ、自己本位の欠如、独立自尊の欠けは一つの名前のない失敗ではないだろうか。
かば氏のツイッターでこの「世界に羽ばたく」が一般語彙ではないか、という指摘に対して応えて。
漱石が『私の個人主義』の中で伝えようとしている事も、かなりこの部分にちかいとおもう。特に、日本という国号に至った経過をうらがえせば、このしまぐにに在来しているひとびとは他人から、特に大きな外国(すくなくとも文化先進国とおもっている相手)からの評価をきにしすぎる傾向がある。逆輸入というものが生じて、日本ではやる理由もそれだろう。この癖はある民族性でもあるらしく簡単にはなおらないし、なおすべきかも不確定な特性だろうが、ジョン・ブルやアメリカ中部の市民の様にこの性質がいたるところは「過剰流動性」というものだ。世論になびきやすいという意味でマルチチュードという標語であてられている層にもちかづきやすくなる。
これらへ意見できるとすれば、震災直後の記事でも書いたけど、集団主義的性向の悪影響を避けるには「個性」「個人」を出来得るかぎり最大限に人権として尊重する法益、その文化体制、風習風儀の保護だろう。もし赤の他人の評価へ盲目に従ったばかりに母集団の多様性を失うとすれば、それこそ失敗といわれねばならないだろうから。世界的評価、というのもこの点からみれば大したものではない、と言われていい。信じるべきは個性であり、個人個人の自己実現の集積でしかない。
��2 これについてかば氏から当冒頭に引用した先で謝罪または言及せよとの指摘あり。しかし、本当にできないのではないうえ多少ライトノベルじみたSFというのはそのとある作品の様式性について言い及ぶために必要な語彙だし、それに特におかしな言い方ではないと思う。これらのなんらかの形式論的観点が公衆一般の批評というより、芸術学的分類にさらされたことのない立場から聞き分けがたいのかもしれない。同時に、それらの作品が一般公開されているかぎり、やはり批評についての表現の自由も広域に認められざるを得ないのだろう。さもなければ特定の虚構へは一切の意見や指摘ができず、原理主義のばあいにしばしばそうなごとく、おおきな信仰の堕落や誤解のつみかさねへつながりかねない。
ライトノベルはそれ自体が商業出版の枠組みに依拠し自立自存しているのだし、実際、かかれたものの、たとえば登場人物の名などかば氏の書いた多くのフィクションは、現実に現存している人間とは離れた名が多かったりする面かなりそれに近いものが多いと思う。そして、一切の芸術表現は、すべての人類にとって寄り道の様なものだろうと考えることもできる。それによって何事かが達成されるかといえば、単に慰めやできるかぎり高度な娯楽、趣味の格付けという位置づけをこえてはされないか、すくなくとも各芸術表現の枠にはまりつづけてその中での多様な表象がみられつづけるにすぎない。文芸ならば文芸として。
追記: われわれはつぎの言葉をおもいかえす必要がある。『真理の前では争いは永遠にやむ。真理の前ですべての人間は平等である。』
てみじかにいって、実証科学(英語で言うpositivism)が特にアカデミックな世界で名誉のための闘争みたいな体をとる様になったのは、中世から近世ヨーロッパ、特に英独仏の封建社会において国権そのものから、意図をもって平民の出世手段に援用されたのが原因らしい。その微妙な位置づけは、ヨーロッパでもアメリカでも「神学」なる分野一つをみれば理解できよう。これは真理の領域にとっては邪道だとかんがえていいとおもう。
��かずかずの聖書をうみだした時代にくらべれば、われわれは多くの情報に接し、その比較検討の機会にすこしはめぐまれているのだから、冷静にこの識字環境の変化をみなおせば、おおむかしの聖者によってつくりあげられた教義が、部分的にであれ破綻してきがちなことは容易に想像できるはずだ。古典的倫理の尊重を目的とした原理主義と、とにかく本当のことがしりたいだけの科学は、ひとつの文化のなかでもうまく折り合っていく方がいい。たとえば国生み神話で淡路島誕生とか、いまの天皇はどうかんがえてるのかしらないけど、それによって日本列島がなくなりもしないし、その非科学言説をおおっぴらに文字記録でものこしてきた証拠で天皇なるものの価値もしくは人格的評価がさほどおちるわけでもない。)
モチロン、scienceといわれていて、いまはかなり広い文明圏でもっとも使えそうだとおもわれている、やり取りしてて劣化性のかなりすくない言葉の体系にもそれ自体に限界がある。おそらくだけど、人類がうみだしてきた科学でのどれよりもつかえる記号やそのひきだしをもっている知的生命は、果てもほとんどわからない宇宙広しといえるのできっといるのにちがいない。その確率はどっちかといえば、(∞分の1以上なのだから)高いとおもう。(われわれの大部分は数理読解力がそれほど高くないことはそのすでにあるシステムが不完全、または複雑すぎ難解すぎる、としらせているっぽくおもう。すらすら高度な数式を読めるひとがあまりいない、とは漢字のむずかしすぎるたちによくにている。いまでは、ものすごい時間をつかわねばその大部分を再学習できない漢字・中国文字というものは煩雑に発達しすぎた、あるいは遅れてしまった記号だともおもわれているが、一昔まえはそうではなかった様に、いまの人類の数学、すくなくともその記号群の読み書きのルールはあまりにむずかしすぎるという点で欠点があるのだろう。科学のことばである数理はかぎりなく単純で、最もつかいやすい身近で日常的なルールにまとめられるべきだ。これはラッセルとかがちょっとまえにやろうとしてた数学基礎論とかさなるはなしで、現時点でもっとも先端的な科学の分野でもあるっぽいけど。)
で、これらのために科学の宗教化とか科学万能論はあやうい。「知れたことしか分からない」という、後天的学習にかなり依存している、いつでもかわりうる現在の教科はどれも地球人の、しかも特定の地球人の偏見かもしれない。
おもいかえせば、ジェームズらアメリカのpragmatistが使えるかぎりで使おうぜ、その程度のものだよ、と科学をとらえなおしたのはもっとも冷めてもいるし、すくなくとも現時点でかなり広域の現代文明にくらすひとに妥当なかんがえかたではないか。
ここからは自分の私的意見(カモメ見ではもはやない)だが、知識というものは客観的価値ではないか。それは共有財産みたいなものであり、だれかの私的所有物としては重すぎる荷物なのかもしれない。火が酸素で燃えるとか原子核崩壊が大きなエネルギーを生み出すとかは、人類の技術やその生活環境へおよぼした影響がはなはだしい。だから、真理はあたらしい世界のいりぐちとしてできるかぎり広く共有されるべきではないか。そのことがかえって、みずからの属した集団に酬いることとなるとしてもだ。(哲学語でいうと、仮言命法が目的ではなく、定言命法の為に知識を散種せよ。)
人類史は道具の優越によってほかの人種や民族をほろぼしたり、駆逐した者たちがいたのをしめしている。この悪性は、おそらくこれから先もあまりかわらないだろう。われわれが他の動物をどうあつかっているかをみれば人類のけものらしさは同類へもかなり発揮されるのにも納得できる。(シーシェパード(海の牧羊犬)は大津港沖のイギリス船を皮肉交じりに見るもしくは見てきた同類であれ、もしも鯨漁でもはじめたあかつきには、オーストラリアの観光資源をまもるという利己的動機をテキトウな口実でぬりかため、動物的に駆逐したがりかねないのがこの一つの証拠となりうるだろうか。)
つまり、利己的にかんがえれば(そしてそれがどうやら単純生物の基本原理だとして)、「工学の優越は、ほかの人種を滅ぼし去る原動力になりえる」。これらの慈悲深く、信心深い者を大いに悲観させそうな理屈は、にもかかわらず拮抗した道具の力の間でのみ人類の永遠平和やその講和がありえる、とも教えている。平和を希求しており、善良な意思と教養ある判定力を持つか少なくとも持ち得る者ならなおさら、先ず自らが道具の優越に立つべきだと知らせる。もしそうでなければどの理論もどの理想もどの慈愛も無残に、戦争と侵略の意思(しかも、あいてに信じられている利己的な正義)によって打ち砕かれるだろうから。
旧約聖書の時代、それを書いたひとびとが物語らせた知恵の実の神話は、同類のあいだに争いを及ぼした大きな原因が知恵にあったとしらせている、と私は解く。しかし、この構図は、実ははるか以前の類人猿よりもっと昔から続けられてきた生き物のさがだった様だ。現代文明に生きるわれわれすらその絵図から逃れ出られたわけではない。しかし、すくなくとも以前より穏やかな争いにとどめようとする工夫は数多くされた。その一つが後天的知識の追求だった、と捉えても大きく外れていない。
なぜなら、この階級や集団や個人はイデオロギーからごく遠いうえ有用性が高いとおもわれがちなので、旧態依然たる政争とはちがって生命が保護されてきたのが真相だからだ。さらには後天的学習に依存する、という面では(生物とみた種のちがいとは逆説的に)、生後の努力次第でどんな出自でも向上できる余地があり、したがって差別からの自由を保証したのでかつては封建社会からの避難所になったし、いまでいえば格差社会や資本主義の矛盾からの安全地帯となりえるはずだ。他方ではガリ勉という揶揄語がしめしている様、貴族社交にとっては二次的付属物だとその知識度はおもわれているのが国際事情ではある。しかし、学問の徒が貶められることは決してない。もしそうする者がいても、なおかつ性選択の機会におろかものが逆の傾向をえりごのんだとしても、かれらは末孫までみなおのれの悪徳のためその身に損害をこうむるだろう(類人猿と人類の違いを見逃しても以前より複雑化した社会から尊敬をうけることはない、さらにはサルがヒト社会に敵うこともない)。
いずれにせよ総合してみれば、「知の優越はその命を守る」と言うほかない。だから、今後とも人類が人類であるかぎりは、程度問題として、この原則にそって多くの歴史は進むのだろう。
多くの親がほとんど本能的にみえるほど、子供へ勉強、より精確な言葉にすると学習を勧めるのはこういうわけがあったのではないだろうか。それが子の命を本当に助けるらしいのだから。
��修行とか求道ということばはもとは仏教語っぽいけど、勉強ということばにも似た響きがある。これらは極東のことばの中では、真理の追求を志したガウダマ・シッダールタの姿勢から来ている風に思う。いまでは仏教になってしまった仏陀のしごとの本質は、単に当時のインド界隈の学者・知識人・ホモサピエンス性ではなかったか、というきもする。いまではEnglishのひろがりでも有名なイギリスという国、もしくはイングランドという地域。これも似た様な真理の追求者、そしてその成果をあげた者を一定数以上もったことで一躍文化史の舞台に踊り出てきたという感じがする。どちらにせよ、人類史は真理の追求者へ最終的にはかなりの栄誉で酬いる傾向をもっている。つまり人類は知性をかなり好んでいる、といえる。
一方で、その追求者の身へ同時代の大多数からの無理解やばあいによっては迫害というのもどの時代にもみられる一過性の現象だが、現代まで来ると、これはひともさまざまな事例をへてかしこくなってきたので言論の自由や表現の自由という法的名目で保護されており、むかしほどひどくはないか、最低でも、公的社会の上では大げさにはみられなくなったりかえって都市圏では変わった意見の持ち主こそありがたがられている様だ。結局、アカデミズムの巣のなかでのみこの政争じみた追放劇はしばしばきらわれがちな悪習として観察できるくらいに近代は進んできた。この市にやってきた岡倉も、(おそらくはまもなく失われそうなアジアの独自性への郷愁と一種の孤立による希少性をみてとった巨視的文化観から)古風な和式の美術工芸スタイルを維持しようとしたため、明治政府の全面的欧風化方針とかみちがいをきたした、当時の審美論についての一種の国内的被迫害者だったとかんがえていいだろう。
しかし、‘茶の本’への評価でも当時すでにあった国内絵画への欧米からの評価でも、むしろ岡倉こそが「欧米風」の美術史の視点をほかの同時代人よりずっとつよくもっていたのが真実らしい、というのがわかるひとにはごく面白い所なのだが。これも、岡倉が英語文献にはやくから親しめる進んだliteracyとそのために教育されていた点に一つの要因がありそうだけど。)
このURLの先にある記事は、様々な意味で秀逸だ。というのも、コメントが面白いことになっている。
自分のカモメ的観察眼(なにしろ海上から獲物をとらえることにかけては比類もない)によれば、これはもにょもにょのひと、要は市役所のとある特別な部屋でごにょごにょしてるひとではないかとおもえてならない。カモメ的推測にすぎないが。しかし、カモメのえものをとらえるときの鋭さだけは信用していい。命がかかっているのだ。
証拠もある。「世界に羽ばたく」という表現を、この人物が最近連用してるのをカモメはカモメだけにじーっと観察していた。この羽ばたきというのがフシギな表現なので、ますますめだつ。
かんがえてもみてほしい。ここは世界の一部ではないのか? カモメが世界以外に飛ぶか? まれにもジョナサン・リビングストンしかそうすることはないのではないか。
科学的業績が政治の具になる、というのはまったく純粋科学、むかしは哲学といわれていた形而上学的欲求の堕落でしかない。とはいえ、これを本格導入したのはかのニュートンというのが歴史の皮肉かもしれないが。
現代科学といおうか、かなり先端的領域でもアカデミズムの中ではなお政争という側面が大変つよい仕事といわざるをえないのも、近代文明の限界だとおもう。ウィキペディアがそれに一石を投じたのはたしかだけど、今度はこれはこれで信憑性や低俗性という点にいろいろと問題をつくりあげてしまった。
とかく、科学の進展(知識という分野のひろがり)にとって政争は邪魔でしかない。政治は政治でやってほしい。市民の自由の領域へ公人が(公務以外に於いて)安易に入ってくるなかれ! つねに、文化の発展は自由の中で、私人の創造力の羽ばたきによってより強く生じてきた。
ハンドルネーム・かば氏にはありんこじみた生ぬるい地下循環器の功績はあるが、あれほど不自然に褒めちぎるのはカモメ下ろしじみた、ありえない政争の悪質なてだて(すくなくとも、そう見てとりやすいイデオロギー的な偶像化の言説)しかみいだせない(*1)。そういう市民干渉、自由の阻害をするとようやくそだってきているすこしばかりの私的知識追求の余地もすぐに衰退してしまうだろう。これは歴史的にみたとき本当のこと(権力濫用の余地が市民の自由を阻害し、文化を破壊した)なので、あえてこうしてさらし者にするしかない。まるではまべにうちあげられた魚のごとくに。
��もし、これらがすべて単なるかもめらしい勘違いであったとして、すくなくとも権力濫用による干渉の余地らしき兆候を、第三者へしらせる効果だけはあると考えられる。なぜなら、もしすべてが単なる勘違いでしかなかったとすれば、その指摘を無視すればよいだけだ。これらは単なる推測なのだから。)
公務に属したひとは、できるかぎりその能力をすべて公務のみにそそいでほしい。この衰退しつつある手狭かつ袋小路化しつつある僻地になにも余裕などないはずだ。現に小学校のすぐちかくに風営法抜けがみられることからこの市域での条例の改良と、以前から指摘されている裁判所の自製、これもすぐ必要なことではないか。
市民のあいだにおりてきて、できないものを異様にはげましてその競争心をあおるみたいなかもめ下手なまねはどうかしないでほしい。
��現実に、すべてはかもめじみた推測のまちがい(=つまり、ある扇動的コメンターは市民間言論干渉に権力維持や指摘者排他の面から参与していない)にすぎず、この市の公務員のかたがたが少したりとも公私混同などしてないことを願っているが。)
かば氏はできないのではないだろうが、多少ライトノベルじみたSFを書くのが趣味なのだから仕方ない部類の寄り道である(*2)。いちカモメとしてのメッセージですが。
―――
��1 かば氏のツイッターでこの「世界に羽ばたく」が一般語彙ではないか、という指摘に対して応えて。
世界に羽ばたく、ということばが使われる場面によっては、またその文脈でが多い訳だが、そう発言する国民の主体性のなさ、あるいは名誉勘定の空虚さを示している。美人投票の様に他者からいわれればどうとでも自分の個性を変える、固有性を否定する。この日本病、又は敗戦病とでもいえる自己確立なさ、自己本位の欠如、独立自尊の欠けは一つの名前のない失敗ではないだろうか。
かば氏のツイッターでこの「世界に羽ばたく」が一般語彙ではないか、という指摘に対して応えて。
漱石が『私の個人主義』の中で伝えようとしている事も、かなりこの部分にちかいとおもう。特に、日本という国号に至った経過をうらがえせば、このしまぐにに在来しているひとびとは他人から、特に大きな外国(すくなくとも文化先進国とおもっている相手)からの評価をきにしすぎる傾向がある。逆輸入というものが生じて、日本ではやる理由もそれだろう。この癖はある民族性でもあるらしく簡単にはなおらないし、なおすべきかも不確定な特性だろうが、ジョン・ブルやアメリカ中部の市民の様にこの性質がいたるところは「過剰流動性」というものだ。世論になびきやすいという意味でマルチチュードという標語であてられている層にもちかづきやすくなる。
これらへ意見できるとすれば、震災直後の記事でも書いたけど、集団主義的性向の悪影響を避けるには「個性」「個人」を出来得るかぎり最大限に人権として尊重する法益、その文化体制、風習風儀の保護だろう。もし赤の他人の評価へ盲目に従ったばかりに母集団の多様性を失うとすれば、それこそ失敗といわれねばならないだろうから。世界的評価、というのもこの点からみれば大したものではない、と言われていい。信じるべきは個性であり、個人個人の自己実現の集積でしかない。
��2 これについてかば氏から当冒頭に引用した先で謝罪または言及せよとの指摘あり。しかし、本当にできないのではないうえ多少ライトノベルじみたSFというのはそのとある作品の様式性について言い及ぶために必要な語彙だし、それに特におかしな言い方ではないと思う。これらのなんらかの形式論的観点が公衆一般の批評というより、芸術学的分類にさらされたことのない立場から聞き分けがたいのかもしれない。同時に、それらの作品が一般公開されているかぎり、やはり批評についての表現の自由も広域に認められざるを得ないのだろう。さもなければ特定の虚構へは一切の意見や指摘ができず、原理主義のばあいにしばしばそうなごとく、おおきな信仰の堕落や誤解のつみかさねへつながりかねない。
ライトノベルはそれ自体が商業出版の枠組みに依拠し自立自存しているのだし、実際、かかれたものの、たとえば登場人物の名などかば氏の書いた多くのフィクションは、現実に現存している人間とは離れた名が多かったりする面かなりそれに近いものが多いと思う。そして、一切の芸術表現は、すべての人類にとって寄り道の様なものだろうと考えることもできる。それによって何事かが達成されるかといえば、単に慰めやできるかぎり高度な娯楽、趣味の格付けという位置づけをこえてはされないか、すくなくとも各芸術表現の枠にはまりつづけてその中での多様な表象がみられつづけるにすぎない。文芸ならば文芸として。
追記: われわれはつぎの言葉をおもいかえす必要がある。『真理の前では争いは永遠にやむ。真理の前ですべての人間は平等である。』
てみじかにいって、実証科学(英語で言うpositivism)が特にアカデミックな世界で名誉のための闘争みたいな体をとる様になったのは、中世から近世ヨーロッパ、特に英独仏の封建社会において国権そのものから、意図をもって平民の出世手段に援用されたのが原因らしい。その微妙な位置づけは、ヨーロッパでもアメリカでも「神学」なる分野一つをみれば理解できよう。これは真理の領域にとっては邪道だとかんがえていいとおもう。
��かずかずの聖書をうみだした時代にくらべれば、われわれは多くの情報に接し、その比較検討の機会にすこしはめぐまれているのだから、冷静にこの識字環境の変化をみなおせば、おおむかしの聖者によってつくりあげられた教義が、部分的にであれ破綻してきがちなことは容易に想像できるはずだ。古典的倫理の尊重を目的とした原理主義と、とにかく本当のことがしりたいだけの科学は、ひとつの文化のなかでもうまく折り合っていく方がいい。たとえば国生み神話で淡路島誕生とか、いまの天皇はどうかんがえてるのかしらないけど、それによって日本列島がなくなりもしないし、その非科学言説をおおっぴらに文字記録でものこしてきた証拠で天皇なるものの価値もしくは人格的評価がさほどおちるわけでもない。)
モチロン、scienceといわれていて、いまはかなり広い文明圏でもっとも使えそうだとおもわれている、やり取りしてて劣化性のかなりすくない言葉の体系にもそれ自体に限界がある。おそらくだけど、人類がうみだしてきた科学でのどれよりもつかえる記号やそのひきだしをもっている知的生命は、果てもほとんどわからない宇宙広しといえるのできっといるのにちがいない。その確率はどっちかといえば、(∞分の1以上なのだから)高いとおもう。(われわれの大部分は数理読解力がそれほど高くないことはそのすでにあるシステムが不完全、または複雑すぎ難解すぎる、としらせているっぽくおもう。すらすら高度な数式を読めるひとがあまりいない、とは漢字のむずかしすぎるたちによくにている。いまでは、ものすごい時間をつかわねばその大部分を再学習できない漢字・中国文字というものは煩雑に発達しすぎた、あるいは遅れてしまった記号だともおもわれているが、一昔まえはそうではなかった様に、いまの人類の数学、すくなくともその記号群の読み書きのルールはあまりにむずかしすぎるという点で欠点があるのだろう。科学のことばである数理はかぎりなく単純で、最もつかいやすい身近で日常的なルールにまとめられるべきだ。これはラッセルとかがちょっとまえにやろうとしてた数学基礎論とかさなるはなしで、現時点でもっとも先端的な科学の分野でもあるっぽいけど。)
で、これらのために科学の宗教化とか科学万能論はあやうい。「知れたことしか分からない」という、後天的学習にかなり依存している、いつでもかわりうる現在の教科はどれも地球人の、しかも特定の地球人の偏見かもしれない。
おもいかえせば、ジェームズらアメリカのpragmatistが使えるかぎりで使おうぜ、その程度のものだよ、と科学をとらえなおしたのはもっとも冷めてもいるし、すくなくとも現時点でかなり広域の現代文明にくらすひとに妥当なかんがえかたではないか。
ここからは自分の私的意見(カモメ見ではもはやない)だが、知識というものは客観的価値ではないか。それは共有財産みたいなものであり、だれかの私的所有物としては重すぎる荷物なのかもしれない。火が酸素で燃えるとか原子核崩壊が大きなエネルギーを生み出すとかは、人類の技術やその生活環境へおよぼした影響がはなはだしい。だから、真理はあたらしい世界のいりぐちとしてできるかぎり広く共有されるべきではないか。そのことがかえって、みずからの属した集団に酬いることとなるとしてもだ。(哲学語でいうと、仮言命法が目的ではなく、定言命法の為に知識を散種せよ。)
人類史は道具の優越によってほかの人種や民族をほろぼしたり、駆逐した者たちがいたのをしめしている。この悪性は、おそらくこれから先もあまりかわらないだろう。われわれが他の動物をどうあつかっているかをみれば人類のけものらしさは同類へもかなり発揮されるのにも納得できる。(シーシェパード(海の牧羊犬)は大津港沖のイギリス船を皮肉交じりに見るもしくは見てきた同類であれ、もしも鯨漁でもはじめたあかつきには、オーストラリアの観光資源をまもるという利己的動機をテキトウな口実でぬりかため、動物的に駆逐したがりかねないのがこの一つの証拠となりうるだろうか。)
つまり、利己的にかんがえれば(そしてそれがどうやら単純生物の基本原理だとして)、「工学の優越は、ほかの人種を滅ぼし去る原動力になりえる」。これらの慈悲深く、信心深い者を大いに悲観させそうな理屈は、にもかかわらず拮抗した道具の力の間でのみ人類の永遠平和やその講和がありえる、とも教えている。平和を希求しており、善良な意思と教養ある判定力を持つか少なくとも持ち得る者ならなおさら、先ず自らが道具の優越に立つべきだと知らせる。もしそうでなければどの理論もどの理想もどの慈愛も無残に、戦争と侵略の意思(しかも、あいてに信じられている利己的な正義)によって打ち砕かれるだろうから。
旧約聖書の時代、それを書いたひとびとが物語らせた知恵の実の神話は、同類のあいだに争いを及ぼした大きな原因が知恵にあったとしらせている、と私は解く。しかし、この構図は、実ははるか以前の類人猿よりもっと昔から続けられてきた生き物のさがだった様だ。現代文明に生きるわれわれすらその絵図から逃れ出られたわけではない。しかし、すくなくとも以前より穏やかな争いにとどめようとする工夫は数多くされた。その一つが後天的知識の追求だった、と捉えても大きく外れていない。
なぜなら、この階級や集団や個人はイデオロギーからごく遠いうえ有用性が高いとおもわれがちなので、旧態依然たる政争とはちがって生命が保護されてきたのが真相だからだ。さらには後天的学習に依存する、という面では(生物とみた種のちがいとは逆説的に)、生後の努力次第でどんな出自でも向上できる余地があり、したがって差別からの自由を保証したのでかつては封建社会からの避難所になったし、いまでいえば格差社会や資本主義の矛盾からの安全地帯となりえるはずだ。他方ではガリ勉という揶揄語がしめしている様、貴族社交にとっては二次的付属物だとその知識度はおもわれているのが国際事情ではある。しかし、学問の徒が貶められることは決してない。もしそうする者がいても、なおかつ性選択の機会におろかものが逆の傾向をえりごのんだとしても、かれらは末孫までみなおのれの悪徳のためその身に損害をこうむるだろう(類人猿と人類の違いを見逃しても以前より複雑化した社会から尊敬をうけることはない、さらにはサルがヒト社会に敵うこともない)。
いずれにせよ総合してみれば、「知の優越はその命を守る」と言うほかない。だから、今後とも人類が人類であるかぎりは、程度問題として、この原則にそって多くの歴史は進むのだろう。
多くの親がほとんど本能的にみえるほど、子供へ勉強、より精確な言葉にすると学習を勧めるのはこういうわけがあったのではないだろうか。それが子の命を本当に助けるらしいのだから。
��修行とか求道ということばはもとは仏教語っぽいけど、勉強ということばにも似た響きがある。これらは極東のことばの中では、真理の追求を志したガウダマ・シッダールタの姿勢から来ている風に思う。いまでは仏教になってしまった仏陀のしごとの本質は、単に当時のインド界隈の学者・知識人・ホモサピエンス性ではなかったか、というきもする。いまではEnglishのひろがりでも有名なイギリスという国、もしくはイングランドという地域。これも似た様な真理の追求者、そしてその成果をあげた者を一定数以上もったことで一躍文化史の舞台に踊り出てきたという感じがする。どちらにせよ、人類史は真理の追求者へ最終的にはかなりの栄誉で酬いる傾向をもっている。つまり人類は知性をかなり好んでいる、といえる。
一方で、その追求者の身へ同時代の大多数からの無理解やばあいによっては迫害というのもどの時代にもみられる一過性の現象だが、現代まで来ると、これはひともさまざまな事例をへてかしこくなってきたので言論の自由や表現の自由という法的名目で保護されており、むかしほどひどくはないか、最低でも、公的社会の上では大げさにはみられなくなったりかえって都市圏では変わった意見の持ち主こそありがたがられている様だ。結局、アカデミズムの巣のなかでのみこの政争じみた追放劇はしばしばきらわれがちな悪習として観察できるくらいに近代は進んできた。この市にやってきた岡倉も、(おそらくはまもなく失われそうなアジアの独自性への郷愁と一種の孤立による希少性をみてとった巨視的文化観から)古風な和式の美術工芸スタイルを維持しようとしたため、明治政府の全面的欧風化方針とかみちがいをきたした、当時の審美論についての一種の国内的被迫害者だったとかんがえていいだろう。
しかし、‘茶の本’への評価でも当時すでにあった国内絵画への欧米からの評価でも、むしろ岡倉こそが「欧米風」の美術史の視点をほかの同時代人よりずっとつよくもっていたのが真実らしい、というのがわかるひとにはごく面白い所なのだが。これも、岡倉が英語文献にはやくから親しめる進んだliteracyとそのために教育されていた点に一つの要因がありそうだけど。)
2011年10月8日
ひまわりの徳
したの記事によると、効果ありませんというのは精確ではないし、ちょっとかんがえ違えをしている。
あれだけ広大な汚染された山河をすべて、人の手でキレイにすることは不可能だ。そのために、2000年の期間をみつもって、できるだけ広大な敷地へひまわりのたねを空からまくべきなのだ。
現代人はかんがえが浅く、その展望がみじかすぎる。2000年など、全生物の歴史にくらべても、人類史にくらべてすらそれほど長い期間ではない。いまから2000年後の常磐圏の命運をにぎっている植物なのはまちがいない。だからNGOでも行政でも個人でも、この「放射能を微量ながら毎年吸収してくれる」ありがたいひまわりを、人間がはいりこむのは困難な汚染地一帯にまいておくべきだ。それが将来の人類その他から感謝されることになるだろう。
したの記事はこうかきかえるべきだ。「わずかながらたしかに効果があった…」と。人為が自然の治癒力にまさるなどとおごるべきではないだろう。もしそうでなければ、人間の入り込めないあまりに広大なあれだけの汚染をどうやってとりのぞこうというのか?
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110914-OYT1T00965.htm
��~~
ヒマワリ除染、効果ありませんでした…
福島第一原発の放射能漏れ事故を受けて土壌汚染の除去実験を行っていた農林水産省は14日、放射性セシウムを吸収するとされていたヒマワリには「ほとんど効果がない」との実験結果を発表した。
表土を削り取る手法には効果があったものの、大量に発生する汚染土をどう処分するか、課題が残る形だ。
実験は今年5月から福島県飯舘村などの農地計約70アールで、〈1〉表土を削り取る〈2〉水でかくはんし、流す〈3〉表土と地中の土壌を入れ替える〈4〉ヒマワリなど植物に吸収させる――の4種で実施した。
このうち、最も効果が薄かったのが〈4〉で、5月に種をまき、8月に開花したヒマワリの場合、土壌1平方メートル当たり約107万ベクレル含まれていた放射性セシウムのうち、吸収できたのは約2000分の1の520ベクレルにとどまった。
一方、表土の削り取りでは、地表から深さ約4センチまで除去した場合、同セシウムの地表の濃度は25%に低下。牧草などが生えている場合は表土3センチを削ると濃度が3%にまで低下した。表土と地中の土を入れ替えた場合は、全体量は減らせないものの、地表の同セシウム濃度は低減できた。
��2011年9月15日09時09分 読売新聞)
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あれだけ広大な汚染された山河をすべて、人の手でキレイにすることは不可能だ。そのために、2000年の期間をみつもって、できるだけ広大な敷地へひまわりのたねを空からまくべきなのだ。
現代人はかんがえが浅く、その展望がみじかすぎる。2000年など、全生物の歴史にくらべても、人類史にくらべてすらそれほど長い期間ではない。いまから2000年後の常磐圏の命運をにぎっている植物なのはまちがいない。だからNGOでも行政でも個人でも、この「放射能を微量ながら毎年吸収してくれる」ありがたいひまわりを、人間がはいりこむのは困難な汚染地一帯にまいておくべきだ。それが将来の人類その他から感謝されることになるだろう。
したの記事はこうかきかえるべきだ。「わずかながらたしかに効果があった…」と。人為が自然の治癒力にまさるなどとおごるべきではないだろう。もしそうでなければ、人間の入り込めないあまりに広大なあれだけの汚染をどうやってとりのぞこうというのか?
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110914-OYT1T00965.htm
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ヒマワリ除染、効果ありませんでした…
福島第一原発の放射能漏れ事故を受けて土壌汚染の除去実験を行っていた農林水産省は14日、放射性セシウムを吸収するとされていたヒマワリには「ほとんど効果がない」との実験結果を発表した。
表土を削り取る手法には効果があったものの、大量に発生する汚染土をどう処分するか、課題が残る形だ。
実験は今年5月から福島県飯舘村などの農地計約70アールで、〈1〉表土を削り取る〈2〉水でかくはんし、流す〈3〉表土と地中の土壌を入れ替える〈4〉ヒマワリなど植物に吸収させる――の4種で実施した。
このうち、最も効果が薄かったのが〈4〉で、5月に種をまき、8月に開花したヒマワリの場合、土壌1平方メートル当たり約107万ベクレル含まれていた放射性セシウムのうち、吸収できたのは約2000分の1の520ベクレルにとどまった。
一方、表土の削り取りでは、地表から深さ約4センチまで除去した場合、同セシウムの地表の濃度は25%に低下。牧草などが生えている場合は表土3センチを削ると濃度が3%にまで低下した。表土と地中の土を入れ替えた場合は、全体量は減らせないものの、地表の同セシウム濃度は低減できた。
��2011年9月15日09時09分 読売新聞)
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2011年10月6日
水戸藩史からみた歴史学
きのうあたりの新聞の天声人語の欄にのってたはなしだけど、慶喜公への評価が不当に低いのが本当に悲しい。その意味でも、司馬遼太郎の罪深さは末路無いものに思う。
ドナルド・キーンの様な後世の文学の研究者へもかれが与えた小説史観の影響、しかもおそらく悪影響は大きい。
自分は幕末史を新政府軍側、旧幕府軍側の両方から見直してみても、やはり新政府軍側には卑劣さや卑怯さがあると感じる。旧幕府軍側は忠誠の為に戦ったが、新政府軍は野心の為にそうした。
ドナルド・キーンは帰化アメリカ人として、‘明治?その生涯’という近年の英語の本でかなり新政府軍側の肩をもつ論述をしている。その中でも、慶喜公は(高踏的水戸学への無知からその複雑な態度をおとしめる司馬史観を踏襲して)不敵な野心家に書かれている。
しかし、少なくとも水戸一高の生徒や弘道館の理解者以上はこれらが単なる誤解だと分かる(というより、水戸学とよばれている日本史についての哲学がある程度わかれば誰でも)。
この誤解があるかぎり、つまり情報の非対称さがのこるかぎり、日本人の大多数やその他の外国人は大衆へ膾炙した司馬小説史観を数多のドラマなどからも信じ込んでいくかもしれない。
“心底誠実な忠義の者を野心家としておとしめ、単なる出世欲と野心だけのテロリストをあたかも国家の英雄の如く書き付ける。”
司馬遼太郎のやったこの人心へあたえた風説の一事は、後生の歴史家がどこかで必ず再考し、起きた道の歪みはとりのぞかれねばならないはず。
宇都宮默林という広島の僧が、吉田松陰へ吹き込んだ覇道と王道という儒教の解釈学、要は「物の言いよう」があの幕末の悲劇とその後の侵略史をつくった。なぜ家康公の時代にかれが朝鮮侵略などのルートを辿らなかったのかは歴史家の考証に待つが、武力で鎮圧しなければ支配の正当性を保てなかった意味で薩長土肥や当時の開国派の公家と、明治以降の天皇に王道としての定義を与えることはできないだろう。
戦国時代の乱立へ統一した権力を与えたのが家康公だったとすると、さらに以前の鎌倉時代まで一貫して武家の本懐は「本来は天皇がつかさどるはずの防衛者としての職責」を代行することだった。これが水戸の弘道館で江戸時代によく研究され、見出だされてきた日本史の本質だった。
大義名分論といわれる、当時の国際的科学知識としての朱子学や中国の史学の援用で説明された使命観はそこにあった。そして現実の弘道館がほかの藩学の校舎や校風とことなって偉大で特別なのは、この日本独自の正史を初めて定義した点にある。というのもこの独創性は文化史からも日本を独立させうる面で歴史的だからだ(正史、要は実証性の高い過去の歴史学的文献がその国家や地政を伝統あるものとして保証する)。
信憑性が明らかでない日本書記や古事記のそれ(文字の独占によって神話化された日本民族の発祥)とも異なる、現実的歴史観を慶喜公へもたせたのは水戸の学問だった。そして「行く末も践みな違えそ秋津島大和の道ぞ要なりける」という斉明公の碑からも知られ得る皇室への忠誠は、結局、一棟梁の代行がかりそめの物で、天皇自身が防衛軍を指揮するのが最善であると教えている。そしてこの面で現代へ警鐘を鳴らしつづけているともいえるだろう。なぜならもし天皇に職分がなければその空位に等しいのだから。同様に、民衆自身の自主防備も警察権力により否定されている以上この空転は国民への守り手のなさのゆえ、致命的に危険でもある。
��尤も、王政の形式化をほどこしてきた国々では、現実には儀式の為にしか皇帝や王室の理由もなくなってはいるが。今の日本でも象徴ということばでごまかされてはいるが、御璽の形式としては同じ事と言える。日本のそれが特殊なのは、古代の神聖政権風の政教不分離(より正確にいえば、政治と教育のみならず、政治と宗教の不分離)な前近代性が、単なる形式以上に社会のあちこちで残っている事だ。これが政宗分離をこころざす国歌についての議論につながっている。形式のみをみれば、カトリックを日本化すれば天皇制になるといえば外国にも理解できるかもしれない。この問題点がある限り、日本での尊王論はすべて形式論にすぎないし、そうでなければならない。)
より現代の水準の科学や歴史学と矛盾しない様にこれらをまとめると、征夷大将軍という名分(肩書き)で天皇がまかせてきた武家の本意は、第一次の元冦時に公家によって暴露された無策や無様な仕事しなさ、無能にもとづく頽廃した搾取体制を否応なく肩代わりするという、公務員本来の職責の追求だった。この征夷大将軍という大義が武士を維持してきたし、今も国民の無意識に潜在している。
だから、自分の様に明治維新とかれらが名付けた国民へ向けてのテロリズムや、それ以後の侵略史には正義の平衡をみいだせずにいる人間がいるというのは、そしてそういう者が大義名分のない筋書きである司馬遼太郎の書いた小説からきた多くの物語に、違和感や嫌悪感をもよおすというのはありそうなことだ。
古事記の茨城郡条からくる名辞でもわかるが、決して古代のヤマト民族は王道のためにその王朝を築いたわけではないだろう。それはエビスやらエミシやらクマソやらアイヌとして、奈良に土着したヤマトが蔑もうとした相手へも必ずしもあたらない。
だからヤマト民族の支配正当性のために宇都宮默林や吉田松陰をたきつけた覇道批判は、そもそもヤマト民族へあてられねばならなかったはずであり、かれらの職責を代行してきた立派な心がけの武家を排除した、というのは、歴史の眼でみればどちらかといえば悪徳なのが間違いないと思う。もしきちんと防衛者としての仕事を、天皇と皇室、公家や国司がまっとうできていればそもそも武家政権が成立したはずもない(それはたとえばイギリスという国で議会政治がなぜ発祥したかも照らしあわせている)。
自分がおぼえている不穏性、つまり司馬小説史観の蔓延が後世へ及ぼす悪禍はその正当性のなさ、根本哲学のなさ、理念のなさ、単なる野心や成り上がりの肯定、不正や卑劣の肯定など悪徳とよばれるだろう数々の符号と合致している。
もし以上の考察がかえりみられることがあれば、近現代に日本がやってきたこと、その中で起きた悲惨な事件の数々は大義名分よりも野心をとった明治天皇に真因があると見抜かれ得るだろう。当時の摂政と関白がそのかわりの判断をしなければならなかったとすれば、なおさら彼の代に歴史の断層が生じたと思えてならない。
実際、文献を見比べ史跡と実例をつぶさに観察すれば、福沢諭吉や坂本龍馬、西郷隆盛や木戸孝允ら下士は武家にありながら職責を逃れ野心を抱き中央政権へ攻撃を加え内外と策謀し相互にも裏切りを働いたのに比べ、徳川慶喜や芹沢鴨、近藤勇や沖田総司は仲間と忠誠を誓って自らの職責へ忠実だった。
この一連の考察も、長い歴史の中では答えが出ることだろう。
もし神ほどの長さで日本史とその中で行われた業を見返す者なら、容易に集団行動にともなう優秀性を淘汰できるはずだ。
もしある偶然が、薩英戦争と下関戦争の敗軍へ手に入りえない武器をもたらすという奇事を起こさなければ、単なる一時の錯綜の為に民族のたちやその道徳を失わせることはないだろう。そして私および我々の観察を悲しませる多くの裏切り者への賛美は、歴史の神が正義の平衡にともなった一定の報いを与える事でやむであろう。
なぜ内乱をともなう近代化をしなければならなかったか? それは野心家の悪意をこうむる人知にしか知りえないだろうし、実際に近代化の手続きを見返せば、‘倒幕の密勅’の様なはなはだしく人間の誠意と精神にもとる策謀は、遅かれ早かれそれを行おうとした人々に破滅を及ぼすに違いない。
自分にとっての大きな慰めは、慶喜公の後半生が(幼時の慧眼による将軍職への消極的姿勢、つまり「失敗するならはじめからやらない方がよい」と言う、当時の幕府から抑えこまれてきた水戸藩の石高と備え得る実力に比べた重責への忌避感から彼自身望んでいたのだろうが)、穏やかなものだったらしいことだ。明治天皇やその側近らの帝国主義を迎える時代のその後とは好対称な彼の生涯が我々へおしえている人類史の真実は、歴史の神が嘘をつかない、という一点にある。
歴史小説家や歴史物語手が罪深い存在でもありえる、という点は本居宣長による虚構(脚色によって迷信や勘違いを及ぼす仕組み)の持ち上げ以後も、雨月物語の冒頭にある上田秋成の批判程度にしか、日本の文化面ではほとんど指摘されていない。だが、それらの歪み、つまり歴史観の錯誤は巨視すれば民族主義でしかない以上、必ずや正史としての実証科学を歴史検証に用いる者の前に滅びゆくであろう。
かつて人類が洞窟のおくの暗闇で語り手に耳を傾けた時代の慣習は、文字記録が実現しえなかったという条件があるにせよ、風説つまり噂の領域での伝言ゲーム的解釈の歪みへ無意識のつけいる余地を与える以上は決して史実にまさり得る普遍性を伴いえないだろう。
ドナルド・キーンの様な後世の文学の研究者へもかれが与えた小説史観の影響、しかもおそらく悪影響は大きい。
自分は幕末史を新政府軍側、旧幕府軍側の両方から見直してみても、やはり新政府軍側には卑劣さや卑怯さがあると感じる。旧幕府軍側は忠誠の為に戦ったが、新政府軍は野心の為にそうした。
ドナルド・キーンは帰化アメリカ人として、‘明治?その生涯’という近年の英語の本でかなり新政府軍側の肩をもつ論述をしている。その中でも、慶喜公は(高踏的水戸学への無知からその複雑な態度をおとしめる司馬史観を踏襲して)不敵な野心家に書かれている。
しかし、少なくとも水戸一高の生徒や弘道館の理解者以上はこれらが単なる誤解だと分かる(というより、水戸学とよばれている日本史についての哲学がある程度わかれば誰でも)。
この誤解があるかぎり、つまり情報の非対称さがのこるかぎり、日本人の大多数やその他の外国人は大衆へ膾炙した司馬小説史観を数多のドラマなどからも信じ込んでいくかもしれない。
“心底誠実な忠義の者を野心家としておとしめ、単なる出世欲と野心だけのテロリストをあたかも国家の英雄の如く書き付ける。”
司馬遼太郎のやったこの人心へあたえた風説の一事は、後生の歴史家がどこかで必ず再考し、起きた道の歪みはとりのぞかれねばならないはず。
宇都宮默林という広島の僧が、吉田松陰へ吹き込んだ覇道と王道という儒教の解釈学、要は「物の言いよう」があの幕末の悲劇とその後の侵略史をつくった。なぜ家康公の時代にかれが朝鮮侵略などのルートを辿らなかったのかは歴史家の考証に待つが、武力で鎮圧しなければ支配の正当性を保てなかった意味で薩長土肥や当時の開国派の公家と、明治以降の天皇に王道としての定義を与えることはできないだろう。
戦国時代の乱立へ統一した権力を与えたのが家康公だったとすると、さらに以前の鎌倉時代まで一貫して武家の本懐は「本来は天皇がつかさどるはずの防衛者としての職責」を代行することだった。これが水戸の弘道館で江戸時代によく研究され、見出だされてきた日本史の本質だった。
大義名分論といわれる、当時の国際的科学知識としての朱子学や中国の史学の援用で説明された使命観はそこにあった。そして現実の弘道館がほかの藩学の校舎や校風とことなって偉大で特別なのは、この日本独自の正史を初めて定義した点にある。というのもこの独創性は文化史からも日本を独立させうる面で歴史的だからだ(正史、要は実証性の高い過去の歴史学的文献がその国家や地政を伝統あるものとして保証する)。
信憑性が明らかでない日本書記や古事記のそれ(文字の独占によって神話化された日本民族の発祥)とも異なる、現実的歴史観を慶喜公へもたせたのは水戸の学問だった。そして「行く末も践みな違えそ秋津島大和の道ぞ要なりける」という斉明公の碑からも知られ得る皇室への忠誠は、結局、一棟梁の代行がかりそめの物で、天皇自身が防衛軍を指揮するのが最善であると教えている。そしてこの面で現代へ警鐘を鳴らしつづけているともいえるだろう。なぜならもし天皇に職分がなければその空位に等しいのだから。同様に、民衆自身の自主防備も警察権力により否定されている以上この空転は国民への守り手のなさのゆえ、致命的に危険でもある。
��尤も、王政の形式化をほどこしてきた国々では、現実には儀式の為にしか皇帝や王室の理由もなくなってはいるが。今の日本でも象徴ということばでごまかされてはいるが、御璽の形式としては同じ事と言える。日本のそれが特殊なのは、古代の神聖政権風の政教不分離(より正確にいえば、政治と教育のみならず、政治と宗教の不分離)な前近代性が、単なる形式以上に社会のあちこちで残っている事だ。これが政宗分離をこころざす国歌についての議論につながっている。形式のみをみれば、カトリックを日本化すれば天皇制になるといえば外国にも理解できるかもしれない。この問題点がある限り、日本での尊王論はすべて形式論にすぎないし、そうでなければならない。)
より現代の水準の科学や歴史学と矛盾しない様にこれらをまとめると、征夷大将軍という名分(肩書き)で天皇がまかせてきた武家の本意は、第一次の元冦時に公家によって暴露された無策や無様な仕事しなさ、無能にもとづく頽廃した搾取体制を否応なく肩代わりするという、公務員本来の職責の追求だった。この征夷大将軍という大義が武士を維持してきたし、今も国民の無意識に潜在している。
だから、自分の様に明治維新とかれらが名付けた国民へ向けてのテロリズムや、それ以後の侵略史には正義の平衡をみいだせずにいる人間がいるというのは、そしてそういう者が大義名分のない筋書きである司馬遼太郎の書いた小説からきた多くの物語に、違和感や嫌悪感をもよおすというのはありそうなことだ。
古事記の茨城郡条からくる名辞でもわかるが、決して古代のヤマト民族は王道のためにその王朝を築いたわけではないだろう。それはエビスやらエミシやらクマソやらアイヌとして、奈良に土着したヤマトが蔑もうとした相手へも必ずしもあたらない。
だからヤマト民族の支配正当性のために宇都宮默林や吉田松陰をたきつけた覇道批判は、そもそもヤマト民族へあてられねばならなかったはずであり、かれらの職責を代行してきた立派な心がけの武家を排除した、というのは、歴史の眼でみればどちらかといえば悪徳なのが間違いないと思う。もしきちんと防衛者としての仕事を、天皇と皇室、公家や国司がまっとうできていればそもそも武家政権が成立したはずもない(それはたとえばイギリスという国で議会政治がなぜ発祥したかも照らしあわせている)。
自分がおぼえている不穏性、つまり司馬小説史観の蔓延が後世へ及ぼす悪禍はその正当性のなさ、根本哲学のなさ、理念のなさ、単なる野心や成り上がりの肯定、不正や卑劣の肯定など悪徳とよばれるだろう数々の符号と合致している。
もし以上の考察がかえりみられることがあれば、近現代に日本がやってきたこと、その中で起きた悲惨な事件の数々は大義名分よりも野心をとった明治天皇に真因があると見抜かれ得るだろう。当時の摂政と関白がそのかわりの判断をしなければならなかったとすれば、なおさら彼の代に歴史の断層が生じたと思えてならない。
実際、文献を見比べ史跡と実例をつぶさに観察すれば、福沢諭吉や坂本龍馬、西郷隆盛や木戸孝允ら下士は武家にありながら職責を逃れ野心を抱き中央政権へ攻撃を加え内外と策謀し相互にも裏切りを働いたのに比べ、徳川慶喜や芹沢鴨、近藤勇や沖田総司は仲間と忠誠を誓って自らの職責へ忠実だった。
この一連の考察も、長い歴史の中では答えが出ることだろう。
もし神ほどの長さで日本史とその中で行われた業を見返す者なら、容易に集団行動にともなう優秀性を淘汰できるはずだ。
もしある偶然が、薩英戦争と下関戦争の敗軍へ手に入りえない武器をもたらすという奇事を起こさなければ、単なる一時の錯綜の為に民族のたちやその道徳を失わせることはないだろう。そして私および我々の観察を悲しませる多くの裏切り者への賛美は、歴史の神が正義の平衡にともなった一定の報いを与える事でやむであろう。
なぜ内乱をともなう近代化をしなければならなかったか? それは野心家の悪意をこうむる人知にしか知りえないだろうし、実際に近代化の手続きを見返せば、‘倒幕の密勅’の様なはなはだしく人間の誠意と精神にもとる策謀は、遅かれ早かれそれを行おうとした人々に破滅を及ぼすに違いない。
自分にとっての大きな慰めは、慶喜公の後半生が(幼時の慧眼による将軍職への消極的姿勢、つまり「失敗するならはじめからやらない方がよい」と言う、当時の幕府から抑えこまれてきた水戸藩の石高と備え得る実力に比べた重責への忌避感から彼自身望んでいたのだろうが)、穏やかなものだったらしいことだ。明治天皇やその側近らの帝国主義を迎える時代のその後とは好対称な彼の生涯が我々へおしえている人類史の真実は、歴史の神が嘘をつかない、という一点にある。
歴史小説家や歴史物語手が罪深い存在でもありえる、という点は本居宣長による虚構(脚色によって迷信や勘違いを及ぼす仕組み)の持ち上げ以後も、雨月物語の冒頭にある上田秋成の批判程度にしか、日本の文化面ではほとんど指摘されていない。だが、それらの歪み、つまり歴史観の錯誤は巨視すれば民族主義でしかない以上、必ずや正史としての実証科学を歴史検証に用いる者の前に滅びゆくであろう。
かつて人類が洞窟のおくの暗闇で語り手に耳を傾けた時代の慣習は、文字記録が実現しえなかったという条件があるにせよ、風説つまり噂の領域での伝言ゲーム的解釈の歪みへ無意識のつけいる余地を与える以上は決して史実にまさり得る普遍性を伴いえないだろう。
2011年10月4日
東京電力株式会社が終生責任を負うべき人数
��. http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/Chernobyl/saigai/Lazjuk-J.html
そなえ( http://megalodon.jp/2011-1003-1533-40/www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/Chernobyl/saigai/Lazjuk-J.html )
��. http://radioactivity.mext.go.jp/ja/1910/2011/09/1910_092917_1.pdf
そなえ( http://megalodon.jp/2011-1003-1537-23/radioactivity.mext.go.jp/ja/1910/2011/09/1910_092917_1.pdf )
この二つの資料をみくらべると、
千人あたり3.87人から7.07人へと、事故後の頻度増加83%の新生児についての先天性障害頻度の上がり、はおそらくこの市内でも起こるとおもわれる。もし約5万人とした市内の全人口が、これから50年後までにすべていれかわるとおおめにみつもると、そのうち7.07×50-3.87×50=353.5-193.5=160人、の先天性障害の人口増が想定できる。
この160人(実際にはそれよりすこし少ないかもしれないが)は、事実上、東京電力株式会社によって先天的に障害をうけた、と定義できる。その全賠償責任は東京電力株式会社にあり、基本として我々にはない。
もし周辺のくにぐにへすさまじい被害をおよぼした東京電力株式会社による大公害がなければこの160人は、おそらく五体におおきな歪みもなく生まれ育ったのだから。
と同時に、この160人がおよそ想定できるという条件は除染や、食物への注意によっても完全に払拭しきれるとはかぎらないのが現実なのだから、「福祉制度の充実」という面で、(仮にそのすべての費用を公害の主体かつ大金持ちである東京電力株式会社へ負わせるとしても)我々が市内で障害や異質な身体条件をもった他者へ寛容に、できるだけ優しくすべきはうたがいない。彼らはみずからの不摂生のためにではなく、単に東京電力株式会社という企業法人の悪徳によって害をうけたのだから彼らにはこの点で罪がない。
そなえ( http://megalodon.jp/2011-1003-1533-40/www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/Chernobyl/saigai/Lazjuk-J.html )
��. http://radioactivity.mext.go.jp/ja/1910/2011/09/1910_092917_1.pdf
そなえ( http://megalodon.jp/2011-1003-1537-23/radioactivity.mext.go.jp/ja/1910/2011/09/1910_092917_1.pdf )
この二つの資料をみくらべると、
千人あたり3.87人から7.07人へと、事故後の頻度増加83%の新生児についての先天性障害頻度の上がり、はおそらくこの市内でも起こるとおもわれる。もし約5万人とした市内の全人口が、これから50年後までにすべていれかわるとおおめにみつもると、そのうち7.07×50-3.87×50=353.5-193.5=160人、の先天性障害の人口増が想定できる。
この160人(実際にはそれよりすこし少ないかもしれないが)は、事実上、東京電力株式会社によって先天的に障害をうけた、と定義できる。その全賠償責任は東京電力株式会社にあり、基本として我々にはない。
もし周辺のくにぐにへすさまじい被害をおよぼした東京電力株式会社による大公害がなければこの160人は、おそらく五体におおきな歪みもなく生まれ育ったのだから。
と同時に、この160人がおよそ想定できるという条件は除染や、食物への注意によっても完全に払拭しきれるとはかぎらないのが現実なのだから、「福祉制度の充実」という面で、(仮にそのすべての費用を公害の主体かつ大金持ちである東京電力株式会社へ負わせるとしても)我々が市内で障害や異質な身体条件をもった他者へ寛容に、できるだけ優しくすべきはうたがいない。彼らはみずからの不摂生のためにではなく、単に東京電力株式会社という企業法人の悪徳によって害をうけたのだから彼らにはこの点で罪がない。
2011年10月2日
屋根用ソーラーシート
屋根にかぶせてるシート、これはすでにあるが、ソーラーシートとして加工して販売する。被災の有無にかかわらず、ソーラーパネルより手軽で軽く、安価に仕上げられるはずだから。ビニールシートの表面に加工できればいい。あとは量産体制と、そのこまかな工夫で屋根をおもとする面へ抑えやすくする。また、できるだけ簡易な変換装置(コンバーター)を込みで販売する。家庭用電源のコンセントに変換させるだけの。
この製品はかなり丈夫なら軍事用や登山など屋外活動にもつかえるだろう。
この製品はかなり丈夫なら軍事用や登山など屋外活動にもつかえるだろう。
2011年10月1日
茨城の怒りの正しい矛先
この放射性物質降下量の統計リンクをみると、茨城県のひたちなか市はすべての地域で最大な結果となっている。この調査の事実性はわからない(誰が制作したかも不明だがネットの一部に流通している)が、すくなくとも「茨城県民が東京電力株式会社へどれだけ怒っても怒りすぎはない」のが100%まちがいない。
あるネット上に出回っていた資料は次の様なもの(誤字と資料からの引用の不精確さはこっちで修正した)
―――
放射性物質降下量 3月18日~5月7日までの累積
https://spreadsheets.google.com/spreadsheet/pub?hl=en&key=0AjgQ0pwrXV8YdGJORHAzdi1qMlFldUMwRkl4V3VfN0E&hl=en&gid=0 より
単位はMBq/km^2
1位 茨城県(ひたちなか市) 212728
2位 東京都(新宿区) 84940
3位 山形県(山形市) 68692
4位 埼玉県(さいたま市) 68593
5位 栃木県(宇都宮市) 61348
6位 千葉県(市原市) 45786
7位 福島県(福島市) 24151
8位 群馬県(前橋市) 21846
9位 岩手県(盛岡市) 8216
10位 山梨県(甲府市) 8006
11位 神奈川県(茅ヶ崎市) 5772
圏外 チェルノブイリ 3844
―――
そもそも震災当日からしばらく、まぎれない歴史の真実として、その会社そのものがこの最大の被災地を無視し停電させようとしたのだ。その時点で桜田門外かって次元の話である。ござる。*1
国の調査結果は暫定基準値でごまかそうとしているが、実際のチェルノブイリ以後では我々のくらしていた「強制退去」の範囲でそこで生産された作物を摂取していた者には多くの障害が発生したのがまちがいないのだから、もはや時代の科学水準から言ってもだましきれるものでは決してない。はっきりしているのは、この暫定基準値とやらがどれほど批判されてもされすぎはなく、そもそも安全性を保証するためのしくみではなく、単に賠償責任を悪意ある資本家が逃れようとする意図で決められているという点である。
だから何世代かかってもかならずや全賠償責任を東京電力株式会社という法人ならびにその業務をうけつぐ法人格に該当する者へ徹底追及しきるべきだ。なぜなら、特にこの資料(ならびに少なくとも各都道府県の発表した計測値)が教える如く、現実にわれわれの郷土はまったく悪意しかない第三者、つまり東京電力株式会社からチェルノブイリ事故をこえたレベルに汚染されたのである。しかも我々には恩恵は何一つも、まったくなくだ。これは完全なる大公害であり、死でつぐなってすら足りない大事件であり大事故、しかも十分な想定できる危機への備えを怠って利潤をおいもとめた悪人らによる人災なのだ。
追記:『国が設定した暫定基準値安全精度の検証』
食品別と放射能別の微差を除いて単純計算では、
500Bq/kg=0.011μSv/kg
(∵http://kamomenome.exblog.jp/14066284/ より
2000 Bq/kg × 2.2×10-8 Sv/Bq = 0.000044 Sv/kg
2000Bp/kg =0.044μSv/kg
∴ 500Bq/kg=0.011μSv/kg )
ここで、一日の摂取kgを2kgと仮定し、われわれ「強制避難」域の一帯に最もありえる危機としてすべて暫定基準値ぎりぎりに汚染されたものだったとすると、1日あたりの内部被曝は0.022μSv。
×365(日) = 8.03(μSv)
かつ、http://overview.blog101.fc2.com/blog-entry-70.html
http://no-micro-wave.seesaa.net/category/9975142-1.html
これらの資料から
一日の摂取kgを2kgと仮定し、同様に「強制避難」域の一帯に最もありえる危機としてすべて暫定基準値ぎりぎりに汚染されたものだったとすると、1日あたりの内部被曝量は9.8μSv×2kg=19.6μSv こちらの方が厳しい値なので採用し、
×365(日) = 7154μSv = 7.154mSv すなわち 年間に最大7ミリシーベルト の内部被曝がありえる。現実にこの場合は少ないとしてもまったく不注意のままだと起こりえることも確かだろう。国の暫定規制値で想定している年間5mSvは、仮にそのまま20年間生活したときに放射能危機の閾値なしモデルによれば、発癌あやうさの上昇がありえると臨床例からはっきりしている100ミリにいたるという判断(20年間、現地で摂取されるのが今日のままの食品でなければ何とかなる)からきていると考えられる。
追記:『暫定基準値食品を継続的に摂取した場合の(チェルノブイリ事故時では強制避難域にある地域における)健康被害の精度ある数理予測』
http://kamomenome.exblog.jp/13553115/ と http://kitaibaraki-guide.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/9-kitashio-c6b0.htmlから、毎時2マイクロシーベルトを通常の空間被曝量とみつもると、この地域での年間被曝量は1.8ミリシーベルトを計測しうる。
=1.8mSv/y
これまでの(すくなくともこの市域の)累積被曝量は http://kamomenome.exblog.jp/14066284/ より、3月14日(月)の午前0時から4月16日(土)の午前0時まで(33日間)で、596.790μSvなので(ここには計測されていなかった3月12日のはじめのメルトダウン時そのものの値が含まれていないのに注意すべきだ。この計算では除くが、のちに(独)日本原子力研究開発機構から発表されたWスピーディの拡散予測データでは厳密には3月12日時点でも周辺住民に被曝量がみつもられるところから、軽視したり無視すべき値ではない。精確な数値が出れば更に加えねばならない)、+0.6ミリシーベルトとして、総被曝量は
=1.8mSv/y + 0.6mSv = 2.4mSV
つまり、前述の年間7mSvという食品による内部被曝量はここに加えられねばならない。
もし年間での変動率をとれば
1.8mSv/y + 7mSv/y = 8.8mSv/y
が、すくなくとも想定できる基本的な年ごとの被曝量(内部被曝を含む)。
仮に現在の暫定基準値のままで通常の食生活を続けて行けば、
100mSv-0.6mSv=99.4mSv
99.4mSv ÷ 8.8mSv/y = 11.295...y ≒ 11y
∴はやくとも11年後には最初の(発癌を含む)健康被害の具体的臨床例が発生する可能性がある。
同様の計算手段でさらに、乳幼児や幼児は4~6倍の被曝による影響があるとしてより厳しくみつもると、
100mSv - 0.6mSv × 6 = 100mSv - 3.6mSv = 96.4mSV
96.4mSv ÷ (8.8mSv/y ×6) = 96.4mSv ÷ 52.8mSv/y = 1.825...y ≒ 2y
つまり、幼児の場合は同様に2年後には最初の(発癌を含む)健康被害の具体的臨床例が発生する可能性がある。
ちなみに幼児において食品のみは外部の汚染されていないものからとりいれ、空間線量のみでの100ミリ超えを予測すると
96.4mSv ÷ (1.8mSv/y × 6) = 96.4mSv ÷ 10.8mSv/y = 8.925...y ≒ 9y
よってこれは現在の状態がつづけば、という仮定だからほかの原発をふくめ再臨界でよりひどい被害をともなったり、あるいは逆に収束しきった場合はのぞくが、既に出生してくらしている幼児と乳幼児についてかれらの9年後には、空間線量のみでも最初の(発癌を含む)健康被害の具体的臨床例が発生する可能性がある。
また96.4mSv ÷ 1.8mSv/y = 53.555...y ≒ 54y ∴成人の場合は54年後には、空間線量のみでも最初の(発癌を含む)健康被害の具体的臨床例が発生する可能性がある。
これらの計算結果は、現在の政府方針が賠償責任のがれを優先させ、国民の命をすこしも、あるいはほとんど重視していないという悪質な性質をしめしあわせている。もし本当に子を持つ親なら、この予測をできる能力があれば、すくなくとも幼児については強制避難を宣言するべきだ。*2
さらに、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BE%E5%B0%84%E7%B7%9A%E9%9A%9C%E5%AE%B3の「蓋然性に関する検討(被曝量と胎児の障害との相関について)」から胎児に生じうる重度の知能遅滞について広島大の例をひけば、暫定基準値ぎりぎりの食事を続けていたという場合を想定すれば4.4%というかなり高い確率がありえる、と考えられる(この調査では5mSvが閾値なのでもしまったく暫定基準値ぎりぎりに達した食品摂取をしなければ0.8%の発生確率。率として3.6%の、胎児の被曝による危機増加があった)。要は、すくなくとも(市内であれ市外であれ)継続的に暫定基準値ぎりぎりの食品を摂取しつづけると、もしそれが妊婦であった場合その出生児には3.6%分の重度の知能遅滞が、人類の過去の経験として発生しうる、といえる。だから逆にいえば、この市内で生活していても初年度である今年に年間2.6ミリシーベルト以下の食品からの内部被曝、そして来年度以降も年間3.2ミリシーベルト以下の食品からの内部被曝にとどめれば、知能遅滞の発生率が特段に上昇する事は経験的かつ過去の臨床例からありえない。*3
さらに安全策をとれば、受胎後0-7週、または26-40週で被爆した人では知能遅滞した新生児発生率の上昇は全く見られなかったという経験から、受胎後8-25週というこの胎児にとって被曝に敏感で重要な期間には妊婦が一切の食物を無被曝のものへきりかえる、という次善のてだてが有効だろう。
こうして、致命的な健康へ及ぼし得る悪因と危険は実は空間線量よりも、‘暫定基準値’という賠償逃れの画策(もし当人ら経産省の高官による確率的危機の軽視がその原因だとしても)であざむかれた汚染食物による内部被曝量だと認識できる。
暫定基準値食品は非人道的な対応である、という面はどれほど強く経産省の事実上の内部組織な状態が続いている原子力安全保安院が非難されても足りない(倫理の堕落という一点へ)し、結局は大公害をおこした主体の東京電力株式会社こそそのすべての賠償責任が追求される相手でなければならない。もし東京電力株式会社さえ自然と人間を(かれらがつくりあげた経済という相互奉仕の為の共通貨幣取引にとっての)めさきの利潤より第一にかんがえるまっとうにして常識ある法人格なら、すべて経産省とその組織の一部であった原子力安全保安院の退廃もみられなかったはずなのだから。ちなみに無限責任会社な以上、かれら法人格を構成するすべての成員(当然、株主総会での経営参与権から株主を含める)の全財産はこの無限責任の範囲に入る。
―――
��1 まあはっきりいえば某都知事ひとりが震災直後に、悪しき利己本性全開に賤しさ極まりないジャイアニズム示したって話にかぎりなく近い(事実上の首都という大義を悪用して被災地を先に停電させようとした。なおかつ以前から仙台都市圏へ教師の奪取などの悪質な警戒を示しておきながら、かなりの悪意ある文脈から単なる自然災害をおのれの悪徳と生前の悪行悪業にかこつけ天罰とほざいた。それらにくわえ、震災直後からみずからの出身地である神戸市の議員と密着して大阪府知事と、避けようもない東北の天災の弱みに付け込む第二首都構想をその都市圏のみの方向で進めさせようとしてきた)が、それは彼の小説と同じくいつものごとくなのでこの際問うまい。結局、現在の日本最大の商業地としての人口過剰な東京都民の総意へ再三示される残念な民度といおうか文明度、市民度の課題にすぎないので多くの読者もしくはかもめ(ハマっ子ではない)にはいわずもがな。それはそれとして、どちらかといえば真の問題はマスコミのほとんどがこの不善(東京資本の横暴もしくは電気を用いた報道権力の濫用)をすこしも認識できなかったことだ。はなはだしい被災をともなった痛々しい歴史の教訓だが、「ジャイアンに付き従う者はおのずとその従僕となる」のである。
この点でも関東圏をこえて人類史の王道を保つ為に、茨城資本が独自のマスメディアを構築し、可能なかぎりその勢力を国際化しておくのが絶対に有力で必需。さもなくばいつでも同じ最悪さが国内で暴走しえるので。なお関西や中京、ほか九州のメディア、あるいは山口県あたりの某資本もこの点では十分な信頼性をもたないか、すくなくとももてていなかった。なぜならほかの下らない番組へはスポンサー契約したり震災直後も平気でかなりくうものにも困りかけていた被災地へ宣伝しておきながら関東の諸番組への冷遇や被災した企業への値切りを平気そうにしたし、それ以前に尊きものをパロディあつかいにからかっているCMを自慢したり、さらには避けようもない公害の犠牲になった善意の農家そのものを揶揄した。かといって東京資本がなにやってたかといえばこっちはこっちで余震に震える死んだ人のいる被災地へAKB選挙ワイドショーを大のおとながみんなでやっててなおひどかった、コメンテーターの悪質なお世辞なんかほとんど死んだ方がいいみたいに見えた。これらのすべては悪徳しか示していないと見えるし、実際に自分の観察が正しければ彼らにはほかの海外(すくなくとも先進国)のマスメディアよりはるかに低い程度のmoralityしかみいだされなかった。辛うじて関西の一部のニュース番組では、中央官僚と中央政府へのほどひどいあてつけや愚弄が徹底したみられた、また近場からきた役者を福島県へ直接配置させ取材した(あるいは当役者からのオファーに着いて行っただけかもしれないが)くらいのはなしだった。
これらの歴史的検証からは、すくなくとも日本国内のどこかしらの他人の資本に頼って公正なマスメディアをつくろうとしてできるものではない。先ずみずからつくりだすにくわえ、海外のマスメディア、特にBBCやCNNとも組み独自の「透明性の高く、偏見の少ない」報道をできる社会体制を築き上げるしか道はない。たとえば茨城新聞すら、現地の市井の一もしくは複数市民とはまったくちがった見方といおうか、当時の新聞をたどればわかるが一週間音沙汰もなかったなにやってんだ市長、税払ってるのはこっちだ、市役所員は市民奉仕そっちのけで保身と官尊民卑でどっち向いてるをなぜだか英雄視させる「事実・客観的真実・真相と異なった」物語みたいな矛盾じみた記事を書いていたのである(おそらく彼ら既存茨城の人口流動性の低さによる環境収容されたいつもの同族意識からの肩を持った偏見で。しかしそれは公正ではないし、かえって相手にもよくないわけだ。「真実の友情とは相手の善を責める事である」)。かれらの実力のなさにくらべて誤解をまねくばかりか真実性をもあまり含んでいない偏見報道によって公式化されれば、すべてはますます危険。震災直後も書いたが、この自治体は高萩市に異論がなければ日立市に編入させた方が善い。職員の知的程度と公僕意識が低すぎるから。勿論、北茨城市そのものには童謡がうまれたことでもわかる平穏素朴な田園都市としての独自のよさがあるが、市役所の職員や高萩署の警察官の低い程度にはその為のすべての条件がととのっていると思えてならない、というかととのっている。たとえば日立北区として広域市政を日立市役所の一部の部署でやってもらうか、すくなくとも日立市役所へその仕事の方向性決定本部、計画局を統合すべきだ。それで役人は自分らよりすぐれた人材をみるにつけすこしは程度が上がるだろうし、日立市そのものにとっては仕事量そのものはどうせ同じ別の市の人たちがやるのだからあまりかわらないが財政規模の拡大によってとりえる選択肢が広がる。
でこれらの実例はすべて資本主義報道の限度、もしくは利潤追求によっては決してjournalist個人の持ち得る強度の真実性を持てないと教える。だから、記者クラブもそこからでて派生していった枝葉のごとき借り物情報では、完全に真相をうがった記事にはならないという集団主義的会社からの報道の仕組みの限界があるわけだ。(当然、当時のツイッターでいくらかみられたことだが、逆にそれを記す個人の質が低い場合は実証的ではないかえってひどい虚偽やかたよった誇張、デマとよばれるだろうそれをもゆるしてしまう問題点があるのだが。)
とかく東京系マスコミではNHKだけは偏った意見や番組を避けていただけいくらかましだったが、残念なことに当時の内閣のひどい状態が反映され、某長官は事実上の虚偽(メルトダウンはしていない)を毎日毎日テレビ会見で流していた。かんがえてもみれば一国の政府、しかも一応は先進国といわれているそこがうそを平気でつきまくったというのがあのときの真実だった(ついた当人の意思にかかわらず)のだから、まことに日本という場所、特に公的機関の紛れ様もない悪質性もしくは愚鈍には注意がいる。なぜ困難な国家試験をへてもそういう体制しかとれないのか、科挙の幣風をまざまざとみせつけるには日中韓の儒教化された国々ほど適切な汚れ役はいないだろう。かれらの中でのよしあしも、また世界規模の政府単位や先進国間では井の中の蛙というわけだ。とはいえフランスやイギリスの官僚制が日本のそれより断然な合理性をもつともいわないが、日本よりはその科挙制からくる特徴が緩和されているのも確からしい(フランスは微妙だが、特にイギリスの内閣と首相直轄機関が学者を外部から招く慣習)。
つまり、その時点の中央政府あるいは国家政府に頼った報道体制はきわめて危険でいつでも情報操作されてしまうというのが歴史の真相だったし、なおかつこの外注はすべてその地域資本、都道府県の偏見に侵され悪用されるのが世界の現実ということだ。アメリカWhite Houseの構築している特定の政府ににぎられるおそれのない独立した情報機器、というものが市民権の意義には絶対に必要だとどれほど強調してもたりない。しかもこうして、日本ではその必要性はかぎりなく高い。
��2 どうしてもできないとき、こどもへ重度の喫煙者かかれらと同居程度の身体の健康への負荷を科している事になる。次のページの「人体に対する影響」を参照せよ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%AB%E6%9B%9D。
��3 ちなみに、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%A6%E3%83%B3%E7%97%87%E5%80%99%E7%BE%A4によれば、通常ありえるダウン症の発生率は母親の出産年齢が25歳で1/1200≒0.08%、30歳で1/880≒0.11%、35歳で1/290≒0.34%、40歳で1/100≒1%、45歳で1/46≒2.17%という研究報告があるらしい。ここからも3.6%の発生確率の上昇という、5mSvの胎児被曝による閾値からの重度知能遅滞の増加率はかなり大きな健康被害になるのがたしか。それはまちがいなく、公害か人災での賠償や、つぐないの対象となりえるものであり、追跡した県内や市内、ならびに東京を含め東日本一帯在住者への健康調査が必要極まりない。かりにこの3.6%の増加がみられた出生児についてこうして緻密に調査をつづけ責任追及しつづけないと、いまの東京電力株式会社の体質では寡占企業特有の傲りから責任を軽視しかれらへの賠償と、ながらくのこころからの事故への謝罪とその反省と体制改善努力から逃れるだけだ。
さらに、ここで臨床医学的にとっている仮説のたちばは、「経時治癒仮説」か「すこしずつなおる仮説」というべき、年間に5ミリシーベルトへ一度に到達しなければその時点までの傷はからだが癒すはず、なるとある楽観をともなった観測だ。もしそうでなければ、生涯の蓄積率として多くの宇宙や航空従事・医療従事の被爆者はそれが原因でおそらくいままでにも亡くなっているはずだからだ。もし運よくこれらの仮説がこの事故のあとで我々の犠牲によって検証されることになるならば、後世の人類は蓄積線量についての臨床例をその医師行為のなかで応用できる、よりはっきりした知見に近づくだろう。
あるネット上に出回っていた資料は次の様なもの(誤字と資料からの引用の不精確さはこっちで修正した)
―――
放射性物質降下量 3月18日~5月7日までの累積
https://spreadsheets.google.com/spreadsheet/pub?hl=en&key=0AjgQ0pwrXV8YdGJORHAzdi1qMlFldUMwRkl4V3VfN0E&hl=en&gid=0 より
単位はMBq/km^2
1位 茨城県(ひたちなか市) 212728
2位 東京都(新宿区) 84940
3位 山形県(山形市) 68692
4位 埼玉県(さいたま市) 68593
5位 栃木県(宇都宮市) 61348
6位 千葉県(市原市) 45786
7位 福島県(福島市) 24151
8位 群馬県(前橋市) 21846
9位 岩手県(盛岡市) 8216
10位 山梨県(甲府市) 8006
11位 神奈川県(茅ヶ崎市) 5772
圏外 チェルノブイリ 3844
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そもそも震災当日からしばらく、まぎれない歴史の真実として、その会社そのものがこの最大の被災地を無視し停電させようとしたのだ。その時点で桜田門外かって次元の話である。ござる。*1
国の調査結果は暫定基準値でごまかそうとしているが、実際のチェルノブイリ以後では我々のくらしていた「強制退去」の範囲でそこで生産された作物を摂取していた者には多くの障害が発生したのがまちがいないのだから、もはや時代の科学水準から言ってもだましきれるものでは決してない。はっきりしているのは、この暫定基準値とやらがどれほど批判されてもされすぎはなく、そもそも安全性を保証するためのしくみではなく、単に賠償責任を悪意ある資本家が逃れようとする意図で決められているという点である。
だから何世代かかってもかならずや全賠償責任を東京電力株式会社という法人ならびにその業務をうけつぐ法人格に該当する者へ徹底追及しきるべきだ。なぜなら、特にこの資料(ならびに少なくとも各都道府県の発表した計測値)が教える如く、現実にわれわれの郷土はまったく悪意しかない第三者、つまり東京電力株式会社からチェルノブイリ事故をこえたレベルに汚染されたのである。しかも我々には恩恵は何一つも、まったくなくだ。これは完全なる大公害であり、死でつぐなってすら足りない大事件であり大事故、しかも十分な想定できる危機への備えを怠って利潤をおいもとめた悪人らによる人災なのだ。
追記:『国が設定した暫定基準値安全精度の検証』
食品別と放射能別の微差を除いて単純計算では、
500Bq/kg=0.011μSv/kg
(∵http://kamomenome.exblog.jp/14066284/ より
2000 Bq/kg × 2.2×10-8 Sv/Bq = 0.000044 Sv/kg
2000Bp/kg =0.044μSv/kg
∴ 500Bq/kg=0.011μSv/kg )
ここで、一日の摂取kgを2kgと仮定し、われわれ「強制避難」域の一帯に最もありえる危機としてすべて暫定基準値ぎりぎりに汚染されたものだったとすると、1日あたりの内部被曝は0.022μSv。
×365(日) = 8.03(μSv)
かつ、http://overview.blog101.fc2.com/blog-entry-70.html
http://no-micro-wave.seesaa.net/category/9975142-1.html
これらの資料から
一日の摂取kgを2kgと仮定し、同様に「強制避難」域の一帯に最もありえる危機としてすべて暫定基準値ぎりぎりに汚染されたものだったとすると、1日あたりの内部被曝量は9.8μSv×2kg=19.6μSv こちらの方が厳しい値なので採用し、
×365(日) = 7154μSv = 7.154mSv すなわち 年間に最大7ミリシーベルト の内部被曝がありえる。現実にこの場合は少ないとしてもまったく不注意のままだと起こりえることも確かだろう。国の暫定規制値で想定している年間5mSvは、仮にそのまま20年間生活したときに放射能危機の閾値なしモデルによれば、発癌あやうさの上昇がありえると臨床例からはっきりしている100ミリにいたるという判断(20年間、現地で摂取されるのが今日のままの食品でなければ何とかなる)からきていると考えられる。
追記:『暫定基準値食品を継続的に摂取した場合の(チェルノブイリ事故時では強制避難域にある地域における)健康被害の精度ある数理予測』
http://kamomenome.exblog.jp/13553115/ と http://kitaibaraki-guide.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/9-kitashio-c6b0.htmlから、毎時2マイクロシーベルトを通常の空間被曝量とみつもると、この地域での年間被曝量は1.8ミリシーベルトを計測しうる。
=1.8mSv/y
これまでの(すくなくともこの市域の)累積被曝量は http://kamomenome.exblog.jp/14066284/ より、3月14日(月)の午前0時から4月16日(土)の午前0時まで(33日間)で、596.790μSvなので(ここには計測されていなかった3月12日のはじめのメルトダウン時そのものの値が含まれていないのに注意すべきだ。この計算では除くが、のちに(独)日本原子力研究開発機構から発表されたWスピーディの拡散予測データでは厳密には3月12日時点でも周辺住民に被曝量がみつもられるところから、軽視したり無視すべき値ではない。精確な数値が出れば更に加えねばならない)、+0.6ミリシーベルトとして、総被曝量は
=1.8mSv/y + 0.6mSv = 2.4mSV
つまり、前述の年間7mSvという食品による内部被曝量はここに加えられねばならない。
もし年間での変動率をとれば
1.8mSv/y + 7mSv/y = 8.8mSv/y
が、すくなくとも想定できる基本的な年ごとの被曝量(内部被曝を含む)。
仮に現在の暫定基準値のままで通常の食生活を続けて行けば、
100mSv-0.6mSv=99.4mSv
99.4mSv ÷ 8.8mSv/y = 11.295...y ≒ 11y
∴はやくとも11年後には最初の(発癌を含む)健康被害の具体的臨床例が発生する可能性がある。
同様の計算手段でさらに、乳幼児や幼児は4~6倍の被曝による影響があるとしてより厳しくみつもると、
100mSv - 0.6mSv × 6 = 100mSv - 3.6mSv = 96.4mSV
96.4mSv ÷ (8.8mSv/y ×6) = 96.4mSv ÷ 52.8mSv/y = 1.825...y ≒ 2y
つまり、幼児の場合は同様に2年後には最初の(発癌を含む)健康被害の具体的臨床例が発生する可能性がある。
ちなみに幼児において食品のみは外部の汚染されていないものからとりいれ、空間線量のみでの100ミリ超えを予測すると
96.4mSv ÷ (1.8mSv/y × 6) = 96.4mSv ÷ 10.8mSv/y = 8.925...y ≒ 9y
よってこれは現在の状態がつづけば、という仮定だからほかの原発をふくめ再臨界でよりひどい被害をともなったり、あるいは逆に収束しきった場合はのぞくが、既に出生してくらしている幼児と乳幼児についてかれらの9年後には、空間線量のみでも最初の(発癌を含む)健康被害の具体的臨床例が発生する可能性がある。
また96.4mSv ÷ 1.8mSv/y = 53.555...y ≒ 54y ∴成人の場合は54年後には、空間線量のみでも最初の(発癌を含む)健康被害の具体的臨床例が発生する可能性がある。
これらの計算結果は、現在の政府方針が賠償責任のがれを優先させ、国民の命をすこしも、あるいはほとんど重視していないという悪質な性質をしめしあわせている。もし本当に子を持つ親なら、この予測をできる能力があれば、すくなくとも幼児については強制避難を宣言するべきだ。*2
さらに、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BE%E5%B0%84%E7%B7%9A%E9%9A%9C%E5%AE%B3の「蓋然性に関する検討(被曝量と胎児の障害との相関について)」から胎児に生じうる重度の知能遅滞について広島大の例をひけば、暫定基準値ぎりぎりの食事を続けていたという場合を想定すれば4.4%というかなり高い確率がありえる、と考えられる(この調査では5mSvが閾値なのでもしまったく暫定基準値ぎりぎりに達した食品摂取をしなければ0.8%の発生確率。率として3.6%の、胎児の被曝による危機増加があった)。要は、すくなくとも(市内であれ市外であれ)継続的に暫定基準値ぎりぎりの食品を摂取しつづけると、もしそれが妊婦であった場合その出生児には3.6%分の重度の知能遅滞が、人類の過去の経験として発生しうる、といえる。だから逆にいえば、この市内で生活していても初年度である今年に年間2.6ミリシーベルト以下の食品からの内部被曝、そして来年度以降も年間3.2ミリシーベルト以下の食品からの内部被曝にとどめれば、知能遅滞の発生率が特段に上昇する事は経験的かつ過去の臨床例からありえない。*3
さらに安全策をとれば、受胎後0-7週、または26-40週で被爆した人では知能遅滞した新生児発生率の上昇は全く見られなかったという経験から、受胎後8-25週というこの胎児にとって被曝に敏感で重要な期間には妊婦が一切の食物を無被曝のものへきりかえる、という次善のてだてが有効だろう。
こうして、致命的な健康へ及ぼし得る悪因と危険は実は空間線量よりも、‘暫定基準値’という賠償逃れの画策(もし当人ら経産省の高官による確率的危機の軽視がその原因だとしても)であざむかれた汚染食物による内部被曝量だと認識できる。
暫定基準値食品は非人道的な対応である、という面はどれほど強く経産省の事実上の内部組織な状態が続いている原子力安全保安院が非難されても足りない(倫理の堕落という一点へ)し、結局は大公害をおこした主体の東京電力株式会社こそそのすべての賠償責任が追求される相手でなければならない。もし東京電力株式会社さえ自然と人間を(かれらがつくりあげた経済という相互奉仕の為の共通貨幣取引にとっての)めさきの利潤より第一にかんがえるまっとうにして常識ある法人格なら、すべて経産省とその組織の一部であった原子力安全保安院の退廃もみられなかったはずなのだから。ちなみに無限責任会社な以上、かれら法人格を構成するすべての成員(当然、株主総会での経営参与権から株主を含める)の全財産はこの無限責任の範囲に入る。
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��1 まあはっきりいえば某都知事ひとりが震災直後に、悪しき利己本性全開に賤しさ極まりないジャイアニズム示したって話にかぎりなく近い(事実上の首都という大義を悪用して被災地を先に停電させようとした。なおかつ以前から仙台都市圏へ教師の奪取などの悪質な警戒を示しておきながら、かなりの悪意ある文脈から単なる自然災害をおのれの悪徳と生前の悪行悪業にかこつけ天罰とほざいた。それらにくわえ、震災直後からみずからの出身地である神戸市の議員と密着して大阪府知事と、避けようもない東北の天災の弱みに付け込む第二首都構想をその都市圏のみの方向で進めさせようとしてきた)が、それは彼の小説と同じくいつものごとくなのでこの際問うまい。結局、現在の日本最大の商業地としての人口過剰な東京都民の総意へ再三示される残念な民度といおうか文明度、市民度の課題にすぎないので多くの読者もしくはかもめ(ハマっ子ではない)にはいわずもがな。それはそれとして、どちらかといえば真の問題はマスコミのほとんどがこの不善(東京資本の横暴もしくは電気を用いた報道権力の濫用)をすこしも認識できなかったことだ。はなはだしい被災をともなった痛々しい歴史の教訓だが、「ジャイアンに付き従う者はおのずとその従僕となる」のである。
この点でも関東圏をこえて人類史の王道を保つ為に、茨城資本が独自のマスメディアを構築し、可能なかぎりその勢力を国際化しておくのが絶対に有力で必需。さもなくばいつでも同じ最悪さが国内で暴走しえるので。なお関西や中京、ほか九州のメディア、あるいは山口県あたりの某資本もこの点では十分な信頼性をもたないか、すくなくとももてていなかった。なぜならほかの下らない番組へはスポンサー契約したり震災直後も平気でかなりくうものにも困りかけていた被災地へ宣伝しておきながら関東の諸番組への冷遇や被災した企業への値切りを平気そうにしたし、それ以前に尊きものをパロディあつかいにからかっているCMを自慢したり、さらには避けようもない公害の犠牲になった善意の農家そのものを揶揄した。かといって東京資本がなにやってたかといえばこっちはこっちで余震に震える死んだ人のいる被災地へAKB選挙ワイドショーを大のおとながみんなでやっててなおひどかった、コメンテーターの悪質なお世辞なんかほとんど死んだ方がいいみたいに見えた。これらのすべては悪徳しか示していないと見えるし、実際に自分の観察が正しければ彼らにはほかの海外(すくなくとも先進国)のマスメディアよりはるかに低い程度のmoralityしかみいだされなかった。辛うじて関西の一部のニュース番組では、中央官僚と中央政府へのほどひどいあてつけや愚弄が徹底したみられた、また近場からきた役者を福島県へ直接配置させ取材した(あるいは当役者からのオファーに着いて行っただけかもしれないが)くらいのはなしだった。
これらの歴史的検証からは、すくなくとも日本国内のどこかしらの他人の資本に頼って公正なマスメディアをつくろうとしてできるものではない。先ずみずからつくりだすにくわえ、海外のマスメディア、特にBBCやCNNとも組み独自の「透明性の高く、偏見の少ない」報道をできる社会体制を築き上げるしか道はない。たとえば茨城新聞すら、現地の市井の一もしくは複数市民とはまったくちがった見方といおうか、当時の新聞をたどればわかるが一週間音沙汰もなかったなにやってんだ市長、税払ってるのはこっちだ、市役所員は市民奉仕そっちのけで保身と官尊民卑でどっち向いてるをなぜだか英雄視させる「事実・客観的真実・真相と異なった」物語みたいな矛盾じみた記事を書いていたのである(おそらく彼ら既存茨城の人口流動性の低さによる環境収容されたいつもの同族意識からの肩を持った偏見で。しかしそれは公正ではないし、かえって相手にもよくないわけだ。「真実の友情とは相手の善を責める事である」)。かれらの実力のなさにくらべて誤解をまねくばかりか真実性をもあまり含んでいない偏見報道によって公式化されれば、すべてはますます危険。震災直後も書いたが、この自治体は高萩市に異論がなければ日立市に編入させた方が善い。職員の知的程度と公僕意識が低すぎるから。勿論、北茨城市そのものには童謡がうまれたことでもわかる平穏素朴な田園都市としての独自のよさがあるが、市役所の職員や高萩署の警察官の低い程度にはその為のすべての条件がととのっていると思えてならない、というかととのっている。たとえば日立北区として広域市政を日立市役所の一部の部署でやってもらうか、すくなくとも日立市役所へその仕事の方向性決定本部、計画局を統合すべきだ。それで役人は自分らよりすぐれた人材をみるにつけすこしは程度が上がるだろうし、日立市そのものにとっては仕事量そのものはどうせ同じ別の市の人たちがやるのだからあまりかわらないが財政規模の拡大によってとりえる選択肢が広がる。
でこれらの実例はすべて資本主義報道の限度、もしくは利潤追求によっては決してjournalist個人の持ち得る強度の真実性を持てないと教える。だから、記者クラブもそこからでて派生していった枝葉のごとき借り物情報では、完全に真相をうがった記事にはならないという集団主義的会社からの報道の仕組みの限界があるわけだ。(当然、当時のツイッターでいくらかみられたことだが、逆にそれを記す個人の質が低い場合は実証的ではないかえってひどい虚偽やかたよった誇張、デマとよばれるだろうそれをもゆるしてしまう問題点があるのだが。)
とかく東京系マスコミではNHKだけは偏った意見や番組を避けていただけいくらかましだったが、残念なことに当時の内閣のひどい状態が反映され、某長官は事実上の虚偽(メルトダウンはしていない)を毎日毎日テレビ会見で流していた。かんがえてもみれば一国の政府、しかも一応は先進国といわれているそこがうそを平気でつきまくったというのがあのときの真実だった(ついた当人の意思にかかわらず)のだから、まことに日本という場所、特に公的機関の紛れ様もない悪質性もしくは愚鈍には注意がいる。なぜ困難な国家試験をへてもそういう体制しかとれないのか、科挙の幣風をまざまざとみせつけるには日中韓の儒教化された国々ほど適切な汚れ役はいないだろう。かれらの中でのよしあしも、また世界規模の政府単位や先進国間では井の中の蛙というわけだ。とはいえフランスやイギリスの官僚制が日本のそれより断然な合理性をもつともいわないが、日本よりはその科挙制からくる特徴が緩和されているのも確からしい(フランスは微妙だが、特にイギリスの内閣と首相直轄機関が学者を外部から招く慣習)。
つまり、その時点の中央政府あるいは国家政府に頼った報道体制はきわめて危険でいつでも情報操作されてしまうというのが歴史の真相だったし、なおかつこの外注はすべてその地域資本、都道府県の偏見に侵され悪用されるのが世界の現実ということだ。アメリカWhite Houseの構築している特定の政府ににぎられるおそれのない独立した情報機器、というものが市民権の意義には絶対に必要だとどれほど強調してもたりない。しかもこうして、日本ではその必要性はかぎりなく高い。
��2 どうしてもできないとき、こどもへ重度の喫煙者かかれらと同居程度の身体の健康への負荷を科している事になる。次のページの「人体に対する影響」を参照せよ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%AB%E6%9B%9D。
��3 ちなみに、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%A6%E3%83%B3%E7%97%87%E5%80%99%E7%BE%A4によれば、通常ありえるダウン症の発生率は母親の出産年齢が25歳で1/1200≒0.08%、30歳で1/880≒0.11%、35歳で1/290≒0.34%、40歳で1/100≒1%、45歳で1/46≒2.17%という研究報告があるらしい。ここからも3.6%の発生確率の上昇という、5mSvの胎児被曝による閾値からの重度知能遅滞の増加率はかなり大きな健康被害になるのがたしか。それはまちがいなく、公害か人災での賠償や、つぐないの対象となりえるものであり、追跡した県内や市内、ならびに東京を含め東日本一帯在住者への健康調査が必要極まりない。かりにこの3.6%の増加がみられた出生児についてこうして緻密に調査をつづけ責任追及しつづけないと、いまの東京電力株式会社の体質では寡占企業特有の傲りから責任を軽視しかれらへの賠償と、ながらくのこころからの事故への謝罪とその反省と体制改善努力から逃れるだけだ。
さらに、ここで臨床医学的にとっている仮説のたちばは、「経時治癒仮説」か「すこしずつなおる仮説」というべき、年間に5ミリシーベルトへ一度に到達しなければその時点までの傷はからだが癒すはず、なるとある楽観をともなった観測だ。もしそうでなければ、生涯の蓄積率として多くの宇宙や航空従事・医療従事の被爆者はそれが原因でおそらくいままでにも亡くなっているはずだからだ。もし運よくこれらの仮説がこの事故のあとで我々の犠牲によって検証されることになるならば、後世の人類は蓄積線量についての臨床例をその医師行為のなかで応用できる、よりはっきりした知見に近づくだろう。
2011年9月28日
茨城マキャベリズム論
魅力度を‘愛される’という女性的形質からの評価と解釈するに、マキャベリズムの通り、我々の県政はどちらかといえば政治的優位にあると結論できる。
だからその福井出身の一研究所となのる市井人が調査して毎年発表する確証偏見な調査は、第一に無視してよく、第二にどうしても対処しなければならないなら消極策として「愛されないまでも憎まれることを絶対に避ける」というたちばでいなすべきである。
県政が何だか対策室までつくってるってはなし。これはよくない。無視した方がいいのだから。根本として嫌われすぎるのは賢明ではない、って判断なんだろうけど、マキャベリズムが現実のあらゆる政治場面で活きている以上それを追求する費用も考慮すべきです。*1
だから自分がおもうにはあの愛想注力は侍の末裔には無理ってか逆の職能なので(某blogによれば書いてる茨城系男子も自覚してるらしいが)、同じ労力つかうならそれらを完全にコピーライターやらコンサルタントへ外注して、公費を任せられてる防衛者はさっさと防衛力の強化につとめていただきたい。シェルター建設や複数以上の避難路と、国際化された多重な協力関係の構築、そして米軍含め自衛隊などに頼りきらない十二分な武具(戦闘機も情報機器と捜索機関の現代化も含む)や戦時医療の研究開発と輸入。等など。
実際その方が既存の水戸藩的雄藩気質の貫徹でも行革の王道でもあり、‘サブカルでの俗受けあれど比弱で萎えきった、悪い意味で女じみたエコアニとからかわれてきた情けない’日本国全体、乃至有能な中央官僚からみてさえもありがたいに違いない。とか安易に公然いうとヒステリックな江戸っ子マスコミから都知事以外袋にされるからこそっとなのだが。
最低でも疎まれない品位を保つ程度に芸術家を褒章しておけばよい。その意味ではもともと冷たく皮肉で紳士ぶった尊大な國もしくは著しく残忍か野卑またはフランスやイタリアなど大陸から趣味の格下だとすらながらく思われていた、ショック賞や英国ゴールドメダルをつくりだしたイギリスの近い衰退対策に習うべき点が、水戸っぽは多い。鴎は。
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��1 政治の眼でみれば地味さで葉隠れ佐賀と最下位争いしてくのも面白いはなしだ。実際、その方が暮らし心地がよい、というのが定着している人間には間違いないのだから。人口密度も低くとどまるし、どちらかといえば非観光地の地元客への奉仕地域は客層の質を確保できるためいつも綺麗に保たれる。
もし不利な点だけ改良したくば、「経済特区」構想によって、たとえだけど水戸市・土浦市・つくば市・日立市、これらのどこか又はすべての一部区画だけは仙台や上海、横浜や西新宿、をこえる都市計画の建築規制のレートをかえた超高層ビル群として解放するとかのはなしではないでしょうか。自分の想定だけど、一応は水戸市に行政区の面で含めるとかの場合も含め、大洗町の付近が適切ではないだろうか。自分が知るかぎり水戸っぽは商都向きの気質ではないにも関わらず県都を今はになっているので、この役割分業から政治都市である水戸と、商業都市系のそれを分離するのが合理だから。こうすればいまの県庁あたりが中間地帯となってどちらの利点も得られる可能性が高い。漁業圏とのすみわけさえできれば。元が商業性の高い都市なので霞ケ浦にほど近い土浦もいいけど、どちらかといえば海運があるとあらゆる利点が高いのも確かではないだろうか。だから土浦辺りはむしろ空港との関連づけによって別の展開をとる方がいい気がする。それに、蓮根畑や一面に広がる田ん圃から眺められる筑波山の首都圏人にとってのリクリエーション効果も入る。たとえばIT関連のじか出荷工場やハイテク産業流通拠点の集積策とか、彼らの職住近接化した田園つきのゆとりある居住区、要は空港(もしイバクー以外でも)にすぐいける利点を最大限にいかす都市計画が必要ではないか。
横浜や神戸や仙台が、神奈川や兵庫や宮城の公的イメージにあたえる力、これはきわめて大きい。だからシンボライズできる超最先端の超高層群と新規開発のみに特化した一大新都市をどこかへ一箇所集中してつくりあげる、ってのは他から全体を違った眼でみさせ得させると思う。上海がない中国は本当に違う國になる様に。
だからその福井出身の一研究所となのる市井人が調査して毎年発表する確証偏見な調査は、第一に無視してよく、第二にどうしても対処しなければならないなら消極策として「愛されないまでも憎まれることを絶対に避ける」というたちばでいなすべきである。
県政が何だか対策室までつくってるってはなし。これはよくない。無視した方がいいのだから。根本として嫌われすぎるのは賢明ではない、って判断なんだろうけど、マキャベリズムが現実のあらゆる政治場面で活きている以上それを追求する費用も考慮すべきです。*1
だから自分がおもうにはあの愛想注力は侍の末裔には無理ってか逆の職能なので(某blogによれば書いてる茨城系男子も自覚してるらしいが)、同じ労力つかうならそれらを完全にコピーライターやらコンサルタントへ外注して、公費を任せられてる防衛者はさっさと防衛力の強化につとめていただきたい。シェルター建設や複数以上の避難路と、国際化された多重な協力関係の構築、そして米軍含め自衛隊などに頼りきらない十二分な武具(戦闘機も情報機器と捜索機関の現代化も含む)や戦時医療の研究開発と輸入。等など。
実際その方が既存の水戸藩的雄藩気質の貫徹でも行革の王道でもあり、‘サブカルでの俗受けあれど比弱で萎えきった、悪い意味で女じみたエコアニとからかわれてきた情けない’日本国全体、乃至有能な中央官僚からみてさえもありがたいに違いない。とか安易に公然いうとヒステリックな江戸っ子マスコミから都知事以外袋にされるからこそっとなのだが。
最低でも疎まれない品位を保つ程度に芸術家を褒章しておけばよい。その意味ではもともと冷たく皮肉で紳士ぶった尊大な國もしくは著しく残忍か野卑またはフランスやイタリアなど大陸から趣味の格下だとすらながらく思われていた、ショック賞や英国ゴールドメダルをつくりだしたイギリスの近い衰退対策に習うべき点が、水戸っぽは多い。鴎は。
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��1 政治の眼でみれば地味さで葉隠れ佐賀と最下位争いしてくのも面白いはなしだ。実際、その方が暮らし心地がよい、というのが定着している人間には間違いないのだから。人口密度も低くとどまるし、どちらかといえば非観光地の地元客への奉仕地域は客層の質を確保できるためいつも綺麗に保たれる。
もし不利な点だけ改良したくば、「経済特区」構想によって、たとえだけど水戸市・土浦市・つくば市・日立市、これらのどこか又はすべての一部区画だけは仙台や上海、横浜や西新宿、をこえる都市計画の建築規制のレートをかえた超高層ビル群として解放するとかのはなしではないでしょうか。自分の想定だけど、一応は水戸市に行政区の面で含めるとかの場合も含め、大洗町の付近が適切ではないだろうか。自分が知るかぎり水戸っぽは商都向きの気質ではないにも関わらず県都を今はになっているので、この役割分業から政治都市である水戸と、商業都市系のそれを分離するのが合理だから。こうすればいまの県庁あたりが中間地帯となってどちらの利点も得られる可能性が高い。漁業圏とのすみわけさえできれば。元が商業性の高い都市なので霞ケ浦にほど近い土浦もいいけど、どちらかといえば海運があるとあらゆる利点が高いのも確かではないだろうか。だから土浦辺りはむしろ空港との関連づけによって別の展開をとる方がいい気がする。それに、蓮根畑や一面に広がる田ん圃から眺められる筑波山の首都圏人にとってのリクリエーション効果も入る。たとえばIT関連のじか出荷工場やハイテク産業流通拠点の集積策とか、彼らの職住近接化した田園つきのゆとりある居住区、要は空港(もしイバクー以外でも)にすぐいける利点を最大限にいかす都市計画が必要ではないか。
横浜や神戸や仙台が、神奈川や兵庫や宮城の公的イメージにあたえる力、これはきわめて大きい。だからシンボライズできる超最先端の超高層群と新規開発のみに特化した一大新都市をどこかへ一箇所集中してつくりあげる、ってのは他から全体を違った眼でみさせ得させると思う。上海がない中国は本当に違う國になる様に。
2011年9月25日
資本主義ぶったくだらない看板
中郷の郊外型店舗ができたあたりの側溝というか、暗渠みたいな扱いをうけつつある水路はなにかしら美化ほどこすべきなんじゃないかとおもう。東京なんか本当にドブあつかいされた暗渠は悲惨だ。花植えるなり。
あれは子供の心象に悪い。人工物の美が自然のそれにまさることはほとんどない、というのがカント哲学の崇高論の本質だとして。
大体、中郷第一小学校のすぐとなりが近隣商業地区系の突如出現した建物でうめつくされえるという現状も狂ってるはなしで、都市計画課の手抜きではないかと思うってか確信系。どっちもくだらんはなしで、団塊加減は手に負えないとしか結論できない。レベルが。
自分の記憶にあるあのあたりの水田は、いまから10年前には綺麗な、小学生の指に乗るくらいのちいさな緑のひきがえるが住んでいる側溝があった。もしくは緑の草葉だった。
いまはたえまなく車のゆきかう誰からも見向きされない暗渠になりつつある。それをなんとも感じない粗野にして乱雑な連中がふえていくのは文化の退化ではないのか?
地方への郊外型店舗の侵略はとある国法の規制撤廃が原因らしい。そこにはどこかしらの政商的意図が裏で絡んでいるのはまちがいないが、いくらなんでもひどい、という事例が大分多いのも。
例。よかれとおもってるのが一層たちわるいのだが、平和な田ん圃にいきなりマクドナルドの馬鹿目立つ看板をぶち起てる。天心記念美術館へいく道にも起てやがった。わざわざ遠出してくる観光客をがっかりさせてまで世俗へひきもどしたい?
繰り返すが(おもに肥満の原因となったと訴訟したアメリカ人以外には繰り返すまでもないが)、マクドナルドの食い物は全般としてよくない。何かほめられることがあるのだろうか、って次元。すぐ目の前には前からコンビニあったわけで、板東太郎も出現したからにはいまやはやさですらないが?
そもそも高萩駅前にはいまから15年前にあったわけで、わざわざ15年遅れですぐ隣町へもってきて誰にせよもはや飽き飽きして見る必要もない景観破壊看板あたりかまわず出しまくるという人を完全に馬鹿にしているとしかおもえないことを平気でやってくる連中。まことに下劣なる資本主義文化の権化。とはいえかれらはそれをアイデンティティにしてるのが最悪なのだが。
��00%景観破壊と伝統軽視と文化破壊しか意図していないマクドナルドやらそれらの郊外型店舗の無際限侵略は、本当に見るも無残にして残念な、軽薄なる大衆化サブカル時代をつくりだしている。
地方の条例で、無理にでも看板や立地に相当の規制をかけるしか有効な対策はないだろう。この時代はあと30年から15年以内にひとかげのない廃墟と更地だけをのこしていくはず。そうなってから再び農地へ回復することが難しそうなかぎり、広大な土地をもつ者の節操はその地域史を長期でみて左右する。
あれらの店舗跡地はいまの海側の国道沿いの荒廃地とおなじ宿命をたどるだろうし、避けようもない。少なくともその(解体されない店舗含む)転用もはじめから視野に入れていなければ、あれらの虫食いじみた乱開発は文化としては決してほめられた将来性のもとにはないはず。
あれは子供の心象に悪い。人工物の美が自然のそれにまさることはほとんどない、というのがカント哲学の崇高論の本質だとして。
大体、中郷第一小学校のすぐとなりが近隣商業地区系の突如出現した建物でうめつくされえるという現状も狂ってるはなしで、都市計画課の手抜きではないかと思うってか確信系。どっちもくだらんはなしで、団塊加減は手に負えないとしか結論できない。レベルが。
自分の記憶にあるあのあたりの水田は、いまから10年前には綺麗な、小学生の指に乗るくらいのちいさな緑のひきがえるが住んでいる側溝があった。もしくは緑の草葉だった。
いまはたえまなく車のゆきかう誰からも見向きされない暗渠になりつつある。それをなんとも感じない粗野にして乱雑な連中がふえていくのは文化の退化ではないのか?
地方への郊外型店舗の侵略はとある国法の規制撤廃が原因らしい。そこにはどこかしらの政商的意図が裏で絡んでいるのはまちがいないが、いくらなんでもひどい、という事例が大分多いのも。
例。よかれとおもってるのが一層たちわるいのだが、平和な田ん圃にいきなりマクドナルドの馬鹿目立つ看板をぶち起てる。天心記念美術館へいく道にも起てやがった。わざわざ遠出してくる観光客をがっかりさせてまで世俗へひきもどしたい?
繰り返すが(おもに肥満の原因となったと訴訟したアメリカ人以外には繰り返すまでもないが)、マクドナルドの食い物は全般としてよくない。何かほめられることがあるのだろうか、って次元。すぐ目の前には前からコンビニあったわけで、板東太郎も出現したからにはいまやはやさですらないが?
そもそも高萩駅前にはいまから15年前にあったわけで、わざわざ15年遅れですぐ隣町へもってきて誰にせよもはや飽き飽きして見る必要もない景観破壊看板あたりかまわず出しまくるという人を完全に馬鹿にしているとしかおもえないことを平気でやってくる連中。まことに下劣なる資本主義文化の権化。とはいえかれらはそれをアイデンティティにしてるのが最悪なのだが。
��00%景観破壊と伝統軽視と文化破壊しか意図していないマクドナルドやらそれらの郊外型店舗の無際限侵略は、本当に見るも無残にして残念な、軽薄なる大衆化サブカル時代をつくりだしている。
地方の条例で、無理にでも看板や立地に相当の規制をかけるしか有効な対策はないだろう。この時代はあと30年から15年以内にひとかげのない廃墟と更地だけをのこしていくはず。そうなってから再び農地へ回復することが難しそうなかぎり、広大な土地をもつ者の節操はその地域史を長期でみて左右する。
あれらの店舗跡地はいまの海側の国道沿いの荒廃地とおなじ宿命をたどるだろうし、避けようもない。少なくともその(解体されない店舗含む)転用もはじめから視野に入れていなければ、あれらの虫食いじみた乱開発は文化としては決してほめられた将来性のもとにはないはず。
2011年9月19日
おおきな都市公園による復興計画
大津や平潟、磯原の雨情記念館あたりはもし居住放棄者がでれば市が買い取って海の見える砂浜公園みたいにすればいいと思う。*1
ただし、また住みたいという人は、建築条例でピロティを義務づける。
こうすればここにもう一度住む人は広い公園にかこまれて住み心地はずっとよくなるだろうし、市から補填される買い上げ資金での移住よりあやうさをとってでも再び自分の土地所有権を守る魅力もでてくる。
そもそもこの方式が有効なのは、海岸線の後退(つまり陸地の浸食)がおそらく、これから数百年つづくからどうせ居住放棄はしなければならないか、またはインドネシアやヴェネチアみたいにどうしても住みつづけたいなら海上住宅化するしかなくなる確率がこれからさき高いから。温暖化でかもめも大迷惑。というほどではない。
この計画(読んで字のとおり磯原公園化計画となづける)は、さらに「有料公園化」すると一層、都市公園として効用が高い。
一般に有料公園は中がごく綺麗に保たれる。当然、毎日清掃と美化作業をひとを専用に雇って行えるからだが、それに加え施設や花壇などの増強もでき、なかにちょっとした休憩所(喫茶程度か、自販機と展望できるデッキスペース)などをもうければ市に定常収入まであるのだからやった方がいい。入場料は子ども一人100円学生300円大人500円とかで一帯は海水浴場と隣接させ、夏はそっちと行き来のゲートも開くとか。日用できる地元民のためには年間1500円のやどかりパスポート、基本的飲み物と駐車券自由で3000円のかもめパスポート発行とかだ。これは運動場や憩いの場が少ない狭い市にとっては救いだし高校生もサボってつまらんサブカル買い物映画いかなくなるわおおうなばらをながめ心が広くなり多少荒れなくもなれば、災い転じてこういう機会にしか、GHQ農地改革以来のきわめて広い公有地はもてない。
一部には(可能ならばデザインを公募して、また審査は公開か投票させ、この市の不透明指名発注な土建票型公共物ではそうありがちだからできるかぎり野暮ったくならない)津波慰霊碑をたてればいいだろう。これは観光客にも「なぜ公園ができたか」「どうして天皇が震災直後お参りにきたか」を教えておとずれたひとへ過去におもいをはせさせ、次世代が津波と原発事故を伴う大地震による被災の悲惨を安易に忘れその貴重な場を悪用させないためでもある。
―――
��1 現物の砂浜じゃなくても(砂丘みたいになるだろうから)それに似た素材でもいいが、東京のお台場埠頭や大川端リバーシティ21の公園などでの実例があるけどにせの砂浜というものはあまり気分のいいものではない。
波の浸食での砂浜のかたちの変形、その洗い流しの効果によるまっさらな海岸線のたえまない復活という現象が、いまの段階では再現できていないから、もある。だから人工の砂浜まがい素材での偽物海岸線というのはきたなくなる、とかんがえていい。中郷の足洗や大津の風船爆弾跡あたりの「無垢な」海岸が最も参考になる。
現磯原海岸はテトラポッドで波をよわめ海水浴場化したのであの程度の砂浜の状態だが、完全に放置するとこのあたりの砂浜は理想的に綺麗になっていく。
この「砂浜を放置することによる美化」というのが磯原公園化の最も重要な骨。だからそういう工事のためには、防波堤を国道がわまで後退させ、むしろ砂浜のがわを広げるといいとおもわれる。海浜工学として。
さらに、テトラポッドは座れるくらいの椅子がわりに使える。これは一つの「なにもない綺麗な砂浜」をつくりなおすわざとして。なにかしら海岸線に段差とか降りていける階段とかそういうのを、土木のみの業者はコンクリートでつくりたがるけど、どちらかといえばなにもない海岸の方が人々の心をまっさらに洗う。そういう場所は、人が入れる場所では全国をめぐると意外や少ないというか、無意識的ケインジアンだらけの土建国家ジャパンにはほとんどないものだ。
ただし、また住みたいという人は、建築条例でピロティを義務づける。
こうすればここにもう一度住む人は広い公園にかこまれて住み心地はずっとよくなるだろうし、市から補填される買い上げ資金での移住よりあやうさをとってでも再び自分の土地所有権を守る魅力もでてくる。
そもそもこの方式が有効なのは、海岸線の後退(つまり陸地の浸食)がおそらく、これから数百年つづくからどうせ居住放棄はしなければならないか、またはインドネシアやヴェネチアみたいにどうしても住みつづけたいなら海上住宅化するしかなくなる確率がこれからさき高いから。温暖化でかもめも大迷惑。というほどではない。
この計画(読んで字のとおり磯原公園化計画となづける)は、さらに「有料公園化」すると一層、都市公園として効用が高い。
一般に有料公園は中がごく綺麗に保たれる。当然、毎日清掃と美化作業をひとを専用に雇って行えるからだが、それに加え施設や花壇などの増強もでき、なかにちょっとした休憩所(喫茶程度か、自販機と展望できるデッキスペース)などをもうければ市に定常収入まであるのだからやった方がいい。入場料は子ども一人100円学生300円大人500円とかで一帯は海水浴場と隣接させ、夏はそっちと行き来のゲートも開くとか。日用できる地元民のためには年間1500円のやどかりパスポート、基本的飲み物と駐車券自由で3000円のかもめパスポート発行とかだ。これは運動場や憩いの場が少ない狭い市にとっては救いだし高校生もサボってつまらんサブカル買い物映画いかなくなるわおおうなばらをながめ心が広くなり多少荒れなくもなれば、災い転じてこういう機会にしか、GHQ農地改革以来のきわめて広い公有地はもてない。
一部には(可能ならばデザインを公募して、また審査は公開か投票させ、この市の不透明指名発注な土建票型公共物ではそうありがちだからできるかぎり野暮ったくならない)津波慰霊碑をたてればいいだろう。これは観光客にも「なぜ公園ができたか」「どうして天皇が震災直後お参りにきたか」を教えておとずれたひとへ過去におもいをはせさせ、次世代が津波と原発事故を伴う大地震による被災の悲惨を安易に忘れその貴重な場を悪用させないためでもある。
―――
��1 現物の砂浜じゃなくても(砂丘みたいになるだろうから)それに似た素材でもいいが、東京のお台場埠頭や大川端リバーシティ21の公園などでの実例があるけどにせの砂浜というものはあまり気分のいいものではない。
波の浸食での砂浜のかたちの変形、その洗い流しの効果によるまっさらな海岸線のたえまない復活という現象が、いまの段階では再現できていないから、もある。だから人工の砂浜まがい素材での偽物海岸線というのはきたなくなる、とかんがえていい。中郷の足洗や大津の風船爆弾跡あたりの「無垢な」海岸が最も参考になる。
現磯原海岸はテトラポッドで波をよわめ海水浴場化したのであの程度の砂浜の状態だが、完全に放置するとこのあたりの砂浜は理想的に綺麗になっていく。
この「砂浜を放置することによる美化」というのが磯原公園化の最も重要な骨。だからそういう工事のためには、防波堤を国道がわまで後退させ、むしろ砂浜のがわを広げるといいとおもわれる。海浜工学として。
さらに、テトラポッドは座れるくらいの椅子がわりに使える。これは一つの「なにもない綺麗な砂浜」をつくりなおすわざとして。なにかしら海岸線に段差とか降りていける階段とかそういうのを、土木のみの業者はコンクリートでつくりたがるけど、どちらかといえばなにもない海岸の方が人々の心をまっさらに洗う。そういう場所は、人が入れる場所では全国をめぐると意外や少ないというか、無意識的ケインジアンだらけの土建国家ジャパンにはほとんどないものだ。
2011年9月18日
教育と分業の社会生物学
人類の社会でいとなまれる文化は、ひとことでいうと「好み」の問いにかえる。いわば趣味のよしあししか社会の本質はない、ともいえる。
これは生物学・社会生物学的にはこう説明できるか。まずいまの生物学の用語でいうランナウェイ仮説ってのがある。これは性選択(つまり結婚相手のえらびかた)に、特定の好みが加速度的にあつまっていく、という有性生物の傾向を仮にいいあらわしたもの。孔雀のとべない羽も鹿のつよそうな角も、このrunaway、つまり特定の特徴的行動に至った形質の暴走と性選択をとおして繰り返し強調されてきた結果、という説明。
だから人間界を(宗教の目をわきにおいて)もし単に大脳のかなり発達した哺乳類の社会とみなすと、人種といわれる特徴やある人達にみられる強められた性質は、このランナウェイの過程によりえり抜かれてきた、とも仮説できるだろう。
これらの実証には十分な議論がなされたとはいえない。ダーウィンが『種の起源』の素朴な進化論を発展させ『人類の起源』で展開させた論理(人の特徴も性選択の結果である)は、もしそのまま結論をおしつめると人種差別や民族偏見にもつながりかねないため、少なくとも道徳面では否定されたり逆のことをいわざるをえない場面がきわめて多い。しかし、次の観点をかんがえればよい。
国際分業や社会分業の過程に、すべてのいまいきている人類がまきこまれているか少なくとも参加を欲していると仮定すると(さもなければ無人島で孤立してくらすほかないので)、かれらのなかにある現時点で社会的職業とか個性とよばれている特徴へのさまざまな変異は、この特定の社会について分業の進み具合とよりそっている。
我々が走れない速さではしる人種がいるかもしれず、我々が解けない問いを易々と解く明晰な民族がいるかもしれない。これらは差別のためではなく、単純に国際的分業をすすめようとしている自然からの意思なのだ、とかんがえてみると都合がいい。勇気のあるたみも繊細なたみもいるだろう。力もちも秀才もいよう。逆にほとんどいいところのない特徴の薄いひともいるだろうし、わざわざ他人に害をあたえる悪さを習慣的にまでして人々の反面教育に寄与する変異もときたまみられるかもしれない。これらのすべては‘人種間の絶滅戦争’のためではなく、‘実力主義的な所得格差による競争的淘汰’のためでもなく、単純に仲間の能力のちがいを有効に活かしてできるだけちがう持ち場をしっかりと守り抜くためにあるのだともいえよう。*1
この発想を、自分はいまここで「特徴の分業」となづけておく。これは社会学や人類学の面へ任意にあてはめたり、ここで印そうとした道徳的慈悲的・普遍愛的意味さえ失われなければなんらかの(できるかぎり実証できる肯定した文脈でのみ)形而上学にも将来的には応用できる可能性がある。
人類は社会でしか生きていないし、完璧に孤立すればほとんど何もできないし熊や狼にすら無力なほど弱い。例えばいじめが発生する理由も、強すぎる社会淘汰の圧力がかかりその分業集団内でいわゆるつかえないやつに過剰なちゃんとやれコール(励ましか強制)がかかってきた結果なのではないか。いいかえれば「ゆとり幅」としてのつかえないやつのための仕事場や居場所が、どの社会でもいじめの様な残酷で非人道的なわるさがはびこらないためには必要不可欠なのだろう。はっきりいって、自分も経験してきたこの市の域は、こういうゆとり幅がかなり少ないといおうかほとんどない傾向がある。*2
問題はすべて報道機関や警察庁や文科省や先進国の報道機関や国連とその関連機関や教育福祉系のNGOへ上告しつづけ、といっても最も単純には、どういう腐敗したことがあるかそれを解決するにはどうしたらいいか不満を手紙をかいておくればいいわけだが、不良教師もふくめ不品行とおぼわしきものをすべて文や言葉にして上告や外部通告しつづけるべきだ。
教員の悪質はできるだけはやく別の地域、特に教育県とか教育性のたかい先進国の相談先(できたら英語圏、またはフランス語圏。国連での地位と実力のため)へどんどん暴露してしまうしかない。すこしでも疑問におもったらすべて細大もらさずそうやって上告しつづけるとよい。世界には「よい教師」や「すばらしい教育者」や「高い志をもつ理想的公務員」が無数にいる。このために、その不良教員は、みずからが適材適所でない‘まちがった特徴の分業’の地位へはいりこんでしまっただけの社会的エラーなのである。別のすばらしい、心から尊敬できる、そして我々の知識と社会の善を増進するための決してめずらしくない本来そこにあるはずあたりまえの教員は、この特徴の分業のことわりさえ生徒にわかれば、人材をとりかえるだけで、そしてそういう教師をこころから待ち望み行動するだけでかならずや数かぎりなく実在している(そのための教育学部が本来あるし、でもしか教員を丸除きなければならない)のでかならずや来るのである。どうしてもこなければ自分がはらった税金を教育詐欺による不当廉売として返してもらい、いるところへ行ってしまえばいい。まちがった地位についている不良教師は、市民の義務でもあるが、首にしなければ税収が誤用どころか悪用されているだけのはなしとなる。
社会的分業の経過は、いずれ社会はよりよくされ、合理性とそこですごすことの幸福の程度が上向くとしらせている。なぜなら適材適所で努力すること、立派に(それぞれの能力と才能のかぎり、公共福祉に、人々の善としあわせのために)つとめを果たすことはほかのすべての社会にとっても、最も効率よく、さらにかれらの活動でうみだされる楽しみと喜び、立派な職業人への一層の敬いをますはずだからだ。*3
―――
��1 現実には真逆の、生存闘争としての暗い場面がいかに多いかわからないとしても、理想的にもしくは微視的には。なぜなら家族や会社といった全人類というほどのあたま数の多さをもたないかなり小規模の集まりでは、この職業分化というものはかなり普通にみられるのだから。「職人」とか「職業」、「役割」とか「仕事」、「委員」とか「ポジション」また最も卑近な俗語でも「キャラ(characterの略で仲間内の性格に合う役割分業につかわれたりしている)」という言葉はこの特徴の分業にかかわっている。それが固定化したり、流動性が低下したため適材適所ではなくなり一昔の言葉で意味している身分や門閥、門地とまでなると社会の合理性が阻害されてくる側面がある。だから特徴の分業はある程度の流動性と交代可塑性がつねになければならず、さらには試験や実地によってたえず適性のすぐれた人物をのぞみつづけねばならない。
��2 特に自分が磯原中学校時代、八重樫という社会の男の教師は竹刀で問答無用に子供を密室へとじこめ殴る蹴るを平気でしていた。この男は上述の「ゆとり幅」としての社会学的な特徴の分業が、ちっともわからないかしらなかったので、ちょっとくらい教育テレビでみたアメリカの学生のまねして授業中にガム噛んでみただけの少年たちを、死ぬか生きるかのすさまじい暴力、内部出血するほどの力で殴るける脅す、最後にはこれはどう考えても卑劣きわまる反則技だが膝であたまをけり、これは中野とかいった新任の体育教師だったが「クズだな!」と大声で威嚇し怒鳴りつけ、履いていたスリッパを生徒へ叩きつけ永遠に癒えない傷を心にも、この僕をふくめ言い分をゆるされなかったゆえ拷問にもかかわらず精神的なプレッシャーのため、おやへも黙っていた繊細にして純朴なる少年たちに負わせたのだった。要するに、磯原中学校という場所では数十年前に体罰がはっきりおこなわれていた。結局かれら八重樫・坊主あたまのジャージ姿の中野・女の教師だが高野というこれらの不良教師は、なるほど人類史のなかでみれば単に反面教育としての役目しかになっていない風にだれもに思えるかもわからない。実際のはなし、黙秘権を蹂躙して虚偽をふくむ自白を密室で暴力により強要した罪は永遠にぬぐいされないし、さらには威圧によって冤罪を被疑者の罪意識へ転嫁させようとし事実上は脅迫罪を未成年の子供へ侵してその口止めをしたにひとしい悪辣非道ぶりは当人らが永遠に償えない罪科を暗に背負うという人類史のかたすみで起きた因果応報のことわりしか示していなさそうだ。
��3 知的能力をかれらが自覚するならば、もし力仕事であれ、より高尚にして難度の高い課題へ挑戦していく知性をもつかれらの手助けであれ、そのみずからの故郷からそだった同胞の輪またはいくらかの協調性の本能を互いの善をそだて悪を責め合いより尊重されるべき人類の仲へ向上していこうとするちいさな努力と形質であると認識できるだろう。はっきり確認されたとはいいきれない、猿としてのむかしの経験からつながっている、もはや個人主義の時代にはほとんどほめられもしない群れつどう社会的いきもののありきたりなさがだとしても。
これは生物学・社会生物学的にはこう説明できるか。まずいまの生物学の用語でいうランナウェイ仮説ってのがある。これは性選択(つまり結婚相手のえらびかた)に、特定の好みが加速度的にあつまっていく、という有性生物の傾向を仮にいいあらわしたもの。孔雀のとべない羽も鹿のつよそうな角も、このrunaway、つまり特定の特徴的行動に至った形質の暴走と性選択をとおして繰り返し強調されてきた結果、という説明。
だから人間界を(宗教の目をわきにおいて)もし単に大脳のかなり発達した哺乳類の社会とみなすと、人種といわれる特徴やある人達にみられる強められた性質は、このランナウェイの過程によりえり抜かれてきた、とも仮説できるだろう。
これらの実証には十分な議論がなされたとはいえない。ダーウィンが『種の起源』の素朴な進化論を発展させ『人類の起源』で展開させた論理(人の特徴も性選択の結果である)は、もしそのまま結論をおしつめると人種差別や民族偏見にもつながりかねないため、少なくとも道徳面では否定されたり逆のことをいわざるをえない場面がきわめて多い。しかし、次の観点をかんがえればよい。
国際分業や社会分業の過程に、すべてのいまいきている人類がまきこまれているか少なくとも参加を欲していると仮定すると(さもなければ無人島で孤立してくらすほかないので)、かれらのなかにある現時点で社会的職業とか個性とよばれている特徴へのさまざまな変異は、この特定の社会について分業の進み具合とよりそっている。
我々が走れない速さではしる人種がいるかもしれず、我々が解けない問いを易々と解く明晰な民族がいるかもしれない。これらは差別のためではなく、単純に国際的分業をすすめようとしている自然からの意思なのだ、とかんがえてみると都合がいい。勇気のあるたみも繊細なたみもいるだろう。力もちも秀才もいよう。逆にほとんどいいところのない特徴の薄いひともいるだろうし、わざわざ他人に害をあたえる悪さを習慣的にまでして人々の反面教育に寄与する変異もときたまみられるかもしれない。これらのすべては‘人種間の絶滅戦争’のためではなく、‘実力主義的な所得格差による競争的淘汰’のためでもなく、単純に仲間の能力のちがいを有効に活かしてできるだけちがう持ち場をしっかりと守り抜くためにあるのだともいえよう。*1
この発想を、自分はいまここで「特徴の分業」となづけておく。これは社会学や人類学の面へ任意にあてはめたり、ここで印そうとした道徳的慈悲的・普遍愛的意味さえ失われなければなんらかの(できるかぎり実証できる肯定した文脈でのみ)形而上学にも将来的には応用できる可能性がある。
人類は社会でしか生きていないし、完璧に孤立すればほとんど何もできないし熊や狼にすら無力なほど弱い。例えばいじめが発生する理由も、強すぎる社会淘汰の圧力がかかりその分業集団内でいわゆるつかえないやつに過剰なちゃんとやれコール(励ましか強制)がかかってきた結果なのではないか。いいかえれば「ゆとり幅」としてのつかえないやつのための仕事場や居場所が、どの社会でもいじめの様な残酷で非人道的なわるさがはびこらないためには必要不可欠なのだろう。はっきりいって、自分も経験してきたこの市の域は、こういうゆとり幅がかなり少ないといおうかほとんどない傾向がある。*2
問題はすべて報道機関や警察庁や文科省や先進国の報道機関や国連とその関連機関や教育福祉系のNGOへ上告しつづけ、といっても最も単純には、どういう腐敗したことがあるかそれを解決するにはどうしたらいいか不満を手紙をかいておくればいいわけだが、不良教師もふくめ不品行とおぼわしきものをすべて文や言葉にして上告や外部通告しつづけるべきだ。
教員の悪質はできるだけはやく別の地域、特に教育県とか教育性のたかい先進国の相談先(できたら英語圏、またはフランス語圏。国連での地位と実力のため)へどんどん暴露してしまうしかない。すこしでも疑問におもったらすべて細大もらさずそうやって上告しつづけるとよい。世界には「よい教師」や「すばらしい教育者」や「高い志をもつ理想的公務員」が無数にいる。このために、その不良教員は、みずからが適材適所でない‘まちがった特徴の分業’の地位へはいりこんでしまっただけの社会的エラーなのである。別のすばらしい、心から尊敬できる、そして我々の知識と社会の善を増進するための決してめずらしくない本来そこにあるはずあたりまえの教員は、この特徴の分業のことわりさえ生徒にわかれば、人材をとりかえるだけで、そしてそういう教師をこころから待ち望み行動するだけでかならずや数かぎりなく実在している(そのための教育学部が本来あるし、でもしか教員を丸除きなければならない)のでかならずや来るのである。どうしてもこなければ自分がはらった税金を教育詐欺による不当廉売として返してもらい、いるところへ行ってしまえばいい。まちがった地位についている不良教師は、市民の義務でもあるが、首にしなければ税収が誤用どころか悪用されているだけのはなしとなる。
社会的分業の経過は、いずれ社会はよりよくされ、合理性とそこですごすことの幸福の程度が上向くとしらせている。なぜなら適材適所で努力すること、立派に(それぞれの能力と才能のかぎり、公共福祉に、人々の善としあわせのために)つとめを果たすことはほかのすべての社会にとっても、最も効率よく、さらにかれらの活動でうみだされる楽しみと喜び、立派な職業人への一層の敬いをますはずだからだ。*3
―――
��1 現実には真逆の、生存闘争としての暗い場面がいかに多いかわからないとしても、理想的にもしくは微視的には。なぜなら家族や会社といった全人類というほどのあたま数の多さをもたないかなり小規模の集まりでは、この職業分化というものはかなり普通にみられるのだから。「職人」とか「職業」、「役割」とか「仕事」、「委員」とか「ポジション」また最も卑近な俗語でも「キャラ(characterの略で仲間内の性格に合う役割分業につかわれたりしている)」という言葉はこの特徴の分業にかかわっている。それが固定化したり、流動性が低下したため適材適所ではなくなり一昔の言葉で意味している身分や門閥、門地とまでなると社会の合理性が阻害されてくる側面がある。だから特徴の分業はある程度の流動性と交代可塑性がつねになければならず、さらには試験や実地によってたえず適性のすぐれた人物をのぞみつづけねばならない。
��2 特に自分が磯原中学校時代、八重樫という社会の男の教師は竹刀で問答無用に子供を密室へとじこめ殴る蹴るを平気でしていた。この男は上述の「ゆとり幅」としての社会学的な特徴の分業が、ちっともわからないかしらなかったので、ちょっとくらい教育テレビでみたアメリカの学生のまねして授業中にガム噛んでみただけの少年たちを、死ぬか生きるかのすさまじい暴力、内部出血するほどの力で殴るける脅す、最後にはこれはどう考えても卑劣きわまる反則技だが膝であたまをけり、これは中野とかいった新任の体育教師だったが「クズだな!」と大声で威嚇し怒鳴りつけ、履いていたスリッパを生徒へ叩きつけ永遠に癒えない傷を心にも、この僕をふくめ言い分をゆるされなかったゆえ拷問にもかかわらず精神的なプレッシャーのため、おやへも黙っていた繊細にして純朴なる少年たちに負わせたのだった。要するに、磯原中学校という場所では数十年前に体罰がはっきりおこなわれていた。結局かれら八重樫・坊主あたまのジャージ姿の中野・女の教師だが高野というこれらの不良教師は、なるほど人類史のなかでみれば単に反面教育としての役目しかになっていない風にだれもに思えるかもわからない。実際のはなし、黙秘権を蹂躙して虚偽をふくむ自白を密室で暴力により強要した罪は永遠にぬぐいされないし、さらには威圧によって冤罪を被疑者の罪意識へ転嫁させようとし事実上は脅迫罪を未成年の子供へ侵してその口止めをしたにひとしい悪辣非道ぶりは当人らが永遠に償えない罪科を暗に背負うという人類史のかたすみで起きた因果応報のことわりしか示していなさそうだ。
��3 知的能力をかれらが自覚するならば、もし力仕事であれ、より高尚にして難度の高い課題へ挑戦していく知性をもつかれらの手助けであれ、そのみずからの故郷からそだった同胞の輪またはいくらかの協調性の本能を互いの善をそだて悪を責め合いより尊重されるべき人類の仲へ向上していこうとするちいさな努力と形質であると認識できるだろう。はっきり確認されたとはいいきれない、猿としてのむかしの経験からつながっている、もはや個人主義の時代にはほとんどほめられもしない群れつどう社会的いきもののありきたりなさがだとしても。
2011年9月17日
ごくすぐれた発明と実証例
http://www.amnh.org/nationalcenter/youngnaturalistawards/2011/aidan.html
http://megalodon.jp/2011-0823-0854-26/www.amnh.org/nationalcenter/youngnaturalistawards/2011/aidan.html (ウェブ魚拓、ミラー)
この記事は本当にすぐれた人物と発明・研究をのせている。
フィボナッチ数列(1、2、3、5、8、13、、と一個前の数を足し合わせて行く数列)が自然界のあちこちにみられるのはよくしられているが、それを樹木の観察から応用してソーラーパネルの傾きにしてしまった。というのは本当に感心するすぐれた発想だし、この参照先にのっている実証したデータもシンプルだが説得力のあるものでこの生徒はきわめてすぐれた学習知能をもっているとわかる。
13歳というのは日本では中一だから、心から感嘆する才能というほかない。これからもこの子には期待がもてる。順調に才能がのびていくのを願うばかりだ。
昔、セザンヌという画家がこの樹木の葉が光を乱反射させる効果をうけとって初期のキュビズム絵画(印象派とよばれている流儀の発端)に応用したことはあったが、まさか実用主義的な思想がこういう方面に応用をみつけるとはおもいもよらなかった。こういう才能がいる、ということはアメリカは発明にすぐれた天性を蓄えたりそれをきちんと表明させ社会的賞賛や公的発表に結びつける土壌があり、なおかつ一部の個人には数学であれごく高い理解力を仕込んでいるのがわかる。
現状の日本、かつ常陸の國の間ではいまだ及ばないところだ。こういう才能も爆発的に無数にうまれたとき、我々はアメリカからも日本本体からも仰がれるはず。
この発明が実際に大規模商品化されるかは不明だが、特に日照条件のわるい北国ではかならずや実用の余地があるだろう。特に日照時間の少ない冬をみこし屋上庭園の一部や庭に設置させたり、いま日本ではひろくみられる照明器具の上部にデザインさせて十分な電力を確保する、といったことはある程度の資本が興味をもてばすぐ実現できる。特許権や商標をも長らくとったりするためには「広く公共の工学雑誌」に名前入りで掲載するのも手だろう(勿論この程度のかなり権威ある公募雑誌をもつ学問・学術の風土があるのが前提で)。それで仮登録状態となり名誉は確保されるだろうし、類似の商品は模倣とみなされる公式見解があらわれる。そうでない学術文化の未発達な風土では猜疑心の為に発表をためらうかもしれず、あらゆる面に社会損失が膨らんでしまう。
理論そのものには独自の価値があり、すぐれた理論そのものも(あるいはそれこそ、最も)ごく価値の高いものだが、アメリカのもってきた実用主義的傾向には技術方面の革新をなしとげる別の利点があるとおもわれ、実際にそういう風土から出て来たろうこの一つの実例はシンプルさといい独創性といいこころから感嘆する発明だった。このAidan少年がなにかの機会に茨城県や日本国を訪れたら是非まねいて(茨大工学部か日立市内の学校など、どちらかというと学群構成で研究主体っぽい筑波大も)、何か経験則としてそこに至った原因や勉強方法をききとった方がいい。この少年は現時点でまちがいなく、人類史の偉人に匹敵する超秀才の部類に入る。
http://megalodon.jp/2011-0823-0854-26/www.amnh.org/nationalcenter/youngnaturalistawards/2011/aidan.html (ウェブ魚拓、ミラー)
この記事は本当にすぐれた人物と発明・研究をのせている。
フィボナッチ数列(1、2、3、5、8、13、、と一個前の数を足し合わせて行く数列)が自然界のあちこちにみられるのはよくしられているが、それを樹木の観察から応用してソーラーパネルの傾きにしてしまった。というのは本当に感心するすぐれた発想だし、この参照先にのっている実証したデータもシンプルだが説得力のあるものでこの生徒はきわめてすぐれた学習知能をもっているとわかる。
13歳というのは日本では中一だから、心から感嘆する才能というほかない。これからもこの子には期待がもてる。順調に才能がのびていくのを願うばかりだ。
昔、セザンヌという画家がこの樹木の葉が光を乱反射させる効果をうけとって初期のキュビズム絵画(印象派とよばれている流儀の発端)に応用したことはあったが、まさか実用主義的な思想がこういう方面に応用をみつけるとはおもいもよらなかった。こういう才能がいる、ということはアメリカは発明にすぐれた天性を蓄えたりそれをきちんと表明させ社会的賞賛や公的発表に結びつける土壌があり、なおかつ一部の個人には数学であれごく高い理解力を仕込んでいるのがわかる。
現状の日本、かつ常陸の國の間ではいまだ及ばないところだ。こういう才能も爆発的に無数にうまれたとき、我々はアメリカからも日本本体からも仰がれるはず。
この発明が実際に大規模商品化されるかは不明だが、特に日照条件のわるい北国ではかならずや実用の余地があるだろう。特に日照時間の少ない冬をみこし屋上庭園の一部や庭に設置させたり、いま日本ではひろくみられる照明器具の上部にデザインさせて十分な電力を確保する、といったことはある程度の資本が興味をもてばすぐ実現できる。特許権や商標をも長らくとったりするためには「広く公共の工学雑誌」に名前入りで掲載するのも手だろう(勿論この程度のかなり権威ある公募雑誌をもつ学問・学術の風土があるのが前提で)。それで仮登録状態となり名誉は確保されるだろうし、類似の商品は模倣とみなされる公式見解があらわれる。そうでない学術文化の未発達な風土では猜疑心の為に発表をためらうかもしれず、あらゆる面に社会損失が膨らんでしまう。
理論そのものには独自の価値があり、すぐれた理論そのものも(あるいはそれこそ、最も)ごく価値の高いものだが、アメリカのもってきた実用主義的傾向には技術方面の革新をなしとげる別の利点があるとおもわれ、実際にそういう風土から出て来たろうこの一つの実例はシンプルさといい独創性といいこころから感嘆する発明だった。このAidan少年がなにかの機会に茨城県や日本国を訪れたら是非まねいて(茨大工学部か日立市内の学校など、どちらかというと学群構成で研究主体っぽい筑波大も)、何か経験則としてそこに至った原因や勉強方法をききとった方がいい。この少年は現時点でまちがいなく、人類史の偉人に匹敵する超秀才の部類に入る。
2011年9月5日
ということで壊さないでください
このままだと数年以内になくなってしまうかもだけど、いまの市立病院のたてものはあれでかなりすごいものだから、もし持つ耐震改修をほどこすならなにも壊すことはない、って真理にきづいた。あたらしい病院を「公共事業投資」としてつくるのは、何もしないよりは不景気の中でいい(勿論、もっと福利耐久性の高いなりわいへのそれ、なら猶更いいのだが。教育水準もそれに入る)。
だがまだつかえるたてものを壊してしまう、というのは、あかねひらのときもそうだったが、まことに勿体ないしいきなり思い出が消えるので全然よくない。何だったんだあれは、くらいのかなしいできごとになってしまう。Scrap&build、はよくない考え方、又はあまりになりあがりでbubblyな姿勢だ。特に、それが持ちのいい種類の投機だと、ますます不経済となっていく。欧米、特に戦乱からはなれていたイギリスの古い城郭や地震の心配のない建物は、くりかえし使われる中で風格が高まる、という「経年優化」(要は「趣」)が見込まれていくので、観光資源にもなれば人々の精神的安定にも寄与している。他方では旧態墨守が欠点ともなりえるが、これはすくなくとも経済的にはあたらないということができる。使えるもの、特に構造のしっかりして手の込んだ建物は維持された方がよい。
たとえばあの病院をそのまま市立大学の建物にしてしまえばいい話ではないか? 病室はかなりまじきりをとってあたらしく塗りなおしたり、時のたつ風格のでやすい赤煉瓦などを表面に張って広い教室にすればよく、庭というか、テニスコートあたりを駐車場の場所につくりなおせばそれだけですむわけで、このテニスコート用の設備はすでにいまの北茨城高校あとにあるものをもってきてとりつけるだけでいい。あるいは教壇とか机とか体育館の中身とかプールの設備、これらも新病院建設のまえにすべて一時的に別のところへ保管し、この市立大学の備品として転用すればほとんど経費がかからない。というか、新病院建設の費用の一部をちょっと補填するくらいで寄付すらいらないくらいで済むのではないか?
あとは講師を、募集した生徒から集める学費で雇うしくみをつくればおわりだ。まことにいいアイデアを思い付いた、とテトラポットの乱立で砂浜がへりおちこみの激しいかもめ界ではもっぱらの大騒ぎというかおまつりさわぎである。磯原だけに砂浜ってか磯の原がないと元気がない。
教育委員会とか市議会、あるいは公聴会や市民アンケートで教育内容を精査し、特に一流の学者をできたら英米系の一流の大学または筑波大・茨大・東大から”adviser・supervisor”として雇い入れ、かれらの忠告を入れるべきだ。自分がおもうに、これは大それたのぞみとおもうかもしれないが、スティーブン・ホーキング氏かリチャード・ドーキンス氏に意見をききたい。彼らは超一流すぎてやばいとアカデミズムからはいわれるかもしれないがしろうとの強みで何でも体当たりでやるべきだ。そのくらいこの地域は知識に遅れている。
日本でいうと、岡ノ谷一夫氏や筑波大つながりのあるノーベル賞受賞者の方々か。どういった学部構成にしたら世界の学術界についていけるかをききとって、その方針をとったらいい。ただ京都大系のひとは土着化されているほど、自分の推察や経験則では京都が一番と思ってるから東国へはあまり素直なアドバイスはくれない可能性が高い。そして懸案の美術関係施設、って構想があったわけだが、この市立大学と関連させて講座なりアトリエなりを大津駅前からあのできる道路で天心記念までひっぱってけばいい。
一般に、成功する大学は「市街地から離す」必要がある。これは学生を学際環境へ閉鎖あるいは幽閉し、若者特有の血気から遊べなくするため、学業へ集中させるためだ。この点、あの市立病院あたりはほとんど遊び場所がない。ただ一つの懸案は、国道に面してゲーセンやらショッピングセンターやらパチンコやらが建つ余地があることだけだが、これらもパチンコだけを未成年入店禁止の条令でもつくればそれほど強い求心力をもつわけではない規模なら、彼らを堕落させる可能性は低い。
この市立大学の学生の対象は、おもに地元の高校を出た生徒ではないか。それが今の段階では妥当だ。彼らを事実上収容する高等教育機関が有徳なのだ。ここらでテキトーにあそんですごすだけでは本当に人類にとってよい影響を与えることはできない。そのくらいの人というのは、日本を含め無数にいるからだ。
特に日立圏の技術力をおしあげるタイプの学生、つまりは理系のつよさを鍛えてから社会に出すなら、風評や放射能で第一次産業の全盛にはあまり将来性のとざされてきている、このあたりの工業力はより強化されていくとおもう。さらには美術や芸術の土壌はもとからあるのだから、純粋に地元から従来の日立マン的なキャリアが順調に育てばそういう郷土人たちはたとえば日本にとって才能が欠けていると言われる(つまり需要が高まりつつある)工業デザインの職能のよさ、へひとりでに結びつく可能性が高い。
これらの改修工事をおもに緊急雇用制度として手に力をあましてる漁師たちを使って安価な報酬ででもおこなってもらえば、難局ものりきれるし、松本氏の道徳感も立派に結果になるだろうし恨みっこなしで調度いい。
だがまだつかえるたてものを壊してしまう、というのは、あかねひらのときもそうだったが、まことに勿体ないしいきなり思い出が消えるので全然よくない。何だったんだあれは、くらいのかなしいできごとになってしまう。Scrap&build、はよくない考え方、又はあまりになりあがりでbubblyな姿勢だ。特に、それが持ちのいい種類の投機だと、ますます不経済となっていく。欧米、特に戦乱からはなれていたイギリスの古い城郭や地震の心配のない建物は、くりかえし使われる中で風格が高まる、という「経年優化」(要は「趣」)が見込まれていくので、観光資源にもなれば人々の精神的安定にも寄与している。他方では旧態墨守が欠点ともなりえるが、これはすくなくとも経済的にはあたらないということができる。使えるもの、特に構造のしっかりして手の込んだ建物は維持された方がよい。
たとえばあの病院をそのまま市立大学の建物にしてしまえばいい話ではないか? 病室はかなりまじきりをとってあたらしく塗りなおしたり、時のたつ風格のでやすい赤煉瓦などを表面に張って広い教室にすればよく、庭というか、テニスコートあたりを駐車場の場所につくりなおせばそれだけですむわけで、このテニスコート用の設備はすでにいまの北茨城高校あとにあるものをもってきてとりつけるだけでいい。あるいは教壇とか机とか体育館の中身とかプールの設備、これらも新病院建設のまえにすべて一時的に別のところへ保管し、この市立大学の備品として転用すればほとんど経費がかからない。というか、新病院建設の費用の一部をちょっと補填するくらいで寄付すらいらないくらいで済むのではないか?
あとは講師を、募集した生徒から集める学費で雇うしくみをつくればおわりだ。まことにいいアイデアを思い付いた、とテトラポットの乱立で砂浜がへりおちこみの激しいかもめ界ではもっぱらの大騒ぎというかおまつりさわぎである。磯原だけに砂浜ってか磯の原がないと元気がない。
教育委員会とか市議会、あるいは公聴会や市民アンケートで教育内容を精査し、特に一流の学者をできたら英米系の一流の大学または筑波大・茨大・東大から”adviser・supervisor”として雇い入れ、かれらの忠告を入れるべきだ。自分がおもうに、これは大それたのぞみとおもうかもしれないが、スティーブン・ホーキング氏かリチャード・ドーキンス氏に意見をききたい。彼らは超一流すぎてやばいとアカデミズムからはいわれるかもしれないがしろうとの強みで何でも体当たりでやるべきだ。そのくらいこの地域は知識に遅れている。
日本でいうと、岡ノ谷一夫氏や筑波大つながりのあるノーベル賞受賞者の方々か。どういった学部構成にしたら世界の学術界についていけるかをききとって、その方針をとったらいい。ただ京都大系のひとは土着化されているほど、自分の推察や経験則では京都が一番と思ってるから東国へはあまり素直なアドバイスはくれない可能性が高い。そして懸案の美術関係施設、って構想があったわけだが、この市立大学と関連させて講座なりアトリエなりを大津駅前からあのできる道路で天心記念までひっぱってけばいい。
一般に、成功する大学は「市街地から離す」必要がある。これは学生を学際環境へ閉鎖あるいは幽閉し、若者特有の血気から遊べなくするため、学業へ集中させるためだ。この点、あの市立病院あたりはほとんど遊び場所がない。ただ一つの懸案は、国道に面してゲーセンやらショッピングセンターやらパチンコやらが建つ余地があることだけだが、これらもパチンコだけを未成年入店禁止の条令でもつくればそれほど強い求心力をもつわけではない規模なら、彼らを堕落させる可能性は低い。
この市立大学の学生の対象は、おもに地元の高校を出た生徒ではないか。それが今の段階では妥当だ。彼らを事実上収容する高等教育機関が有徳なのだ。ここらでテキトーにあそんですごすだけでは本当に人類にとってよい影響を与えることはできない。そのくらいの人というのは、日本を含め無数にいるからだ。
特に日立圏の技術力をおしあげるタイプの学生、つまりは理系のつよさを鍛えてから社会に出すなら、風評や放射能で第一次産業の全盛にはあまり将来性のとざされてきている、このあたりの工業力はより強化されていくとおもう。さらには美術や芸術の土壌はもとからあるのだから、純粋に地元から従来の日立マン的なキャリアが順調に育てばそういう郷土人たちはたとえば日本にとって才能が欠けていると言われる(つまり需要が高まりつつある)工業デザインの職能のよさ、へひとりでに結びつく可能性が高い。
これらの改修工事をおもに緊急雇用制度として手に力をあましてる漁師たちを使って安価な報酬ででもおこなってもらえば、難局ものりきれるし、松本氏の道徳感も立派に結果になるだろうし恨みっこなしで調度いい。
英語公用化の先取り
流れから突飛にきこえるのでこの市では鴎一匹しか納得しないだろうがというかもっぱらききながすだろうが、この市はもう英語を公用語にいますぐするしかない。しかも第一公用語に。
日本語圏ではまずすぎる。その僻地言語っぷりはかなり抜き差しならないところまで追い詰められている。こんな経験則や勘にたよった非体系的なわけわからん言葉は、日本でそだった人たちをのぞけば余程のものずきな、しかも何かしらかたよった研究者(要は変人)へしか通じえないのだ。『日本語とは勘違いされつづけるにすぎない』。
できるかぎり、地球の事実上の標準語である英語を公に、大々的に、生活圏で最も先に採用するべきだ。無理にでもやってれば慣れる。それを強制せざるをえなくするには英語圏の人物を様々なポストへ多数導入するとかも有効だろう。
我々の方言のたちばからいっても、東京語を習得するよりはむしろ英語をとる方が我々へ有利だとしるべき。
この様な「通じない言葉」をわざわざ習いとる意味はほとんどない。
ただでさえ内向きで冷たく風変わりな民族に、ますますおもいやかんがえやしったことやこころやあたまのなかみの表現力が欠如しても何一ついいことはない。万に一つ得したとしても、「へえ変わってるね」級の反応で永久に世界から忘れ去られる。どちらにしろ我々旧来のだっぺ方言は文面上は覇権をもってはいないうえその見込みはまずないのだから、進むことはできても退けない以上、できるかぎり先に進むしか道はない。
今、藤原正彦氏ら保守論客が日本語イコール国語 復興論みたいのをはじめている。しかし、はっきりいってこれは間違いである。国語など、厳密にいえばどの時点でも固定されたものではありえない。この「国語」なることばそのものが大日本侵略主義にともなう悪である。漢字廃除運動すらしていないのだからほぼ100%、倭民族中心主義の狂信洗脳でしかないのだ。
くわしくいえばどの社会にも国語などない。あるのは「事実上の公用語」だけだし、そのどれも常に進化や展開のさなかにある。
さらに、現時点の日本語は弱小勢力のとるにたらない方言でしかないし、同類の決して地球中で最高に強壮や文明的科学的ではないたちばからいって今後ともそうなる。
第一言語が英語である人達に比べれば、日本語という方言の土壌は事実上、ハンディキャップであり負担なのだ。完全に無文の社会よりはましかもだが、それでも決して最上等とはいえないたちの。
なぜなら、はっきり言ってしまうと和文なるものはろくでもない文献(いわゆる倭歌物語小説の卑猥な、もしくは感情表現とフィクションにかたよった文芸のたぐい)が相対的に多い言語なので、総合してみると自分よりずっとすぐれた言葉、特に科学的な原文の多い英語からまなびとることの方が、それらの方言体系(ならびに古文の再習得)を旧態墨守るより利益率はずっと大きい。
仮に日本語もしくは茨城語という方言が完璧にはなせなくなる人が過半数より出たら、このときはじめて方言のよさを部分的にルネサンスるくらいで調度いい。しかもこのばあい、孫世代とコミュニケーションをとるために祖父祖母世代は英語圏の言葉といくらかの文化を習得せざるをえないだろうから、ぼけ防止とかをこえ中高年への定常的教育効果がある。
日本語圏ではまずすぎる。その僻地言語っぷりはかなり抜き差しならないところまで追い詰められている。こんな経験則や勘にたよった非体系的なわけわからん言葉は、日本でそだった人たちをのぞけば余程のものずきな、しかも何かしらかたよった研究者(要は変人)へしか通じえないのだ。『日本語とは勘違いされつづけるにすぎない』。
できるかぎり、地球の事実上の標準語である英語を公に、大々的に、生活圏で最も先に採用するべきだ。無理にでもやってれば慣れる。それを強制せざるをえなくするには英語圏の人物を様々なポストへ多数導入するとかも有効だろう。
我々の方言のたちばからいっても、東京語を習得するよりはむしろ英語をとる方が我々へ有利だとしるべき。
この様な「通じない言葉」をわざわざ習いとる意味はほとんどない。
ただでさえ内向きで冷たく風変わりな民族に、ますますおもいやかんがえやしったことやこころやあたまのなかみの表現力が欠如しても何一ついいことはない。万に一つ得したとしても、「へえ変わってるね」級の反応で永久に世界から忘れ去られる。どちらにしろ我々旧来のだっぺ方言は文面上は覇権をもってはいないうえその見込みはまずないのだから、進むことはできても退けない以上、できるかぎり先に進むしか道はない。
今、藤原正彦氏ら保守論客が日本語イコール国語 復興論みたいのをはじめている。しかし、はっきりいってこれは間違いである。国語など、厳密にいえばどの時点でも固定されたものではありえない。この「国語」なることばそのものが大日本侵略主義にともなう悪である。漢字廃除運動すらしていないのだからほぼ100%、倭民族中心主義の狂信洗脳でしかないのだ。
くわしくいえばどの社会にも国語などない。あるのは「事実上の公用語」だけだし、そのどれも常に進化や展開のさなかにある。
さらに、現時点の日本語は弱小勢力のとるにたらない方言でしかないし、同類の決して地球中で最高に強壮や文明的科学的ではないたちばからいって今後ともそうなる。
第一言語が英語である人達に比べれば、日本語という方言の土壌は事実上、ハンディキャップであり負担なのだ。完全に無文の社会よりはましかもだが、それでも決して最上等とはいえないたちの。
なぜなら、はっきり言ってしまうと和文なるものはろくでもない文献(いわゆる倭歌物語小説の卑猥な、もしくは感情表現とフィクションにかたよった文芸のたぐい)が相対的に多い言語なので、総合してみると自分よりずっとすぐれた言葉、特に科学的な原文の多い英語からまなびとることの方が、それらの方言体系(ならびに古文の再習得)を旧態墨守るより利益率はずっと大きい。
仮に日本語もしくは茨城語という方言が完璧にはなせなくなる人が過半数より出たら、このときはじめて方言のよさを部分的にルネサンスるくらいで調度いい。しかもこのばあい、孫世代とコミュニケーションをとるために祖父祖母世代は英語圏の言葉といくらかの文化を習得せざるをえないだろうから、ぼけ防止とかをこえ中高年への定常的教育効果がある。
2011年8月26日
出し抜く人々
いつものことだが、こうして(http://mainichi.jp/area/yamaguchi/news/20110730ddlk35040408000c.html?inb=yt 、下に引用あり)イギリスへ留学させてできるだけ日本の中央国政をだしぬこうとする業が山口県という列島の極西にはある。
この人たちは幕末に内政においてクーデター兼テロリズムをし、その無益な殺傷をしたことを少しも反省していなければ、むしろ誇りに思っている。この「驕り」があるかぎり、いつか彼らには報いがくる。それにもかかわらず、これらの不正な業を平気で為す人たちに負けているのは少しも賢明ではない。大幅に勝ち越して相手を土俵から放り出す必要がある。
これらの人たちより先端的な留学を戦勝国のどこか、よりよい場所へ行う必要がある。この萩市という所は、恒常的に裏切りを画策しているふしがある。すべての条件が(特に、家康公がその僻地への国替えをした時代から)その為に特化されている。つねに監視と、その批判的出し抜きがいる地域なのがまちがいない。
彼らに公徳心というものは大きく欠けているか、奇形化されている(倒幕運動、及び幕末史に於けるテロリズム、その他のアジア侵略・政商活動を参照)が、常に部分最適化して日本国本体とは違う運動を画策し、可能な限りその野心をまっとうしたがる。菅直人の行動原理も、彼は宇部市出身ではあるが、かなりその類型を引きずったものだったことからこの特徴的性格も理解できる。
我々にとって危険なのは、彼らの拙速な暴威を「あたかも日本の総意」かの如く偽装されると、明治テロリズムの時の如くその悪禍を我々もこうむるという点にある。なぜ家康公が彼らの排斥をはかったか、もこの特徴的性格、おそらくひねくれているか狼子野心への気づきにあったのだろう。これは鹿児島の系譜、または実際にある程度の圧力をくわえた京都付近の人々、そして同様に僻地である高知県あたりにも内在している性向だった。
彼らの行動のさらに上をいくには、この市でもイギリスのオックスブリッジ系または秀でたパブリックスクールに選良か大勢を恒常的に留学させるべきだ。最低でもそれくらいやらないと彼らはさらに日本を出し抜く行動をしてくる、今後とも。
引用~~~
山口
英国語学研修:“長州ファイブ”が抱負 /山口
萩市の中学3年生5人を英国に送り出す「長州ファイブジュニア英国語学研修」の出発式が28日、同市堀内の萩博物館であった。29日から8月13日までの16日間、ロンドン大学のサマースクールで他国の学生たちと学ぶ。
幕末に長州藩の伊藤俊輔(博文)ら5人(長州ファイブ)の若者が新しい国づくりを求めて英国に密航、国の基礎を築いた歴史がある。市は、国際的視野を持った次世代を担う中学生を対象に、語学研修と長州ファイブの志や足跡を訪ねるため派遣しており、今年が5回目。
出発式では、中村哲夫教育長が「毎日が非日常で驚きの連続と思う。その驚きがエネルギーになる」と激励。5人がそれぞれ決意表明。椿東中3年、小松陸さん(15)は「文化の違いや、当時の長州ファイブがどんな志を持って歩いたかを学んできたい」などと述べた。
〔山口版〕
毎日新聞 2011年7月30日 地方版
��~~引用終り
この人たちは幕末に内政においてクーデター兼テロリズムをし、その無益な殺傷をしたことを少しも反省していなければ、むしろ誇りに思っている。この「驕り」があるかぎり、いつか彼らには報いがくる。それにもかかわらず、これらの不正な業を平気で為す人たちに負けているのは少しも賢明ではない。大幅に勝ち越して相手を土俵から放り出す必要がある。
これらの人たちより先端的な留学を戦勝国のどこか、よりよい場所へ行う必要がある。この萩市という所は、恒常的に裏切りを画策しているふしがある。すべての条件が(特に、家康公がその僻地への国替えをした時代から)その為に特化されている。つねに監視と、その批判的出し抜きがいる地域なのがまちがいない。
彼らに公徳心というものは大きく欠けているか、奇形化されている(倒幕運動、及び幕末史に於けるテロリズム、その他のアジア侵略・政商活動を参照)が、常に部分最適化して日本国本体とは違う運動を画策し、可能な限りその野心をまっとうしたがる。菅直人の行動原理も、彼は宇部市出身ではあるが、かなりその類型を引きずったものだったことからこの特徴的性格も理解できる。
我々にとって危険なのは、彼らの拙速な暴威を「あたかも日本の総意」かの如く偽装されると、明治テロリズムの時の如くその悪禍を我々もこうむるという点にある。なぜ家康公が彼らの排斥をはかったか、もこの特徴的性格、おそらくひねくれているか狼子野心への気づきにあったのだろう。これは鹿児島の系譜、または実際にある程度の圧力をくわえた京都付近の人々、そして同様に僻地である高知県あたりにも内在している性向だった。
彼らの行動のさらに上をいくには、この市でもイギリスのオックスブリッジ系または秀でたパブリックスクールに選良か大勢を恒常的に留学させるべきだ。最低でもそれくらいやらないと彼らはさらに日本を出し抜く行動をしてくる、今後とも。
引用~~~
山口
英国語学研修:“長州ファイブ”が抱負 /山口
萩市の中学3年生5人を英国に送り出す「長州ファイブジュニア英国語学研修」の出発式が28日、同市堀内の萩博物館であった。29日から8月13日までの16日間、ロンドン大学のサマースクールで他国の学生たちと学ぶ。
幕末に長州藩の伊藤俊輔(博文)ら5人(長州ファイブ)の若者が新しい国づくりを求めて英国に密航、国の基礎を築いた歴史がある。市は、国際的視野を持った次世代を担う中学生を対象に、語学研修と長州ファイブの志や足跡を訪ねるため派遣しており、今年が5回目。
出発式では、中村哲夫教育長が「毎日が非日常で驚きの連続と思う。その驚きがエネルギーになる」と激励。5人がそれぞれ決意表明。椿東中3年、小松陸さん(15)は「文化の違いや、当時の長州ファイブがどんな志を持って歩いたかを学んできたい」などと述べた。
〔山口版〕
毎日新聞 2011年7月30日 地方版
��~~引用終り
2011年8月21日
水戸以北と教養主義
北茨城あたりで重要なのは、進歩的先進的な学術をよりつよめてつかわすこと。この命題は「人口数」での劣位を個々の所得でおぎなってあまりある手立てとして説明される。
しかし、高萩市はいうまでもなく日立市やいわき市などとこの命題はかなり共通しているのではないか。地方から流出して都心へあつまってしまう若年人口、というのが基本的な課題としてすべての地方都市にある。
かつ、少なくともいまの東京都知事の様に過密人口や集積のいきすぎからくる弊害にある程度自覚している者もいる。さらには、この常磐圏でも、例えば現状でいう中国地方の日本海側(山陰道)とか東北地方の日本海側とかよりは過疎さに於いて随分ましな状況にあるともいえるか。
こうして、地域のかかえる社会のばの展望はそれぞれ微妙にことなりながら、場合によっては似たものをもってもいる。
よって、ある似た利害をともなう地域では行政の分業よりも、おそらくある程度の協調性が有効になりもする。こうして、特に東京都への敵対心や野心から愛知県とか近畿地方(具体的には京阪神の三都市圏)が道州制度とか関西広域連合とかいいだしていたし、後者へは実現してしまったわけ。つまり根っからそれらは権勢欲の顕れといえる。
総合としてみると、これらのみなもとには太平洋戦後からの世代論でもあるだろうが「経済成長」というkey wordに象徴されるできるだけアジアで覇をはろうとする意欲が在来の日本人、特に幕末以来、倒幕開国側についた西の諸民俗にはありそうだ。
例えば伊藤博文を批判する声は、むかし長州藩・いま山口県のなかにはほとんどゼロではないか。かわりにユニクロはかれらにとって、東京都に匹敵する企業としてはおそらく誇りではないか(久原財閥への姿勢をかえりみれば)。この種のかたよりは彼らの中からは是正されがたく、そのegoismは資本主義経済のしくみとしてかなりのあいだ肯定されていくはず(少なくともかれらが有利なあいだ)。
この根本義といおうかideologieの源の一つは、この市に重要な関わりのあった岡倉天心の掛け声の政治転用かも。「アジアは一つ」という言葉が行政に、又は商売につかわれると岡倉自身の思想とはズレて、それがあたかもアジアの覇者を当然視する旧来の「日本」思想とかさねあわせてみられる傾向があった。
しかし、岡倉自身は単に美術、というか技が遠く極東の島までつたわってここが戦乱にまきこまれづらい特殊な孤立の条件のために博物館の様に、すでに大陸でうみだされ失われていった多くの過去の様式をためこんでいる、という観察をそのsloganとしてまとめたにすぎない。
具体的には法隆寺の伽藍の柱のエンタシスとよばれる古代ギリシア由来のふくらみとか(これは花園神社なんかにもみられるわけだ)、水墨画をつたえてきた雪村雪舟などの留学組の古きよき仕事とか、そういうものを西洋美術とはちがう立場で保全していたこと自体、アジア美術の貯蔵庫として希少価値がある、と言っている。なにもアジアで覇を張れとはいっていないから、それはいきすぎであり、むしろ福沢諭吉の様な幕末の外様系下士の深くにあった成り上がりの野望でしかないわけだ。
なにがいいたいかといえば、文化や学術の高下を競うことは一般に(*1)他の地域からの尊敬や見習いをあつめやすい。そしてこの教養と呼ばれ得るだろう能力へのえり抜きが、人口面で衰亡に面した地方社会では最も有益だろうということ。それは、決して‘行政権’や‘商業圏’とかかわりあるideaではない。
所得と教養の程は必ずしも比例しない、という指摘へは個別ではそうでない例もしばし偶然の機会や特殊な条件(*2)のためにありえるが、統計的かつ巨視的には人口あたりこれは必ず比例している。西洋諸国とアジア諸国の「国民所得:National Income:NI」をくらべれば。
ただ、残念といおうかある偶奇といおうか、近代文明の国家同士は全体とみて人口密度と国民所得は反比例する傾向にある。(つまり貧しい人は人口密度の高い国にくらしている傾向があり、富める人はその逆)。
要は、「人口密度の低さを利点にかえるには、個々の成員の質をあげるために総力をあげて教養を高めさせろ」となる。この命題を実行するためにさえ基礎的理解力がいるというのが難しい冗談みたいな矛盾で、したがって実際にそれができるのは、おそらく有能というか希有な指導者の出現率にかかっている一部ではないか。
藤原正彦氏が危険思想家なのでまず疑うべきはまちがいないが、『国家の品格』で天才論をぶちあげていたのはいくらか先覚があったろう。この種の突然変異に啓蒙の効果がかなり依存する、というのが歴史にみた格差の真相ではないかとおもえる(*3)。ガリレオやアインシュタインが社会の悪条件のために潰されていれば、近代化を欧米が先駆けた確率も随分低まっていった。かれらが平賀源内の様ななかば無下にされたとりあつかいをうけていれば、とかんがえればなぜ近代の日本があれほど後進の屈辱をへたかも瞭然とする。それは個性を殺すのをよしとした群淘汰からの圧力の強すぎさにあったのだろう。
だから少なくとも常陸圏では、天才・秀才・能才(*4)の出現をできるかぎり最大限にとうとぶ必要がある。おそらく最もこのために有益なのは、褒賞・授賞といった制度だろう。これらが厳密な意味で天才をよぶことはきわめて少ないが(geniusは大抵が同時代の理解の限界をこえているものだから、とおく次世代になってはじめて評価がついてきたことが多い)、最低でも衆目の秀才以上をえらぶ事ができるのは確か。
そして本質でいえば個人主義の定着が、よりかみ砕いていえば「人それぞれの徹底」がこれらの分業のための専門的特徴を一般的能力よりもとうとぶ習俗として地域をならしていく。
と同時に、負の天性は大犯罪者とか悪党とか独裁者とかよばれることが多いが、この罰則に気を払う必要がいくらかある。実績はほとんどあげず、政局を優先して4か月被災地を放置した菅直人などはこの種の姿の原質だろう。さらに血が濃くなって源太郎という息子を似た行政に携わらせたがっているが、これらは「罰則」のゆるみを利用してでてきているtypeだと認識していい(*5)。
だから少なくとも市政、そして通常の県政の範囲で、あるいは関東圏をこえてできれば県北か常磐一帯の自治法の域で、負の個性へは罰則を強化すべきだ。公共福祉に背く個性はどんな些細な偏向でも厳しく罰をあたえるとりしまりがいる。勿論、ガリレオ裁判の前例をとれば言論の自由・思想の自由といった少数者の人権を守る法益が前提として。
―――
��1
あいての妨害という消極的競争さえしなければ。但し、社会生物学からひけばこの妨害そのものが定式というか常識化される生態もある。
しかし、一般にこの妨害工作は「人を呪わば穴二つ」といわれる様、その為に費やされる労力をさしひいてなお生態のmeritとなるときしか維持されないだろう。
妨害行動の維持される条件:妨害cost<生態merit←妨害cost=生態cost
��:よりおおきい
←:ただし
��:ひとしい
しかもこの適所か特殊な類型への適応は、妨害にかかる費用が高くなりすぎると同時に生態のための過剰な費用として(特にいわゆるrunaway processがはたらいて加速度的にこの意地悪な能力傾向が遺伝子のうえで過剰になっていくと)、ほかの適所への再進出を不可能または困難にしてしまうだろう。我々が僻地でおきる奇形化の前兆として、妨害工作をみるのは基本的には正しいとおもわれる。
尤も、全くそれがない生態というのも考えづらいわけだが。例えば人類社会で犯罪とか嫌がらせとか極端なとき虐めとか、こういう意地悪が皆無の場がそれほど多くないと理解できよう。と同時にこの種の意地悪種が嫌われたり、必ずしも好かれず、また悪役という名義やレッテルをもつのもわかる。彼らの性格がそれ自体として選択される機会は、およそ「ただ乗り」の個体数の出現率に比例するのだろう。なぜならこの個体群を利用して意地悪によって生じる‘できる個体群’の不利益を横流ししてもらう、というのが妨害工作の本質なのだろうから。さもなければ、自らにさえ不利でしかない妨害が異性間であれ社会間であれ選択される余地はまずない。
こうして「ただ乗り」を社会にうむのは、それ単体として不合理なばかりかめぐりめぐって意地悪な種をそだててしまう可能性がある。しかし、ただ乗りができる余地を社会や生態がどこかに介在させているかぎり、この性悪な個体群はつねに一定数いつづけるだろう。この推論は、なぜ人類があれほど世界宗教や法的罰則で注意をよびさましつづけてきたにもかかわらず、悪さとそれを頻繁にしてしまう悪者が皆無にならなかったかを説明していそう。要するに、原因として「ただ乗り」が社会のつくりとして生じる瞬間、悪の芽が生えたのとひとしい。だから積極的には「ただ乗り」がしえない社会構造をつくりなおすのがよりすぐれた個体をはぐくむにはつねに有益にして有徳なのだろう。
��2
ただし大都市圏へはこのかぎりではない。つまり大都市圏では例外として、所得と教養が正比例しない。
訳は、おそらく商圏の中枢にあるため高い消費が前提とされる生活と地価ならびに物価の高さのため。これは生活程度と比例しないのに注意がいる。過密な商業都市条件は所得による人口扶養力を相殺する。
��3
では何が才能をはぐくむか。これはめずらしさに関するかぎりは異系配偶の正の効果(つまり公共福利についての遺伝的選抜)に、ほか単なる基本能力へは習性にともなう同性間社会競合的かつ異性的選択の効果によるだろう。
特に最後の効果はアメリカなどでは同性婚という自然繁殖不能な例外がみられるが、それですら性別が役割分業の効用にもとづいて要請する才覚をのばす社会的誇示の為に浮動した姿にすぎないはず。結局、「男らしさ」「女らしさ」が何らかの類型をともなって連続的に遺伝選好につながる恒常さが最も長期にわたり基本的な天性への傾向をつける。なぜなら少数派は変化をつけることはあっても標本の母体数になりはしないのだから、それらのcoupleの質は多数派を占め得る条件外ではただの社会的誇示、多くは反逆や反抗を伴って個人生活に埋没するための、となる。
だからひとことでいうと、習性のよさ、をふくむめずらしい異性とのつきあい、がその地域でとうとばれることこそ素晴らしい。くわしい習性のよしあしはおよそ社会のもつ趣味の問いだろう。我々がうわさによってひろくおこなっている各家庭やその血統への選別や評価はこれに該当するために、仮にその個人差の守秘性をいくらか見透かす部分があったにせよ(これはprivacy権と時にくいちがいをきたすので厳密な意味では「おもいやり」や「倫理的限度」に伴う個人の自由に属する行為だが)、社会からの淘汰の力としては少なくとも善い趣味についてのそれは有益といわざるをえない。
高い趣味が重要とは、交際に関するかぎり真だろう。それが劣るばあい、負の才能、つまり人類やかれらをとりまく諸生態へ悪影響をおよぼす才能へもえらばれる余地を与えてしまうことになる。だから我々がもっている「批評:critic」の能力は、もし定住にともなうかなり共通の利害集団との社会淘汰という意味でなら飽くまで有用となるだろう。
例えばこれがさほど機能しなくなった‘隣は何をする人ぞ’な大都市圏とか、あまりにひろい大陸やひさしい交通の要所のため同じ住民や同じidentityの個性への評価がなりたたなくなった居場所よりも、規模の功利かその他の個人特定の工夫で趣味へのえらびがはたらきつづける所での方がいい才能が羽含まれ易いだろう。
北茨城市でいえば天心記念美術館や、市美術展などはすでにあるこの繰り返しはたらく趣味へのえらびにつながるよい機能といえる。同様のしくみを、社会にひろく至らせるといい。投稿された俳句を実名で公開していき(有償無償で)報償するとかもこの一つだし、市民栄誉賞みたいなものを複数もうける、あるいは市内在住者か関係者についての雨情記念賞みたいなしくみで童謡その他の学術文化のよき発展へ寄与した証拠をとりあげるなども。
そしてさらに有効なのは、できるかぎりひろい交際をともなって趣味を選択していくということにあるはずだ。4万人に出現するtypeは40億人の中のそれよりすぐれている事がまれだろう。
したがってこの対象者の選考は(定住にともなう社会効果がみられなければ無意味だから、市内に関係か少なくとも定着した記録とひきかえになるとしても)ひろく世界から行うとよりよいだろう。
��4
これらは漱石『文学論』の才能の分類による。能才とは時代を機敏によむ能力の才のことで、生まれつきの天性とか、学習のよさとかとも異質とされている。いわゆる現代語でタレント:talentというのがこれだろう。
��5
その程度のひどい公共心の欠如は、少なくとも利他系の政治社会で長続きできない為に遠からずsect化してさらなる災いのたねとなりそうだ。監視や、場合によっては我々の地域からの排斥か厳罰、又は(危険な策だが、少なくとも一時的)懐柔がいるとおもえる点。
菅一族のtypeが政治界ではいずれ除去される、というのは疑いがたい。国民を犠牲に肥え太る、そしてその責任を転化する、という能力は独裁者の型だから。しかし、それまでは少なくとも日本という単位ではこの形質が猛威をふるう域で災厄がひろがる、とはいえるだろう。
例えばヒトラーはよく独裁者の典型としていわれるが、彼がドイツ国民へ与えた利益とひきかえに、ユダヤ人への虐待と敗戦でかれらは国際的汚名をこうむった。或いは昭和天皇も形式上で同じ。彼らの行いはアングロサクソンや他のヨーロッパのラテン系民族の植民侵略の非人道さをあばきたてた。
ところが、原理としてみれば日本とドイツの後進さが人道の罪について負担のおしつけがわりにされた、ということだ。さらにいえばよりうまいやり方で、傷つかずに植民侵略の中にひそんだ非人道を断罪できたはずなのだからこの役割のただならぬ損失は単に劣った指導者の失敗というしかない。
要は独裁の気質(と、それへの選択のなれ)はこの行政上の意志決定の遅れを及ぼす為に不幸の源なのだ。究極でいえば、君主あるいは王と独裁者あるいは僭主の違いは「公共心」が「利己心」よりつよく大きいかどうかだ。
公共心>利己心→王
公共心<利己心→独裁者
��:よりおおきい
��:よりちいさい
→:ならば
この公共心には利他心が含まれ、しかも最大限の他者にとっての利害が可能なかぎり平等に含まれる事を要する。
ドイツと日本の君主がともに敗退したのは、特にかれらが自民族中心主義を高揚させ(さらにいえば昭和天皇の末裔自身は様々な断片から否定したがるだろうが、帝国憲法にさえ日本民族という概念が国家神道という特定宗教とむすびつけられてあるのだから通らない)、ほかの民族体との連携をうしなう事になったのにもかなり依存しているとおもわれる。少数派単体での奮闘でなしえる政治などかなり限られてくるし、基本的にはクーデターのかたちをとるしかない(例えば幕末の薩長土肥と特定公家の連携)。こうして長期にわたる行政圏の安定をえるには、単なる権力闘争上の覇権にともなった公共心の肝要がいるのだろう。
この才覚が欠けていながら小規模の権力闘争にのみ能力をもっている人物は、独裁者気質として悪評の源になるわけだ。我々はおとなりの民族からは目の敵にされている伊藤博文や昭和天皇、内政では古くは明智光秀に裏切られた織田信長や内乱で島流しになった後醍醐天皇をあげられるだろう。
政治家の評価には難しいというか常に完全ではなく時代柄により二分されえるところがあるが、長期間の評価は比較的安定していると仮定すると、公共心のよさを実際の権勢として発揮した彼らだけが名君となって評価が定着すると考えていいだろう。徳政に特徴ある水戸黄門や公平な裁決の松平春嶽の定評、例えばアメリカでいう独立宣言起草のジェファーソンや植民地状態のインドを消極的抵抗で独立させたガンジーへの評価はここからくる。
これらの気質差は、政治の才がもし選択されるなら権勢欲つまり野心自体へではなく、公共心を実践できるそれ(少なくとも公共心を伴った権力闘争の強さ)へのもののみが正しいのだろうと教える。ナポレオンやチャーチル、又はトルーマンや秀吉は見る側によって評価が完全に相殺されてしまう傾向をもつ。これらの権力闘争のみの才能(ここで「鬼才」と定義しよう)は、かなり長い目でみると多分、きわめて強い公共心を発揮できた才能のかげにかくれて見えないほどの光になるのだろう。比べて、強い公共心を実行にうつせた政治家は「英才」とよぼう。
もし以上の推察が大枠ただしければ、後世、徳川慶喜やワシントンは英才として、西郷隆盛やブッシュは鬼才として評価されていく。この長い目、すなわち正史を見る目は英才育成へ最も必要な教養ではないか。(水戸学はその働きそのものが正しい。よって少なくとも政治の英才教育の為には伝統として維持すべき上等な風儀である)。
我々が例えば司馬遼太郎の小説史観を鵜呑みにしたり、このたぐいの紫式部からきている物語史観を信じ込むのはきわめてよくない習癖だとわかる。それらは娯楽したてにごまかして、史実とことなる伝承の脚色を通してあやまった偏見をあたえてしまうからだ。
自分がしるかぎり、西日本一帯と、特に近畿、そして東京都の皇族関係の居場所にこの風習がつよくある(おそらく司馬遼太郎と、紫式部の影響がとてもつよいのだろう。あるいは、もしそれらが正確なら、さらに平家物語のかたられたとされる鎌倉あたりにも、自分は見聞きしていないが実際に少しあるのかもしれない。且つ、まだ歴史的確証にはいたっていない文化史学だが、鎌倉文士というもののきっかけは、琵琶法師へ浪曲をおしえたのがもともと公卿間の卑劣な誹謗中傷の出世競争をおりた人物(信濃前司行長のちの行長入道)だった、と『徒然草』に記録がある:第二百二十六段。いわく些細な正誤の揚げ足取り(中国故事にいう「年頭月尾」に多少近い話で、7つの内5つまでしか暗記していなかったという部分をからかわれた。科挙の弊害か)、がその京都の風習からの離反の原因だった。それは哲学でいわば形式の止揚として、敗残者としての平家にあった勇猛の徳をあばく物語を、当時の片田舎であった鎌倉の武士側の古都から語らせたふしがある)。
これらは視野を狭窄にし、ある主観的偏見で歴史観をゆがめ、世界の常識や良識を別の奇形な風にかえてしまう習性で、決してすぐれた人生の態度ではない。
最も根本では口語伝承にともなう女系の風儀なのだろう。しかし、我々はこれと少なくとも縁をきるべきだろう。歴史を冷たく静かにみかえせば、口承にたよっていた原住民はみな、文字伝承による正史をしっかりと理解できた文明民から結果として駆逐されたり実際に劣位に置かれたりしてきているし、今後もそうなるはずだから。日本語話者の少なさも、かれらの口承があまりに土着であるのに由来した奇風の為なのが確か。
特に水戸のひとがつよくもっている(とされるし実際に、自分の非かもめな経験則としてその傾向が多大にある)「筋」を重く視る理屈の態度は、結局、長期間ではきわめてすぐれて正しい習性であり特徴となる。それを失うべきではなく、少なくとも地域の風儀としては強化すべきでしょう。この推論能力は学識をこえての転用にも十分な可能性がある。
しかし、高萩市はいうまでもなく日立市やいわき市などとこの命題はかなり共通しているのではないか。地方から流出して都心へあつまってしまう若年人口、というのが基本的な課題としてすべての地方都市にある。
かつ、少なくともいまの東京都知事の様に過密人口や集積のいきすぎからくる弊害にある程度自覚している者もいる。さらには、この常磐圏でも、例えば現状でいう中国地方の日本海側(山陰道)とか東北地方の日本海側とかよりは過疎さに於いて随分ましな状況にあるともいえるか。
こうして、地域のかかえる社会のばの展望はそれぞれ微妙にことなりながら、場合によっては似たものをもってもいる。
よって、ある似た利害をともなう地域では行政の分業よりも、おそらくある程度の協調性が有効になりもする。こうして、特に東京都への敵対心や野心から愛知県とか近畿地方(具体的には京阪神の三都市圏)が道州制度とか関西広域連合とかいいだしていたし、後者へは実現してしまったわけ。つまり根っからそれらは権勢欲の顕れといえる。
総合としてみると、これらのみなもとには太平洋戦後からの世代論でもあるだろうが「経済成長」というkey wordに象徴されるできるだけアジアで覇をはろうとする意欲が在来の日本人、特に幕末以来、倒幕開国側についた西の諸民俗にはありそうだ。
例えば伊藤博文を批判する声は、むかし長州藩・いま山口県のなかにはほとんどゼロではないか。かわりにユニクロはかれらにとって、東京都に匹敵する企業としてはおそらく誇りではないか(久原財閥への姿勢をかえりみれば)。この種のかたよりは彼らの中からは是正されがたく、そのegoismは資本主義経済のしくみとしてかなりのあいだ肯定されていくはず(少なくともかれらが有利なあいだ)。
この根本義といおうかideologieの源の一つは、この市に重要な関わりのあった岡倉天心の掛け声の政治転用かも。「アジアは一つ」という言葉が行政に、又は商売につかわれると岡倉自身の思想とはズレて、それがあたかもアジアの覇者を当然視する旧来の「日本」思想とかさねあわせてみられる傾向があった。
しかし、岡倉自身は単に美術、というか技が遠く極東の島までつたわってここが戦乱にまきこまれづらい特殊な孤立の条件のために博物館の様に、すでに大陸でうみだされ失われていった多くの過去の様式をためこんでいる、という観察をそのsloganとしてまとめたにすぎない。
具体的には法隆寺の伽藍の柱のエンタシスとよばれる古代ギリシア由来のふくらみとか(これは花園神社なんかにもみられるわけだ)、水墨画をつたえてきた雪村雪舟などの留学組の古きよき仕事とか、そういうものを西洋美術とはちがう立場で保全していたこと自体、アジア美術の貯蔵庫として希少価値がある、と言っている。なにもアジアで覇を張れとはいっていないから、それはいきすぎであり、むしろ福沢諭吉の様な幕末の外様系下士の深くにあった成り上がりの野望でしかないわけだ。
なにがいいたいかといえば、文化や学術の高下を競うことは一般に(*1)他の地域からの尊敬や見習いをあつめやすい。そしてこの教養と呼ばれ得るだろう能力へのえり抜きが、人口面で衰亡に面した地方社会では最も有益だろうということ。それは、決して‘行政権’や‘商業圏’とかかわりあるideaではない。
所得と教養の程は必ずしも比例しない、という指摘へは個別ではそうでない例もしばし偶然の機会や特殊な条件(*2)のためにありえるが、統計的かつ巨視的には人口あたりこれは必ず比例している。西洋諸国とアジア諸国の「国民所得:National Income:NI」をくらべれば。
ただ、残念といおうかある偶奇といおうか、近代文明の国家同士は全体とみて人口密度と国民所得は反比例する傾向にある。(つまり貧しい人は人口密度の高い国にくらしている傾向があり、富める人はその逆)。
要は、「人口密度の低さを利点にかえるには、個々の成員の質をあげるために総力をあげて教養を高めさせろ」となる。この命題を実行するためにさえ基礎的理解力がいるというのが難しい冗談みたいな矛盾で、したがって実際にそれができるのは、おそらく有能というか希有な指導者の出現率にかかっている一部ではないか。
藤原正彦氏が危険思想家なのでまず疑うべきはまちがいないが、『国家の品格』で天才論をぶちあげていたのはいくらか先覚があったろう。この種の突然変異に啓蒙の効果がかなり依存する、というのが歴史にみた格差の真相ではないかとおもえる(*3)。ガリレオやアインシュタインが社会の悪条件のために潰されていれば、近代化を欧米が先駆けた確率も随分低まっていった。かれらが平賀源内の様ななかば無下にされたとりあつかいをうけていれば、とかんがえればなぜ近代の日本があれほど後進の屈辱をへたかも瞭然とする。それは個性を殺すのをよしとした群淘汰からの圧力の強すぎさにあったのだろう。
だから少なくとも常陸圏では、天才・秀才・能才(*4)の出現をできるかぎり最大限にとうとぶ必要がある。おそらく最もこのために有益なのは、褒賞・授賞といった制度だろう。これらが厳密な意味で天才をよぶことはきわめて少ないが(geniusは大抵が同時代の理解の限界をこえているものだから、とおく次世代になってはじめて評価がついてきたことが多い)、最低でも衆目の秀才以上をえらぶ事ができるのは確か。
そして本質でいえば個人主義の定着が、よりかみ砕いていえば「人それぞれの徹底」がこれらの分業のための専門的特徴を一般的能力よりもとうとぶ習俗として地域をならしていく。
と同時に、負の天性は大犯罪者とか悪党とか独裁者とかよばれることが多いが、この罰則に気を払う必要がいくらかある。実績はほとんどあげず、政局を優先して4か月被災地を放置した菅直人などはこの種の姿の原質だろう。さらに血が濃くなって源太郎という息子を似た行政に携わらせたがっているが、これらは「罰則」のゆるみを利用してでてきているtypeだと認識していい(*5)。
だから少なくとも市政、そして通常の県政の範囲で、あるいは関東圏をこえてできれば県北か常磐一帯の自治法の域で、負の個性へは罰則を強化すべきだ。公共福祉に背く個性はどんな些細な偏向でも厳しく罰をあたえるとりしまりがいる。勿論、ガリレオ裁判の前例をとれば言論の自由・思想の自由といった少数者の人権を守る法益が前提として。
―――
��1
あいての妨害という消極的競争さえしなければ。但し、社会生物学からひけばこの妨害そのものが定式というか常識化される生態もある。
しかし、一般にこの妨害工作は「人を呪わば穴二つ」といわれる様、その為に費やされる労力をさしひいてなお生態のmeritとなるときしか維持されないだろう。
妨害行動の維持される条件:妨害cost<生態merit←妨害cost=生態cost
��:よりおおきい
←:ただし
��:ひとしい
しかもこの適所か特殊な類型への適応は、妨害にかかる費用が高くなりすぎると同時に生態のための過剰な費用として(特にいわゆるrunaway processがはたらいて加速度的にこの意地悪な能力傾向が遺伝子のうえで過剰になっていくと)、ほかの適所への再進出を不可能または困難にしてしまうだろう。我々が僻地でおきる奇形化の前兆として、妨害工作をみるのは基本的には正しいとおもわれる。
尤も、全くそれがない生態というのも考えづらいわけだが。例えば人類社会で犯罪とか嫌がらせとか極端なとき虐めとか、こういう意地悪が皆無の場がそれほど多くないと理解できよう。と同時にこの種の意地悪種が嫌われたり、必ずしも好かれず、また悪役という名義やレッテルをもつのもわかる。彼らの性格がそれ自体として選択される機会は、およそ「ただ乗り」の個体数の出現率に比例するのだろう。なぜならこの個体群を利用して意地悪によって生じる‘できる個体群’の不利益を横流ししてもらう、というのが妨害工作の本質なのだろうから。さもなければ、自らにさえ不利でしかない妨害が異性間であれ社会間であれ選択される余地はまずない。
こうして「ただ乗り」を社会にうむのは、それ単体として不合理なばかりかめぐりめぐって意地悪な種をそだててしまう可能性がある。しかし、ただ乗りができる余地を社会や生態がどこかに介在させているかぎり、この性悪な個体群はつねに一定数いつづけるだろう。この推論は、なぜ人類があれほど世界宗教や法的罰則で注意をよびさましつづけてきたにもかかわらず、悪さとそれを頻繁にしてしまう悪者が皆無にならなかったかを説明していそう。要するに、原因として「ただ乗り」が社会のつくりとして生じる瞬間、悪の芽が生えたのとひとしい。だから積極的には「ただ乗り」がしえない社会構造をつくりなおすのがよりすぐれた個体をはぐくむにはつねに有益にして有徳なのだろう。
��2
ただし大都市圏へはこのかぎりではない。つまり大都市圏では例外として、所得と教養が正比例しない。
訳は、おそらく商圏の中枢にあるため高い消費が前提とされる生活と地価ならびに物価の高さのため。これは生活程度と比例しないのに注意がいる。過密な商業都市条件は所得による人口扶養力を相殺する。
��3
では何が才能をはぐくむか。これはめずらしさに関するかぎりは異系配偶の正の効果(つまり公共福利についての遺伝的選抜)に、ほか単なる基本能力へは習性にともなう同性間社会競合的かつ異性的選択の効果によるだろう。
特に最後の効果はアメリカなどでは同性婚という自然繁殖不能な例外がみられるが、それですら性別が役割分業の効用にもとづいて要請する才覚をのばす社会的誇示の為に浮動した姿にすぎないはず。結局、「男らしさ」「女らしさ」が何らかの類型をともなって連続的に遺伝選好につながる恒常さが最も長期にわたり基本的な天性への傾向をつける。なぜなら少数派は変化をつけることはあっても標本の母体数になりはしないのだから、それらのcoupleの質は多数派を占め得る条件外ではただの社会的誇示、多くは反逆や反抗を伴って個人生活に埋没するための、となる。
だからひとことでいうと、習性のよさ、をふくむめずらしい異性とのつきあい、がその地域でとうとばれることこそ素晴らしい。くわしい習性のよしあしはおよそ社会のもつ趣味の問いだろう。我々がうわさによってひろくおこなっている各家庭やその血統への選別や評価はこれに該当するために、仮にその個人差の守秘性をいくらか見透かす部分があったにせよ(これはprivacy権と時にくいちがいをきたすので厳密な意味では「おもいやり」や「倫理的限度」に伴う個人の自由に属する行為だが)、社会からの淘汰の力としては少なくとも善い趣味についてのそれは有益といわざるをえない。
高い趣味が重要とは、交際に関するかぎり真だろう。それが劣るばあい、負の才能、つまり人類やかれらをとりまく諸生態へ悪影響をおよぼす才能へもえらばれる余地を与えてしまうことになる。だから我々がもっている「批評:critic」の能力は、もし定住にともなうかなり共通の利害集団との社会淘汰という意味でなら飽くまで有用となるだろう。
例えばこれがさほど機能しなくなった‘隣は何をする人ぞ’な大都市圏とか、あまりにひろい大陸やひさしい交通の要所のため同じ住民や同じidentityの個性への評価がなりたたなくなった居場所よりも、規模の功利かその他の個人特定の工夫で趣味へのえらびがはたらきつづける所での方がいい才能が羽含まれ易いだろう。
北茨城市でいえば天心記念美術館や、市美術展などはすでにあるこの繰り返しはたらく趣味へのえらびにつながるよい機能といえる。同様のしくみを、社会にひろく至らせるといい。投稿された俳句を実名で公開していき(有償無償で)報償するとかもこの一つだし、市民栄誉賞みたいなものを複数もうける、あるいは市内在住者か関係者についての雨情記念賞みたいなしくみで童謡その他の学術文化のよき発展へ寄与した証拠をとりあげるなども。
そしてさらに有効なのは、できるかぎりひろい交際をともなって趣味を選択していくということにあるはずだ。4万人に出現するtypeは40億人の中のそれよりすぐれている事がまれだろう。
したがってこの対象者の選考は(定住にともなう社会効果がみられなければ無意味だから、市内に関係か少なくとも定着した記録とひきかえになるとしても)ひろく世界から行うとよりよいだろう。
��4
これらは漱石『文学論』の才能の分類による。能才とは時代を機敏によむ能力の才のことで、生まれつきの天性とか、学習のよさとかとも異質とされている。いわゆる現代語でタレント:talentというのがこれだろう。
��5
その程度のひどい公共心の欠如は、少なくとも利他系の政治社会で長続きできない為に遠からずsect化してさらなる災いのたねとなりそうだ。監視や、場合によっては我々の地域からの排斥か厳罰、又は(危険な策だが、少なくとも一時的)懐柔がいるとおもえる点。
菅一族のtypeが政治界ではいずれ除去される、というのは疑いがたい。国民を犠牲に肥え太る、そしてその責任を転化する、という能力は独裁者の型だから。しかし、それまでは少なくとも日本という単位ではこの形質が猛威をふるう域で災厄がひろがる、とはいえるだろう。
例えばヒトラーはよく独裁者の典型としていわれるが、彼がドイツ国民へ与えた利益とひきかえに、ユダヤ人への虐待と敗戦でかれらは国際的汚名をこうむった。或いは昭和天皇も形式上で同じ。彼らの行いはアングロサクソンや他のヨーロッパのラテン系民族の植民侵略の非人道さをあばきたてた。
ところが、原理としてみれば日本とドイツの後進さが人道の罪について負担のおしつけがわりにされた、ということだ。さらにいえばよりうまいやり方で、傷つかずに植民侵略の中にひそんだ非人道を断罪できたはずなのだからこの役割のただならぬ損失は単に劣った指導者の失敗というしかない。
要は独裁の気質(と、それへの選択のなれ)はこの行政上の意志決定の遅れを及ぼす為に不幸の源なのだ。究極でいえば、君主あるいは王と独裁者あるいは僭主の違いは「公共心」が「利己心」よりつよく大きいかどうかだ。
公共心>利己心→王
公共心<利己心→独裁者
��:よりおおきい
��:よりちいさい
→:ならば
この公共心には利他心が含まれ、しかも最大限の他者にとっての利害が可能なかぎり平等に含まれる事を要する。
ドイツと日本の君主がともに敗退したのは、特にかれらが自民族中心主義を高揚させ(さらにいえば昭和天皇の末裔自身は様々な断片から否定したがるだろうが、帝国憲法にさえ日本民族という概念が国家神道という特定宗教とむすびつけられてあるのだから通らない)、ほかの民族体との連携をうしなう事になったのにもかなり依存しているとおもわれる。少数派単体での奮闘でなしえる政治などかなり限られてくるし、基本的にはクーデターのかたちをとるしかない(例えば幕末の薩長土肥と特定公家の連携)。こうして長期にわたる行政圏の安定をえるには、単なる権力闘争上の覇権にともなった公共心の肝要がいるのだろう。
この才覚が欠けていながら小規模の権力闘争にのみ能力をもっている人物は、独裁者気質として悪評の源になるわけだ。我々はおとなりの民族からは目の敵にされている伊藤博文や昭和天皇、内政では古くは明智光秀に裏切られた織田信長や内乱で島流しになった後醍醐天皇をあげられるだろう。
政治家の評価には難しいというか常に完全ではなく時代柄により二分されえるところがあるが、長期間の評価は比較的安定していると仮定すると、公共心のよさを実際の権勢として発揮した彼らだけが名君となって評価が定着すると考えていいだろう。徳政に特徴ある水戸黄門や公平な裁決の松平春嶽の定評、例えばアメリカでいう独立宣言起草のジェファーソンや植民地状態のインドを消極的抵抗で独立させたガンジーへの評価はここからくる。
これらの気質差は、政治の才がもし選択されるなら権勢欲つまり野心自体へではなく、公共心を実践できるそれ(少なくとも公共心を伴った権力闘争の強さ)へのもののみが正しいのだろうと教える。ナポレオンやチャーチル、又はトルーマンや秀吉は見る側によって評価が完全に相殺されてしまう傾向をもつ。これらの権力闘争のみの才能(ここで「鬼才」と定義しよう)は、かなり長い目でみると多分、きわめて強い公共心を発揮できた才能のかげにかくれて見えないほどの光になるのだろう。比べて、強い公共心を実行にうつせた政治家は「英才」とよぼう。
もし以上の推察が大枠ただしければ、後世、徳川慶喜やワシントンは英才として、西郷隆盛やブッシュは鬼才として評価されていく。この長い目、すなわち正史を見る目は英才育成へ最も必要な教養ではないか。(水戸学はその働きそのものが正しい。よって少なくとも政治の英才教育の為には伝統として維持すべき上等な風儀である)。
我々が例えば司馬遼太郎の小説史観を鵜呑みにしたり、このたぐいの紫式部からきている物語史観を信じ込むのはきわめてよくない習癖だとわかる。それらは娯楽したてにごまかして、史実とことなる伝承の脚色を通してあやまった偏見をあたえてしまうからだ。
自分がしるかぎり、西日本一帯と、特に近畿、そして東京都の皇族関係の居場所にこの風習がつよくある(おそらく司馬遼太郎と、紫式部の影響がとてもつよいのだろう。あるいは、もしそれらが正確なら、さらに平家物語のかたられたとされる鎌倉あたりにも、自分は見聞きしていないが実際に少しあるのかもしれない。且つ、まだ歴史的確証にはいたっていない文化史学だが、鎌倉文士というもののきっかけは、琵琶法師へ浪曲をおしえたのがもともと公卿間の卑劣な誹謗中傷の出世競争をおりた人物(信濃前司行長のちの行長入道)だった、と『徒然草』に記録がある:第二百二十六段。いわく些細な正誤の揚げ足取り(中国故事にいう「年頭月尾」に多少近い話で、7つの内5つまでしか暗記していなかったという部分をからかわれた。科挙の弊害か)、がその京都の風習からの離反の原因だった。それは哲学でいわば形式の止揚として、敗残者としての平家にあった勇猛の徳をあばく物語を、当時の片田舎であった鎌倉の武士側の古都から語らせたふしがある)。
これらは視野を狭窄にし、ある主観的偏見で歴史観をゆがめ、世界の常識や良識を別の奇形な風にかえてしまう習性で、決してすぐれた人生の態度ではない。
最も根本では口語伝承にともなう女系の風儀なのだろう。しかし、我々はこれと少なくとも縁をきるべきだろう。歴史を冷たく静かにみかえせば、口承にたよっていた原住民はみな、文字伝承による正史をしっかりと理解できた文明民から結果として駆逐されたり実際に劣位に置かれたりしてきているし、今後もそうなるはずだから。日本語話者の少なさも、かれらの口承があまりに土着であるのに由来した奇風の為なのが確か。
特に水戸のひとがつよくもっている(とされるし実際に、自分の非かもめな経験則としてその傾向が多大にある)「筋」を重く視る理屈の態度は、結局、長期間ではきわめてすぐれて正しい習性であり特徴となる。それを失うべきではなく、少なくとも地域の風儀としては強化すべきでしょう。この推論能力は学識をこえての転用にも十分な可能性がある。
2011年8月20日
農直市場の再開拓の余地
長州市場なる試みをやりだしている人物あり。
http://chousyuu-ichiba.com/
つまり産直で都心へ農作物を輸出する、という手法。
で、もしこれをより合理な姿で勝ち抜くには、物流とイメージ計略がポイントだろう。この人物のやり方は決してうまくないと思う。いまのうちなら出し抜ける。
産直という姿でありつつ、特定のブランド名を冠して(たとえば雪印がメグミルク/MEGMILKという商標で挽回したごとく)まったくイメージをかえて、物流面でより有利な近場の常磐一帯の「検査証明書」のある格安品を、できるだけ消費地のまんなかにもちこむというやつ。
ただし、自分はある程度予想できるが北茨城市の既存の業者にこれがうまくできるとはすこしもおもえない。この人たちにはこの点での才覚が十分ではない。資本の蓄積量をみれば瞭然と。
だからいざブランド名をふくむ販売計略をたくらむときには、たとえば佐藤可士和氏や糸井重里氏みたいにすでに実績のあるコピーライターを起用してその一切のブランドにかかわる憲章をできれば企業機密に近い形で制定・謀略する必要がある。この点、少なくとも外注が基本的に必然だろう。そのコツを学習するべきではあるが、やはり市場の情報と動向を敏感に察知するという才覚は天性にちかく、必ずしも努力のみで手に入るものではないだろう。だからその時点での抜群の才能のもちぬしと組むなら、福島県や栃木県、県南を含めて農協にでない規格外品のブランドづけした格安での消費地直売の稼業には展望がありえる。
某事業の不利な点は遠すぎて物流費用が嵩むうえ、政治的な色彩が強すぎて疎んじられる可能性があるブランドというところだ。かれらの資本金1300万円をこえた額から出発すれば、よりアドバンテージがあるといえる。人はなじみのあるものの方をえりごのむからだ。「福島」という語についたイメージや、「関東」という語のそれなど、何らかの購買意欲や安心感に直結するそれを工夫することで、農協を介さない資本家または荘園地主とタッグでの農産物の直接・間接な物流にもまだ開拓の余地があるといえそう。
おそらく己をみあやまり、自力でもこの流行ができるとおもいこめば、どのいなかものにも到底できないだろう。都会のすべての流行をしきっている人物に情報量でまさることはほぼありえない。だからブランドの計算についてだけは完全に才覚ある人物、特に時代の先端をいくコピーライターやデザイナー、コンサルタントといった系列の彼らにたのむべきだ。
http://chousyuu-ichiba.com/
つまり産直で都心へ農作物を輸出する、という手法。
で、もしこれをより合理な姿で勝ち抜くには、物流とイメージ計略がポイントだろう。この人物のやり方は決してうまくないと思う。いまのうちなら出し抜ける。
産直という姿でありつつ、特定のブランド名を冠して(たとえば雪印がメグミルク/MEGMILKという商標で挽回したごとく)まったくイメージをかえて、物流面でより有利な近場の常磐一帯の「検査証明書」のある格安品を、できるだけ消費地のまんなかにもちこむというやつ。
ただし、自分はある程度予想できるが北茨城市の既存の業者にこれがうまくできるとはすこしもおもえない。この人たちにはこの点での才覚が十分ではない。資本の蓄積量をみれば瞭然と。
だからいざブランド名をふくむ販売計略をたくらむときには、たとえば佐藤可士和氏や糸井重里氏みたいにすでに実績のあるコピーライターを起用してその一切のブランドにかかわる憲章をできれば企業機密に近い形で制定・謀略する必要がある。この点、少なくとも外注が基本的に必然だろう。そのコツを学習するべきではあるが、やはり市場の情報と動向を敏感に察知するという才覚は天性にちかく、必ずしも努力のみで手に入るものではないだろう。だからその時点での抜群の才能のもちぬしと組むなら、福島県や栃木県、県南を含めて農協にでない規格外品のブランドづけした格安での消費地直売の稼業には展望がありえる。
某事業の不利な点は遠すぎて物流費用が嵩むうえ、政治的な色彩が強すぎて疎んじられる可能性があるブランドというところだ。かれらの資本金1300万円をこえた額から出発すれば、よりアドバンテージがあるといえる。人はなじみのあるものの方をえりごのむからだ。「福島」という語についたイメージや、「関東」という語のそれなど、何らかの購買意欲や安心感に直結するそれを工夫することで、農協を介さない資本家または荘園地主とタッグでの農産物の直接・間接な物流にもまだ開拓の余地があるといえそう。
おそらく己をみあやまり、自力でもこの流行ができるとおもいこめば、どのいなかものにも到底できないだろう。都会のすべての流行をしきっている人物に情報量でまさることはほぼありえない。だからブランドの計算についてだけは完全に才覚ある人物、特に時代の先端をいくコピーライターやデザイナー、コンサルタントといった系列の彼らにたのむべきだ。
2011年8月19日
Social ecobiology on Ibaraki, Japan
The means of social selection of the species are that preparing for survival fittness? This thesis of human-included society should reconcern at social biology.
The aim of tendency for human being non racism selection was a cultural social selectional it. This non racism presented our material and systematic social comprehensiveness be the purpose of selective calmness, named the liberty.
Generated social sexual more reasonable marriage regime or that tendencies will call as a wisdom of the nation. I saw this selective motivation was the best reason of human society, and its architecture as political economy.
This civilization mind will get some regitimacy and tasteship of their processing generations.
Our cooperative acting were got characteristic humanity on the nationalizing result. Was not the name of country or company, party, nationality that?
We thank cultural diversity for the processing rationalism of civilization. Liberty's aim and some poveties be too. This value ability whomever gets access of division's reason has had an added advantage, but also has brought to gaps at individuals or some associates.
The idea of invisible hand for capitalizing had brought instruction to peaceful far east isles. I used to see non commercial cooperation but today we almost chould not see these irrational acting fazed more minority.
So selective place late was gone old good morality at changing from the population belief.
This was reasonable process for changing out pressured far east isles or, some regional non-religional revolution. We have to fit and recreate the society on our pretend works. Pretend?
Because this social selection is a typo thesis by an age or era. Main work of species would be stable at selective re-adaptation. Pretends of adorn runaway is not the stable process. We have expelled these non profitable changes, todays too.
Why they made a social selective motivation? This would originate cooperation and their marriageness in ancients. On now we saw the capital democrats made their social philosophies for the aim. Of MacAuthur, Perry, or Adam Smithe's universe influences on the liberalism societies.
The aim of tendency for human being non racism selection was a cultural social selectional it. This non racism presented our material and systematic social comprehensiveness be the purpose of selective calmness, named the liberty.
Generated social sexual more reasonable marriage regime or that tendencies will call as a wisdom of the nation. I saw this selective motivation was the best reason of human society, and its architecture as political economy.
This civilization mind will get some regitimacy and tasteship of their processing generations.
Our cooperative acting were got characteristic humanity on the nationalizing result. Was not the name of country or company, party, nationality that?
We thank cultural diversity for the processing rationalism of civilization. Liberty's aim and some poveties be too. This value ability whomever gets access of division's reason has had an added advantage, but also has brought to gaps at individuals or some associates.
The idea of invisible hand for capitalizing had brought instruction to peaceful far east isles. I used to see non commercial cooperation but today we almost chould not see these irrational acting fazed more minority.
So selective place late was gone old good morality at changing from the population belief.
This was reasonable process for changing out pressured far east isles or, some regional non-religional revolution. We have to fit and recreate the society on our pretend works. Pretend?
Because this social selection is a typo thesis by an age or era. Main work of species would be stable at selective re-adaptation. Pretends of adorn runaway is not the stable process. We have expelled these non profitable changes, todays too.
Why they made a social selective motivation? This would originate cooperation and their marriageness in ancients. On now we saw the capital democrats made their social philosophies for the aim. Of MacAuthur, Perry, or Adam Smithe's universe influences on the liberalism societies.
2011年8月13日
未来のこと
遠い未来、星として地球が滅びるのは一つの仮説だがありえる。地球の公転はその遠心力と太陽からの引力が釣り合った結果だが、長い目で大きく見れば公転軌道が次の二点の原因でずれる可能性がある。
��、太陽の燃え尽きで恒星引力が低下し地球の軌道は太陽系の外へと広がって行く。
��、地球そのものが複数の理由からなる摩擦で遠心力を弱め太陽へ落下する。
その他の例外として、過去にも小さな事例はあったが
��、巨大隕石の落下で軌道が外れるか星ごと大破する。
またそれに類して
��、地球内外生物の侵略や謀略で星が破壊される。
場合もある。むしろ、人類の性を見なせばこれが最も確率としては高い気がする。
これらを思い返せば、少なくとも億年単位では地球は安全不動の適所ではない。そこは、もっと巨視すれば仮の宿りというしかない。特定の生物がうまく生態地位を安定させて永続きした記録は必ずしも上位の生物へ多くないから、「人類」が生き残るかどうかは未知だが、おそらくあまり高い確率ではないだろう。
少なくとも恐竜の前例があり、生態的地位の最高位を占めて繁栄しすぎた生きものへは環境の激変でそれまで食べられた多くの必須栄養価が突然とれなくなる、という報いがあるわけ。人類は「道具」を使ってそれまでにない生態圏にも適応するすべを身につけてきたが、この必須栄養価の致命的不足を栽培や養殖の技術で切り抜けたとしても、そういう時代は甚だしい技術資源争奪戦争を経由するだろう。
要するに、現時点の資本商社会は来たる技術資源争奪戦の前哨戦というやつなのかも。少なくとも大きな気候変動があれば即座にその戦へ我々人類全員が否応なく突入するはず。
こうして見ていくと、スティーブン・ホーキング氏がいう冗談としての人類の高技術自滅論は、少なくとも食料資源争奪戦としてはかなり現実味を帯びているのが間違いない。それらの技術か工学で、既存の食料生産物がもうとれなくなってからも食料をつくりだせる場合だけ、かなり高い栄養価を必須とするまで贅沢な淘汰をへてきた人類は生存権を未来へ持って行くはず。
例えば大規模な臨界事故一つでその地域での既存の仕方でつくられた食料摂取は絶望的となる。これらの人工の災いを含む過酷環境でも生き残る為には、やはり「道具」をつかえるという人類の特徴を更に進化させた高い工学の人類が必要ではないか。
特定の赤紫の、植物が吸収しやすい波長だけを集中して人工管理下で当てた野菜栽培などが実験されているが、いまの段階の文化では何となく忌避感のある仕業だが、もう少し近い未来の人類は何とも思わない筈。我々は、例えばお菓子だろうがコーヒーだろうが完全に機械生産されたものを日常に食事する状態にある。これも慣れにすぎないのだろう。だからかなり近い将来、米や麦や大豆などの穀物類はいうまでもなく、管理された家畜の食肉や養殖魚介類もより高い技術をつかった何らかの人工的工場で行われる事になるだろう。
もしこれが果たされない、高い技術と縁のない文明がすみかだったなら、きわめて大きな気候変動や天変地異への適応能力が十分ではない為に絶滅の危機と裏腹でありつづける。
或いは国連の枠組みや貿易構造を通して、一国や一文明圏での工学の輸出入がありえる。故にどの文明も同様に生き残りえる、という仮説もあるだろう。しかし、これまでの人類史、そして生物の歴史を見返せばそれは殆どない夢物語ではないだろうか。人類は、そして生物というものはもっと遥かに冷酷で利己的な存在だ、と認める他ない。我々は日常に他のありとあらゆる生物を利用したり実際に殺害して食べているわけだが、一体全人類の内それへ感謝や罪悪感を担って他のいきものへ譲ろうとしている者がどれだけ極小か。
つまり、草食の人でさえ、何らかの有機体である他の生物を消化した力で動くしかない。動物、というのはanimalの面白い訳語だが。結局この人類は、動物たる為にはつねに他の生物へたよっている。
というか、人の細胞そのものが特定の生物としての状態でしかなく、水を媒介としてたまたま結びついて共通の目的(およそ複雑になっていく細胞の分裂と自己複製による存続という)へ向けた活動をしている。この人体細胞群は他の生物体のいろいろをみな利用して摂取したり排除したり改変したりしつつ何とか長続きしたがっている。
以上をまとめて考えると、人類の長い間の生存率は工学度により、ある閾値以下ではおそらく高い確率である環境変動後の将来、絶滅する(それがいまの先進国で起きている経済社会の競走へ強いえり好みによる人口減退という和平的なありさまを通して徐々にか、それとも他の文化の侵入や戦争や飢饉ほか暴威をふくむ衝撃で急激にかは場所によるだろう)。
そして人類も含む生物種は本性に於いては利己的(たとえば原始のミトコンドリアが複数の細胞をとりこんで生息を保った時代から)なので、かなり似通った同類の間でも常に食うと食われるという連鎖が拡大していき、遂には人種以上の違いに至るはず。
我々は過去の地球生物史から必ずしも食う側が生き残るとは限らないと知っているし、特に大量絶滅という凄まじい命の瓶くびを経るときにはそこでの淘汰効果は絶大と分かっているので、現時点で様々な人種へ分化している人類には、単なる民族差をこえて決してすべてがそっくりそのまま生き残るなどという未来がありえないとも推察する。つまり「生き残って次の段階の動物へくりこされるのは、本の一部の瓶くびを経由できた人類の特定種類」でしかないはず。そして既存の人類文化の上か、又はその絶滅後、衰退後かは分からないが、彼らは確実により広くほぼ無限な適所をもつ宇宙世界へ出て行く事ができる。
ロボットの姿での進出というのはよくScience Fictionで設定されるが、自律した複製と分裂をかなりの生物経験と共にくりかえせる機械が出れば、或いは耐久性が高く過酷な環境でも動ける動物の範畴へ、ロボットは入れられるのかもしれない。そして何より、プログラムが優れていれば、且つ神のミームをのせてやれば、人類よりかれらの方が賢いはずだ。「道徳」とか「情緒」といった回路がくみこめれば、ロボットの姿での宇宙進出が人類の姿でのそれより現実味が高い。意識を生むプログラムも近く開発されるだろう。そうなって、人類が既に時代遅れとなってからは、かなり明るい将来像が描けるだろう。
��、太陽の燃え尽きで恒星引力が低下し地球の軌道は太陽系の外へと広がって行く。
��、地球そのものが複数の理由からなる摩擦で遠心力を弱め太陽へ落下する。
その他の例外として、過去にも小さな事例はあったが
��、巨大隕石の落下で軌道が外れるか星ごと大破する。
またそれに類して
��、地球内外生物の侵略や謀略で星が破壊される。
場合もある。むしろ、人類の性を見なせばこれが最も確率としては高い気がする。
これらを思い返せば、少なくとも億年単位では地球は安全不動の適所ではない。そこは、もっと巨視すれば仮の宿りというしかない。特定の生物がうまく生態地位を安定させて永続きした記録は必ずしも上位の生物へ多くないから、「人類」が生き残るかどうかは未知だが、おそらくあまり高い確率ではないだろう。
少なくとも恐竜の前例があり、生態的地位の最高位を占めて繁栄しすぎた生きものへは環境の激変でそれまで食べられた多くの必須栄養価が突然とれなくなる、という報いがあるわけ。人類は「道具」を使ってそれまでにない生態圏にも適応するすべを身につけてきたが、この必須栄養価の致命的不足を栽培や養殖の技術で切り抜けたとしても、そういう時代は甚だしい技術資源争奪戦争を経由するだろう。
要するに、現時点の資本商社会は来たる技術資源争奪戦の前哨戦というやつなのかも。少なくとも大きな気候変動があれば即座にその戦へ我々人類全員が否応なく突入するはず。
こうして見ていくと、スティーブン・ホーキング氏がいう冗談としての人類の高技術自滅論は、少なくとも食料資源争奪戦としてはかなり現実味を帯びているのが間違いない。それらの技術か工学で、既存の食料生産物がもうとれなくなってからも食料をつくりだせる場合だけ、かなり高い栄養価を必須とするまで贅沢な淘汰をへてきた人類は生存権を未来へ持って行くはず。
例えば大規模な臨界事故一つでその地域での既存の仕方でつくられた食料摂取は絶望的となる。これらの人工の災いを含む過酷環境でも生き残る為には、やはり「道具」をつかえるという人類の特徴を更に進化させた高い工学の人類が必要ではないか。
特定の赤紫の、植物が吸収しやすい波長だけを集中して人工管理下で当てた野菜栽培などが実験されているが、いまの段階の文化では何となく忌避感のある仕業だが、もう少し近い未来の人類は何とも思わない筈。我々は、例えばお菓子だろうがコーヒーだろうが完全に機械生産されたものを日常に食事する状態にある。これも慣れにすぎないのだろう。だからかなり近い将来、米や麦や大豆などの穀物類はいうまでもなく、管理された家畜の食肉や養殖魚介類もより高い技術をつかった何らかの人工的工場で行われる事になるだろう。
もしこれが果たされない、高い技術と縁のない文明がすみかだったなら、きわめて大きな気候変動や天変地異への適応能力が十分ではない為に絶滅の危機と裏腹でありつづける。
或いは国連の枠組みや貿易構造を通して、一国や一文明圏での工学の輸出入がありえる。故にどの文明も同様に生き残りえる、という仮説もあるだろう。しかし、これまでの人類史、そして生物の歴史を見返せばそれは殆どない夢物語ではないだろうか。人類は、そして生物というものはもっと遥かに冷酷で利己的な存在だ、と認める他ない。我々は日常に他のありとあらゆる生物を利用したり実際に殺害して食べているわけだが、一体全人類の内それへ感謝や罪悪感を担って他のいきものへ譲ろうとしている者がどれだけ極小か。
つまり、草食の人でさえ、何らかの有機体である他の生物を消化した力で動くしかない。動物、というのはanimalの面白い訳語だが。結局この人類は、動物たる為にはつねに他の生物へたよっている。
というか、人の細胞そのものが特定の生物としての状態でしかなく、水を媒介としてたまたま結びついて共通の目的(およそ複雑になっていく細胞の分裂と自己複製による存続という)へ向けた活動をしている。この人体細胞群は他の生物体のいろいろをみな利用して摂取したり排除したり改変したりしつつ何とか長続きしたがっている。
以上をまとめて考えると、人類の長い間の生存率は工学度により、ある閾値以下ではおそらく高い確率である環境変動後の将来、絶滅する(それがいまの先進国で起きている経済社会の競走へ強いえり好みによる人口減退という和平的なありさまを通して徐々にか、それとも他の文化の侵入や戦争や飢饉ほか暴威をふくむ衝撃で急激にかは場所によるだろう)。
そして人類も含む生物種は本性に於いては利己的(たとえば原始のミトコンドリアが複数の細胞をとりこんで生息を保った時代から)なので、かなり似通った同類の間でも常に食うと食われるという連鎖が拡大していき、遂には人種以上の違いに至るはず。
我々は過去の地球生物史から必ずしも食う側が生き残るとは限らないと知っているし、特に大量絶滅という凄まじい命の瓶くびを経るときにはそこでの淘汰効果は絶大と分かっているので、現時点で様々な人種へ分化している人類には、単なる民族差をこえて決してすべてがそっくりそのまま生き残るなどという未来がありえないとも推察する。つまり「生き残って次の段階の動物へくりこされるのは、本の一部の瓶くびを経由できた人類の特定種類」でしかないはず。そして既存の人類文化の上か、又はその絶滅後、衰退後かは分からないが、彼らは確実により広くほぼ無限な適所をもつ宇宙世界へ出て行く事ができる。
ロボットの姿での進出というのはよくScience Fictionで設定されるが、自律した複製と分裂をかなりの生物経験と共にくりかえせる機械が出れば、或いは耐久性が高く過酷な環境でも動ける動物の範畴へ、ロボットは入れられるのかもしれない。そして何より、プログラムが優れていれば、且つ神のミームをのせてやれば、人類よりかれらの方が賢いはずだ。「道徳」とか「情緒」といった回路がくみこめれば、ロボットの姿での宇宙進出が人類の姿でのそれより現実味が高い。意識を生むプログラムも近く開発されるだろう。そうなって、人類が既に時代遅れとなってからは、かなり明るい将来像が描けるだろう。
2011年8月7日
市内の浸水対策
市発行の洪水用hazard map
��一枚目、二枚目)
では、磯原・中妻・華川町にかなりの浸水がありえる。
また、こないだの仙台平野にきた津波と同等のものがくれば、おそらくこのmapよりずっとひろい区域が幅広く浸水するはず。基本として北茨城市の半分はうみべの平地なので。
たとえば
・津波による全壊 約12万棟
・津波に強かった「1階吹き通し」再使用できるケース多く 建築学会報告
を参照にすると(*1)、
��.こないだの津波では高さ4m以上の浸水域ではほとんど建物がのこらなかった。
��.ただし、ピロティ(一階が柱。足だか)造りのたてものではうみべ近くでものこった。
��.2m以上の浸水では全壊が過半に出た。
��.1m以上の浸水では大規模半壊が多かった。
を教訓にすると、できるだけはやく前例と同等級のつなみを考慮した大津波用のhazard mapをつくり、つぎの対策をたてるべき。
��.「4m以上の浸水」がみられるだろう地域ではピロティ(*2)造りで改築・新築をすれば、その為の経費全額を市税で補填する。
��.「2m以上の浸水」がみられるだろう地域ではピロティ造りで改築・新築をすれば、その為の経費一部を市税で補填する。
��.「1m以上の浸水」がみられるだろう地域ではピロティ造りを推奨する。
��.市の海に面する海抜の低い平地には一定距離ごとに緊急避難用の3階建て以上の高層避難所をたてる。
また、これらとは別に、
��'.Hazard map上にある土砂・がけ崩れの想定地域へは土留め工事促進用の助成(あるいは町内会などを介して、防災工事の責任がある所有者への工事義務付け)がいる(*3)。
��'.市内では、磯原では市役所付近、中郷では汐見ケ丘という高台に、消防拠点をうつすべき。
―――
��1
参照先の全文を以下に引用。図も添付。著作権法に配慮してc表示あり(なおhttp://homepage1.nifty.com/samito/copyright2.htm を参照にすれば、公共の福祉ならびに法解釈的に広報をめあてにしているニュース記事へは著作権法の例外になっていて、必要な範囲内で広く引用できる)。
以下http://www.s-housing.jp/archives/15171 より
��~~
津波による全壊 約12万棟 2011年8月4日 c新建ハウジングWEB.
国土交通省は8月4日、東日本大震災による被災現況調査の結果(第1次報告)を公表した。それによると、約21万9000棟の建物が津波により被災し、流失を含む全壊棟数は約12万棟だった。
津波で浸水した区域の面積は約535km2で、このうち4割超が浸水深2m以上だった。浸水深と建物被災状況の関係性を分析したところ、浸水深2m以下では建物が全壊となる割合が大幅に低下していた。
全壊12万棟のうち、約7万8000棟が流失、主要構造が損壊した全壊が3万4000棟、残りの8000棟は大規模改修により再使用が可能という。全壊以外の内訳は、大規模半壊が3万6000棟、半壊が4万棟、一部損壊が2万3000棟だった。
��~~
以上 引用おわり
以下 http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110423/dst11042323500058-n1.htm より
��~~
津波に強かった「1階吹き通し」再使用できるケース多く 建築学会報告 2011.4.23 23:49 c 2011 The Sankei Shimbun & Sankei Digital
東日本大震災の揺れや津波で被害を受けた建物を調べた結果、1階部分が吹き通しになった「ピロティ型」の建物が、津波に強かったことが、東北工業大学の田中礼治教授らの調査で分かった。沿岸部では、ほとんどの木造家屋が流失している一方で、鉄筋コンクリート構造の建物の多くが再使用できる状態で残っていることも判明した。
23日に大阪市内で行われた日本建築学会の「緊急調査報告会」で報告した。
「ピロティ型」衝撃少なかった?
田中教授らは、仙台市など宮城県の沿岸部を調査。田中教授によると、津波で木造家屋が壊滅的被害を受けた地域でも、鉄筋コンクリートの建物は、基本構造に大きな被害がなく、再使用できるケースが多かったという。鉄骨構造の建物も一部は残っていたが、基本構造が変形し、再使用は厳しい状態だった。
1階部分が主に柱だけで構成されているピロティ型の建物が津波に強いことも浮かび上がった。堤防から数十メートルの場所で津波の直撃を受けながら流失を免れたケースもあったといい、田中教授は「1階部分に外壁がなく、津波の力を受ける面積が小さくなるためではないか」と分析している。
「重さ」で耐えた鉄筋コンクリート建築
また防衛大の多田毅講師は「鉄筋コンクリートの建物は、それ自体の重量が大きく、津波の力に耐えることができた」と指摘。鉄筋コンクリートの建物であっても、一部津波で倒壊した例があることについては「昭和53年に起こった宮城県沖地震などで基礎部分が変形していた可能性もある」と述べた。
同学会は今後も被災した建物の調査を進め、地震や津波に強い建築技術などを政府に提言する方針。
��~~
以上 引用おわり
��2
具体的には一階に居住空間をもうけず、壁比率が一定よりひくいばあいに、都市計画法の条例としてそのための工事の費用一部または全額を助成する制度がいる。『ピロティ造り推奨制度』とでもいえる。たとえば今現在、磯原駅の南側にたっているマンションの一階は駐車場となっていてこの造りを採用している。
なお副作用だが、これは足の高くてすぐたおれそうな見た目でもわかるけど、つくりとしてみた耐震性はかならずしも高くないので構造計算のできる専門家にまかせないとあぶない。さらに高齢者のためにはエレベーターとか、或いはかなり大量の人がいつもつかう施設では日用の便利のためにエスカレーター、そして車いすを考慮してかならず傾斜路が別に必要となってくる。
ちなみにピロティとはフランス語の建築用語で
��ピロティ【(フランス)pilotis】
��《杭(くい)・脚・柱の意》建物の一階を柱だけ残し、吹き放しとする建築様式。また、その空間。
��ル=コルビュジェが近代建築の一要素として提唱。
[ 大辞泉 提供: JapanKnowledge ] より
��3
あるいはこれが最優先か。特に人家が隣接しているばあい、地震や台風でさえ危ういので、最低でも市内全域にこれらの危険箇所と人家の危機的関係をすべてなくす必要がある。
��一枚目、二枚目)
では、磯原・中妻・華川町にかなりの浸水がありえる。
また、こないだの仙台平野にきた津波と同等のものがくれば、おそらくこのmapよりずっとひろい区域が幅広く浸水するはず。基本として北茨城市の半分はうみべの平地なので。
たとえば
・津波による全壊 約12万棟
・津波に強かった「1階吹き通し」再使用できるケース多く 建築学会報告
を参照にすると(*1)、
��.こないだの津波では高さ4m以上の浸水域ではほとんど建物がのこらなかった。
��.ただし、ピロティ(一階が柱。足だか)造りのたてものではうみべ近くでものこった。
��.2m以上の浸水では全壊が過半に出た。
��.1m以上の浸水では大規模半壊が多かった。
を教訓にすると、できるだけはやく前例と同等級のつなみを考慮した大津波用のhazard mapをつくり、つぎの対策をたてるべき。
��.「4m以上の浸水」がみられるだろう地域ではピロティ(*2)造りで改築・新築をすれば、その為の経費全額を市税で補填する。
��.「2m以上の浸水」がみられるだろう地域ではピロティ造りで改築・新築をすれば、その為の経費一部を市税で補填する。
��.「1m以上の浸水」がみられるだろう地域ではピロティ造りを推奨する。
��.市の海に面する海抜の低い平地には一定距離ごとに緊急避難用の3階建て以上の高層避難所をたてる。
また、これらとは別に、
��'.Hazard map上にある土砂・がけ崩れの想定地域へは土留め工事促進用の助成(あるいは町内会などを介して、防災工事の責任がある所有者への工事義務付け)がいる(*3)。
��'.市内では、磯原では市役所付近、中郷では汐見ケ丘という高台に、消防拠点をうつすべき。
―――
��1
参照先の全文を以下に引用。図も添付。著作権法に配慮してc表示あり(なおhttp://homepage1.nifty.com/samito/copyright2.htm を参照にすれば、公共の福祉ならびに法解釈的に広報をめあてにしているニュース記事へは著作権法の例外になっていて、必要な範囲内で広く引用できる)。
以下http://www.s-housing.jp/archives/15171 より
��~~
津波による全壊 約12万棟 2011年8月4日 c新建ハウジングWEB.
国土交通省は8月4日、東日本大震災による被災現況調査の結果(第1次報告)を公表した。それによると、約21万9000棟の建物が津波により被災し、流失を含む全壊棟数は約12万棟だった。
津波で浸水した区域の面積は約535km2で、このうち4割超が浸水深2m以上だった。浸水深と建物被災状況の関係性を分析したところ、浸水深2m以下では建物が全壊となる割合が大幅に低下していた。
全壊12万棟のうち、約7万8000棟が流失、主要構造が損壊した全壊が3万4000棟、残りの8000棟は大規模改修により再使用が可能という。全壊以外の内訳は、大規模半壊が3万6000棟、半壊が4万棟、一部損壊が2万3000棟だった。
��~~
以上 引用おわり
以下 http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110423/dst11042323500058-n1.htm より
��~~
津波に強かった「1階吹き通し」再使用できるケース多く 建築学会報告 2011.4.23 23:49 c 2011 The Sankei Shimbun & Sankei Digital
東日本大震災の揺れや津波で被害を受けた建物を調べた結果、1階部分が吹き通しになった「ピロティ型」の建物が、津波に強かったことが、東北工業大学の田中礼治教授らの調査で分かった。沿岸部では、ほとんどの木造家屋が流失している一方で、鉄筋コンクリート構造の建物の多くが再使用できる状態で残っていることも判明した。
23日に大阪市内で行われた日本建築学会の「緊急調査報告会」で報告した。
「ピロティ型」衝撃少なかった?
田中教授らは、仙台市など宮城県の沿岸部を調査。田中教授によると、津波で木造家屋が壊滅的被害を受けた地域でも、鉄筋コンクリートの建物は、基本構造に大きな被害がなく、再使用できるケースが多かったという。鉄骨構造の建物も一部は残っていたが、基本構造が変形し、再使用は厳しい状態だった。
1階部分が主に柱だけで構成されているピロティ型の建物が津波に強いことも浮かび上がった。堤防から数十メートルの場所で津波の直撃を受けながら流失を免れたケースもあったといい、田中教授は「1階部分に外壁がなく、津波の力を受ける面積が小さくなるためではないか」と分析している。
「重さ」で耐えた鉄筋コンクリート建築
また防衛大の多田毅講師は「鉄筋コンクリートの建物は、それ自体の重量が大きく、津波の力に耐えることができた」と指摘。鉄筋コンクリートの建物であっても、一部津波で倒壊した例があることについては「昭和53年に起こった宮城県沖地震などで基礎部分が変形していた可能性もある」と述べた。
同学会は今後も被災した建物の調査を進め、地震や津波に強い建築技術などを政府に提言する方針。
��~~
以上 引用おわり
��2
具体的には一階に居住空間をもうけず、壁比率が一定よりひくいばあいに、都市計画法の条例としてそのための工事の費用一部または全額を助成する制度がいる。『ピロティ造り推奨制度』とでもいえる。たとえば今現在、磯原駅の南側にたっているマンションの一階は駐車場となっていてこの造りを採用している。
なお副作用だが、これは足の高くてすぐたおれそうな見た目でもわかるけど、つくりとしてみた耐震性はかならずしも高くないので構造計算のできる専門家にまかせないとあぶない。さらに高齢者のためにはエレベーターとか、或いはかなり大量の人がいつもつかう施設では日用の便利のためにエスカレーター、そして車いすを考慮してかならず傾斜路が別に必要となってくる。
ちなみにピロティとはフランス語の建築用語で
��ピロティ【(フランス)pilotis】
��《杭(くい)・脚・柱の意》建物の一階を柱だけ残し、吹き放しとする建築様式。また、その空間。
��ル=コルビュジェが近代建築の一要素として提唱。
[ 大辞泉 提供: JapanKnowledge ] より
��3
あるいはこれが最優先か。特に人家が隣接しているばあい、地震や台風でさえ危ういので、最低でも市内全域にこれらの危険箇所と人家の危機的関係をすべてなくす必要がある。
2011年8月5日
偏見報道への徹底報復
一昨日の時点で、日立製作所と三菱重工業の統合(結局、「事業の」統合しか合意してなかったわけで、経営についてのそれへのふみこみは早とちりした誤報だったと言っていい)ニュースは先ず共同通信社から発されたらしい*1。
その後、拡散した。そして自分が見た例えば日テレ系列の夕方のニュース番組every.の放送になった。
この一連の動きを観察して分かったのは、記者クラブなるマスコミcartelを通した情報は特定の恣意的方向へ歪まされて出てくる、という真実だった。
自分が見た日テレevery.では、客観視しても‘利益率の低いテレビの撤退をした日立製作所の経営が傾きつつあり、資本金の少ない軍需がメインの順調な三菱重工を吸収したがっているが三菱重工側はそのつもりがない’といったきわめて恣意的に歪められた、なかば風説に近い加工された情報が流されたのだった。当然これは嘘だ。経営規模でも分かるが日立製作所は電気機械関連事業として順調で過去最高益をあげた直後であり価格低落かつ過当競争で不採算な液晶テレビだけを外注したにすぎず、比べて三菱重工は国内ではシェアも低く戦闘機など事実上の隙間事業にしか適応していない。にもかかわらずそのニュースで切り取られていた映像は、この真実から目を反らさせできるだけ日立製作所を買収者として仕立てあげようとする完全におかしな場面ばかりだった。特に笑えたのはゆりかもめを三菱重工が納入したとかいう、そのニュースの構成では大手柄みたいにみせていた図だ。ならイギリス高速鉄道の受注はなぜ大手柄として放映せず、GEと共同受注にすぎない平和産業である原発をあたかも不実みたいにとりたてたのか。戦闘機とどちらが目的に良さがあると思っているのか、あの愚劣な日テレevery.の無礼者構成員は日製の真面目な平和への貢献の数々の歴史の前に、何度も何度も土下座せよ。
で、それら一切を見た自分は違和感から、記者クラブという組織を介した途端、すべて情報はある東京中心主義偏見で歪まされるというこの日本社会の絶対権力のありかに気づけた。
最も奇妙だったのは、三菱という旧財閥全体のあしき体質の証でもあったが、「こっちはそのつもりはない」とでもいいたげな若い広報の態度と言動でありそれへ追従した日テレの(記者クラブを仲介したのだろう)報道姿勢であった。*2
当然だが単に水力の事業統合へも、事実上、吸収されたのは三菱重工側の弱体な事業所の方だったのだからきちんとした公正な目が保たれていれば、以前から軍需をやっているろくでなし三菱重工へ好意的に報道する理由など皆無でなければならずむしろその帝国主義と深入りしてきているあくどい不道徳政商癒着談合なりあがり下司野郎資本の部分的解体のゆえに大歓迎されねばならない。
これらから導けるのは、学歴選考による固定化した人事や少なくとも自分が見た日テレevery.の構成をしている社内の教養水準の低さ、並びに記者クラブの悪性ぶりだ。
これらの悪の根を完璧に摘出し、完全にとりのぞくまで市民日誌者はありとあらゆる手段で偏見報道をする東京資本と死んでも戦い続けねばならない。
公正かつ客観な報道ができないならそれを虚構とはっきり銘打つべきで、あたかも真実かのごとく擬装しつつ東京中心主義でその利潤最適化へ市民を欺く罪はまったくもって看過しがたい。少なくとも自分は報道の正義の一員として日テレevery.ならびに記者クラブが滅亡するまでは決してゆるさぬ。
薩長と悪巧みのテロリズムで儲けようとした海援隊みたいな裏切り者軍需財閥の糞資本と一緒くたにしやがりそのうえ誤解をまねく偏見づけで、なんの落ち度もないばかりか一生懸命日本やその首都ふくむ世界の高技術へ貢献してきた日立と我々を不利にさせる歪んだ誤道をしやがったのだから絶対に、何があろうと敵である奴らをゆるしてはおけぬ。必ず何があろうと日テレevery.と記者クラブへは全滅の致命傷を与えねばならない。
―――
��1
共同通信社は財団らしく会社ではなく記者の協会として成立しているから、どの個人記者が、横浜で発言したとされる中西社長の言をひろったかは不明。しかし、出所もあやしい。しかも次の日の朝には承諾なしで、卑劣な偏向コメントの収録用に報道陣が社長宅へはりこんでいたのだから悪質な漏らしだったのはまちがいない。
この第一原因だった記者の個人名と所属や居場所も必ずあかさねばならない。この人物が第一の悪人なのだから、徹底してマークしてその悪習をあばき出すべきで、さもなくばこの悪人から複数筋が害をこうむるのが間違いない。高い確率として横浜支社あたりの共同通信社に属している人物だ。
��2
ちなみに、産業経済新聞(大阪発祥の、福沢諭吉の‘時事新報’系の新聞社)の記事だが、以下の引用のごとく否定的意見をあつめている。これはおそらく東京資本の一種とみなした敵対心からでているのだろう。かつ、わざわざトヨタ城下町で確証偏見な情報をひろっていることから、彼らサンケイ紙は大阪の資本、少なくとも関西系の資本へ親しむ傾向があるのだろう。相利の事業計画へも反発する意見をわざわざ集めるのはその地風・郷風か企業風土を示していると考えられる。
��~~
「何で今ごろ?」 統合協議に驚きと不安
2011.8.4 10:28
日立製作所との統合協議開始を受け、愛知県内の三菱重工業の事業所に通う従業員からは、驚きや不安の声が聞かれた。
空調などを生産する名古屋冷熱製作所(清須市)では、午前7時前から社員らが続々と出社。50代の男性社員は「数年前にも日立との経営統合の話があったが、折り合わずに立ち消えになったと聞いていた。何で今ごろなんだ」と驚いた様子で話した。また30代の男性社員は「テレビのニュースを見てびっくりした。原発事故の影響も関係あるのではないか」と言葉少なだった。国産小型ジェット旅客機「MRJ(三菱リージョナルジェット)」を製造する大江工場(名古屋市)で働く40代の男性は「ピンとこない。組織風土の違いもあるだろうし、うまくいくのか」と顔を曇らせた。一方で「もっと大きくなって世界に打って出るチャンスが広がればいい」(30代の男性)と期待する声もあった。
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その後、拡散した。そして自分が見た例えば日テレ系列の夕方のニュース番組every.の放送になった。
この一連の動きを観察して分かったのは、記者クラブなるマスコミcartelを通した情報は特定の恣意的方向へ歪まされて出てくる、という真実だった。
自分が見た日テレevery.では、客観視しても‘利益率の低いテレビの撤退をした日立製作所の経営が傾きつつあり、資本金の少ない軍需がメインの順調な三菱重工を吸収したがっているが三菱重工側はそのつもりがない’といったきわめて恣意的に歪められた、なかば風説に近い加工された情報が流されたのだった。当然これは嘘だ。経営規模でも分かるが日立製作所は電気機械関連事業として順調で過去最高益をあげた直後であり価格低落かつ過当競争で不採算な液晶テレビだけを外注したにすぎず、比べて三菱重工は国内ではシェアも低く戦闘機など事実上の隙間事業にしか適応していない。にもかかわらずそのニュースで切り取られていた映像は、この真実から目を反らさせできるだけ日立製作所を買収者として仕立てあげようとする完全におかしな場面ばかりだった。特に笑えたのはゆりかもめを三菱重工が納入したとかいう、そのニュースの構成では大手柄みたいにみせていた図だ。ならイギリス高速鉄道の受注はなぜ大手柄として放映せず、GEと共同受注にすぎない平和産業である原発をあたかも不実みたいにとりたてたのか。戦闘機とどちらが目的に良さがあると思っているのか、あの愚劣な日テレevery.の無礼者構成員は日製の真面目な平和への貢献の数々の歴史の前に、何度も何度も土下座せよ。
で、それら一切を見た自分は違和感から、記者クラブという組織を介した途端、すべて情報はある東京中心主義偏見で歪まされるというこの日本社会の絶対権力のありかに気づけた。
最も奇妙だったのは、三菱という旧財閥全体のあしき体質の証でもあったが、「こっちはそのつもりはない」とでもいいたげな若い広報の態度と言動でありそれへ追従した日テレの(記者クラブを仲介したのだろう)報道姿勢であった。*2
当然だが単に水力の事業統合へも、事実上、吸収されたのは三菱重工側の弱体な事業所の方だったのだからきちんとした公正な目が保たれていれば、以前から軍需をやっているろくでなし三菱重工へ好意的に報道する理由など皆無でなければならずむしろその帝国主義と深入りしてきているあくどい不道徳政商癒着談合なりあがり下司野郎資本の部分的解体のゆえに大歓迎されねばならない。
これらから導けるのは、学歴選考による固定化した人事や少なくとも自分が見た日テレevery.の構成をしている社内の教養水準の低さ、並びに記者クラブの悪性ぶりだ。
これらの悪の根を完璧に摘出し、完全にとりのぞくまで市民日誌者はありとあらゆる手段で偏見報道をする東京資本と死んでも戦い続けねばならない。
公正かつ客観な報道ができないならそれを虚構とはっきり銘打つべきで、あたかも真実かのごとく擬装しつつ東京中心主義でその利潤最適化へ市民を欺く罪はまったくもって看過しがたい。少なくとも自分は報道の正義の一員として日テレevery.ならびに記者クラブが滅亡するまでは決してゆるさぬ。
薩長と悪巧みのテロリズムで儲けようとした海援隊みたいな裏切り者軍需財閥の糞資本と一緒くたにしやがりそのうえ誤解をまねく偏見づけで、なんの落ち度もないばかりか一生懸命日本やその首都ふくむ世界の高技術へ貢献してきた日立と我々を不利にさせる歪んだ誤道をしやがったのだから絶対に、何があろうと敵である奴らをゆるしてはおけぬ。必ず何があろうと日テレevery.と記者クラブへは全滅の致命傷を与えねばならない。
―――
��1
共同通信社は財団らしく会社ではなく記者の協会として成立しているから、どの個人記者が、横浜で発言したとされる中西社長の言をひろったかは不明。しかし、出所もあやしい。しかも次の日の朝には承諾なしで、卑劣な偏向コメントの収録用に報道陣が社長宅へはりこんでいたのだから悪質な漏らしだったのはまちがいない。
この第一原因だった記者の個人名と所属や居場所も必ずあかさねばならない。この人物が第一の悪人なのだから、徹底してマークしてその悪習をあばき出すべきで、さもなくばこの悪人から複数筋が害をこうむるのが間違いない。高い確率として横浜支社あたりの共同通信社に属している人物だ。
��2
ちなみに、産業経済新聞(大阪発祥の、福沢諭吉の‘時事新報’系の新聞社)の記事だが、以下の引用のごとく否定的意見をあつめている。これはおそらく東京資本の一種とみなした敵対心からでているのだろう。かつ、わざわざトヨタ城下町で確証偏見な情報をひろっていることから、彼らサンケイ紙は大阪の資本、少なくとも関西系の資本へ親しむ傾向があるのだろう。相利の事業計画へも反発する意見をわざわざ集めるのはその地風・郷風か企業風土を示していると考えられる。
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「何で今ごろ?」 統合協議に驚きと不安
2011.8.4 10:28
日立製作所との統合協議開始を受け、愛知県内の三菱重工業の事業所に通う従業員からは、驚きや不安の声が聞かれた。
空調などを生産する名古屋冷熱製作所(清須市)では、午前7時前から社員らが続々と出社。50代の男性社員は「数年前にも日立との経営統合の話があったが、折り合わずに立ち消えになったと聞いていた。何で今ごろなんだ」と驚いた様子で話した。また30代の男性社員は「テレビのニュースを見てびっくりした。原発事故の影響も関係あるのではないか」と言葉少なだった。国産小型ジェット旅客機「MRJ(三菱リージョナルジェット)」を製造する大江工場(名古屋市)で働く40代の男性は「ピンとこない。組織風土の違いもあるだろうし、うまくいくのか」と顔を曇らせた。一方で「もっと大きくなって世界に打って出るチャンスが広がればいい」(30代の男性)と期待する声もあった。
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2011年8月4日
日立のみち
総合的にみて、三菱とはつきあわない方がよい。これが判断としては正しいと自分は思う。
自分は傍目に事業を見ているという素人の目算みたいなものだが、岡目八目という事も素人の強みという事もあるかもしれない。
残念ながら今の中西氏は「順風満帆」の経歴っぽく、世の荒波と闇をそんなに深く認識されておられないのではないか、とも思われなくない。はっきり言って、三菱という資本は教育的ではない。出が。自分の洞察が正しければ、今の時点でも大変な将来性のもとにある。かれらは御用達とかいう次元をこえた泥沼をはじめから出立してきたのでありまこと泥臭い裏事情がある。わりと順調に鉱山用の機械修理を発展させ工業品の製造一本で進んできた日製資本とは雲泥の*1。
これからうまく流れがつけば、どうやら本日づけで締結された水力部門の統合もできたら再び破談になって、日立は多国籍化された単独資本として「鶏口」にもどれればいいのだが。原子力発電部門も(某勝手な首相私見の発表で)世論へこびた人気取り国の行政上でいわれる、規制か管理かという次元での事業存続性そのものへの変更があるかもといった考えが浮かんできてるのだろうが、かわりやすい行政表層の挙動はきにせず、世界市場での為替だけに注目している方が本質的によいのだろう*2。
この毎日新聞の記事では
��関係者によると、将来の経営統合を視野に入れている日立と、一部の事業統合にとどめたい三菱重工の間に温度差があるという。
という。これが真実なら、中西氏の判断は総合的にみてよろしくないということになるきがする。
特にやばいのは、出からいっても三菱というのは軍事や戦時調達系を平気でやっている事。これは平和部門に集中してやってきた日立の歴史からいっても大変よろしくない相手です。もし組むとしたら、戦後の各実例をかえりみて最終的には何らかの敵からの疑いの目を向けられての日製系のすべての資本解体や、それ以前にもテロリストを含む日立の工場立地一帯への攻撃もありえる。日立駅前の平和像の誓いを忘れたのですか、中西さん。
おそらく、かれら経営陣のあたまはいまの不安定な菅直人首相のふらつきで何とか「安定した資本提携」を求めざるを得ないといった地点へおいつめられているふしがある。
だが、菅首相個人の異常な好戦性といった精神的資質・人格的問題と、やはり自律して進んでいく資本経済秩序のことはまるきり別個の物と考えた方がいいでしょう。なにも海外へ本社を移せば、国家そのものが本気で政治色上あやうくなったら、日本と心中する必要は決してないのが資本経済下での企業法人の強み。普段から逃げていると雇用流出とかいう観点で、具体的にはほとんど米国資本化されてるソニーみたく割と評判わるくなるかもしれないが、いざとなる前にそれが予測できた時点でちゃんと本社を外へ移した方がいい。いまの菅首相みたいなおかしい行政人に狂わされた国と心中するよりは、その方が人類みなにとっても貢献度が高いのだから。そのばあい条件が安定したらもどってくればいいはなしだ。
はっきりいって菅首相の脳は相当狂っておられ、平気で市場干渉論をしていたり平気で東電へ介入したり本気で極めつけに危ないが、できるだけ相手にしない方向でいけばおのずと縁が遠ざけられ、おのずと民間企業としては安定するはず。何かの偶奇で水力部門は一時的に共同出資の持ち株会社へ、かれらのもっていた財が流れ込んだかもしれないが、それも子会社の動向でしかなく今もこれからも是非とも『資本本体』は完全に他と分離なさった方がよろしいと思いますね。
ある段階からはあの水力会社も、売却してしまえばきっぱり縁がきれる。採算とは別の勘定、超長期的視野がここには必要ではないだろうか。
相手は裏がやばすぎる。中西氏は割と平和な技術畑出でしかも横浜そだちの浜っこ的気風で行け行けドンドンって感じなんだろうが全然組む相手をまちがえている。たとえば、ソニーと組むとか、ホンダと組むとか、±0と組むとか、コンランショップと組むとかダイソンと経営統合なら、それは私は傍目にみてても程度あれとても歓迎する。無印良品の電化は全部元請け契約締結とか平和的な産業形態なら。まあ今度の件は相手の広報のはためにもちょっと首をかしげざるをえないくらいの不遜な態度を見ても理解できるが、ある段階でグループのどこかから拒否反応がでてくるか株主が忌避するかどっちかで破談になる気がするけど。
いっときの提携や同盟ならまだしも本格協働やら立場の統合に際しては、つきあいの長くなるだろう協調相手をまちがえてはいけない。よのなかには善人だけ、或いは根の善良な人格だけ、物わかりのいい人格だけがいるわけではない。
夕方の日テレ系列ニュースevery.(首都圏版)というのでも、かなり偏向報道で三菱よりになってたから裏にはなんか相当変な力が働いてきてるのが、推測ではあるが、自分の肌感覚としてもなんとなくの気分悪さから言ってもまちがいないとおもう。雰囲気が。うわ、これはもしかしてそっち系の悪だくみにまきこまれてしまう、といった先回りの危機感だ。
ああいうちょっとした三菱よりの偏向報道の起こる時点でヒヤリハット事故の一種だと日立系列関係者一同悟った方がいい。東京のマスコミの底は一種の無法状態あるいは絶対権力が内在されているのだから、かれらに‘偏向の目をつけられる’というのは、その時点でもうそっちの手は撤退するくらいで調度いい*3。
断定していえばたまたま経営統合とかいう次元ではなく、相手が泥沼出身では組んだり吸収したらそれはそれはやばすぎる。仮に大きな会社になれるとかいう話だとしても、はっきり言って彼らなら縁をきるほどよい。自分は傍目の人でしかないが、この旅路では相手の法人格を見抜く必要があるとおもうが。
なお軍備へいえば、米英資本との協調か統合がすべてだろう。
おそらく三菱の旧財閥系支援(特に海運)も中西氏の念頭にはあるのだろうが、おそらく『事業統合』という既存のrailが最も双方に望ましいし、結局菱重にとってもその宇宙と航空産業を含むおもな基盤事業体の被吸収に際してprideを傷つけられづらいので、本体である各三菱資本の株価への影響度から言っても穏健ではないだろうか。要するにflying報道したやつがごく悪者だった。かぎりなく企業機密に類した情報なのだから、何かしらぬすみ聴きみたいにして出した可能性が高く、営業妨害罪でばあいによっては刑事又は最低でも民事にして記者クラブ内の当該人物を訴追した方がいい(記事偏見報道への徹底報復参照)。両社の慌てた対応を見る限り、そいつはかなりのoff recordにちかいかたちで漏らしたはずだ。
―――
��1
とはいえ、山口県関係の特定の業深いひとは、買収した鉱山のもちぬしだった某商人へ相当ほまれを感じているみたいだが(あまり信頼のおける情報源ではない寡占管理された落書き場「ウィキペディア」などで記述の傾向を観察していると)。これも政商なる底知れない野心の根深いおそろしさの一つだろう。
明治維新の際の新政府軍、特に薩長土肥系の野心には注意深い経過と末路までの観察が必要と自分は思う。それらは、なぜならやはりきわめて急いで欧米の模倣を方針としていただけあって何らかの拙速さを伴うのが殆どではないかとおもえるので。
経営学でも(たとえば松下幸之助の自説でも)いわれることがあるだろうが、「ゆっくり成長してきた資本」と「急成長した資本」はたちというか、その動向がちがっている。わかりやすい例でニンテンドーとライブドアを比べてみればいい。どちらもエンターテインメント・娯楽分野をめざしたが動向はきわめて違って行ったし、今後も違って行くだろう。
��2
なぜなら退陣する予定の菅首相が居座っているだけでは、その菅氏の言葉に信を問う事はだれにもできないのだから。辞めて行った菅氏が責任をとることもなければ責任を問われることもない。その時点で、あれらのパフォーマンスは芸能であって政治ではない。
ソーラーパネルの増産も、結局口約束なので退任していく菅首相は国民との間で、例によって平気で反故にするはずだろう。やめたあとで追及しても逃げ口上は「やめさせたやつのせいだ」となり収拾がつかない。後任のひとが経済性の十分でない国策を大規模採用する事はまず考えにくいし、採用しない方がずっといいくらいだ。はっきりいって、予備電源をかねた家庭用ソーラーパネル普及の政策的工夫というならまだわかるしやるべきだがメガソーラーは不安定電源にすぎず、足しにはなろうが本格的産業用には使い物にならない。孫正義氏と菅直人首相共通の権勢欲込みの野心にすぎず、特に大きな企業や自治体なら関わるほど損失をこうむる。さらに、いまの菅首相提出の自然エネルギー買い取り法案は拙速の穴だらけ、もっといえばかなりろくでもないもので、結局、発電費用の最も低い大電力会社が儲けるしくみでしかない。発送電分離やら自由化といえばきこえはいいがすでに同様の事業をおこなってアメリカでもヨーロッパでも寡占が進んで電気代が高騰したとか、停電が長引いて使い心地がわるくなったとか、電力会社の選択で面倒がふえるだろうとか。以前からこの網記でものべてきたが、要は孫氏の光ケーブル敷設権欲しさへこびたいつもの浅い菅首相発の人気取り利権誘導でしかない。スマートグリッドは電力会社間の協定とその後の詳細にわたる(つまり部品や実施工事会社の)競争発注で進められる方が、いきなり出自のあやしい成り上がり者への全国の基盤設備の使用権譲渡契約よりずっと安定した、長期的発展にかなう基盤となるだろう。
いまの時点で知事会などでの早期退陣が求められる異例の事態は誠に時宜にかなっているし、一刻も早く合わない職責から菅首相はおりてしまった方が誰もにいいのだろう。自分からおりるきが決してないという点では独裁者の気質なのだろう。
自分が直感するに彼ら、菅一族には単なる力不足といった問題より深刻な障害とでもよべるなにごとかの悪徳あるいはすさまじい勘違いが在来していると思われる。息子へ源太郎となづけたのは児玉源太郎・満州軍総参謀長にあやかってというわけで、戦略戦略とくちぐせの様に菅直人がいうのも同じ異様な好戦気質がそうさせているはずだ。つまり彼ら菅一族とその傍系に2度と権力を与えては決していけない。菅一族の(かなり近親婚の傾向ある)血は、日本が再び戦火にまきこまれる突然変異的な火種なのが、どうやらいままでの一連の観察からはっきりしている。市場介入を平気でしてくる全体社会主義者ぶりもまるで戦前の人で、まったく最高権力を奪うまでは善人づらで隠された思想とその謀略にみちた心理に於いてやばすぎる人物だったし、これからも注意ぶかく国民や報道が監視していかないと、実際息子を衆議院へ出馬させてるわけだが本当にあぶない。岡山という西の遠い土地に在来している分だけしか救いがない。
��3
彼ら東京系のマスコミが偏向報道をしはじめたら、正不正にかかわらず国内ではその問題への深入りから一切手を引くべきだ。すでに過去の第三権力の多くの横暴をみてきた現代知識人へ誤解はないだろうが、調子にのりだした東京系マスコミ(彼らはよくない意味で日本的なので村八分式に、東京の資本という点で大同小異、結託している)への最善の対策とは、悪魔に絡まれたときの対処とまったく同じ事。一切縁を切り、一切の取材を拒否し、一切の関わり合いを避け、できる限り戸を閉めて追い出し、関係者の一切へまったく相手にするなと念を押しつつ、不動の神へその悪霊退散を毎日毎日祈祷するしかない。彼らからえられる報酬は何もないが、彼らは社会的生命体を死に至るまでむさぼりつくし、何の感謝も反省もなく亡骸としてすてていく。
東京系マスコミがもちあげる相手は有頂天になりがちだが、実際にはその直後におちぶれが用意されている罠が多い。芸能界と一つながりになっているのだから劇場仕立てにするのもお得意だ。
これらから、今回の日テレ系夕方のニュース番組every.という放映でもすでにかなりの偏向報道がみられたので、この問題は本当にかかわりあいになってはいけない危険の一つだったと理解できる。草の根の近くの土地にすむ一民間人からの推奨でしかないが、中西氏は政府をきにしすぎる資本経済の原理に忠実ならざる挙動を省られ、某資本との提携や統合や吸収合併などはどうかされない事を。政商ということばは、実際、‘犯罪すれすれの大悪党’の別の言い方である。東京系マスコミは根っこに於いて『外部』の目が届かない範囲で徹底して悪質であり、村八分や袋叩きといった旧来の倭人の風儀を引きずっているので、かれらから不当に絡まれた誰かは最大限の力でふりきってその追随からさっさと逃げ出すしかない。想定できる次善の策は「別の国、特に知識と情報と資本に於いて上流にある先進国へと真相究明の正当な報道をさせる、自主的はたらきかけと透明化した真実の情報提供で真相啓蒙の報道を全世界的規模でしてもらう」ことだ。まるで独裁国家からの亡命みたいだが、実際この外部照射でしか、彼らの村社会的悪業は決してやまない。発祥の初期は特に他意もなかったのだろうが、首都でありつつ政府機関の集積もしている東京へ、本来は権力監視が主目的の自由な報道機関が集積してしまっているのがその大きな悪というか、日本語情報からの囲い込みというか偏向報道と村八分的錯誤の根でもあるのだろうが。
そうして患部をそとから強い光で照射しつつある期間ある遠い時点まで逃げ切れれば、彼らは単に俗受けする話題をほしがっているだけなのだからおのずと別の話題へうつっていく。特に、ワイドショーのコメンテーターや御用学者は本当に心がないというか金と、東京近辺の平均的俗物の空気に飼われているので、まったくその場その場の世論にこびていくだけの品性卑しい煽り屋であり、一切信用してみてはいけないほどだ。自分は震災直後、みのもんたの出る朝のワイドショーで、被災地の悲惨な様子の直後に特集されたAKBなんたらのすさまじく堕落したなんたら選挙だか最低に下らない話題へ、外国人ハーフみたいなひとと、昔からいる男のアナウンサーと、女のちびまる子ちゃんにでてくるこわい幽霊同級生みたいなひとの3人が、こっちじゃ余震の続く中で放映されたのだが偽善な賞賛コメントでお茶をにごす俗悪その下ない解説にまこと吐き気がしたことがある。この点からいっても「わるさに火をともす」という現代のマスメディアの悪習は、いずれ駆逐され淘汰され消滅されねばならない人類の共通命題ではないだろうかと考えられる。この悪風は、おそらく新聞が登場しそれが商業販売されることになってから、起こってきた不安たきつけ稼業、悪の誇大喧伝稼業の結果なのだろう。その邪悪な火は、もし人類がより賢明に進化する文明を辿ればいつか消されるしかない。或いはインターネット以上の主体的選別できる参加型メディア登場が終局に於ける駆逐艦になるはずだ。あんなものをわざわざ自分からえらんで観る人格はありえない。何らかの理由で気が狂っている、純粋に金目当てのみの堕落者がニュース構成をつくりコメントの質を編集していたはず。
自分は傍目に事業を見ているという素人の目算みたいなものだが、岡目八目という事も素人の強みという事もあるかもしれない。
残念ながら今の中西氏は「順風満帆」の経歴っぽく、世の荒波と闇をそんなに深く認識されておられないのではないか、とも思われなくない。はっきり言って、三菱という資本は教育的ではない。出が。自分の洞察が正しければ、今の時点でも大変な将来性のもとにある。かれらは御用達とかいう次元をこえた泥沼をはじめから出立してきたのでありまこと泥臭い裏事情がある。わりと順調に鉱山用の機械修理を発展させ工業品の製造一本で進んできた日製資本とは雲泥の*1。
これからうまく流れがつけば、どうやら本日づけで締結された水力部門の統合もできたら再び破談になって、日立は多国籍化された単独資本として「鶏口」にもどれればいいのだが。原子力発電部門も(某勝手な首相私見の発表で)世論へこびた人気取り国の行政上でいわれる、規制か管理かという次元での事業存続性そのものへの変更があるかもといった考えが浮かんできてるのだろうが、かわりやすい行政表層の挙動はきにせず、世界市場での為替だけに注目している方が本質的によいのだろう*2。
この毎日新聞の記事では
��関係者によると、将来の経営統合を視野に入れている日立と、一部の事業統合にとどめたい三菱重工の間に温度差があるという。
という。これが真実なら、中西氏の判断は総合的にみてよろしくないということになるきがする。
特にやばいのは、出からいっても三菱というのは軍事や戦時調達系を平気でやっている事。これは平和部門に集中してやってきた日立の歴史からいっても大変よろしくない相手です。もし組むとしたら、戦後の各実例をかえりみて最終的には何らかの敵からの疑いの目を向けられての日製系のすべての資本解体や、それ以前にもテロリストを含む日立の工場立地一帯への攻撃もありえる。日立駅前の平和像の誓いを忘れたのですか、中西さん。
おそらく、かれら経営陣のあたまはいまの不安定な菅直人首相のふらつきで何とか「安定した資本提携」を求めざるを得ないといった地点へおいつめられているふしがある。
だが、菅首相個人の異常な好戦性といった精神的資質・人格的問題と、やはり自律して進んでいく資本経済秩序のことはまるきり別個の物と考えた方がいいでしょう。なにも海外へ本社を移せば、国家そのものが本気で政治色上あやうくなったら、日本と心中する必要は決してないのが資本経済下での企業法人の強み。普段から逃げていると雇用流出とかいう観点で、具体的にはほとんど米国資本化されてるソニーみたく割と評判わるくなるかもしれないが、いざとなる前にそれが予測できた時点でちゃんと本社を外へ移した方がいい。いまの菅首相みたいなおかしい行政人に狂わされた国と心中するよりは、その方が人類みなにとっても貢献度が高いのだから。そのばあい条件が安定したらもどってくればいいはなしだ。
はっきりいって菅首相の脳は相当狂っておられ、平気で市場干渉論をしていたり平気で東電へ介入したり本気で極めつけに危ないが、できるだけ相手にしない方向でいけばおのずと縁が遠ざけられ、おのずと民間企業としては安定するはず。何かの偶奇で水力部門は一時的に共同出資の持ち株会社へ、かれらのもっていた財が流れ込んだかもしれないが、それも子会社の動向でしかなく今もこれからも是非とも『資本本体』は完全に他と分離なさった方がよろしいと思いますね。
ある段階からはあの水力会社も、売却してしまえばきっぱり縁がきれる。採算とは別の勘定、超長期的視野がここには必要ではないだろうか。
相手は裏がやばすぎる。中西氏は割と平和な技術畑出でしかも横浜そだちの浜っこ的気風で行け行けドンドンって感じなんだろうが全然組む相手をまちがえている。たとえば、ソニーと組むとか、ホンダと組むとか、±0と組むとか、コンランショップと組むとかダイソンと経営統合なら、それは私は傍目にみてても程度あれとても歓迎する。無印良品の電化は全部元請け契約締結とか平和的な産業形態なら。まあ今度の件は相手の広報のはためにもちょっと首をかしげざるをえないくらいの不遜な態度を見ても理解できるが、ある段階でグループのどこかから拒否反応がでてくるか株主が忌避するかどっちかで破談になる気がするけど。
いっときの提携や同盟ならまだしも本格協働やら立場の統合に際しては、つきあいの長くなるだろう協調相手をまちがえてはいけない。よのなかには善人だけ、或いは根の善良な人格だけ、物わかりのいい人格だけがいるわけではない。
夕方の日テレ系列ニュースevery.(首都圏版)というのでも、かなり偏向報道で三菱よりになってたから裏にはなんか相当変な力が働いてきてるのが、推測ではあるが、自分の肌感覚としてもなんとなくの気分悪さから言ってもまちがいないとおもう。雰囲気が。うわ、これはもしかしてそっち系の悪だくみにまきこまれてしまう、といった先回りの危機感だ。
ああいうちょっとした三菱よりの偏向報道の起こる時点でヒヤリハット事故の一種だと日立系列関係者一同悟った方がいい。東京のマスコミの底は一種の無法状態あるいは絶対権力が内在されているのだから、かれらに‘偏向の目をつけられる’というのは、その時点でもうそっちの手は撤退するくらいで調度いい*3。
断定していえばたまたま経営統合とかいう次元ではなく、相手が泥沼出身では組んだり吸収したらそれはそれはやばすぎる。仮に大きな会社になれるとかいう話だとしても、はっきり言って彼らなら縁をきるほどよい。自分は傍目の人でしかないが、この旅路では相手の法人格を見抜く必要があるとおもうが。
なお軍備へいえば、米英資本との協調か統合がすべてだろう。
おそらく三菱の旧財閥系支援(特に海運)も中西氏の念頭にはあるのだろうが、おそらく『事業統合』という既存のrailが最も双方に望ましいし、結局菱重にとってもその宇宙と航空産業を含むおもな基盤事業体の被吸収に際してprideを傷つけられづらいので、本体である各三菱資本の株価への影響度から言っても穏健ではないだろうか。要するにflying報道したやつがごく悪者だった。かぎりなく企業機密に類した情報なのだから、何かしらぬすみ聴きみたいにして出した可能性が高く、営業妨害罪でばあいによっては刑事又は最低でも民事にして記者クラブ内の当該人物を訴追した方がいい(記事偏見報道への徹底報復参照)。両社の慌てた対応を見る限り、そいつはかなりのoff recordにちかいかたちで漏らしたはずだ。
―――
��1
とはいえ、山口県関係の特定の業深いひとは、買収した鉱山のもちぬしだった某商人へ相当ほまれを感じているみたいだが(あまり信頼のおける情報源ではない寡占管理された落書き場「ウィキペディア」などで記述の傾向を観察していると)。これも政商なる底知れない野心の根深いおそろしさの一つだろう。
明治維新の際の新政府軍、特に薩長土肥系の野心には注意深い経過と末路までの観察が必要と自分は思う。それらは、なぜならやはりきわめて急いで欧米の模倣を方針としていただけあって何らかの拙速さを伴うのが殆どではないかとおもえるので。
経営学でも(たとえば松下幸之助の自説でも)いわれることがあるだろうが、「ゆっくり成長してきた資本」と「急成長した資本」はたちというか、その動向がちがっている。わかりやすい例でニンテンドーとライブドアを比べてみればいい。どちらもエンターテインメント・娯楽分野をめざしたが動向はきわめて違って行ったし、今後も違って行くだろう。
��2
なぜなら退陣する予定の菅首相が居座っているだけでは、その菅氏の言葉に信を問う事はだれにもできないのだから。辞めて行った菅氏が責任をとることもなければ責任を問われることもない。その時点で、あれらのパフォーマンスは芸能であって政治ではない。
ソーラーパネルの増産も、結局口約束なので退任していく菅首相は国民との間で、例によって平気で反故にするはずだろう。やめたあとで追及しても逃げ口上は「やめさせたやつのせいだ」となり収拾がつかない。後任のひとが経済性の十分でない国策を大規模採用する事はまず考えにくいし、採用しない方がずっといいくらいだ。はっきりいって、予備電源をかねた家庭用ソーラーパネル普及の政策的工夫というならまだわかるしやるべきだがメガソーラーは不安定電源にすぎず、足しにはなろうが本格的産業用には使い物にならない。孫正義氏と菅直人首相共通の権勢欲込みの野心にすぎず、特に大きな企業や自治体なら関わるほど損失をこうむる。さらに、いまの菅首相提出の自然エネルギー買い取り法案は拙速の穴だらけ、もっといえばかなりろくでもないもので、結局、発電費用の最も低い大電力会社が儲けるしくみでしかない。発送電分離やら自由化といえばきこえはいいがすでに同様の事業をおこなってアメリカでもヨーロッパでも寡占が進んで電気代が高騰したとか、停電が長引いて使い心地がわるくなったとか、電力会社の選択で面倒がふえるだろうとか。以前からこの網記でものべてきたが、要は孫氏の光ケーブル敷設権欲しさへこびたいつもの浅い菅首相発の人気取り利権誘導でしかない。スマートグリッドは電力会社間の協定とその後の詳細にわたる(つまり部品や実施工事会社の)競争発注で進められる方が、いきなり出自のあやしい成り上がり者への全国の基盤設備の使用権譲渡契約よりずっと安定した、長期的発展にかなう基盤となるだろう。
いまの時点で知事会などでの早期退陣が求められる異例の事態は誠に時宜にかなっているし、一刻も早く合わない職責から菅首相はおりてしまった方が誰もにいいのだろう。自分からおりるきが決してないという点では独裁者の気質なのだろう。
自分が直感するに彼ら、菅一族には単なる力不足といった問題より深刻な障害とでもよべるなにごとかの悪徳あるいはすさまじい勘違いが在来していると思われる。息子へ源太郎となづけたのは児玉源太郎・満州軍総参謀長にあやかってというわけで、戦略戦略とくちぐせの様に菅直人がいうのも同じ異様な好戦気質がそうさせているはずだ。つまり彼ら菅一族とその傍系に2度と権力を与えては決していけない。菅一族の(かなり近親婚の傾向ある)血は、日本が再び戦火にまきこまれる突然変異的な火種なのが、どうやらいままでの一連の観察からはっきりしている。市場介入を平気でしてくる全体社会主義者ぶりもまるで戦前の人で、まったく最高権力を奪うまでは善人づらで隠された思想とその謀略にみちた心理に於いてやばすぎる人物だったし、これからも注意ぶかく国民や報道が監視していかないと、実際息子を衆議院へ出馬させてるわけだが本当にあぶない。岡山という西の遠い土地に在来している分だけしか救いがない。
��3
彼ら東京系のマスコミが偏向報道をしはじめたら、正不正にかかわらず国内ではその問題への深入りから一切手を引くべきだ。すでに過去の第三権力の多くの横暴をみてきた現代知識人へ誤解はないだろうが、調子にのりだした東京系マスコミ(彼らはよくない意味で日本的なので村八分式に、東京の資本という点で大同小異、結託している)への最善の対策とは、悪魔に絡まれたときの対処とまったく同じ事。一切縁を切り、一切の取材を拒否し、一切の関わり合いを避け、できる限り戸を閉めて追い出し、関係者の一切へまったく相手にするなと念を押しつつ、不動の神へその悪霊退散を毎日毎日祈祷するしかない。彼らからえられる報酬は何もないが、彼らは社会的生命体を死に至るまでむさぼりつくし、何の感謝も反省もなく亡骸としてすてていく。
東京系マスコミがもちあげる相手は有頂天になりがちだが、実際にはその直後におちぶれが用意されている罠が多い。芸能界と一つながりになっているのだから劇場仕立てにするのもお得意だ。
これらから、今回の日テレ系夕方のニュース番組every.という放映でもすでにかなりの偏向報道がみられたので、この問題は本当にかかわりあいになってはいけない危険の一つだったと理解できる。草の根の近くの土地にすむ一民間人からの推奨でしかないが、中西氏は政府をきにしすぎる資本経済の原理に忠実ならざる挙動を省られ、某資本との提携や統合や吸収合併などはどうかされない事を。政商ということばは、実際、‘犯罪すれすれの大悪党’の別の言い方である。東京系マスコミは根っこに於いて『外部』の目が届かない範囲で徹底して悪質であり、村八分や袋叩きといった旧来の倭人の風儀を引きずっているので、かれらから不当に絡まれた誰かは最大限の力でふりきってその追随からさっさと逃げ出すしかない。想定できる次善の策は「別の国、特に知識と情報と資本に於いて上流にある先進国へと真相究明の正当な報道をさせる、自主的はたらきかけと透明化した真実の情報提供で真相啓蒙の報道を全世界的規模でしてもらう」ことだ。まるで独裁国家からの亡命みたいだが、実際この外部照射でしか、彼らの村社会的悪業は決してやまない。発祥の初期は特に他意もなかったのだろうが、首都でありつつ政府機関の集積もしている東京へ、本来は権力監視が主目的の自由な報道機関が集積してしまっているのがその大きな悪というか、日本語情報からの囲い込みというか偏向報道と村八分的錯誤の根でもあるのだろうが。
そうして患部をそとから強い光で照射しつつある期間ある遠い時点まで逃げ切れれば、彼らは単に俗受けする話題をほしがっているだけなのだからおのずと別の話題へうつっていく。特に、ワイドショーのコメンテーターや御用学者は本当に心がないというか金と、東京近辺の平均的俗物の空気に飼われているので、まったくその場その場の世論にこびていくだけの品性卑しい煽り屋であり、一切信用してみてはいけないほどだ。自分は震災直後、みのもんたの出る朝のワイドショーで、被災地の悲惨な様子の直後に特集されたAKBなんたらのすさまじく堕落したなんたら選挙だか最低に下らない話題へ、外国人ハーフみたいなひとと、昔からいる男のアナウンサーと、女のちびまる子ちゃんにでてくるこわい幽霊同級生みたいなひとの3人が、こっちじゃ余震の続く中で放映されたのだが偽善な賞賛コメントでお茶をにごす俗悪その下ない解説にまこと吐き気がしたことがある。この点からいっても「わるさに火をともす」という現代のマスメディアの悪習は、いずれ駆逐され淘汰され消滅されねばならない人類の共通命題ではないだろうかと考えられる。この悪風は、おそらく新聞が登場しそれが商業販売されることになってから、起こってきた不安たきつけ稼業、悪の誇大喧伝稼業の結果なのだろう。その邪悪な火は、もし人類がより賢明に進化する文明を辿ればいつか消されるしかない。或いはインターネット以上の主体的選別できる参加型メディア登場が終局に於ける駆逐艦になるはずだ。あんなものをわざわざ自分からえらんで観る人格はありえない。何らかの理由で気が狂っている、純粋に金目当てのみの堕落者がニュース構成をつくりコメントの質を編集していたはず。
放送大学の電波変換要望
放送大学のBS放送(今年10月に開始される)の無料電波を、日立市にある神峰中継局から水戸市やいわき市を含む常磐一帯へと地上デジタルの電波へ変換して飛ばすのが有益。
またはいわきか水戸にある同等の中継局でもいいわけだが、常磐圏一帯へそれを広めるには「日立市のそれが最も適任」かとおもう。この要望を、茨城県北の各市といわき市が共同で、若干の共同出資で日立市へ提出するといいのではないか。
神峰中継局が誰持ちかはしらないが、少なくとも受信するためには近くの中継局へ、BS電波の地上デジタル方式への変換後の放映を要望すればよいというわけだろう。
この変換作業にしかおもな経費はかからないはずだから、共同出資すればほとんどそれら常磐圏の市への財政に負担はなく、かわりに大きな教育効果があるはずだ。
またはいわきか水戸にある同等の中継局でもいいわけだが、常磐圏一帯へそれを広めるには「日立市のそれが最も適任」かとおもう。この要望を、茨城県北の各市といわき市が共同で、若干の共同出資で日立市へ提出するといいのではないか。
神峰中継局が誰持ちかはしらないが、少なくとも受信するためには近くの中継局へ、BS電波の地上デジタル方式への変換後の放映を要望すればよいというわけだろう。
この変換作業にしかおもな経費はかからないはずだから、共同出資すればほとんどそれら常磐圏の市への財政に負担はなく、かわりに大きな教育効果があるはずだ。
2011年8月2日
農漁業のたくみな手
今の菅首相に頼ると露骨に延命口実へ使われるので自治体相互の提携で勝手にやるしかないとおもうが、土壌汚染の程度をチェルノブイリでのあと処理の水準とくらべて、ある「健康へ障害ののこりえない」基準をこえない場合だけ、作付けされた米は人間が摂取していいとするしかない。これは福島県含み、茨城県はすべて入り、宮城県と千葉県と東京都、及び栃木県と埼玉県、神奈川県と静岡県が深刻度順に並んで入る。
いまの政府は利己体質なので政府要人が影響されなければなんでも悪さをするかの様な混乱状態だが、最低でもセシウムは30年以上体内、特に甲状腺にたまり癌の原因になるのが史実と臨床から明らかなわけだ。また30年ほどの半減期のストロンチウムも骨へ蓄積するとわかっていてこれも癌の原因になる。*1
そして例えばひたちなかは、史上最大の放射性物質降下が確認されているわけだ。ほしいもといった特産物にもどれだけの被害が及ぶかわからない。(風評での消費者の長期にわたる銘柄への忌避含む)。さらにいえば、海底へ蓄積した物質へさらされたり、回遊して汚染水にさらされた魚はすべて少なくとも上に書いた害毒のある食べられない魚となっているし、なっていく。はっきりというと、農業漁業そのものが実は、常磐圏一帯ですでに東京電力発の事故で、破滅させられたと言っていい状況にあるのだろう。
これが真相なのだが、チェルノブイリ事故のあと、ウクライナ政府は関東と南東北一帯からその住民を移住させたわけだ。ところが我々はこの指示をうけず、以上の情報をとっくにもっている筈なのにかなり恣意的かつ悪どい独裁者風な山口県出身の菅直人そのひとの独断で、これらの汚染された土地でのあらゆる食物摂取制限や土壌浄化の手順すらしめされていないで賠償や補償もケチられ放置されている。
だから原則として、過去の史実からみちびいた現時点での菅直人の事故処理の対応は「特定地域の国民への情報を制限して長期間の目で殺そうとしている」と考えてよいはずだ。繰り返すが、チェルノブイリ事故では我々の水準の放射能汚染をうけた地域から人々は退避させられたのだ。累積540マイクロシーベルト超ですでに危険な水準である、とウクライナ政府は判断した。それにもかかわらず癌や奇形などの健康障害やそれらでの重傷を含む死者が出た。その精確な数は、当時のソ連の姿勢からはっきりしていないが少なくとも被害者が非常に多くいたのだけは間違いない。そして今回の、民主政国家しかも情報化された先進国で起きた事故の最終被害規模と被害者数は決して隠しきれるものではない。政府にとっては国民へ精確な情報を与えないで誤った悪意で処遇するだけ結果的に損害と罪状がますのである。
したがって、あれらの田植えの功利は「汚染された農作物被害」の実例を公害の証拠として東京電力株式会社と菅直人へつきつけ、その正当な賠償を裁判や談判をとおして今後も永続的に請求し、汚染状態がきえるまで常磐圏の農業漁業が適切に転職できる事を補償させるためだけにある。
いわば食べるための作付け、とは基本的に考えない方がいい。しかし、作付けしなければ以上の証拠がえられないのだから当然作付けは可能な限りした方がいいのだろう。もし食べるとしても、30年先のない年寄りしか食べては絶対いけない。土壌の浄化と汚染除去前に従来通り作付けした作物の摂取は間違いなく自殺行為である。
それらの生産物をバイオマス(生物量)燃料用などに買い取らせるか、単に廃棄させるかは不明だが、実際の毒(最善でも30年以内に体内へ放射能毒物の蓄積量がます)である収穫された米、ほかの危険な食品を動かざる実例として東京電力株式会社と、菅直人かもし彼がすでにやめ訴訟のうちにあって責任能力がなければその時点での首相へ、みせつけるのは必要な手順だ。
特に、もし万一延命をつづけていたなら菅直人は責任転嫁体質があからさまにあるので、量となった本来なら食べ物の高を実際に菅直人と関係各者へおくりつけるみせつけるなどの示威行動は、土壌汚染の程度だけで補償させる示威を起こすよりも強力で有効だろう。
なお、これらの土壌調査と食物への放射能の生物濃縮での凝集率は、自治体が先に自らの公正な実証的まなざしで検査し資料を出すべき。少なくとも、菅直人の行政と東京電力株式会社はこれらを賠償をへらすために自分達からは決してしないだろう。かれらの性質はすでに様々な報道から世界人類に理解できているだろう。
自治体規模で汚染状況を精確に計測しその後、きわめて危険な値を過去のチェルノブイリほかの公害事故のデータとてらしながら、国会または裁判所の席で全面公開のもとかれら、菅直人および東京電力株式会社の法人格をつかさどる社長と直接対決していく「長期戦の構えと最後まで戦い抜く覚悟」が絶対に必要だ。これは大公害事故をおこした悪玉との全人類の正義と公正の為の戦争なのである。
少しでも妥協すれば、いままでみられたすべての前例から、かれらは対応をわざと後手にし、情報を隠蔽し、責任を転嫁し、別の用事をもちだして大衆をあおったり、テレビ局へ真相と似て非なる安全説(つまり「歴史上類のない大公害の健康への無影響仮説の流布」)を洗脳したりしてくる。
これらはすべて常磐圏ならびに監査できるすべての国民が逐一記録し、のちの証拠となる様にありとあらゆる媒体で蓄え無数に複製してありとあらゆる人々の手元へありとあらゆる形ですべてのルートから拡散するしかない。事実上、公害をおこした主体は必ずそれを過小評価して責任から逃れようとするものだからだ。残念ながらというべきか当然というべきか、いまの菅直人も例外ではなく、買収される危険からいえば日本国の最高裁判官もその可能性がゼロではない。さらにいえば、IAEAは原子力発電の安全運営のための監査組織なのでかれらの息がかかった国外の機関もあやうい。結論をいうと複数の国家のマスメディア、そして市民団体と自治性の高い大学と研究機関がもっとも味方になる。資本にかかわる政府は利害で動くので、公開された裁判はその確率は低いが結局どこも公平さを担保しない。
要するに、利害損得のない海外の第三者機関とむすび、『常磐広域損害賠償機構』を各土地生産物関係者と知事連盟はたちあげ、最低でも海外の多国籍に及ぶ買収されるおそれのない無数のかえのきく学者と国際機関、ならびに国連の中枢やNGO、各国の環境問題への市民団体とむすび、福島第一原発事故のもちいた世界最悪の大規模公害の賠償を菅直人容疑者と東京電力株式会社という法人格へ、永久に追求していかねばならない。一連のてつづきをみていれば、彼らはまずもって責任の過小風評での曖昧な身体への障害事故とすべての汚染事例に対して「公害責任からの逃げ切り」だけをめざしていると考えていい。もしかれらの一部が善良だとして、菅を含め大勢は金儲け原理なのでこれだけはまちがいない。
いずれにせよ、汚染の程度でいえば、関東ほぼ全域と東北宮城と一部岩手までは現時点で、チェルノブイリ事故の際の汚染をこえている。この市ですでに6ミリシーベルト程度の被爆量があるのだから、食品での持続した内部被爆を含めると容易に数十ミリシーベルト、また幼児や女性はその6倍ほどの感受性をみつもって100ミリシーベルトを1年から数年間で簡単にこえていく。これが現時点でわかる精確な、国民の被爆量だ。賠償をのがれようとするケチな菅直人にごまかされてはならない。
この真実を真正面からみすえねばならない。かつてウクライナ境界で重い放射線障害が最も起きたのは、そこで生産された汚染食品と飲料品をかなり継続的に食べていたからだ。いまの時点で4か月はこえたわけだが、このまま無警告ですごすと危機感が薄れ、危険な食物のせいで後生へ身体の障害と癌との闘病生活、最悪では死を与える可能性がきわめて高いのもたしか。はっきりいえば、常磐圏の土地生産物としての食べ物はたべない方がいい状態にあると言ってもいいのだろう。それをきちんと発癌と奇形発生の危険率をみちびきだすことで実証する必要がある。
ちなみに、この真相をうがった情報もいまの政府が巨額を投じてネット監視にのりだしたためにかなり近い時点でかれらから収集され、特に「菅直人やその直属政府の責任回避」という焦点へ向けて悪用されかねない。だが、関東全域と東北南部が総量として最低でも540マイクロシーベルト以上でチェルノブイリの強制移転区域の定義へ確実に入っている。これが科学の出す真実。
そしてこの領域では、もし継続的にその域内で生産された食物を摂取していれば、確実になんらかの身体への障害が発生する。これは実際に起きた歴史に学ぶ限り、いまの全体主義的情報統制につとめる歪んだ容疑者菅直人がなにを言おうが、まったく間違いがない人類史上の事実である。
―――
��1
これらの計測にはセシウム137とストロンチウム90がβ波の測定を要する。これらは体内で排出されずに、セシウムが甲状腺、ストロンチウムが骨と特定部位のみへ蓄積するはずだ。つまり体内被爆の調査でもそれらの特定蓄積箇所を測らねば精確さは漸減してしまう。しかも半減とは効果が半分は持続するという意味なので、結果、摂取するかぎり一生涯は発癌や、妊婦へは奇形出産その他のあやうさが増すと精確な知識をおしえなければならない。煙草と同じことで害を曖昧にしてはいけない。
参考 http://kamomenome.exblog.jp/13738379
また、半減期のくわしい意味はhttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1459303549より、引用すると
��放射性物質の減少とともに、その物質が出す放射線の量も減少します。
��半減期を T 年とすると、その物質の量は、t 年で
��(1/2)^(t/T)
��に減ります。その物質から出る放射線の量も同じように減ります。
��例えば、半減期30年の物質では、大体
��3年後 93%
��10年後 80%
��20年後 63%
��30年後 50%
��60年後 25%
��100年後 10%
��300年後 0.1
��が残ります。
��ただし、崩壊生成物も放射性である場合は、少し面倒になります。
いまの政府は利己体質なので政府要人が影響されなければなんでも悪さをするかの様な混乱状態だが、最低でもセシウムは30年以上体内、特に甲状腺にたまり癌の原因になるのが史実と臨床から明らかなわけだ。また30年ほどの半減期のストロンチウムも骨へ蓄積するとわかっていてこれも癌の原因になる。*1
そして例えばひたちなかは、史上最大の放射性物質降下が確認されているわけだ。ほしいもといった特産物にもどれだけの被害が及ぶかわからない。(風評での消費者の長期にわたる銘柄への忌避含む)。さらにいえば、海底へ蓄積した物質へさらされたり、回遊して汚染水にさらされた魚はすべて少なくとも上に書いた害毒のある食べられない魚となっているし、なっていく。はっきりというと、農業漁業そのものが実は、常磐圏一帯ですでに東京電力発の事故で、破滅させられたと言っていい状況にあるのだろう。
これが真相なのだが、チェルノブイリ事故のあと、ウクライナ政府は関東と南東北一帯からその住民を移住させたわけだ。ところが我々はこの指示をうけず、以上の情報をとっくにもっている筈なのにかなり恣意的かつ悪どい独裁者風な山口県出身の菅直人そのひとの独断で、これらの汚染された土地でのあらゆる食物摂取制限や土壌浄化の手順すらしめされていないで賠償や補償もケチられ放置されている。
だから原則として、過去の史実からみちびいた現時点での菅直人の事故処理の対応は「特定地域の国民への情報を制限して長期間の目で殺そうとしている」と考えてよいはずだ。繰り返すが、チェルノブイリ事故では我々の水準の放射能汚染をうけた地域から人々は退避させられたのだ。累積540マイクロシーベルト超ですでに危険な水準である、とウクライナ政府は判断した。それにもかかわらず癌や奇形などの健康障害やそれらでの重傷を含む死者が出た。その精確な数は、当時のソ連の姿勢からはっきりしていないが少なくとも被害者が非常に多くいたのだけは間違いない。そして今回の、民主政国家しかも情報化された先進国で起きた事故の最終被害規模と被害者数は決して隠しきれるものではない。政府にとっては国民へ精確な情報を与えないで誤った悪意で処遇するだけ結果的に損害と罪状がますのである。
したがって、あれらの田植えの功利は「汚染された農作物被害」の実例を公害の証拠として東京電力株式会社と菅直人へつきつけ、その正当な賠償を裁判や談判をとおして今後も永続的に請求し、汚染状態がきえるまで常磐圏の農業漁業が適切に転職できる事を補償させるためだけにある。
いわば食べるための作付け、とは基本的に考えない方がいい。しかし、作付けしなければ以上の証拠がえられないのだから当然作付けは可能な限りした方がいいのだろう。もし食べるとしても、30年先のない年寄りしか食べては絶対いけない。土壌の浄化と汚染除去前に従来通り作付けした作物の摂取は間違いなく自殺行為である。
それらの生産物をバイオマス(生物量)燃料用などに買い取らせるか、単に廃棄させるかは不明だが、実際の毒(最善でも30年以内に体内へ放射能毒物の蓄積量がます)である収穫された米、ほかの危険な食品を動かざる実例として東京電力株式会社と、菅直人かもし彼がすでにやめ訴訟のうちにあって責任能力がなければその時点での首相へ、みせつけるのは必要な手順だ。
特に、もし万一延命をつづけていたなら菅直人は責任転嫁体質があからさまにあるので、量となった本来なら食べ物の高を実際に菅直人と関係各者へおくりつけるみせつけるなどの示威行動は、土壌汚染の程度だけで補償させる示威を起こすよりも強力で有効だろう。
なお、これらの土壌調査と食物への放射能の生物濃縮での凝集率は、自治体が先に自らの公正な実証的まなざしで検査し資料を出すべき。少なくとも、菅直人の行政と東京電力株式会社はこれらを賠償をへらすために自分達からは決してしないだろう。かれらの性質はすでに様々な報道から世界人類に理解できているだろう。
自治体規模で汚染状況を精確に計測しその後、きわめて危険な値を過去のチェルノブイリほかの公害事故のデータとてらしながら、国会または裁判所の席で全面公開のもとかれら、菅直人および東京電力株式会社の法人格をつかさどる社長と直接対決していく「長期戦の構えと最後まで戦い抜く覚悟」が絶対に必要だ。これは大公害事故をおこした悪玉との全人類の正義と公正の為の戦争なのである。
少しでも妥協すれば、いままでみられたすべての前例から、かれらは対応をわざと後手にし、情報を隠蔽し、責任を転嫁し、別の用事をもちだして大衆をあおったり、テレビ局へ真相と似て非なる安全説(つまり「歴史上類のない大公害の健康への無影響仮説の流布」)を洗脳したりしてくる。
これらはすべて常磐圏ならびに監査できるすべての国民が逐一記録し、のちの証拠となる様にありとあらゆる媒体で蓄え無数に複製してありとあらゆる人々の手元へありとあらゆる形ですべてのルートから拡散するしかない。事実上、公害をおこした主体は必ずそれを過小評価して責任から逃れようとするものだからだ。残念ながらというべきか当然というべきか、いまの菅直人も例外ではなく、買収される危険からいえば日本国の最高裁判官もその可能性がゼロではない。さらにいえば、IAEAは原子力発電の安全運営のための監査組織なのでかれらの息がかかった国外の機関もあやうい。結論をいうと複数の国家のマスメディア、そして市民団体と自治性の高い大学と研究機関がもっとも味方になる。資本にかかわる政府は利害で動くので、公開された裁判はその確率は低いが結局どこも公平さを担保しない。
要するに、利害損得のない海外の第三者機関とむすび、『常磐広域損害賠償機構』を各土地生産物関係者と知事連盟はたちあげ、最低でも海外の多国籍に及ぶ買収されるおそれのない無数のかえのきく学者と国際機関、ならびに国連の中枢やNGO、各国の環境問題への市民団体とむすび、福島第一原発事故のもちいた世界最悪の大規模公害の賠償を菅直人容疑者と東京電力株式会社という法人格へ、永久に追求していかねばならない。一連のてつづきをみていれば、彼らはまずもって責任の過小風評での曖昧な身体への障害事故とすべての汚染事例に対して「公害責任からの逃げ切り」だけをめざしていると考えていい。もしかれらの一部が善良だとして、菅を含め大勢は金儲け原理なのでこれだけはまちがいない。
いずれにせよ、汚染の程度でいえば、関東ほぼ全域と東北宮城と一部岩手までは現時点で、チェルノブイリ事故の際の汚染をこえている。この市ですでに6ミリシーベルト程度の被爆量があるのだから、食品での持続した内部被爆を含めると容易に数十ミリシーベルト、また幼児や女性はその6倍ほどの感受性をみつもって100ミリシーベルトを1年から数年間で簡単にこえていく。これが現時点でわかる精確な、国民の被爆量だ。賠償をのがれようとするケチな菅直人にごまかされてはならない。
この真実を真正面からみすえねばならない。かつてウクライナ境界で重い放射線障害が最も起きたのは、そこで生産された汚染食品と飲料品をかなり継続的に食べていたからだ。いまの時点で4か月はこえたわけだが、このまま無警告ですごすと危機感が薄れ、危険な食物のせいで後生へ身体の障害と癌との闘病生活、最悪では死を与える可能性がきわめて高いのもたしか。はっきりいえば、常磐圏の土地生産物としての食べ物はたべない方がいい状態にあると言ってもいいのだろう。それをきちんと発癌と奇形発生の危険率をみちびきだすことで実証する必要がある。
ちなみに、この真相をうがった情報もいまの政府が巨額を投じてネット監視にのりだしたためにかなり近い時点でかれらから収集され、特に「菅直人やその直属政府の責任回避」という焦点へ向けて悪用されかねない。だが、関東全域と東北南部が総量として最低でも540マイクロシーベルト以上でチェルノブイリの強制移転区域の定義へ確実に入っている。これが科学の出す真実。
そしてこの領域では、もし継続的にその域内で生産された食物を摂取していれば、確実になんらかの身体への障害が発生する。これは実際に起きた歴史に学ぶ限り、いまの全体主義的情報統制につとめる歪んだ容疑者菅直人がなにを言おうが、まったく間違いがない人類史上の事実である。
―――
��1
これらの計測にはセシウム137とストロンチウム90がβ波の測定を要する。これらは体内で排出されずに、セシウムが甲状腺、ストロンチウムが骨と特定部位のみへ蓄積するはずだ。つまり体内被爆の調査でもそれらの特定蓄積箇所を測らねば精確さは漸減してしまう。しかも半減とは効果が半分は持続するという意味なので、結果、摂取するかぎり一生涯は発癌や、妊婦へは奇形出産その他のあやうさが増すと精確な知識をおしえなければならない。煙草と同じことで害を曖昧にしてはいけない。
参考 http://kamomenome.exblog.jp/13738379
また、半減期のくわしい意味はhttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1459303549より、引用すると
��放射性物質の減少とともに、その物質が出す放射線の量も減少します。
��半減期を T 年とすると、その物質の量は、t 年で
��(1/2)^(t/T)
��に減ります。その物質から出る放射線の量も同じように減ります。
��例えば、半減期30年の物質では、大体
��3年後 93%
��10年後 80%
��20年後 63%
��30年後 50%
��60年後 25%
��100年後 10%
��300年後 0.1
��が残ります。
��ただし、崩壊生成物も放射性である場合は、少し面倒になります。
2011年7月31日
災害に際して
県議志賀氏と、今の市長が組むというかつるんで中郷の山を災害備蓄基地だかにしようとしてるらしい。
自分は前から主張してるけど、大学の方が優先だと思う。大学。この市に一番欠けているのは教養だ。
おそらく、推測だが市長豊田氏の考えは、松下政経出身の高萩市長と同じで常磐線の東京駅のばしでの商業的吸い出し効果なるものでの経済的地位の低下、つまり衰退よけにあるのではないか。
そして団塊の世代の一つの類型なのかもしれないが、このよを商売の目で見る傾向がつよい。必ずしも立派な習性ではないと思うけど。
その災害備蓄基地だか広域防災施設だかは、何が問題かといえば戦争のとき県北にわざわざ攻撃対象をつくりだしてしまう事になる。スイスみたいな徴兵と訓練があって、ようやく中立主義には一定の安定がみられる。勿論、原発とか工場集積の日立地区はかなり初期の段階で狙われるだろうが。
究極でいうと、政治の目的は市民の防衛だ。その拡充は必ずしも命題ではない。帝国主義が永続した記録はない。だから行政人は根本的には防衛、或いは戦時だけをつねに考えていればよい。
団塊は商業規範が先立つので、もし鑑砲射撃が中郷地区辺にもあったという戦時の事情を忘れ去ったのでなければ、わざわざ狙い撃ちにされやすいきわめて危険な標的を市内へ大々的につくりあげる悪徳のわけをお聞かせ願いたいものだ。
自分はやはり大学の方がいいと思う。災害備蓄は分散させた方がいいだろう。それなら大津港か平潟港から上陸される動機を事前にうちけせる。
大学そのものが若い世代をひきうけたりひきつける効果をもつのだから、地域が活性化するにはそれよりすぐれた手法はない。市民性の欠点をおぎなう為にも最もよい。雇用が縮小しているときに若者を社会へほうりだしておくことの弊害も、高等教育施設は最もよく解消できる。自分がいうのは、イギリスの教師を招けということ。既存の茨城の風紀より劣る東京都とかかわるより、学資にすぐれた所の多いイングランドとかかわる方がまだよい。
志賀氏の県議での質問には原子力と自然力の共存という主張あり。その理念自体は一理あるが、既存のルートでしかなく、かつ「もたざる地方をしいたげていく」国家規模の原子力政策の悪態へは特段の批判さも持たないと思う。そもそも東電福島第一原発の悲劇はこの人口集積比率へ逆進な、過疎自治体へのblack boxのうりこみにあった。この経済格差がそのまま人身への注意深さになる都市優先秩序が悪意の根ではないだろうか。
これから、政府がはなしを持ちかけてこないとはかぎらない大規模水力発電所の構想などは、アメリカがニューディールの時にTVAとかダム発電所の建設で起こした自然破壊をおもいかえす必要がある。要は安易にダム発電所を導入すると河川の生態系を壊し、生物へは死の川にしてしまう前例がある。この破壊がどういう結果になるかは未知というわけ。
特に、茨城県で可能性が高いのは久慈川。栃木へ話がもちこまれると、少なくともその領域で遡行タイプの回遊魚は死滅する確率が高い。或いはダムの形式を遡行経路だけ別に確保する、といった技術革新でもかなり改善できるのか。これは工学に待つ。
ともあれ、現在構想されている大規模ソーラーは決して優良な電源案ではない。不安定電源な事情をふまえても維持費用から言っても、本当に賢いのは家庭用のソーラーパネルをできるだけ導入が経済合理となる施策。
だから盛んにめだつ活動をしている某実業家が自然力なる隠れみのでいいだしてるが、既存の(この市でも議論されてきた、総務省と折衝しながら進められていた)、光ケーブルの全国敷設によるネット配信サービス資本の覇権というあからさまな政商思考とつながったメガソーラー構想、その野心からいってものっていくべきものではない筈。そもそも談合罪にあたるはず。
彼ら(孫氏と菅氏の両人)は明治維新の夢にかぶれて時代が進んでいるというのにきづいておらず、現代でも政商行為がなりたちえると思い込んでいるわけだ。いわゆる越前屋的な。
その不安定電源を大規模採用する合理性はない。かつ、あきらかに震災の弱みにつけいりもたざる地方自治体へ金あるいは寄付金の名目をえさにしてメガソーラーの朝鮮系利権をたらしこみ、そこから総務省や政府、電力会社への圧力を無知な地方自治体を自然力という偽善のたねであおって高め、既存の(電力会社もちの)電柱への光ケーブル敷設の権限をうばいとって結局「ネット配信サービスの覇権」を奪取したいというのがかれ、孫正義氏の野望なのである。
これがただのなんでもない民間人にも簡単にみぬけるくらい間抜けであって、滑稽にして低級なのは間違いない。こちらはうわさの域をでないが一説では、ソフトバンクは社債の乱発で自転車操業状態にあり賭けに出るのが適当な時期にあったらしく、それで銀行融資のえやすい復興地への自然力利権の出現へ善人面でがっついたというはなし。わかりやすい人物。
また、これは注意深い公的政治的監査が必要な点であり事実だが、ユニクロ操業の柳井正氏はソフトバンクの社外取締役を兼ねている。なおかつ、山口県宇部市という場所から出身していて、そこは菅首相の出たところでもある。
つまりこれらの「見え隠れする利権操作線」が、現在の怪しからん菅直人氏のあの辞任せずなんとか復興特需へみずからに関わりある金銭のたねをねじ込もうという必死の浅ましさは出ているはずだ。それは、国家規模での政商戦争の体を示している。商人の本性と裏を勘繰れば、勿論これらの権益でどう仕様もなくむすびついたみにくい芋づるがどんどん出てくるというはなし。あれほどあからさまな現政府との癒着をすれば孫氏と柳井氏両方へ、大金寄付の発表へさえなんらかのマスメディアと検察にわたる他人の被災を利用しようとしたかのごとき勘繰りがでても、並の民間人には弁護できないはずだ。現代の様相をみすえる市民諸賢の方々へご報告まで。
一北茨城市民としての結論をいえば、『政商どもへかかわりあいになるな』という単純な理屈。彼らは自滅も当然しようし、信用を失う末路が待っているだろう。正直は最良の策(Honesty is the best policy.)とは野口英世の座右の銘の一つだったみたいだけど。
自分は前から主張してるけど、大学の方が優先だと思う。大学。この市に一番欠けているのは教養だ。
おそらく、推測だが市長豊田氏の考えは、松下政経出身の高萩市長と同じで常磐線の東京駅のばしでの商業的吸い出し効果なるものでの経済的地位の低下、つまり衰退よけにあるのではないか。
そして団塊の世代の一つの類型なのかもしれないが、このよを商売の目で見る傾向がつよい。必ずしも立派な習性ではないと思うけど。
その災害備蓄基地だか広域防災施設だかは、何が問題かといえば戦争のとき県北にわざわざ攻撃対象をつくりだしてしまう事になる。スイスみたいな徴兵と訓練があって、ようやく中立主義には一定の安定がみられる。勿論、原発とか工場集積の日立地区はかなり初期の段階で狙われるだろうが。
究極でいうと、政治の目的は市民の防衛だ。その拡充は必ずしも命題ではない。帝国主義が永続した記録はない。だから行政人は根本的には防衛、或いは戦時だけをつねに考えていればよい。
団塊は商業規範が先立つので、もし鑑砲射撃が中郷地区辺にもあったという戦時の事情を忘れ去ったのでなければ、わざわざ狙い撃ちにされやすいきわめて危険な標的を市内へ大々的につくりあげる悪徳のわけをお聞かせ願いたいものだ。
自分はやはり大学の方がいいと思う。災害備蓄は分散させた方がいいだろう。それなら大津港か平潟港から上陸される動機を事前にうちけせる。
大学そのものが若い世代をひきうけたりひきつける効果をもつのだから、地域が活性化するにはそれよりすぐれた手法はない。市民性の欠点をおぎなう為にも最もよい。雇用が縮小しているときに若者を社会へほうりだしておくことの弊害も、高等教育施設は最もよく解消できる。自分がいうのは、イギリスの教師を招けということ。既存の茨城の風紀より劣る東京都とかかわるより、学資にすぐれた所の多いイングランドとかかわる方がまだよい。
志賀氏の県議での質問には原子力と自然力の共存という主張あり。その理念自体は一理あるが、既存のルートでしかなく、かつ「もたざる地方をしいたげていく」国家規模の原子力政策の悪態へは特段の批判さも持たないと思う。そもそも東電福島第一原発の悲劇はこの人口集積比率へ逆進な、過疎自治体へのblack boxのうりこみにあった。この経済格差がそのまま人身への注意深さになる都市優先秩序が悪意の根ではないだろうか。
これから、政府がはなしを持ちかけてこないとはかぎらない大規模水力発電所の構想などは、アメリカがニューディールの時にTVAとかダム発電所の建設で起こした自然破壊をおもいかえす必要がある。要は安易にダム発電所を導入すると河川の生態系を壊し、生物へは死の川にしてしまう前例がある。この破壊がどういう結果になるかは未知というわけ。
特に、茨城県で可能性が高いのは久慈川。栃木へ話がもちこまれると、少なくともその領域で遡行タイプの回遊魚は死滅する確率が高い。或いはダムの形式を遡行経路だけ別に確保する、といった技術革新でもかなり改善できるのか。これは工学に待つ。
ともあれ、現在構想されている大規模ソーラーは決して優良な電源案ではない。不安定電源な事情をふまえても維持費用から言っても、本当に賢いのは家庭用のソーラーパネルをできるだけ導入が経済合理となる施策。
だから盛んにめだつ活動をしている某実業家が自然力なる隠れみのでいいだしてるが、既存の(この市でも議論されてきた、総務省と折衝しながら進められていた)、光ケーブルの全国敷設によるネット配信サービス資本の覇権というあからさまな政商思考とつながったメガソーラー構想、その野心からいってものっていくべきものではない筈。そもそも談合罪にあたるはず。
彼ら(孫氏と菅氏の両人)は明治維新の夢にかぶれて時代が進んでいるというのにきづいておらず、現代でも政商行為がなりたちえると思い込んでいるわけだ。いわゆる越前屋的な。
その不安定電源を大規模採用する合理性はない。かつ、あきらかに震災の弱みにつけいりもたざる地方自治体へ金あるいは寄付金の名目をえさにしてメガソーラーの朝鮮系利権をたらしこみ、そこから総務省や政府、電力会社への圧力を無知な地方自治体を自然力という偽善のたねであおって高め、既存の(電力会社もちの)電柱への光ケーブル敷設の権限をうばいとって結局「ネット配信サービスの覇権」を奪取したいというのがかれ、孫正義氏の野望なのである。
これがただのなんでもない民間人にも簡単にみぬけるくらい間抜けであって、滑稽にして低級なのは間違いない。こちらはうわさの域をでないが一説では、ソフトバンクは社債の乱発で自転車操業状態にあり賭けに出るのが適当な時期にあったらしく、それで銀行融資のえやすい復興地への自然力利権の出現へ善人面でがっついたというはなし。わかりやすい人物。
また、これは注意深い公的政治的監査が必要な点であり事実だが、ユニクロ操業の柳井正氏はソフトバンクの社外取締役を兼ねている。なおかつ、山口県宇部市という場所から出身していて、そこは菅首相の出たところでもある。
つまりこれらの「見え隠れする利権操作線」が、現在の怪しからん菅直人氏のあの辞任せずなんとか復興特需へみずからに関わりある金銭のたねをねじ込もうという必死の浅ましさは出ているはずだ。それは、国家規模での政商戦争の体を示している。商人の本性と裏を勘繰れば、勿論これらの権益でどう仕様もなくむすびついたみにくい芋づるがどんどん出てくるというはなし。あれほどあからさまな現政府との癒着をすれば孫氏と柳井氏両方へ、大金寄付の発表へさえなんらかのマスメディアと検察にわたる他人の被災を利用しようとしたかのごとき勘繰りがでても、並の民間人には弁護できないはずだ。現代の様相をみすえる市民諸賢の方々へご報告まで。
一北茨城市民としての結論をいえば、『政商どもへかかわりあいになるな』という単純な理屈。彼らは自滅も当然しようし、信用を失う末路が待っているだろう。正直は最良の策(Honesty is the best policy.)とは野口英世の座右の銘の一つだったみたいだけど。
2011年7月29日
みちのまゆ化
東海村からちかい地点で想定される放射能からまもるため、常磐道はその一定区間を「sheltering」すべきではないか。繭化。コンクリか、すきまなくした鉛かそのあたりになるだろうけど。
だれが支出するか。これは東海村がその区画をとおれなくしてしまう危険性が高いわけだから、東海村役場が日本原子力発電へ折衝するか、または原子力安全保安院を媒介して政府かその高速管理会社に、県民が監視のうえできるだけはやい段階で強制でさせるべき。一旦事故がおきてからではおそい。それ以前に手をうつ意味では、できるだけたかい(20メートル級の)防波堤工事と組みでたのむ方がいい。最悪でも一年以内に開始してほしい。南茨城沖合で大地震が予想されているのだから。
だれが支出するか。これは東海村がその区画をとおれなくしてしまう危険性が高いわけだから、東海村役場が日本原子力発電へ折衝するか、または原子力安全保安院を媒介して政府かその高速管理会社に、県民が監視のうえできるだけはやい段階で強制でさせるべき。一旦事故がおきてからではおそい。それ以前に手をうつ意味では、できるだけたかい(20メートル級の)防波堤工事と組みでたのむ方がいい。最悪でも一年以内に開始してほしい。南茨城沖合で大地震が予想されているのだから。
2011年7月27日
自家発電の一番必要な所
病院は市役所と一緒か別かはわからないが、自家発電が有効。某県の県立病院ではそうなっているらしい。
今後どう病院建設が展開するかはわからないが、設計にはこれを市政と協議のうえ組み込む方がいい。某県ではそうなってるらしいからというわけでもないが。
今後どう病院建設が展開するかはわからないが、設計にはこれを市政と協議のうえ組み込む方がいい。某県ではそうなってるらしいからというわけでもないが。
2011年7月23日
北茨城経済学
物には構造と設備の大まかな違いがあるとする。このうちより耐久する構造(基盤となる物)は古い物を大事にした方がいい。なぜなら持ちのよい程、品質のよい程その上に立った活動がし易くなるから。
対して設備(とりかえのきく表層の使用物)の方は、できるだけ最新の物がよい。それらの更新は場合によっては以前の型より合理な廃棄物や浪費の少ない進化がありえる。よって
��複利耐久財/瞬間消費財)%:経済率
の値ができるだけ高くなる社会こそ、その生態はよりすぐれていく。いわば漸時最小の消費で将来最大の耐久を得ること、物持ちのよい生態が経済的とか社会生態の上位に就くと言える。
既存の構造物をまったく壊し、まったく新しい構造物を一からつくりあげる徒労は新建設の設備の向上へあてられる原資を大幅に削り、その社会の経済率をも下げるだろう。
結局巨視すればそういう不経済な行動をしている社会や人物は、より経済的な人物らにくらべこれらの無益な行動の不経済さは彼らの貧しさと文化の劣等となってはねかえってくるだろう。それらの複利さを古物として使いこなしながら別のより高等な活動をなしうる生態に比べれば彼らは弱体で非効率、かつ貧困になるか。
対して設備(とりかえのきく表層の使用物)の方は、できるだけ最新の物がよい。それらの更新は場合によっては以前の型より合理な廃棄物や浪費の少ない進化がありえる。よって
��複利耐久財/瞬間消費財)%:経済率
の値ができるだけ高くなる社会こそ、その生態はよりすぐれていく。いわば漸時最小の消費で将来最大の耐久を得ること、物持ちのよい生態が経済的とか社会生態の上位に就くと言える。
既存の構造物をまったく壊し、まったく新しい構造物を一からつくりあげる徒労は新建設の設備の向上へあてられる原資を大幅に削り、その社会の経済率をも下げるだろう。
結局巨視すればそういう不経済な行動をしている社会や人物は、より経済的な人物らにくらべこれらの無益な行動の不経済さは彼らの貧しさと文化の劣等となってはねかえってくるだろう。それらの複利さを古物として使いこなしながら別のより高等な活動をなしうる生態に比べれば彼らは弱体で非効率、かつ貧困になるか。
2011年7月22日
現代文明の流れ
それがどういう結果や理論に結ぶかわからないが、なにか我々の21世紀世代ですでに貨幣経済というしくみはおわっている感じがしてならない。金が回らないのは単に景気問題ではないのでは。
いろいろ文献というか本をあさってきたけど、精神価値というものが貨幣経済とはかならずしも相性よくない、と哲学面ではいわれたりもしている。価値哲学や価値倫理学というラベルで調べてみればいい。
物質へのみ貨幣経済があたる。この観点は、自分のしる最も古い思想で、新渡戸稲造の『武士道』に出る。次に和辻哲郎の『倫理学』に。それらの中で、経済は物質への用語で、精神面での価値は貨幣経済をこえており計測されないと説かれている。
貨幣経済の歴史は有史以来なので割と短い。それまでは貝や石や金銀やで代わりにしていた。信用貨幣のしくみは、政府同士の均衡によっており永続するとはかぎらない。
つまり貨幣経済は永遠のものではないか、少なくとも近代のものでしかない。そこへ他の時代からひきつぐすべてを詰め入れるのは結局ムリらしい。それらの価値をもカネの眼だけで捉えようとするのは近代人の病:やまいではないか。
おなじく、魂のこと、要は思想をともなう営みへは貨幣経済が入り込みづらいなんらかの条件がありそう。貨幣経済は物へのしくみとしては成功したが、心や魂や精神や自然といった物ではないなにごとかへはうまく適合しない。「賠償」とか「済まない」という言葉をよく観察すれば、カネはただの代償にしかならないのがわかる。
物すら精神、あるいは究極では頭脳に仕えるもの。脳死の概念がでてきてからはなおさら。だからよき頭脳へ貨幣価値をあてるのは、おそらく諦めた方がいい。貨幣経済は頭脳のあいだの取引へはあまり有効なしくみではないので、よくショートする。やってみればわかるが、これらの文章を書き上げるのも楽な仕事ではない。しかし、多くの物に関わる仕事よりその対価は貨幣として明確ではない。
例をあげれば、古代の文物、たとえば枕草子や方丈記が貨幣価値として流通していたわけでは全然ない。すべての文物へそういうわけ。だから頭脳の産物、精神性の高い営みは決して物質経済とおなじ取引レートでは量れない。
なにかしら文明の状態が、情報文明とか知識文明とかいわれたりもしてたがそういう段階にさしかかってるのが確か。団塊の金権趣味層がきえたらその面が極大化されてくると思う。だからあと20年から30年の間で劇的に世界は変わるはず。いま60代後半から70代の人が亡くなれば社会のしくみ自体も、そういう精神取引がメインへかわる。
基礎収入の理論も荒唐無稽にみえるが、共産主義とはちがう目でみていくべきか。しかし、自分は「第一次産業へのみ基礎収入はあってしかるべきでその他は無関係」におもうが。
なくてもいいなりわいにカネをもたせたい意味がわからない。悪用される確率の方がずっと高い。ただでさえ都会には極悪な俗:ならわし があるのに。そういった社会へはもっとはるかに強い負担がおぶせられていいのがまちがいない。つまり、完全一律のベーシックインカム論は100%間違いだ。搾取さ分の生産さ(生産/搾取、つまり逆付加価値割合)の比率が高い産業の種類別に、いわば所得不均衡の調整としてある程度傾斜配分すべき、というのが基礎収入論の本質だとおもう。
藤原正彦の『国家の品格』とか他のかれの著作にあるが、インドで数学してたバラモンのラマヌジャンはこういう精神取引のレベルというか知識層の典型ではないだろうか。要するに、昔のさむらいじゃないが、精神的な質の高いなりわいは階級的に保護されるのが人間というものらしい。だから貨幣経済へわざわざ仕組まなくともおそらく、ある程度以上にそういう仕事の者は特別視され、他の物質階級よりも高められる。代償として、かれらはいわゆる清貧に近づくかもしれないが。
その藤原氏いわく日本の特権階級だった侍は、イギリスのジェントリー層なんかとちがってカネに淡泊なのがめずらしいという言い分らしいが、ジェントリーだっていわゆる郷士と変わらないと思う。旗本なんか贅沢だったわけで、新渡戸の理想化された武士は岩手あたりのいなか郷士の姿だったにすぎないはずだ。
要は特権階級的な精神奉仕者は、どの時代でも富そのものとは一線を画すがゆえに魂の貴族とみなされる。はっきりいうと、この構図がやぶられたのは歴史的には二三度の偶然の場合によるのではないか。古代ギリシアの自由市民、中世スコラ学者系のカトリック教皇、で近代のプロテスタントかユダヤ資本家。これが西洋版だが他の地史でも似た姿がいくらかある。日本でいえば古代大和王朝の土地豪族、中世の荘園領主か国司系の公家または武士、で近代の華族系資本家。つまり「封建層」とかいわれる連中が精神貴族、魂の仕事の地位をとってかえそうとすると正道が歪むか水準が落ちるということ。
以上の文章をまとめれば、魂の貴族こそ真の貴種なのでその仕事はどの時代でも特権にあたいし、しかも貨幣価値や富の程度をこえているので特別あつかいされていいというわけ。そして擬態したりまねたりしてにせ貴族のふりをする封建層には気をつけろ、そいつらは本来の貴種ではないが、時代時代の搾取体制のしくみだけを利用して自らが私腹を肥やすために貴種をよそおうのだ、と。
上述の和辻『倫理学』にあるが、ある時代をつくりだした力はその創始者にこそ宿り、ほかのまねしていった勢力は二次的な層なので必ずしも最初の族ほど重要ではないと。つまり時代の創始者が本来の貴種であり貴族の資格があるわけだ。平氏が第一の武士として大化の改新でそれまでの公家の怠け癖へ別れを告げさせた如く。
で、現在はそういう時なら、やはり知識階級の中から新しい時代が動きはじめてきていると思う。一時はいわゆるベンチャービジネスみたいなものがそうかとおもわれてたが違うらしい。日本では、知識階級がその発端になり時代をかえていくはずだ。人々は、というか団塊はNEETという新時代の自由人の状況にある世代をさげすんでいるが、労働せずとも衣食住をみたされているのは古代ギリシア以来のことなので理解が及ばないにすぎず、また彼らの中から高等遊民をこえて真実の知識人が出現するだろう。そしてその人種が全体として時代を精神活動の面だけで率いていくはず。
いわゆる経済成長という現象はおこらないだろう。イギリス病はイギリス病ではなく、単に物質文明のある程度の需給限度だったといえるだろう。それから先へは知識の進展と、いくらかの技術展開が続けざまにおこるだけだろう。コンピューターがオートマトン理論から生まれたのはその最も典型な例だが、そういう「小さな知識の革新から次第に大きな技術変革が続けざまに起こる」という過程が、たえず先進国のどこかでくりかえされるだけだろう。日本もその流れの中にあり、既存の日本の特徴らしく芸術に傾く様ではあるが、凄まじい手描きアニメが授業中のパラパラ漫画絵の展開から育ったみたいなのもそういう一つの例なのだろう。技術的にはアメリカとそんなに変わらないというかほぼ同時刻変化、一歩遅れくらいのペースで来てるみたいだが。
そういうわけで、自分は水戸という都市にはどうかロンドンを模倣又は参照してくださいとおもう。東京はニューヨーク的な過密摩天楼都市になったが、理論面でいえばロンドン的な河川沿いの田園の中の中低層都市としてかなり都市分類学的同位種だし、近世水戸学時代から「理論面で他を導く責務」があるきがするから。ロンドンよりも水戸は気候が明るいので、そこは違う姿になるとは思うけども。というわけで水戸市はロンドンと姉妹都市になればいいのだが。
いろいろ文献というか本をあさってきたけど、精神価値というものが貨幣経済とはかならずしも相性よくない、と哲学面ではいわれたりもしている。価値哲学や価値倫理学というラベルで調べてみればいい。
物質へのみ貨幣経済があたる。この観点は、自分のしる最も古い思想で、新渡戸稲造の『武士道』に出る。次に和辻哲郎の『倫理学』に。それらの中で、経済は物質への用語で、精神面での価値は貨幣経済をこえており計測されないと説かれている。
貨幣経済の歴史は有史以来なので割と短い。それまでは貝や石や金銀やで代わりにしていた。信用貨幣のしくみは、政府同士の均衡によっており永続するとはかぎらない。
つまり貨幣経済は永遠のものではないか、少なくとも近代のものでしかない。そこへ他の時代からひきつぐすべてを詰め入れるのは結局ムリらしい。それらの価値をもカネの眼だけで捉えようとするのは近代人の病:やまいではないか。
おなじく、魂のこと、要は思想をともなう営みへは貨幣経済が入り込みづらいなんらかの条件がありそう。貨幣経済は物へのしくみとしては成功したが、心や魂や精神や自然といった物ではないなにごとかへはうまく適合しない。「賠償」とか「済まない」という言葉をよく観察すれば、カネはただの代償にしかならないのがわかる。
物すら精神、あるいは究極では頭脳に仕えるもの。脳死の概念がでてきてからはなおさら。だからよき頭脳へ貨幣価値をあてるのは、おそらく諦めた方がいい。貨幣経済は頭脳のあいだの取引へはあまり有効なしくみではないので、よくショートする。やってみればわかるが、これらの文章を書き上げるのも楽な仕事ではない。しかし、多くの物に関わる仕事よりその対価は貨幣として明確ではない。
例をあげれば、古代の文物、たとえば枕草子や方丈記が貨幣価値として流通していたわけでは全然ない。すべての文物へそういうわけ。だから頭脳の産物、精神性の高い営みは決して物質経済とおなじ取引レートでは量れない。
なにかしら文明の状態が、情報文明とか知識文明とかいわれたりもしてたがそういう段階にさしかかってるのが確か。団塊の金権趣味層がきえたらその面が極大化されてくると思う。だからあと20年から30年の間で劇的に世界は変わるはず。いま60代後半から70代の人が亡くなれば社会のしくみ自体も、そういう精神取引がメインへかわる。
基礎収入の理論も荒唐無稽にみえるが、共産主義とはちがう目でみていくべきか。しかし、自分は「第一次産業へのみ基礎収入はあってしかるべきでその他は無関係」におもうが。
なくてもいいなりわいにカネをもたせたい意味がわからない。悪用される確率の方がずっと高い。ただでさえ都会には極悪な俗:ならわし があるのに。そういった社会へはもっとはるかに強い負担がおぶせられていいのがまちがいない。つまり、完全一律のベーシックインカム論は100%間違いだ。搾取さ分の生産さ(生産/搾取、つまり逆付加価値割合)の比率が高い産業の種類別に、いわば所得不均衡の調整としてある程度傾斜配分すべき、というのが基礎収入論の本質だとおもう。
藤原正彦の『国家の品格』とか他のかれの著作にあるが、インドで数学してたバラモンのラマヌジャンはこういう精神取引のレベルというか知識層の典型ではないだろうか。要するに、昔のさむらいじゃないが、精神的な質の高いなりわいは階級的に保護されるのが人間というものらしい。だから貨幣経済へわざわざ仕組まなくともおそらく、ある程度以上にそういう仕事の者は特別視され、他の物質階級よりも高められる。代償として、かれらはいわゆる清貧に近づくかもしれないが。
その藤原氏いわく日本の特権階級だった侍は、イギリスのジェントリー層なんかとちがってカネに淡泊なのがめずらしいという言い分らしいが、ジェントリーだっていわゆる郷士と変わらないと思う。旗本なんか贅沢だったわけで、新渡戸の理想化された武士は岩手あたりのいなか郷士の姿だったにすぎないはずだ。
要は特権階級的な精神奉仕者は、どの時代でも富そのものとは一線を画すがゆえに魂の貴族とみなされる。はっきりいうと、この構図がやぶられたのは歴史的には二三度の偶然の場合によるのではないか。古代ギリシアの自由市民、中世スコラ学者系のカトリック教皇、で近代のプロテスタントかユダヤ資本家。これが西洋版だが他の地史でも似た姿がいくらかある。日本でいえば古代大和王朝の土地豪族、中世の荘園領主か国司系の公家または武士、で近代の華族系資本家。つまり「封建層」とかいわれる連中が精神貴族、魂の仕事の地位をとってかえそうとすると正道が歪むか水準が落ちるということ。
以上の文章をまとめれば、魂の貴族こそ真の貴種なのでその仕事はどの時代でも特権にあたいし、しかも貨幣価値や富の程度をこえているので特別あつかいされていいというわけ。そして擬態したりまねたりしてにせ貴族のふりをする封建層には気をつけろ、そいつらは本来の貴種ではないが、時代時代の搾取体制のしくみだけを利用して自らが私腹を肥やすために貴種をよそおうのだ、と。
上述の和辻『倫理学』にあるが、ある時代をつくりだした力はその創始者にこそ宿り、ほかのまねしていった勢力は二次的な層なので必ずしも最初の族ほど重要ではないと。つまり時代の創始者が本来の貴種であり貴族の資格があるわけだ。平氏が第一の武士として大化の改新でそれまでの公家の怠け癖へ別れを告げさせた如く。
で、現在はそういう時なら、やはり知識階級の中から新しい時代が動きはじめてきていると思う。一時はいわゆるベンチャービジネスみたいなものがそうかとおもわれてたが違うらしい。日本では、知識階級がその発端になり時代をかえていくはずだ。人々は、というか団塊はNEETという新時代の自由人の状況にある世代をさげすんでいるが、労働せずとも衣食住をみたされているのは古代ギリシア以来のことなので理解が及ばないにすぎず、また彼らの中から高等遊民をこえて真実の知識人が出現するだろう。そしてその人種が全体として時代を精神活動の面だけで率いていくはず。
いわゆる経済成長という現象はおこらないだろう。イギリス病はイギリス病ではなく、単に物質文明のある程度の需給限度だったといえるだろう。それから先へは知識の進展と、いくらかの技術展開が続けざまにおこるだけだろう。コンピューターがオートマトン理論から生まれたのはその最も典型な例だが、そういう「小さな知識の革新から次第に大きな技術変革が続けざまに起こる」という過程が、たえず先進国のどこかでくりかえされるだけだろう。日本もその流れの中にあり、既存の日本の特徴らしく芸術に傾く様ではあるが、凄まじい手描きアニメが授業中のパラパラ漫画絵の展開から育ったみたいなのもそういう一つの例なのだろう。技術的にはアメリカとそんなに変わらないというかほぼ同時刻変化、一歩遅れくらいのペースで来てるみたいだが。
そういうわけで、自分は水戸という都市にはどうかロンドンを模倣又は参照してくださいとおもう。東京はニューヨーク的な過密摩天楼都市になったが、理論面でいえばロンドン的な河川沿いの田園の中の中低層都市としてかなり都市分類学的同位種だし、近世水戸学時代から「理論面で他を導く責務」があるきがするから。ロンドンよりも水戸は気候が明るいので、そこは違う姿になるとは思うけども。というわけで水戸市はロンドンと姉妹都市になればいいのだが。
ノーベル賞と出身の関係
2011年までの日本のノーベル賞受賞者18人の出自
人物名 国内最終学歴 出身生育地
鈴木章 ─── 北海道大 ─ 北海道生まれ北海道育ち
田中耕一 ── 東北大 ── 富山県生まれ富山県育ち
南部陽一郎 ─ 東京大 ── 東京都生まれ福井県育ち
小柴昌俊 ── 東京大 ── 愛知県生まれ神奈川県・東京都育ち
小林誠 ─── 名古屋大 ─ 愛知県生まれ愛知県育ち
益川敏英 ── 名古屋大 ─ 愛知県生まれ愛知県育ち
利根川進 ── 京都大 ── 愛知県生まれ富山県・東京都育ち
白川英樹 ── 筑波大 ── 東京都生まれ岐阜県育ち
朝永振一郎 ─ 筑波大 ── 東京都生まれ京都府育ち
湯川秀樹 ── 京都大 ── 東京都生まれ京都府育ち
下村脩 ─── 長崎大 ── 京都府生まれ長崎県育ち
福井謙一 ── 京都大 ── 奈良県生まれ大阪府育ち
江崎玲於奈 ─ 東京大 ── 大阪府生まれ京都府育ち
川端康成 ── 東京大 ── 大阪府生まれ大阪府育ち
野依良治 ── 京都大 ── 兵庫県生まれ兵庫府育ち
佐藤栄作 ── 東京大 ── 山口県生まれ山口県育ち
大江健三郎 ─ 東京大 ── 愛媛県生まれ愛媛県育ち
根岸英一 ── 東京大 ── 満州国生まれ神奈川県育ち
��参考) インターネット上の情報のコピー
1949年 湯川 秀樹(東京都出身)※両親は和歌山県出身
1965年 朝永 振一郎(東京都出身)※親は長崎県、埼玉県出身
1973年 江崎 玲於奈(大阪府出身)
1981年 福井 謙一(奈良県出身)
1987年 利根川 進(愛知県出身)※親は広島、鳥取、青森
2000年 白川 英樹(東京都出身)※両親は岐阜県出身
2001年 野依 良治(兵庫県出身)※親は長野県、福岡県出身
2002年 田中 耕一(富山県出身)
2002年 小柴 昌俊(愛知県出身)※両親は千葉県出身
2008年 南部陽一郎(東京都出身)※親は福井県、福島県出身
2008年 下村脩(京都府出身) ※親は長崎県出身
2008年 益川敏英 (愛知県出身)
2008年 小林誠 (愛知県出身)
2010年 根岸英一(満洲出身) ※親は東京都出身
2010年 鈴木章 (北海道出身)※両親は山形県出身
2012年 山中伸弥(大阪府出身)
国内最終学歴
東京大7
京都大4
筑波大・名古屋大2
北大・東北大・長崎大1
生まれ
東京都・愛知県4
大阪府2
北海道・富山県・奈良県・京都府・兵庫県・愛媛県・山口県・満州国1
育ち
京都府3
東京都・神奈川県・富山県・愛知県・大阪府2
北海道・福井県・岐阜県・長崎県・兵庫県・愛媛県・山口県1
―――
これらをみると、ノーベル賞そのものが学会誌掲載された論文の評価又は出版された英語訳著作物の評価というかぎりで(つまり平和賞については平和主義政治の力のみ大きいが)、「人口比率」へほぼ忠実といえそう。人口の多い都市圏に生まれ育った著作者が多くその賞をえた。文化のかたよりは、特に東京圏と京都圏へ分割されてきているのが日本の現状らしい。
その賞の特性から言って、必ずしも著名ではない発見には付されない。或いは独創的な業績にも付されない傾向はある。しかし、英語訳へほぼ依存するとはいえ地球人類そのものが対象なので、科学と少なくとも特殊な文芸圏のかたよりをみるにはかなり使える指標ではないか。これらは特定の科学以外には付されないので飽くまでその文化圏での自然学習の習性程度の目安になるにすぎないが。
震災後は無傷だった大阪が副首都を狙うなど活発な動きをしているが、自分は長い目でみるとおそらく東北圏の方が、比率として学問の権威は殖えると思う。人類全体をみても、はじめ温帯圏で発祥した学問は北国へ流れ着くとすばらしく発達しがちだ。寒冷な気候は外界での活動を抑え込む。その為もあってか、寒冷圏では著名な学者が多数出現する傾向がある。日本では京都へ長く古都が置かれていてその余波もあっていくらか京都大がその権限を発揮してきたらしいが、これからは、そうなることがおよそこれまでより一層少ない筈だ。なぜなら関の様なものもなく、文化も人もかなり自由に日本を移動しているので、より好ましい環境にたどりついたとき発火する。
ただし、結果がはっきりするのは数百年から数千年の期間でみると、ということだが、それも学問の領分では一瞬だ。地中海やアラビアがリードしていた科学はその後のルネサンスでイタリアに追い越され、中世にはイギリスから鼻をあけられ、現在では多人種のまざったり移民で優遇のあるアメリカに集積していっている。日本は中国の停滞と共に極東で孤立していたが、その流れにまきこまれつつある。
人物名 国内最終学歴 出身生育地
鈴木章 ─── 北海道大 ─ 北海道生まれ北海道育ち
田中耕一 ── 東北大 ── 富山県生まれ富山県育ち
南部陽一郎 ─ 東京大 ── 東京都生まれ福井県育ち
小柴昌俊 ── 東京大 ── 愛知県生まれ神奈川県・東京都育ち
小林誠 ─── 名古屋大 ─ 愛知県生まれ愛知県育ち
益川敏英 ── 名古屋大 ─ 愛知県生まれ愛知県育ち
利根川進 ── 京都大 ── 愛知県生まれ富山県・東京都育ち
白川英樹 ── 筑波大 ── 東京都生まれ岐阜県育ち
朝永振一郎 ─ 筑波大 ── 東京都生まれ京都府育ち
湯川秀樹 ── 京都大 ── 東京都生まれ京都府育ち
下村脩 ─── 長崎大 ── 京都府生まれ長崎県育ち
福井謙一 ── 京都大 ── 奈良県生まれ大阪府育ち
江崎玲於奈 ─ 東京大 ── 大阪府生まれ京都府育ち
川端康成 ── 東京大 ── 大阪府生まれ大阪府育ち
野依良治 ── 京都大 ── 兵庫県生まれ兵庫府育ち
佐藤栄作 ── 東京大 ── 山口県生まれ山口県育ち
大江健三郎 ─ 東京大 ── 愛媛県生まれ愛媛県育ち
根岸英一 ── 東京大 ── 満州国生まれ神奈川県育ち
��参考) インターネット上の情報のコピー
1949年 湯川 秀樹(東京都出身)※両親は和歌山県出身
1965年 朝永 振一郎(東京都出身)※親は長崎県、埼玉県出身
1973年 江崎 玲於奈(大阪府出身)
1981年 福井 謙一(奈良県出身)
1987年 利根川 進(愛知県出身)※親は広島、鳥取、青森
2000年 白川 英樹(東京都出身)※両親は岐阜県出身
2001年 野依 良治(兵庫県出身)※親は長野県、福岡県出身
2002年 田中 耕一(富山県出身)
2002年 小柴 昌俊(愛知県出身)※両親は千葉県出身
2008年 南部陽一郎(東京都出身)※親は福井県、福島県出身
2008年 下村脩(京都府出身) ※親は長崎県出身
2008年 益川敏英 (愛知県出身)
2008年 小林誠 (愛知県出身)
2010年 根岸英一(満洲出身) ※親は東京都出身
2010年 鈴木章 (北海道出身)※両親は山形県出身
2012年 山中伸弥(大阪府出身)
国内最終学歴
東京大7
京都大4
筑波大・名古屋大2
北大・東北大・長崎大1
生まれ
東京都・愛知県4
大阪府2
北海道・富山県・奈良県・京都府・兵庫県・愛媛県・山口県・満州国1
育ち
京都府3
東京都・神奈川県・富山県・愛知県・大阪府2
北海道・福井県・岐阜県・長崎県・兵庫県・愛媛県・山口県1
―――
これらをみると、ノーベル賞そのものが学会誌掲載された論文の評価又は出版された英語訳著作物の評価というかぎりで(つまり平和賞については平和主義政治の力のみ大きいが)、「人口比率」へほぼ忠実といえそう。人口の多い都市圏に生まれ育った著作者が多くその賞をえた。文化のかたよりは、特に東京圏と京都圏へ分割されてきているのが日本の現状らしい。
その賞の特性から言って、必ずしも著名ではない発見には付されない。或いは独創的な業績にも付されない傾向はある。しかし、英語訳へほぼ依存するとはいえ地球人類そのものが対象なので、科学と少なくとも特殊な文芸圏のかたよりをみるにはかなり使える指標ではないか。これらは特定の科学以外には付されないので飽くまでその文化圏での自然学習の習性程度の目安になるにすぎないが。
震災後は無傷だった大阪が副首都を狙うなど活発な動きをしているが、自分は長い目でみるとおそらく東北圏の方が、比率として学問の権威は殖えると思う。人類全体をみても、はじめ温帯圏で発祥した学問は北国へ流れ着くとすばらしく発達しがちだ。寒冷な気候は外界での活動を抑え込む。その為もあってか、寒冷圏では著名な学者が多数出現する傾向がある。日本では京都へ長く古都が置かれていてその余波もあっていくらか京都大がその権限を発揮してきたらしいが、これからは、そうなることがおよそこれまでより一層少ない筈だ。なぜなら関の様なものもなく、文化も人もかなり自由に日本を移動しているので、より好ましい環境にたどりついたとき発火する。
ただし、結果がはっきりするのは数百年から数千年の期間でみると、ということだが、それも学問の領分では一瞬だ。地中海やアラビアがリードしていた科学はその後のルネサンスでイタリアに追い越され、中世にはイギリスから鼻をあけられ、現在では多人種のまざったり移民で優遇のあるアメリカに集積していっている。日本は中国の停滞と共に極東で孤立していたが、その流れにまきこまれつつある。
2011年7月16日
至急の原発対策
東海第二原発と常陽は、至急、防潮堤を十数メートル以上(最低でも福島の例にとって20mあたりか)へ拡張し、非常電源を敷地内の高台か高い建物(できれば免震棟)へ置き警備員もそこへ常駐させるべき。かつ、それらが失われても非常用電源の投入がすばやく進むべく複数個、別の箇所へそれを用意しヘリコプターでも敷地へもっていける準備をしておくべき。
ここまでは県政か東海村の内政で企業へ監視のうえ行わせる義務あり。
また今のところシェルターは間に合わないがいずれ考えるとして、まず経口ヨード剤を沢山用意し汚染が懸念される住民(乳幼児など若年者優先)へ避難前に服用させる。そして緊急避難の冊子をつくりどうどこの避難所へ行動すればよいかを啓蒙する。普段から条約として、事前に放射能汚染から安全な長期滞在もばあいによってはできる避難先の手配をしておくのも必要であり合理。
ここまでは県政か国政が義務づけられるだろう。
地震が活発で南茨城沖付近で大地震の確率がいわれる様になった限りおよそ一刻をあらそう。
ここまでは県政か東海村の内政で企業へ監視のうえ行わせる義務あり。
また今のところシェルターは間に合わないがいずれ考えるとして、まず経口ヨード剤を沢山用意し汚染が懸念される住民(乳幼児など若年者優先)へ避難前に服用させる。そして緊急避難の冊子をつくりどうどこの避難所へ行動すればよいかを啓蒙する。普段から条約として、事前に放射能汚染から安全な長期滞在もばあいによってはできる避難先の手配をしておくのも必要であり合理。
ここまでは県政か国政が義務づけられるだろう。
地震が活発で南茨城沖付近で大地震の確率がいわれる様になった限りおよそ一刻をあらそう。
2011年7月11日
No title
この上の二つの資料をみくらべれば分るが、常磐一帯が高放射能汚染地帯に現状でなっているのは明らか。今後、ベラルーシ南部やウクライナ北部であった程度の「甲状腺癌患者」が多数出てくる、というのは予想できる。
北茨城私設研究所のページによれば3月14日(月)の午前0時から4月16日(土)の午前0時まで(33日間)で、596.790μSv、なので、北茨城市全域はチェルノブイリ事故の第一区分とされている40キュリー=540マイクロシーベルト、をこの地域も余裕で超える。要するに今の菅首相のもとの狂った政府は、金勘定しかあたまになく、我々を遠まわしにチェルノブイリ事故よりひどい条件下で虐殺か最低でも虐待しようとしていると思われる。
このベラルーシのこどもの映像からも分るが、1ミリシーベルト以下の汚染でも現実に、過去において健康異常と障害がふえたのだから。菅首相らは山口県出身と自称しているが、歴史をしっていれば彼らが戊辰戦争に於いてすさまじい残虐さを示したことから、この事実をしっていても公表させないようにしている確率が高い。あるいははじめからうまくやって東日本を殲滅しようとさせていたふしがある。その後の行動を追って行ってもこれは後世の歴史家がはっきりと実証してくれるはずだ。彼は震災直後からあまり適切とはいえない対応をしておきながら、その後は被災地対策よりも先にさまざまな詐欺やごまかしの策で時間稼ぎを4か月していたし、あげくには暴食したり孫正義氏と利権談合をしたりふざけた行政をやっていた。
また、3/12の最初の水素爆発時にはすでに炉心融解は起こっていたことから、その時点でスピーディの情報を隠したままにしておいた菅首相の判断はまちがいだった。隠しておいたままにしておいて彼らが東電の現場に行きかえりしてから、爆発が起きたので、きづかれなかったが3/12のその時点で「大量被曝者」らは東日本一円にいた、という事実が確証できる。我々も当然それに含まれる。
この質問先にある
��レベル7の放射性物質は、一度に大量に15日の雨で俺らに降り注いだんだ!!
��事実は空間線量の累計なんかじゃないんだよ!!!
��15日の、ピークだった放射性物質を雨で俺らは受けたんだよ
という原発北西・福島市あたりの被害は甚大になるだろう。過去から演繹すればそれは間違いなく、暫定基準値をだしてある食物の摂取で内部被曝が拡大しようとも、しなくともやはり。
要するに、東電国有化が私は現実的と思うが菅首相の交代劇後はそうせざるをえないだろう。東電が大公害会社としても存続するのは考え難い。チッソさえも潰れたのだから、こんな大事故を起こして社会が存続させたらそれこそきちがい沙汰である。
最低でも外部被曝について、100ミリシーベルト以下では死亡率が下がるといった統計もあったことから、今後我々を含めて生体実験台となった東日本人は、福島県民とおなじく追跡調査が重要な必要事項となる。内部被曝と外部被曝への分析も必要になるだろう。もし「閾値」がはっきりみられるなら、その生き残りにとってプラスになった条件が後生の参考データとしてとても貴重になるからだ。
よって茨城県でも県民登記をもとに追跡健康調査をはじめるべきだ。単に賠償の為だけではない、それは科学そのものと言える。(今後、集団訴訟の準備をし、もし東京電力株式会社と当時の日本政府の責任者へ、避難指示についての情報の非対称性を悪用した精確な過去の事故事例との参照が行われていなかったがゆえに、我々を含む地域住民への健康被害が少しでもあれば、確実に賠償をえられなければならないだろう。どのごまかしも最後まで追求しきらねばならない。事故から4か月経過して積算被曝量がふえつづける2011年7月半ばの現時点でも、チェルノブイリ事故の第一区分以上の被曝地にいる我々は彼ら、東電にも政府の原子力安全保安院にも、また菅内閣にも避難勧告が出されていないのを知り記憶すべし。)
北茨城だけではなく、ひたちなか辺という最大の放射線積算量のある地域含め、柏市や東京都、栃木県、場合によっては東北圏一帯、或いは神奈川と静岡まで含めおそらく南茨城県でも同様の健康被害がみられる可能性がとても高い。チェルノブイリの前例があるのだから政府が当面ごまかしても全く偽と言える。自称山口県(西日本の果て)出身の菅直人 首相の墓の底までの徹底責任追及はいうまでもない。どうせ死ぬと分れば誰だってそれを諦める事はないだろう。自分は以上の真実がもし隠蔽され続けるなら、菅直人を極刑にすべきだと思う。
追記・高橋氏のツイッターでこのブログか分らないが、1キュリーは単純換算で1Ci(キュリー)=37GBq(ギガベクレル=十億ベクレル)という指摘あり。しかし、以下の計算をみれば毎平方メートルと毎平方キロメートルをみのがしておられると思われ、私の計算そのものには不備がないと思う。図もより精確に単位を付加しておいた。
チェルノブイリ事故後の避難区域設定の参考値。
Confiscated/Closed Zone(閉鎖地域):
��40Ci/? (148万Bq/㎡)
Permanent Control Zone(永久管理地域):
15~40Ci/? (55.5万~148万Bq/㎡)
Periodic Control Zone(一時管理地域):
5~15Ci/? (18.5万~55.5万Bq/㎡)
Unnamed Zone(名称無地域):
1~5Ci/? (3.7万~18.5万Bq/㎡)
また、ベクレルとシーベルトの間の換算は、放射能の値と被曝量の値が物質間でさまざまにことなることから、できるだけ単純でめやすになる値を以下のサイトから借用した。このばあい放射性ヨウ素で計算しているらしい。
http://okwave.jp/qa/q6635125.html
あるいはまた、このリンク先を参照にヨウ素131ばあいのベクレルとシーベルト換算をすると、
2000 Bq/kg × 2.2×10-8 Sv/Bq = 0.000044 Sv/kg
2000Bp/kg =0.044μSv/kg
2000000Bp=44μSv/kg
200万Bq/kg =44μSv/kg
となり、
��000万ベクレル=1.4シーベルト
=1400マイクロシーベルト
とした前述の値とは10倍違う。だから、物質間の誤差をみて
2000万Bq/kg ≒1400~440μSv/kg と、みておけばより精確かもしれない。そうすると、この記事最初の図はマイクロシーベルト換算でより少ない値で言え、結局、我々の北茨城含む常磐圏のいまの汚染状況よりもチェルノブイリ事故の汚染状況は軽いと再びいうことができる。
おそらく、日本政府の方針は閾値ありモデル、によって200~100ミリシーベルト以下の臨床例がない、という点を重視しすぎており、チェルノブイリ事故のときにとられた方針よりも実験台としてのそれを優先している。閾値なしの考えに基づくと(尤もこれも臨床例が少ないので確証できないわけだが)、たとえ20ミリシーベルト以下の被曝でも確率的に危ない、といわざるをえないわけだ。内部であれ外部であれ被曝そのものが。私は、菅首相のほかのすべての行政権についての一連の判断が鈍く劣ったものであるのに鑑み、この記事にある御用学者を降りた小佐古敏荘・東京大教授(放射線安全学)の判断の方がまだ正しさをみてとれると思う。危険な可能性が一部でもあるかぎりそちらをとるのが親心というものではないか。
要するに、実験台として扱いたい菅首相とその側近の判断、にくらべて我々は「危険が少しでもあるなら許可なく国民をその実験に晒すな」という情報非対称性の批判的上流に立っていると思われ、そのどちらが正しかったかは歴史が証明するだろう。一人でもその安全なはずの範囲で癌患者あるいは奇形が出れば、菅直人氏とその側近は監獄ですごす時間が長くなり又は最高刑に処されるまでの期間が短くなるはずだ。
――――
以下は計算と、参照URLや資料
1480,000bq(Bq/㎡)=40Ci(Ci/? )
148万ベクレル(Bq/㎡)=40キュリー(Ci/?)
37,000bq(Bq/㎡)=1Ci(Ci/?)
��万7千ベクレル(Bq/㎡)=1キュリー(Ci/?)
��000万ベクレル=1.4シーベルト
=1400マイクロシーベルト
��000÷148≒13.51
∴40キュリー×13.51=540.4マイクロシーベルト
→15キュリー×13.51=202.65マイクロシーベルト
→5キュリー×13.51=67.55マイクロシーベルト
→1キュリー×13.51=13.51マイクロシーベルト
��チェルノブイリ事故時の避難エリア指示>
(強制避難エリア):148万Bq/m2(MBq/km2)
第一区分(強制移住エリア):55万5千-148万Bq/m2(MBq/km2)
第二区分(補償つき任意移住エリア):18万5千-55万5千ベクレル/m2(MBq/km2)
第三区分(放射線管理エリア):3万7千 - 18万5千Bq/m2(MBq/km2)
※Ci(キュリー)=37000MBq(MBqは百万ベクレル)へ換算すると、
強制避難エリア 40Ci/km以上
第一区分(強制移住エリア):15Ci以上/km2
第二区分(補償つき任意移住エリア):5-15Ci/km2
第三区分(放射線管理エリア):1-5Ci/km2
http://onodekita.sakura.ne.jp/sblo_files/onodekita/image/2011052501.jpg
http://onodekita.sblo.jp/article/45459241.html
http://www.youtube.com/watch?v=zZOWyZukFCQ&feature=related
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1265946502
http://okwave.jp/qa/q6635125.html
http://c3plamo.slyip.com/blog/images/NISA110418.jpg
http://megalodon.jp/2011-0615-1151-33/4.bp.blogspot.com/-HVTUls4vGYc/Ta-bT_UxyOI/AAAAAAAAALk/E7Uu044fDoM/s1600/MapOverlay2011-04-18NNSA%252BGoogle.png
http://megalodon.jp/2011-0615-1150-59/1.bp.blogspot.com/-oguNZJ8Dzdw/TazIGVTvKRI/AAAAAAAAALI/hkvGVgIU5wg/s1600/NNSA-AMS-2011-04-18a.png



