2011年9月18日

教育と分業の社会生物学

人類の社会でいとなまれる文化は、ひとことでいうと「好み」の問いにかえる。いわば趣味のよしあししか社会の本質はない、ともいえる。
 これは生物学・社会生物学的にはこう説明できるか。まずいまの生物学の用語でいうランナウェイ仮説ってのがある。これは性選択(つまり結婚相手のえらびかた)に、特定の好みが加速度的にあつまっていく、という有性生物の傾向を仮にいいあらわしたもの。孔雀のとべない羽も鹿のつよそうな角も、このrunaway、つまり特定の特徴的行動に至った形質の暴走と性選択をとおして繰り返し強調されてきた結果、という説明。
 だから人間界を(宗教の目をわきにおいて)もし単に大脳のかなり発達した哺乳類の社会とみなすと、人種といわれる特徴やある人達にみられる強められた性質は、このランナウェイの過程によりえり抜かれてきた、とも仮説できるだろう。
 これらの実証には十分な議論がなされたとはいえない。ダーウィンが『種の起源』の素朴な進化論を発展させ『人類の起源』で展開させた論理(人の特徴も性選択の結果である)は、もしそのまま結論をおしつめると人種差別や民族偏見にもつながりかねないため、少なくとも道徳面では否定されたり逆のことをいわざるをえない場面がきわめて多い。しかし、次の観点をかんがえればよい。
 国際分業や社会分業の過程に、すべてのいまいきている人類がまきこまれているか少なくとも参加を欲していると仮定すると(さもなければ無人島で孤立してくらすほかないので)、かれらのなかにある現時点で社会的職業とか個性とよばれている特徴へのさまざまな変異は、この特定の社会について分業の進み具合とよりそっている。
 我々が走れない速さではしる人種がいるかもしれず、我々が解けない問いを易々と解く明晰な民族がいるかもしれない。これらは差別のためではなく、単純に国際的分業をすすめようとしている自然からの意思なのだ、とかんがえてみると都合がいい。勇気のあるたみも繊細なたみもいるだろう。力もちも秀才もいよう。逆にほとんどいいところのない特徴の薄いひともいるだろうし、わざわざ他人に害をあたえる悪さを習慣的にまでして人々の反面教育に寄与する変異もときたまみられるかもしれない。これらのすべては‘人種間の絶滅戦争’のためではなく、‘実力主義的な所得格差による競争的淘汰’のためでもなく、単純に仲間の能力のちがいを有効に活かしてできるだけちがう持ち場をしっかりと守り抜くためにあるのだともいえよう。*1
 この発想を、自分はいまここで「特徴の分業」となづけておく。これは社会学や人類学の面へ任意にあてはめたり、ここで印そうとした道徳的慈悲的・普遍愛的意味さえ失われなければなんらかの(できるかぎり実証できる肯定した文脈でのみ)形而上学にも将来的には応用できる可能性がある。

 人類は社会でしか生きていないし、完璧に孤立すればほとんど何もできないし熊や狼にすら無力なほど弱い。例えばいじめが発生する理由も、強すぎる社会淘汰の圧力がかかりその分業集団内でいわゆるつかえないやつに過剰なちゃんとやれコール(励ましか強制)がかかってきた結果なのではないか。いいかえれば「ゆとり幅」としてのつかえないやつのための仕事場や居場所が、どの社会でもいじめの様な残酷で非人道的なわるさがはびこらないためには必要不可欠なのだろう。はっきりいって、自分も経験してきたこの市の域は、こういうゆとり幅がかなり少ないといおうかほとんどない傾向がある。*2
 問題はすべて報道機関や警察庁や文科省や先進国の報道機関や国連とその関連機関や教育福祉系のNGOへ上告しつづけ、といっても最も単純には、どういう腐敗したことがあるかそれを解決するにはどうしたらいいか不満を手紙をかいておくればいいわけだが、不良教師もふくめ不品行とおぼわしきものをすべて文や言葉にして上告や外部通告しつづけるべきだ。
 教員の悪質はできるだけはやく別の地域、特に教育県とか教育性のたかい先進国の相談先(できたら英語圏、またはフランス語圏。国連での地位と実力のため)へどんどん暴露してしまうしかない。すこしでも疑問におもったらすべて細大もらさずそうやって上告しつづけるとよい。世界には「よい教師」や「すばらしい教育者」や「高い志をもつ理想的公務員」が無数にいる。このために、その不良教員は、みずからが適材適所でない‘まちがった特徴の分業’の地位へはいりこんでしまっただけの社会的エラーなのである。別のすばらしい、心から尊敬できる、そして我々の知識と社会の善を増進するための決してめずらしくない本来そこにあるはずあたりまえの教員は、この特徴の分業のことわりさえ生徒にわかれば、人材をとりかえるだけで、そしてそういう教師をこころから待ち望み行動するだけでかならずや数かぎりなく実在している(そのための教育学部が本来あるし、でもしか教員を丸除きなければならない)のでかならずや来るのである。どうしてもこなければ自分がはらった税金を教育詐欺による不当廉売として返してもらい、いるところへ行ってしまえばいい。まちがった地位についている不良教師は、市民の義務でもあるが、首にしなければ税収が誤用どころか悪用されているだけのはなしとなる。
 社会的分業の経過は、いずれ社会はよりよくされ、合理性とそこですごすことの幸福の程度が上向くとしらせている。なぜなら適材適所で努力すること、立派に(それぞれの能力と才能のかぎり、公共福祉に、人々の善としあわせのために)つとめを果たすことはほかのすべての社会にとっても、最も効率よく、さらにかれらの活動でうみだされる楽しみと喜び、立派な職業人への一層の敬いをますはずだからだ。*3


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��1 現実には真逆の、生存闘争としての暗い場面がいかに多いかわからないとしても、理想的にもしくは微視的には。なぜなら家族や会社といった全人類というほどのあたま数の多さをもたないかなり小規模の集まりでは、この職業分化というものはかなり普通にみられるのだから。「職人」とか「職業」、「役割」とか「仕事」、「委員」とか「ポジション」また最も卑近な俗語でも「キャラ(characterの略で仲間内の性格に合う役割分業につかわれたりしている)」という言葉はこの特徴の分業にかかわっている。それが固定化したり、流動性が低下したため適材適所ではなくなり一昔の言葉で意味している身分や門閥、門地とまでなると社会の合理性が阻害されてくる側面がある。だから特徴の分業はある程度の流動性と交代可塑性がつねになければならず、さらには試験や実地によってたえず適性のすぐれた人物をのぞみつづけねばならない。

��2 特に自分が磯原中学校時代、八重樫という社会の男の教師は竹刀で問答無用に子供を密室へとじこめ殴る蹴るを平気でしていた。この男は上述の「ゆとり幅」としての社会学的な特徴の分業が、ちっともわからないかしらなかったので、ちょっとくらい教育テレビでみたアメリカの学生のまねして授業中にガム噛んでみただけの少年たちを、死ぬか生きるかのすさまじい暴力、内部出血するほどの力で殴るける脅す、最後にはこれはどう考えても卑劣きわまる反則技だが膝であたまをけり、これは中野とかいった新任の体育教師だったが「クズだな!」と大声で威嚇し怒鳴りつけ、履いていたスリッパを生徒へ叩きつけ永遠に癒えない傷を心にも、この僕をふくめ言い分をゆるされなかったゆえ拷問にもかかわらず精神的なプレッシャーのため、おやへも黙っていた繊細にして純朴なる少年たちに負わせたのだった。要するに、磯原中学校という場所では数十年前に体罰がはっきりおこなわれていた。結局かれら八重樫・坊主あたまのジャージ姿の中野・女の教師だが高野というこれらの不良教師は、なるほど人類史のなかでみれば単に反面教育としての役目しかになっていない風にだれもに思えるかもわからない。実際のはなし、黙秘権を蹂躙して虚偽をふくむ自白を密室で暴力により強要した罪は永遠にぬぐいされないし、さらには威圧によって冤罪を被疑者の罪意識へ転嫁させようとし事実上は脅迫罪を未成年の子供へ侵してその口止めをしたにひとしい悪辣非道ぶりは当人らが永遠に償えない罪科を暗に背負うという人類史のかたすみで起きた因果応報のことわりしか示していなさそうだ。

��3 知的能力をかれらが自覚するならば、もし力仕事であれ、より高尚にして難度の高い課題へ挑戦していく知性をもつかれらの手助けであれ、そのみずからの故郷からそだった同胞の輪またはいくらかの協調性の本能を互いの善をそだて悪を責め合いより尊重されるべき人類の仲へ向上していこうとするちいさな努力と形質であると認識できるだろう。はっきり確認されたとはいいきれない、猿としてのむかしの経験からつながっている、もはや個人主義の時代にはほとんどほめられもしない群れつどう社会的いきもののありきたりなさがだとしても。