2011年10月6日

水戸藩史からみた歴史学

きのうあたりの新聞の天声人語の欄にのってたはなしだけど、慶喜公への評価が不当に低いのが本当に悲しい。その意味でも、司馬遼太郎の罪深さは末路無いものに思う。

ドナルド・キーンの様な後世の文学の研究者へもかれが与えた小説史観の影響、しかもおそらく悪影響は大きい。

 自分は幕末史を新政府軍側、旧幕府軍側の両方から見直してみても、やはり新政府軍側には卑劣さや卑怯さがあると感じる。旧幕府軍側は忠誠の為に戦ったが、新政府軍は野心の為にそうした。
ドナルド・キーンは帰化アメリカ人として、‘明治?その生涯’という近年の英語の本でかなり新政府軍側の肩をもつ論述をしている。その中でも、慶喜公は(高踏的水戸学への無知からその複雑な態度をおとしめる司馬史観を踏襲して)不敵な野心家に書かれている。

しかし、少なくとも水戸一高の生徒や弘道館の理解者以上はこれらが単なる誤解だと分かる(というより、水戸学とよばれている日本史についての哲学がある程度わかれば誰でも)。
この誤解があるかぎり、つまり情報の非対称さがのこるかぎり、日本人の大多数やその他の外国人は大衆へ膾炙した司馬小説史観を数多のドラマなどからも信じ込んでいくかもしれない。

“心底誠実な忠義の者を野心家としておとしめ、単なる出世欲と野心だけのテロリストをあたかも国家の英雄の如く書き付ける。”
司馬遼太郎のやったこの人心へあたえた風説の一事は、後生の歴史家がどこかで必ず再考し、起きた道の歪みはとりのぞかれねばならないはず。

宇都宮默林という広島の僧が、吉田松陰へ吹き込んだ覇道と王道という儒教の解釈学、要は「物の言いよう」があの幕末の悲劇とその後の侵略史をつくった。なぜ家康公の時代にかれが朝鮮侵略などのルートを辿らなかったのかは歴史家の考証に待つが、武力で鎮圧しなければ支配の正当性を保てなかった意味で薩長土肥や当時の開国派の公家と、明治以降の天皇に王道としての定義を与えることはできないだろう。

戦国時代の乱立へ統一した権力を与えたのが家康公だったとすると、さらに以前の鎌倉時代まで一貫して武家の本懐は「本来は天皇がつかさどるはずの防衛者としての職責」を代行することだった。これが水戸の弘道館で江戸時代によく研究され、見出だされてきた日本史の本質だった。
大義名分論といわれる、当時の国際的科学知識としての朱子学や中国の史学の援用で説明された使命観はそこにあった。そして現実の弘道館がほかの藩学の校舎や校風とことなって偉大で特別なのは、この日本独自の正史を初めて定義した点にある。というのもこの独創性は文化史からも日本を独立させうる面で歴史的だからだ(正史、要は実証性の高い過去の歴史学的文献がその国家や地政を伝統あるものとして保証する)。
信憑性が明らかでない日本書記や古事記のそれ(文字の独占によって神話化された日本民族の発祥)とも異なる、現実的歴史観を慶喜公へもたせたのは水戸の学問だった。そして「行く末も践みな違えそ秋津島大和の道ぞ要なりける」という斉明公の碑からも知られ得る皇室への忠誠は、結局、一棟梁の代行がかりそめの物で、天皇自身が防衛軍を指揮するのが最善であると教えている。そしてこの面で現代へ警鐘を鳴らしつづけているともいえるだろう。なぜならもし天皇に職分がなければその空位に等しいのだから。同様に、民衆自身の自主防備も警察権力により否定されている以上この空転は国民への守り手のなさのゆえ、致命的に危険でもある。
��尤も、王政の形式化をほどこしてきた国々では、現実には儀式の為にしか皇帝や王室の理由もなくなってはいるが。今の日本でも象徴ということばでごまかされてはいるが、御璽の形式としては同じ事と言える。日本のそれが特殊なのは、古代の神聖政権風の政教不分離(より正確にいえば、政治と教育のみならず、政治と宗教の不分離)な前近代性が、単なる形式以上に社会のあちこちで残っている事だ。これが政宗分離をこころざす国歌についての議論につながっている。形式のみをみれば、カトリックを日本化すれば天皇制になるといえば外国にも理解できるかもしれない。この問題点がある限り、日本での尊王論はすべて形式論にすぎないし、そうでなければならない。)

 より現代の水準の科学や歴史学と矛盾しない様にこれらをまとめると、征夷大将軍という名分(肩書き)で天皇がまかせてきた武家の本意は、第一次の元冦時に公家によって暴露された無策や無様な仕事しなさ、無能にもとづく頽廃した搾取体制を否応なく肩代わりするという、公務員本来の職責の追求だった。この征夷大将軍という大義が武士を維持してきたし、今も国民の無意識に潜在している。
だから、自分の様に明治維新とかれらが名付けた国民へ向けてのテロリズムや、それ以後の侵略史には正義の平衡をみいだせずにいる人間がいるというのは、そしてそういう者が大義名分のない筋書きである司馬遼太郎の書いた小説からきた多くの物語に、違和感や嫌悪感をもよおすというのはありそうなことだ。

古事記の茨城郡条からくる名辞でもわかるが、決して古代のヤマト民族は王道のためにその王朝を築いたわけではないだろう。それはエビスやらエミシやらクマソやらアイヌとして、奈良に土着したヤマトが蔑もうとした相手へも必ずしもあたらない。
だからヤマト民族の支配正当性のために宇都宮默林や吉田松陰をたきつけた覇道批判は、そもそもヤマト民族へあてられねばならなかったはずであり、かれらの職責を代行してきた立派な心がけの武家を排除した、というのは、歴史の眼でみればどちらかといえば悪徳なのが間違いないと思う。もしきちんと防衛者としての仕事を、天皇と皇室、公家や国司がまっとうできていればそもそも武家政権が成立したはずもない(それはたとえばイギリスという国で議会政治がなぜ発祥したかも照らしあわせている)。
 自分がおぼえている不穏性、つまり司馬小説史観の蔓延が後世へ及ぼす悪禍はその正当性のなさ、根本哲学のなさ、理念のなさ、単なる野心や成り上がりの肯定、不正や卑劣の肯定など悪徳とよばれるだろう数々の符号と合致している。
もし以上の考察がかえりみられることがあれば、近現代に日本がやってきたこと、その中で起きた悲惨な事件の数々は大義名分よりも野心をとった明治天皇に真因があると見抜かれ得るだろう。当時の摂政と関白がそのかわりの判断をしなければならなかったとすれば、なおさら彼の代に歴史の断層が生じたと思えてならない。

実際、文献を見比べ史跡と実例をつぶさに観察すれば、福沢諭吉や坂本龍馬、西郷隆盛や木戸孝允ら下士は武家にありながら職責を逃れ野心を抱き中央政権へ攻撃を加え内外と策謀し相互にも裏切りを働いたのに比べ、徳川慶喜や芹沢鴨、近藤勇や沖田総司は仲間と忠誠を誓って自らの職責へ忠実だった。

 この一連の考察も、長い歴史の中では答えが出ることだろう。
もし神ほどの長さで日本史とその中で行われた業を見返す者なら、容易に集団行動にともなう優秀性を淘汰できるはずだ。
もしある偶然が、薩英戦争と下関戦争の敗軍へ手に入りえない武器をもたらすという奇事を起こさなければ、単なる一時の錯綜の為に民族のたちやその道徳を失わせることはないだろう。そして私および我々の観察を悲しませる多くの裏切り者への賛美は、歴史の神が正義の平衡にともなった一定の報いを与える事でやむであろう。
 なぜ内乱をともなう近代化をしなければならなかったか? それは野心家の悪意をこうむる人知にしか知りえないだろうし、実際に近代化の手続きを見返せば、‘倒幕の密勅’の様なはなはだしく人間の誠意と精神にもとる策謀は、遅かれ早かれそれを行おうとした人々に破滅を及ぼすに違いない。
 自分にとっての大きな慰めは、慶喜公の後半生が(幼時の慧眼による将軍職への消極的姿勢、つまり「失敗するならはじめからやらない方がよい」と言う、当時の幕府から抑えこまれてきた水戸藩の石高と備え得る実力に比べた重責への忌避感から彼自身望んでいたのだろうが)、穏やかなものだったらしいことだ。明治天皇やその側近らの帝国主義を迎える時代のその後とは好対称な彼の生涯が我々へおしえている人類史の真実は、歴史の神が嘘をつかない、という一点にある。
歴史小説家や歴史物語手が罪深い存在でもありえる、という点は本居宣長による虚構(脚色によって迷信や勘違いを及ぼす仕組み)の持ち上げ以後も、雨月物語の冒頭にある上田秋成の批判程度にしか、日本の文化面ではほとんど指摘されていない。だが、それらの歪み、つまり歴史観の錯誤は巨視すれば民族主義でしかない以上、必ずや正史としての実証科学を歴史検証に用いる者の前に滅びゆくであろう。
かつて人類が洞窟のおくの暗闇で語り手に耳を傾けた時代の慣習は、文字記録が実現しえなかったという条件があるにせよ、風説つまり噂の領域での伝言ゲーム的解釈の歪みへ無意識のつけいる余地を与える以上は決して史実にまさり得る普遍性を伴いえないだろう。