2011年10月20日

生物としてみた社会の考察

http://kamomenome.exblog.jp/14773983/
 この記事をきっかけに、すこし自分の社会生物学的解釈をかいてみたい。

 動物生態の知識で、r-k戦略というものがいわれてる。
r: reproduce strategy
k: kapacity strategy
というもので、高校の生物でならった範囲では、相変異というのに該当するところだ。
 イナゴでいうと、過密層ではk戦略型の変異をおこし広域へ拡散するのに向いた姿になるのにくらべ、そうでない地点ではr戦略型の単純なすがたをとっている、ということかもしれない。

 さらに、a戦略というものがこれらの中間戦略としてあてはまりそうと考えられる。
a: ad hoc strategy
このばあい、生態は加速度的に進化へつながる変異を起こすだろう、という観点にもとづいた理論だ。キャパシティー戦略の中では「過密」に適応するにすぎず、さらには生態異常によって個体におよぶ健康異常で増殖がおさえられるが、一般的リプロデュース戦略下では似た変異が拡充するにすぎない。これらの中間地点でのみ、なんらかの特定能力についてもちつづけた選りぬきが起こりえる。

 で、人間界におとしこむ(これは、キリスト教の国教化圏では人間を動物視させてしまうタブー理論なわけで十分進んだとはいえないが)と、
 小売を中心とした商業気質はすべて、人間のr戦略なのではないか。かれらはきわめてはやくよのなかへ出て行ってすぐ配偶をみつけるために行動している(無意識であれ)。それにくらべて、この市場のとりしまりを行う役人はk戦略者なのではないか。かれらは「最大の群れ」をひきいることで、r戦略者を財産調整という名目で収奪的に利用した収税能力をたかめてくらしている。これらのあてはめがかなり正しければ、どちらの傾向でもないが特徴的な学術気質のみがa戦略的といわれねばならない。

 つまり、結論づければ人類に於ける進化に該当する形質、姿はおよそ学術能力の発展としてしかみられはしないだろう。より一般語にちかづけると、我々の中でしばしば文化人とよばれている者はこのa戦略者にすぎないのだろう。
 特に、五感についての大半の進化はおわっているので、人類が特定のすがたをよりつよく好み続けているかといえば、知性、もしくは単に知能ではないのか。この「知能への好み」は、いくらか前は哲学界として選択的要因にあったが、いまではそれら形而上学(=答えのでそうにない言葉遊び)は徐々に敬遠され、実証できる科学の世界が舞台として繁栄している。特に先進国の中では、かなり決定的に。我々や先進国の文民が、ノーベル賞というものについてもっているある思念といおうか、一定の見方は、結局この「知能への好み」な可能性が高い。そうでなければ、ただのちょっとした人類の中の変異傾向への褒賞がそれほど有名でありえるだろうか?

 これは残酷な観点でもあるが、うまれつき知能の高下というものが十分ありえるのだろう。後天的学習に依存している科学や学問の世界。これはなおかつ、その中でもつよい淘汰の圧力がかかり、うまれつきあたまのよくできそうな個体へのみ、環境がよければ恵む様な知性やその結果としてあらわれる重要な知識をまず宿らせる。これは個人的な経験だが、自分は以前、常磐線のスーパーひたちのなかで、母親から静かにしなさいと叱られている少年をちらっと見たことがあった。その子は、黄色人種の幼児にありがちかもしれないが、見た目はとてもお猿さんに似ている。しかし、叱られてしゅんとしたのか、かわいそうに頭をかかえておとなの座席にうずくまっていた。かれらは東海駅で降りたのだけれど、あの光景から自分がみてとったのは、素朴な観点ではあるが、「猿から進化してきた人類の雄性形質は、もしうまくいけば知能への好みをまっとうしようとする」という事実であり、一連のできごとはその証左におもえた。少年はヒトにうまれついていなければ(というのもありえない話ではあるけど)、あの年頃らしく元気に車内をはしりまわったにちがいない。ヒトであったがため、母親も子もヒトらしくより知能的にふるまう様、否応なく躾けられていたわけだ。
 生後の学習にもかなり依存しているという点で、学問あるいは学ぶ、ということに平等主義の面から希望がもてるのはたしかだが、同時に育ちに値する「教育環境の不平等さ」はぬぐいきれない。そしてそれは単なる政治体制や社会体制をも包み込んだ、補集合的問題だ。
 接待業に従事する女性、これなんてr戦略の最たる形質なのはほとんどうたがえないとおもう。かれらの傾向としてもった主目的は、生物の戦略とみればできるかぎりはやく再生産的に増殖することだ。かねさえもらえればなんでもいい。それが、かれらの違法をなんともおもわず、すこしも学術や文化に感心をもたず、いいかたを改めずにいえばサルのごとくにすばやく発情してその同種をふやそうとする一切の無謀で早熟な性行動の数々は説明しているとおもうのだ。

 この観点からもr戦略者ではない個体にとってはそれに類するすべての行動はかれらにとっての害や失敗行動にちかづいていくのだし、さらにはそのばあい、公共の福祉を向上させることで地域をすみごこちよくしその人口密度をあげるのに貢献するk戦略者、つまりは市政や公共の奉仕者らk戦略者へも反するか、最悪のばあいかれらを害する内容をもってしまう。つまり、「知能への好み」を人類がなんらかの決定的矛盾に直面してやめないかぎり、その進化の程度はすなわち、いかに学術面での伸びをその集団のなかの複数の個体がもっているか、によっている。手短な話が、進化した人類かどうかはかれらのあたまのよさに依存している。これが社会生物学としていまの段階の各人類をみわたしてみたとき、真理ではないかとおもう。

 ダーウィンが『人類の起源』でのべていた、女性が古い段階の人類の特徴を示す、劣った人種に近いみたいなかなりフェミニストに反する意見は、特に女性一般が雄性形質でそうであるごとく強い誇示の舞台をもたないときに彼女らの「母体」としての機能を維持するための、配偶者選択と育児労力の必要最小性から心身についてかなりの文化段階を経てなお適応的だから、または今までそうだったからなのではないか。だから、人類では、もしこういう女性がつよい知能の高さをもたないおおくの集団では、女性からの性選択(結婚相手の見定め)が十分にはたらいてきたとおもわれる。その機構が阻害または逆転されて、社会的慣習でゆがめられ変形させられていたとき、女性自身にも逆選好としてつよく知能の高下または才能の表現がとわれる場面がおおくなってきただろうし、これからもそうなるはず。
 しかし、総合してみると、人類にあっても雄性間の競争または遊戯や規則をともなった競い合いのばめんの多さはこの「知能への好み」が特に、男性にあって特徴をもちやすく、そのばあいに強くあたまのよい子孫がめばえてきやすい、と教えているとおもう。たとえばノーベル賞受賞者たちをどれほどの人類が批判的・非難的・嫌悪的・忌避的、要は心底きらってるだろうか?
 この点だけみても、法的規律によって、地域や民族集団や家族によって差がつきやすい教育環境をできるかぎり向上させ、かれらにとって先取りとなるよりよく豊富に学習できる社会をつくろうとする努力は決して無駄や浪費ではないし、むしろその社会にとってはもっとも大きな課題の一つだろうとおもう。
『社会のよしあしは子どもの教育環境を見よ』。こういうかなり飛躍した鑑識も、以上の知識から推論すれば、あるいは十分なりたつのではないか。

 そしてこれらをまとめると、我々は自由主義経済のもとにあっても、教育についてだけはできるかぎりその生まれの不平等をなくすために無償で、想定できる限り最高のものをほどこすべき、と教えているらしい。なぜならば、うまれつききわめてかしこく生まれた子が、完全によくない環境の為そのpotentialをほとんどいかせずに終わるときの損失は、うまれつきかしこくない子が過剰な財産のために伸び幅のないまま大袈裟な学位をひっさげて暮らし、世間を誤解させ混乱させ不条理をうみだすのにくらべても比類がなく残念だからだし、その様な社会は才能もしくは天才を二度とうみだせないかもしれないという意味では、つくりとして世界の幸福な発展にとっては残るべき星のもとにない様におもう。
 人種差別や所得格差への数々の批判と非難、これらは生得的差別がその後の環境にまで延長されたとき、社会そのものへひどい損害をあたえてしまうという集団防御の本能や本性をしめしているのではないか。そしてうまれにかかわらず、よきそだちのために十分な天性を発揮できた、人類の状態を改善する才能へついて我々が持つ尊崇の念は、かれらの出世がよろこばしく又その福祉の増進を約束するがゆえに、また性選択や社会選択が有効にはたらいているという証拠でもあるがゆえにより一層賞賛にあたいするのだろう。

 もし知能の発達がことばや記号の工夫で数々のimageを我々の人生のなかにのこしていくものだとして、出世や成功の傾向が堕落や失敗のそれにくらべて因果応報に於ける我々のなかの本能的平衡感覚にあたえる影響は大きくちがっている。我々が努力家や天才の飛躍にいだく希望や未来への明るい展望は、その逆に悪質や悪意のある多くのしわざの為におちぶれ、頽廃していくみじめな人々へもつ納得とは異質ではないか。これらは、科学であれ所詮は記号や図式のあつまりでしかないといった分類と認識の限界に於いても、人類のなかで賞賛とかほまれが、本来の位置におちつくためには或る経験的集団無意識が発揮されねばならない、と教えているらしい。そしてこれこそ道徳や倫理とよばれてきた確証的ではないながらもその集団に共通の経験則集合ではないだろうか。
 形而上学という困難な課題についてとりくんできた多くの人とおなじわだちをふもうとせずとも、この経験則集合が特定の民族語彙にふくまれてとりこまれているかぎり、知能の発達、知能への好みもその集団特有のすがたをとる様になるだろう。だから、そこで記号化しやりとりできる知識人らのもっているすべての学識は、その社会集団のなかで懲罰の理由づけへ援用されるがためにすべて有益だと結論できる。
 道徳とは社会集団の経験則集合からきた一定の判断傾向ならびにそれを及ぼす知能への好みである。

 知能への好みがどこで暴走をやめるかはわからない。今のところその限界はみえてない風で、おそらく全人類で最も先鋭的な一人なスティーブン・ホーキング氏はブレーンワールドとか、いまの経験的知識によってはなかなか実在するとはおもえない数十次元の世界を本格的に構想しているらしい。しかし、西洋文明が我々に教えたところによると、「実証的知識」、具体的には天文・物理・化学・生物・社会、これらの分類に該当する数学で説明できる分野は、ほかの認識にくらべて比較してまちがえたり大きく予想を外したりすることがすくないという経験則があった。だからノーベルの遺産でつくられた罪滅ぼし賞も、文学賞と平和賞をのぞけばこれらの基礎的科学に集中している。そして、全体としての人類がこころみてきたところによれば、これらの認識をふかめる知能への好みは、どちらかといえば我々の文明を誤解や迷妄から、無知からくる多くの悪意から救うのだった。その経験則、つまり科学を使用できる才能へのかなりの好みは、いまの先進国の多くで共有されつつあり、実際、かれらがもし生き残れればほかの惑星へ進出してもある程度より維持されていく可能性が高いだろう。
 もし、もっとすぐれた認識の体系があらわれ、かつての朱子学や儒学の様にそれらの再学習がほとんど重視されない時代や世界、社会構成に至っても、この好みは「議論や考察、学習と実験のための才能」としてある大人しさと真面目さをもった気質をかれらの姿のなかに遺す。その方向への好みは、まったくそれらを経験しなかった文化に比べれば、社会的選択行為による広域な人類の改良、すくなからず、現在までに人類が地球内でおかれてきた集団間競争の必然な結果的性質ではないかと思える。職業の合理化にともなう分業の必要がきわめてたかまったとき、学識の為だけの変異はよりつよく選り好まれることになったし、かれらの変異がほかの脳をあまりつかわない仕事みたいには機械によってかなり代替しにくいとわかったとき、この知能のよい人への尊敬は文明化にとって(実際の記録の才の上でも)バックアップとしてはたらいた。
 そしてその経過がかなりの期間つづけられれば、きわめてことなった、最低でも二種類のちがいがはっきりと人類の種のなかにみられるはずだ。器用で、理解がはやく、利口でおとなしい変異は文明化された人類におおくみられ、粗野でぶっきらぼう且つ乱暴でききわけのわるい変異はそれが遅れた人類に残存していく。しかも、おそらくこの異なった方向への変異は、人類が野生に於ける長命化の手段をおおくもたないという条件のためいまのところすこしも縮まる余地がないか、すくなくとも予測される範囲内で文明化された側におおくの資源と幸福の為の資産をめぐんでいる。
 この二種類の変異とかれらの気質を用いる知能への好みへのつみかさねは、最終的にはいまみられる人種とよばれてきたすこしの差異をさらに決定的にことならせ、もっとも有利な変異をうみだすのではないか。そしてそれは文明化された側から生じやすい。
 もし知能への好みが特徴づけられねば、人類はその他の感覚器や生態の変化しかへることはないだろう。そのために、現在いとぐちがみられるrobotや機械製作の才能がそれ以上、高度に進化していくことも確率として低いはずだ。幸か不幸か、かれらがおおく宇宙進出することも考えづらいかぎり、この知能への好みと工学の恩恵による一層の励ましは少々の抵抗勢力や失敗行動もみられるにせよ、とてもかしこい者、理知的に秀でた者を雄性形質の理想形としてますます強化しつつ宇宙のどこかへと移住圏を拡大していくのではないか。そしてある政治領域もふくむ、特定の社会集団はこのつよいa戦略タイプへの好みのために地球的生活にあきたらず、より広い世界と世間をめざして進んでいくかもしれない。単に好奇心のためだけにせよ、あるいは生活の必要に駆られたにせよ。

 なお帝国主義や植民地主義が否定されてきた理由づけも、これらで、要するにk戦略からの拡充はかならずしも人類の安寧に寄与しなかった、という社会集団間の駆け引きでときあかせる。つまり一定の割合では侵略行動や殲滅行動が起こってきたにせよ、多くの場面では「文化的進出」の成否がのちの当社会集団に於ける選択的効果を決定づけるということ(勿論、それ自体が生存数に決定的という証明はまだ手元にないが、社会的な同性間競合の過程ならびに性選択上はそういわれざるをえない)。
 暴力や群れによる植民でこの侵略を行った種は、すくなくとも一定数の他人種らの絶滅行為をおこなったのち生存圏を拡大できたが結局いまのところは、全人類の中で最大数の群れを率いることまではできなかったし、民族らの独立を担保できもしなかった。それらの植民地経営についての不経済性は政治的意図としては国際連盟とその後の連合に於ける戦勝国の過半数を維持し、おおくの島々に同一種を起源に持つ勢力を分散できたというかなり複雑な政策的成果をあげたが、ときに、文化的完成にとっては足枷かもしれない。信用というものが世界の中で最も得難い銘柄ならば、侵略を被った側がそうでない側に比べて侵略者への根源的信用をする可能性は低くなる。
 福沢ら侵略煽動家に反する岡倉による明治の皮肉「戦争をはじめた途端に我々を先進国と呼ぶ様になった」は、この信用性についてのある社会的洞察からみちびかれている風に思う。社会的ジレンマについてのゲーム理論でいうと、協調は先に裏切った側とするのを損失とし、すくなくとも裏切らない側と手を組むのはその集団内で損失を買う確率が低い。この同族集団性は同時に、数々の欠点や費用をもってくるが、おそらくアジアは一つという岡倉スローガンそのものは、この長期的損得にまつわる社会生物学の目からいえば、単に日本の美術工芸の珍奇性の維持は汎アジア様式への裏切りのばあいより総合とした対西洋貿易の際の利得にまさるはず、という審美的判定にもとづいている。だから政治的意図ではなく、美術工芸品の輸出貿易的潜在能力についてのいいおよびが、その汎アジア的美術論にはくっついている。こうしてすべてをみかえすと、南系アジア人のなかにおおくみられるまともな人格的尊重心またはもっとも基礎的な信仰を持った人間へは生理的嫌悪感を及ぼす身売りに類した稼業への市民からの拒否や非難の反応は、r戦略者としての遅れたアジアへの批判や嫌悪を含めa戦略者として当然の反応だと思う。なぜなら「当時の工芸品」についての価値観とそれらはすこしも齟齬する所ないばかりか、すでにそれらの古美術品に審美的および文化的な経済価値が十分みこめないとすれば、我々はそれらを珍重しなければならない理由などないし、さらには政治的意図から堕落した無宗教性をうけいれねばならないわけもない。文化段階がすぐれているまたは経済合理的なかぎりその生存のための規則が多くほかの文明圏へもうけいれられる可能性が高いとすれば、それらの浮気に労力と金銭をとられる劣った変異は淘汰され排除されてもなんら問題はないだろう。