http://kabanobutaiura.blog.shinobi.jp/Entry/1548/#comment
このURLの先にある記事は、様々な意味で秀逸だ。というのも、コメントが面白いことになっている。
自分のカモメ的観察眼(なにしろ海上から獲物をとらえることにかけては比類もない)によれば、これはもにょもにょのひと、要は市役所のとある特別な部屋でごにょごにょしてるひとではないかとおもえてならない。カモメ的推測にすぎないが。しかし、カモメのえものをとらえるときの鋭さだけは信用していい。命がかかっているのだ。
証拠もある。「世界に羽ばたく」という表現を、この人物が最近連用してるのをカモメはカモメだけにじーっと観察していた。この羽ばたきというのがフシギな表現なので、ますますめだつ。
かんがえてもみてほしい。ここは世界の一部ではないのか? カモメが世界以外に飛ぶか? まれにもジョナサン・リビングストンしかそうすることはないのではないか。
科学的業績が政治の具になる、というのはまったく純粋科学、むかしは哲学といわれていた形而上学的欲求の堕落でしかない。とはいえ、これを本格導入したのはかのニュートンというのが歴史の皮肉かもしれないが。
現代科学といおうか、かなり先端的領域でもアカデミズムの中ではなお政争という側面が大変つよい仕事といわざるをえないのも、近代文明の限界だとおもう。ウィキペディアがそれに一石を投じたのはたしかだけど、今度はこれはこれで信憑性や低俗性という点にいろいろと問題をつくりあげてしまった。
とかく、科学の進展(知識という分野のひろがり)にとって政争は邪魔でしかない。政治は政治でやってほしい。市民の自由の領域へ公人が(公務以外に於いて)安易に入ってくるなかれ! つねに、文化の発展は自由の中で、私人の創造力の羽ばたきによってより強く生じてきた。
ハンドルネーム・かば氏にはありんこじみた生ぬるい地下循環器の功績はあるが、あれほど不自然に褒めちぎるのはカモメ下ろしじみた、ありえない政争の悪質なてだて(すくなくとも、そう見てとりやすいイデオロギー的な偶像化の言説)しかみいだせない(*1)。そういう市民干渉、自由の阻害をするとようやくそだってきているすこしばかりの私的知識追求の余地もすぐに衰退してしまうだろう。これは歴史的にみたとき本当のこと(権力濫用の余地が市民の自由を阻害し、文化を破壊した)なので、あえてこうしてさらし者にするしかない。まるではまべにうちあげられた魚のごとくに。
��もし、これらがすべて単なるかもめらしい勘違いであったとして、すくなくとも権力濫用による干渉の余地らしき兆候を、第三者へしらせる効果だけはあると考えられる。なぜなら、もしすべてが単なる勘違いでしかなかったとすれば、その指摘を無視すればよいだけだ。これらは単なる推測なのだから。)
公務に属したひとは、できるかぎりその能力をすべて公務のみにそそいでほしい。この衰退しつつある手狭かつ袋小路化しつつある僻地になにも余裕などないはずだ。現に小学校のすぐちかくに風営法抜けがみられることからこの市域での条例の改良と、以前から指摘されている裁判所の自製、これもすぐ必要なことではないか。
市民のあいだにおりてきて、できないものを異様にはげましてその競争心をあおるみたいなかもめ下手なまねはどうかしないでほしい。
��現実に、すべてはかもめじみた推測のまちがい(=つまり、ある扇動的コメンターは市民間言論干渉に権力維持や指摘者排他の面から参与していない)にすぎず、この市の公務員のかたがたが少したりとも公私混同などしてないことを願っているが。)
かば氏はできないのではないだろうが、多少ライトノベルじみたSFを書くのが趣味なのだから仕方ない部類の寄り道である(*2)。いちカモメとしてのメッセージですが。
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��1 かば氏のツイッターでこの「世界に羽ばたく」が一般語彙ではないか、という指摘に対して応えて。
世界に羽ばたく、ということばが使われる場面によっては、またその文脈でが多い訳だが、そう発言する国民の主体性のなさ、あるいは名誉勘定の空虚さを示している。美人投票の様に他者からいわれればどうとでも自分の個性を変える、固有性を否定する。この日本病、又は敗戦病とでもいえる自己確立なさ、自己本位の欠如、独立自尊の欠けは一つの名前のない失敗ではないだろうか。
かば氏のツイッターでこの「世界に羽ばたく」が一般語彙ではないか、という指摘に対して応えて。
漱石が『私の個人主義』の中で伝えようとしている事も、かなりこの部分にちかいとおもう。特に、日本という国号に至った経過をうらがえせば、このしまぐにに在来しているひとびとは他人から、特に大きな外国(すくなくとも文化先進国とおもっている相手)からの評価をきにしすぎる傾向がある。逆輸入というものが生じて、日本ではやる理由もそれだろう。この癖はある民族性でもあるらしく簡単にはなおらないし、なおすべきかも不確定な特性だろうが、ジョン・ブルやアメリカ中部の市民の様にこの性質がいたるところは「過剰流動性」というものだ。世論になびきやすいという意味でマルチチュードという標語であてられている層にもちかづきやすくなる。
これらへ意見できるとすれば、震災直後の記事でも書いたけど、集団主義的性向の悪影響を避けるには「個性」「個人」を出来得るかぎり最大限に人権として尊重する法益、その文化体制、風習風儀の保護だろう。もし赤の他人の評価へ盲目に従ったばかりに母集団の多様性を失うとすれば、それこそ失敗といわれねばならないだろうから。世界的評価、というのもこの点からみれば大したものではない、と言われていい。信じるべきは個性であり、個人個人の自己実現の集積でしかない。
��2 これについてかば氏から当冒頭に引用した先で謝罪または言及せよとの指摘あり。しかし、本当にできないのではないうえ多少ライトノベルじみたSFというのはそのとある作品の様式性について言い及ぶために必要な語彙だし、それに特におかしな言い方ではないと思う。これらのなんらかの形式論的観点が公衆一般の批評というより、芸術学的分類にさらされたことのない立場から聞き分けがたいのかもしれない。同時に、それらの作品が一般公開されているかぎり、やはり批評についての表現の自由も広域に認められざるを得ないのだろう。さもなければ特定の虚構へは一切の意見や指摘ができず、原理主義のばあいにしばしばそうなごとく、おおきな信仰の堕落や誤解のつみかさねへつながりかねない。
ライトノベルはそれ自体が商業出版の枠組みに依拠し自立自存しているのだし、実際、かかれたものの、たとえば登場人物の名などかば氏の書いた多くのフィクションは、現実に現存している人間とは離れた名が多かったりする面かなりそれに近いものが多いと思う。そして、一切の芸術表現は、すべての人類にとって寄り道の様なものだろうと考えることもできる。それによって何事かが達成されるかといえば、単に慰めやできるかぎり高度な娯楽、趣味の格付けという位置づけをこえてはされないか、すくなくとも各芸術表現の枠にはまりつづけてその中での多様な表象がみられつづけるにすぎない。文芸ならば文芸として。
追記: われわれはつぎの言葉をおもいかえす必要がある。『真理の前では争いは永遠にやむ。真理の前ですべての人間は平等である。』
てみじかにいって、実証科学(英語で言うpositivism)が特にアカデミックな世界で名誉のための闘争みたいな体をとる様になったのは、中世から近世ヨーロッパ、特に英独仏の封建社会において国権そのものから、意図をもって平民の出世手段に援用されたのが原因らしい。その微妙な位置づけは、ヨーロッパでもアメリカでも「神学」なる分野一つをみれば理解できよう。これは真理の領域にとっては邪道だとかんがえていいとおもう。
��かずかずの聖書をうみだした時代にくらべれば、われわれは多くの情報に接し、その比較検討の機会にすこしはめぐまれているのだから、冷静にこの識字環境の変化をみなおせば、おおむかしの聖者によってつくりあげられた教義が、部分的にであれ破綻してきがちなことは容易に想像できるはずだ。古典的倫理の尊重を目的とした原理主義と、とにかく本当のことがしりたいだけの科学は、ひとつの文化のなかでもうまく折り合っていく方がいい。たとえば国生み神話で淡路島誕生とか、いまの天皇はどうかんがえてるのかしらないけど、それによって日本列島がなくなりもしないし、その非科学言説をおおっぴらに文字記録でものこしてきた証拠で天皇なるものの価値もしくは人格的評価がさほどおちるわけでもない。)
モチロン、scienceといわれていて、いまはかなり広い文明圏でもっとも使えそうだとおもわれている、やり取りしてて劣化性のかなりすくない言葉の体系にもそれ自体に限界がある。おそらくだけど、人類がうみだしてきた科学でのどれよりもつかえる記号やそのひきだしをもっている知的生命は、果てもほとんどわからない宇宙広しといえるのできっといるのにちがいない。その確率はどっちかといえば、(∞分の1以上なのだから)高いとおもう。(われわれの大部分は数理読解力がそれほど高くないことはそのすでにあるシステムが不完全、または複雑すぎ難解すぎる、としらせているっぽくおもう。すらすら高度な数式を読めるひとがあまりいない、とは漢字のむずかしすぎるたちによくにている。いまでは、ものすごい時間をつかわねばその大部分を再学習できない漢字・中国文字というものは煩雑に発達しすぎた、あるいは遅れてしまった記号だともおもわれているが、一昔まえはそうではなかった様に、いまの人類の数学、すくなくともその記号群の読み書きのルールはあまりにむずかしすぎるという点で欠点があるのだろう。科学のことばである数理はかぎりなく単純で、最もつかいやすい身近で日常的なルールにまとめられるべきだ。これはラッセルとかがちょっとまえにやろうとしてた数学基礎論とかさなるはなしで、現時点でもっとも先端的な科学の分野でもあるっぽいけど。)
で、これらのために科学の宗教化とか科学万能論はあやうい。「知れたことしか分からない」という、後天的学習にかなり依存している、いつでもかわりうる現在の教科はどれも地球人の、しかも特定の地球人の偏見かもしれない。
おもいかえせば、ジェームズらアメリカのpragmatistが使えるかぎりで使おうぜ、その程度のものだよ、と科学をとらえなおしたのはもっとも冷めてもいるし、すくなくとも現時点でかなり広域の現代文明にくらすひとに妥当なかんがえかたではないか。
ここからは自分の私的意見(カモメ見ではもはやない)だが、知識というものは客観的価値ではないか。それは共有財産みたいなものであり、だれかの私的所有物としては重すぎる荷物なのかもしれない。火が酸素で燃えるとか原子核崩壊が大きなエネルギーを生み出すとかは、人類の技術やその生活環境へおよぼした影響がはなはだしい。だから、真理はあたらしい世界のいりぐちとしてできるかぎり広く共有されるべきではないか。そのことがかえって、みずからの属した集団に酬いることとなるとしてもだ。(哲学語でいうと、仮言命法が目的ではなく、定言命法の為に知識を散種せよ。)
人類史は道具の優越によってほかの人種や民族をほろぼしたり、駆逐した者たちがいたのをしめしている。この悪性は、おそらくこれから先もあまりかわらないだろう。われわれが他の動物をどうあつかっているかをみれば人類のけものらしさは同類へもかなり発揮されるのにも納得できる。(シーシェパード(海の牧羊犬)は大津港沖のイギリス船を皮肉交じりに見るもしくは見てきた同類であれ、もしも鯨漁でもはじめたあかつきには、オーストラリアの観光資源をまもるという利己的動機をテキトウな口実でぬりかため、動物的に駆逐したがりかねないのがこの一つの証拠となりうるだろうか。)
つまり、利己的にかんがえれば(そしてそれがどうやら単純生物の基本原理だとして)、「工学の優越は、ほかの人種を滅ぼし去る原動力になりえる」。これらの慈悲深く、信心深い者を大いに悲観させそうな理屈は、にもかかわらず拮抗した道具の力の間でのみ人類の永遠平和やその講和がありえる、とも教えている。平和を希求しており、善良な意思と教養ある判定力を持つか少なくとも持ち得る者ならなおさら、先ず自らが道具の優越に立つべきだと知らせる。もしそうでなければどの理論もどの理想もどの慈愛も無残に、戦争と侵略の意思(しかも、あいてに信じられている利己的な正義)によって打ち砕かれるだろうから。
旧約聖書の時代、それを書いたひとびとが物語らせた知恵の実の神話は、同類のあいだに争いを及ぼした大きな原因が知恵にあったとしらせている、と私は解く。しかし、この構図は、実ははるか以前の類人猿よりもっと昔から続けられてきた生き物のさがだった様だ。現代文明に生きるわれわれすらその絵図から逃れ出られたわけではない。しかし、すくなくとも以前より穏やかな争いにとどめようとする工夫は数多くされた。その一つが後天的知識の追求だった、と捉えても大きく外れていない。
なぜなら、この階級や集団や個人はイデオロギーからごく遠いうえ有用性が高いとおもわれがちなので、旧態依然たる政争とはちがって生命が保護されてきたのが真相だからだ。さらには後天的学習に依存する、という面では(生物とみた種のちがいとは逆説的に)、生後の努力次第でどんな出自でも向上できる余地があり、したがって差別からの自由を保証したのでかつては封建社会からの避難所になったし、いまでいえば格差社会や資本主義の矛盾からの安全地帯となりえるはずだ。他方ではガリ勉という揶揄語がしめしている様、貴族社交にとっては二次的付属物だとその知識度はおもわれているのが国際事情ではある。しかし、学問の徒が貶められることは決してない。もしそうする者がいても、なおかつ性選択の機会におろかものが逆の傾向をえりごのんだとしても、かれらは末孫までみなおのれの悪徳のためその身に損害をこうむるだろう(類人猿と人類の違いを見逃しても以前より複雑化した社会から尊敬をうけることはない、さらにはサルがヒト社会に敵うこともない)。
いずれにせよ総合してみれば、「知の優越はその命を守る」と言うほかない。だから、今後とも人類が人類であるかぎりは、程度問題として、この原則にそって多くの歴史は進むのだろう。
多くの親がほとんど本能的にみえるほど、子供へ勉強、より精確な言葉にすると学習を勧めるのはこういうわけがあったのではないだろうか。それが子の命を本当に助けるらしいのだから。
��修行とか求道ということばはもとは仏教語っぽいけど、勉強ということばにも似た響きがある。これらは極東のことばの中では、真理の追求を志したガウダマ・シッダールタの姿勢から来ている風に思う。いまでは仏教になってしまった仏陀のしごとの本質は、単に当時のインド界隈の学者・知識人・ホモサピエンス性ではなかったか、というきもする。いまではEnglishのひろがりでも有名なイギリスという国、もしくはイングランドという地域。これも似た様な真理の追求者、そしてその成果をあげた者を一定数以上もったことで一躍文化史の舞台に踊り出てきたという感じがする。どちらにせよ、人類史は真理の追求者へ最終的にはかなりの栄誉で酬いる傾向をもっている。つまり人類は知性をかなり好んでいる、といえる。
一方で、その追求者の身へ同時代の大多数からの無理解やばあいによっては迫害というのもどの時代にもみられる一過性の現象だが、現代まで来ると、これはひともさまざまな事例をへてかしこくなってきたので言論の自由や表現の自由という法的名目で保護されており、むかしほどひどくはないか、最低でも、公的社会の上では大げさにはみられなくなったりかえって都市圏では変わった意見の持ち主こそありがたがられている様だ。結局、アカデミズムの巣のなかでのみこの政争じみた追放劇はしばしばきらわれがちな悪習として観察できるくらいに近代は進んできた。この市にやってきた岡倉も、(おそらくはまもなく失われそうなアジアの独自性への郷愁と一種の孤立による希少性をみてとった巨視的文化観から)古風な和式の美術工芸スタイルを維持しようとしたため、明治政府の全面的欧風化方針とかみちがいをきたした、当時の審美論についての一種の国内的被迫害者だったとかんがえていいだろう。
しかし、‘茶の本’への評価でも当時すでにあった国内絵画への欧米からの評価でも、むしろ岡倉こそが「欧米風」の美術史の視点をほかの同時代人よりずっとつよくもっていたのが真実らしい、というのがわかるひとにはごく面白い所なのだが。これも、岡倉が英語文献にはやくから親しめる進んだliteracyとそのために教育されていた点に一つの要因がありそうだけど。)