2011年9月5日

英語公用化の先取り

流れから突飛にきこえるのでこの市では鴎一匹しか納得しないだろうがというかもっぱらききながすだろうが、この市はもう英語を公用語にいますぐするしかない。しかも第一公用語に。
 日本語圏ではまずすぎる。その僻地言語っぷりはかなり抜き差しならないところまで追い詰められている。こんな経験則や勘にたよった非体系的なわけわからん言葉は、日本でそだった人たちをのぞけば余程のものずきな、しかも何かしらかたよった研究者(要は変人)へしか通じえないのだ。『日本語とは勘違いされつづけるにすぎない』。
できるかぎり、地球の事実上の標準語である英語を公に、大々的に、生活圏で最も先に採用するべきだ。無理にでもやってれば慣れる。それを強制せざるをえなくするには英語圏の人物を様々なポストへ多数導入するとかも有効だろう。
我々の方言のたちばからいっても、東京語を習得するよりはむしろ英語をとる方が我々へ有利だとしるべき。
この様な「通じない言葉」をわざわざ習いとる意味はほとんどない。
ただでさえ内向きで冷たく風変わりな民族に、ますますおもいやかんがえやしったことやこころやあたまのなかみの表現力が欠如しても何一ついいことはない。万に一つ得したとしても、「へえ変わってるね」級の反応で永久に世界から忘れ去られる。どちらにしろ我々旧来のだっぺ方言は文面上は覇権をもってはいないうえその見込みはまずないのだから、進むことはできても退けない以上、できるかぎり先に進むしか道はない。

今、藤原正彦氏ら保守論客が日本語イコール国語 復興論みたいのをはじめている。しかし、はっきりいってこれは間違いである。国語など、厳密にいえばどの時点でも固定されたものではありえない。この「国語」なることばそのものが大日本侵略主義にともなう悪である。漢字廃除運動すらしていないのだからほぼ100%、倭民族中心主義の狂信洗脳でしかないのだ。
くわしくいえばどの社会にも国語などない。あるのは「事実上の公用語」だけだし、そのどれも常に進化や展開のさなかにある。
 さらに、現時点の日本語は弱小勢力のとるにたらない方言でしかないし、同類の決して地球中で最高に強壮や文明的科学的ではないたちばからいって今後ともそうなる。
第一言語が英語である人達に比べれば、日本語という方言の土壌は事実上、ハンディキャップであり負担なのだ。完全に無文の社会よりはましかもだが、それでも決して最上等とはいえないたちの。
なぜなら、はっきり言ってしまうと和文なるものはろくでもない文献(いわゆる倭歌物語小説の卑猥な、もしくは感情表現とフィクションにかたよった文芸のたぐい)が相対的に多い言語なので、総合してみると自分よりずっとすぐれた言葉、特に科学的な原文の多い英語からまなびとることの方が、それらの方言体系(ならびに古文の再習得)を旧態墨守るより利益率はずっと大きい。

仮に日本語もしくは茨城語という方言が完璧にはなせなくなる人が過半数より出たら、このときはじめて方言のよさを部分的にルネサンスるくらいで調度いい。しかもこのばあい、孫世代とコミュニケーションをとるために祖父祖母世代は英語圏の言葉といくらかの文化を習得せざるをえないだろうから、ぼけ防止とかをこえ中高年への定常的教育効果がある。