2011年10月21日

この記事(かばファンさんコメントへの意見交換)についての特別な再掲

http://kamomenome.exblog.jp/14720140/

 かば氏のツイッターでこの「世界に羽ばたく」が一般語彙ではないか、という指摘に対して応えて。

 世界に羽ばたく、ということばが使われる場面によっては、またその文脈でが多い訳だが、そう発言する国民の主体性のなさ、あるいは名誉勘定の空虚さを示している。美人投票の様に他者からいわれればどうとでも自分の個性を変える、固有性を否定する。この日本病、又は敗戦病とでもいえる自己確立なさ、自己本位の欠如、独立自尊の欠けは一つの名前のない失敗ではないだろうか。

 この空虚な中心への観点へは、明治以後の徹底欧風化方針へのさまざまな言説もそうだがしばしば、すこし指摘があったとはおもう。たとえば漱石が『私の個人主義』の中で伝えようとしている事も、かなりこの部分にちかいとおもう。特に、日本という国号に至った経過をうらがえせば、このしまぐにに在来しているひとびとは他人から、特に大きな外国(すくなくとも文化先進国とおもっている相手)からの評価をきにしすぎる傾向がある。逆輸入というものが生じて、日本ではやる理由もそれだろう。この癖はある民族性でもあるらしく簡単にはなおらないし、まったくなおすべきかも不確定ではあるが一つの特性だろう。が、ジョン・ブルやアメリカ中部の市民の様にこの性質がいたるところは「過剰流動性」というものだ。世論になびきやすいという意味でmultitude:マルチチュードという標語であてられている層にもちかづきやすくなる。

 これらへ意見できるとすれば、震災直後の記事でも書いたけど、集団主義的性向の悪影響を避けるには「個性」「個人」を出来得るかぎり最大限に人権として尊重する法益、その文化体制、風習風儀の保護がいる。もし赤の他人の評価へ盲目に従ったばかりに母集団の多様性を失うとすれば、それこそ失敗といわれねばならないだろうから。世界的評価、というのもこの点からみれば大したものではない、と言われていい。信じるべきは個性であり、個人個人の自己実現の集積でしかない。評価すべきは自分であり、また市民を含む身近な他人でもある。
 まったく遠い他人からの評価(見栄、外面、肩書き、表彰)がいいばっかりに、全滅した集団は一体その世界で羽ばたきまくった結果をどうおもうだろうか? これはとべなくなった多くの鳥についてかもめ含む鳥類が日ごろ見返している点でもある。いきのこりへ重要なのは過度の見栄えより個人的達成、適応性の向上、実力の貫徹なのだと。