2017年9月19日

茨城は飽くまで君子の県たるべし

 西日本人の一部にすぎないブランド総合研究所の会員とされる数百人の無知と、東京都内マスコミの小中華思想による都外差別という悪意を変える事はまず不可能であるのだし、そもそも茨城県民にとっての合理性でも責任ですらない。無知な西日本人と、悪意の東京都民による、福井出身の田中章雄容疑者と共同での地域差別報道による金儲け。想像してほしい。相手にする価値がない衆愚だということは、誰の目にも明らかだ。
 他県が無知であることは、茨城県民が有知であることと同時に存在するなら、我々に有利でしかない。君子は人の己を知らざるを憂えずとは、自分側に有知の比重のある情報非対称性が知識人にとって有徳であるという意味だった。つまり、西日本人の一部の無知を我々が啓蒙することにはなんの誘因もない。更に仮に茨城について知っていてもそれを悪用し汚名を着せようとする小中華思想的な東京都民ならびに報道機関そして田中章雄容疑者の悪意については、無視という埋没費用を0にする大人の対応が最善である。なぜなら、日本人一般は自慢に対しては嫉妬するが自虐に対しては嘲弄し、悪意ある地方差別にどちらの対応をとるのも無駄な費用でしかないからだ。第一、地方差別の報道をし続ける費用を、相手が無視してきて東京都民の虚栄心も満足できず、また無知な衆愚をあおって虐待させ小中華思想を補完する機会を得るなど、なんの効用も得られないのに捻出し続けられるほど東京都民が非経済的に言行できる訳でもない。嘗て都内での宣伝活動の全てはスポンサー費用が都内メディア以上であるか、都内メディアの営利にとって茨城の宣伝が相利的でもなければ、無駄だった。
 単に、昨日より今日が、今日より明日が、自分達茨城県民にとって住みやすく、快適かつ誇りに足る魅力に満ち溢れ、希望をもって生きがいをみいだせる地域であればそれで十分すぎる。他県に茨城県民のみが知る美を喧伝する必要は、一切ない。それがすばらしいものであればあるほど、むしろ隠しておくべきかもしれない。観光地となった京都は我々の模範ではない。京都や東京のもつ小中華思想は反面教師でしかありえない。さらには、経済的にも産業的にも失敗し、あるいは成功せず、県民所得は低いままわずかな観光収入に頼る構造になっている北海道や沖縄も、我々茨城の模範ではない。
 皇族の権威やら政府の存在やらGDP規模やらで自らの優位に驕り、自らの欠点に目をつぶりながら他県の分析を怠って、華夷秩序さながら他の地域を差別して卑しい虚栄心を満足させるような下衆根性に染まらないこと。これが我々茨城県民が、極悪人の田中章雄容疑者と、東京都内のマスメディアという下賎な存在、そして西日本の一部の無知なる人々から、反面教育として学び得た第一の教訓である。我々はたとえ全世界で突出した世界一優れ尽くした並外れた地位と栄位に到達し、繁栄と名誉と最高の幸福の限りを極め続けることになったとしても、絶対に、極悪人田中章雄容疑者や、東京都のマスメディアや、西日本の一部愚民の様に醜悪な言動をとるまいと心に定めよう。何が起きようと、驕り高ぶることなく、全世界を緻密に調べて徹底的に分析し、全世界で最も恵まれない立場にある地域や、そこにいる筈の弱者を率先して助けていく人々になろう。常に統計を疑い、報道の虚偽を見抜き、決して衆愚の偏見や野蛮な差別に従うことなく、皇族の権威にも買収工作にも微動だにせず、ひたすら真実を追究しよう。
 そして他県や、他人からどう思われるか気にして己の立場を卑下したり自慢するという俗悪な虚飾に逸ることもなく、根っから悟りきり、橋本知事が予てから行ってきたよう自分達の幸福のみを大事にしよう。おろかな他人、悪い他人にあわせ、自分自身を見失わないよう、常に自分達を冷静かつ客観的に批評するようにしよう。自分より愚かな人は自分を正しく評価しえない。自分より悪意ある人は自分の評価をわざと貶めてくる。本当に信頼に足る評価は、自分の自分自身に対する、最大限に客観的な評価だけである。全ての観点から見直して、最善の自治体であるのなら、過不足なく、欠点なく、長所が十分に発揮され、最も恵まれない人が最もよく助けられ、最も恵まれた人も己の天分を十全に発揮でき、中くらいの人々も模範を模範とし敬い人助けを是として己の自治体にあって日々の成長とよりよくなっていく社会を実感できているのなら、それがすべてなのだ。
 自分自身のもっている長所がいかにほめられたとしても、むしろ己の短所を恥じて一層謙遜するべきだろう。他人より優位といわれれば、その立場の下に大勢がいることを思い、ますます自分の姿勢を低めねばならない。茨城県が学んだのは、東京都民の反面教師性だった。東京都のようにだけはならないようにしよう。田中章雄容疑者は長年の嘘が祟り、地獄に堕ちて見るも無惨に死ぬかもしれない。都内マスコミは偏見や差別や、虚偽と虚栄と自慢の限りを述べ尽くし暴利を貪りつくした末、全人類からその悪徳を侮蔑されて破産し、散り散りになるだろう。だが我々が東京同然の悪業をおかさなければそれで十分だ。西日本人の一部のよう、他県について無知であるのは恥ずべきことだと、そして致命的に判断を誤り、とりかえしがつかない失敗さえするのだと、我々は知ることができた。むしろ、魅力度報道という田中章雄容疑者の犯した疑似科学による衆愚扇動の悪徳商売に、我々は大いに学ぶことになった。勿論、完全に反例としてでしかないが、そのことについては、田中章雄容疑者にも、衆愚な都内マスメディアにも、知識のない西日本人の一部にも、感謝するべきだろう。
 我々は全世界の模範に足る自治体としてこれからあらゆる分野で傑出した成果をあげつづけ、すべての栄誉を得る結果になるだろうとも、田中章雄容疑者の様な疑似科学による他県への名誉毀損には風評被害による商行為として県民と検察が一致して厳しく対処しつつ取り締まり、二度と東京同様の悪質なマスメディアを産み出さないよう、風評被害防止条例に定めよう。また、主観的言質をさも科学的統計かのよう誤認させる愚劣な都民の民度を反面教師とし、疑似科学を見破るためのしっかりした反証主義的科学教育を行い、恣意的統計による印象操作や、マスメディアの流す情報の一切を常々懐疑的にのみ見る重要性を、県民全体にきちんと教育していこう。最も不利な立場にいる人を更に貶めて嘲笑する東京都民の下劣な民度を恥ずべき反面教師とし、茨城県民は最も不利な立場にいる人を進んで助けその人の長所を伸ばし欠点を補ってあげられる立派な正義の人になろう。たとえ西日本の果てであれ、その県について何事も知らないとは不勉強だと恥じる心を持とう。自らが無知である事は自らの過ちをもたらす災厄だと認識し、自分が全知であると思い込むことなく無知である自分を知り、他県にせよ縁もゆかりもない人々にせよ、正しい科学的知識やそこで暮らす人々の心情を知らない事に自慢するような愚か者には断固としてならないように、悪意や偏見から逃れ、学び続けよう。そして今まで通り自らの長所をことさら自慢することもなく、欠点と自覚できた点を着実に修正しつつも、むしろ他県から知られようとするより、他県のありさまを他山の石として歩みつつ、他県の正反両面に及ぶ知識情報を知らぬを憂い、まことの君子としてふさわしい県にますますなるべきであろう。

茨城県民教育について

 300万茨城県民に、水戸市のグロービス大学院大等へ県教育委員会は一定の授業内容の管理下で外部委託して、漏れなくネットを使った投資教育を初頭または中等教育時点から行うべきだろう。  プログラム授業と投資教育の二本が、今後の経済環境下で要求されやすい事が現時点で予想されているからだが、他方、茨城県史と哲学に至る道徳教育も同時に行われる必要があるかもしれない。なぜならPCは道具であり、投資は資産形成の手段だが、これらを使っていかなる茨城を作っていくかという過去からの展望、そしていかに生きるべきかという目的は、歴史や哲学によってしか得られないからだ。  高等教育段階で、生徒が独自のプログラムによって何らかのウェブサービスを立ち上げられ、またジュニアNISAを使った小遣い額の投資を自分で行える事を県民教育の目標とする。また郷土検定で郷土史の達成度を調査した上で生徒による独自研究の評価を大学教員や郷土史学会などと共に行い、哲学に関しては倫理に関する小論を動画ライブで中継しながら何らかの単位で討論した上で、代表者にNHK水戸放送などと提携し一般公衆の前で弁論させるべきだろう。  これらをくみいれると学ぶべき事が多すぎるという懸念については、学年制度を廃止して単位制を導入し、各人が自分のペースで学び続けられるよう、留年や飛び級という概念を県内の全校で撤廃するべきだ。

2017年9月16日

ゲーム型賭博罪禁止条例

 ゲーム型賭博罪(スマートフォンやPC(マック含む)上のゲーム内課金による賭博罪)の取締と撲滅を警察庁は率先して行うべきである。その際、パチンコ犯罪業が警察庁及び東京都警である警視庁とOBの天下り先などの関係を通して癒着し、賭博業も性犯罪も警察庁・警視庁の犯罪稼業となっている現実に鑑み、第三者機関として全国PTAの代表と、教育委員会の代表者、文科省からの代表者らから成る第三者機関が、警察庁と警視庁を監視する形でのみ取り締まる事が必要だ。この際、PC(マック含む)ゲーム内課金による賭博罪と、パチンコによる賭博罪についても、同時に取り締まるべきである。

2017年9月15日

常陸秋そばノンカップめん

 常陸秋そばを朝食など誰でもすぐに食べられるよう、原価のうちカップとそれにつめる費用を省ける上に消費者にとっても手軽なノンカップめん(袋づめの乾麺にしてお湯を注ぐだけで食べられるようにしたエコロジカルな)製品にし、全世界で人気となるよう海外展開するべきである。

学校の二分化について

 オンライン授業はこれまでより安価に知識の束を伝えられるので、近い将来の学校がオンラインを中心にする様になることは明らかだ。茨城県教育委員会は、県内の全公立高校に対してオンライン授業を行っている放送大学、及び国内外のオンライン講義(オープンコースウェア)を紹介し、また県内の全公立中学に対して同様のN高校、高萩市にある通信制の第一学院高校の進路選択または保護者への紹介を行わせ、今後もふえていくだろうオンライン高等教育へ生徒側に常に選択肢を与える事を義務づけるべきである。なぜならこれらの推奨は高等教育への費用負担を軽減させることで、これまで経済的理由で進学をあきらめていた県内の進学率をあげていくし、何らかの事情または目的意識で通学制の全日制学校を避ける人にも別の公的教育機会を提供するからだ。  上述の私立大学の紹介にとどまらず、ほかに寧ろ、茨城県立で小中高大までの各オンライン公立校を整備する必要がある。勿論こちらの授業は県民に対して無償化するべきである。  幼稚園や小中学校についても、オンライン化の導入が進み、ウェブ上で授業を受ける事が広まっていく速度の方が速く、既存慣性によるオフライン授業より効率的または経済合理的である以上、将来にわたって学校のオンラインおきかえがすすんでいくだろう。その途中ではオフライン学校の希少価値の方が高まっていき、伝統校にのみ存在した様な何らかの不文律や実体験のみによって得られる或る魂が取り沙汰されるだろう。イギリスのパブリックスクール、寄宿制の公立校は、貴族である紳士階級の子弟のみが雇いうる家庭教師を公的に雇い、集団教育というより安価な体制にしたうえで準貴族をめざす人々の上昇志向に需要が存在してきた。日本は格差社会になってきた上、少子化にもかかわらず子供の貧困率は高くなってきており、子育て世代の資産不足は明らかな状況で、そのうえ教育関連予算を安倍政権は削ってきている。要は現在この国では、高等教育の無償化と格安化が必要である。それと同時に、ひとりでに差別化された既存の体験型伝統校と、無償オンライン授業が主なウェブ学校に二分化がおきていくだろう。費用負担があまり問題にならない比較富裕な人々は、伝統校に進学する事は、はじめのうち変わらない。そしてそこでのみ得られる、恐らく効率的ではなかった体験的価値は、単なる顕示的な装飾物として役立つ様になるだろう。  現時点ではsignalingとしての学歴が名門校の箔としてきいている状態で、その事情は国際規模では世界ランク上位の米英圏の学校、国内規模では旧帝大を中心に続くだろう。ある期間経過した目でみれば、実利的にオンライン授業を有効に使った人々が成果面で勝利を収め、旧体制としての名門校閥を駆逐していくことになるだろう。恐らくその中途段階では名門校の人間関係や、体験価値からくる何らかの暗黙知、肩書の信望による箔などの利用に加えて、オンライン授業も効率重視で重ねて使う雑種的な経路をとる人々が現れ、高い成果を収めるだろう。かつて旧体制は新体制にとってかわられてきたし、教育分野にあっても、日々現れる選択肢の中でより功利的な方法(これは必ずしも商業的という意味ではない)をとる人が優れた正解を出すことになるだろう。

IT批判行政論

 ニコニコ動画を設営してきた川上量生はマストドン(オープンソースのミニブログ)の中で、「えっ? 東海村って茨城県だったの? 静岡県だと思ってた。」と発言している。彼らが搾取している電気がどの様な労苦と重い心身の負担で原発立地自治体から戦後70年送られ続けてきたかなど意識の隅にも入っていない。宮崎駿がNHKの番組の中で川上量生を説教した動画(NHK『終わらない人 宮崎駿』)で、川上は深層学習で3DCGを自動的に生成し、その動きを「人工知能を使うと人間が想像できない気持ち悪い動きができるんじゃないか」「動きが気持ち悪いんで、ゾンビゲームに使えるんじゃないか」「こんなことをやっています」と宮崎の前で述べるが、宮崎は「身障者の友人がいるのだが、ハイタッチするだけでも大変なんです。彼を思い出して、僕はこれを面白いと思ってみることはできないですよ」「これを作る人は痛みとかそういうことについて何にも考えずにやってるでしょう」「きわめて不愉快ですよね」「極めてなにか、生命に対する侮辱を感じます」と一蹴する。倫理観念の欠落した拝金主義というものがあるなら、犯罪の場を提供しながら民事訴訟の賠償から逃れ続ける2chの西村博之がニコニコ動画の経営に取締役として参加していたのは偶然ではない。川上は宮崎に説教を受けて直後、ツイッター上でオタク批評家の東浩紀あいてに論争を吹っ掛けた。その内容は文理という旧帝大の便宜的入試区分に基づいた、人文学への侮辱と、自然学への過度の狂信だった。単なる物理現象としての自然学と社会における人間を知る人文学の意義の違いを知らないのは、まさに無知を知らないという意味において、哲学的に無知なのである。自然科学の発展は反証をのみその批判的基礎とするまで真偽命題の確定について洗練され、現時点の基礎科学では、いかなる命題へも懐疑的であり続けることこそが自然学の貢献しうる最大の知的栄耀なのだろう。
 IT起業家の一部は、情報技術と新興市場における暴利を目指した成金稼業を結合させてきたに過ぎない。当然のごとく社会科学や哲学といった道徳の完成に向かう前頭前野が未熟なまま、社会人として一応とはいえ成立してしまったし、子供まで産んで同様の不道徳な行動をしつけていくこともある。それが現代社会の悲喜劇なのだ。
 最も不幸で恵まれない立場にある個人が、最も幸福になるよう全力で支援される世間が、すなわち生きるに値する社会だ。この様な動機を生むのは道徳や倫理とよばれる或る知能の働きに他ならない。その脳部位は現時点では前頭葉あたりにあると知れてきた。学習とは過去にえられたなんらかの情報を、おもとして脳細胞が記憶することよる言行の適応といえるが、学問として体系化された分類でこの学習内容をいえば、数学をその部分としてもつ自然学は、社会学をその部分としてもつ人文学に含まれる。いいかえると、物理は倫理の基礎であり、倫理は物理をその部分として含んでいる。いわゆるphysics(自然学、形而下学、物理)とmetaphysics(後自然学(meta-、後-)、形而上学、倫理)という議論で、先ず自然一切があって、その上に自然を利用したある人間社会が築かれているのだ。福沢諭吉は『文明論之概略』の中で「先ず物ありて後に倫あり」という言葉でこの学習順序が逆行しえないことを強調しているが、古代ギリシアのアリストテレスがとうにそのことを『形而上学』など一連の講義録内で述べていた。N高校で教育事業にのりだした川上だが、文科省や日本国内の大学関係者にさえ私が今述べた程度の哲学的基礎をもつ人物はほとんどいなかった事は明らかであり、つまりは日本のアカデミシャンは蛸壺化した旧帝大イデオロギーに縛られ続けてきたほど愚劣で浅学なわけだが、そのうち理学が商業と結合するにしたがって、理科学者らの一部に理系の文系への優越などというガラパゴス島国根性のなかでも最も奇形的な、入試制度を学問の一般的分類と混同するような誠に滑稽な言動をこのイデオロギーはさせてきている。立場上この様な人間が多少あれ跋扈する組織内で金を稼いできた新知事に、よしんば標準以上の学問的基礎があっても、あるいはなくとも、行政ふくむ政治が財政上の基本役割として比較劣位にある民の利益を最大化する事、つまり調整的正義の分野であるという第一公徳を必要とするのは明白である。
 大井川氏の選挙期間中の言動には、財政上の予算を成果をあげている事業者に優先配分すべし、という単純に成果・能力主義的な意見がみられた。金儲け以外の分野に何らかの有能性を発揮する人なり、そもそも全てにおいて無能だが生命という存在そのものにおいて生存価値がある様な人、或いは多少あれ有害でしかないが死刑に処するには慈悲に欠けると考えられるような人が、即ち無数の遺伝変異や成育歴が、殆ど確率的に等分布で、人の数だけ多様化していくのが社会なのだ。それらすべての人々から徴税しながら全体に責任を持つ行政は、単に金儲けできないかしたがらない個人をきりすて首にして死なせていいような、無責任な民間の一営利企業ではないのだ。全体の奉仕者は、単に成果をあげられる2割の商人だけではない、8割の県民に、わけても恵まれない貧困層に最善の政治を行う義務がある。累進課税があったとしても、政治関係者の日々の食い扶持でもある徴税の痛みが最大なのは、大金を納税する有り余った富の持ち主の側ではなく、その貧困者の方なのだから。貧者の一灯のわけあたえる己への痛みと相手への慈しみは、富者が支払う殆ど己に痛みのない額か、多かれ少なかれ何らかの功利的営利性に基づく大金の一部より尊い。この質的価値判断は、その世間の平均生活費の可処分所得に対する個々人についての割合という数理的に厳密な面だけではなく、場合に応じた愛民的な調整観念のもとに適切な比率を理解できる柔軟で人間的な裁量能力である。それは道徳感情とアダム・スミスによって呼ばれた面を持つし、統計的な数値や不確定な場合も含めた何らかの法則で構成されるわけではないのである。

2017年9月13日

市立図書館の貸し出し点数未制限など

 北茨城市立図書館は笠間市立図書館を参考に、貸出点数の未制限をとりいれるべきだ。また開館時間中の返却時に、受付時間を節約するべく、ポストからの返却を主に推奨するべきである。
 市民向けに書籍や視聴覚メディアのリクエストを募り、一定の枠でそのメディアを購入するべきである。

茨城県遺伝子くみかえ作物禁止条例

 東京都民は農協を敵視し、株式会社による効率化への狂信を、なんの実証的裏づけもなくマスコミを通して流布している。堤未果による『(株)貧困大国アメリカ』等の著書群に明らかなよう、実際に農業を多国籍資本に支配させた末にやってくるのは、遺伝子組み換え食品による最低品質で最安価な作物での不健全な農産物の市場寡占と、そこから搾取をする海外資本家が家畜化した消費者集団、つまり単なる集団極貧下に家畜化された都民でしかない。都民は小売業者やサービス業者といった商人が過半である為、農工業に関する第一次・第二次生産の内容についてほぼ完全に無知だ。そして都民は常に、大格差のある大都市生活下で富裕層の贅沢に嫉妬し続けるという悪生存環境下での過剰な利益率選好性と、現に過当競争下にあるサービス業中毒でもあるから、産業知を得ようとも恐らく永遠に思わないだろう。
この意味で、自給率が1%しかない東京都民や2%しかない神奈川県民、これら商業地域の大多数を占める中流以下の貧困層は、今後高品質な茨城県の農作物の輸出先として相応しくないと考えるべきで、安倍政権のTPP詐欺に乗って最低品質かつ最安価な遺伝子くみかえされたごみ作物を、モンサント社に寡占された海外農場から買い漁って資本麻薬漬けになりながら、人工的でまずい食事を自画自賛して健康を致命的に害する方が、人類の公益の為の反面教師として望ましいと信じられる。仮にどれほど啓蒙し、どれほど啓発しても、資本主義狂信集団としての東横衆愚が、株式会社に社畜化されてしか生活し得ない限り、自らの不徳を反省する可能性は皆無だからだ。しかもそれは東京圏で、東京都民や横浜市民(東横人)らが食料の都外・県外輸入にほぼ100%依存している生態の奇形的な偏向によって、食事を作った生産者や自然のもっている健全性に感謝する事を忘れ、株式資本主義の本質にある客・労働者搾取の悪意を消費者への善意と誤解しながら狂信し、農協の協同組合主義的な互恵共同体における非搾取的な基礎理念を理解していなかった彼らの無知と暗愚の自業自得である。
 茨城県議は遺伝子くみかえ作物禁止条例を採択し、県内の農業が特定の外資あるいは特定企業に寡占される最悪の状況を未然防止しつつ、県内で食される県産農作物の安全と高品質、そして県内農業市場の健全な競争性が飽くまで維持されるよう農政を図るべきだ。また、そうして保った高品質な食料を卸す最大の消費市場として、東京圏ではなく、茨城県民自体の人口をそれ以上にふやすべきなのである。この時に最も有効なのは、県内の最大都市である水戸に人口増大の傾向を持つサービス業(ICT関連のインターネット・サービス業を含む)を集積させそれらへの交通網を県内各所と最短移動距離でつなぐ事だ。この時、つくばエクスプレスを通じての東京圏との交通利便性は、電車網を含めて、可能な限り断絶するべきだ。東京圏から水戸への人口の流れが確保された時点でつくばエクスプレスの延伸を図るべきなのであり、それ以前に東京圏交通網を整備する事は自殺行為というしかない。東京圏からつくばへの人口移動が過剰になった時点で、更に水戸側に延伸を図るという逼迫した必要需要が発生する以前には、茨城空港と水戸、そして水戸と県西、県北、鹿行、県南の各地、そしていわき、郡山、宇都宮、或いはさいたま市、そして水戸以下の人口規模の各海外都市との接続性の方が考慮されるべきである。

2017年9月11日

虐めゼロ耐性の啓蒙の為の市教育裁判所案

 北茨城市では「虐め見逃しゼロ」「虐めゼロ耐性」を徹底する法制を市教育委が敷き、教員による生徒への暴力も、生徒間のわずかな虐めの兆候も全てについて、通報義務を親やPTAを含む全生徒に啓蒙し、どれほど小さな虐めも校内或いは社内犯罪とみなして公にしながら罰を下す状態に施政をもっていくべきである。これにあたって市役所内に教育裁判所をつくり、教育委員長とPTA関係者、保護者を含む関係者全員を臨席させ第三者のいる録音・録画の完全な監視下で、当事者間にどの様な罪があったのかについて暴き切り、きちんと被害者を保護しながら加害者を条例に基づいて法的に裁く必要がある。虐めを校内・社内犯罪、集団犯罪と定義し、内容は嫌がらせや侮辱、生徒の望まない指導の強要、立場を利用した暴力、個人または集団での無視などの精神的苦痛を含め、訴えを起こすには専用用紙に住所・氏名と学校・組織名を明記しつつ市教育裁判所の設置する各学校の起訴箱に投書するか、ウェブサイト上に同訴えを記述し送信する、あるいは匿名でのメールまたは電話での相談を通じて起訴をおこしうるようにするべきであり、その際、各校長や教員に対しての個別指導を教育委員会が直接しない様に、保護者含む生徒と第三者PTAと同席する場のみで裁判をする状態を確保できねばならない。

虐め(集団犯罪)対策論

 虐めは校内・社内犯罪、或いは総称して集団犯罪といいかえるべきであり、その原因は、 1.犯罪者側の脳の特性(低IQに相関する非寛容性その他)から来た攻撃性 2.固定した成員間での役割付けによる階級化と異物排除性 この2つが主に考えられる。集団犯罪は冤罪でないかぎり、容疑者・犯罪者側が100%悪いのであり、被害者側は100%正しい。被害者側が少数派である事を理由に、集団犯罪を正当化しようとする論理は100%間違っている。集団で犯罪を行えば犯罪の悪質さが消える等という事はないし、ここでいう集団性が例え日本国民の全数であれ全地球の人類の多数派意味しているのであれ、犯罪構成要因の内容物が消える事も、被害者側の被害が消える事もないのだから。  集団犯罪禁止条例を茨城県議は制定し、学校や会社、役所等あらゆる県内組織で嫌がらせ、無視等の幼稚なものから、不公平な対応や集団での固定的な偏見付けによる差別の一切を、被害者に容易に訴えられる状態にした上で、集団犯罪をした側がどれほど多数であれ確実に厳罰を与えて裁く法制を確立するべきである。たとえ加害者が県知事含む県職員や公務員、教育委員会の上位成員、教員、会社役員などの誰であれだ。  また集団犯罪を未然防止するには、 1.低IQ集団を県内から減らし、寛容性と相関のある高IQ集団を増やす事(高IQ化) 2.成員間の人口流動化を促進し、組織間流動性を高めるべく転校や転職、転地を容易にする(組織流動性) また、 3.そもそも県内特定集団への献身を県全体の風紀として要求せず、引きこもりや自閉の自由と内向的性格の成功の筋を複数実証していく(内向性の肯定) これらの対策が考えられる。このうち1.高IQ化については、県内の高学歴化を奨励する事、つまり安価な県内通信大学の整備(IT授業による安価な通信制コースを県内大学の学部と院に設置を義務付け、かつ、県奨学金で実質無償化する)と、県内公立高校あるいは社会人入学での進学常識化を通して大卒率を9割に近づけ、院卒率を5割に近づける事、が有効である。2.組織流動性については、新卒一括採用禁止と中途採用を義務づける条例を県議が通し、県内公立・私立学校については単位互換性を条例と県教育委員会の命で設ける事でどの学区のどの授業にも出入り自由にする事。3.内向性の肯定については、引きこもりやNEETに対する差別的言動や家庭内での取り扱いを厳に罰則と共に禁じる条例をつくり、自閉的気質や、内向的性格の個性、或いは怠惰や発達障害を含めた非社交性に対して、プログラム開発や何らかの開発・研究者、芸術家としての成功、或いはインターネットにおけるオンライン授業やオンラインでの職業訓練、或いはオンライン職種の提供、オンライン起業やネット株式投資等の筋書きを無数に提案するなど、多様な選択肢を県全体で奨励も推奨する中で、社交的性質の個性以上に自己実現や公益を実現させていく引きこもり承認の文化が最も望ましい。そもそも2:8の法則(パレート法則)で知れているよう、外交的生活をしている人間も8割が無能なのであり、それは内向的な生活者についてもあてはまる可能性がある。現時点で世界一の富豪になった引きこもりの暗い道具と差別されてきたPCソフト開発で財を成したビルゲイツや、人類史を進展させてきた偉大な学者や芸術家らの実例をあげるまでもなく、内省的な室内作業の方が成果的に比較優位になる分野は無数にあるのであって、9割が商人でサービス業者が過半となった平成時点の社会で、青い海であるのはニートが思い切り才能を発揮できる引きこもりの仕事だというのは近い将来完全に証明されるであろう。

水戸ホーリーホックの好戦的応援理論

 脳科学的に、失敗を避けたがるセロトニン不足の不安遺伝子をもつ日本人が選手に多い限り、水戸ホーリーホックのサポーターは選手がシュートを外したり、ミスをしたときに、サポーター席からがっかりした声を出すのは厳禁し、かえって挑戦を褒めて士気を高め、失敗を失敗と選手に受け取らせずプラス意識や闘志に変える、一層激しい励まし声(いいぞ、もっとやれ、といった形)を出すよう、応援の仕方を工夫するべきである。

2017年9月10日

最善の世間について

 労働原理主義、労働者中心主義、普通原理主義、多数決主義、これらは社会主義の一種である。自分の属する社会が共同体として相互扶助するべく、政府という全体的体制によって市場や個人の自由に対して一定の制限を図るべき、という意味で、この考え方は世間や、多数派からの同調圧力を強化し易い。
 ある集団で虐めが生じる原因は、固定メンバー内でこの種の収束進化への圧力が生じる事にある。固定成員は何らかの価値づけの変動幅を中央値に近づけやすい条件づけであり、この固定性が極端になると、不合理な場合にすら固定した役割を維持しようという組織的な癒着関係としての階級制度が作られる。封建制やその名残としての天皇制は、関西圏における被差別者・被差別地帯としての「洛外」の存在と表裏一体であり、『枕草子』には御所から出た火で被災した周辺国民が御所に救援を求めに来たのを、清少納言ら宮内の皇族閥側の人間が嘲笑し合い、そのまま差別的に捨て置く描写が出てくる。現在、東京都民が再現しようとしている23区外、都外、或いは23区内においても江戸城・皇居のある千代田区を中心とした区外差別の構図は、拡大されれば田舎蔑視と地方差別という小中華思想に繋がるわけだが、いわば原理的な虐めと崇めの両極を捏造する事、そして固定化する事による同調圧力に他ならない。
 選挙権を与えられた平成の国民一般は、多数派と目される世間が、この同調圧力を加える主権者だという妄信をもつようになった。西村博之が運営していた2ちゃんねるは、自己を匿名化した衆愚が牛耳る様になり、ますます村社会的・島国根性的に、この圧力を強化していった。川上量生の運営するニコニコ動画も、コメントを匿名で書きつけられるという匿名掲示板的な群衆化の条件を与えるネットメディアとして、この同調を煽りなしてきた。日本版ウィキペディアの内部で排除的世間を作っている日本語メンバーも同様の衆愚である。これら、半匿名を可能にするメディアを根城にしだしたネット衆愚は、ひたすら多数派の振りを相互の空気読み連鎖で偽装する事によって、ウェブ進出が遅れたテレビをはじめとした都内マスメディアに情報源として利用される様になった。藤田晋の運営するアメーバブログは広告収入を得る為に、閲覧数を容易に稼げる芸能人達を集客しだした事をテレビ側の態度変更の背景としていた。ツイッターがブログを書くほど文章力や思想のない一般大衆以下の知性の人々に、発信源としての地位を獲得させていくにしたがって、ウェブブラウザへの常時接続を可能にしたスマートフォン(スマホ)普及とともに、インターネットの方が現場の第一次情報を先に載せるという現実にマスコミ業界が直面したことが、これらの変化と関係しているのだろう。こうして衆愚はネットの匿名性を悪用しながら、現実社会では差別乃至排除されてきた暗いパソコンオタク達の道具を飽くまで応用しだし、シリコンバレーのITバブルの流れに自己を埋没させつつ、暴徒としての陰鬱な日本語圏世間に自己を同化させてきた。平成時代における同調圧力を主義する衆愚層は、親が首輪をかけるつもりで渡しているスマホの若年層への普及とともに、ネット虐め空間を学校裏サイト等あらゆる陰湿な目的で悪用できる地場を確保していったのだ。衆愚はちばけんま事件やaiueo700への攻撃で有名な電凸文化、つまり匿名の不良らが突然、インターネット上で標的にした個人を集団犯罪の対象にするという凄まじい悪行、或いは2ちゃんねる上で初期から見られる名誉棄損から冤罪による集団圧殺まで無数の違法乃至無法な犯罪の数々、勿論、麻薬取引や性犯罪など現実における実刑に至るあまたのインターネットの負の面を日本に定着させていった。このとき日本人衆愚は、社会正義を気取る大義名分として、匿名にして自己埋没させた群衆状態によって、ひたすら無目的の同調圧力を加え続けるだけなのであり、その論拠は多数決原理主義としての世間の目なのである。
 虐めの裏側に同時にあるのは差別意識・逆差別(贔屓)意識からくる崇めであって、この自己責任を徹底して回避している卑怯なる衆愚は、天皇という絶対者を仮想した。つまり、ネット衆愚は、日本人一般の潜在意識同様に、天皇を崇めるという神道狂信的態度を維持してさえいれば、いかなる集団犯罪もなしうると固く信じているのである。この盲従的奴隷根性の原因は、まず平成時点の日本人一般の脳がもっている遺伝的欠陥として、セロトニン・トランスポーター不足の為、常に不安感に駆られて群衆に紛れたがるという無条件な共感を求める本能(「甘え」と呼ばれてきたものと同一だろう)がある。また、日本列島の風習が長い孤立によって余りに他国から比べて特殊であるという言語を主とした文化障壁のため、遺伝的に近縁でよく似た同質な個体が多いという、遺伝的偏差のばらつきの少ない分布が、もう一つの原因としてあるだろう。明治時代以後、ナショナリズムの強化は更にこの種の同調圧力を日本人の属した各種国内社会に正当化させてきたのであり、戦後に起きた対中貿易の発展による工場の移転が契機となって日本も巻き込まれたグローバル経済のみが、この種の世間を不合理だと見なす思想的急先鋒となっているのが現状である。冒頭にあげた幾つかの傾向のうち、労働者中心主義は、同質性の高い個体集団のうち最も多数派となる個体の特徴を制度設計の標準とし、そこから逸脱している全ての個体を不良とか失敗とか負け組とみなすという、悪い意味で国家社会主義的な自民党政治と歩調を一にしてきたのであった。国民を奴隷としてできるだけ楽に、機械的に管理すること、まるで機械部品を製造する様に型にはめ、個性を殺し、はみだした存在を排除ないし世間からの差別で虐殺し、天皇崇拝を教え込んで同一のマスゲームをさせ続ける事。そして給料天引きとか国税という名の搾取によって、支配層に都合のいい、世間に逆らわない、下層民同士で足の引っ張り合いのみをする労働者を量産する事。これが「空気を読め」という労働階級のせりふに、天皇制を中心とした東京発のマスメディアや文科省からの画一教育、自民党政治の固定化によってくりかえし刷り込まれ、仕込まれている悪意なのであって、その同調圧力による自己奴隷化の悪意が、日本国内では虐めとして個性への迫害としてあらわれてくる社会病理なのである。或いはこの悪意は、天皇を中心とした支配層発の悪意なのであって、洗脳された愚民側にとってはただの無知なのかもしれないが、反省力なく虐めという社会犯罪をくりかえす当の愚民側にも、同罪があるというほかない。
 多様性を重視する。個性を尊重する。生き方の多様性を認める。遺伝的多様性や性の多様性を寛容に肯定する。これらのどれも、日本人一般や、ネット衆愚の仕込まれている排外的本性と正反対の、教養高い態度である。だからこそ、公益的な政策を行う時、民に理解させるべきではなく、実行後にそれに従わせる方が楽だ、という孔子の見解が出てくる。現実的にいえるのは、一般教養の集団における高下は程度であって、ある集団に特定の公益に繋がる政策意義を十分にわからせてから実行する、つまり住民合意をとるというのは、その集団における世間が理解できる質でのみ有効だという事だ。そしてその住民の或る知性の中央値に理解不能である様な公益政策である場合、行政の長が世間の理解を待たず強制実行してしまうべきなのだ。茨城BIとか、人口流動化とか、ニッチを探る非典型個性への尊重とか、これらの思想的根拠を衆愚に理解させることは現時点では無理だ。もし大衆一般向けサブカルチャーが感情をあおる低俗な表現形態によって、世間に何らかの公徳概念を伝達しようとしたとして、この種の行政的態度が住民への同調圧力を扇動する装置にすぎない事は明らかだから、寧ろ思想面での単一化につながってしまうだろう。虐めをなくすという事は、反対の極にある崇めの対象として、差別や贔屓の原因となる偶像を破壊する事をも意味するのであって、天皇制や世間、或いは日本国とか茨城県といった何らかの帰属集団、多数決の原理、民主的選挙制、資本主義といった互恵的甘えが期待できる存在を否定する事になる。同調圧力の起源が依存できる準拠集団、或いは思想形態という背景にあるという事がこの文章内で述べた分析であり、そこから結論して、平成日本、或いは茨城県内の社会にも現れている虐め(差別)とか崇め(狂信)といった衆愚的な社会病理を治癒するには、ひたすら非典型的な自由学芸、即ち一般教養を域内住民に推奨するしかないのだ。
 役に立つものであれそうでないものであれ、経済合理性を含む合目的性から離れた行動系列を常に尊重する事。たとえ多数派が有罪判決を下す様な新奇な行動でさえ、非典型的というだけで面白がり、喜ぶ精神的態度を県内住民に植え付ける世間こそ、常に最適性が変動し続けている現代社会下でも、偶有的に最適の事象を見いだす最善の世間なのだ。

茨城県農作物関税論

 茨城県民や北茨城市民が域内で生産された米を高くする誘引を、国の減反政策でとらされていることは、市場原理と矛盾している。県内・市内人口をふやすには、その領域に住む茨城人のエンゲル係数を減らすべきである。つまり、県内・市内のコメ市価が下がる誘引を自由市場下でもたせながら、農家所得も上がるように茨城農政を行わねばならない。
 小沢一郎氏の農家戸別所得補償政策は、この目的を果たす為の一手段だったが、安倍政権は経営所得安定制度と名前だけつけかえた上に来年撤廃させようとしている。この施策は国内自給率をへらし米豪からの輸入を受け入れるという安倍晋三個人の対米追従の態度を、農家と日本国民への負担をまし、安定的国家の食料基盤を破壊する事で維持しようというのである。市場競争下で国内農業が十分競争力を持つに至った段階でTPPにおける農作物の関税撤廃、或いは経営保障をやめるのなら順序は正しいだろうが、まず比較劣位の段階で米豪農業に国内農業を破滅させる時点で、安倍の国家運営能力は先進国水準にないというべきだ。そしてその種の悪農政を行う自民党の支持する候補を知事選で当選させた県内都市民の悪行も甚だしい。
 県内・市内のエンゲル係数をへらしつつ、自給率を安全域に保つ。これには茨城県、または北茨城市単位で農作物に関税を設けるのが最善だろう。域内の農作物を県外に輸出するにあたっては、一定の関税をかけて域内で比較安価に農作物を購入できると同時に、余剰生産物については市価に比べて県外では関税を上乗せてすら比較優位に販売する体制を、安倍内閣のおしつけている悪しき減反政策を県内で全廃しながら、生産量の最大化によって行うべきなのだ。


2017年9月9日

炎上商法を無視するべし

 ブランド総合研究所の田中章雄容疑者と東京都内のマスコミは、どの都道府県へでもよいから適当な悪口を言って、相手が過剰反応する炎上によって金を儲けているだけの極悪人だという事は間違いない。この様な極悪人達にまともに対応する方がばかげているので、無視を決め込むのが最も利口なのだ。

レジ袋を北茨城市指定ゴミ袋化にする制度


静岡県沼津市ではレジ袋を市指定のごみ袋として使える届け出を業者側に許可している。
https://www.buzzfeed.com/jp/kazukiwatanabe/20170907?bfsource=bbf_jajp&utm_term=.objprq93r#.vhRZdy8Od

北茨城市でも市内の小売店に、レジ袋を出す場合に市指定のごみ袋として使える規格のものを出した場合、一定の免税を図る制度をつくるべきである。


2017年9月8日

高萩駅前広場案

 高萩駅前の空地は、巨大な駅前広場にした方が、将来の高萩市の文化的発展の為と思える。駅前に、日常的に人が集え、或いは催しなどにも使える巨大な広場がある日本国内の場所は少ないのであり、その希少価値を単なる経済原理で塗りつぶすのは、高萩市政の浅はかさしか示さない。
 空地というものを経済価値の高い場所に残す事が、心の余裕としての広場を作る考え方そのものである。


匿名性と情報収集について

 国内で都道府県名が有名であるから不利になる点と、無名であるから有利になる点に注目し、茨城が県外に認知されていないが故に我々県民の功利性が増す様な行動をするのが、我々の国内における有効な知恵のひとつである。いいかえれば、県名が有名であるから有利な点とか、無名であるから不利な点については例外と考え、有名地(決してその中心地である必要はない)に属した支店や第二用地を取得する、あるいは首都圏や日本、東洋、東京圏等の広域的名義で補完した方がいい。
 具体的には、我々が普段の暮らしで匿名によって行動する方が気楽だと感じる全場面について、茨城県名のつく概念の一切は国内的に有効である。県外人一般はなんらかの印象をもつどころか、殆どなにも茨城をしらない。相手にこちら側の情報を知られる事なく行動した方が有利である様な場面は、実際はほぼ全場面である。日本人一般が普段、匿名で行動するのを好むのは、出る杭を打つという村八分的島国根性がこの列島民にあるからだ。すなわち目立つ者は損をするのが日本国の国民性に他ならない。平等志向とかねたみによる足の引っ張りあいとか幾つかの原因はあるだろうが、五人組時代の通弊として村社会的同調圧力が現役で生きており、個性を尊重するほど欧米化された国民は殆どいない。たとえば国内旅行するとき、どこからきたか問われても、県外では茨城がどこかさえ先ずしらないのであるから、外部の色眼鏡なしに行動できる。
 茨城県庁はこの条件を利用して、46県にそれぞれ内部調査員として1人以上の駐在大使を居住させ、行政の公開あるいは非公式情報から県民生活の実感についてまで、ありとあらゆる分析済みの内情を県知事直轄の秘密情報機関に集積させるべきである。またこの情報機関を今後も強化し、茨城単独で国外外交を十分おこないうるよう、全国連加入国をはじめ世界の国々についても情報収集用の駐在大使を準備し、県交に有利となる情報を熟知しなければならない。民間シンクタンクが同種の事をする場合営利目的に傾く可能性が高いため、県知事室が情報収集部を持つ方が合理的だろう。
 目立つこと、有名であることは、出る杭を打つ日本国内では不利なのである。実るほど頭を垂れる稲穂式に、ひたすら謙遜や自己隠蔽を続け、県内福利の充実に努めつつ、県外情報の収集と分析に完璧な基盤を作ることが重要だ。たとえおろかな日本国が倒れても、賢明な茨城県が未来永劫、単独国家としての役割を自ら代替できればよいのだから。

北茨城市版の簡易強制BI制

 北茨城市は、茨城単位のBIが実現する前に、少なくとも生活保護の捕捉率を100%にする行政政策部を作らねばならない。市内に暮らす約5万人を対象に、個人番号による調査と照らし合わせ、個人単位で、生活保護の受給水準以下の収入状況で生活しているすべての市民に対して、行政主導で生活保護費を半強制的に振り込むべく、振込先の口座番号を行政側に登録する手続き用の書類を内封した手紙を出し、登録を100%させるよう通知するべきである。
 この政策はBIと異なり、現状の憲法下で国家の行う最低限度の義務を、行政側の怠慢と悪意によって行っていない状態を率先して改善するにすぎないのだから、実現可能性も100%であり、しかも国税から調整される額なのだから、対外純資産とみた市民の生活費増大の結果として消費促進や人口増にも益する。この種の義務を怠った場合、悪いのは違法・違憲行政の構成員側なのであり、市役所がこの種の業務を率先垂範しないとしたら、その時は市役所が100%悪い事になるだろう。公務員は国税に寄生して生活しているのに、市民に対する義務を怠っているとしたら、その公務員達は腐敗の極みにある。つまり行政自体をとりかえるしかなくなるであろう。


2017年9月7日

政治権力と社会変革による進歩について

 テロリズムによる政権簒奪で成立したのが現日本政府の前身である明治政府であり、安倍晋三の崇める長州閥は完全にテロリストそのものだし、そもそも天皇家自体が恐怖政治によって山門王朝を樹立させて以来、繰り返し首都圏の独立政権を弾圧してきたのは日本史が説明する通りである。米国政府も本国イギリスの軍に対するテロで成立している。つまり現政権が自らの正統性として使っている論理は、天皇制、長州閥、或いはGHQ、民主主義、これらのどれをとっても単なるテロリズムに違いない。
 政治権力の本体は、軍事的な暴力なのである。天皇のポピュリズムも、安倍の右翼ごっこも、トランプのお道化も、キムの反抗児ごっこも、単純に暴力支配の遊びにすぎない。この意味で、現政権とか、現在の与党、その時点で存在していた天皇、或いは現時点の大衆一般がこの暴力を如何に正当化していても、その正統性は仮構にすぎない。もっといえば嘘でしかない。永続する権力はない。たまたま条件が重なって権力の姿をとって表れている暴力が、その他の暴力を弾圧しているだけなのである。
 従って、革新を目指す個人か集団が、その時点の政権与党の軍隊・警察による暴力に対して議会か選挙での穏健な掌握以外の手段をとって支配を試みたとして、天皇家や薩長藩閥の自己正当化が現にそうしている様に、勝てば官軍と自慢しだすに過ぎない。王覇の論でいえば、暴力によって徴税する民衆単位の支持という公徳の基礎づけが欠けていたら革命によって覆される、という観点は、実際には暴力の強大さを維持できる条件に依存している。もしイスラム国軍や北朝鮮軍の軍事力が米軍や多国籍軍より強くなれば、当然の様にイスラム国や北朝鮮の存命が確保され、米軍やそれを支持する国連は弾圧さえされうる。
 社会変革が茨城県にとって短・中・長期いずれでも競争優位、或いは比較優位をもたらす場合、その変化は政治的に正しい。ところが現政権はテロ等準備罪における共謀罪に該当した法制によって、思想信条あるいは良心の自由を侵害する事で社会変革に至る何らかの変化を、穏健な選挙と議会以外で防止しようとしている。これは革命権の否定にすぎず、フランスに共謀罪は存在しない事からも、アメリカにおける人権に関わる刑法体系が日本より緻密ではない、より不正であるという事象を米国追従の安倍晋三は理解していなかったのである。長州閥がテロリスト集団として天皇に発砲しながら政府要人を暗殺し、或いは各地の警察と市民を殺戮しながら明治政府を寡頭支配していったことは事実だし、現時点でも安倍の仕切る自民党の権力を維持しているのは自衛隊と警察の暴力に他ならず、要するに安倍の権力に都合のいい暴力だけを正当化し、それ以外の暴力を弾圧する、という独裁主義が、日本における共謀罪なのである。これは治安維持法下における軍部独裁の再生でしかないし、この種の退行は必然に国政上の失敗を連鎖させる。
 結局、いかなる思想に対する政治的圧力や弾圧も、その国を亡ぼす原因になるだろう。誤った理論を提出した人がいれば、その論旨を否定すればいいのであって、元々この種の理論の正誤が同等以上に知的な複数人からの批評や実験がない限り事前に検証できない以上、すべての思想信条への侵害は現状維持の同調圧力となり、社会の停滞をもたらす結果にしかなりえない。反証可能性を確保するにはいかなる理論の提出も自由でなければならない。安倍晋三の政権下ではその支持者と共に愚劣な後進国的政治体制をおしつけられる、という悪条件は確かに足かせでしかなく、茨城県外の日本国の平均知的民度が我々より低い場合、日本国から茨城県が軍事的に独立する事が最も合理的だろう。この為、最高法規から各法まで茨城県議会が単独で決定できる段階まで、茨城県域の政権与党が軍事的実力を世界随一の程度まで上げていく事は、全く正しい。即ち、県外を変えようとするのはやめて、むしろ国政を含む県外を愚劣にしたままでも、茨城県庁が世界に単独で軍事的に独立できる程度まで域内軍事力を向上させ続ける事のみが、我々の幸福に益するのである。この為には県内の対外純資産を世界一にする事を目標とすると共に、軍事工学的研究をも県庁及び県警主導で奨励するべきだ。


現代思想と大井川県政における茨城県民の立ち位置

 資本主義による支配が余りに金持ち側に都合よく粛々と進められた為、営利性を抜きに利他的に振る舞う条件づけが不能になった事が、共同体の希求としてイスラム国の出現やneo nationalismにつながっている。ネオナショナリズムを新愛国主義、新民族主義など幾つかの日本語にできるが、ここでいうそれは、共同体の単位を細分化して便宜的に想像の仲間意識を復活させようとする考え方だ。利益社会の圧倒的な冷酷さに対して、家族社会の無償の善意を規模こそあれ再起させようとする。この意図は、資本主義の原理を突き詰めると家族の最小単位ですら営利目的でしか接する事ができなくなり、血縁者同士ですら無条件に助けあえなくなる、もしくは搾取対象としての価値しかみいだそうとしなくなる為に、保守的な人はこの非人間的な冷たい利己的な世間から程こそあれ離脱せざるをえず、本来の血縁共同体に見られた温かい間柄を懐古しようとするからだ。
 想像の共同体を国より大きな単位にすることでこの仲間意識らしさを補完しようとする場合もあり、それが地域連合やglobalism、国際連合だった。こちらの場合はむしろ、利益社会の規模を拡大しようというのだ。
 それぞれ、利益社会は搾取、家族社会は寄付が原理づけられており、国の単位では調整や再分配などと呼ばれる寄付の仕組みが徴税と福祉によって補われる。この国家福祉に依存している個人は、ナショナリズムを単に利己心に基づき吹聴し、また信奉もする。公務員の大部分も税を生活費の依存対象にしているから、博愛より単位の小さな共同体志向としてナショナリズムに傾き易い。これらが右翼の温床である。要するに利益社会で優位者になる為には営利能力が低すぎるか、または利他的な性質を持つ善良な個人が、想像の共同体を回復するべく、細分化した集団に福祉による救済を求める傾向にあり、ここで実際には市場競争で不利化自己負担的なな個人が妄想によって捏造している偏向性、或いはそれと同質ではないにせよ調整的正義感がナショナリズムの正体である。内集団びいきの期待は、友達や恋人や家族単位であれ、学校や部活や地域共同体や会社単位であれ、みなナショナリズムの一種である。
 イスラム国は資本主義による利益社会の侵食に抵抗したがる人々を糾合している。実際はスノーデンがいうよう、米英政府が蜂の巣作戦で中東を火の海にし、イスラエルの専制から全地球の目を背けさせるべく、洗脳した米英人の一部につくらせた印象操作の組織が発祥かもしれない。だが米国政府のトランプも、自民党の安倍も、新愛国主義によって想像の共同体を回復しようとしているという意味では、彼らと本質に変わりはない。北朝鮮のキム総書記も同様の意味で、国際社会におけるかなり極端なナショナリストに他ならない。
 問題は資本主義経済、つまり株式会社や金銭取引に基づいた交換市場が、自由化や民主化という正義面の建前で地球規模の広がりをみせればみせるほど、必然に競争劣位をこうむる人々の数がふえていくことにある。簡単にいえば2:8の法則(パレート法則)にあるよう、8割の人が相対的な不利をこうむる。自由主義者の一論旨である比較優位説(すなわち生産物に関する交換便利性)とは別に、所得格差が広がるだけ8割の負け組が生じていく。ところが利益社会というものは自分以外の他人より自己利益を優先することが合目的なため、利他性をもつはず共同体を必然に壊していくので、背後にある8割の負け組にとって潜在意識にナショナリズムの復権をも準備しているのである。
 日本単位で2chやニコニコ動画は(設立者でいえば西村博之や川上量生は)ネットメディアを使って恥の文化における匿名による本音の吐露を煽り、日本語圏単位での共同体意識を触媒に、広告収入か有料会員登録を用いて金儲けした。この2か所のうち特に2chが悪質な犯罪の温床となった事は周知の通りで、少なくともどちらのサイトも、ネット右翼(ネトウヨ、ネウヨ)という新民族主義者出現の原因となった。いわばこれらの匿名での誹謗中傷サイトは負け組の巣なのである。西村は営利的な利己主義者で倫理を道具としか見なさず軽視する傾向が元来ある。川上は人種差別や盲目の天皇狂信、衆愚的な戦争志向を是とするネット右翼を産み出す原因となった非知性的なサイトの創設歴を反省混じりに自責しつつも、己の生活費を賄う会社経営のため、営利を優先してきた(彼はそうせざるをえなかったと弁解するだろうが、必ずしもそれ以外の選択肢がなかったわけではないので、所詮は彼の意思なのだ)。大井川氏は彼ら二者が上役にいたニコニコ動画を運営するドワンゴに取締役として入った。恐らく大井川氏は、西村と川上がこういった反社会的なコミュニケーションを煽って、衆愚にまとまらせ、検察や良民に手を焼かせ或いは手に負えなくしつつ、表現の自由を濫用する類の悪事で金儲けしてきた2人であるというIT業界事情を熟知していなかった。大井川氏は単に若者に人気のサイトなんだろうという程度の理解ではないか。或いは、営利性の高いドワンゴが日本におけるマイクロソフトに類比されうるベンチャーだったのだと、大井川氏は勘違いしたのかもしれない。それはIT世間知らずというべきだろう。マイクロソフトのビルゲイツがグローバリズムを志向するのに比べ、ドワンゴの川上や2chの西村は、地下にいてみえなかった非公式な存在としての負け組隙間市場を搾取すべく、違法空間を維持したり経済弱者を扇情しながらある種の炎上商法で搾取して、日本語圏単位でのナショナリズムをあおってきたのだ。大井川氏は知ってか知らずか、この様なネオナショナリズムをニッチ戦略に援用している類の如何物な起業家を、人脈背景にもっている。またマイクロソフトを通じてグローバリズムの本質、つまりアメリカン・スタンダードの先取による世界支配という富裕層の市場独占についても理解しているだろう。いわゆるピケティのいうr>gを地球規模で行っているのがビルなら、日本語圏規模で行っているのが西村や川上である。これらの人々は根本的に慈善で商売をしているわけではなく、単に人間を利益の搾取対象と見て、ネットサービスの対価として金儲けを行っているにすぎない。要は、西村や川上、2chやドワンゴは負け組ナショナリズムを経営者の営利に利用しているだけの、単なる偽善者である。いや、犯罪幇助や名誉毀損などの2chにおける複数の事件で度重なる敗訴にもかかわらず賠償せず海外に逃げて恥じもしない西村や、身体障害に類比できる3DCGを半ば嘲笑しながら新技術として説明したことから生命尊重の念が足りないと宮崎駿に説教される川上、現時点でも誰も彼らを人格者だとは思ってはいないのだろうが。
 結局、イスラム国や、ネット右翼、或いは神道信者や自民党支持者、安倍支持者、トランプ支持者、北朝鮮におけるキム政権支持者、TPP推進論者を含む地域連合主義者、これらの人々は程度こそあれナショナリストでしかない。彼ら新民族主義者はグローバリズム経済下で不利な条件に置かれている為、内集団贔屓の期待に基づいて、儚い懐古趣味に耽っている。グローバリズムは不可避で、現時点でも格差を拡大させているし、タックスヘイブンに共同で対処しようした時点では手遅れなほどその差は開ききっているだろう。喜捨を是とした一部のイスラム原理主義者に見られる、調整的な正義に基づく抵抗としての無差別テロの対象が一般市民であるような場合、一般人の次元では単なる無法集団による反社会行動としか解釈されず、より強大な警察権力に弾圧され終わってしまう。この様な圧倒的過当競争下で、元々商才を付与されていた2割の金儲けが得意な人々は、自らの都合のためグローバル経済やリベラルに思想形態を寄託し自己正当化しながら、8割の凡人を搾取する。Liberalismはこの地点においては8割の不幸を納得させる、偽善の触媒になってしまう。元々そこにはアダム・スミス的な神の手、経済成長への期待効用が含まれ、人種や民族差別、植民地主義、単文化への反命題、democracyや民主化との結託という複数の状況的な補完性があった。自由は米国型の資本主義をおしつけるのに最も便利な道具にされた。フランスの知識人が人権思想と共に反既得権益、反王・反貴族・反中産階級(反ブルジョワジー)として始めたこの自由への信仰は、社会主義や共産主義といった革新思想を生み出し、アメリカに渡ってからは多数支配の正当化とグローバル経済、アメリカニズムによるそれらのおしつけといった考えを生み出した。つまり、グローバリズムが自らのうちに支配層として起きたがる富裕層にとって都合の良い体制は、自由を大義名分にした、不平等と共に底上げによって発展していく未来という資本主義的な幻想または市場原理を拡張させたがっている。
 ここで描いてきた現代社会の分析として、状況を整理すると、先ず利益社会側の頂点にビル・ゲイツをはじめとしたglobal資本主義者が存在する。そして彼らと同様に、搾取能力を使って利益を独占したがる、全体の2割を占める勝ち組としての富裕層が存在する。皇族や自民党員、経団連企業の上役などの既得権はこの層に属す。この富裕層は、自己利益に都合がいい搾取維持の体制と、それを補完する思想形態としてのliberalism、自由主義を信奉しがちである。他方で、中産階級は彼らの企業や政府に多少あれ生活を依存しているしそれに自覚も多少あれあるので、反グローバル資本主義者となるだけの誘引がない。従って保守という用語で、これらの既得権を維持したがる人が、中産階級の中の殆どである。このため中流はおもに自民党を消極的に選んできた。衆愚はまともな理解力がない為、単純にグローバル資本の牛耳るマスメディアから、富裕層に都合がいい奴隷として洗脳され群衆化する。他方、8割が同時代において負け組になる資本主義経済のしくみは社会に於ける不平等を拡大させるので、一部の知識人はこの状況が不正義であると気づく。多少あれ倫理的な利他心を持つこの賢者達は、自らの目的として定める不平等の低減と、より結果平等に近いため8割が幸福に暮らせる社会に向けて幾つかの考え方に分かれ、革新的な思想を持つに至る。最も軽い類型としての新民族主義から、社会主義、共産主義、社会民主主義、民主社会主義、或いは最も極端な類型としての宗教原理主義の類である。これらはどれも何らかの単位の共同体に家族社会的な互助性を寄託し、寄付、慈善、喜捨、福祉といった利他的な意思を啓蒙しようとする考え方である。幾つかの国々ではこれらの革新派が政権与党となる事に成功し、福祉国家や宗教国家が成立している。イスラム国も、国家単位での革新派与党を目指す集団として、シリア界隈に現れている存在である。北朝鮮も、単なる民族主義的な統制経済体制による革新派の国家である。これらの国々はテロ国家でもならず者国家でもなく、現米国大統領のトランプや日本政府の安倍内閣構成員、自民党、東京マスコミによる扇動やレッテル張りに関わらず、ただの革新的な集団でしかない。いいかえれば日米政府はグローバル資本主義の既得権を維持したがっている保守派でしかない。
 日本には天皇家という特殊な存在がある。(家という単位を認めない神道信者自身は、一般家庭全ての上位者という超越的地位の偏見を強調する意味で皇室と自称しているが、imperial familyという英訳でわかるよう、単なる言い換えでしかない。宗教による洗脳や衆愚に対して特別さを偽装する子供だましの虚構で自己神格化を謀る、神道狂信者の前近代的な言語IQの低さを示すに過ぎない事例である)。なぜ特殊かといえば、天皇家は平成末期時点で年間300億円近く(毎日8000万~1億円程度)を国税から搾取する既得権に属していながら、同時に、神道という弥生系移民中心教義の民族宗教によって共同体の長を自称しているからだ。どっちつかずの風見鶏や二義的な存在が、生贄の対象になりやすいというscapegoatingの法則からいえば、天皇を屠る、或いは集団から排除する事が、矛盾の解決になり、国民の再統一を意味する筈だ。しかし皇族閥は、GHQと交渉に当たって既得権を維持しようとした吉田茂の末孫かつ皇族血縁者としての麻生家、安倍家をはじめとした取り巻きの利権維持のため、神道による国民洗脳での専制支配に好都合な政治体制の維持といいかえてもいいが、この排除に最後まで抵抗する。島津家、毛利家、徳川家といった旧華族も全く同様である。天皇家自身にとっても富裕層の位置取りを世襲により苦もなく維持できた方が都合が良い。要するに天皇は保守と革新の両取りをしていて、いかなる変革があっても自分自身の世襲の地位を維持できる状態に自らを置こうとしている。保守派の信じる資本主義にとっては日本最大のキャッシュフローがある資産家として、革新派の信じる共同体主義にとっては民族宗教という仮想の枠組みによる日本国民全員を補完する上位者としての建前によって、普段は中産階級向けに善良な資質を持っているかの様に偽装し象徴と自称したマキャベリスティックな世襲君主としての面だけを流させる宮内庁記者クラブの悪意と、地方差別によるマウンティングを目的とした東京都民利権を意味する皇室タブーでの悪徳商人集団的な報道統制によって。いずれの場合にも天皇は天皇自身が最も好都合になる様な体制を、世界第3位のGDPを持つ集団を専制的に搾取しながら独裁する世襲の邪教祖として、あらゆる手段でとっているのである。水戸の徳川家が、素朴な国民国家ナショナリズムの啓蒙として天皇の非易姓革命的な不可侵性を語りだした時、旧常陸国民のうち幕末時点での水戸藩領域の侍らは、不動の天皇とその命を受けた警察組織としての将軍府による、一種の象徴天皇制を志向していた。私以外の世界中の誰もそれに気づいていないにせよ、徳川領を超えた全国統一による植民地主義への抵抗として、日本の独自性を定義したという意味で、水戸学派は当時として世界史に有色人種の民族独立と復権という最大の影響を及ぼすだけ至極真っ当な考え方だったのだろう。他方この日本独自の体制思想を、薩長は吉田松陰の欧米・中国模倣的なアジア侵略主義と一君万民論によって改造し、将軍府の位置に自らが明治政府として就く事によって天皇の権能を自らの傘下に置く、薩長藩閥寡頭政治体制を志向した。結果として主に西日本人達は利己心から薩長藩閥に扇動され、東国やアジアを侵略し、米国による2発の西日本への原爆投下で、薩長の悪意に自らの権益拡張を目的に乗った浅はかな天皇家もろとも、日本帝国下の民衆に誠に甚大な犠牲を払わせた末に、国連へ降参した。戦後70年、愚民洗脳力をGHQによる円滑な統治に利用された天皇家は、取り巻きである皇族閥に利権目的で地位を維持されながら、ぬくぬくと繁栄してきた。7000年前の鬼海カルデラ噴火の後遺症でほぼ無人の西日本に、2800年前に侵入したのが、中韓東部に定着していた弥生民族であった。彼らの作った新たな移民ナラ(朝鮮語で国を意味するのがナラであった)界隈における一部族長として、封建的な専制支配体制をあらゆる手段で敷いてきた天皇家は、全てを顧みると、権力志向の完璧な利己主義者である。既に述べた様その存在は保守派にとっても革新派にとってもどっちつかずで、中産階級の洗脳によって自らに都合のよい搾取体制を維持しようとする。裏返せば、保守と革新のどちらにも、衆愚洗脳や反意を煽る道具として利用される駒である。この地位に天皇が就いた理由は、弥生人として隋時代の中華皇帝に遣隋使が謁見した際、嘗て中国東部の江南地方に住んでいた弥生人特有の劣等感や自尊心が刺激され、ナラにもどってからいわばナショナリストとなったため日本列島側に日本人を奴隷にした小中華帝国を作ろうとした所に原因がある。つまり天皇とは、原型から今に至るまで単なる帝国主義者なのだ。彼らはこの専制の意欲に基づいて神道という自らを神格化させる幼稚な多神教を、大陸の文物を援用して日本在来の自然崇拝と混淆しながら構築したのであり、日本人衆愚はそれに洗脳されたのである。旧華族や安倍・麻生両家を筆頭とした現自民党員の皇族閥は国税に寄生する天皇家同様に、神道による日本人洗脳構造を利用し、自らの権益を伸ばしたいだけの、専制政治屋ということなのだ。中流も労働に追われて、この事実に気づく暇がない。保守派は利己の悪意、又は無批判なグローバル資本主義信仰でこの専制支配体制を維持したがる。革新派は天皇を槍玉にする場合もあるが、日本では逆に復古神道や王政復古といった、過去の(といっても弥生人の移民以後、ここ2800年間の)共同体概念の回復による革命を維新と呼んで天皇を利用しようとする場合もある。いずれにしても天皇は自らの帝国主義を補完するのに都合がいい政治家を選好し、それ以外の政治家を、例えば国民主権論者であった小沢一郎氏の様な人物を宮内記者クラブ発の偏向報道による国民洗脳で迫害する。そこには保守も革新も中道もなく、資本主義経済下における封建領主あるいは富裕層の頂点的な天皇家の保身を図る利己心と、納税・貢物を行う国民奴隷の維持という中華皇帝あるいは西洋圏の王族モデル模倣心だけがあるのだ。
 では、我々茨城県民あるいは北茨城市民が一体どうするべきかといえば、グローバル資本主義、各種の共同体主義、新ナショナリズム、天皇制、これら全てに対して狂信的な態度を避け、一定のメタ認知的な距離を保って冷静に、自己に好ましい思想上の立場と態度を選択する事にすぎない。ここで公徳あるいは善、正義といった利他性は、思想上の立場に関わらず自分自身の生活形態にとって互恵的基礎を持つ行動系列にすぎず、簡単に言えば、相手に或る類型に基づいて行動して欲しいとする考え方はそのひと個人の信仰でしかないのだ。相手、或いは他者の考えが自分の考えと同じである事を期待するのは、単に愚かであるか、一種の宗教だ。勿論、何らかの宗教集団が、何らかの点で成功する場合もあるだろう。いずれの信仰や主義思想についても、それら諸々の行動系列の中で、或る程度偶然に基づいて選ばれた思想形態に関し、時間経過の結果として何らかの意味で成功したとされる規則がみいだされ、たまたまその考えが合理的だったと言い訳されるのだ。だから大井川氏或いは茨城県知事がグローバル資本とか当県単位での地域共同体とか、或いは新ナショナリズムといった彼の行政を執る範囲の人々に何らかの観念形態をえらびとるよう主導するとしたら、それは商業面でみれば単なる計画経済か、政治面でみれば地域社会主義的な個人の思想・信仰・良心干渉にすぎないであろう。思想的なリベラルの立場が地球資本の触媒だという批判については、その他の思考形態のうち、調整的正義を主張する派閥、たとえば恐怖政治によるイスラム原理主義者などについても一切の先入観を持たず、絶えざる再判断を期し、同等に等距離で価値判断し直して行くことで、必ずしもあてはまらないというしかなくなるだろう。


2017年9月6日

茨城県における新教育

 茨城県教育委員会が重視すべきは、
�� 茨城県史
�� 金融
�� 哲学(倫理学と基礎法学を含む)
の3であり、特に1が重視されるべきだ。日本最古の地層、前石器時代から始まり、現代に至るまで常陸と下総および茨城が辿ってきた全歴史を概略化した上で一通り習得すれば、この県がいかなる理由で今かくあるのか、自分達県民の立ち位置がわかる。その上で、幼児のうちに投資、経営、労働、納税、寄付の実践をさせ、株主、経営者、労働者、失業者の存在する現代社会の経済環境を体感させる必要がある。
 またすべての学問の根元にあるのは哲学であり、そこから、世界のより真に迫る現状認識(知識)と改善の意欲に至る理解、批判的思考や工学技術が生まれる。倫理と、その社会における最低限の共有としての法律はこの哲学から生じている。根がしっかり張っている事が大樹の条件であり、何らかの
道徳を問う課題について生徒からの作文の提出による自分の考え方の表明の習慣、そしてこの課題を深める議論の習慣づけが必要だ。この際、米英仏あるいは北欧など欧米圏から、哲学や倫理を修士以上で専攻した経歴のある、討論の授業を指導できる教員を招くべきだろう。
  ITは流行の新産業となってきたが、これは金融資本にとって一つの手段となる分野にすぎない。可塑性をかんがみて、金融リテラシーが前提にあった上でのIT能力が望ましい。
 これらが選択可能であるか必修であるかに関わらず、県内の学校では生徒の長所を徹底して褒めて伸ばす教育を図るべきだ。このとき、例外的な取り扱いを許可すべきで、画一的な一律の教育を撤廃する必要がある。また塾と連携して、塾における学業とのあいだに単位互換性をもうけるべきだ。

内部快適性と外部都合性

 東京都に住む事の不快さ、不幸さ、虚栄心を鑑みると、県外の情弱衆愚から魅力があると思われ地価が高騰し、人口密度が上がってしまう事の不条理を十分再考しなければならない。最も合理的なのは、茨城人にとって有利になる県政をとることだ。
 簡単にいえばおもに西日本のど田舎者を悪意の都民に騙させるままにしておき、ますます人口を東京に集めさせ、その対比効果として都民に驕らせ北関東を「旧態依然のいなか」「(西日本のどいなかから出てきた田舎者にとって)地元の風景と変わらない環境」「遅れた場所」という虚偽情報だけで塗り固めさせておいた方が得策だ。つまり、今までの茨城がとっていた方向性は、費用対効果で居住快適性が圧倒的に高い環境を実現できていたのであり、謎の風評から魅力度が高いと思われてしまえば穴場として地元を知る人だけにとって好都合な点を失う上に、観光地として居住性が最悪である京都市のように、生活者にとって地獄化してしまう。何らかの風評や、古都としての観光収入があがれば努力の必要がないため、大仏商法化してGDP最下位の奈良のように県民所得が下がる。要するに、県外から何もないと思われ都民が悪意で差別している茨城県内に、県外人にとってではなく(これが大事なところだ)、県内人にだけ快適性が向上するあらゆる工夫をし尽くす事が、県政のとるべき道なのだ。
 魅力度なるものは「都道府県外の人」にとって、その土地の持つ何らかの特徴が好都合かどうか、という外人好都合性、市民不都合性に相関した指標なのである。内外人にとって同時に魅力がある、という場合も考えられるかもしれないが、現時点でその様な例は見受けられない。県内人にとって不都合だが県外人にとってのみ好都合な改悪は、県民に対する迫害だというべきだろう。
 日本国民の9割は田舎に住んでいる。現実の都心を知らない田舎者の憧れといえば、原宿、渋谷、六本木、千代田区の皇居辺、或いは京都市の洛中である。これらの妄想は天皇制と神道への狂信、テレビやマスメディア、インターネットを通じた日々の洗脳、拝金主義による成金への羨望、大衆商業文化による精神汚染などが原因として考えられる。他方で現実に都会生活している側は高エントロピーからきた不快や不条理の鬱積した高ストレス環境なので、大自然への憧れが生じる。このため手付かずの自然と思われている北海道、沖縄といった北国・南国のイメージを担う両極端な自治体に憧れられる。これらが魅力度調査に現れている傾向である。いいかえると、生活にとって快適で過不足のない調和的な環境が最も低く評価されるのだ。低魅力度とおもわれる地域が憧れの対象ではないと見なされるのは、現実的快適性や功利性が大衆一般の妄想の中では、完全に見逃されているからだ。いいかえると、現実の快適さ、県民の質的・量的快楽の最大化による幸福が、茨城県の現に高く保っている特長であって、更に我々県民の生活環境における幸福に直結する調和を高めていく方に進化するべきなのである。国民の9割を占める田舎者はバカなのであり、1割の都会人も悪意に過ぎない。その様な人々からの評価を受ける必要は何もない。現に自分たちが快適ならいいし、自分たちの快適性のみを上げ、田中章雄という福井出の田舎上がり新東京人による悪意と偏見報道を利用して、外部の人たちについては茨城限定の快適性を享受できないほど愚かなままに保った方が、我々には誠に好都合なのである。


2017年9月5日

橋本氏の県政情報確保

 橋本昌氏の経験的に蓄積した県政情報を県民福利に生かすため残すべく、茨城新聞は橋本氏に週刊コラムの連載を依頼し、それを本にするべきだ。

謙遜による情報非対称性の徳について

「茨城県の魅力度があがったら別の都道府県が落ちるので、茨城県は永遠に最下位でいい」「他の県が差別されるよりいいではないか」「県外の人には茨城より、他県の魅力をもっと知ってほしい」、という論理が、対外的に正しい。なぜなら実際に茨城自体の情報を知らないか、わざと一定の観点からのみ偏見を強化しようと扇動する県外人が愚かで悪意なのだし、結局、愚者や悪人に知られないまま県外人から我々について完全に誤解させ、情報戦に勝利していく方が我々にも断然、有利有徳なのだから。
 県外人一般が初期状態で茨城の味方だとは一切思わない方がよい。日本人一般とは、根本的に営利や搾取のみを目的に茨城並びに関東北部に接してくるだけの、暗愚な存在である。県外人に県内情報を知られる事にはなんの得もないし、損害のみある。政治的にも軍事的にも、茨城から発信する情報は必要最小で、営利に限らねばならない。互恵的な意図を持つ茨城県民自身が県内で幸福に益する情報を共有しながら知り尽くし、なおかつ、受信機能と受信機会の最大化によって外部情報も知り尽くしている事が最も重要だ。
 他方で日本政府については、茨城県の営利が政府のよき目的と一致する場合に限って、利用価値がある。国政一般が県政の味方と思うべきではないが、当の政権が茨城の功利性にとって有利、もしくは長期的得という意味で有徳になる場合のみに、政府に県内の何らかの情報を伝達する価値があるのだ。
 茨城県内にのみ流通する内外情報量の最大化と、県内にのみある情報の発信を最小化する事。この情報非対称性を強化し続ける事のみが戦略的に正しいのである。魅力度報道は日本人一般の階級固定による思考単純化の習癖に合致する(つまり衆愚に都合のよい低知能さにあわせた心地よい嘘を更に強調する、post truth)。今後とも、国内において東京発のマスメディアに扇動され続けたがる衆愚側に、情報強者や道徳的存在となるだけの向上の余地は全くない。端的に言えば虐めが大好きな日本人一般は、一度虐めの対象を定めて相手が何らかの反応をしようものなら、相手が自殺するまで追い詰め続ける。田中章雄をみよ。彼が東京都民や西日本人一般と共に死ぬまで茨城を偏見報道で虐待しながら、金を儲け続けることは100%疑いようがない。田中や県外人一般が確証バイアスからきた何らかの錯誤によって場合によっては致命的に損害するは明らかだから、我々がわざわざ我々の費用で彼らに損害のある誤解を解く意味は全くない。彼らは悪意な上に愚劣だが、その邪悪で、失敗している不良集団から逃れ出る為の誘引がないのだ。
 逆に茨城県がなすべきなのは、日本という国の民一般からの侮辱や差別を受けたとき、更に我々について理解させないよう自己謙遜で素通りする事だ。徹底して自己ステルス化し、相手側に内情を見抜かれない事が重要だ。他方、相手がどの程度我々についての正確な情報を知っているかを暗に調査せよ。衆愚を無視して素通りし、県民の実質幸福度を最大化する事。かつ、直接国外の我々にとって役立つ自治体とつきあうこと、つまり日本人集団からの抜け駆けと自己差別化による県民の幸福最大化にすぎない。
 最後に強調しておくが、重要なのは茨城県民、茨城人の幸福に益する県民利得なのである。決して県外人からの羨望とか、憧れとか、人気とか、誤解を含む名誉などではない。県民の幸福が重要なのだ。ここでいう幸福の中で、マズロ―の欲求階層でいう「尊厳・承認」の欲求が満たされないという事を不満に思っている県民は、現実に北海道やら沖縄やら東京やら京都やらに住んだことのない人々でしかない。虚栄は当人の幸福には全く益さない。県外人が我々について無知で、場合によっては悪意の東京都民にあおられて誤解している事、つまり何らかの角度から無知な県外人が偏見を持ち、差別し、我々について正確な判断をできなくなっている状態は、我々には完全に有利でしかない。なぜならそれらはリトマス試験紙のよう、県外の差別主義的で非科学的な愚か者を見分けさせるから。我々は愚かな、或いは悪意ある県外人からの誤解を真に受ける必要はないのであり、単に、県民自身の価値基準に基づいて、外部からの評価を超越し、自分自身の幸福のみを極めればよいのである。北海道や沖縄に住んでいる人が、道県の外部者からうらやましがられたとしても、それが誤解に基づくものであれ、何等かの偏見によるものであれ、或いは正確なある科学的観点からのものであれ、単に己の承認欲を満たす程度のことなのだ。茨城県民は、もし県の内外について同時に知る機会があったなら、県民自身が、他県と比較して茨城には明らかに優れた点が無数にあることを熟知する結果になるので(実際に相対指標とみて多くの面で優れているから)、その時点で自尊心を十分にもつ結果になるはずであり、県外の何も知ろうとしないか、知っていても差別に使おうとする愚民を超越することになるだろう。馬鹿だの悪人に好かれて羨ましがられることは、自分自身の破滅を意味する。愚者の称賛や非難より、賢者の称賛や非難の方が優れている。共感してくる愚者は破滅の原因なのである。我々は情報の非対称性の為に、幸運にも県外人の暗愚さ、すなわち県外の日本人大衆一般が都内マスメディアから悪意で簡単に欺かれるという驚くべき暗愚さを熟知する結果になったのだから、県外日本人一般という愚者に好かれるのではなく、むしろ彼らとの縁を遠ざけ、我々のもつ長所について知っている賢者とのみ親しむよう動くべきなのである。


茨城県内虐め撲滅策

 いじめをなくすには、
1.外人含めて出入りだらけにする(人口流動性)
2.賢い子供ばかりにする(県内に知識集約産業を集積させ高給職が主な地域にする)
が主な対策で、学校については
3.県内単位制によってどの学校のどの教師のどの授業を誰とでもいつでも選択可能にする(選択流動性。オンライン授業でも可とする)
4.職場・職業・仕事の人間関係上の流動性を高める(新卒一括採用禁止条例、中途採用促進条例を通す。非正規社員(契約社員)高給条例、正社員課税によって正社員より契約社員の給与を上げ有利な環境にして固定的社員をなくす。配置転換選択義務条例によって社員の配置転換願いを一定期間内に会社側が受け入れなければ罰金刑とする)
さらに、
5.英語第二公用語化
によって、人口構成比について多様な外国人及び移民を多数派にする。


2017年9月4日

反格差財政論

 幸福な県、市町村の前提は、return of stock(株価収益率)がeconomic growth(経済成長率)以下である事。
r≦g
なおかつ、昨日より明日の方がより良くなると確信できるだけ経済成長率が高い方が望ましい。
 但しこれらの総合値が他の地域より高い事が十分である。つまりrもgも他県より高い事が要求される。
 安倍内閣の財政は失敗どころか破綻していて、彼らに反省力もなければ安倍晋三個人のマクロ経済学上の知性が低すぎ、それを補うだけの賢者も経産省や財務省にいないので、自民党政権が安倍を総裁に選出する限り国単位での経済政策の成功はおそらく今後数年の間ないだろう。衆愚国民も、東京財界村や経団連村に都内マスコミ経由で扇動され自民党狂信状態にあるのだから、なんの期待も持てない。未来があるのは、賢明な県知事あるいは市町村長を採用できる自治体であり、少なくとも橋本氏の段階から優れた経済政策をおこなってきた茨城県単位にはまだ希望がもてる。
 では何をすれば茨城経済が成功するかといえば、日本政府単位での金融緩和を利用しながら、県内では経済成長政策を徹底することだ。具体的に県庁が行うべきは、県内で株式投資をする個人にNISA制度の啓蒙等を行って外貨獲得の誘引を与えつつ、県内金融機関を通じての地方税や住民税納入に電子化による手続き簡素化や手数料の減税措置を図る。更に建設投資額を可能な限りあげるべく、県内公共施設、特に公立学校の全面耐震・免震化を行い、或いは個人宅等も含め耐震工事費を全面補助する。これらの財源は県議全廃と県民所得税、県内消費税で賄うべきだ。より詳しく説明すると、まず累進化した県民所得税はrを下げてgをあげる誘引になる。また消費税の実質負担者は消費者ではなく企業なのだが、企業はマスコミのスポンサーを通じた印象操作で衆愚を騙してきた。他方、県内消費税をあげると県民にとって県外消費の誘引となるかのように勘違いされやすいだろう。従って名称を欧州風にかえて、付加価値税とするべきだ。茨城BI分は国から実験費用として徴収すればよい。これらによって県民間の所得格差をへらしつつも、県民平均所得をあげて幸福な県を作る誘引ができる。

2017年9月3日

行政による起業促進は計画経済に過ぎない

 行政による起業の誘導は、計画経済の推進に過ぎない。従って、「計画経済は不可能」(過剰生産の問題がある)という観点から、ハイエクによればこれは間違っている。起業が不足しているのはその事業に需要がないか、民間人に能力や動機がないか、何等かの規制があって不可能か、資本金がないか、どれかである。9割潰れる起業を行政があおる理由は、単に金の心配である。
 金が減る事での人口減など何の問題もない。移民が来るか、その集団が地上から少数民族として消失していくだけで(或いは先住民として保護される)、それ自体に特別意味はない。競争力のない集団や個人が減っていく事が多様性の喪失だという批判は、生命の利己性を軽くみすぎではないか。人類は自分の利益になる範囲でのみ、他の生命を保護する。宇宙人が人類に生存価値を認めねば一瞬で滅ぼされるだけである。人類は利他的な目的で生物多様性だとか民族多様性を認めているのではない。その利他的な目的において後押しした特定の生命や種が互恵的にふるまうとは限らないし、結果的に自己の全死を伴うなら、その判断が合理的ではないのは明らかである。つまり金がなくなる事による人口減少を憂うのは、単なる杞憂である。生命は別に死んでもいいのである。自分の慣れている既存の社会が変化し、別の遺伝系統の人種が入ってくるなり、混血するなり、そもそもそれらの人種が消えて別の生命が栄えるなり、どれもありうることだが、どの様な経路をたどろうが、遺伝子が絶えようが増えようが、別にどうでもいいことなのだ。自己の遺伝的子孫が永続しうる環境をつくろう、という将来への計画本能は、根本的に不可能なことをしているのであり、なしうることといえば想像できる範囲の変化に対してある程度の準備をしていること位なのだ。金をふやさねばならない、という計画の仕方は、金が必要でないとか、金の重要性が低い社会の到来を予想できていないのだから、平成の価値観で将来を延伸させて考えている以上、確実に何らかの過ちを含んでいる。もし金の重要性がより高い社会がくるとしたら、その種の構造をたまたま計画していた部分が有利になるだけである。人口減少社会で金が足りなくなってきているのだから、もっと県外貨幣を高利率で儲けよう、という考えは、単なる地域ナショナリズムを含む資本主義イデオロギーだということだ。その考えが未来においても正しい保証はない。つまり行政が市場に何らかの計画性を持つことは、その市場の需給壊乱によって自由競争性を損なう規制に他ならないのだ。
 規制を最大限なくす。上述の様に、市場に対して特定のイデオロギーから、計画性を持たせない事が規制をなくすという事でしかないのである。行政人が金儲けとか商売について語らない事。武士の様に。それが最も賢明なのだ。
 民間人が需給秩序の中で勝手に商う。行政は、生じる公害について外部不経済を内部化させる。過度の儲けについては一定の累進課税を行う。最低限度の生活保障を除けば、徴税したものが余った上に当県が大不況に陥って失業率が高すぎた場合に限って建設投資によって雇用を創出する。普段は節税に努め、公務員は小さな政府をめざし、清貧を是として清く正しく生きる。基本的には、これで財政的に十分なのである。行政による余計な起業の促進は、単なる無駄の制度化であり税金の浪費なのだ。それどころか商業が無用か、有害にさえなる状況がやってくるかもしれない。行政単位でのシリコンバレー模倣は米国追従による計画経済にほかならず、市場の失敗をもたらすにすぎない。それどころか世界一熾烈なIT利益の奪い合いをしているシリコンバレーと競合するのだから、それを超える世界一のIT能力者を県内外から多数ひきつける方途がない限り、茨城の取り分が増える事はありえない。少なくとも赤い海である。茨城県政がなすべき事は、市場の秩序に対して特定の肩入れをしない事でしかありえない。そして市場の競争者の一部がたまたま見いだした青い海から、所得として上がりうる成果について、一定の地方税を徴収するだけなのである。
 わざわざ世界で最も過酷な競争をしている最中の分野に、自ら飛び込むというのなら、勝算がなければならない。大井川氏に世界IT界での勝算があるのか。最低でも国内で覇権を握るだけの方途があるのか。もしある程度はっきりとした勝算がないなら、飛んで火にいる夏の虫のよう無惨にIT業界で敗残し、起業促進に費やした税金は無駄になる。その分を既定路線で利益のあがっていた、経験効果を十分蓄積してきた日本トップレベルの農工業の環境整備に費やした方が、得策だったとなるはずだ。産業単位での差別化とは、農工両全の究極の方にあるのではないか? 多角化は選択集中の逆である(厳密にいえば高い程度の多角化は選択集中の逆である)。高利率とは選択集中である。競争力とは市場シェアである。可能ならITを農工業の洗練に適用する事、それによって既存の茨城の強い農工業を更に強くする事。これが全てと私には思える。IT産業を単独で、県内で新たに創出したサービス業の促進に適用させようとするなど、創造には模倣より高費用がかかる上に、単に海外の強豪と競合する。国内ですら六本木界隈の既存業種と被る。よって勝ちづらく利益をとりづらいだろうし、実際にやる前から経営判断として不合理だとわかる。万一この路線を行くなら綿密な勝利の筋書きを大井川氏には提出してもらいたい。


認知バイアスの利用

ハンロンの剃刀(ハンロンのかみそり、英: Hanlon's razor)とは、次の文で表現される考え方のことである。

Never attribute to malice that which is adequately explained by stupidity.
無能で十分説明されることに悪意を見出すな

例えば、ある製品に欠陥が見つかった場合、(大抵の場合、一般論としては)それは製造した企業が無能であるか愚かであるということを示しているのであって、消費者を困らせるために企業が悪意を持って欠陥を忍ばせたわけではない、という考え方を示すのに用いられる。

 魅力度バイアスは、無知(愚かさ)と、悪意の2つの面がある。西日本人一般は相対的に所得と学力が低く、発信したがらない首都圏北部について基本的に無知であるし、知ろうとする誘引もない。他方、関東南部人、東京圏の人々は都会で過酷な生活をしている上に商人根性に染まり、意地が悪く、競争的で差別する相手を常に探し、炎上させて視聴者を稼ぐ事で金儲けをしようという悪意がある。この為、東京都民、南関東人には、群れて魅力度バイアスを悪用している面がある。田中章雄は明らかに後者の類型である。名誉棄損による敗訴費用を大したことがないと見積もり、47県のうちどれかを差別する確証バイアスをあげつらい、都内マスコミに疑似科学的ないんちき統計情報を売りながら衆愚扇動で金儲けして逃げ切ろうという、福井出身の東京人が田中容疑者だ。
 このうち無知な人々、特に西日本人一般に対して何らかの情報を提供する事で認知度を上げる、という事は恐らく可能だろう。だが魅力度調査対象者である総合ブランド研究所に登録している西日本のほぼ固定的な数百人を調べ上げ、彼らに対して茨城について当該調査で高い評価を与える誘引を与えたとして、それにどの様な実益があるのか。県内の観光業者にとって利益誘導である面。県民一般にとって名誉心や自尊心を満足させる面。そして前評判の上昇による何らかの得。Loss効果(事前評判が実力より高すぎると欠点がよけい目立つ)など、幾つかの面がある。それらを総合的に計算し、西日本人一般の無知を正すような、県が使えるなんらかの税源からの宣伝費支出、または、特定のブランド総研会員への誘引提供費の支出について、費用対効果は高いといえるだろうか。私の印象にすぎないが、あまり有益な方途とは思えない。Gain効果を意味する実入りと、情報非対称性を利用した各種面で有利な取引の方が茨城の為ではないだろうか。観光業が主要産業になった地域は経済衰退していく。それは大規模雇用になりえないからだ。京都、東京、北海道の前評判を無駄に上げていく認知バイアスを強化させる事は、それらの地域との対比で割安感を得られやすい茨城の地元界へ、実利的に有利な結果をもたらす。その上、県内外人についてマスコミの報道を鵜呑みにしているかどうかという面で、茨城についてどの程度の認知バイアスを持っているか見極められるので、その面で無知な人間、知性の低い人間が見分けやすい。西日本の無知と東京圏民の悪意による謎の汚名を着せられているという一見不利に見える条件下にいれば、人間性の美醜を見分ける条件としてかなり有徳である。
 また、田中章雄を代表とした東京マスコミ、東京圏人の悪意についていえば、救い様がない。寧ろ彼らにはその悪意をまっとうさせ、さらに扇動しますます悪徳に染めて、破滅に至らせるのが賢明だ。チバラキだとかグンマーだとか川崎国のバカナガワだとかダサイタマだとか、トンキン(東京の唐音読みで中華的であると揶揄する差異化語)周辺の自治体を侮辱するネットスラングは、東京都民がどの様な知識も自己利益と他者損害を目的とした悪知恵に乱用するという悪意のみを示している。この東京都民性は幕府と天皇の中華思想、明治旧政府の藩閥的傲慢、そして町人・商人達の抱くダニング・クルーガー効果(無能の自己評価は過度に高い)による過剰に高く見積もった自己評価バイアスからきている。都民の全てが無知とは言えないにもかかわらず、少なくとも西日本よりは関東北部に出入りする確率の高い立場にもかかわらず、東京圏人の中では悪意の方がまさっているのだ。この様な場合、いくら東京人に宣伝してもむしろその知識を東京に有利で茨城に不利な方へ悪用してくることは疑いようがない。
 このどちらの類型についても、この状況で対県外人に印象付けられる魅力度、或いは総合ブランド研究所の登録者達の高評価誘引を上げようという意思は失敗なのである。逆に東京人の悪意を極めさせ、ひたすら非科学的で誤った認知をおごり高ぶった都民に持たせながら、東京圏民に無知をも与える事が必須である。悪意に無知が重なれば最悪の状態になるが、西日本人は東京の悪意などつゆ知らず、マスメディアや東京圏発の悪意ある虚偽情報を「都会から来た立派なもの」として仰ぎ奉るだろうから、ますます悪質な東京圏人による詐欺に遭い破滅的になっていくだろう。無知な人、愚かな人、不勉強な人が損害する事は、どちらかといえば人道の為には正当なのであって、それ以上助けてやる必要は何もない。悪意も無学も自業自得というべし。県外人に比べて、県民が共有しつつ県内利潤の最高化に応用できる知識や知恵が多ければ多いほど、我々に有利なのだ。石破氏の様に茨城県の統計的真実をかなり深く知ってしまっている県外人を脅威と感じるべきだし、その様な人を1人でも減らす必要がある。逆に橋本氏の様に県内事情を知悉する人、郷土検定で育つ子供の様に茨城学に徹底して詳しい県民に愛県心をも喚起する事が何より重要だ。それには、茨城が県民同士に利他的な風土である事が最も役立つ。茨城愛の啓蒙。茨城人同士の助け合いの精神。これが最後に役立つ。なぜならこの県内で人助けされたという幸福な経験がある事で、反抗期や何らかの理由で県外に一度流出した人も、もっと意地の悪い県外での経験をへて、望郷の念や何らかの自己利益の為にUJIターンの確率があがるから。ふるさと納税などでの利益も期待できるうえ普段の県民生活にとっても幸福感に直結する。


県政革新論

 茨城県政革新の第一弾として、自民党県議46名の逮捕を機に県会議員を全廃し県議選を終わらせ、代わりに市町村長計44名による市町村長議会を県議にあてて大幅な節税を図るべきだ。そもそも県議は必要ないのだ。市町村長を直接選挙で選んでいるのだから、彼らが県議を兼ねればいい。
 更に国政革新を図るべく、偕楽園内にある旧レイクボウル付近に妹島和世設計による全面ガラス張りの前衛建築として全国知事会議事堂を建てる。そして国会を知事会議で代替する事で国会議員と国会を全廃し、大幅に節税する。これを大井川県政第一期目、つまり2021年までに実現させる。


茨城経済学――トップバリュー効果とノンブランド戦略

 地域の魅力度とブランド総合研究所に登録している西日本の数百人から偏見される何らかの生活要件、は、一言でいうとおもに観光地としての魅力度なわけだが、この観光地としての客観認知度を日本の47県のうちの平均値に近づけるという思考自体が、横並び若しくは中庸志向だというしかないだろう。大井川氏の、経営学を援用した論理、すなわち差別化が市場原理において青い海(競争相手のいない新興市場)を泳ぐのに有効だという革新理論的発想からいえば、すでに「魅力が日本で最もない」という認知biasを、(ブランド総合研究所所長の東京都民)田中章雄の資本だの、東京の非科学的で悪質な報道機関だのの俗受けを狙う商業的悪意を利用して、かなり巧妙に宣伝できているのは明らかではないだろうか。この観点は既に青木智也氏がイバラッパーの活動で、魅力度最下位はオイシイという表現(吉本興業的ミームでいう「巧く喜劇的に目立てる」という意味)で提出済みだった。
 さらに青木氏はかれのサイト『茨城王』「茨城県が裏魅力度調査2010で第1位を獲得」 のページで、次の様に述べている。

 これ、ほんとにこんな値段するの?いくら有名だからって高すぎでしょ・・・って正直思ったことはありませんか?


 ブランド力が高い商品ほど、はっきりいって値段も高いですね。●海道の有名なお菓子はみんな高いでしょ。←水海道じゃないですよ(笑)。
「払った対価に比例して満足度は高まるものですから」なんて言われちゃうと、なるほど確かにそうかもなあ・・・なんてだまされねえって(笑)。それより、もっと「安くていいもの」のほうが普通はいいでしょ。

この指標は主に農産物や特産品を対象としていますが、質が高いにも関わらず、あえてブランド価値を高めずに、なるべく安い価格で提供しようとしている生産者や商品をもっと高く評価すべきであるという主催者側の意図が見て取れますね。


 茨城県はこのノンブラン度でも第1位を獲得しています。
評価の高い産品を挙げていけばキリがありませんが、コシヒカリ、メロン、栗、水菜などその品質のわりに価格が安いものが多いです。

以前農業関係の仕事に就かれていた方がおっしゃった一言を私は忘れることができません。
その一言とは「かしこい消費者は茨城産のコメを食う」。
なるほど!と思いました。
グルメ志向、ブランド志向の方だったら●沼産などに手を出しそうなものですが、賢い方は同レベルの品質であるにもかかわらず価格の安い茨城産を選ぶということなんですね。高けりゃいいってものではなくて、いいものを安く買うのがかしこい消費者です。

メロンだって夕張が有名ですが、たくさん作って安く提供しているのは茨城産ですし、栗なんて有名な小布施の栗菓子にどんだけ茨城産が使われていると思ってるんですか。
水菜にいたっては、京都産の半額ですからね。
そりぁ日本一の産地になっちゃいますよ。
水菜は元々京野菜で関東ではあまり食べられていませんでしたが、これだけ水菜が普及したのはきっと茨城産の水菜があったからといってもいいすぎではないでしょう。


 それと、茨城には有名な割には値段の高くないブランドというのもありまして、それは水戸納豆ですね。納豆って栄養価が高い割には値段が安く、非常にコストパフォーマンスの高い食品だと思います。

 ここにみられるのは日本や世界の賢い消費者を馬鹿にしている、高く余分をとった高付加価値のわりに質の低い、東京や京都の様な見栄っ張り「ブランド志向」の逆の発想で、コストパフォーマンスを最重視した高品質の割に無名であるから値段が安い「ノンブランド志向」が茨城県の既存の好条件を最も生かしやすいのだ、という観点である。このブログの中でも何度か似た意見を述べてきた。茨城ブランドとは現時点でノンブランドと同質の意味を持っている。「有名じゃないから大したことがないのだろう」という日本人の偏見をゲイン効果に逆利用して、国内市場では有利に高品質・低価格な製品サービスを提供できる、というわけだ。橋本県政が工場誘致力を日本でトップにしたのも、農業力も2位にまで成長させたのも、この消費者にとって最もありがたいトップバリュー効果を活かしていたのだ。しかも、茨城産の商材は国外では日本ブランドに他ならず、国内で費用対効果面で競争力をもった時点の茨城製品・茨城サービスは、国外ではブランドマージンを得られるのだからさらに高値で売れる。
 茨城県の特質を生かして高付加価値を生み出す要因は、ブランド価値を最小化する事の方にある。目立つ宣伝をしたり、押し付けがましいブランド名をつけて高級感を演出したりしてはいけない。素っ気ない、どう見ても過剰サービス精神のない、あたかも売る気がないように見える。しかし裏返せば消費者には全然ありがたくない宣伝費や無駄に他ならない過剰包装的・偽装的な価値の上乗せに過ぎない余分を極限まで切り詰めてあり、お徳感、実のコスパにおいて圧倒的に世界一の水準にある、という商品価値の実感を奨励する方向に進むのが、逆差別化という茨城経済のノンブランド(無名)戦略に違いない。既に無印良品とかプライベートブランドとかに似た傾向の戦略はあったが、県単位で自覚的にこの経済戦略をとろうとしたところはないのだろう。
 他方、マージンを取れないなら製品サービスのコモディティ(日用品、似たり寄ったり)化によって(過当競争の血の海の様に)赤い海になりやすいという批判が考えられるが、競争力を持って市場で勝利できる限り、隙間市場においても同様の、魅力を削いだ実の効用を求める製品サービスの入り込む余地はあるかもしれない。たとえばオーディオスピーカー分野で実を求める人に有名なオラソニックや、海外ではおそらく日本一のクラフトビールである常陸野ネストの木内酒造、皇室献上品でもあるカガミクリスタル等はこのような例なのかもしれない。要は市場競争力を志向しながらも、品質/価格において勝利する事を目指し、虚栄より実質をとる賢い消費者のみにターゲティングする。裏返せば、ブランド志向で見栄を張り、低品質・高価格な製品サービスを購買したがる愚かな消費者を標的から大胆にはずし、過剰な高値付けをもたらす非消費者目線の余分を極限まで切り詰めた良心価格を目指す。京都・東京・北海道・沖縄の逆を張ってブランド依存またはブランド志向を脱却する事が茨城的なのだ。
 もしこの種の戦略が現実に成功度を高めていった場合、必然に、市場シェアを独占する分野が複数生まれるはずだ。結果的に、世界市場における持続競争力を茨城が確保していく事ができるだろう。この戦略をとる場合、いかに県内の企業・労働環境を低費用化できるか、しかも、県内の何らかの職人的な起業風土、社内外教育(ON-JT・OFF-JT)に有利な条件付けによって市場と比較して高品質な製品サービスを生み出して当たり前だ、という意識をどう作るかが重要だ。いいかえると、品質/価格の高い商品において潜在価値をうみだす両輪として、低費用化と高品質化の誘引が必要になる。前者については公害を主とした外部不経済の内部化を除いて、企業活動に世界一有利な県内誘致環境を生み出す事が重要で、これは法整備を含む税制改革によって県庁に十分なしうる。また労働者に関しては公務員が高い税を貪らないという県内公務員の給与削減によって模範を垂れる効果と、公務のIT化・高効率・合理化によって、武士道的な、高利益を得る事のない低廉な仕事の方が立派で、代わりに名誉を付与されるのだという貴族精神の啓蒙が重要だ。後者、高品質化については教育風土によると思われるが、恐らく高品質の飽くなき追求と言う意味での芸術家・職人気質の啓蒙が役に立つのだろう。求道的な職人は無限に高品質を志向するものだし、それはいかにも売らんかなというデフレ経済下の消費者にとってはうんざりする態度、もしくはより高い差額を得ようという商人気質の逆を張る為、ノンブランド戦略との調和がし易い。前衛芸術家(後衛の作家はそうではない)はまだ評価されざる領域へ決死で常に挑戦していくという意味では革新の原点だし、この種の人々を集める事は精神面でのイノベーティブな環境を生み出しうる。


堤防の工夫

 常総市は高規格堤防、スーパー堤防を導入した決壊災害からの復興によって、鬼怒川沿いをむしろ快適性の高い広大な運動場につくりかえるべきだ。
 同様に、北茨城市も今つくりなおしている高さのある海辺堤防に、どこからでも海の眺められる遊歩道を付属する、そして景観に害を及ぼすテトラポットはむしろ海水浴場部以外で積極的に撤去し、自然のままの砂浜を残すという考え方をしなければならない。いわゆる災い転じて福を為す、転んだら只では起きないという発想である。


水戸遷都の最優先

 大井川氏は一期目のうちに水戸遷都を実現するべく、中央政界を茨城県勢で牛耳るよう地方自治介入の復讐と自民党粛清、天皇家処刑に全力を尽くすべきだ。将軍を裏切った東国侵略犯である天皇を古巣の京都に逃がしては絶対にならない。再び天皇支配の世襲封建制を期して潜在的独裁者を残してしまう。国民による国民のための共和政府を全国一致で実現する。この為には神道信者の政界からの全数粛清が必須である。皇族の死刑も含め、政界からの皇族閥全数粛清を期すのみである。皇族が逃亡しようものなら宇宙の果てまで追いかけて最短距離で処刑する。

茨城BIによる世直し

 所得の高齢者側に片寄った極端な世代間格差が、子供だの家庭だのパートナーをもてるほど、それどころか生活するだけの金もない結婚適齢期の若者を生み出す。少子高齢化、つまり茨城滅亡の第一原因はこの「所得の世代間格差」なのであり、一言でいえば老人が青年をむさぼっているのだ。
 だから青年を搾取して暴利を得ている年金を廃止し、代わりに生活必需品を無税にした軽減消費税を欧州並みに引き上げ財源を確保した上、社会保障を一元化した茨城独自のBI、最低所得保障制度を導入して、世代間格差を是正するべきなのだ。今すぐに。待ったなしで。これをなしえないかぎり茨城も日本も100%滅亡する。断言してもいい。裏返せばこれを実現したばあい、茨城の若年人口は同等の制度をもつ欧州並みに回復し、経済成長率と或る種の繁栄を確保できる上、若い世代の移民による人口増大と起業の為の必要最小資本が確保され県内とその関連経済も回りだし、暴利を貪る老人世代の実質負担率があがることによる非生産・非消費集団の県外排出を促し、老害の貪欲という悪徳による風紀紊乱も糾すことができ、タンス預金の切り崩しで死資本の淀みも一気に解消する。

国民政府論

 天皇家や皇族、そしてその縁戚である安倍家、麻生家、小泉家、石原家、石破家など自民党の世襲国会議員らを全員国政から粛清し、天皇家並びに皇族全数を処刑して未来永劫、日本国を侵略させないように地上から滅ぼし去った上で、世襲禁止法を通して親が国会議員または閣僚、官僚、公務員いずれかであった人が国政に関われないよう制度を革命しなければならない。
 竹田恒泰の様な皇族利権にたかる民間人も、あるいは皇族閥にしがみつき国税利権やら後光による虚栄にあやかりたがっている京都府知事および京都市長も、国権の正当な行使が図らしめる範囲において、同時に地上から粛清するべきである。

2017年9月2日

日本国の人口減少は、世襲権力者への人道の裁きにして復讐である

 人口減少がまずいと考えている政治家は、たとえば東京の詐欺に引き寄せられて都内で死んでいく様な悪徳に満ちた強欲で浅はかな在来種とか、そもそも子供を産む価値もない様な有害で悪意の日本人が大勢いる、という事について、何の言及もない。生き残った方がよい善良かつ賢明な人が子供をもてず、死んだ方がいい様な極悪非道な人間が子供を産んでいるといった事象も観察できるだろう。日本国で生まれた少なくとも2800年程度前に移民してきた弥生人と呼ばれる大陸の中韓人と共通のDNA(Y染色体ハプログループO1b2またはO1b)と混血した人々、つまりは移民なわけだが、この様な連中が繁殖することを是とする理由は単なる人種差別以外なにものでもない。純血アイヌとか、3~5万年以上の先住民族であるにもかかわらず急激に減っている東北の在来縄文系の純粋日本人DNA(Y染色体ハプログループD)であるとか、どう考えても、人種的に保護するべき価値がより高いのは希少価値の高いこちらの方だというほかないのだが、そのような人たちを殖やそうという意図は国政には全然みうけられない。ただでさえ人口増加率の高い九州は、沖縄経由で多少のD系統の流入がある南九州の一部を除いて、弥生人の集住移民地区である。九州人に人種差別的な意図に基づく保護価値など全然みいだせない。なにしろ低教育のヤンキーだらけで放っておいても勝手に繁殖していくのだし、希少価値もないし、そもそも元々の日本人ではなく移民の末裔なのだ。
 政治家が恐れている被侵略の恐怖など、侵略者である弥生民族の末裔に他ならない西日本に生まれ育った人間が言えた義理ではないのは明らかで、それをいうなら弥生人の末裔達は最初から侵略犯なのだからそれを言うなら今すぐ天皇を連れて日本国から、朝鮮半島、或いは中国江南地方を経由し、故郷であるユーラシア北部へと帰ってもらうべきである。しかもこの西国の薩長土肥だの関西地方の弥生民族の末裔たちは、今から150年前に自分から東国だの周辺諸国だのを侵略し、賠償に値する多大な生命への恐怖と現実の殺戮という大犯罪の数々をもたらしてきたのであるし、今現在も商売、利己、性悪、金儲け、そして民族・人種・門地差別と天皇狂信といった移民初期から健在のあさましい本性を手に、日本中・アジア中・世界中を目下侵略中である。つまり天皇家だの長州閥だの関西人をはじめとした弥生人の末裔の政治屋らは、自分達の世襲権益が侵害されるのを恐れているだけなのだ。大体、東日本にこの人たちが入ってきている事そのものが、2800年間も迷惑極まりないのである。侵略者は帰れとしか言いようがない。現に濃度こそあれ混血者も多かれ少なかれいるにせよ、この弥生人と呼ばれてきた侵略者連中は自分が犯している侵略罪に自覚がなく、他人から侵略される事はゆるせないという無礼千万かつ無神経極まりない無感覚で、大公害の恥知らず、浅はかで陰険で自己中心的な大ばか者としかいいようがない、救いようがない連中なのである。
 人口が減る事について、天皇家のような生まれつき付与された「世襲権益」を持っているのでない、一般人には何の心配もいらない。我々はどちらにしても、天皇家という侵略者に毎日、被支配という不愉快な経験を2800年間もさせられているのだし、天皇家が故郷の中韓ならびに大陸北部にさっさと帰ってくれない限り、京都だの奈良だの中韓系帰化人の植民地に引っ込もうとその被侵略状態という移民社会の状態は何も変わらないからなのだ。百歩譲って自分と遺伝傾向が近い人間が同調し易いという妄念があったとする。これをいうなら、縄文系の本来の日本人であるハプロDと、弥生人という中韓人の末裔であるハプロO1bは、7万年分も遺伝子分岐の時点が離れているのだから、完全に赤の他人なのだ。いやいやながらの呉越同舟なだけで弥生人という汚い侵略犯を、アイヌはじめ日本人は昔も今も少しも好んでなどいなかったし、卑劣な暴力で2800年の間、独立を侵害され抑圧され文化文明を破壊されたという完全な民族弾圧犯罪の被害者にほかならず、今後もそうだろう。混血があるという反論については、天皇家が自分で万世一系とほざき、男系がハプロO1bという中韓人の系譜なのは出自からも身体特徴からも歴史からも完全に明らかで、アイヌや縄文人(中韓系の侵略者である天皇は、日本人を蝦夷と呼んで差別してきた)では全くもってないのだから、はっきりいえば男系の天皇は科学的に、未来永劫、極悪犯罪人にして迷惑千万な、恨み多き罪人にして、移民の外人なのである。
 この論理は背理法であって、私は人種差別主義者でもなければ民族差別を奉じる者でもない。人口減少が恐ろしいと述べている人の根底にあるのが、これら、人種差別と民族差別にほかならず、しかも彼らがそれら2つの差別を用いて何をしているかといえば、自分自身の既得権益を維持したいという天皇家レベルの旧態依然なばかげた封建制に他ならないのだと、のべているだけである。日本国など守る必要は一切ない。日本国政府が滅亡したところで、我々一般の個人には何の問題もない。中国を見ればいい。何度王朝が後退し、何度新しい国ができた事だろう。中国人はそんな制度変化に一切関係なく、生き続けていくのだ。
 易姓革命のなさを日本らしさの様に定義づけた水戸の徳川家は皇族権益を奉呈して、唯我独尊状態にあった江戸の徳川家とのすみ分けをしていた存在なのであり、水戸家が天皇を崇拝させるように藩士にしつけたのは彼ら自身の女系DNAに皇族経由の流入があったため、完全に封建的既得権の維持促進が目的でしかなかった。明治以後の島津家、毛利家、そして吉田茂を含めて、皇族の親戚関係になった人間が、自分の母系DNAに既得権をあつめる為にいかにあらゆる政治制度的抑圧と報道統制、そして宗教的洗脳を彼らが弾圧してきた水戸藩の学問を乱用してさえ行うかは、天皇2800年の世襲独裁制度そして国民奴隷化の延長にある現在がまざまざと証明している。要するに、搾取する対象である奴隷国民が減るため、こういった既得権が旨みを搾取できなくなり、人口と経済力という意味で、近隣のより健全なまつりごと、国民への利益還元をしている有能な国民集団からの侵略或いは移民で滅び去る事は、人道の正義としかいいようがない。天皇家も安倍家も、麻生家も、いや、東電株を手放していない石破家やら、非正規雇用法を通したポピュリストの子である小泉家であれ、滅び去ればいいのである。これらの人々と私に何の関係もない。私にこれらの人々が、1円でもくれたことはない。一方的に徴税され、私は被害だけを受けた。何の利益還元もない奴隷側が、搾取だけされ極貧状態の中ふえられるわけがないのである。経団連から不道徳な献金を受けながらぬくぬくと世襲政治屋を続けてきた自民党員だの、国民全体を、どんな貧民からさえ税金を搾取しつくして贅沢三昧で2800年の天皇家など全員滅び去れ。それが正義なのだ。日本国民がどんどん人口減少し、搾取する対象がいなくなって慌てている悪の天皇家とその手先の自民党員共は、(彼ら自身の、西日本側とおもとする大部分が移民そのものなのだが)新たな移民の奴隷欲しさに躍起になっているが無駄である。なにしろ、苛斂誅求の暴利によってひたすら民を虐殺し、2800年間もの間、すさまじい悪政をしているのだから、今後来る移民についても同じく、不幸な奴隷国を作ろうと最後には滅亡する。
 天皇家と自民党員は、奴隷が足りなくなって慌てだし、どんどん移民を増加させようとするだろうし、それによって政治参加者も投票傾向も帰化した人々や混血した人々により激変し、遂に彼ら既得権を寡占する支配者らが、悪の世襲独裁者や独裁政党員として国政から排除され、場合によっては国外追放もされるであろう。それでいいのだ。奴隷に再び生まれなおすより、国ごと滅びた方がよい。無論、天皇家や安倍家や麻生家や小泉家や石原家や石破家を、つまり世襲権力者の悪政既得権の連中を、全員我が国の政治界から永久追放できれば今すぐにでも、我が国の税金について本来の恵まれない国民への健全な利益還元が可能になる。だがこれらの極悪集団は、国民側の正義に最大限の悪意で弾圧し続けるだけだ。日本人の衆愚、ニコ動だの2chだの東京大阪の愚鈍マスコミに洗脳された馬鹿な若者だの中年だの老人側には群衆化や自己奴隷化の狂信傾向以外でまっとうな思考力や理解力が欠けている。天皇家含む政治屋も衆愚も両者とも今後も反省や精神的成長が期待できないこともまた疑いようがない。こうして日本国が周辺諸国に侵略されるまで、徹底的に日本人が減少し経済衰退した方が全人類の正義の為なのだ。
 ちなみに、相対的に他の列島より人口増大傾向にある愚劣な九州人は貧しさのなか増大しすぎた若者やくざ集団が余って暴走し、再び自らの口減らしのため侵略戦争の惨禍をくりかえしたがるだろう。もっぱら我々はアジア諸国及び多国籍軍と協調し、国内外でバカな九州人暴力団からの侵略被害を防止する事、彼らの暴虐を最大限の暴力による実力行使で徹底的に潰す事だけで十分である。


平成維新論

 梶山弘志氏を全力で擁護し、県知事選における自民党県議の贈収賄事件をすべて大本営のボス安倍晋三一人の責任に帰す為に、全人類を糾合し、悪の安倍晋三及びその手先である同内閣構成員、そしてその派閥・細田派(96人)の全数が加計、森友に続き、まことに有罪であるという本質を一貫して主張し続けねばならない。自民党本部はブレーンの世耕を中心に、安倍の責任逃れの為に全方位から虚偽答弁と冤罪、国策捜査を駆使し、茨城県側に想像を超えた悪意で、衆愚の扇動と共にぬれぎぬをきせてくるはずだ。この際、不正なテロによってなった明治政府から来た現今の長州閥独裁の日本国政府を全て滅ぼそうが構わないという覚悟で、安倍晋三という不正の根を完全に除去しきるのが絶対に必要である。国民をあらゆる権力乱用で繰り返し欺く重罪人である安倍晋三と細田派96名の自民党国会議員はこの国に巣食ったがん細胞にほかならず、全て完全に消滅しきるまで叩き潰しまくる事に何のためらいもいらない。
 この際、安倍晋三並びに安倍内閣のみならず、自民党及びそこからきた悪の子分に他ならない平成日本政府の一切を解体しきるまで、安倍晋三の不正による独裁罪業の追及を未来永劫ひたすら怨嗟と怨恨によって続けるべきである。唯一の正解は倒幕だ。


茨城の独自性について

 もし大井川氏のいう独自の事をしたいなら、300万人が一斉に起業家を目指してはいけない。なぜならそれが米国の模倣だからだし、その時点で模倣者、追随者、よくて初期採用者にしかならないのだから(それが商売としてうまくいったとしても)。米国とか西洋の価値基準に乗らない事象が真の独特なのだし、それは欧米側にとって必ずしも評価に値しないものかもしれない。日本の県外に対してもあらゆる外国に対しても同じことだ。
 資本主義の制度に乗る範囲で、米国の今現在はやっている商業をまねよう、少なくとも金儲けになる範囲で商品を差別化しようという考えは、秀才的な発想でしかない。資本主義潮流にそのまま乗っているだけだからだ。管理された独自性、合法な商取引というルールの中にある革新、これは真の革新ではない。単に資本主義の改良だ。
 過去の茨城県・常陸国・下総国史できわめて独創的だといえるのは、全世界でこの地域にしかない水戸学が代表的なものだ。象徴天皇制と明治維新、広くは植民地独立、人種差別への反対、民族独立運動の礎となったのはこの思想であり、人々が気づいていようがいまいが全人類にプラスの影響を与えている。共産主義が生まれる前の考えだから、マルクス主義以降の知識人にとっては乗り越えるべき批判対象かもしれないが、非西洋圏における近代化の基礎理論となったことは明らかであると同時に、単に茨城県のみならず日本国、そしてアジア、いや有色人種の多かった全地球の国々単位での非西洋性、独立の背骨を保つよすがとなったのも、この水戸学なのである。特に天皇家はこの思想を生み出した偉人達に未来永劫、感謝するしかないほどだ(現時点の皇室は単なる英米追従者であるうえに傲岸不遜で無知かつ不勉強だからそうはしないだろうが)。岡倉天心の『茶の本』をはじめとした著述と思想にも、水戸藩士である横山大観の父、そしてその子である天心第一の弟子・大観当人から来た、日本の独立、独自性尊重の思想が流れ込んでいるのは、偶然ではない。
 では水戸学とそこから流れ出た独創性について、世界人類が何らかの高い評価を与えているかといえば、決してそうではないだろう。なぜそうなのかといえば、単に理解していない、理解する誘引もなければ必要もない、それどころか未来永劫この種の哲学に関心を持つほどの知能がない等、いくら優れた意義を持つ達成であれ、他者からの評価がそれに比例するとは限らない。では、大井川氏は一体、この水戸学の様な独創性をまっとうに評価し、その種の独特さをのみ選好しようと思っているだろうか。思っていない。
 彼は単にアメリカかぶれ、その追従者である東京かぶれなのである。はっきりいうと、米国の評価基準に合わせた何らかの価値等級を、茨城県域にもたらせばそれが革新だと思っているのだ。シュンペーター理論は経済学にすぎない。大井川氏が革新を興したいと思っているのは、実は「商業」という、全体から言えばごく限られた分野であるか、少なくとも商業性を経由したイノベーション理論の援用であるというほかない。勿論、生き方の多様性とか、傑出した個性とか、独特の能力といった言葉で、その理論体系を補う様な発言もしばしばみられるが、大井川氏の行政論の本質にあるのはイノベーションという概念を中心にした米国的な技術革新の模倣であるというべきだろう。
 この議論で見えているのは、真の独自性は潮流或いはパラダイムそのものが違う為に、外部者から正当に評価されえない、という観点である。芸術でいえば真の前衛が同時代人から常に無理解にあい当の芸術家らは孤立しながら貧窮に陥り、場合によっては悲劇的な死を遂げた、他方で過去の同時代に高く評価される類の今日では全く知られていないいわゆるサロン芸術家らが伝統模倣者にすぎないがゆえ、当時の俗物受けがよく当時の凡愚な称・文化人らにとっても重要とされていた上に、経済的にも人気的にも全く恵まれていたといった例に事欠かない。イノベーション理論でいえば、市場参加者には下記の別がある。
  1. イノベーター(Innovators:革新者):
    冒険心にあふれ、新しいものを進んで採用する人。市場全体の2.5%。
  2. アーリーアダプター(Early Adopters:初期採用者):
    流行に敏感で、情報収集を自ら行い、判断する人。他の消費層への影響力が大きく、オピニオンリーダーとも呼ばれる。市場全体の13.5%。
  3. アーリーマジョリティ(Early Majority:前期追随者):
    比較的慎重派な人。平均より早くに新しいものを取り入れる。ブリッジピープルとも呼ばれる。市場全体の34.0%。
  4. レイトマジョリティ(Late Majority:後期追随者):
    比較的懐疑的な人。周囲の大多数が試している場面を見てから同じ選択をする。フォロワーズとも呼ばれる。市場全体の34.0%。
  5. ラガード(Laggards:遅滞者):
    最も保守的な人。流行や世の中の動きに関心が薄い。イノベーションが伝統になるまで採用しない。伝統主義者とも訳される。市場全体の16.0%。http://www.jmrlsi.co.jp/knowledge/yougo/my02/my0219.html より
これらの種類の展開のうち、イノベーターの中には単に革新的であっても商業上の流行が決定量(クリティカルマス)に到達しなかったままの、無数の前衛的な実験、発見や発明が含まれているというべきで、その様なものの中には非利益的な探求、それどころか努力なしに得られた特殊性も大いに含まれている事だろう。大井川氏は、一体この問題についてはどう考えているのだろう。
 私の意見をいえば、茨城からビルゲイツをとかジョブズみたいなのを出せとか出そうぜいうのは、戦後日本の典型的思考法、単なる模倣者でしかない。実際、まねがうまい国民性だから川上量生だの孫正義以上の存在は、本気でやればうみだせるだろう。どころか、その種の類型に当てはまる人物は既に、茨城にもいたのだ。Winny開発者の金子勇氏。今もいるに違いない。ウィニー事件にあった京都みたいに陰湿な社会では反社会的個性を弾圧するから、ジョブズみたいな本物の不良、狂人が潰されてしまうという面は大いにあるだろう。ジョブズはソニーの不完全模倣者だったかもしれないが、ビルゲイツはだれかを模倣したろうか。真の独創性とは世界に類例がないことなのだ。ビルの様になろうとした時点で革新的では全くないのだ。「金儲けなんてどうでもいいや」とか、「武士はくわねど高楊枝」とか、「役に立つ仕事なんて下民がやる事だ」と言って、金になるかならないかわからない対象に命懸けで取り組んでいる人の方が、非米国的かもしれない。金儲け以外の目線から見て幸福追求に成功した人の方が、実は市場にあっても十分に差別化されて青い海を泳いでいるかもしれない。つまり大井川氏が本当に茨城を独自にしたければ、米国追従をやめるべきなのである。シアトルだのシンガポールだの、フランスだのといった前例はある種のモデルかもしれないが、それらから何をどう学んでいようが、或いは学ばなかろうが、自分自身にしかありえないもの、しかも価値観や評価基軸そのものを独自で作り上げる事が重要なのだ。独りよがりになるからそんなものは意味がない、県外から中身があろうとなかろうと何らかの妄想だか事実の側面だかによって魅力があると思われる自分になりたい、こういう発想は間違っているのだ。ランキングは無意味なのだ。他人に順位付けされない価値は、自分自身が作り出すしかないのである。そしてこういう意味で、橋本氏は正しかったのである。なぜなら橋本氏独自の哲学を持ち、他人からどう思われようが、彼の理想とする茨城の理想像をいだき、それを実現していったからなのだ。
 もっと根本的に言うと、独自になろうとする努力そのものが、元からある個性が非独自な場合に限るのだから、最初からある自然や文化条件が沖縄だの北海道みたいに非典型であるとき、或いは朝鮮人植民地として始まった中世都市の京都みたいに出自からして非日本的である場合、普通や平凡になる事自体が難しい。彼らは逆に、あまりに正規分布から外れた各種の特殊性のため日本で「普通の人」になる為に努力さえ必要なのだ。自分の持っている個性を丸ごと受け入れる事。底抜けの自己肯定感、そして自分自身の現時点でもっているありのままの個性の特徴をそのまま、他人の前に押し出す事。これが本当に独自であるという事なのだ。アリストテレスは言っている、変化するのは悪い特徴なのだと。最高の存在である不動の動者が神なのだと。平凡な人が特殊な人に憧れるのは矛盾しているのである。茨城の良さは、かなりの程度、中庸にあるのだ。人徳の最高の特性とは中庸にある。『常磐線中心主義』の中で、茨城はコモディティの供給地というイメージ、つまりは平凡な農工業地帯といわれる。魅力がないと思う人達は、その個性を嫌っているだけだ。我々が満足しているのに、我々は生まれ故郷の良さ、なつかしさ、美しさ、言葉にならない崇高な光景、自然の奥行と神秘、偉大な文化文明を生み出してきた立派な人々、親しみのある仲間を語りつくせないほど、幼児のころから知っているというのに、くだらない人達に嫌われたからなんだというのだろう。自分が好きな人とだけつきあえばいいではないか。茨城は神のごとき世界一優れた自治体であり、その本質において、変わる必要がない。他人から好かれるために作った偽物の個性などになる必要は、まったくない。自分達が理想の中庸に到達する様に努力していればいい。中庸より極端を好む人達は、おろかなのである。愚かな人の評価基準に合わせる人も愚かなのである。
 茨城県という法人格としての行政単位と、その中に属する個人達、或いは県内企業を比べて、後者が中庸でなければならない、という事は確かにないのかもしれない。個人が市場における利益を得る能力としての差別化された仕事が必要だ、として、それを行政がおしつけることは完全に誤りだ。個性や企業は自由でなければならない。中庸を選ぼうが極端を選ぼうが、その個人の選択が正義だ。特定の企業優遇についても、ハイエクの論理によれば、実際は市場原理によらなければ計画経済的な非効率や失政を免れないだろう。対して、行政単位としての茨城県が極端な個性になる、つまり、あらゆる観点から見て大いに欠けたところと大いに優れたところがある、という事が、道徳的に正しいのかについては議論の余地がある。全体奉仕という理念と矛盾をきたすからだ。むしろ行政単位というものは欠けた所のない全能を志向するべきなのかもしれない。その単位で暮らしている人たちは現代世界の市場原理秩序に最適化しきってしまえば、産業転換に追随できず、古都となって滅び去れるのだからだ。茨城、常陸国は3万年以上、一貫して持続発展をしてきた世界一偉大たるべき自治体なのであり、未来もこの星が太陽に呑まれて滅びる50億年後までの期間、最低でもそうあるべきだ。


茨城経済学

 TED(米国ニューヨーク市に本部のある非営利の講演団体)における演説の中で、アメリカの超富裕層に属するニック・ハノーアー氏は、安定した消費力を持つ豊かな中流階級が起業家の母体になるにも、彼らの購買する商品・サービスのある安定的な市場を形成するにも必須で、さもなければ暴動が起きるであろうと述べている。下記に引用した当演説の要旨にあたる記事でわかるように、資本主義の最も重大な欠陥は、格差拡大が極大化し、あたかも資本奴隷制下での新封建主義の様相を呈することにあるのだ。

 シアトル市の最低賃金を他連邦に比べ2倍にした、というニック氏が良識的な上に賢明な、特別な金持ちだという事は明らかで、この様な高徳の持ち主は、残念ながら現日本には私の知る限りだが一人もいなかった。勿論、商売人は言うに及ばず政治家の中にも皆無だった。柳井正の様な悪質な成金は、年収100万でしょうがない等と、ニック氏の真逆の悪徳を述べてさえいた。安倍晋三は賃上げ要求をしていたかもしれないが陸に実現もしていないし、経団連から企業献金という不正な受益をしている立場の自民党員が、民主・民進党と結び付けて蔑視した労働組合を排除しながら経団連に何を要求しても、出来レースであり同じ穴の狢でしかない。

 単なる模倣だから二番煎じに見えるかもしれないが、ただシアトルのまねをして茨城の最低賃金を旧来の2倍にする条例をのみ制定するのではなく、欧州で一般的な秩序をとりいれ、非正規雇用者の最低時給を正規社員以上にすることを企業に義務付ける条例を通しつつ、その最低額を5千円にするべきではないだろうか? 必然的に、生活保護を受けているより非正規雇用者になった方がかねがもらえるし、そのうえ先の知れない正社員にとどまるより流動的であっても挑戦的な新雇用に属する方が、むしろ安定的に豊かな生活を送れる土壌が作れるはずだ。豊かな中流の厚みが、結局は、消費やら資本増加の差益による搾取を旨とする富裕層の躍進についても有利なのだという啓蒙が、茨城の役割として期待されていると思えてならない。大井川氏は「【Pivote TV】Pivote Meeting”新しい茨城”の話を聞いてみよう!ゲスト:大井川かずひこ氏 from YouTube」の動画中で、知事・社長報酬が高すぎるという司会の指摘について無視を決め込んで、むしろ社長報酬より知事報酬の方が少ないのだから、といった横柄な態度でさえいる。大井川氏は、ニック氏のTED動画で述べている内容に比べて資本主義の本質的欠陥について無知だし、改善についても積極的でないということかもしれない。が、ニック氏のいうCEO、つまり取締役員もしくは社長の数と取り分の増大に比べて、末端労働者側の取り分の減退という致命的な社会複利の失敗について、もっと自覚的になるべきだ。はっきりいえば、複数いる会社役員もしくは社長に当てはまるのと同様に、知事報酬を現状の非正規雇用者が納得できる程度に下げたうえで、逆に非正規雇用者らの報酬を正社員以上に増大させれば、それが最大の経済効用を持つのだ。これは知事局の仕事の大変さに比べて低すぎる報酬による過酷労働をもたらすという点については、社会的共通認識として許せる程度に知事周辺の取り分を減らすべきだといえるだろう。

 また、この演説の中で、ニック氏はもう一つ重要な観点を提出している。それは「住民のために生産を改善した解決策の度合いが、起業家の報酬であるのだが、この解決率は、問題解決に参加できた起業家と消費者の母数によっている」即ち可処分所得の面で豊かな中流を意味する消費者がいない限り、生産・消費不順の解決率、つまり経済成長率は大幅に下がる、といいかえられる見解だ。単に起業家を育てようとするだけでは不十分なのだ。どれほど優れた製品サービスがあっても、それを消費しうるだけの可処分所得がある人々、つまり最低限度以上に余ったかねのある一般県民も育っていなければ、県の優れた経済を構築することはできないのだ。

 竹中平蔵を有して以降の自民党の経済政策とは頑として縁を切る必要がある。トリクルダウン、おこぼれは起きなかったし今後もごく一部の高級品の需要、それも県内に事業があるとは限らないものを除いては、起きないだろう。竹中は単に愚劣で自身の人材派遣会社で儲けただけの意地汚い政商で、政治家として完全に無能だったのだ。そして竹中に騙され非正規雇用法を通して以後の小泉純一郎、その後の安倍晋三、麻生太郎らによる自民党政権も、経済的には完全に無能だったと評するほかない。科学的に誤りであった施策を継続している、不正選挙までして権力維持に躍起の、反国民に違いない資本家による資本家のための租税回避地を無視する、腐敗した世襲権益・自民党幕府から離れよ。茨城単独で正しい理想の模範国ヒタチとなって、国連と全世界のトップを率いる世界一の国として、全人類にあるべき人道を教える。わが県に新しいリーダーとして期待される責務をはっきりと目標化して、旧日本国という失敗した泥舟から出よう。

ニック・ハノーアー: 超富豪の仲間たち、ご注意を ― 民衆に襲われる日がやってくる

8/25(金) 13:57配信

TED

皆さんは私をご存じないでしょうが 私は皆さんがあちこちで耳にする 上位0.01%の富裕層の一人で つまり紛れもないプルートクラット (超富豪 政治権力者)です

(中略)

問題は 格差そのものではありません 高度に機能する 資本主義下の 民主主義において ある程度の格差は必要です 問題は今日の格差が 史上最大であり 日々悪化しているということです そして もしこのまま富や力や所得を 一握りの超富豪に 集中させていたら 私たちの社会は 資本主義下の民主主義から 18世紀のフランスのような 新封建主義へ変わってしまいます それは革命前の 農具を持った民衆が 反乱した頃のフランスです


私には伝えたいことがあります 私と同じ超富豪や大金持ち バブルの世界で 優雅に暮らす人々へのメッセージです 「目を覚ませ」 目を覚ましましょう いずれ終わりが来ます 私たちがこの社会における あからさまな経済格差に対して 何もせずにいたら あの民衆が襲いに来ます 自由で開かれた社会で 今のような経済格差の拡大が 長く続くはずがないのです 過去にも 続いた例はありません 極めて不平等な社会には 警察国家や 暴動が付き物です 手立てを講じなければ 世直し一揆が私たちを襲いますよ 可能性の話ではありません 時間の問題です その時が来たら それは誰にとっても 酷いことになりますが 特に私たち超富豪にとっては最悪です

(中略)

私が訴えたいのは この経済格差の拡大は 馬鹿げていて 最終的には自滅につながるということです 格差拡大は私たちが 民衆に襲われる危険性を 高めるばかりでなく ビジネスにも大打撃を与えます 私たち金持ちの手本は ヘンリー・フォードでしょう フォードは有名な 「日給5ドル」という― 当時の一般的な賃金の 倍増計画を導入しましたが 彼の功績は 工場の生産性を 向上させただけではなく 貧しく搾取されていた自動車工たちを 自分たちの作る商品を買うことができる 成長した中流階級に転換させたことです フォードは直感していました 現代の私たちが認めるとおり 経済は生態系になぞらえて考えるのが 最適で 自然界の循環システムと 自然界の循環システムと 同様の特徴があり 経済にも企業と顧客の間に 循環システムがあるのです 賃上げによって需要が増し 需要によって雇用が増え それによって賃金や 需要や利益が増えます この景気の好循環こそが 今日の経済回復に 欠けているものです


だから私たちは 両政党で強い勢力を誇る― トリクルダウン政策とは手を切って 私が「ミドル・アウト経済」と呼ぶ やり方を採用する必要が あるのです ミドル・アウト経済では 経済というのは効率的で線形で メカニズム的であるから 均衡や公正に進む傾向があるという 新古典派経済学の考えを却下し 21世紀型の考え方を採用します 経済は複雑、適応的、生態系的なので 均衡や公正とは逆方向に進み 不平等になる傾向があり 効率とは程遠いが うまく管理されていれば 効果的であるという考え方です この21世紀型の観点でとらえると 現存する資源の効率的な分配によって 資本主義が機能しているのでは ないということが はっきり見えてきます


資本主義は人類が抱える問題に対して 新たな解決策を生み出すことで 機能するのです 資本主義の特質は 解決策を見つけるべく 進化するシステムだという点です 他の人たちの問題を解決した人々に 報酬が与えられます 貧しい社会と豊かな社会の違いは そこに住む人々のために 生産という形の解決策を どれほど生み出したかという 度合いの問題であることは明らかです 私たちの社会が保有する 解決策の総和が すなわち 私たちの繁栄であり このことが グーグルやアマゾン マイクロソフトやアップルなどの会社や こうした会社を作った起業家たちが 我が国の繁栄に大きく貢献したと言える 理由になるのです


この21世紀型の観点でとらえると 私たちが問題を解決した率をもって 経済成長を理解するのが 最も適切だということも はっきりしてきます しかしその率は問題を解決した人の数― 問題を解決する能力のある多様な人々を 私たちが何人持っているかに かかっています つまり私たち市民のうち何人が 解決策を提供できる起業家として また その解決策を購入する消費者として 積極的に参加できるかによるのです しかしこの参加の最大化というのは 偶然 起きたりはしません 自然に起きる訳ではないのです 努力と投資が必要です だからこそ大いに繁栄した 資本主義下の民主主義は どれも皆 中流階級と 彼らの生活を左右する インフラに対し 大規模な投資を行うという 特徴があるのです


私たち超富豪は この 私たちがさらに富めば 他の人にも富が浸透するという トリクルダウン経済から 脱却する必要があります トリクルダウン理論は間違いです そんなはずがないでしょう 私には平均賃金の 千倍の収入がありますが 千倍多く買い物したりはしません そうでしょう? 私はこのズボンを2本買いました パートナーのマイクいわく 「経営者ズボン」 私はこれを2千本買えますよ でも買ってもしょうがないでしょう? (笑) 私が床屋に行く回数も 外食する回数も そう多くはありません 超富豪がいくら富をかき集めたところで 国家規模の経済を動かすことは 絶対にできません それが可能になるのは 中流階級の成長によってのみです


「手の打ちようがない」と 超富豪の友人たちは言うかもしれません ヘンリー・フォードの頃とは 時代が違います 出来ないことはあるでしょう でも出来ることもあるでしょう

2013年6月19日 ブルームバーグに私の書いた記事が 掲載されました 『最低賃金15ドルという資本家の理論』 という題です 賢明なフォーブス誌の人々の中には 私の熱狂的なファンがいますが 彼らに「ニック・ハノーアーによる とんでもない提案」と呼ばれました しかし その記事が掲載されて ほんの350日後 シアトル市長のエド・マレーが シアトルの最低賃金を 時給15ドルに上げるという条例を 法律として成立させました これは連邦内で一般的な 時給7ドル25セントの 倍以上に当たります 何故そうなったのか 分別ある方なら疑問に思うでしょう その理由は私たちが共同で 中流階級の人々に 彼らこそが資本主義経済の 成長と繁栄の源であると 再認識してもらったからです


労働者が持つお金が増えれば 企業は顧客が増え 雇用を増やす必要が出てくると 再認識してもらいました 企業が労働者に生活賃金を払えば 納税者は食糧配給券や 医療扶助、家賃補助などの 労働者が必要とする 生活保護制度の財源を 負担することから 解放されるということを 再認識してもらいました 低賃金の労働者は 納税状況が極めて悪く すべての企業が 最低賃金を引き上げれば どの企業も潤い 競争も起きるということを 再認識してもらいました

(後略)






2017年9月1日

交通網について

 大井川氏が新幹線を通すといっている事は、ストロー効果による経済衰退をもたらすといって間違いないだろう。もし新幹線を茨城県から非東京圏に通すなら、特に北関東・東北・上越新幹線といったたぐいなら、それは成功するかもしれない。東京都に交通網を接続してはいけない。交通網はより大きな都市に人口を引き寄せる効果しかない。現高萩市長は勉強不足であって、そんな外からの捕らぬ狸の皮算用を期待する暇があるなら、海抜から高さがない高萩市内の海付近の住居に対して、1階部非居住化の改修を促進する条例を作るべきである。
 つくばエクスプレス沿いが人口増大に成功したと考えている人は、スプロール現象は都市計画的に失敗だという観点がないのである。職住近接の反対である様な郊外からの長距離通勤や、大都市民の中で決して所得が高い方でない人達のベッドタウン化は、どちらも大企業本社の属する都民にとっての好都合でしかない。茨城側にとって都合がいいのは、県内に本社が属し、そこを中心として交通網が存在し、県内都市に比べて人口比の少ない自治体としか利便性の高い交通がない状態をさす。高萩にとっても例外ではない。県の振興にとって筑波型の開発計画は必ずしも模範ではないのだ。
 この動画「大井川かずひこの街頭演説、石破茂元地方創生大臣激励の挨拶」の冒頭に近いところ、2分頃から、石破氏は出生率が最高の沖縄から最低の東京に人口、特に若い女性が集まる事で、人口が半減していくといっている。更に食料・人口・エネルギーの生産地である地方が、それらを消費する一方の東京に人口を搾取されて、滅びに向かっているといっている。この意見については統計的にはその通りかもしれない。そしてなぜ人口が東京で減るか、沖縄でふえるかといえば低俗な退廃社会である東京は悪い売春・商業社会であって2割の若い女性は性搾取され事実上、子供を産めない悪習に堕落させられ殺され、8割の若い女性は限界まで仕事にこき使われて子育てにも嫉妬羨望させる見栄を張らされる浪費生活の面にも最悪の環境である都内では子供を産み育てる費用を払えないからだし、逆に沖縄で出生率が高いのは学力が極端に低い上に雇用先が少ない上に暑すぎて勤労意欲がわかないから所得が極端に低い人が過半で、が為に先のことなど考えずに性欲のまま妊娠するからに他ならない。日本国民の多数派はこの様な事象について無知な衆愚であって、都内立地企業への利益誘導・利ざや自慢に過ぎない東京を過度に美化した宣伝や、田舎へのネガティブキャンペーンを鵜呑みにしつつ上京が理想であると妄想し、なおかつ批判的な思考の欠如によって、群衆化してこの大勢の失敗もしくは自死に流されるばかりだからだ。東京都民の悪意など変えようがない。彼らは性だの労働力だの電気だのエネルギーだの資源だの食料だの人材だの知恵だのの搾取によって単なる我欲で利益を独占したいだけだし、虚栄心の塊として、善良で騙されやすい田舎者を偏見流布で差別する事で天皇家の中華思想を後光に、ひたすら個人単位で利己的に金儲けをしていればいいと信じている。要するに都民一般とは、福島原発事故の原因となっていながらに再稼働を要請している現実をそのまま映し、しかも東電株の主要株主が都庁だから東日本中にばらまかれている原発汚染の原因が最終受益者である東京人だと自覚すらしていない、うま味である暴利だけ得ながらに最終処分場を貧しい自治体に平気でおしつけたがってさえいる完全な人間の屑なのだ。冷たい現実を悟っているのは都内に内部事情まで深く出入りし客体的に知悉しながら、その悪徳に満ちた大都市の考えと対極にある、自然と調和した田園地帯に生まれ育つ事のできる茨城県民の一部はじめ、一部の啓蒙的な北関東人、その他のUJIターン組くらいだろう。
 江戸から至る東京圏は、農民が9割だった江戸時代の土地相続にあずかれなかった次男坊以降の実質的な口減らしスラムが出自で、現代においては商人および皇族閥の虚栄を目指す強欲スラムとして、労働者或いは娼婦としての実質的な人身売買による相変わらず口減らしを内部の機能的目的にしているという事実を顧みても、東京圏との交通網の接続は茨城人の人口比や生活健全性を減少させ、悪意ある都民にのみ都合がいい。高萩市長は駅前に私企業の格安ホテル誘致を図る条例などに手をだしているが、特定の企業への肩入れは行政の不正な癒着というのである。行政は全体の奉仕者でなければならない。空地は全員に得がある様な公園にすればいいのである。高萩駅前にビジネスホテルを作れば地域が活性化するなどまったくありえない。寧ろ悪意しかない都民がそこにきて、性犯罪の現場にするなど、当然のことながら悪用されると予想がつく。目立った観光地のない地帯でこのホテルを運用する会社も東京都民なら、既に周囲に民宿や観光ホテル、ビジネスホテルそのものがあるのだし、割安の場所に一時的に泊まる人が高萩市民ではないのは明らかなのだからだ。尤も近いうちに採算がとれず、高萩駅前からこの会社が撤退するのは明らかだが。


茨城の革新について

 商才がない人のうち、別の何かに能力がある人と、生存しているという価値以外では全般に無能でほとんど役に立たない人がいるだろう。大井川氏の主張する政治体制は米国の能力、実力、成果主義を地で行くシリコンバレー文化を模倣しようというわけだが、それは個人の商才にボトルネック、瓶首効果を持つ淘汰圧をかけ、ただでさえ商才がない上述の2類型の人達をさらに不利な状況に追い詰める結果になるだろう。
 大井川氏は経歴からいっても元来、脳の遺伝が学習能力について凡庸な観点からかなり正規分布的によい方で、努力が日本人一般の他人と比べて結果になりやすかったのだろう。しかし生き方の多様性を語るとしたら、ベンチャー起業家の様なごりごりの商売人気質をのみ模範的類型かの様に語ることは単に矛盾している。
 経済学においてシュンペーターのいうinnovation、革新が覆っている範囲は、実際は営利追求を是とした企業組織的行動という末端部分でしかない。このイノベーションという魔法の言葉がバズワード、つまり、巷で話題となっている理由は、停滞ばかりか縮小する経済状況下でますます営利にのみ関心を持つおいつめられた商人が多いからだ。現実に何らかの革新的な事業成績の飛躍が産業革命的におきるとき、役に立つかまったくわからない遊びとか無為の為である様な非実用的な発見が先ずあって、それがさらに応用を試みる実験家の手になりいままでなかった事物間の結合をうみだす発明に偶然つながり、最終的にというべきか末端で商人が市販や販促を計画しつつ金儲けに利用して革新と呼んでいる。そしてこの産業構造の転換という現象は、本来、生活現場の工夫として日々おきているが、それが或る特定のまれな結合をとるとき、他とは違った利益またはなんらかの高い効用を伴い、大幅な革新、すなわち営利性の向上となる。おおまかにいってシュンペーターのイノベーション理論はこの様な枠組みをもっている。
 そこからいって、単に末端だけをみて利益追求を主張しても、事はそれほど変わらない。単に商人気質の蔓延によるギスギスした、よく解釈すればぎらついたpragmaticな営利的金欲とか自称社会変革をかたくなに信じる資本主義的狂人とかを啓発する。前者がビルゲイツやバフェット、後者がジョブズやザッカーバーグだったのだろう。これら革新者に対してかつてニュートンやガリレオ、小保方氏がやったのが決定的発見なら、エジソンやライト兄弟がやったのが発明といえるだろう。いいかえると、革新を実現するに最も重要なのは、意外性のある、非典型的な、今までとは違う様な知識、技術、商いの結合を見いだす文化風土なのであって、それは独創または新規性の選好といいかえてもいい。米国西部は開拓精神と移民と実用主義、資本主義、そして大戦による軍需とそこからの情報技術のおこぼれ的民営という偶発的な結合があったので、シリコンバレーの世界が生まれた。
 結論をいうと、逆説を含む論理だが、革新の模倣は全然革新性とは逆に位置し、本当に革新的である様な人とか地域というのは、シリコンバレー文化とは全く違う新規性とか独創性を明らかに独自の属人的かつ属地的結合について強固にもっている場合をいうのだ。茨城県にしかありえない様な、自然ならびになんらかの風土、集団の文化に、発見、発明、革新の各部位が偶発的にくみあわさり、そこに世界一の強度を伴う成果を見いだせるばあいに、それは革新自治体ということができる。つまり模倣あるいは今までにない角度からの模倣は確かに創造の本質にある要素かもしれないため、シアトルとかフランスとかシンガポールを単にまねて、よせあつめつつ改良した自治体となることは、半分くらいは正しいのかもしれない。だが他人が追随できない企業並びに生活風土という意味で、たとえば役に立たない事をなにより面白がるだとか、実際にイギリスのケンブリッジとかパリはニュートンを筆頭にした探求的学者だのエコールドパリの実例からそういう面があるかもしれないが、逆に田舎らしい田舎なので人間関係が狭すぎて医師が定着しないだの非愛知人に排他的だの非洛中には差別的だの、これらは国内の秋田、愛知、京都にみられる或る側面だが、この種の地域特殊性が偶発的・偶有的に結び付くときに、外から見たときの価値とか、衝撃とか、なんらかの意外性が生じる。後者の例は営利と必ずしも結び付いていない非成果的なものかもしれない。すなわちここでいいたいことは、革新自治体もしくは個人とは非典型的な生存のあり方を偶然を含めて見いだせた者をいうのであり、それはトップダウンの方向づけとは実は逆なのだというわけだ。
 もし本当にシュンペーター的な意味のみで革新的な茨城をつくるとしたら、知事がいうべきことは、利益をあげれるなら原則としてなんでもやっていいし、今までとは違う事であれ失敗しようと役に立たなかろうと普通ではないことを含めて自由にします、ということである。但し行政としては外部不経済が生じる様な場面に備えて、公共福利の立場から最低限の法整備と、あまりに所得格差が開きすぎて不平や不幸感がはびこらないために累進税制もある程度はとります、そして全く商売にならないばかりか失敗ばかり起こしてしまう人にも、最低限かもしれませんが生活保障は任せてくださいということである。

保守と進歩という家畜論理

 自民党、天皇家、小泉進次郎の三者に共通しているのは、保守と名乗りながら自分だけは進歩的便益を得て、後進的な状態のままにしつけた大衆を家畜化、奴隷化しようという悪意、もしくは偽善の作為に他ならない。水戸に大井川応援演説にきた進次郎の演説をみると、保守的ではない自民党が自称保守と名乗るのは、馬鹿国民をだますためでしかない、というのがよくわかる。落語の様に巧言令色、水戸市の愚民を手駒にとってあおり、薩摩藩の末裔が自称保守政党を気取りながら進歩を主張のご都合主義な矛盾振りは健在で、かつて水戸藩や将軍を裏切って徳川の世を乱したこともどこ吹く風、今度はスパイの内乱分子であった西郷隆盛を模範と仰ぐ老公橋本氏を追い詰めて扇動政治を行うなど、どこからどう見ても水戸市民ならびに茨城県民を利用価値しかない奴隷として愚弄しているのである。
 大井川氏はたまたまこの様な悪辣な寡頭政治集団にバックアップされてしまっただけで、この点は罪がないかもしれない。また公明党の山口代表も、小中高大まで一緒の人物に肩入れしたくなるのも、自民党との対立を緩和したいという政略も理解できなくはない。他方で、自民党と天皇家の権力亡者振りがいかに偽善的で、利己心しかないと同時に、彼らを信じる人々を明々白々に裏切るかという事はどれほど強調してもしすぎはないといえるだろう。福島県の現状をみながら、原発再稼働を茨城県に要請する。この様な偽善、いや、完全な悪意が平気で表意できるような人間はもはや悪魔以外なにものでもない。長州閥のマキャベリズムや、天皇家の神道による自己洗脳を超えて、ポピュリストの小泉進次郎氏はバカな市民をあおって諧謔を弄し、現実には保守性と呼べる何も中身などないにもかかわらず、愛県的かつ良心的な県民を自民党やらその総元締めである天皇家の言いなりにしようというだけなのだ。
 ここまで分析できれば、ナショナリズムの正体も明らかになる。それは支配者、具体的には独裁権益を持つ政治屋連に都合のいい衆愚を、あたかも良識めかした自縄自縛の妄信、「仲間意識」という嘘によって相互依存的な洗脳にかかりやすい精神状態にしておくための扇動でしかなかったのである。水戸駅前での進次郎演説に現れていた、茨城人の素朴な価値観をあおる様な皮肉や、保守政党に属しながらの進歩の希求つまり自民党独裁の誘導、それにもかかわらず口さがない落語的な韻を踏むことで一種喜劇的に聴衆の心理を自分に都合がいい方向へ扇動する手法、これらは不仁の特徴に違いない。剛毅木訥の対極にある進次郎氏には扇動政治屋、デマゴーグの称号が相応しい。だが、問題の本質はこの扇動屋以外にあり、要するに権力維持のためには手段を択ばず民衆を操作する、という本格的な悪意が自民党や天皇家の行動にはっきりとみられるという事の方にある。現代の皇族は全く保守的ではない。私大から米英の一流大に単身留学しつつマックを操る。20代半ばで数億円の持参金をもらいながら結婚する。これらは国民からの税金でやっていることだ。一体、この様な生活をなしうる保守的な国民、県民がどの程度いるというのか。進歩的な己(官)が保守的な民からの搾取構造を独占し続けたい。これ以外に、自民党や天皇家の目的はないという事が明らかになった。
 大井川氏はもっと単純で純粋だ。本気で地元に還元したいのだろう。彼が経てきた一般的に華麗に見える経歴は、実際は彼の鋭い努力の経過を意味していて、その高いハードルを自己へのプレッシャーによって乗り越えてきたという自信から、海外の高い進歩力を持つ地域同様に、自分自身の生まれ故郷を革新できるはずだと信じてやまないのだろう。だが彼を今回背後から後押ししながら国民を操り人形にしようとしていた勢力、自民党とその奥にいる皇族は、茨城や福島、その他、青森、新潟など東京に被害がないと想定する地方に住む民の犠牲のもと、原発再稼働から得た税収益でぬくぬくと、贅沢に暮らしたいだけなのである。
 地域ナショナリズム、愛国あるいは愛県心は二重の意味で岐路に立たされている。第一に、この考えは多数決の結果に従順たることを要求するという意味で、多数派が支持しやすい寡頭政治政党のもたらす独占という結果、もしくは弊害にいかにも好都合である。第二に、この考えをもたない完全に利己的な個人や多国籍企業が、国家や国税、地方税さえ無視しtax haven・租税回避地を利用していても、皇族や自民党員あるいは官僚といった調整的正義を軽んじながら搾取の末端にいる連中が継続的に収奪できる財産の母数がへるのを危惧して何の指摘も対策もしなかったよう、つまり既得権益を持つ世襲政治家連が金持ちに逃げられるのを恐れていたよう、超国家的な個人主義者、単なる利己主義者が有利になる現代社会の構図に対して、自称民主主義国家はまったくの無力だという事だ。要するにナショナリストはその規模が小型でも、他人などキャッシュディスペンサーにしか思っていない根っからの商売人に簡単に騙され、搾取される存在でしかない。その事をしりながら愛国心、愛県心、愛郷心を家畜民の洗脳に都合がいい理屈として、既得権を持つ連中は彼らの良心を堂々と悪用しているのである。愛国心や愛郷心など天皇の金蔓に他ならない。それなのに、この偽善や悪質さに多かれ少なかれ勘付いているのに、なおも自分自身の利益のためだけに皇族閥に関連付けられた既得権の側に属していよう、というのが、進次郎であり安倍晋三であり麻生太郎なのだ。これらの人々はここまで見ていくと極悪人に違いないが、その極悪人達に善人面で支援された大井川氏に何の罪もないといえるだろうか。やはりすべてを顧みると、橋本氏の方に正義があったとしか言い様がない。なぜなら橋本氏は良心を持つ純朴な民を守ろうと戦っていたのだからだ。自民と皇族は今日、民衆抑圧目的の既得権益に他ならず、その利益の片棒を、ビルゲイツや川上量生の様な純粋な利己主義者の組織で、或いは
裕仁や明仁の様なより巧妙な偽善者の組織で、自己洗脳の癖を身に着けて担ごうとしている大井川氏は、はっきりいえば騙されているのである。いや、彼自身を欺いてもいるのだ。彼はやりがいという言葉で、公然と金を儲けていた商売人や、隠然と金を儲けていた世襲権力者といった利己主義者たちが、さも社会のため、さも人類のためと嘯く様子をまのあたりに、自分自身さえ欺いて、高い給料をもらえるだけ自分の働きには価値があったのだと思い込もうとした。現実には彼らの作り出した巧妙な策略によって貧民を貪っていただけなのだが。
 保守と進歩という論理は、どちらも既得権を奪い合う野蛮な政争の具にされているにすぎず、置き去りにされた、或いは狡猾に扇動された民衆の側は、いずれにせよ搾取収奪の対象でしかありえない。経営者を兼ねた大資本家・大株主が最も目立つ独占者だとしても、現実には皇室関連予算として毎日9000万円以上を国税から公然と浪費している天皇家の方が悪質だ。この顕示的消費によって愚民に威圧的な後光効果をもたらし、格の差を見せつける事によって、帰依させ洗脳する。既に権益の維持とは完全犯罪に他ならない。だが衆愚がこの事実に悟り、怒りや悲しみや憤りのあまりに、清貧な君主を求め真の共和政を志向するのでない限り、そして専らその様な賎貨思想の価値観は米国の前で時代遅れの様にうちすてられているが、民衆が家畜や奴隷として都合よく誘導される現実は変わらないだろう。もし大井川氏が真に善良な人物であったら、却って、国政の悪意、寡頭政治を目指す悪党である自民構成員や、神道信者の露悪的本性と、良識的県民の板挟みにあって進退相極まるかもしれない。なぜなら本当に民衆の便益と弱者の優先救済をめざして善政を行う清貧な首長、ホセ・ムヒカの類が登場したなら、大井川氏がそうなる可能性はかなり低いにせよ、利己的な天皇、自民、東京マスコミといった商売人達に唆されている愚かな民衆は、スポンサー企業の意向やら宮内庁2階の記者クラブやら官邸の大本営発表やらそれらの煽りに祭りといって馬鹿踊りするニコ厨やらに群衆として群れながら、聖徳の持ち主に逆上して濡れ衣まで着せて倒そうとするだろう。そればかりか、彼ら衆愚は搾取され気ぜわしい自分達が経営資本家たちに騙されるほど愚かなのが苦しい労働生活の原因である事を反省していないため目先の利益欲しさ或いは無能な人々への悪意ある嫉妬と虐待の意図によって、最初からこの種の君主道徳の持ち主を自主的に選びえないのである。


2017年8月31日

地域ナショナリズムと移民社会

 もし大井川氏の公約にみられる理論を政治的に実践すると、この県で最善なのは、移民促進県として人口流動性を極大化し、かつ個人主義に基づいて行動する習慣を身に着ける事となりそうだ。
 これまで橋本氏が行ってきた行政は、現北茨城市長の豊田氏と同様に地域ナショナリズムに由来し、水戸の徳川氏の愛民思想の延長にある、健全な愛国・愛県・愛市民による功利主義的な行政の類だったといえるだろう。大井川氏はこれに対し、刷新を唱えつつ米国型のIT産業を誘引しながら、人と財をあつめるという考え方をもちこんでいる。そして大井川氏の方法論では、地元人を優遇するより、無能な地元人を切り捨てていきながら、有能者を選好する(或いは逆に無能移民を切り捨てつつ有能地元人を採用でもそうだが)という米国資本主義の実力優遇的な展開が必要不可欠となるはずだ。当然これまでも県は実力本位で人物を評価してきただろうが、橋本氏の根底には最大多数の最高幸福を目指す様な功利的・福祉的な考え方も存在していた。大井川氏側に弱者救済という主張はあまり強調されていない。なぜならこの人は、ご自身が成功者の属する組織の渡り歩きをしてきた経歴からも、生まれながらに恵まれない人だとか、無能であるから出世の見込みが初めからあり得ない人、挫折の末に再起不能になっている人といった本来の弱者に、殆ど認知がないのである。
 橋本氏は「強く優しい県」をsloganにしていた。これは強い経済と優しい福祉を意味するといってもいいだろう。大井川氏に、優しさの面は見逃されているが、実際はこちらの側面、調整的正義の方が、商売ではない行政の必要条件なのだとこのブログで述べてきた通りだ。別にIT業が悪なのでは全くない。虐めをなくすことも重要だ。問題は大井川氏の理想の社会としてこの動画(【Pivote TV】Pivote Meeting”新しい茨城”の話を聞いてみよう!ゲスト:大井川かずひこ氏 from YouTube)内であげられている米シアトルやフランスはliberalな移民社会の典型といえる。勿論、強烈な人口流動性、つまり早いメンバー入れ替えのある移民社会にすればそこで虐めが発生する確率は相当に下がるはずだ。その代償に、田舎らしい田舎としての既存の茨城のある面は、恐らくかなりの可能性で消滅していくはずだ。外来種の方が強壮な場合が殆どなのだから、わけても人においてウィンブルドン現象(外人の方が活躍し母国人を駆逐する)が起きないはずがない。はじめから移民の主要な都市部で大井川氏の支持率が比較的高かったのも、この様なリベラル・寛容政策による犠牲をこうむる可能性が都市部ほど低いからなのだ。農村部の平和や低い犯罪率は、村社会性からくる相互監視にもよっているのであり、移民による人口流動性が高くなればなるほどこの秩序は破壊される。橋本県政にあっては、彼の田舎に対する理解や尊重の念から、商業地や、移民地区となってきたつくば市等との間に多様の統一が図られていたといえるだろう。大井川氏はおろかではないのだろうし、今後この種の当県の地域多様性やそれらの利害や目的としての幸福間の違いの調和を図らざるを得ないだろう。茨城は単なる商人気質である東京都の様に単純ではない。金儲けさえできれば皆が一様に幸せになるという訳ではないのだ。しかもこの県は、全日本のみならず全地球の縮図といえるほど自然、田園、都市の全面にわたっての最大級の多様性とそれらに固有の生態系がある。東京都民の様な浅はかな目先の利害だけを追いかける衆愚からみれば、金が儲かっている場所が繁栄、そう見えないところが衰退にすぎないと偏見しているのだろうが、実際は、都市化してしまった田舎町は自然破壊を憂い、工業発展をも環境の悪化として迷惑がっている場合も大いにあるし、つくば市にさえ天狗党どころか?歌以前から住む在来の住民が新住民のお高く留まった地元民に交わらない態度をいけ好かないと考え、国策による施設の押し付けに対し平和な農村の伝統破壊だと感じている層は確かにいるのだ。
 更に厳しくいうと、大井川氏は余りに単純に茨城を思い、全県土についてつくば市をベンチャー起業特区にする類の、ITなりICTの応用で金儲けをさせられれば、それが即ち繁栄にして羨望なり尊敬される新生の県になりうるのだと空想しているのだろう。これは東京都民という商人或いは小人集団が持っている類の、目先の利害損得でしか行動しない浅薄な知能における、生活多様性の否定でしかない。田舎暮らしの幸せは、経済最優先では決して得られない。商売人の幸福は農民の幸福ではないのだ。移民や外来者に荒らされる地域を繁栄していると考えているのは、愛すべき故郷のない哀れな都民だけだろう。いつまでも変わらない、少なくとも変化がゆっくりしているという事、自然がそのまま残っているという事、これらはどれほど大金を積んでも永遠に得られない、かけがえのない価値なのだ。金儲けなどどうでもいい。静かにゆったりと自然に包まれて暮らしていたい。この様な考え方を持つ人の生活感を、東京かぶれやシリコンバレーかぶれには理解も想像もできない。幾らでも変化したいのは、元から故郷を捨ててきた浮浪集団としての都市民だけである。その様な人々が国際資本や金融経済の波に乗って世界一の成金富豪になったところで、一体なんだというのか。虚栄に他ならない。自分の力で全世界を支配したところでなんだろう。その人には自然一つ生み出すことはできない。小川一つ形作ることはできない。小磯一つ守れない。大井川氏の人生観はまだまだ洗練されていないというべきだ。民俗学や自然学、文学だけでは十分ではない。老荘や仏教哲学ですら、茨城県の中にある無数の生の深みを知りはしないのだ。
 私に言う事ができるのは、経済弱者の救済とか、無為自然だとか、士農工商だとか、農本思想だとか、旧水戸学を一つの大きな流れとして現代の茨城まで伝わってきている深い哲学の束をつかみ、茨城県史の学習を、まず一度大井川氏は真剣にやるべきだ。常陸国史、茨城県史を知っていれば、移民政策に殆ど等しい大規模な改造を、この県土全体に適用する事が全く文化的ではないと悟るかもしれない。この県のことをより深く知っていたのは、恐らくだが、橋本氏の方だった。無論、大井川氏はそこから比べたら若すぎる。いかにも無鉄砲にすぎない。公明党の山口代表はおそらく大井川氏と国内学歴が等しいがゆえ長期関係を見込めると考えたろうし、都議選で裏切った自民党への再度のすり寄りもあって、彼が大井川氏側にこびたという事は、単なる政略行動だろう。安倍氏は長州閥を種にした権力亡者であるから、東京に続き茨城でも惨敗にするわけにはいかないと、保守王国を票田として少なくとも死守するべく自民推薦候補に肩入れしたのも明らかであった。橋本氏の地方自治法に基づく地方の知事選挙に、中央政界が介入するなという正論は、安倍氏の様な公徳の足りない、世襲の因縁や自尊心と思い込む虚栄心だけで持っている類の独裁主義者には馬耳東風である。大井川氏はこの様な幸運が重なって、県民のうち約半数を敵対させた状態で県政に入るのだから、今後、移民を中心にした県内社会を、つくばや日立の様な一部の都市部に集中させるか、全体に適用する事でこの県そのものを移民社会にするかについて慎重に選択してもらいたい。橋本氏の愛県的施政と、大井川氏のいう営利的な施政は、要求される生活態度に大幅な違いがある。前者は地縁や地元を優先する方が有利になりやすい条件をつけるが、後者は県だとか市だとか町だとかの地権者を無視し機会費用を節約しつつ、個人単位で金儲けする方が有利になりやすい国際適応を意味する。なるほどこれは大幅な転換だ。これから4年間で、移民だらけとなるのならその様な県を、私個人はなにも否定しない。むしろ歓迎さえするが、水戸徳川氏の主義していた尊攘理論は、そこでは時代遅れの産物として完全に無視か否定されていくのだろう。では、尊攘志士らは一体何の為に忠義で大量死していったのか。回天神社や弘道館に記録されている精神があるなら、地域ナショナリズムとは一体なんだったのかを問い直すべきだろう。


魅力度に関する最適戦略について

 もし、これといって不足のない、恵まれた立場にあったといえる茨城県民が、大井川県政によって何らかの方途をとって西日本人のうち数百人のブランド総合研究所会員の偏見を正したとしよう。それによって、石破茂氏や小泉進次郎氏らが音頭をとってもちあげようとしていた類の当該調査の変化があったとしよう。そして大井川氏はご満悦で挑戦すれば変化を起こせるのだと、新政は成功したと考えたとしよう。これは本末転倒だ。
 田中章雄という極悪人による魅力度調査の根源問題は、それが差別や偏見による非科学的、もしくは疑似科学的な悪意ある報道スクラムによって、弱い立場にある者、不利な人間を殺意を込めて徹底的に虐め殺そうとする、日本国と日本人、村社会と島国根性の一番悪質な面をまざまざと示しているということにある。だからたとえ茨城が別の評価のされ方をしようが別の県、別の誰かが再びストレス解消或いは集団の便宜的結束の為のいけにえ、scapegoatとして虐殺対象になるばかりで、日本人も日本国も、東京やら各地のマスコミも、西日本も、田中章雄容疑者も一切なにも変わらない。日本人一般が虐め大好きの極悪国民なのだということを、田中章雄は金儲けに利用しているにすぎず、たまたまその標的に、過不足のない調和のとれた我が県がなっている、というだけなのだ。
 いわば自分だけ被害を受けなければ他の誰かの被害なら構わないと、大井川氏はいいそうなものだ。日本国民がなぜ虐めを好むかといえば、この国が閉鎖的な村社会、島国であり、固定された成員がわかりやすい地位を保ちその押し付けられた役割、階級、性格のなかで極力型にはまった、天皇家はじめ支配者に都合がいい奴隷の様に、機械の様にふるまってほしいからである。これは天皇やその家来にとって管理しやすい従順な奴隷民が搾取するのに好都合だからというだけではない。当の国民自身が固定メンバー間での差別を含む順位制を、思考の節約の為に選り好みしているということなのだ。だから一度はりつけたレッテルや汚名を、その日本人の知能指数が低ければ低いほど徹底して信じようとするのである。凡そ日本国民自身からなる集団では、どこでも凄まじく陰湿な差別や贔屓といった硬直的な階級化の現象が現れるのは、それが彼らの脳内では正義や公正とすりかえられて理解されているからだ。
 これほど魅力度調査問題に現れた日本国民のもつ病根は深く、単に数百人単位の西日本人の一部脳内を変えられても、日本人一般の狂信的階級志向、つまり虐めや偶像崇拝の精神構造は変わらないだろう。報道で水戸市の恥知らずで愚かな一市民が小泉氏を様づけでよんでいたが、この種の人物が他方ではなんの罪も落ち度もない人を徹底した悪意ある偏見で虐待するのだ。偶像崇拝と虐めは、自己懐疑という思考習慣を持つには余りに単純で低知能な脳にあって表裏一体の関係にある。弱い立場にたたされた人を集団で押し殺そうとする悪意。強い立場にたまたま立っている人に落ち度も欠点も無視してひたすら隷属する卑屈さ。大井川氏は、一体この種の愚民の何をどう変えようというのか。バカは変えられない。日本人一般は単なる愚民である。西日本人一般についてはいうまでもない。愚民をまともに相手にするな。差別や偏見をもつことは、それを持っている人自身に最大の不利さがあるのだ。つまり茨城県民自身は、橋本氏が行っていた通り、郷土検定の様な啓蒙教育によって自分自身を正確に捉えることができればそれで十分すぎる。あとは、通常通り他県や他国について学べばいい。知的障害という場合を除き、愚かな人間にまともに対応しても、何一つとして得はない。悲惨と悪意しかない人間の現実と救いようのなさだけを得るだろう。
 ニコ動は衆愚から会員登録によって金をまきあげる商売型があった為に愚民にサービスしていたかもしれない。だがそれは視聴者数の一定割合が有料会員になるという計算下に大衆に訴求した結果、そうなのだ。茨城県の宣伝がこの種の営利構造をもっているだろうか。通俗的な大衆社会ならすでに東横、関西、名古屋があるではないか。わが県まで大衆向けの営利構造をもって自己宣伝する意味はなにもない。
 まとめると、
・魅力度調査は不正確な似非統計による単なる衆愚扇動の例にすぎず、その問題の核心は日本人のもつ階級化という思考節約の癖にある。
・愚かな人ほど差別、偏見、偶像崇拝という認識の誤謬をもち自損しやすいので、知能指数も大部分遺伝する以上、単に自分自身もしくは茨城県民がそれら非科学的な誤りを免れていれば十分すぎる。
・天皇家は愚民化でより楽に統治するべく宗教による洗脳を図り、今日では東京都民がマスコミによりこの役割を踏襲しているのだから、ドワンゴの様な大衆販促や西日本のブランド総合研究所会員である特定数百人への集中宣伝による営利構造を、茨城県庁単位で行う意義は凡そ見いだせない。百歩譲ってこの種のPRが茨城の金儲けか観光集客か移民増大につながったとして、それが虚栄以外のなにかになるとは到底いえない。なぜなら、日本人一般の階級志向自体を国民成員の過剰流動性によって破壊できないかぎり、別のどこかの都道府県か個人が標的になりかわって延々虐めや崇拝がつづくから。
 ここまでくると、大井川氏のやろうとしている茨城県に関する評判を西日本の特定数百人を標的にするなり県外の衆愚を標的にするなりして差別的偏見を変えさせて向上させるという方法が、対症療法をこえた根本的な問題解決を果たすには、日本国そのものへ英語公用語化をはじめとした移民国家になる施策をとらせることで人口構成に激しい流動性をもたせるしかないといえることになるだろう。しかも階級化をもたらす特定の価値付けにも猛反対してこれを個性の多様性とか価値の多角性を旗印に次々破壊するという、ほぼ完全に米国的な政策を実践するしかなくなる。それならはじめから米国に移民してしまえばいいのではないか、と反論がありそうなものだ。もしこの種の移民政策が可能ならつくば市の様な英語公用可能な国際特区に茨城県単位をする程度しかありえないだろう。だがそれは茨城県民が向上はしようと県外愚民の脳をとりかえることにはならないのだから、堂々巡りにしかならない。結局、バカを相手にするだけ損害なので、魅力度ネタで侮辱している愚民をみたら低知能フラグだと見なし原則無視し、程度が酷ければ関わらない方が得策の相手と理解できようからかえって激しく誤解させたままにさえし煙に巻き、一方では自分を含む茨城県民自身のみに県内の有益かつ県民の幸福に正に相関する情報を敷衍させることが戦略的かつ利口なのである。

2017年8月30日

国政論、県政論

 経済成長。それどころか金融緩和による格差拡大を最優先するという安倍政権、麻生副総理の商売第一行政は、弱者に犠牲を強いるという致命的欠陥をもっている。それは安倍、麻生両氏が衰退していく国の行政において、国民から支持を得る為に朝三暮四で目先の利己の金で釣り何とか保身しているという人気取りのやり口で、日本の先進国では低劣な民度に丁度適合しているのだ。この国民と天皇家は、特に東京以西の民衆は米軍に原爆投下されて敗北した事については負け戦として反省していると述べるが、それは負けた事を後悔しているというべきで、将軍にぬれぎぬを着せて放伐した(西軍が徳川にやった事)とか、悪意で徳川家に親族争いを生じさせてそれをかばった人たちを一方的に侵略虐殺したとか(鹿児島県が東日本にやった事)、独裁政権を牛耳って大規模な植民地侵略を行い搾取の為に平和に暮らしていた民を事実上奴隷化して苦しめたとか(天皇家が日本国各地及びアジアの周辺諸国に対してやった事)、こういった己の悪事についてはひとかけらも反省心がないのが、主に西日本の日本国民一般なのである。侵略の意図にその目的で加担したことがないという意味で、茨城以北・常陸以北の自治体はこの様な罪は着せられないだろう。それどころか徳川の正当さをかばって大いなる被害を受けた福島県や、更にその正義に殉じた奥羽越列藩同盟の様な殊勝な自治体もある。だが我々もまた、旧水戸学をのりこえて天皇家が独裁した国家体制に於いて最後まで徹底してその悪意もしくは偽善に抵抗し続けなければならなかった。西日本一般では「勝てば官軍負ければ賊」、つまり覇道政治、Winner takes allに類した海賊の論理、やくざの理屈がいまだに信じられており、吉田松陰の侵略思想や植民地主義が現役で正当化されている。先進国では最低級の民度としか言いようがない野蛮な国民が約半数を占めているのが日本なのだから、そこで選出される野蛮の極みにある山口県選出議員が弱者を蹂躙して恥もしないのは疑問もない。それほど公徳の低い、単なる覇者、暴政による独裁を図る極悪人が日本政府の象徴とか首相を名乗れるだけ、卑しい国家がこの島国なのだ。
 勿論理想はその逆にあって、ロールズの第二原理にあるよう社会で最も恵まれない立場にある者の利益が最大化する場合にのみ、正義がある。
ジョン・ロールズの正義
第一原理
・政治的自由や言論の自由、身体の自由などを含む基本的諸自由を全員に平等に配分する
第二原理
・社会的または経済的な不平等を機会の均等を図りながら、最も不遇な人々の利益を最大化する(機会均等原理)
・結果的に発生した社会的・経済的不平等に対しては、最悪の状況は可能な限り改善する(格差原理)
大井川氏にはこの種の正義に関する認知など今のところ全くないだろう。無学なのである。彼の演説を聴く限りそこで語られているのは、配分的正義だけである。それは民間企業でやるべきことだ。行政は弱者救済が第一でなければならないのだ。全体の奉仕者である行政が有能者へ集中配分をしてはならないのだ。いうまでもないが、安倍晋三氏も麻生太郎氏も不勉強すぎる為に国民全体を不幸にする悪政をしている訳だが、それを批判し正道に戻すだけの知恵や公徳がある国民一般ではない。だから筆者が自分自身の犠牲によって、一円にも名誉にもならないこの文章で公共の奉仕者達を叱咤しているのだ。そうせざるを得ないからである。これは行政人が愚劣であるという意味で、政治家候補者の不勉強が原因だ。
 大井川氏は、もし自由主義を推進するなら市場介入の類であるベンチャー起業を促進するといった発言は矛盾しているし、民社的な福祉政策をとるつもりでもない様に見える。大井川氏の行政理論は自治体社会主義もしくは都道府県社会主義なのだ。それは国政にあっては安倍・麻生両氏が国家社会主義者であるという事にあたる。安倍氏に至っては企業に賃上げの圧力すら加えているのだ。勿論これらは市場放任を意味する自由主義から、新自由主義や自由至上主義(libertarianism)からさえ大幅に逸脱している。
 辛うじて大井川氏の自治体社会主義政策、よくいえば修正資本的な新自由主義もどき政策が功を奏し、わが県が経済発展したとしよう。こういった可能性は皆無ではない。ケインズ政策、公共投資の矛先が福利耐久性のあるインフラ事業からICT関連を主とした情報関連の産業に移行していくことだろう。それは建設分野ほど耐久性がないから、お祭り騒ぎ、ITバブルの類へ火に油を注ぐ結果になるのではないか。勿論これ自体に、停滞している経済の促進効果がないわけではない。アベノミクス、安倍財政による一時的な株価バブルによって格差拡大と一部富裕層の資産増大が見られた事、また偶然ながら団塊世代の大量退職が重なり若者が非正規に置き換えられつつ雇用に吸収されたこと、これらの様な例があるから、大井川ミクスにも地域社会主義的ながら一定の有効需要の喚起があるかもしれない。しかもこの場合、新産業を促進すると明言している以上、IoT(Internet of Things、物のインターネット、つまネット日常化)やIT教育が進むという副作用があるだろう。それは農工業に対しても何らかの複合をもたらし、産業転換が進むかもしれない。だがこれらは政治と経済の役割の混同に基づく結果なのであって、経済弱者への福祉という県民全体の幸福にとって最も有用な点が完全に見逃されている。
 税収が減るから金を儲けねばならないのだと大井川氏は言う。仮にそうだとしても、地方税と国税を混同している面もあるかもしれない。企業か個人の儲けの一部が国と県に徴収される。もし富裕層の集積を促進したければ、シンガポールの様な減税措置が必要だろう。ベンチャーを促したければ、スタンフォード大学の軍需産業の様に有効需要がなければならない。これらは格差拡大をも意味するのだ。停滞する国家での経済成長と、県民の幸福としての多少あれ結果平等な高福祉社会は、両輪でなければならない。そしてこの国家の殆どの自治体、三大都市圏を除くほぼすべての自治体は、地方交付税のおこぼれにただ乗りして楽して福祉政策をしようとするに違いない。東京が稼ぎその他の自治体が乞食する。この構図から、茨城まで稼ぎ頭になった場合、更に東京を追い抜いた場合、果たしてそれが茨城県民にとって幸福な未来だったろうか? 大井川氏はこのことについてもっと真剣に考えるべきではないだろうか。はっきりいえば、東京都民一般は首都を称する虚勢とひきかえに不幸な生活をしている。だがそれは彼らが野蛮だからで、営利の欲、性欲や物欲や名誉欲にあてられて金儲けに追い立てられているからだ。動物精神、アニマルスピリッツがそうさせているのだと解釈もできるが、大量のホームレスや生活保護を受けている経済弱者も量産している。大井川氏はマイクロソフトやドワンゴの起業精神に熱を入れられて、その精神の功罪について本気で問い直したことがないと、私には思われるのだ。なぜならそれらの企業がもたらしたのは決して、国民や県民の幸福ではない。単に、株主、経営者、労働者の金儲けであり、事業に付随したサービスや製品はそこにくっついてこの様な機械をもたらした。茨城県民の所得はまだ4位~11位ほどを行き来している。所得格差の拡大は、いわゆる幸福度を下げる事が北欧の実例でわかっている。配分、調整、それらの調和のうち、大井川氏が安倍政権の国政のもとで推進しようとしているのは配分的な正義でしかないが、日本の殆どの自治体が選択しようとしているのは地方交付税にぶら下がる事によるただ乗りでの得である。上述の侵略に対して無反省に違いない西日本の自治体のほぼすべてがそうしてきているし、今後もしていくつもりなのだろう。この様に集団埋没による怠惰と妬み、足の引っ張り合いの合理化でできているのが、日本国政や日本国民一般の現実のあり様なのに、大井川氏はあまりにお人よしな、あまりに世間知のない、努力が報われる人にのみ負担が行くような政策を執ろうとしている。
 世界一の所得を持っているのはノルウェーという国だ。そして、私の意見では、世界中で最も模範になる政策を執っているのも、この国だ。この国はその所得の殆ど半分を福祉に回しているからだ。もし大井川氏が行政の最も重要な役割である調整について学べば、そしてマイクロソフトやドワンゴの呪縛から離れ心の余裕を取り戻し、光が強くなるほど濃くなる影の中に目を凝らせば、アメリカ、シンガポール、フランスの様な闇の深い国々とは異なって、真実に知恵ある政治をしている国、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、デンマークといった幸福な国々、真実の成功をしている国、経済成長という正の面のみではなくそこで必然に生じる敗北者達の救済義務という負の面に真摯に希求されている正義を高い公民度によって悟っている人々との差について知る事ができるだろう。私は大井川氏が県知事職の期間に、行政がいかに企業経営と違うか、金儲けをすればいいだけではないのだと、単に税収をあげて成功者により多く配分していればいいだけではないのだと、成功の影には表裏一体の悲惨があるのだと、より人間社会の深みについて学ぶ事ができるだろうと考えるが、それは期待しすぎだろうか。勿論、差別化という意味で、茨城に最も希望されているのは北欧の模倣でも米国の模倣でもなく、配分も調整もまこと公正に行われる調和的正義を極めるような第三のより理想的な社会なわけだが。


2017年度県知事選挙の分析と情報戦略

 今回の県知事選挙で、橋本氏の県民党を称した公徳と善意に対して、大井川氏は新政に於ける利益で釣ったというべきだろう。この意味で茨城県民の一部は忠義より利益をとったのであり、禅譲でなく放伐を選んだのである。
 わが県民は総合ブランド研究所の田中章雄と一部ネット民や東京マスコミの悪ふざけや無知無学と完全な地域差別感情の偏見、そして日本国民の中華思想や天皇制における皇居崇拝に基づく田舎差別の悪意を真に受けて、橋本氏と大井川氏の本質を見誤っているか、軽薄な選択をしたのだ。世代交代や新陳代謝、新しい状況への変化適応、これらは当然理解できる事だが、選挙期間中にみられたあらゆる動きの中に働いていたのは、善意や公徳ではなく、東京都の報道関係商人や日本政府の自公政権に媚びを売る人々の悪意と、日本国民の無知と無邪気な(それ故に一層罪深い)偏見と差別感情である。そしてこの種の悪意が支配力を働かせてきた理由は、東京都に置いた政府が利益と公徳を混同している事にあり、しかもこの悪意もしくは無知は資本主義経済と民主主義政治の結合という衆愚政が原因なのである。衆愚政とは自らの利益を公の徳目より優先する、堕落した多数派が牛耳った体制である。
 たとえば私立高校の学費無償化は、富裕層の負担を減らす上に、そもそも教育内容の差別化やすみ分けが果たされなくなるため誠に有害だ。なぜこの種の教育の独立を侵す市場介入を行政人がおこないたがるかといえば、当然の様に一部民衆の利己心に訴える為でしかない。全体に有害で一部の既得権にのみ利益がある。私学助成は単なる悪政でしかない。
 勿論これが単なる深読みすぎで、県民は流石に民主主義とされている現状で長期政権すぎる事を危惧しているか、IT・ICT(Information and Communication Technology、情報通信工学)系の新人物で産業振興し、魅力度云々でうるさい対県外状況を打破してほしいという面もあるだろう。
 他方もし上述の衆愚化論にも一理あるとすれば、ではなぜ衆愚化が進んでいるかといえば、政治に関する教育や知識の不足としか言いようがない。扇動政治がはびこる理由は民の無学に他ならない。また、総合ブランド研究所の様なサイバーカスケード状のいかもの或いは完全な差別を含む疑似統計を、平然と既成事実として流し恥もしない悪質な東京マスコミの報道を無批判にうのみにする県外人達の民度は、低落しきっているというべきだろう。本質的に問われているのは公徳を問う政治民度なのであって、有権者のうち投票した人が完全にどちらかに偏らなかった点で、茨城県民の選挙権の精度は決して劣っているとは言えないどころか、やはり総じて高いのだといえるのだろう。
 緻密に再分析した結果としても、今後4年間、大井川県政が橋本県政時代を超えた実績を残せない限り、単に自公を中心とした扇動政治屋によるテレビ政治の影響で県民が堕落していた結果であると判断しなければならない。そして徳に関する古道という意味においては、県民の約2割は忠義より放伐による裏切りを選んだのであって、武士道に反するというべきだ。勿論、武士道イデオロギーなど既に時代遅れであるという批判は理解できるが、更に根本的には、県政の風紀や伝統を作っているという解釈もできる。橋本氏は決して悪政をしていた訳ではないどころか、凡そ善政をしていた。原発という過ちも改めると明言した。それにも関わらず県政を変えようといって放伐を行った大井川氏は、一体何を期待されて当選したかといえば、東京都民の1人である田中章雄による偏見的な統計による地方差別という公的犯罪への対策が第一なのだとしか言いようがない。その他の点について、ICT推進という面は第二に期待されていると考えられる。橋本氏が対外発信メディアの主役なのでは基本的にない。対外発信メディアは、テレビ局の様に民間企業が行う。行政の長がメディアの長なのではない。寧ろ表現の自由を鑑みれば、県庁がメディア的に扇動力を持つ方がよほど悪質だというべきだろう。政府が媒体発信力を持ったらそれは単なる公的情報の公知のみならず何らかの政治イデオロギーに関する喧伝に使われる事だろうし、その種のpropagandaで現に失政を隠蔽する事ばかりしてきたのが日本政府、大本営なのである。田中章雄と東京都のマスコミ関係者そしてその他の日本国民が地域差別を平気で行い、しかも無知を恥じる事のないだけ悪質な衆愚なのだ、という事を、行政人がどう変えろというのだろうか。実質、不可能な解決課題だとしかいいようがない。もし行政としてなしうるとすれば、強権政治によって田中章雄を訴え勝訴する、或いは国会か内閣に訴えて、その種の地域差別的偏見報道を法的に制限させる事だけである。前者については類似の判例があるが、勝訴する可能性と量りにかけて行うというきわどい綱渡りになる。後者については首相または与党議員が報道管制に直接言及せざるを得ないという意味で茨の道である。どちらにしても、県庁単位で地域の宣伝をするについては、多かれ少なかれ政治的喧伝行為とならざるをえない面で、禁じ手に触れ易い。
 かつてイギリスがクールブリタニアのキャンペーンを打ち、YBA(Young British Artists、若手英国人芸術家)と共にハイアート業界との協働を行った。韓国政府も民間のKPOP業者と組んで同様のPRを行った。日本政府は遅れて、サブカルチャーを利用してクールジャパンの活動を行おうとした。これらは経済的に沈没していく途中の斜陽国とか、政治的原因や競合との関係で汚名を着せられているか人気に欠ける国が、何らかの芸術界の人気にあやかって自らの後光効果に利用しようとしたものだった。また京都府と京都市は日常的にこの種の目的での古都・文化遺産PRを常態として行う慣習があり、当人達の中では観光業及び自尊心を高める表裏を使い分けた自己宣伝の方法論として用いられている。つまり政治界または行政組織が人気取りのため、何らかのPR活動を行う時は、それぞれ目的が異なるにせよ、個人や民間の事業または過去の遺産を政治目的に流用してきたのだ。対してわが県はどうかといえば、確かに華風月や和楽器バンドの鈴華ゆう子氏、或いは喜劇役者のピース綾部氏、グラビアアイドル出身の磯山さやか氏など主に県出身者のうち何らかの大衆人気がある気鋭の若い人々を使ってネット上でPRを行ってきた。橋本氏は十分PRしてきたのだ。それでも魅力度調査の結果は変わらない。なぜなら総合ブランド研究所の登録者である数千人の調査対象者が、毎年行われているウェブアンケートでわが県に高い評価を入れる誘引がないからだ。ここまで短絡的な事なのである。その数千人の調査対象者が標本として一般大衆に対して不正確であるから、所詮結果に偏りがある。当然そうだろう。東京のマスコミや一般大衆にその種の統計学的理解など到底ない。だから日本国民という人々は汚名やスティグマを与え、平気で差別し、偏見や色眼鏡で或る地域を攻撃し、ひたすら虐待して面白がっているのである。
 大井川氏は自サイトで、はじめから海外に向けてPRをする事を主張している。

「魅力度ワースト1からNo.1へ」プロジェクト推進

  • 茨城魅力度発信戦略【ネットメディアをフル活用した海外市場開拓を強化し、日本より先に海外で話題作りをするなど、新しい手法による発信力強化】
http://k-oigawa.jp/policy/dream.html より
これをみると、日本国民という硬直化した村社会的集団、いやいわばテレビ厨やニコ厨の様な日本人ネット衆愚を無視し、海外における評判を勝ち取ろうという公約の様に見える。彼はワシントン大学ロースクールを卒業していると、またマイクロソフトアジアを経験しているという事から、恐らくインターネット上で行政主導の宣伝サイトを作ろう程度の考えなのかもしれない。そして日本人は外圧に弱い、或いは海外崇拝の気質があり、特にアメリカに劣等感を持っている上に福沢『脱亜論』以来の西洋崇拝の影響で米国はじめ西洋圏での評判を直接あげれば日本側が手のひらを返して追従してくるのではないか、とみているのではないだろうか。なるほどその種の傾向は、確かに日本人には存在するだろう。そして主に茨城県域に行政力を最適化してきた橋本氏に比べ、多少なりとも海外経験のある大井川氏の方がまだ宣伝できるのだ、と大井川氏は踏んでいるのだろう。果たしてそんなにうまくいく戦略だろうか? 私の意見をここで述べれば、問題はそんな所には全然ないのである。
 この問題の核心は、茨城県が保守的な自治体である、少なくともそう見なす方が好都合なレッテル張りが日本国民側に潜在しているというところにあるのだ。それは行政がそうだからなのではない。県民が保守的だ、と見なしたいのである。その保守性は他の日本国内の自治体と比べて、相対的に保守である、という意味であり、絶対的な保守ではない。宣伝しようにも(特に西日本を主とした、茨城県に全く無知な類の)日本人一般にとって茨城県の長所も短所も、この決定的な保守性にかなりの部分含まれてあるのだから、どれほど外国人に同様の面を我々は保守的なのだと説明したところでへえそうなんですね、としかならない。無論、イギリスも大いに保守の面がある国だ。日本全体も保守の傾向がある国だ。自民党が強権政治を長期的に行ってきて天皇制が敷かれた国民性は極めて保守的としかいえない。だが魅力度云々で日本国民達が侮辱しているのは、この保守性の事なのである。彼ら日本人一般の脳内では、保守性は田舎と結び付けて認知されていて、保守的であることは「田舎い(これをダサいと東京人が俗語で呼んでいる)」のであり、軽蔑すべき反面教師であって、それとは逆に進歩的であるか革新的であることが格好いいことにされている、というわけなのだ。価値観の根底にある評価基準が違う。或いは茨城県には先進的な面も大いにあるのだ、と述べる事は全く正しい。勿論、各種工学面でも思想面でも天下の魁である。だから保守性という茨城の本質的特徴のある部分が、強調されて捉えられていること自体は完全に偏見なのだというしかない。なぜこの偏見が流布されているかといえば、東京との対比効果である。大衆は複雑で緻密な思考より安易な単純化やレッテル張りによる偏見での情報処理を、脳の経済の為に好むといいかえてもいい。だから平均IQが低い人達にとって、それはテスト成績からいえば西日本に余計その傾向があるが、関東地方を南部で分断し、南部は進歩的で模範に足り、北部は保守的すなわち後進的だから反面教師なのだと偏見でレッテル張りし差別で済ます事が、最も楽だったのである。これが、橋本県政下で茨城の張ってきたステルス性の本質にあった情報の一部であり、この種の偏見の煙は、実はわが県にとって大いに好都合だったのだ。橋本氏が意図して県外人を誤解させたままにしておいたか、偏見の強化を図ったかは差し置いて、実際に煙幕的に茨城県側の何らかの先進的な情報を県外に容易に認識させないという情報の非対称性が実現してきた。戦略的にこれが正しい、という事はこれまでもこのブログで説明してきた。大井川氏と、県内の商業都市部住民は、まだこの種の情報非対称性、ステルス性による利益を認知していないというべきなのだろう。
 東京都はテレビ局をはじめとした大規模な情報発信機関を民間に無数に立地させ、しかもそれらが商業と緊密に結びついた組織になっているため、その情報を発信する東京人の利益になる偏見、多くは自慢とか自画自賛とか、対照的な個性を持つ都外の自治体や対象物を差別したり蔑視したりする事による自己宣伝を図る慣習が蔓延している。この傾向はパリ症候群の類である東京症候群を生み出す原因ともなり、遠勝りの効用追求を実質的なスラム街での輝かしい自己イメージの喧伝で行い続ける、という自己偶像化をもたらす。元々この空威張り、虚栄という文化気質は、徳川宗家や天皇家が地方人の次男以降の掃きだめである町人・商人社会に深く植え付けたものかもしれない。西日本の様に東京に一度も訪れた事のないか深く知るまで住んだこともなく、テレビを通じて眺めた機会しかなく、このメディア上の嘘や自慢偏見を信じる衆愚状態にある人々が多数派の場所では、現実と幻想がいれかわっている。東京都民はこの種の仮想を詐欺に応用してきたし、今後もしていくつもりだろう。だが、大井川氏の目指す筈このメディアバイアス・媒体偏見による地域の外の人をだましたり欺いたりする慣習は、本当に賢明だろうか。はっきりいえばレモン市場問題にあるよう、情報の非対称性を明らかに悪用しているという意味で、期待値を過度にあげて実質が劣っている自己を売りつける、商業的にも詐欺に類した業者たらざるをえず、もし取引相手、ここでいえば評価する主体が愚劣であればあるほどこの種の偏見の植え付けが効果を持つのだというほかない。フランスのパリは、京都はどうなったろう。観光客だらけとなった末に、経済的に凋落した、もしくは落ちぶれつつある。これが近い将来の東京である。情報戦略上、間違った方向性をとってきた為、必然的に没落する。実のない宣伝は害毒である。いや、実があっても宣伝は害毒なのだ。堅実な商業者は堅実な取引相手を選好するべきであり、それはいわゆる地元客や固定客が殆どだろう。嘗て京都にも、祇園という高級遊郭でに過ぎなかったかもしれないが、一見さんお断りという慣習があった様に言われてきたが、現在の商業主義化した国際通俗的な山城国にその面影はない。その種の戦略は、目先の観光収入に蹂躙されて消し飛んでしまった。
 橋本氏の執っていた情報戦略は、彼自身の意図と一致していたかどうかとは別に、全く正しかった。それは行政面でも情報非対称性を生み出し、常に県民優位になる様な受信優先体制を構築してきた。大井川氏は何を宣伝するというのだろう? 東京都民が愚かにも行っている類の、とるに足らない自慢だろうか? 勿論、ひろいあげれば県内にも、他国や他県と違いのある有用な物品やら情報の束やらはごろごろ転がっている。そしてそれを何らかの意味で商業と結ぶことも、意図してやれば多少あれ可能かもしれない。だがこの種の宣伝はわが県に不利な結果をもたらすと断言できる。一般的な県や地域は、中程度の情報非対称性があるに過ぎないだろう。またマスメディアを持つ主要都市は、発信優位の情報非対称性をもっているだろう。比べてわが県の優位性は受信優位の県環境にあったのだ。県外人がどれほどわが県を誤解や偏見で侮辱して差別してきていたとしても、それらが県内の情報のうち何らかの面が、最も他県民の為になる場合ですら、わが県の或る個性に有利でない場合、情報非対称性が存在する方が有徳なのだ、と判断できる。現実の経験で、県外人がわが県の何らかの面に否定的な態度をとっていたとして、その人が何らかの意味で有利になるだろうか。もしそういう態度をとっていたとしたら、その人はわが県について殆ど何も知らないか、保守性または一般的な失敗を示している何らかの点を、新しさへの狂信や反対例から比較して侮辱しているにすぎないのだ。
 詐欺の反対概念が堅実だとすれば、地域への肯定的偏見が初めからない方が、明らかに実力を証明し易い。この意味で受信優位の情報環境を今後も構築していくべきでしかありえない。日本国民一般が今後も、茨城や北関東への差別や偏見を強化していき、京都や北海道・沖縄への逆差別や贔屓感情を更に極端に持ち続けていく方が、実際にはわが県と県民の利益や幸福にとってプラスなのだというべきだろう。この結論は、確かに常識的な見解とは矛盾していると思えるかもしれないが、この課題の本体に見いだせるのは日本の情報環境における政治戦略の差異なのだ。
 更に次の時代を見据えた分析をここから述べれば、今後、日本国の各地は経済衰退期に当たって少ない利益を奪い合う構図に入っていく。その中では他県への敵意が顕在化し、これまでとは比にならないほど他県からの搾取が横行するだろう。当然この市場闘争を前提とした時代にあって、他県民にその地域の情報が知られている事は不利でしかなく、そのばあい共有地の悲劇が起きる。そして国際経済環境も変容の為、国内取引の機会費用が増大していく。つまり自国民への差別偏見による機会費用の節約という悪しき慣習はますます役立たなくなっていくのだ。偶然、北関東は情報障壁によって県外国民による機会費用的な取引状況から多かれ少なかれ守られた構図にある。いわばブランドがないことが有利な条件をもたらしてきている。市場における競争が激しくなるとは、ますます詐欺と堅実の間で費用対効果が試される過程なのであり、ブランド依存の企業は淘汰され易くなる。既存のブランドイメージを利用して利益を占めようとする傾向の自治体は、確かに一定の有利な条件から出発しているかもしれないが、それは過剰評価されるという前提にあるのだから、徐々に凋落する可能性が高くなるのは否めない。経営学でいうhalo、gain、loss効果(halo・ハロー、後光:何らかの特徴が全体の印象に影響。gain・ゲイン、得:最初の印象が悪いほど相手のプラスが目立つ。loss・ロス、損:最初の印象が良いほど相手のマイナスが目立つ)について言及すれば、茨城の実が優れていればいるほどそれを卑下や謙遜し、相手側に低評価のhaloという幻惑を持たせておいた方が得し易い。だから最も高徳なのは、gainを究極する様な、無意味で害のない悪印象のhaloで自己隠蔽しておくことなのだ。既にこの点については完成段階にあり、あとは実質を強化していくだけでいい。行政については全く発信力を抑制し、飛耳長目のあらゆる情報収集とその適切な管理に特化しつつ、宣伝は県民自身の利益になる範囲のみで民間人による市場原理に任せておくのが最も賢明なのである。沈黙は金、雄弁は銀こそ行政人についても当てはまる最善策なのだった。そして橋本氏はこの黄金律を知ってか知らずか踏襲していた。だから今回の選挙で県民のうち大井川支持者である2割は、単なる多数政治狂信者であるか、自己利益を公的忠義より優先する悪意の裏切り者であるか、自公の喧伝活動に扇動された愚民だといってもそれほど外れてはいないだろう。


2017年8月28日

茨城県内の職場

 職住近接が自主出生率の向上に繋がる以上、茨城県内にできるだけ多数の職場を作り出す事が、わが県の経済成長率を高める事になるだろう。対して東京圏との交通はできるだけ遮断するべきだろう。こちらはストロー効果によって県内経済を沈滞化させてしまう上に、犯罪率の上昇や低俗化、また郊外からの通勤というロスタイムによって出生率まで減少させ、他の東京圏自治体と同様の失策となるのだからだ。


大井川県政について

 橋本氏の功績はどれほど強調してもしすぎはないだろう。明らかにこの県がここまで発展してきたのは彼の有能さがあってこそだったのだし、現に東海第二原発による致命的被災から免れているのも彼の功績に他ならない。特に農工両全の潮流が果たした質実剛健な県政は、彼の茨城県に対する深い愛と思い入れを示しており、今回の選挙結果をみても総じて商業者に偏った都市部しか刷新を求めていない傾向にあったという意味で、中央政界に及ぶ経済強者の横行に対して水戸徳川家の思想を受け継ぎ農本的に全県民あたりの不公平を正し、堅実な県政によって地固めをした素晴らしい公選王政の期間だったというべきだろう。
 対して現状の大井川氏の政策理論は、水戸、日立、筑波の各商業中心都市が主に求めているだろう新産業、つまりは彼らの脳内ではIT業なのだろうが、そこへの政治的助成や何らかの補助政策を喚起するものだったといえる。経営学によれば、後発者にとって模倣は創造より費用が安い。この意味で、大井川氏は自民党と経産省をはじめとした官公庁に何らかの口利きをし、茨城を東洋のシリコンバレー化するつもりだろうし、実際にそれは筑波界隈等で可能かもしれない。現実にそれを推進するよう早速、大井川氏に県民は圧力をかけるべきだろう。この意味で農工両全の潮流を脱構築する可能性が大井川県政にはあると捉えられ、それは日本政府が日本経済全体の沈没中に望むところでもある為、自公政権は茨城県民に恩義があるうちに、茨城県域へのIT特区の設計に全力を費やすべきだろう。
 今後の先進国経済は金融とITを中心に成長していくことは明らかなのだから、農工業に関してはGDPに占める割合が更に減っていくことを前提に、省力化を図る方針に進むべきだろう。最少人数で最大の利益を図る事が農工業の今後の方向性であるべきで、効率を求め機械化や自動化を更に推進するべきなのだろう。第六次産業といわれる高付加価値的な農業、また農家を脱農協により会社化するといった方向については理論上可能としても、英仏米、或いはブランドに依存していた夕張市の様な先例を見る限りは、こちらは各種の県内農業政策上の規制緩和や民営促進策による自由競争市場に任せるしかないのだろう。グリーンツーリズム、或いは田舎住まい、週末の農村体験等の需要については、県民側の幸福に寄与し利益になる範囲でのみ実践するべきだろう。
 問題は、これらの新政策のうち、IT業をシリコンバレーの模倣によって仮に成功させたとして、それは模倣都市、つまりkitschな第二カリフォルニアにしかならないということだ。勿論それでも満足だという人もいるだろうが、私にいうことができるのは、シリコンバレーのIT技術者達はITを目的にああなったのではなく、アメリカのpragmatismに基づいて資本経済に適応しようとした結果、最も利益のえられる分野に集積した、ということなのである。しかもはじめはスタンフォード大学辺でショックレー研究所にいて軍需の下請けにあずかっていた人々が、のちのインテルなどを興して。だから茨城県政が産業育成面で今後なすべきなのは、実は模倣そのものではなく、またITの追従でもない。士農工商のどれであれ、単に利益の最大に上がる分野の市場を最大限に伸ばすこと、つまり国政県政が何らかの規制によって民間人の利益追求を阻害しない様にするばかりか、その種の高利益分野を減税によって集積することができるにすぎないのである。勿論これは調整、或いは福祉に対して格差拡大として働くものでもあるから、県民の幸福度からいえば累進課税と医療介護・教育・生活保護によって世帯所得の平準化を図った方がよいのであって、矛盾を孕んだ考え方だ。シリコンバレーの闇まで模倣する事なしに、即ち格差拡大を避けながら更に高利益率の産業構造に県の経済界全体を推移させていくのが、大井川県政に求められている課題なのだということができる。この格差は少なくとも県内の地域間、世代間を問わない。主に所得格差についていえることだろう。
 一言でいうと、茨城県は経産省と協調しながら県単位でBI(Basic income)を実験し(つまり社会保障の一本化によって再分配時にも徴税時にも節税し)、所得格差が開きすぎない様にしながら、シンガポールやシリコンバレーそのものより進んだ形で企業と個人に大幅に減税を行ったIT特区、金融特区を県内の特定地域に集積させる事で、高付加価値な新産業の誘致を進める事が有益なのだろう。結果、世界から安定した生活を求めてやってくる人口増大の効果も得られるはずだ。この政策が成功したとき、北欧型の高福祉な幸福な国家と、米国型の強い産業がわが県にあって調和しうるかもしれない。専らこれらの新産業と既存の十分強い農工業の両立を図りつつも、日本又は世界全体で最も所得の高い地域になる事をわが県は目標にするべきだろう。
 また懸案の魅力度問題については、今までの分析から県外人の無知が原因であり、その県外の無知はわが県に対外発信のマスメディア、特に地上波テレビ局がないため、ステルス的効果を持っている。そしてこの点は、皇居や政府があり人口最多な首都として、国内に対して傲慢な差別感を持ち、特にメディア依存度の高い東京都を含む南関東や、全体として所得が低く国内旅行に使う余裕もない上、そもそも東京以外の東日本に対して無関心な西日本に、茨城県そのもの(と北関東)への更なる誤解を招いているということだ。日本のネットの衆愚民度は真実を探求するより、自分達に都合がいいサイバーカスケード現象による炎上を広告収益を目的としたマスマーケティングとして好む為、このステルス性は東京以西の衆愚による、誤解に基づく偏見や地方差別的報道とその鵜呑みという状態をもたらしている。これがこれまで分析できたことであった。そして橋本県政にあってこの現象に対して県庁によるネットテレビ(いばキラTV)の開局や、おはよう茨城の打ち切りと磯山さやか氏による「旬刊!いばらき」による発信、銀座のアンテナショップ・茨城マルシェ等での情報展開を試みているが、これらはマスマーケティングとずれがある為、西日本の大衆一般に訴える内容ではなかった、ということになる。魅力度調査(ネット上の偏見を集めた類のもの)をしている東京の小さくて底意地の悪い犯罪的会社・ブランド総合研究所の田中章雄によれば、わが県(とおそらく同様の傾向を持つ関東北部)に関する情報をほぼ全く持っていないし関心もないのは西日本だということがわかっている。また東京圏は「都会」に憧れてでてきた地方人の塊であることもあって、農地面積が日本一の茨城を(彼らの故郷であった、何らかの事情で捨ててきた)「田舎」としてカテゴライズし、主に合理化(酸っぱいブドウの論理)による捻くれた物の見方で蔑視なり差別的言辞を吐くという悪質なもしくは低俗な傾向も持っている。これらすべての事情を顧みると、大井川県政が魅力度問題に対してどんな解決策をとろうとするのか注視する必要があるといえるだろう。ニコ動(ニコニコ動画。動画投稿のウェブサイト)に関係を持っていたことを利用して、ネット衆愚やニコ厨(ニコニコ動画のマニア)に何らかのアプローチをするのかもしれないし、その種のネットテレビ関連の発信局を強化するのかもしれない。ただ、私としていえることは、茨城のもってきたステルス性は孔子や孫子の哲学を水戸学を経由して延伸させてきた根強い徳目によるのであって、それは単に今の時点においてのみならず長い目でみても、わが県の得であると考えられる。情報の非対称性が茨城側に有利になるよう県全体の情報条件を維持促進するべきなのだから、発信力を強化せず、むしろますます受信力を再強化するべきであって、あらゆる情報収集機関をわが県に集めていく方向にさらに進んでいくべきだと思う。マスメディアは衆愚に効果があるが、賢者へはそうでない。欧米側でマスメディアをうのみにする傾向は非常に低く、単にG8先進国では日本だけが扇動に弱い衆愚社会なのである。日本の県であるからこの傾向に合わせるべきだと思うかもしれないが、独自性とはその種の横並びを拒否する事なのである。少なくとも、西洋でも東洋でもマスメディアの扇動に弱いというのは欠点なのであり、県民自身が批判的思考力、懐疑的な物の見方を身に着けている上に、発信より受信を選好する傾向の徳目を有しているという事が望ましい文化性向に繋がると自分には思える。この最後の発信力の抑制については諸意見あるだろうが、「沈黙は金、雄弁は銀」という諺がある。何らかの無知に基づく偏見によって、非科学的なり不道徳に誤解する県外人が侮辱的態度や差別をしてくるとしたら、彼らが損害するだけである。我々茨城県民側が科学的に正しい情報を受信し取捨選択でき、県内外で自分達の功利性(即ち県民及びその他の人類の最大幸福)に合致する様に道徳適応できることが合目的なのである。
 大井川氏は日立出身なこともあり、これを機に茨城県を元来のひたち県に戻す事を主張したい。漢字は常陸(ひたみちに由来したもの)と日立(義公によるもの)があり、風土記によれば浸しにも由来があるが、単にひらがなでいいのではないだろうか。それは全国で唯一のひらがな県名にもなるし、日立製作所によって国際的にも有名だからだ。


2017年8月24日

公共施設の屋上のテラス化について

 災害公営住宅や市立図書館、市民病院の屋上は、市民の憩いの公共空間として簡単な植栽をし、椅子とテーブルを設置しテラスにして誰でも気晴らしができるよう開放するべきだ。

国道を渡る架橋

 磯原町から図書館の前を通る遊歩道は、国道を跨ぐ箇所をも橋の下を潜らせるか、別個に歩道橋を設けるかして、天妃山、雨情記念館、磯原海水浴場、二つ島、大津漁港、六角堂、五浦美術館と回遊できる様にするべきである。国道を渡るのは現時点では危険だからだ。

回天神社の世界遺産登録

 水戸市と茨城県は回天神社を、偕楽園、弘道館と共に世界遺産登録するべきだ。回天神社は、欧米列強の植民地化の脅威の前で、近代化に際して自発的な政治革命行為により、日本はもとよりアジアで最大の犠牲を払ったのが貴族の義務を果たした水戸藩であると人類の歴史遺産として証明しているのだからだ。

2017年8月12日

TXにまつわる東京圏との切断論

TX、茨城空港延伸で期成同盟会設立へ 小美玉と周辺5市

この手の東京圏との接続は、茨城県にとって不利で有害である事を認識するべきだろう。ストロー効果を避け都内との交通を遮断する事、勿論、新幹線や幹線道路なども水戸との接続を最優先し、東京圏との交通はむしろますます不便にしなければ県内経済の発展はありえない。県南自治体は目先の利益に飲まれ結果的には、他の衰退地方、或いは東京圏の自治体と同じ失敗を犯しているのに自覚していないということだ。

 茨城に望ましい交通網は県内の中心都市とその衛星都市に対する利便性が最大で、接続性を高める自治体はこの中心都市、今日でいえば水戸市より規模が小さな都市でなければならない。国家にとってもこれは然りで、首都圏において実際には交通可能でありながら関東平野の大部分を占める上に都市計画の分散がうまくいき人口密度が低い状態の茨城が東京のスプロール、虫食いに毒される事は、首都圏内における政府機関の分散(これが集積の利益からいっても最も望ましい未来である)に対しても無意義だというべきだ。つまり茨城空港と幹線による接続性を高めるべきなのは水戸市、いわき市、宇都宮市、前橋市、そして日立市の方なのだ。勿論つくばと茨城空港の接続に需要があるのは明らかだが、これに伴う県内にできる幹線沿いの衰退は免れない。便宜的にこの不利を解消するには、TXではなく茨城空港と筑波の直通シャトルバスを運用する方が合理的だといえるだろう。退廃した東京都との縁を切る事、これが必要だ。



偕楽園を世界遺産へ

 千波湖と弘道館、好文亭を含む偕楽園を世界遺産に登録するべきだ。これらは私邸の一部を公に開放したものとして世界一の広さを持つ都市庭園であり、東洋文明における天下の先駆けとしての近代化への自主的な先駆意志、好文木としての学問の志、愛民思想に基づく戦時への備えなど梅にまつわる故事からも世界遺産になるのに全くふさわしい普遍性を持つ精神的価値を有している。「尊王攘夷」の思想、つまり『大日本史』に由来した(易姓革命のない)万代一系による独自性の自覚や、攘夷論にみられる欧米植民地主義への世界史的な意図に基づく抵抗の意思は、思想史における重要な独創性と根本的な転換点を示しており、近代化した日本の独立を保つ原因となった文化遺産であると、偕楽園(弘道館を含む水戸市街の、水戸徳川家による歴史遺産)は評価される。この考えは欧米列強による世界大戦や国連での人種差別を終焉させる最初の起点となっている事が、偕楽園(弘道館を含む)のもっている真の意義である。有色人種への差別や搾取、奴隷化、迫害に対する勇猛果敢な抵抗、そして水戸武士道の根本にある世界平和主義。この様な精神的意義を英語や中国語を含む世界の言語で、或いは実体験によって世界人類すべてに知らせる事が、ユネスコや日本政府が茨城県及び水戸市と共に偕楽園を世界遺産に登録する重大な地球的文化行政上の義務である。


2017年8月7日

東電と田中章雄への行政訴訟論

 東電による外部不経済である「電柱の景観に対する害」「電柱の災害時の危険に対する無策の害」「災害時の電柱による害」を、諸外国では電力会社による公害として無電中化を進めてきた事例から、東電の費用負担による市内の無電柱化を求める行政訴訟団として、北茨城市が原告となって東電に賠償させるべきである。更に、水沼ダムの底や北茨城沖での放射性物質の堆積、及び市内の海水浴場や市内小中学校等における放射線データとを証拠データとして、市内で起きた観光客の減少、観光収入の減に関しても、同様に市内原告団を形成し、東電に賠償させるべきである。
 前者の賠償費用は当然徴収されねばならず、即ち東電の費用負担で市内の無電柱化を果たすべきなのであって行政すなわち被害者である住民の費用負担によって行うことは明らかに不正なのである。更に市内で増大してきた観光客減に関しても責任は、風評及び市内の放射能増大による実害をもたらした、東京電力にあるのだ。これらを行政努力によって解決しようとするなら、先ずその費用負担は、税収からなる国民政府の側でなく、東電側にあるのだと認識しなければならない。
 これらに加え、ブランド総合研究所(〒105-0001東京都港区虎ノ門1-8-5)の田中章雄を被告人として、北茨城市が茨城県代表として魅力度調査による10年以上にわたる経済被害に対し、行政団体(即ち法人格としての県民)への名誉棄損として行政訴訟を起こし、賠償をとる必要がある。北茨城市をはじめ茨城県において魅力あるとみなせるあらゆる証拠を集めて、田中章雄が偏見による少数者のネット風説をさも、国民総意かの如くにマスコミ各社に売りつけ流し、300万県民へ与えた心理的・精神的・経済的・政治的名誉とブランド棄損に関してはっきりと、裁判において責任を取らせ、少なくとも数十億円以上の賠償を確保するべきだろう。

2017年7月29日

北茨城美術収集促進条例案

 北茨城市は、市内で美術品への相続税を0にし、また五浦美術館や市内の私設美術館・画廊等への美術品の寄付については国内外の市価分の税控除を図る条例をつくるべきだ。この制度がうまくいった場合、茨城県についてもこの条例を充てるべきである。

2017年7月26日

龍ヶ崎市名について

ざっくり言うと

  • カッコ良いと思う「市の名前」をランキングで紹介している
  • 1位は茨城県南部に位置し、東京へ通勤する人も多い龍ケ崎市

1位は茨城県の「龍ケ崎市」!

茨城県南部に位置し、東京へ通勤する人も多い茨城県の「龍ケ崎市」が堂々の1位に輝きました。
「龍」という文字が入っている事、「りゅうがさき」という語感が、見た目にも音的にもカッコ良いと思われたようです。
正式に「龍ケ崎」という表記なのですが文字の画数が多いからか、「龍」が「竜」に置き換えられたり、「ケ」が「ヶ」になっていたりと、市内でも表記が安定しないという不思議な市名でもあります。
http://news.livedoor.com/article/detail/12914959/
https://web.archive.org/web/20170726085421/http://news.livedoor.com/article/detail/12914959/
 茨城県龍ヶ崎市がこうしてかっこいい市名で1位になったため、この市名を県内外で宣伝する際に用いる必要があるといえる。龍ケ崎コロッケや龍ケ崎トマトがブランド名として有効なことが証左される。

2017年7月20日

茨城ソーラーシェアリング促進法

 茨城県と北茨城市は、水戸電力と協働で茨城ソーラーシェアリング促進法を作り、畑や田んぼ、駐車場、家屋とビルの上にソーラーパネルを設置した場合の税控除と、水戸電力への売電分を減税する法を通すべきである。但しこれらは既存の土地家屋ならびに農地のソーラーシェアに関してあてはめるべきで、自然破壊については補助しないようにする。県や市の税収が直接上がる結果にはならないかもしれないが、他に取られている電気料金を水戸電力へのクリーンエネルギー余力にできる上、県内のパネル設置業者と工事への公共投資になり、しかも県内個々の家庭の平均所得が上がることが確実である。
 これによって農地面積が1位で県土が平坦かつ日本最大の関東平野を持つ特徴を生かし、自然エネルギーの先進県として世界を最も先駆けることができるだろう。

2017年7月19日

廃炉に関する分析

 先進国で最大の原発立地国フランスは、会計検査院の勧告により最大17基の原発の廃炉を発表最大17基を廃止すると発表した(NHK BS)。19箇所にある58基のうち老朽化した原発から廃止する。これにより原発による電力を25%削減できる。
https://twitter.com/yuiyuiyui11/status/885096091753918464
 原子力規制委員長・田中氏「再稼動の判断には関与しない」
 内閣菅官房長官「原子力規制委員会が安全性をチェック、その判断にゆだねる」
 原発立地自治体・薩摩川内市の岩切長「国が責任を持って再稼動を判断すべき」
https://twitter.com/MabANmD35bQyIT0/status/885141028310614016
 これらのニュースからいえることは、日本では責任をおしつけあってなあなあにし、責任転嫁する事による保身を図る政治が行われており、全国で最も老朽化している東海第二原発の再稼動の可否についてすらそうなのだということだ。そしてこの国民性は世界大戦以前から続いてきたものであり、決断力のなさ、責任を取って身を切る覚悟のなさ、集団責任論、責任回避、保身、逃げ、危険回避傾向などがあてはまるだろう。天皇家が敗戦時に保身を図って存続した事も、全くこの国民性に合致している。一言でいえば幼稚なのである。尤も、共謀罪を手にした安倍内閣という強権的な独裁政権が支配中の国政に対して反抗的な言動が危険である事は確かなのだが。
 老朽原発の危険性が明らかの上に原子力事故が複数回起き隣接自治体では世界最悪の大公害が起きたばかりなのだから、脱原発を図る方針転換にいたるのは誠に自然な事なのだが、日本国民の民度(特に西日本)からいって、この種の進歩的な言動を抑圧・弾圧しようという衆愚的な保守派がいることもまちがいない。だが謝った見解を恥じない悪意ある衆愚からの風評を気にするより、わが身の安全を図るべきだろう。すなわち日本で唯一、廃炉に全面的に成功した自治体(そして最も先に商業原発に成功してきた自治体)が茨城となるよう率先垂範すべきである。
 東京五輪をかかえた東京都庁は、原発事故の恐怖をかかえているのだから、首都圏にある老朽原発を廃止せよと茨城が(東京や主要マスコミに)強く出る事は都民の利益にも叶うと説得し、また当然の事ながら日本ですら廃炉に成功する可能性があると実証するのは国益にも叶うと政府を説得するべきだろう。この際、東京には主につくば圏への人口分散促進案を要望し、政府には廃炉後の代替産業に関して、人口減への対策として東海村から県北地区へのIT特区と金融特区(投資家育成特区)の申請要望を図るべきである。


県北成長案

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52032?page=2
石破 (略)
また、基本的に地方のほうが出生率は高いのですが、所得が高いわけではない。一番所得の多い東京の出生率が最も低く、一番所得が少ない沖縄が最も高いんですね。

では、出生率の高さは何と相関関係があるのか。この謎を探っていくと、どうやら一番相関係数が高いのは、平均帰宅時間と通勤時間なんです。

東京や神奈川みたいに、往復1時間半も電車やバスに乗っていると自由に使える時間が減るので、子供をつくる機会も少なくなってしまうわけです。

 この記事でわかることは、県北の経済成長を図るには、水戸・日立・つくば・いわき等県北圏の主要都市のとの利便性の高い(移動時間が短縮でき安価で大量に輸送できる)交通網を整備するか、県北地域自体に企業誘致活動をするか、どちらかだといえる。


2017年7月10日

海岸線の斜面の手すり

 下桜井海岸の新しい堤防は、道と傾いた下水に続く斜面の間に何の手すりも境もなく、地面の色も同じために、高齢者や子供が転落したら事故になる可能性があるため、地面の色をかえるか、警告色で斜面部分との境を塗るか、手すりを境につくるべきだろう。

2017年7月7日

茨城美術免税制

 茨城県政は県内美術館への「美術品」の寄贈を市場査定額分だけ免税する、茨城美術免税制度を設けるべきである。既に米国で同様の法がアメリカ美術を牽引してきた事を明記するべきだろう。

2017年6月29日

ひたち県改称案

 いわきFCに倣って茨城県の名称をひらがなの旧国名「ひたち県」に改称するべきだろう。それによって強制的に目立つことになるからだ。


2017年6月11日

エネルギー多岐化

 東日本大震災時に電気供給が一時停止した事例からも、わが県わが市では、最低でも緊急車両はガソリン車を含めて保守した方がよい。エネルギー源の多様性、多岐性を確保する事が望ましい。
 オランダで2025年までに電気自動車以外の販売を禁じるらしいが、明らかにいきすぎというべきだろう。

2017年5月28日

世代間調整福祉論

 老人の介護施設や奉仕を充実させつつ、若者へ経済的支援を充実する事が、適切な福祉政策である。世代間所得調整を要とし、県がタンス預金を公共投資や、若年者への経済支援策に回すべきなのだ。この逆をいっているのが東京で、2020年に老人が過半となった時点で介護施設が不足しており、大量の非正規雇用者をかかえこみ、不幸な社会となるだろう。

芸術政策論

 京都では「文化」という用語で、過去の伝統工芸、建築遺産等を観光・宣伝資源にしているといえる。文化庁も古典に関してこの種の業務が主だろう。これらは過去の記録に関する後ろ向きの見解を固定化する役割をもち、創造性に対しては抑圧的な働きを持つだろう。わが県ではかれらを反例に、「芸術」あるいはart(技)によって創造的、創作的、独創的な営為を奨励するようにすればよい。

廃炉論

 東京都民は個人の利益以外は基本的に追求しておらず、個々の東京都民の利害損得以外によっては行動しない。東海第二原発は「東京都民個々人にとって損害である上に、東京都民が保有する原発である」という喧伝活動によって、都民を誘導して停止する以外に方法はない。この種の情報をマスコミを通じて都内に流布し、東京五輪はじめ東京・横浜が壊滅するという事実で、廃炉に向けねばならない。

2017年5月14日

『常陸国風土記』前文

 常陸國司解 申古老相傅舊聞事
 夫常陸國者。堺是廣大、地亦緬邈、土壤沃墳、原野肥裄、墾發之處、山海之利、人人自得、家家足饒。設有。身勞耕耘、力竭紡蠺。者。立卽可取富豐、自然應免貧窮。況復。求鹽魚味、左山右海、植桑種麻、後野前原。所謂。水陸之府藏、物産之膏腴。古人曰。常世之國、葢疑此地。但以。所有水田、上小中多、年遇霖雨。卽聞。苗子不登之難、歳逢亢陽唯見、穀實豐稔之歡。歟。

 訓読:それ常陸の国は堺これ広大にして地もまたはるかなり。土壌うるおい原野肥えわたる。墾發するところなり。山海の利、人々自得す。家々饒に足る。もし身を耕耘に労い力を紡蚕につくす者あらば、即ち豊かに富取るべくして立ち、自ら然りして貧窮を免れるに応ず。況や鹽魚の味を求め復すに左は山、右は海。桑を植え麻を種するに後は野、前は原。いわゆる水陸の府蔵、物産の膏腴。古人曰く常世の国、けだし疑わんこの地と。ただ以てあらゆる水田上すくなく中おおし。年霖雨に遇わば即ち苗子登らずの難を聞かん。歳亢陽に逢わばただ穀實豊稔の歓びを見んか。

 現代語訳:常陸の国すなわち茨城県のあたりは広く、はるかな大地である。その土や小山はうるわしく、原野は肥え渡っている。人々が開墾をはじめれば海の幸にも山の幸にも利益があり、人々はそれを自ら得ているのだから茨城県の家々の食事はとてもゆたかで、満ち足りている。もし田畑を耕したり、蚕の糸を紡ぐ者がいたら立ちどころに富を取ることができ、すぐさま豊かになる。結果として彼らは自然に貧窮を免れるのだ。それどころか茨城県の人たちが塩気のある御数やら、魚やらの味わいを求めにかえってくれば、土地の左手は山でしかも右側は海、どこにいても食材が手に入ろうという世界である。彼らが桑の木を植え麻の種をまこうとしたら茨城県土の後ろは野原、前は草原であり、この県には水産業のみならず農林業にさえ、どこにでも適した土地があるといえよう。いわゆる水陸の府蔵といい、物産の資源があぶらのように滴っているのだ。昔の人がいった常世の国、すなわち天国とは茨城県のことなのだろうかと疑うほどだ。但し、一ついえるのは水田に上々のものは少なくむしろ並程度のものが多いので、ある年に長雨が続くと、苗が育たないことがある。それが難点だと人々から不満の声が聞こえる。よく陽射しの照る年に逢えれば、ただただ穀物の実りは豊かで、いかに喜ばしい事か。