2017年9月10日

最善の世間について

 労働原理主義、労働者中心主義、普通原理主義、多数決主義、これらは社会主義の一種である。自分の属する社会が共同体として相互扶助するべく、政府という全体的体制によって市場や個人の自由に対して一定の制限を図るべき、という意味で、この考え方は世間や、多数派からの同調圧力を強化し易い。
 ある集団で虐めが生じる原因は、固定メンバー内でこの種の収束進化への圧力が生じる事にある。固定成員は何らかの価値づけの変動幅を中央値に近づけやすい条件づけであり、この固定性が極端になると、不合理な場合にすら固定した役割を維持しようという組織的な癒着関係としての階級制度が作られる。封建制やその名残としての天皇制は、関西圏における被差別者・被差別地帯としての「洛外」の存在と表裏一体であり、『枕草子』には御所から出た火で被災した周辺国民が御所に救援を求めに来たのを、清少納言ら宮内の皇族閥側の人間が嘲笑し合い、そのまま差別的に捨て置く描写が出てくる。現在、東京都民が再現しようとしている23区外、都外、或いは23区内においても江戸城・皇居のある千代田区を中心とした区外差別の構図は、拡大されれば田舎蔑視と地方差別という小中華思想に繋がるわけだが、いわば原理的な虐めと崇めの両極を捏造する事、そして固定化する事による同調圧力に他ならない。
 選挙権を与えられた平成の国民一般は、多数派と目される世間が、この同調圧力を加える主権者だという妄信をもつようになった。西村博之が運営していた2ちゃんねるは、自己を匿名化した衆愚が牛耳る様になり、ますます村社会的・島国根性的に、この圧力を強化していった。川上量生の運営するニコニコ動画も、コメントを匿名で書きつけられるという匿名掲示板的な群衆化の条件を与えるネットメディアとして、この同調を煽りなしてきた。日本版ウィキペディアの内部で排除的世間を作っている日本語メンバーも同様の衆愚である。これら、半匿名を可能にするメディアを根城にしだしたネット衆愚は、ひたすら多数派の振りを相互の空気読み連鎖で偽装する事によって、ウェブ進出が遅れたテレビをはじめとした都内マスメディアに情報源として利用される様になった。藤田晋の運営するアメーバブログは広告収入を得る為に、閲覧数を容易に稼げる芸能人達を集客しだした事をテレビ側の態度変更の背景としていた。ツイッターがブログを書くほど文章力や思想のない一般大衆以下の知性の人々に、発信源としての地位を獲得させていくにしたがって、ウェブブラウザへの常時接続を可能にしたスマートフォン(スマホ)普及とともに、インターネットの方が現場の第一次情報を先に載せるという現実にマスコミ業界が直面したことが、これらの変化と関係しているのだろう。こうして衆愚はネットの匿名性を悪用しながら、現実社会では差別乃至排除されてきた暗いパソコンオタク達の道具を飽くまで応用しだし、シリコンバレーのITバブルの流れに自己を埋没させつつ、暴徒としての陰鬱な日本語圏世間に自己を同化させてきた。平成時代における同調圧力を主義する衆愚層は、親が首輪をかけるつもりで渡しているスマホの若年層への普及とともに、ネット虐め空間を学校裏サイト等あらゆる陰湿な目的で悪用できる地場を確保していったのだ。衆愚はちばけんま事件やaiueo700への攻撃で有名な電凸文化、つまり匿名の不良らが突然、インターネット上で標的にした個人を集団犯罪の対象にするという凄まじい悪行、或いは2ちゃんねる上で初期から見られる名誉棄損から冤罪による集団圧殺まで無数の違法乃至無法な犯罪の数々、勿論、麻薬取引や性犯罪など現実における実刑に至るあまたのインターネットの負の面を日本に定着させていった。このとき日本人衆愚は、社会正義を気取る大義名分として、匿名にして自己埋没させた群衆状態によって、ひたすら無目的の同調圧力を加え続けるだけなのであり、その論拠は多数決原理主義としての世間の目なのである。
 虐めの裏側に同時にあるのは差別意識・逆差別(贔屓)意識からくる崇めであって、この自己責任を徹底して回避している卑怯なる衆愚は、天皇という絶対者を仮想した。つまり、ネット衆愚は、日本人一般の潜在意識同様に、天皇を崇めるという神道狂信的態度を維持してさえいれば、いかなる集団犯罪もなしうると固く信じているのである。この盲従的奴隷根性の原因は、まず平成時点の日本人一般の脳がもっている遺伝的欠陥として、セロトニン・トランスポーター不足の為、常に不安感に駆られて群衆に紛れたがるという無条件な共感を求める本能(「甘え」と呼ばれてきたものと同一だろう)がある。また、日本列島の風習が長い孤立によって余りに他国から比べて特殊であるという言語を主とした文化障壁のため、遺伝的に近縁でよく似た同質な個体が多いという、遺伝的偏差のばらつきの少ない分布が、もう一つの原因としてあるだろう。明治時代以後、ナショナリズムの強化は更にこの種の同調圧力を日本人の属した各種国内社会に正当化させてきたのであり、戦後に起きた対中貿易の発展による工場の移転が契機となって日本も巻き込まれたグローバル経済のみが、この種の世間を不合理だと見なす思想的急先鋒となっているのが現状である。冒頭にあげた幾つかの傾向のうち、労働者中心主義は、同質性の高い個体集団のうち最も多数派となる個体の特徴を制度設計の標準とし、そこから逸脱している全ての個体を不良とか失敗とか負け組とみなすという、悪い意味で国家社会主義的な自民党政治と歩調を一にしてきたのであった。国民を奴隷としてできるだけ楽に、機械的に管理すること、まるで機械部品を製造する様に型にはめ、個性を殺し、はみだした存在を排除ないし世間からの差別で虐殺し、天皇崇拝を教え込んで同一のマスゲームをさせ続ける事。そして給料天引きとか国税という名の搾取によって、支配層に都合のいい、世間に逆らわない、下層民同士で足の引っ張り合いのみをする労働者を量産する事。これが「空気を読め」という労働階級のせりふに、天皇制を中心とした東京発のマスメディアや文科省からの画一教育、自民党政治の固定化によってくりかえし刷り込まれ、仕込まれている悪意なのであって、その同調圧力による自己奴隷化の悪意が、日本国内では虐めとして個性への迫害としてあらわれてくる社会病理なのである。或いはこの悪意は、天皇を中心とした支配層発の悪意なのであって、洗脳された愚民側にとってはただの無知なのかもしれないが、反省力なく虐めという社会犯罪をくりかえす当の愚民側にも、同罪があるというほかない。
 多様性を重視する。個性を尊重する。生き方の多様性を認める。遺伝的多様性や性の多様性を寛容に肯定する。これらのどれも、日本人一般や、ネット衆愚の仕込まれている排外的本性と正反対の、教養高い態度である。だからこそ、公益的な政策を行う時、民に理解させるべきではなく、実行後にそれに従わせる方が楽だ、という孔子の見解が出てくる。現実的にいえるのは、一般教養の集団における高下は程度であって、ある集団に特定の公益に繋がる政策意義を十分にわからせてから実行する、つまり住民合意をとるというのは、その集団における世間が理解できる質でのみ有効だという事だ。そしてその住民の或る知性の中央値に理解不能である様な公益政策である場合、行政の長が世間の理解を待たず強制実行してしまうべきなのだ。茨城BIとか、人口流動化とか、ニッチを探る非典型個性への尊重とか、これらの思想的根拠を衆愚に理解させることは現時点では無理だ。もし大衆一般向けサブカルチャーが感情をあおる低俗な表現形態によって、世間に何らかの公徳概念を伝達しようとしたとして、この種の行政的態度が住民への同調圧力を扇動する装置にすぎない事は明らかだから、寧ろ思想面での単一化につながってしまうだろう。虐めをなくすという事は、反対の極にある崇めの対象として、差別や贔屓の原因となる偶像を破壊する事をも意味するのであって、天皇制や世間、或いは日本国とか茨城県といった何らかの帰属集団、多数決の原理、民主的選挙制、資本主義といった互恵的甘えが期待できる存在を否定する事になる。同調圧力の起源が依存できる準拠集団、或いは思想形態という背景にあるという事がこの文章内で述べた分析であり、そこから結論して、平成日本、或いは茨城県内の社会にも現れている虐め(差別)とか崇め(狂信)といった衆愚的な社会病理を治癒するには、ひたすら非典型的な自由学芸、即ち一般教養を域内住民に推奨するしかないのだ。
 役に立つものであれそうでないものであれ、経済合理性を含む合目的性から離れた行動系列を常に尊重する事。たとえ多数派が有罪判決を下す様な新奇な行動でさえ、非典型的というだけで面白がり、喜ぶ精神的態度を県内住民に植え付ける世間こそ、常に最適性が変動し続けている現代社会下でも、偶有的に最適の事象を見いだす最善の世間なのだ。