2017年9月7日

現代思想と大井川県政における茨城県民の立ち位置

 資本主義による支配が余りに金持ち側に都合よく粛々と進められた為、営利性を抜きに利他的に振る舞う条件づけが不能になった事が、共同体の希求としてイスラム国の出現やneo nationalismにつながっている。ネオナショナリズムを新愛国主義、新民族主義など幾つかの日本語にできるが、ここでいうそれは、共同体の単位を細分化して便宜的に想像の仲間意識を復活させようとする考え方だ。利益社会の圧倒的な冷酷さに対して、家族社会の無償の善意を規模こそあれ再起させようとする。この意図は、資本主義の原理を突き詰めると家族の最小単位ですら営利目的でしか接する事ができなくなり、血縁者同士ですら無条件に助けあえなくなる、もしくは搾取対象としての価値しかみいだそうとしなくなる為に、保守的な人はこの非人間的な冷たい利己的な世間から程こそあれ離脱せざるをえず、本来の血縁共同体に見られた温かい間柄を懐古しようとするからだ。
 想像の共同体を国より大きな単位にすることでこの仲間意識らしさを補完しようとする場合もあり、それが地域連合やglobalism、国際連合だった。こちらの場合はむしろ、利益社会の規模を拡大しようというのだ。
 それぞれ、利益社会は搾取、家族社会は寄付が原理づけられており、国の単位では調整や再分配などと呼ばれる寄付の仕組みが徴税と福祉によって補われる。この国家福祉に依存している個人は、ナショナリズムを単に利己心に基づき吹聴し、また信奉もする。公務員の大部分も税を生活費の依存対象にしているから、博愛より単位の小さな共同体志向としてナショナリズムに傾き易い。これらが右翼の温床である。要するに利益社会で優位者になる為には営利能力が低すぎるか、または利他的な性質を持つ善良な個人が、想像の共同体を回復するべく、細分化した集団に福祉による救済を求める傾向にあり、ここで実際には市場競争で不利化自己負担的なな個人が妄想によって捏造している偏向性、或いはそれと同質ではないにせよ調整的正義感がナショナリズムの正体である。内集団びいきの期待は、友達や恋人や家族単位であれ、学校や部活や地域共同体や会社単位であれ、みなナショナリズムの一種である。
 イスラム国は資本主義による利益社会の侵食に抵抗したがる人々を糾合している。実際はスノーデンがいうよう、米英政府が蜂の巣作戦で中東を火の海にし、イスラエルの専制から全地球の目を背けさせるべく、洗脳した米英人の一部につくらせた印象操作の組織が発祥かもしれない。だが米国政府のトランプも、自民党の安倍も、新愛国主義によって想像の共同体を回復しようとしているという意味では、彼らと本質に変わりはない。北朝鮮のキム総書記も同様の意味で、国際社会におけるかなり極端なナショナリストに他ならない。
 問題は資本主義経済、つまり株式会社や金銭取引に基づいた交換市場が、自由化や民主化という正義面の建前で地球規模の広がりをみせればみせるほど、必然に競争劣位をこうむる人々の数がふえていくことにある。簡単にいえば2:8の法則(パレート法則)にあるよう、8割の人が相対的な不利をこうむる。自由主義者の一論旨である比較優位説(すなわち生産物に関する交換便利性)とは別に、所得格差が広がるだけ8割の負け組が生じていく。ところが利益社会というものは自分以外の他人より自己利益を優先することが合目的なため、利他性をもつはず共同体を必然に壊していくので、背後にある8割の負け組にとって潜在意識にナショナリズムの復権をも準備しているのである。
 日本単位で2chやニコニコ動画は(設立者でいえば西村博之や川上量生は)ネットメディアを使って恥の文化における匿名による本音の吐露を煽り、日本語圏単位での共同体意識を触媒に、広告収入か有料会員登録を用いて金儲けした。この2か所のうち特に2chが悪質な犯罪の温床となった事は周知の通りで、少なくともどちらのサイトも、ネット右翼(ネトウヨ、ネウヨ)という新民族主義者出現の原因となった。いわばこれらの匿名での誹謗中傷サイトは負け組の巣なのである。西村は営利的な利己主義者で倫理を道具としか見なさず軽視する傾向が元来ある。川上は人種差別や盲目の天皇狂信、衆愚的な戦争志向を是とするネット右翼を産み出す原因となった非知性的なサイトの創設歴を反省混じりに自責しつつも、己の生活費を賄う会社経営のため、営利を優先してきた(彼はそうせざるをえなかったと弁解するだろうが、必ずしもそれ以外の選択肢がなかったわけではないので、所詮は彼の意思なのだ)。大井川氏は彼ら二者が上役にいたニコニコ動画を運営するドワンゴに取締役として入った。恐らく大井川氏は、西村と川上がこういった反社会的なコミュニケーションを煽って、衆愚にまとまらせ、検察や良民に手を焼かせ或いは手に負えなくしつつ、表現の自由を濫用する類の悪事で金儲けしてきた2人であるというIT業界事情を熟知していなかった。大井川氏は単に若者に人気のサイトなんだろうという程度の理解ではないか。或いは、営利性の高いドワンゴが日本におけるマイクロソフトに類比されうるベンチャーだったのだと、大井川氏は勘違いしたのかもしれない。それはIT世間知らずというべきだろう。マイクロソフトのビルゲイツがグローバリズムを志向するのに比べドワンゴの川上や2chの西村は、地下にいてみえなかった非公式な存在としての負け組隙間市場を搾取すべく、違法空間を維持したり経済弱者を扇情しながらある種の炎上商法で搾取して、日本語圏単位でのナショナリズムをあおってきたのだ。大井川氏は知ってか知らずか、この様なネオナショナリズムをニッチ戦略に援用している類の如何物な起業家を、人脈背景にもっている。またマイクロソフトを通じてグローバリズムの本質、つまりアメリカン・スタンダードの先取による世界支配という富裕層の市場独占についても理解しているだろう。いわゆるピケティのいうr>gを地球規模で行っているのがビルなら、日本語圏規模で行っているのが西村や川上である。これらの人々は根本的に慈善で商売をしているわけではなく、単に人間を利益の搾取対象と見て、ネットサービスの対価として金儲けを行っているにすぎない。要は、西村や川上、2chやドワンゴは負け組ナショナリズムを経営者の営利に利用しているだけの、単なる偽善者である。いや、犯罪幇助や名誉毀損などの2chにおける複数の事件で度重なる敗訴にもかかわらず賠償せず海外に逃げて恥じもしない西村や、身体障害に類比できる3DCGを半ば嘲笑しながら新技術として説明したことから生命尊重の念が足りないと宮崎駿に説教される川上、現時点でも誰も彼らを人格者だとは思ってはいないのだろうが。
 結局、イスラム国や、ネット右翼、或いは神道信者や自民党支持者、安倍支持者、トランプ支持者、北朝鮮におけるキム政権支持者、TPP推進論者を含む地域連合主義者、これらの人々は程度こそあれナショナリストでしかない。彼ら新民族主義者はグローバリズム経済下で不利な条件に置かれている為、内集団贔屓の期待に基づいて、儚い懐古趣味に耽っている。グローバリズムは不可避で、現時点でも格差を拡大させているし、タックスヘイブンに共同で対処しようした時点では手遅れなほどその差は開ききっているだろう。喜捨を是とした一部のイスラム原理主義者に見られる、調整的な正義に基づく抵抗としての無差別テロの対象が一般市民であるような場合、一般人の次元では単なる無法集団による反社会行動としか解釈されず、より強大な警察権力に弾圧され終わってしまう。この様な圧倒的過当競争下で、元々商才を付与されていた2割の金儲けが得意な人々は、自らの都合のためグローバル経済やリベラルに思想形態を寄託し自己正当化しながら、8割の凡人を搾取する。Liberalismはこの地点においては8割の不幸を納得させる、偽善の触媒になってしまう。元々そこにはアダム・スミス的な神の手、経済成長への期待効用が含まれ、人種や民族差別、植民地主義、単文化への反命題、democracyや民主化との結託という複数の状況的な補完性があった。自由は米国型の資本主義をおしつけるのに最も便利な道具にされた。フランスの知識人が人権思想と共に反既得権益、反王・反貴族・反中産階級(反ブルジョワジー)として始めたこの自由への信仰は、社会主義や共産主義といった革新思想を生み出し、アメリカに渡ってからは多数支配の正当化とグローバル経済、アメリカニズムによるそれらのおしつけといった考えを生み出した。つまり、グローバリズムが自らのうちに支配層として起きたがる富裕層にとって都合の良い体制は、自由を大義名分にした、不平等と共に底上げによって発展していく未来という資本主義的な幻想または市場原理を拡張させたがっている。
 ここで描いてきた現代社会の分析として、状況を整理すると、先ず利益社会側の頂点にビル・ゲイツをはじめとしたglobal資本主義者が存在する。そして彼らと同様に、搾取能力を使って利益を独占したがる、全体の2割を占める勝ち組としての富裕層が存在する。皇族や自民党員、経団連企業の上役などの既得権はこの層に属す。この富裕層は、自己利益に都合がいい搾取維持の体制と、それを補完する思想形態としてのliberalism、自由主義を信奉しがちである。他方で、中産階級は彼らの企業や政府に多少あれ生活を依存しているしそれに自覚も多少あれあるので、反グローバル資本主義者となるだけの誘引がない。従って保守という用語で、これらの既得権を維持したがる人が、中産階級の中の殆どである。このため中流はおもに自民党を消極的に選んできた。衆愚はまともな理解力がない為、単純にグローバル資本の牛耳るマスメディアから、富裕層に都合がいい奴隷として洗脳され群衆化する。他方、8割が同時代において負け組になる資本主義経済のしくみは社会に於ける不平等を拡大させるので、一部の知識人はこの状況が不正義であると気づく。多少あれ倫理的な利他心を持つこの賢者達は、自らの目的として定める不平等の低減と、より結果平等に近いため8割が幸福に暮らせる社会に向けて幾つかの考え方に分かれ、革新的な思想を持つに至る。最も軽い類型としての新民族主義から、社会主義、共産主義、社会民主主義、民主社会主義、或いは最も極端な類型としての宗教原理主義の類である。これらはどれも何らかの単位の共同体に家族社会的な互助性を寄託し、寄付、慈善、喜捨、福祉といった利他的な意思を啓蒙しようとする考え方である。幾つかの国々ではこれらの革新派が政権与党となる事に成功し、福祉国家や宗教国家が成立している。イスラム国も、国家単位での革新派与党を目指す集団として、シリア界隈に現れている存在である。北朝鮮も、単なる民族主義的な統制経済体制による革新派の国家である。これらの国々はテロ国家でもならず者国家でもなく、現米国大統領のトランプや日本政府の安倍内閣構成員、自民党、東京マスコミによる扇動やレッテル張りに関わらず、ただの革新的な集団でしかない。いいかえれば日米政府はグローバル資本主義の既得権を維持したがっている保守派でしかない。
 日本には天皇家という特殊な存在がある。(家という単位を認めない神道信者自身は、一般家庭全ての上位者という超越的地位の偏見を強調する意味で皇室と自称しているが、imperial familyという英訳でわかるよう、単なる言い換えでしかない。宗教による洗脳や衆愚に対して特別さを偽装する子供だましの虚構で自己神格化を謀る、神道狂信者の前近代的な言語IQの低さを示すに過ぎない事例である)。なぜ特殊かといえば、天皇家は平成末期時点で年間300億円近く(毎日8000万~1億円程度)を国税から搾取する既得権に属していながら、同時に、神道という弥生系移民中心教義の民族宗教によって共同体の長を自称しているからだ。どっちつかずの風見鶏や二義的な存在が、生贄の対象になりやすいというscapegoatingの法則からいえば、天皇を屠る、或いは集団から排除する事が、矛盾の解決になり、国民の再統一を意味する筈だ。しかし皇族閥は、GHQと交渉に当たって既得権を維持しようとした吉田茂の末孫かつ皇族血縁者としての麻生家、安倍家をはじめとした取り巻きの利権維持のため、神道による国民洗脳での専制支配に好都合な政治体制の維持といいかえてもいいが、この排除に最後まで抵抗する。島津家、毛利家、徳川家といった旧華族も全く同様である。天皇家自身にとっても富裕層の位置取りを世襲により苦もなく維持できた方が都合が良い。要するに天皇は保守と革新の両取りをしていて、いかなる変革があっても自分自身の世襲の地位を維持できる状態に自らを置こうとしている。保守派の信じる資本主義にとっては日本最大のキャッシュフローがある資産家として、革新派の信じる共同体主義にとっては民族宗教という仮想の枠組みによる日本国民全員を補完する上位者としての建前によって、普段は中産階級向けに善良な資質を持っているかの様に偽装し象徴と自称したマキャベリスティックな世襲君主としての面だけを流させる宮内庁記者クラブの悪意と、地方差別によるマウンティングを目的とした東京都民利権を意味する皇室タブーでの悪徳商人集団的な報道統制によって。いずれの場合にも天皇は天皇自身が最も好都合になる様な体制を、世界第3位のGDPを持つ集団を専制的に搾取しながら独裁する世襲の邪教祖として、あらゆる手段でとっているのである。水戸の徳川家が、素朴な国民国家ナショナリズムの啓蒙として天皇の非易姓革命的な不可侵性を語りだした時、旧常陸国民のうち幕末時点での水戸藩領域の侍らは、不動の天皇とその命を受けた警察組織としての将軍府による、一種の象徴天皇制を志向していた。私以外の世界中の誰もそれに気づいていないにせよ、徳川領を超えた全国統一による植民地主義への抵抗として、日本の独自性を定義したという意味で、水戸学派は当時として世界史に有色人種の民族独立と復権という最大の影響を及ぼすだけ至極真っ当な考え方だったのだろう。他方この日本独自の体制思想を、薩長は吉田松陰の欧米・中国模倣的なアジア侵略主義と一君万民論によって改造し、将軍府の位置に自らが明治政府として就く事によって天皇の権能を自らの傘下に置く、薩長藩閥寡頭政治体制を志向した。結果として主に西日本人達は利己心から薩長藩閥に扇動され、東国やアジアを侵略し、米国による2発の西日本への原爆投下で、薩長の悪意に自らの権益拡張を目的に乗った浅はかな天皇家もろとも、日本帝国下の民衆に誠に甚大な犠牲を払わせた末に、国連へ降参した。戦後70年、愚民洗脳力をGHQによる円滑な統治に利用された天皇家は、取り巻きである皇族閥に利権目的で地位を維持されながら、ぬくぬくと繁栄してきた。7000年前の鬼海カルデラ噴火の後遺症でほぼ無人の西日本に、2800年前に侵入したのが、中韓東部に定着していた弥生民族であった。彼らの作った新たな移民ナラ(朝鮮語で国を意味するのがナラであった)界隈における一部族長として、封建的な専制支配体制をあらゆる手段で敷いてきた天皇家は、全てを顧みると、権力志向の完璧な利己主義者である。既に述べた様その存在は保守派にとっても革新派にとってもどっちつかずで、中産階級の洗脳によって自らに都合のよい搾取体制を維持しようとする。裏返せば、保守と革新のどちらにも、衆愚洗脳や反意を煽る道具として利用される駒である。この地位に天皇が就いた理由は、弥生人として隋時代の中華皇帝に遣隋使が謁見した際、嘗て中国東部の江南地方に住んでいた弥生人特有の劣等感や自尊心が刺激され、ナラにもどってからいわばナショナリストとなったため日本列島側に日本人を奴隷にした小中華帝国を作ろうとした所に原因がある。つまり天皇とは、原型から今に至るまで単なる帝国主義者なのだ。彼らはこの専制の意欲に基づいて神道という自らを神格化させる幼稚な多神教を、大陸の文物を援用して日本在来の自然崇拝と混淆しながら構築したのであり、日本人衆愚はそれに洗脳されたのである。旧華族や安倍・麻生両家を筆頭とした現自民党員の皇族閥は国税に寄生する天皇家同様に、神道による日本人洗脳構造を利用し、自らの権益を伸ばしたいだけの、専制政治屋ということなのだ。中流も労働に追われて、この事実に気づく暇がない。保守派は利己の悪意、又は無批判なグローバル資本主義信仰でこの専制支配体制を維持したがる。革新派は天皇を槍玉にする場合もあるが、日本では逆に復古神道や王政復古といった、過去の(といっても弥生人の移民以後、ここ2800年間の)共同体概念の回復による革命を維新と呼んで天皇を利用しようとする場合もある。いずれにしても天皇は自らの帝国主義を補完するのに都合がいい政治家を選好し、それ以外の政治家を、例えば国民主権論者であった小沢一郎氏の様な人物を宮内記者クラブ発の偏向報道による国民洗脳で迫害する。そこには保守も革新も中道もなく、資本主義経済下における封建領主あるいは富裕層の頂点的な天皇家の保身を図る利己心と、納税・貢物を行う国民奴隷の維持という中華皇帝あるいは西洋圏の王族モデル模倣心だけがあるのだ。
 では、我々茨城県民あるいは北茨城市民が一体どうするべきかといえば、グローバル資本主義、各種の共同体主義、新ナショナリズム、天皇制、これら全てに対して狂信的な態度を避け、一定のメタ認知的な距離を保って冷静に、自己に好ましい思想上の立場と態度を選択する事にすぎない。ここで公徳あるいは善、正義といった利他性は、思想上の立場に関わらず自分自身の生活形態にとって互恵的基礎を持つ行動系列にすぎず、簡単に言えば、相手に或る類型に基づいて行動して欲しいとする考え方はそのひと個人の信仰でしかないのだ。相手、或いは他者の考えが自分の考えと同じである事を期待するのは、単に愚かであるか、一種の宗教だ。勿論、何らかの宗教集団が、何らかの点で成功する場合もあるだろう。いずれの信仰や主義思想についても、それら諸々の行動系列の中で、或る程度偶然に基づいて選ばれた思想形態に関し、時間経過の結果として何らかの意味で成功したとされる規則がみいだされ、たまたまその考えが合理的だったと言い訳されるのだ。だから大井川氏或いは茨城県知事がグローバル資本とか当県単位での地域共同体とか、或いは新ナショナリズムといった彼の行政を執る範囲の人々に何らかの観念形態をえらびとるよう主導するとしたら、それは商業面でみれば単なる計画経済か、政治面でみれば地域社会主義的な個人の思想・信仰・良心干渉にすぎないであろう。思想的なリベラルの立場が地球資本の触媒だという批判については、その他の思考形態のうち、調整的正義を主張する派閥、たとえば恐怖政治によるイスラム原理主義者などについても一切の先入観を持たず、絶えざる再判断を期し、同等に等距離で価値判断し直して行くことで、必ずしもあてはまらないというしかなくなるだろう。