2017年9月15日

IT批判行政論

 ニコニコ動画を設営してきた川上量生はマストドン(オープンソースのミニブログ)の中で、「えっ? 東海村って茨城県だったの? 静岡県だと思ってた。」と発言している。彼らが搾取している電気がどの様な労苦と重い心身の負担で原発立地自治体から戦後70年送られ続けてきたかなど意識の隅にも入っていない。宮崎駿がNHKの番組の中で川上量生を説教した動画(NHK『終わらない人 宮崎駿』)で、川上は深層学習で3DCGを自動的に生成し、その動きを「人工知能を使うと人間が想像できない気持ち悪い動きができるんじゃないか」「動きが気持ち悪いんで、ゾンビゲームに使えるんじゃないか」「こんなことをやっています」と宮崎の前で述べるが、宮崎は「身障者の友人がいるのだが、ハイタッチするだけでも大変なんです。彼を思い出して、僕はこれを面白いと思ってみることはできないですよ」「これを作る人は痛みとかそういうことについて何にも考えずにやってるでしょう」「きわめて不愉快ですよね」「極めてなにか、生命に対する侮辱を感じます」と一蹴する。倫理観念の欠落した拝金主義というものがあるなら、犯罪の場を提供しながら民事訴訟の賠償から逃れ続ける2chの西村博之がニコニコ動画の経営に取締役として参加していたのは偶然ではない。川上は宮崎に説教を受けて直後、ツイッター上でオタク批評家の東浩紀あいてに論争を吹っ掛けたその内容は文理という旧帝大の便宜的入試区分に基づいた、人文学への侮辱と、自然学への過度の狂信だった。単なる物理現象としての自然学と社会における人間を知る人文学の意義の違いを知らないのは、まさに無知を知らないという意味において、哲学的に無知なのである。自然科学の発展は反証をのみその批判的基礎とするまで真偽命題の確定について洗練され、現時点の基礎科学では、いかなる命題へも懐疑的であり続けることこそが自然学の貢献しうる最大の知的栄耀なのだろう。
 IT起業家の一部は、情報技術と新興市場における暴利を目指した成金稼業を結合させてきたに過ぎない。当然のごとく社会科学や哲学といった道徳の完成に向かう前頭前野が未熟なまま、社会人として一応とはいえ成立してしまったし、子供まで産んで同様の不道徳な行動をしつけていくこともある。それが現代社会の悲喜劇なのだ。
 最も不幸で恵まれない立場にある個人が、最も幸福になるよう全力で支援される世間が、すなわち生きるに値する社会だ。この様な動機を生むのは道徳や倫理とよばれる或る知能の働きに他ならない。その脳部位は現時点では前頭葉あたりにあると知れてきた。学習とは過去にえられたなんらかの情報を、おもとして脳細胞が記憶することよる言行の適応といえるが、学問として体系化された分類でこの学習内容をいえば、数学をその部分としてもつ自然学は、社会学をその部分としてもつ人文学に含まれる。いいかえると、物理は倫理の基礎であり、倫理は物理をその部分として含んでいる。いわゆるphysics(自然学、形而下学、物理)とmetaphysics(後自然学(meta-、後-)、形而上学、倫理)という議論で、先ず自然一切があって、その上に自然を利用したある人間社会が築かれているのだ。福沢諭吉は『文明論之概略』の中で「先ず物ありて後に倫あり」という言葉でこの学習順序が逆行しえないことを強調しているが、古代ギリシアのアリストテレスがとうにそのことを『形而上学』など一連の講義録内で述べていた。N高校で教育事業にのりだした川上だが、文科省や日本国内の大学関係者にさえ私が今述べた程度の哲学的基礎をもつ人物はほとんどいなかった事は明らかであり、つまりは日本のアカデミシャンは蛸壺化した旧帝大イデオロギーに縛られ続けてきたほど愚劣で浅学なわけだが、そのうち理学が商業と結合するにしたがって、理科学者らの一部に理系の文系への優越などというガラパゴス島国根性のなかでも最も奇形的な、入試制度を学問の一般的分類と混同するような誠に滑稽な言動をこのイデオロギーはさせてきている。立場上この様な人間が多少あれ跋扈する組織内で金を稼いできた新知事に、よしんば標準以上の学問的基礎があっても、あるいはなくとも、行政ふくむ政治が財政上の基本役割として比較劣位にある民の利益を最大化する事、つまり調整的正義の分野であるという第一公徳を必要とするのは明白である。
 大井川氏の選挙期間中の言動には、財政上の予算を成果をあげている事業者に優先配分すべし、という単純に成果・能力主義的な意見がみられた。金儲け以外の分野に何らかの有能性を発揮する人なり、そもそも全てにおいて無能だが生命という存在そのものにおいて生存価値がある様な人、或いは多少あれ有害でしかないが死刑に処するには慈悲に欠けると考えられるような人が、即ち無数の遺伝変異や成育歴が、殆ど確率的に等分布で、人の数だけ多様化していくのが社会なのだ。それらすべての人々から徴税しながら全体に責任を持つ行政は、単に金儲けできないかしたがらない個人をきりすて首にして死なせていいような、無責任な民間の一営利企業ではないのだ。全体の奉仕者は、単に成果をあげられる2割の商人だけではない、8割の県民に、わけても恵まれない貧困層に最善の政治を行う義務がある。累進課税があったとしても、政治関係者の日々の食い扶持でもある徴税の痛みが最大なのは、大金を納税する有り余った富の持ち主の側ではなく、その貧困者の方なのだから。貧者の一灯のわけあたえる己への痛みと相手への慈しみは、富者が支払う殆ど己に痛みのない額か、多かれ少なかれ何らかの功利的営利性に基づく大金の一部より尊い。この質的価値判断は、その世間の平均生活費の可処分所得に対する個々人についての割合という数理的に厳密な面だけではなく、場合に応じた愛民的な調整観念のもとに適切な比率を理解できる柔軟で人間的な裁量能力である。それは道徳感情とアダム・スミスによって呼ばれた面を持つし、統計的な数値や不確定な場合も含めた何らかの法則で構成されるわけではないのである。