2018年3月17日

産業や芸術文化の振興面からみた基礎所得論

 観光振興も過度なら観光公害をもたらすし、そもそも観光依存度の高い地域は土産物を除けば高付加価値品を販売できない為かGDPと負の相関傾向がみられるようだし、北海道、沖縄、京都、或いは東京という大衆観光集客を進めている地域は、反面教師という面も大きい。単に観光業という意味では民間によって、できる限り、高付加価値をもたらす客を選び、それにふさわしい高品位の奉仕を、世界に範を探して自ら研究するべきだといえる。大井川氏は高級ホテルを誘致しようとしているが、これも県内の既存の旅館ホテル業者に対して害悪だし、自由市場に対する干渉に他ならない。もしそうする合理性や勝算があるなら自分が民間で起業するなり、いずれかのホテルに投資して大株主になって総会で命じればいい話である。例えば山口県は農業生産高は低いが工業化されており、一人当たりGDPはかなり高く、長門市が経営破綻した白木屋グランドホテル跡地に星野リゾートを誘致した。この県民は長州閥一般がそうであるよう国家社会主義的であり、安倍晋三も含め、政商行為を平気でやる傾向があるわけだが、政治家に商才があるなら最初から商売をやるべきなわけで、自分がみる限りかなりの高確率でこの行政が企てた温泉街再生は失敗する筈だ。大井川県政がこの県から何かを学べるとしたら、市場放任の合理性に逆らった地域での骨折り損のくたびれもうけであり、また県有地を工業団地化し市場に放出する事によって一人当たり所得やGDPを上げる結果を鼓舞できるという点だろう。しかし、所得やGDP、人口の増加の為には県内に集積の利益がある商業地である大都市圏をつくる方がより効果的であって、高さ制限でこの高密度化を妨げている水戸市街地を改造するか、日立、筑波、土浦のいずれかの都市部の人口密度を高めるか、いずれかの方が優れているといえる。水戸市は芸術館塔の高さに合わせ条例で市街地の高密度化を防いでいるわけだが、この事が土地辺り生産性を低める結果になっているし、集積の利益に逆らう結果を伴っている。京都市は古都の体裁を繕う為に高さ制限を導入したわけだが、県内外の誰にとっても水戸市がもつ江戸時代の歴史景観に価値を認める人は少なく、歴史家にとってを除けばただの中小都市だと思われている結果になっている。例えばドバイをみればわかるよう、ランドマークになっているブルジュハリファは世界一級の高さをもっていて、周辺地区はその高さに追いつくよう開発され大都市化したわけで、水戸市街のどこからでも芸術館塔がみれるように、という水戸市議会の考え方は、塔の高さが現代都市にとっては低すぎるという問題点を解決できていない。京都市自身、高さ制限が経済合理性を阻害している。よって、今後の県都の発展を考えれば高さ制限を撤廃するか、さもなくば新たな高さの基準となる世界一高いランドマークを建設し続けるかだが、このどちらについても高さのあるランドマークを行政がつくる意味は何らかの都市計画についても特にないのであって、単なる自己満足でしかないだろう。
 結局、目指す県の理念や夢が何かによって、観光集客、産業振興、都市計画、がそれにあわせて生起するともいえるのであり、この点について茨城県知事は日本一幸福な県、という路程標しか建てていない。しかし日本一幸福ということは非常に低い目標だ。日本の客観幸福度は国連調査で示されてるよう万年下位だからだ。めざすべきは世界一幸福な県たり続ける事であべきだ。高い(不足していると考えられる観光的)魅力度というのは、観光業者の繁盛に加えて県民一般の尊厳欲求を満たす手段としてこの世界一の幸福の部分を為すものであり、目的に達するまでに経過すべき一里塚にすぎない。尊敬されたいとか羨望されたい、という俗物根性的な名誉欲が尊厳欲求の一部に含まれている限り、下衆や無知な人から魅力度差別を受け続けるのは不合理であろう。勿論、この俗物的承認欲を超越し、いくら不条理に下衆共から侮辱されようがわが道を行く事がより尊い態度だろう。京都市や東京都における自文化中心主義的な中華思想の例を見れば明らかなよう、承認欲に限度がないのも明らかなので、寧ろこの種の国内魅力度競争を避けて、全く自分の為にも他人の為にもふさわしい生き方をする方が悟っており、もっと大人びているといえそうだ。
 最初に挙げた通り、観光推進を今の自民党がはかっている訳は、安倍晋三という人が円安誘導に理由をつけてアメリカ政府と日本操縦者から内政支持を受けつつ権力行使をし、徳川に負けた恨みから形成された長州閥原理主義を狂信したい、というもので、はっきりいえば根底にあるのはただの山口県出身に執着する門閥の利己心であって、幼稚な話である。また観光業界でしばしば世界一の評価を受けている京都市の市長・門川大作という人の根底にあるのは、昭和の市長が作った世界文化自由都市宣言の延長として、平和や文化交流という名目で自文化中心主義をまっとうし、世界中から賞賛されたいという名誉欲と俗物根性である。皇族を含み、東京都民の目的は権力欲の満足であり、家康の頃は平和を実現する天下統一のため関西圏の覇権を切り崩す目的があったかもしれないが、慶喜以後は徳川家の影響力圏を出て、天皇が予てそうだったよう帝国主義的中華思想の権化に成り下がった権勢欲の俗物趣味そのものである。薩長土肥らの権勢欲は敗者側になった幕藩体制への恨みに由来し、現段階では西国一般同様、東京のカネと日本政府を含む権力への嫉妬と羨望がその由来におきかわっている。北海道と沖縄については珍しい自然環境をもっているので天然で観光振興している。人口減少に悩んでいた東北は震災復興に大変で、事態を傍観している。これらが現時点の日本人らがもっている欲望一般なのである。どうだろう。我々の模範に足るところがどこかに一つなりともあったろうか? この種の俗物達から差別され、侮辱されたところで、我々とは何一つ関係ないのが分かるのではないだろうか。我々茨城県民や北茨城市民の精神性、道徳心の方が、根底から言って、彼ら県外の、皇族を含む、おもに西南地方の人々より高いのではないだろうか。何しろ我々にとって中国韓国北朝鮮を差別しながら欧米模倣したり白人から名誉を与えられるためとかく権勢欲を満たしたい、という大分県出身の福沢諭吉的野望は特に身近でないし、天皇家のよう自分が皇帝だの現人神だの自分の先祖が中国人の神だのといった自己優越の妄想をいだいて全国民を差別蔑視暴虐暴利して回る様な野蛮人は先ずみたことがない。冷徹にいって、南西日本の我執によった傲慢な権勢欲から学ぶに足る点はない。
 仮説としてもし理由をみいだすなら、我々がこの種の上位の精神性を得るに至ったのは、嘗てこの地を支配し、先日ご当主が亡くなられた徳川慶喜家からの伝承ではないだろうか? この慶喜という人は、水戸学を弘道館で習った後、自ら大政奉還し、開国のうえ軍事を近代化し、天皇のもとでの合議政体をつくりつつ大変な苦労をされて、烈公からの庭訓を守って朝廷に弓を引かず、恭順しながら貴族院議員として薨去した。にもかかわらず下衆から名誉毀損され続け150年、母と正室が皇族であった事とあわせて悲劇の将軍というべき人物だが、彼を信じて亡くなった天狗諸生両党の思いを汲んでも、これほど権勢欲と無縁だった人物は歴代将軍の中にいないのであって、初代頼房が天下が欲しいと天守閣から家康の前で言ったとされる夢が15代目で叶ってからも、我々この県で生まれ育った者の中に或る達観をもたらしているのではないだろうか。それは権勢欲のむなしさ、権力の無常に対し一定距離を置いた、定府的で、副将軍的で、メタ認知的で、批判的で、自己超越的な物の見方であり、上述の承認欲に根差す俗物達について我々が余り、或いはほとんど共感できないとすれば、慶喜公という先人の偉大さに精神の高貴さについて少しも及ばないからかもしれない。ゆめ朝廷に弓を引くなかれ、という彼の家の哲学としての当為に対し、徹頭徹尾自己犠牲的にふるまい、世間の誹謗にも耐え、遂に当主も亡くなられたという現実の前で、やれ自分が維新の胎動だの、日本人をスコットランド人との武器取引を経て殺しまくってやっただの、当時の政府警察をテロで殺戮しただの、自分の先祖は神だから崇拝するだの、世界の文化中心が自分の町だだの、世界の都市格でわがみやこが一番だの、まことに卑小な連中というべきではないだろうか。この尊皇論というものの原型が、義公による名目的君主政体の定義、といういまでいう象徴天皇制の理論的根拠にあるとしても、イギリスかぶれの皇室や宮内庁は、GHQに命じられて類似の制度をもっていたイギリス王室を模倣しているのだと思っているのではないだろうか。なぜ将軍を首相という名義に代えて、絶対君主による帝国主義という逆行を経てまで、世襲の天皇が日本を一度亡ぼしたかというと、この天皇家の知恵が、慶喜を含む水戸の徳川家に劣っていたからだといえるだろう。岩倉、伊藤、毛利に島津ら西国諸藩主に、五摂家その他の華族連はいうまでもない。気宇高邁な主君の統治を経てきたわれわれからみれば、薩長藩閥の外様大名の領地から東京に出てきて暴れまわる人々の権勢欲それ自体に意味がないどころか、天皇を自称して恥じない家の様な、子供じみた我執そのものが愚かしく見えるのも、当然だ。

 最初の問題に戻ると、世界一幸福な県とは諸々の欲望のうち、最も高貴なものを満たしている状態であろうし、それは恐らく自己超越にあるのだろう。自慢合戦や大衆観光集客を主としたメディア洗脳ゲーム、工場誘致による仕事場作り、あるいは芸術祭による集客や傑作の収集、大都市化だか低層都市だかによる人口密度の調整、世界で名誉を得る為のノーベル賞だの国際賞取得の努力、万世一系だか万代一系だかの当人は平気で政治干渉するが民主党政権からの政治利用は禁忌という腐った世襲祭祀長の護持、はいはい、外様大名のもとにいた下士の身分制度への反発、復讐劇としてのアジア侵略自慢、異民族同士に内乱させて征服するジェンタイル・フロント戦略じみたスコットランド商人経由のイギリス製銃器で自衛戦争ぶった日本人同士の内乱罪や侵略罪の山を糊塗する薩長クーデター妄信、まことに結構。これらの事はすべて俗事であって、われわれの幸福とはほとんど関係がないように見える。なぜならどれも他人より自分の方が優れた状態になりたい、比較して自分の方が優越していると信じたい、という利己心の発露なのであり、この種の競争の本質が無我でばかげていると分かればこそ、現実の位相の上に或る理想の世界観を持てるのだ。万民平等とか、調和とか、四海兄弟とか、永久平和とか、こういった理想に比べれば、国家や地域連合の単位を含む自治体間の競争とか、個々人の間の優劣とかは、まったく意味をなしていない。結論をいうと、世界一幸福な県や市というのは、誰とも競争していない、そして誰の事をも見下したり見上げたりしていない人の考え方を指している。少なくともいわゆる空観(クウガン)にできるだけ多くの人ができるだけ長い間とどまっている様な状態を、主観的な意味では世界一幸福だというのである。無欲であればそれ以上を求めもしない。対して、物質的、欲望的な充足としての客観的幸福は、その競争と開発にきりがない。全ての観点からみて最も、物質的、欲望的に充実しきっている人が、おそらくもっとも俗物的にみえるであろうことも確かだから、この比較に基づく客観幸福というものは、実際には永遠に満たされえないのである。
 スカンジナビア半島の北欧三国の人々に、あなたは完全に幸福で満たされているかと問えば、大抵の人ははいと答えると同時に、世界中のどこかを探せば、彼らより物質的、欲望的に満たされた人はきっといるであろう。知らぬが仏という通り、情報不足のためにこの人達は自分の身近な人達と比べて、物質的、欲望的な満足度が高いと考えている。
 この例と同様に、現実にある諸々の物質的欲望は、彼らの認識している他者に比べて自分の生活が優越していると認識する、嫉妬を感じない状態であって、かつ、うぬぼれを満たしてくれる様な状態を目指しているのだ。これこそ、仮観(ケガン)の世界である。帝国主義はこの我欲を満たす為に物質的状態を全ての人よりまさった状態に置き続けようとする、一人の権勢欲から生み出された考え方であり、今日、蓄財を手段とする資本主義がこの後継者になっている。
 天台宗の理論、一心三観では、空観、仮観をもちあげた中観(チュウガン)が覚めている事だとされるが、究極の主観的幸福としての無欲と、客観的幸福と呼べる単なる物質的欲望の優位な充足とのふさわしい関係は、できるだけ多数の人が、できるだけ長い時間、無欲にとどまる為に丁度いい程度の物質的条件が最上なのである。ここで物質的欲求に、マズロー欲求階層でいう自己実現以下の全ての欲求(生理、安全、愛と所属、尊重、自己実現)を含むとすると、これらはそれぞれの段階について無限に追求できるのだが、より高次の欲は低次の欲を包含する関係にあり、或る人が低次の欲について持っている期待がなくなるか、その期待が十分満たされた時に飽きる。そして自己実現を超えた段階が無欲なのである。苦痛をなくし快楽を味わうべく欲望を満たす、という快苦の原理に基づいて言行している限り、それ以上求めるべきいかなる快楽もない状態は、不足がないという意味で現実に求められる限り最上の幸福だといえる。脳内で何らかの不足を感じるということは、ドーパミンによって意欲が惹起され、アドレナリンに導かれ多かれ少なかれ言行を起こさざるを得ず、目標達成によってオキシトシンが満足の合図となるまでのあいだ、多かれ少なかれ苦痛を味わうことに等しい。したがって、資本主義における情報化とは、比較対象を視聴覚を主としたメディアを通じて無数に展示させ、嫉妬や羨望の感情を起こさせることによって、仮観的誘惑を行い、消費活動を鼓舞するものに他ならない。平成の一般的不幸の原因は、この情報メディアの氾濫による嫉妬という苦痛の蔓延である。無限の競争は、新たな欲望が起きる限り無限の苦痛の原因発生をも意味し、より高い品物を消費したい、羨望されたいという承認欲を満たす為、商人や成金という生活様式に陥った人々の集まりが、東京圏や関西圏、名古屋圏といった商業都市の実態である。
 我々が幸福でありたければ、自らをとりまく情報環境を、我々自身が無限の仮観的競争に巻き込まれない程度に矯正しなければならない。時に引きこもりとは社会病理ではなく、現代社会への賢明な適応の仕方の一つだといえる。人が集まるところほど比較対象がふえ、羨望させる為の罠も、広告や公然たる浪費によってふえてくるからだ。欲望を刺激する機会が少ないほど、その人の現状への満足度もます事だろう。大都市生活が不幸にさせる誘引で満ちている限り、今後、過密都市に移住した人類はもっと内向的になるかもしれない。もし仮観そのものを目的にしたとき、天皇家にみられるよう、終わりなき虚飾に追われ生涯、心休まる暇はない。この事は帝国主義者たる天皇家の業である。

 大都市化や、情報化はその程度が物質的欲望を惹起しすぎない程に中くらいである時に、最も幸福と正に相関する。極端な大都市も、一切の情報の遮断も、合目的ではない。
 観光集客は自文化を羨望させるのに役立つ、という京都市や京都府にみられる俗物根性は、観光客や文化庁、官公庁、皇族を、京都人自身の承認欲を満たす手段にするものであり、この種の京都教義的志向は多かれ少なかれ客に嫉妬させるという苦痛を与え不幸を増すので、遠からず逆の評価が反動として与えられるであろう。これは手前味噌のうぬぼれで世界の人々を呼び込もうとしている安倍自民党の政策についても、各地方自治体についても同様だから、日本自体が世界から、羨望や嫉妬の苦痛を与え不幸にした仕返しを受けることだろう。茨城県は逆に、水戸学に抽出された儒学的教養の伝承によって謙遜の美徳が維持されていた為に、これら飽きがきた観光客らによって与えられる反動の悲惨から多かれ少なかれ免れるだろう。我々が観光業態について持つべき哲学は、顧客に自分達のもっている観光資本を自慢するのではなく、さも顧客自身が我々の気づいていない貴重さをみいだすかのように仕向ける事である。要するに、我々は茨城県内、北茨城市内を観光客向けにわざわざ美化したり、不自然に装飾したり、案内板を設置したり、いかにも観光地であるかの如く、外からの目線を意識して整形したりするべきではないのだろう。この種のわざとらしさが微塵もないかのよう、単に我々が幸福に暮らす為の生活様式を存続していればいいのであって、その種の作られていないありのままの暮らしこそが、本来の意味での文化多様性であり、観光客にとって最も興味深いものであろう。我々がどこかへ旅に出て、大衆観光客向けの整った道路とか、ルート整備とかがされていたら、その人の印象には全くこの種の事は残らなくなるし、寧ろつまらないと感じるのであるが、目的地までの道路が整っていないとか、何も知らない地元の人達に紛れて行ったとか、外部の人の目が意識されていないため外の何かを模倣しようという意図がないとか、昔からの生活における信仰の跡がちゃんと残っているだとか、要するに外部とは違う状態が自然な形で残されている、という事が、良い意味で最も印象に残る。逆説的な命題であり、大衆観光と正反対の見方だが、真の観光魅力度を向上する為には何もしないのが最善なのだ。県内のホテルや旅館におけるアメニティの充実とは別にしてである。この事はブランド総研の田中章雄やその他の卑俗な日本人一般にはまったく理解できないかもしれないし、某調査への即効性がある解決策でもないが、観光学的真である。したがってこの基本原則、即ち観光誘客のため特に何もしない、むしろ生活者にとっての満足度をはかるという事を徹底すれば、世界で最も優れた観光資本をもっていると口コミによってひとりでに認められる日がやってくるであろう。実際、我々は栃木や福島を観光し、京都や東京を観光したより不快だったり、不満だったりしたことがあるだろうか? 事実は、魅力度調査とまったく逆の様である。ということはこの調査は観光魅力度ですらなく、数百人足らずの主に大都市住民の観光素人であったり俗物趣味であったり、単に身びいきな会員によるきわめてかたよった偏見であり、統計的真からほど遠い事しか示されないであろう。根本的に、多数派が好む観光地は低俗という意味で最も下らないところだろうし、この母数やアンケート先が定常的で偏った疑似統計が示している羨望の的も、やはり通俗的な結果になっているのである。

 また産業についていえば、高付加価値化を進めるべきとはいえ、近隣諸県や世界全体と比べて遜色がないか、多少あれ優っていればそれで十分といえるだろう。もし所得や一人当たりGDPについてある地域が世界一を達成しても、ある地域内偏差としては一定程度の所得を超えるとそれが幸福感と正に相関しないという仮説がリチャード・イースタリンによって示されている。つまり幸福と所得の相関には飽和点がある、という仮説である。他方、ミシガン大学のジャスティン・ウォルファースとベッツィ・スティーブンソンの仮説では、お金があればあるほどますます幸せになって飽和点はないことになり、その伸び幅は収入の対数と幸福のグラフを描けば無限になると考えられている。金森茂樹は、2017年3月雑誌『プレジデント』の記事中で、収入を一定の水準を超えて指数的に伸ばせる人は現実に殆どいないので、両仮説の実質的帰結は同じと述べている。また大竹文雄は論文『失業がもたらす痛み』(『勤労者福祉』No.71、2003年1月)の中で失業経験や失業不安を含め、失業が単に所得低下という以上に幸福度を引き下げると示している。
 これらを鑑みると、幸福追求に最も合理的な行動原理として、第一に、地域の所得水準をなるだけ高めようとする努力そのものは正しいが、或る個人の能力を超えて収入を高めようとすると、それに伴う苦痛は要する指数的努力に見合わなくなるかもしれない。つまり幸福感が高まると感じるまでに必要な収入が倍々に、自乗で増えていく。100万円に対する1万円を増やす努力と、100億円に対する1億円を増やす努力は、経験効果を省みても、後者の方が多大であり、その苦労の倍々の増大に対して、有り余る大金から得られるだろう幸福感は割に合わなくなる傾向がある、という事なのだろう。この逓減の程度は、感覚量は刺激強度の対数に正比例するというフェヒナーの法則と関係しているかもしれない。
フェヒナーの法則
E=K log R=KR
E: 感覚量
K: 定数
R: 刺激強度
いいかえれば、成金趣味や皇族閥の贅沢、顕示的消費が生まれるのは、この羨望されたいという承認欲に要する感覚量を得る為に、指数的な収入増大が必要となるからな可能性がある。文化資本という名目で地域自体が成金趣味や俗物根性を奨励する傾向がある京都や、江戸幕府や明治政府を経て覇権的な自己優越の錯覚を顕示的消費によって強化する傾向がある東京は、この様な理由で、競争相手や比較対象の多さの為に幸福感を感じ辛い環境であり、法政大・坂本光司の調査による客観幸福度も低くなっていると考えられる(2011年4月~9月の調査では京都が42位、東京が38位)。また神奈川、大阪、兵庫、千葉、埼玉、福岡や、宮城、北海道といった大都市圏をもっている地域も、失業率の高さのため同調査で軒並み幸福度が低いとされているといえる(これらの大都市地域群は上記の調査で、33位に位置する千葉以下であり、茨城は30位とされている)。求職者は就業先の絶対数が多いと考える大都市部へ進んで集まる傾向があるからなのだろう。
 第二に、失業経験や失業不安は、将来にわたる所得低下を予想させる事が多い為に、幸福感を削ぐのかもしれない。そうであるなら、これまでこの論文で示された通り、失業による幸福度低下の効果も、所得や収入向上による指数的な幸福度増大の効果も、また顕示的消費から得られる幸福感逓減の効果も、所得と幸福の経験的法則としてまとめられる事になるだろう。すなわち、茨城県や北茨城市が施政の中でとるべきなのは、基礎所得を将来にわたって保障するか、それが不可能なら失業率低下の為にありうべき対策を打つことであり、また地域内の所得水準をできるだけ上げるとともに、できるだけ不幸を感じるだろう最低所得の人の水準底上げの方に力を使い、見栄の為の浪費に関しては京都や東京といった自己優越感の錯覚が強い中華思想的な傾向をもつ人々の方にまかせておくことだろう。なぜならこの浪費によって得られるだろう承認欲は、有り余るカネの使い道としては決して県内市内住民の幸福感の増大に対して割に合うものではない事が、必要となる財源を得る指数的努力の苦難に対して明らかだからだ。それに比べて、県内市内で最貧の人々の客観幸福度を増大させるには、極めて少額の保障でもそれら比較貧者にとって幸福感が得られる効果は極めて大なので、功利的な投資対象としての費用対効果が高いことになる。この様な理由で、高福祉高税率の北欧諸国の客観幸福度が世界最高水準を維持してきたのだ。我々茨城の人が学ぶべきなのはこの北欧的福祉主義の幸福合理性であり、見栄を張る為に自慢をくりかえす東京や京都、或いは福祉を軽視し、調整的正義を殆ど完全にばかにしきっている一部のリバタリアン社会ではない事になるだろう。もしこの種の自由人主義(アイン・ランドの客観主義的なものや、選民的なユダヤ思想、self-made manや独立心を尊重する開拓者的気質を内に含む)に一理あるなら、それは経済社会における政府からの無益有害な規制のなさに対してであって、政治社会とみた最貧者を含む社会全体の幸福増大には役立たないどころか、かなりのところ有害でさえある様だ。したがって、茨城や北茨城において産業の高付加価値化を進める事は是非必要で、例えば金融庁の国内FX業者への高レバレッジ規制は少ない資金で高利益が見込める事からこの点で投資家育成に極めて害悪であり、今後、茨城県域や北茨城市域について法や条例を改善できるなら、県内・市内で開業した仮想通貨商品を含む為替業者にゼロカット導入を義務づけながら、ロストカットがスリッページによって遅れた際の損失補填を業者に負わせる様にするべきとなる。そして現在の高付加価値産業の代表は金融業であり、次点がIT業なので、幼少期から金融literacyの高さで世界一を目指したり、ネットでの自宅学習を中心にプログラミング教育をはかり、またこれら金融とITを専らとした高付加価値産業の規制緩和に対して世界一の優遇措置をとりつつ、農工業に関してもありうるかぎり高付加価値化、つまりより投下資本収益率(ROIC, Return On Invested Capital)、特にそのうち有利子負債を除いた株主資本利益率(ROE, Return On Equity)の高い事業形態を民間人が選択し、集中的転換を進めるべきとなる。未上場であったり、株式会社化されていない事業形態や個人事業についても、ROEをさらに高くする事業形態を集中的にとりつづけていれば、この事業は投資する為に割安になり、株価収益率(PER, Price Earnings Ratio)を下げる結果となって投資資金が次第に集まり、最初にあげたROICの増大につながる好循環が生まれる筈だ。これらの始原はROEの向上、つまり元手に対して得られる利益が高い、効率の高い商いをめざす事だが、その根源にあるのはrisk reward比率(平均利益/平均損失。損益率)の高い生業、つまり平均した損失の割に利益の見込める事業の選好である。一般に、高付加価値化と言われる行動の根底にあるのが、損益率についての選択眼だといえるわけで、たとえば農業の6次産業化が損益率を下げる可能性がある時、これは望ましい選択ではないだろう。鹿児島県知事の三反園訓(みたぞのさとし)氏は2017年1月に紀ノ国屋社長と5月に千疋屋総本店常務と県庁で会談し、同年5月20日から県産マンゴーを紀ノ国で、同年6月26日から千疋屋総本店で県産パッションフルーツを販売してもらっているという。
(記者)
それは,いずれも知事がトップセールスで実現したということなのでしょうか。
(三反園知事)
私自身が決め手になったかどうかというのは,逆に先方に聞いていただいた方がいいかと思います。いずれにしろ社長にお会いして頭を何回も下げたことは事実でありますし,常務さんにお会いして「なんとかお願いします,千疋屋(せんびきや)に置いていただくことがブランド化になります」と。「ブランド化になることによって,生産者の所得を上げたいのです。やっぱり後継者を育てなければいけません。そのためには,本当にいい物を提供いたします」と。そして「途中で生産が追いつかないということにはいたしません」等,いろんなお話を率直にさせていただきました。ただ,今後とも置いていただけなければいけませんので,ある意味でフォローアップといいますか,そういった努力もしていきたいと。もっともっと増やす努力をするということでありまして,そういった努力もしていきたい,その結果によってたくさんの物を置いていただくような,そうなればいいという気持ちの中で努力していきたいと思っております。
鹿児島県、平成29年7月26日定例知事記者会見
この施策は一見すると鹿児島農業にとってプラスの様にも見え、六次産業的なものに見えなくもないが、農業の最終責任主体が県庁ではない事、特定業者と官民の癒着を招く事を考慮すると、この種の行政行為はあまり望ましいとは思われない。また愛媛農協が生果出荷時に厳格な糖度コントロールを敷き高く売り、そうでない蜜柑をポンジュースに回して、農家の損失分を農業全体で補償していたことに学んだ和歌山県庁が、同様の糖度管理を通った蜜柑にラベルを張り、糖度不足の物にラベル不許可とし、損失分を農協に加え県庁が補填した結果、単価アップしたうえ蜜柑産出額で日本一となったという。他方、和歌山産蜜柑の販売単価は(2017年段階で)7位に留まるのだが、その理由として和歌山産は早生に出荷集中し、市場が品薄になる晩生のころ静岡産が出て高い値で売れていくとわかり、和歌山県の研究所で和歌山産にも高い値をつけられるよう晩生の新種を開発普及を行っているという(和歌山県、知事からのメッセージ、平成29年3月のメッセージ)。計画経済は不可能というハイエクの洞察が正しければ、民間事業者が行うべき生業について県の研究所が深く関与するこれらの事例は、本当に合理的なのか疑問に思われもする。新自由、自由人主義側の見解では、市場の需給とずれが生じ供給・生産過剰で価格低下を含む市場の失敗を招く、つまり民業圧迫という事なのだろうが、もしそうなら、鹿児島と和歌山の県知事、県庁が行政の立場から県産品をより高く値づけさせる事は、結局失敗を招くとみていいのだろう。私がみるところ、価格が高いと需要が減るという需給曲線の関係からも、また消費者がブランド価値に高い値段を払うのは結局その裏付けがある時なのであって、実が優れていないのに高い値を付けて売ろうとするのは矛盾しているわけで、すなわち優れた商品を作るか、それにふさわしい販売まで行う技量と資本が必要なわけだが、これらの事をうまくやる才能があるのは結局、民間の経営者とか労働者のがわなのだといえるだろう。なぜならこの種の才能、商才があるなら最初から起業したり民間事業体で自ら働く方が収入上昇も能力発揮も上限がないからだし、民業圧迫の末に事業を倒産させても減給や失業という責任を負わなくて済む行政という立場にある以上、どうしても本腰を入れて取り組むはずがないだからだ。その上、行政は全体の奉仕を行う調整的役割だから、特定事業に肩入れした結果、別の事業をなおざりにしては本位にもとるとなるし、そもそも民間企業のうち成功する者が現れるのは市場競争の淘汰によるのであり、無数の会社や起業家のうち、どれが潰れどれがうまくやった結果になるのか、未来は変わるので基本的には誰にも事前にわからないのである。高付加価値化をめざす産業振興という面の最終結論を茨城県や北茨城市についてだせば、行政の立場からの民業圧迫を最大限に避け、経済に関する事は公害を及ぼす民間企業についての全体調整役に徹すればよい。具体的には企業連合による過度の独占や寡占を一定程度制限したり、原発や産廃の不法投棄、善良の風俗に害のある生業といった外部不経済を内部化する、つまり公害について企業や有害な事業者自身に責任を負わせて公共の費用負担を減らすよう努めればいいのだ。究極の場合、起業資金を希望者に提供するがなんの返済も義務づけないエンジェル投資家のような事、をもし行政がやろうとしても、さきに挙げた通りそもそもROICやROEを上げるべく行う高付加価値産業の振興にならない事は明らかである(投資あたりの収益が目的でない以上、投資家側に立つ行政と起業家側の民間事業者どちらの意図にも関わらず、収益力のない事業に対しカネをどぶに捨てるのと一緒になるから)。
 これは芸術祭への投機とか、市民祭りの開催という現時点の北茨城市長豊田稔氏が行っている事業体について当てはまる事で、この効果は京都市が進める類の文化振興という名の部分への奉仕と同然で、大盤振る舞いの結果として、税金を貰った個人とそうでない個人の間に不平を招いて民業を圧迫し、人々へ多かれ少なかれ行政の長による浪費の影響力をみせつけることで幸福感を低減させてしまう。また豊田氏は子育て支援住宅という名で、教職員住宅の跡地を県から借り上げ、土地を民間に貸し、管理建設させた集合住宅を市が借り上げるという複合的で実験的といえるだろう政策をとったわけだが、この施策は豊田氏自身は人口減少を憂うという善意でやった事なのかもしれないが、子供がいる世帯をひいきして市税を投入し、子供のいない世帯を結果的に冷遇する事になるし、憲法15条2や地方公務員法29条、30条に記されている全体奉仕者たる公務員の旨に反するというべきだし、そのうえ税金で補填した分、割安な価格で一部の市民に限定し市場に住宅を供給しているので、不当な競争条件を与えている意味で民業を圧迫する結果にもなり、二重の意味で矛盾している。市営住宅を公設公営で作るより、管理が民間委託された分だけ市税の費用負担と集合住宅管理の質が高くなる可能性がある、程度の進歩に留まるだろう。より本質からこの事を分析すると、端的に言って人口が減るのは必ずしも悪い結果ではなく、幸福度という面からみれば人口523万人のノルウェイ、549万人のフィンランド、人口990万人のスウェーデン、或いは573万人のデンマークといった国々の例からいっても、人口の多さと幸福度に相関関係はない。つまり豊田氏が人口減で市税が減るとか、消滅自治体となって最低限度の人口すら持続できないかもしれないという不安を憂いているとしたら、この事はごく勘違いした考え方で、心配するべきなのは今現在生きている市民と今後生まれ来る市民にとって生あるうちの市内での体験が幸福かどうかなのである。失業の結果としての低所得が幸福感を減らす事実があるとすれば、それは最貧者をおもとして比較貧者へ累進的に基礎所得を与える事で最大化するのだから、その為の市の財源を確保したり、それ以前に市内の最低限度の所得水準を上げる為に国からとってくる財源によっている生活保護補足率を100%に近づくまで高めるとか(腐敗行政による人権侵害に他ならない水際作戦の正反対を行く必要があり、希望者全員に保護を与えるという事だ)、それらの分を市内でまかなうには上述のよう市内産業の高付加価値化、具体的にはROEの向上、いいかえれば商才のある市内民間人の出現率を高めるような規制緩和とか環境整備、更に具体的には失敗しても再起できるだけの基礎所得保障と、成功が見込まれる損益率の事業へくりかえし挑戦できるだけの投資資金源の貸与、あるいは現時点の市の財政を例にとれば主な財源である工場用地の取得と販売を、外部不経済の内部化にあたる環境排出による費用負担の企業への転嫁という環境保護条例の制定と共に進めるべきである(2割の人が8割の成果を上げるというパレート法則によると、市内経済人のうち2割の上位能力が市内経済力の上限をひきあげるので、資本を集中させる必要がある)。
 仮に人口が減っていっても、市民全員の所得が徐々に向上していく傾向しかなければ、この市での暮らしは幸福な経験になる可能性が高い。仏教の見解によると子供のいない解脱した無欲の生、最低でも少欲知足の境地に留まる事が最も安らかな人生であり、旧約聖書を含むキリスト教や、イスラム教の見解では、産めよ殖やせよとか、アッラーが育てて下さるというよう子供が多い事を奨励している。この種の両極端な人生観の立場をまとめていえば、或る世帯の子供の有無に応じた人生観が選択され得るのであり、子供が多くとも少なくとも或いはいなくとも、これらは生きる経験において必然に生じる多様性の一端に過ぎず、どれも必要不可欠ではない事になるだろう。たとえばピケティが2015年1月29日の来日シンポジウムで日本全体について述べた事(『週刊朝日』2015年2月13日号)のうち、継続的人口減が恐ろしいとか、長期的人口増大が相続財産の偏りを緩和し格差縮小につながる、といった意見は眉唾ものであり、彼が主張する事のうち、2015年1月31日記者クラブ会見で述べた(『読売新聞』2015年02月03日)低所得者への低課税、若者に有利な税制という2つの点については、上述の様、今後の所得低下の予想が幸福感を減らすという幸福学に一致する分だけ善の可能性がある。仔細にいえば、高齢者が人口減を憂う理由があるとすれば、ミラー・ニューロンを通じた共感性の次元で、将来にわたる所得低下が若年層の不幸を予想させる、という親近な同族連帯への心配にあるのだろう。又この種の共感知能が摩耗した不徳な人であればあるほど、原発を推進し子供を地獄に叩き落したり(自民党閥や一部の東京都民など)、神道原理主義に基づく皇族閥とか薩長藩閥の明治維新と名づけた侵略・内乱戦争を誇って嘗ての内乱罪や植民地収奪での犠牲を美化したり(薩長土肥京芸、いわゆる西日本各地の人達、或いは皇族と西軍)、武器輸出で金儲けしたり(兄が三菱財閥の安倍家や、坂本龍馬、米国軍産を賛美する人々)、自然環境破壊を何とも思わなかったり(例えば東京五輪関連の産業廃棄物を茨城県内に不法投棄している都内業者)するわけだ。まとめていえば、豊田氏は市民の将来を心配するあまり、善意によって子育て世帯に偏って税を再分配するという違憲行政を行っているともいえるが、これは子供がいない最貧市民にとって税を不公平に子育て世代へ優遇調整する悪政に他ならないし、子供がいる事で不幸を被る事例を含め、老婆心というべき単なる杞憂を超えてみれば、住宅に需給の選択肢が多い民間事業で十分なしうることであるからには、単に無益有害な市政といえそうだ。既に作ってしまった子育て支援住宅を民間に売却するべきである。そして芸術祭に関していえるのは、例えば武家が狩野派に城内装飾を施させた事例とか、ナポレオンが美術品を収奪し宮殿を飾ったとか、現に皇室が日本芸術院に皇居内を装飾させているとか、佐賀県が県内出身画家の絵を県立美術館を飾る為1億3000万前後で複数買い上げているだとか、こういった己の権威を強調するため官が発注する美術というものがしばしば存在してきたとはいえ、自分がみるところ決してかわいいとはいいがたい悪趣味なゆるキャラを選んだり、そもそもディズニー並の子供向け遊園地ではあるまいし、ゆるキャラというサブカルじみてはいるが意味不明かつ横並びで笑止千万な流行を模倣している豊田氏の元での市役所の審美眼が特別優れているとは思わないし、他にも豊田市政になってから磯原駅の改札正面に飾ってあった市内名勝の立派なホログラム・アートは低俗な広告もどきで詩とみてもつまらない文句が重ねられた低品位な画像(ここにも醜いゆるキャラが並べられていてキッチュさに驚く)に入れ替えられてしまい、また仮設展示が主な祭りは蓄積する物が残らないだけ単なる一過性の浪費に終わるので、正直いって福祉に回すべき財源を減らす無用な事だといえるのではないだろうか。裏返せば、ごく優れた審美眼をもつ市長なり知事が歴史的価値をもつ作品を購入し、その保有や展示によって市の権威を上げるとか、芸術祭という形をとっていてもいなくても、仮設展示を除外し、恒久展示の公的作品のみを増やしていくという形で市内装飾につとめるのなら、これは前の作品が次々残るという意味で文化資本の蓄積になるため一定の環境美化効果があるかもしれない。尤も、審美眼が非常に優れた人がやった時にしか陸なものが残らないだろうし、審美眼がない人がやれば却って長い間、どうしようもない作品を公に飾る結果になって恥を売る結果にすらなる筈だが。但し、この種の方法で過去の世界遺産だらけになっている京都市の事例でいうと、庭や建築を含む何らかの恒久展示物を役所が管理すると費用が必要になるので、その管理費がユネスコから貰える世界遺産登録をめざすわけだが、パブリックアートの管理費が嵩んだ結果、撤去を余儀なくされたり管理費が市税を圧迫する可能性もあり、またそもそも贅沢品、奢侈の支出である芸術品の購入や芸術活動の助成は幸福論の観点からいえば将来の所得漸増を予想させるという市民全体に対する福祉政策より公益への効果が薄く、最悪の場合は見栄を張る事で逆に成金趣味が軽蔑されたり、不公平感が蔓延する事で市民の幸福度を下げる可能性もある。基本的に公的支援を受けない市内の作家に対する民業圧迫につながるので、市や県の芸術支援による町おこしなるものは、市長や知事の善意の正反対の結果を伴うのであって、はっきり一言でいうと害悪でしかないと思われる。そもそも市民の中にいる作家も払った税金が、市外からきてすぐに去る旅芸人のような人々の遊興費に使われて消えていくというのは、どう見ても市内作家への嫌がらせでしかないし、それならルネサンス期のイタリアやフランスの都市国家とか、戦国時代に秀吉が利休を召し抱えたような例でみられたよう、行政の長が直接この市内在住作家らへ公務員に類する形で給与を払った方がまだましである(例えばダ・ヴィンチはフランス国王フランソワ1世に招かれてその地で亡くなっているが、館や年金をもらっていた)。勿論これも民業圧迫に該当するだろうし、選ばれる作家についても市長の好みが反映されるにすぎないだろうから、全体の奉仕にふさわしい結果が得られるとは余り考えられず、私個人はこの方法論が望ましいとは思っていないが。又これらは芸術史という観点から高尚な立場で言っているが、逆にこの種の例が単なる通俗的な意味で成功していると民衆によってみなされるのは、京都市とか奈良市、鎌倉市といった古都がそうであるよう羽振りの良かった或る権力者の嘗ての栄華を誇る、という後から偶然観光地になった場合とか、伝統工芸という形で現代の需要がしぼんだ死んだ技術を絶滅しない程度に保全する様な文化保護という名目の慈善活動、すなわち退行的な場合に違いないのだが、自分がみるところ、これらはすべて本来の芸術があるべき姿から遠い、ただの欺瞞である。最も典型的にその事がわかるのは、フランスのアルルという町であり、ここの人々は当時の前衛画家だったゴッホを狂人扱いして精神病院に幽閉し、絵を一つも買ってあげず、困窮した画家の生活を助けてあげたりもせず、ついに困り果てたゴッホが自殺してしまってから徐々に評価が上がった彼を、今度は町の宣伝材料に使っている訳である。この事例からいって、アルルの住民は現時点でも、ゴッホ同然の暮らしをしている不遇な芸術家を信じがたい冷遇の境涯に置き去りにしている事は疑いようがないのではないだろうか。却って芸術の天才が最も活かされている市があるなら、その市は今現在生きている市民に芸術の需要があり、現に盛んに供給されている様な市であって、ルネサンス期のイタリアのフィレンツェは、商売で成功したメディチ家という大金持ちが当時のキリスト教で推奨されていた慈善の手段としてできるだけ立派な聖像を求めた事から、我々が知っているダ・ヴィンチとかミケランジェロとかを呼び寄せ、一生を芸術の研究に捧げても食い扶持に困る事がない食客の身分を多数設けたり、教会の礼拝堂を庶民に理解できる宗教画で飾る目的で、そもそも仕事を盛んに発注したわけだ。対して現代美術は第二次大戦で戦場にならなかったアメリカに西洋の作家が移民し、商売で儲けた人々が広大な自宅を飾ったり、美術館への寄付が税額控除の対象となる税制をつかってより高く査定されるだろう作品を進んで買う流れができて、先物買いの投機を駆動力とした前衛美術の画廊ができるようになった事に由来し、これに経済的に衰退したが見栄を張りたいイギリスの人や、パリに近代画家が集まっていた栄光をとりもどそうとするフランスの人などが追随者となって、多かれ少なかれ欧米の民間画廊による美術品オークションを中心とする形でできている。日本はこの流れから大変取り残されていて、美術史の教育などもなおざりにされているので、この投機市場に現役でとりくんでいる様な人はほとんどいない。大衆商業芸術であった漫画アニメを、越境文化的な差別化の戦略で投機市場に持ち込んだ事が、アメリカのポップアートや、大衆的な工業製品を模造し独創性というオーラを失った流用作品との関連付けで評価された村上隆や奈良美智が、一応日本側で欧米における現代美術界の嚆矢になっているのはこういった訳だが、対して豊田氏がこれら欧米の動向との明白な位置づけを伴って芸術祭を行っているのではないのが目に見えているのであって、誰が観衆であり顧客かにもよるが、何を目的とした芸術振興なのかもいまいち分からないほどである。豊田氏の単なる自己満足でないというなら、天心を指導者として大観ら五浦派の美術家らが過ごしていた歴史がある市が、一体、世界の誰に向けていかなる芸術の需要喚起をしたいのか、またなにを供給しているのかについて、適切な美術振興の戦略を、税負担している市民へ予算案と共に提示するべきではないだろうか。
 尤も、このブログでは遥か以前から指摘してきた事ではあるが、全員協議会という市議会前に密室で非公開のまま行われている市議全員を伴う会議が、豊田氏という行政の長を座長にして行われている事から、この市の行政と議会は癒着しているとみなせるのであって、独裁とは三権分立論に立脚する或る定義によれば行政と議会が相互監視と批判検証を伴う牽制の能力を失い一致してしまっている状態を指す言葉なのであり、それは現時点の国会で自民党の安倍党首がまったく同じ状態になっているが、豊田氏も例外ではない。今の日本政府は国会議員から首相を選ぶという行政権の独立が図られていない劣った制度なので、早急に大統領制または首相公選制の導入が必要だが、市政については市長が直接選挙で選ばれている以上、市民自身がこの豊田氏の野放図を自ら選択しているともいえる。豊田氏自身が全員協議会をやめようとしない市政運営の誠実さに欠けている事をあわせみても、市政の腐敗の一つの原因がこの全員協議会という二権癒着あるいは二権混同の害悪にあるのが明らかであり、公開された市議会の場で、市議会議員が市長の行政権行使に関して、きちんと批判的検証を行う必要が絶対にある。その検証が正しい物か、単なる誹謗の類なのかを判断するのは市民の側の役割なのであり、この種の公開された外部検証が行われなければ、市長の行政行為がいかに不条理で、恣意的かつ反市民的なものであっても、そのこと自体を市長自身が反省的に懐疑する機会すら失われかねない。たとえば新市民病院の位置が市の中央部により近く初期計画の場だった現在の新消防署がある高台より、どうみても市長の自宅がある北側に近く移されたり、これに伴って市南でより人口比が高くなっている中郷地区をはじめとする多数派の人々の公益と利便性は大幅に低下したわけだが、この事は診療所の設置でなんとか補填される形式をとったにせよ、市長は高萩市側に病院があるといった市の責任とはいいがたい答弁に終始し、結局はきちんとした理由づけがみあたらないようであり、市長の身びいきだったのではないだろうか。この種の事例は、単に病院建設の場合を引いたが、ここで取り上げた目的がはっきり全市民に公示されているとはいえない芸術祭とかその為のアトリエに使う小学校改造を市北にあたる関南地区を中心にして行うとか、市民や公開済みの会議の場で公正な審査を経たとはいいがたい経緯で参加作家が選ばれている不透明な市税供与とか、あるいは国道沿いには津波の被害も想定される極めて老朽化した市営住宅がまだ残されているのに、子育て世帯向けの住宅をのみ優先する部分奉仕の施策とか、どちらかといえば不公平で全体の利益とはいえない市の行政の例については、市長自身の善意とは別として現に、ただの市長の身びいきに多少あれ該当し、恐らくその様な行政を行っている理由は、彼の暴走を止める職員は当然いないし、市議会が全員協議会で市長から統率されてしまい、市政を監視したり批判的に意見を述べる人が議員の中で殆どゼロになっているせいが大きいのではないだろうか。つまり全員協議会をやめろという話だ。集団浅慮や全会一致の幻想が致命的な集団心理、集団思考の過ちをもってくる。科学一般が反証可能な命題についてしか真理らしさを保ちえないことからも、多数政で反論者がただ1人もいない案件が間違った結論な可能性は100%だといっていいだろう。もし、この案件が本当に善であると論証できるなら、少なくとも1つ以上の観点からそうでない証拠があげられるはずだからだし、もしこの種の反対証明となる証拠が見つからないとするなら、その案はそもそも正しさがまったく検証されていないのと同じなのである。善か悪かの判定についても真偽判断と同様の規則が使えるとすれば、多数の者が参加する議会の有効性は、単に条例という法の整備についてだけでなく市政に関する一切の事についてのこの反証可能性にあるのであって、神ならぬこの世で人の行う絶対善が存在しない事は明らかだから、少なくとも幾つかの選択肢の中から最もましな相対善を選び取ることしかできず、それが相対善と証明される為には、必ず他の選択肢と比べた何らかの悪い面をもっているという反証による比較検証が必要となる。嘗て王が道化を隣席させ猥雑な諧謔の中で王の過ちを周りには冗談に聞こえる形で指摘させたり、今日の企業で外部監査という専門の批判者が用意されているのは、この反証の為なのだ。日本で共産党が政権をとる可能性は極めて低くなっているが、何でも反対するという一つの重要な資質において、この政党は非常に重要な位置を占めているといえる。少数意見の尊重という一般に言われる多数政の長所は、この反証可能性を最小の支持者しかいない人からまっとうさせるという点に求まる。実際、賢愚や善悪は相対的だから、偏差値の様にその意見の正解度を分布させうるとすれば、或る案件の問題解決案の提示で最も良い成績の人物は、ある集団の中でたった1人しかいないはずだ。殆どの人、ほとんどの市民は、この最優秀者の成績を100点とし、最劣等の成績を0点とした時、それらの中間点のどこかに該当する意見しか持ちえないはずだ。アリストテレスが公徳の面で最優秀者の単独政(いわゆる王政)を最善といいい、多数政を消極的な意味で誤り辛いとしか述べなかったのは、何らかの形で君臨する王か、多数派が選出した長によって行政が行われるどちらの場合でも、王自身が極めて賢明であって他の全市民より自己批判に優れている様な場合があるとしても、特にこの行政権の行使に関する反証可能性を満たす様な場合に過ぎないといえるだろう。市長を少数者である貴族的集団から選ぶときについても同様である。
 具体的に市議の場についていえば、市長の政策立案についてそれが相対的に正しい可能性があると証明する為には最低でも1人以上の反対者が必要になり、この検証の見地が市長自身が気づかない盲点をついたものであればあるほど優れて望ましい指摘にあたる。よってある議題について全員一致で賛成の案件については破棄するか、要検証として保留する様な条例を、単なる市議の慣行としてのみならず既存で作っておくべきだ。逆にこの条例のもとで或る案件に市長以外の全議員が反対の場合、市長の意図を集団浅慮で全議員が読み違えている事しか証左されない為、議会と行政の分離の旨から、この案を推進する事に問題はない可能性がある。なぜなら市長が最善者だった場合、必ずそれより劣る公徳しか持たない全議員が全員反対に回る事になるだろうからだ。市長が独裁化し明らかに最悪の政治を行っている時にも全議員が反対に回る事が考えられるので、全員賛成、全員反対のいずれの場合でも、全会一致はその案の盲点が反証されていない事になる。よって、たとえそれが最善案にも関わらず全員反対だった場合でも、少なくとも本当に最悪案かどうかわからない為、保留するか、さもなければ再考が必要と考えるべきである。市民は市政から給与をもらっておらず、専用の議員を選出してもいるので、全立案について無償で市民に監視する役割を担わせるのは困難である。つまり議員か、それに類した外部監査役の中からこの市政監視の役割を担う人が必要である。

 結局のところ、産業に関して、北茨城市長や茨城県知事は、全体調整的で、公害がない限り民業放任の原則に立つ経済政策をはかると同時に、保障に関しては、最貧者を最優先とし、比較貧者の側へ傾斜的・累進的な基礎所得保障を進め、BIと負の所得税を茨城、北茨城行政が導入し、県・市域の幸福度を最大化する事が必須となるだろう。

  水戸市の高さ制限に話を移すと、これは市街地の人口密度を低下させる要因となっており、集積の利益に有害だが、他方で大都市化をある程度防ぎ、結果として失業者を生み出す潜在要因も、求職者を南関へ吐き出す事によって未然防止する結果になっているかもしれない。したがって、この正反両面をもちあげて、集積の利益を発揮させながら失業に伴う所得低下という潜在要因を防止する必要があるが、前提として電車で都内へすぐ通じる距離に留まる鼓舞がなければならない。それは事業を行うにあたって水戸市の方が少なくとも都内より、できれば世界で最も有利な何らかの誘因でなければならず、この産業誘因が現存する場合において、市街地の超高層化が合理的なら条例の撤廃か、ランドマークの改変どちらかが有益になるだろう。また産業誘因が現存していても、市街地の超高層化が不利になる場合、例えば同じ業務あたりより広い敷地が必要なので市の地価が高騰する場合は、高さ制限を維持するべきになる。いずれにしても、比較優位となる産業集積の条件が市街地に必要であり、基礎所得の保障による人口減少率の低下もこの事に役立つかもしれない。無限の大都市化そのものへの志向は、上述の仮観論で述べた通り、際限ない情報氾濫がもたらす嫉妬を呼ぶ競争対象に起因した不幸感という面で決して、合目的ではない。幸福からみれば、都市住民全員の所得増加が無限の未来に向かって見込まれる様な状態が合目的である。
 イギリスが高福祉化の果てに、被生活保護者の人口増加によって生産性の低下を伴い、サッチャー時代に中福祉的な新自由主義政策へ転換した。日本政府は小泉・竹中のペア以後、広がる格差を縮減すべく民主党時代に高福祉化を部分的に図ろうとしたが、東日本大震災後の混乱や菅直人政権の暴走、自民党による妨害が反動をもたらし、結局いまみられる低福祉化を進める新自由主義路線を続けている。この路線は安倍長期政権下で偶然起きた団塊の世代の大量離職と少子化の二重の幸運によって失業率の低下をもたらしはしたが、就職先ほしさの若年層が、倫理自粛のないインターネット文化として匿名の悪意が集積した2chまとめサイト等の極右メディアから差別主義に洗脳されていた事とあいまって、長州閥原理主義に基づく明治右翼を自称し退行的ともいえる民間介入を伴う国家社会主義や、アメリカ経済のやり方に追従する富裕層優遇の金融緩和政策(つまり金融商品の利益にかかる減税と、日銀や年金機構による日本株買いでの株価釣り上げで、国内外の投資家、特に外国人投資家へ日本企業の売却をはかるバブル誘発政策)をとるアベノミクスの成功と勘違いする状態になっている。端的にいって安倍独裁政権は小泉・竹中路線以後の自民党政権がGDPの低下、国力低下をもたらした国家的失墜と帰一であり、報道統制や北朝鮮の砲撃に恐れおののく近隣国への差別意識から洗脳されていた衆愚がこの独裁者の失脚以後に日本経済の敗北をしったところで、時は既に遅いとなっているであろうし、現になっている。イギリスの経済政策についてもいえる事として、金融緩和という名目で投機や投資を煽る路線は必然に格差拡大をもたらし、少なくとも低所得側に不公平感や嫉妬の苦痛を与える為に幸福度を低減させるという事であり、金融緩和策をとる前には十分な社会保障、特に将来も所得低下が起きないという意味での基礎保障の充実が必要だったという史実である。アメリカはオバマ時代にフード・スタンプという形で、少なくとも配給による低所得者向け基礎保障を行ったが、日本の側は皇族閥に属する安倍、麻生両氏が総理・副総理になったという世襲財閥の寡頭政治が進んでいる事、また被災者がこれら薩長藩閥の末裔と対抗した福島を主とする東北側の人々であったことからも、小泉・竹中が進めた非正規雇用法の延長下で低所得者を冷遇する事の方が優先された。安倍独裁下で日本の相対貧困率や子供の貧困率が上がったと同時に、安倍の生まれ育った都内の富裕層の数が増えたのはこの為であり、総じて、安倍党首のもとで自民党の一党独裁あるいは自公寡頭政治は、新自由主義の牙城であるアメリカより一層、国民全般を不幸にする様な施策をとった。その上、軍艦島や松下村塾を含む、侵略主義の証拠を、政治学的に疑義が呈される中で世界遺産登録するといった、安倍の地元である山口県への不当かつ周旋的な利益誘導もこの中に含まれているし、既に決まっていた栃木福島地域への国会等移転を無視して大都市であると同時に安倍の地元への道のりの途中にある京都市を他の過疎自治体より優遇して省庁移転を決定させる等、森友や加計学園だけでない数多の権力濫用を含みつつである。この醜い現実から目を背け、差別主義や独裁者への狂信を補完する確証バイアスを得ようとした愚民は、都内マスコミが視聴率めあてに模倣する、極右的な自画自賛の愛国番組を、まこと恥ずべき事だが熱心にみて、現実逃避していた。日本国民の過半数が愚民であるという事は、過去の歴史や他国の有様と比べて何ら遜色ない(これは全体主義軍事独裁政権が天皇帝国の元で行っていた数々の蛮行を省みれば余りに傲慢な意見であろう)が、先進国と呼ばれる国々の中にあって、その政治民度の低さは最下位級であるという事がまぎれもない真実である。我々が政治的に愚昧な制度をもっている、という事実について我々は冷静に認め、抜本的改善につとめるしかない。神道という自民族中心主義の教祖が象徴と名乗り、議員全員を全会一致の幻想で無理やり洗脳しつつ退位法を違憲立法させ得るほど三権の中核について実質独裁し、しばしば宮中祭祀といって徹夜で怪しげな儀式を行っている恐ろしく時代錯誤で旧態依然な現状からいって、政教分離すらはかれていない悪質で後進的な体制であり、中華思想的な態度に終始する官僚主義とか、平気で企業献金を受け取って恥じない一党独裁の体制等、他の全ての面についてむべなるかなと現実の国政が証明している。
 県内で最大都市といえる水戸市が、或いはそれ以外のいずれかの県内都市が産業面で高い占有率をもち、競争優位に立つには、上述の事情からいって、起業リスクを世界一とりやすい基礎所得保障が最も有効だといえる。ある会社、またはある事業、ある投資が成功するのは確率にも依存し、失敗する危険を侵す必要があるが、それら挑戦を行うには、失敗しても再起できる最低限度の損益率の管理が必要である。ところが日本政府の経済政策は、低い資本金でも挑戦できる高レバレッジの為替取引や仮想通貨取引を規制してみたり、低所得に留まる非正規雇用法の維持とか、学歴フィルターをかけた新卒一括採用の慣行と中途採用の少なさといったひたすら国民の再挑戦を阻むあらゆる陋習にみられる通り、むしろ危険とか例外的才能を最小化する方へ傾倒する。これは日本政府だけでなく、セロトニン・トランスポーター数が少ないため不安を感じやすい脳の遺伝子をもっている、日本に在来してきた人々の生得的な性格傾向にも原因がある。悪い意味でお役所仕事といわれるよう公務員がその最たる存在だが、日本人の頭が固く、融通の利かない場面がとても多くみられるのは、機械のよう型にはまった事をくりかえすのが最も不安を感じ辛いからなのだろう。事業の成功にはその裏に凄まじい数の失敗という試行錯誤がどうしても出てくるものであり、素早く問題解決学習をはかる事ができこの種の失敗を他人に比べてし辛い人がいたとしても、なおそうである。要はこの様な安全志向の脳をもっている在来の遺伝を考慮し、それでも膨大な失敗にめげず挑戦に次ぐ挑戦を行うよう鼓舞する条件づけが、県内の人々のうち一部の人が大成功する為の最低限度の方法論である。行政が為すべきなのは、起業や投資、事業を興して失敗しても、その他、研究や探検、探求のいかなる事例の失敗を含む試行錯誤についても、最低でも挑戦する姿勢を何もしない臆病より奨励する前提に立って、致命的にならない範囲での失敗を損益率の計算から許容しつつも、県民の全数が何らかの事業で失敗した後に少なくとも再起できるだけの基礎所得保障を徹底する事だ。ごく簡単にいうと、何もしないよりやってみる方がましであるとし、リスクを許容する考えでいなければならない。大抵は失敗するかもしれないが、工夫を重ねて目的を達するよう続けていれば、少なくとも県内の誰かが何かについて、圧倒的に傑出した成果を上げる結果になる筈だ。またもともと不安を感じやすい脳であるからには、この種の危険を取る事を極度に嫌がる人もいるのだから、進んでリスクをとる挑戦者という気質を全体主義的に押しつけるようなことは避け、飽くまで当人の意思と好みに基づいて自由の範囲で、この種の行動原理や環境づくりを促進し且つ推奨しなければならないのだ。大井川氏も、あるいは豊田氏も、水戸市の高橋靖市長を含む県内の全郡市町村長も、特に大井川氏が見逃している事は、或る危険度の高い事に挑戦するには、少なくともリスク・リワード比の点で自分が死ぬことはないとか、失敗してもやり直せるという確信が持てない限り、人は命がけの無謀さをなかなか持てないものなのである。無謀は危険の過小視、臆病は危険の過大視に由来し、両者の中庸である勇気は危険度を適切に見分けるところにある徳である。再起可能な最低限度の基礎所得さえ確約され、危殆に及んでは実際に手に入れられていれば、県民市民は死なない範囲で好きに行動するはずであり、殆ど成功する見込みがない様な事とか、間違えれば損害を被るような事についても、自分からやってみる人がいるのである。つまり、起業を奨励するとか、産業上の成功を求める為には、実際には事業をする側へ手を加えるとか助成するのではなくて、その地と図を反転し、失敗した場合の安全度、つまり基礎所得保障が完全であればあるほど挑戦しまくり易く、結果として成功者を続出し易くもなるのである。上述の人々のうち、和歌山県や鹿児島県の事例は具体的な農業の革新そのものを主体となっている県庁に依存したり頼る癖を呼び込んでしまい、京都市や佐賀県、あるいは北茨城市や茨城県の事例は文化という名で芸術の挑戦そのものを行政が身びいきな大甘の判断によって保護する結果になり、却って前衛性を損なうであろう。これらは市場の合理性とか、現代美術が欧米オークションでの投機市場を中心に回る様になっている現状(つまり現代美術の審美眼について素人級の一行政人が現代美術の流れを変える様な業績を、他にも用途がある税金を顕示的に消費する範囲で主導できるとは思えない事)にかんがみ、官製の民業圧迫が基本的に全て害悪であるという見地に基づいて、寧ろ県政市政はすべて、これらの不安がりの人々の主観からみて損益率が必ずしも芳しくない様に見える挑戦をも進んで行えるような基礎所得保障の側に一切の舵を切るべきであると知らせているといえるだろう。勿論、損失に対して利益の割合が高い、つまり損益率が高い生業を選ばねばならないのだが、保守主義の傾向をもつ人がそうであるよう、過度に臆病な人々はこのうち損失を課題に見込む傾向があるのだ。俗な言い方をすれば、「下らない事あれこれやるならとりあえずそのカネくれよ(そうすれば好きにやるわ、なにしろ税金が定収入としてもらえている公務員には終ぞわからないのだろうけど、庶民は明日食うものにすら困っているんだから)」、という事であって、寧ろその方が県民市民を幸福にするし、芸術を含む文化や産業の振興にも結果的になるという論証がこの論文の趣旨であった。

2018年3月15日

卑屈な客を避ける事

 茨城という名義に対する反応で、相手の品性がわかる。この名義へ差別的にふるまっている相手は第一に下賎で、第二に無教養である。我々はこの県、常陸国の偉大な歴史と尊厳を知っており、茨城に無礼を働く相手はそれをしらないのだし、よく知らない相手を軽侮や差別する時点で人格的に劣悪であるばかりか、もし知っていて非礼を働いているなら二重に悪辣だからだ。つまり、茨城という言葉は嘗て先住権蹂躙の侵略罪業を行った皇族閥を含め、相手の品格のリトマス試験紙に使える。
 ブランド総研の田中章雄や、この会社の会員、そして東京マスコミは、非常に品性下劣で無知な人々だという事が明らかである。人品には貴賎がある。自分に劣る相手とのつきあいは自分に害がある。魅力度調査という母数集団の限られた疑似統計による虚報とか、傲慢な都内マスコミの都鄙差別に基づいて、負の後光効果から偏見をいだき、向こうから差別的に扱ってくる相手というのは、確率において先ず100%卑しく、愚かな相手に違いない。田中は特定都道府県を差別する確証バイアス情報でカネを稼ぐ、という極めて卑しい生業を行ったに過ぎないが、我々の側は長い間この不当な人権侵害と地域差別を受け、日々状況を観察し尽くした末、汚名を着せられるという一見した不合理とは逆に、我々にとってごく好都合な徳目をみいだすに至った。虚報の偏見に洗脳され易い無知蒙昧な差別主義者を、単に我々の出身地名、居住地名を表すだけで遠ざける効果があるのだ。その種の悪人とつきあうな、という自衛に、魅力度という確証偏見は確かに使える。事実、私の人生経験上も、茨城県に偏見をもち差別してきた相手は、例外なく卑賎で愚かな、つきあう価値のない人々だった。即ち、北海道、沖縄、京都や東京といった地域を偏見に基づきひいきしている人々も救いようがなく下劣なのだろう。
 たとえこの種のテストの利用法をしらないとしても、無意味に差別してくる相手と自分からつきあおうとする鼓舞は無い筈なので、自然にその愚人卑人から遠ざかる結果になってきたのではないだろうか。茨城という言葉は天皇による人権侵害と日本人虐殺の史実という非常に独特の語源をもっているし、一般にはこの様な負の印象を与えかねない語源の名義を己につけはしないのであって、その事をも知らない相手が、或いは都内の悪意ある下衆なマスコミの偏見報道に簡単に染まって、無色透明な相手を罵るとしたら、天皇家同然に人の痛みがわからないばかりか罪なき人を殺害して驕る最悪の蛮族だという証拠になる。
 今上天皇は弟に常陸宮という親王任国の慣例による名義づけをしたわけだが、水戸藩尊皇志士の多大な犠牲からなった近代化と対照的に、水戸学を悪用し水戸藩を踏み台にした薩長藩閥以後の茨城県域への皇室やその母体である日本政府からの冷遇ぶりは目に余るものがあるし、平成以後はネットで田中を含む西国移民や都民らが凄まじく悪意ある差別偏見を茨城へ持っている事も実証された。よって貿易を除けば下品な県外南蛮西戎とつきあう価値は無いことになるが、松陰や西郷、木戸孝允にみられた通り、一見敬ってくるようにみせかけ内情を偵察し、松陰や木戸は倒幕論に転向し水長同盟を裏切り、西郷は戊午・倒幕の偽勅を皇族閥に書かせ首都圏で内乱させるなど、のちに悪意を込めて平気で裏切って茨城に汚名を着せ、ありとあらゆる害悪を為す、という手の込んだ悪人も薩長からやってきた厳然たる史実があるわけで、単なる差別主義者より余計に、茨城を表向き敬ってくる面従腹背の相手は疑わしいと考えるべきだ。

 たとえば国民主権と尊皇論は政教分離原則の前で二律背反し、或る場合に一方を取ればもう一方は取れないので根本から矛盾している。尊皇と愛民を国体論で統一した烈公と藤田東湖の思想が、松陰の中華皇帝風一君万民論の影響が弱まった戦後政府で影響力を回復し、象徴天皇という徳川時代の大義名分的な体制に国政はとりあえずおさまっているとはいえ、天皇皇族の政治利用によって公卿的な京都人寡頭政をめざす京都市門川大作・京都府山田啓二の両首長が省庁再編に介入している上に、松陰を神格化する長州閥原理主義の残滓である日本会議や神道政治連盟議員が再び天皇主権による帝国主義を復活させようとしている為、また事態は複雑化してきた。
 茨城という名義は、黒坂命を含む皇族閥という飛鳥時代に大陸・半島から移民してきた一部の弥生人や任那人、百済人らが、先住権者の日本人を一方的に虐殺したという、天皇家の侵略罪業を表している。と同時に、水戸家が尊皇論を藩士へ植えつけた経緯として、殉死した尊皇志士がこの県では極めて多く、特攻隊員や皇道派の人々を含め、極大の自己犠牲による忠誠の証拠が山ほどあるにもかかわらず、今日の皇室含む日本政府や東京都・京都府京都市といった天皇を政治利用中の後援者、そして天皇制に依存し或いは神道に帰依する日本国民からの軽視、蔑視、差別がある、という矛盾した情報が読み込める。したがって茨城史を知る者にとってこの2文字の情報量は非常に大きいわけだが、何も知らない人にとって、この文字は「茨」という苦難に満ちた路程を意味する茨の道なる慣用句の他あまり使われないため、少なくとも日本では好印象をもって捉えられない傾向があるのか、悪解釈からの偏見や確証バイアスに基づく差別的汚名をひたすら着せてくる衆愚が続出するわけだ。

 全てを鑑みると、 たとえ維新胎動を僭称し、奥羽越や徳川領、北海道と沖縄、他の東亜諸国を犠牲に幕末の内乱罪を美化する、薩長土肥の様に利己的なだけの明治右派であれ、たとえ弥生時代以後に日本人を奴隷化してきた中国移民の天皇家であれ、又その手先であった全華族やその末裔であれ、これらの人々は過去から現代に至るまで自分の事しか考えていないし、他人に害悪を与えて平気でいるばかりか逆に貶めている性質の人達であり、その種の利己主義者が飛鳥時代頃から徐々に全日本を王朝とか宮中とか殿上とか幕府とか政府とか宮内とか名乗る暴力団の集まりから支配正統性の偽装で洗脳してきた。これらの人々について脳科学的には遺伝子上、線条体ドーパミンD2受容体密度が低い(自己優越の錯覚をもち易い)とか、共感知能が低いとか、教育上、利他主義が軽視されているとか、天皇家や公卿公家、薩長土肥のやった悪事を合理化して教わってその洗脳を批判できていないとか、色々な理由があるだろう。またこの洗脳を受けて平気でいる日本人衆愚のがわには、脳のセロトニントランスポーター数が遺伝的に少なく常に不安を感じ無意味に群衆化し易いとか、それに加えて受けた教育上、数の暴力や強弱を善悪と誤認し易いとか、弱肉強食や勝てば官軍を信仰していて善き敗者とか、負けるが勝ちとか、判官びいきを理解し辛いしその立場にたとうとしない、また事大主義の傾向があって当時の政府や権力者、多数派に媚びを売るとか、そもそも卑屈だとか、こういう性格的傾向があるといえるだろう。
  我々が茨城という烙印によって相手のもつ内心の反応を分析し、見分けられるのは、冒頭に示したよう、これら下品で日本史に刻まれた過去の経歴が悪い人々か、それとも、冷静で科学的にわが県の事績を踏んで貴族的に我々と接する相手か、あるいは、悪意をもってわが県の内情を探るつもりがあり、将来にわたっても裏切る可能性がある相手か、である。法則として、茨城という言葉に対する反応が
1.差別的な時 → 下衆
2.中立的な時 → 無知な人
3.敬仰的な時 → 知識人
4.敬仰的かつ卑屈な時 → スパイ(あるいは裏切る可能性がある人物)
といえるかもしれない。ここでいう卑屈とは、相手が自分から下手に出てくることだ。自ら卑屈にふるまう事を心地よいと感じる人は先ずいないので、敬仰的かつ卑屈なのはその態度が下心を含むと示しているし、本心では見下しているからわざと卑屈にふるまって相手の弱点を探ろうとしているか、面従腹背で相手を侮っている、つまり慇懃無礼か、いずれかである。松陰や西郷はこの種の奸賊で、弘道館で藤田らに教えを請う卑屈に思えるふるまいの後、わが県に及ぼした災いは最大だった。150年もこの二者を寛容の精神で水戸藩士がもてなしてしまった災厄は続いているのだ。
 おもてなしだの観光立国だのが、己の権力維持の為アメリカへ媚びる円安誘導目的の安倍晋三や、賄賂五輪の東京都、古都誘客の京都から唱えられ、財政基盤が脆弱な各地の自治体も同調する傾向にあるが、わが県の経験則からいえるのは、招かざる客がもたらす災いのすさまじさからいって、決して非選択的な来訪者歓迎はよい結果を伴わないと確信できる。日本含む世界には悪意ある人物、根っから性悪な人物が数多いて、天皇家や皇族、原発をもってきた都民、薩長の人物がそうであったよう地域破滅の原因になる。我々は北茨城市や茨城県に公益をもたらす人とのみつきあうべきで、上述の分類によれば、少なくとも平成日本で最多なのは下衆、次が無知な人であり、知識人はつくば市があるとはいえ相対的に数が少ない。裏切る可能性がある人物という意味では自民党の国会議員や皇室が現にそうであるし、実際に隣県の状況をしりながら原発再稼働を推進したり、差別主義者のたかる中華思想の都内から暴利して何一つ還元せず、わが県民を裏切り続けている。上述の分類ではスパイが最悪であって最も気をつけねばならず、我々にもたらす災いを考えれば、最大限排斥されるべき相手である。次が下衆であるが、この人々はもともと偏見や無知を悪意で糊塗する卑しい連中であって、そうであるからには進んでわが県に用はないから、観光業にとっても好ましい客でなくわが県を訪れるだけ害悪である。そうすると我々が集客するべき標的は、第一に定着と観光どちらについても我々の公益になる可能性が最高の知識人や教養人であり、第二に無知な人である。ただし、無知な人だけでなく知識人の中にも道徳心がなく利己的なだけのスパイに転化する者もいるので、結局、集客フィルターは誰に対しても必要だ。既に田中や都内マスコミによる洗脳下の下衆は最初からつきあう相手としては元より集客対象から外すべきだが、それ以外の人々については、卑屈で利己的な人物かどうかを見分けるのが重要である。端的にいうと、卑屈な態度で生きている人は人格的に劣悪であって、利己的な人物がわが県についてある程度より知識を持っている状態のとき内心を隠すため慇懃無礼な態度をとる筈だから、この点で疑わしい相手を遠ざける事がとりあえずのフィルターになる筈だ。たとえば大政奉還を記念しながら水戸市はじめ、行方市、北茨城市を呼ばなかった現京都市長は第一に下衆か無知であり、第二にこれから何かを調べてがわが県を訪問すれば先ず確実に慇懃無礼な態度をとる事だろうが、この卑屈な態度をとる人がわが県の為になる可能性は万に一つもなく、却って自分の事しか考えていない証拠である。従って専ら呼ばずばこまいが、例え機会があってもこの市長はつきあうべきでない相手、自ら忌避し、遠ざける必要がある相手なのが明らかである。
 又上述のよう便宜的分類をいくらしたところで、相手が完全に理解できるものでもないから、我々にいえるのは誰とでもつきあったり、誰でもいいから集客しようという考えは一切捨て、品性において我々以上の人物にのみ親しむべきだという事だ。

茨城県政の三大革新

 つくば市の駅前にみられる通り、TXの常磐線との接続で起きる必然として、ストロー効果で県央の商店が東京圏にとりこまれ衰退する。大井川氏が新幹線誘致構想を前高萩市長小田木氏へ述べていたと私は記憶しているが、JR自身の常磐線やTXの磁気浮動化で十分な技術改良なので、新幹線停止駅に古河駅を加える運動(或いは既に行われている地下鉄延長誘致)程度の話にとどまる筈だ。実際、首都圏の鉄道網と接続してしまうと茨城側にはマイナス面も大きかったし、今後とも大きいだろう。守谷市の場合は埼玉・千葉・神奈川の様ベッドタウン化で人気を博したのだろうが、これは茨城都民を増やす結果にはなっても茨城側に雇用や経済発展を生まないし、県内商圏自体が吸い取られてしまう。
  TXを水戸へ延線させようとする県内商人は、県内雇用を生む勝算がないのに、全国同然の前轍を踏もうとしている。つまり我々にとって重要なのは茨城県内へいかに超東京的な為事・生活環境を作るかであり、北央まで東京圏にとりこまれる事では決してない。
 少なくとも自分がみる限り、茨城県の近未来は東京圏より遙かに発展した三大都市が連なる独自の道であり、それは茨城圏、常磐圏など別名で呼ばれ、東京圏とは峻別されている筈だ。この三大都市は専ら日立、水戸、つくばであり、三商圏とそれぞれの間の交通網をいかに整備するかが重要である。西日本や北日本、茨城県外の日本人らはテレビをはじめとしたマスメディアやアニメ漫画といったサブカルチャーに洗脳され、そこで理想的に捏造された東京圏の虚像を妄想して、飛んで火に入る夏の虫として南関へたかってくる。都内の最悪の住環境での地獄的東京生活で心身とも打ちひしがれ、理想と現実のギャップで憂鬱症になる、パリ症候群ならぬ東京症候群を発症する。いうまでもないことかもしれないが、都会とはどこもその様なものだ。我々が行うべきなのは、東京圏含む全世界の都市圏の欠点を完全に克服しきった、宇宙のどこよりも優れた生活圏を着実に作っていく事で、それは前知事時代を含め既に多かれ少なかれ行われ来た。人間が快適域として生活上の欠点を克服し得る住環境とは、大都会でも大自然でもなく、田園、郊外、里山、田舎、中小都市、或いは単に(街か町の文字で)まちといわれている中間地帯にあって、これらは都心と自然という両極端の非人間性をもちあげた状態である。しかし経済原則たる集積の利益と、環境保全たる自然保護が無用な訳ではなく、人間は少なくともこれらの都市と自然の両極間を合理的に行き来できるうえに中間的な場所に居住地をもっている状態、即ち、住環境にあっては自然現象をある程度制御しながら人に快適な面を利用しながら、商業化された雑多な都会へは用があるとき快適かつ素早く、利便性高く、容易に出たり入ったりできる生活形態が一般に望ましいのだ。東京都民含む南関人や、京阪神や福岡を含む西日本の東京メディアバイアスに犯された人々、また札幌や仙台人を含む北日本の人々、或いはサブカルみすぎのオタク外人は、この中庸的という意味で優れた生活環境に関する洞察を余り明白にもっていないからこそ、東京という虚構のスラムへ無駄に憧れる。時には現徳島県知事や京都市長・京都府知事のよう田舎コンプレックスを爆発させて「vs東京」なるキャンペーンを打ったり自文化中心主義で世界の中心ぶったり差別化ごっこで逆行し、また都民自身もメディア喧伝完了と踏んで優越的欺瞞のナルシシズムへ同一化しながら中身の空っぽな東京中華思想に耽って、愚か者の偏見をかき集めた魅力度だの田舎だの都外だの23区外だの別の区への無意味な差別観をばら撒き、悪行三昧しているのだ。都内が舞台の漫画アニメの様な人生に憧れる幼稚な外人は、現実の多かれ少なかれ悲惨で窮屈な東京暮らし、或いは変型版では京アニ洗脳での同様な京都暮らしでそれが偶像崇拝だったと気づいた時には、もう移民相手の都内商人や京都商人からふんだんに大金を貪られた後であって土台手遅れである。端的にいうと天皇家が彼ら衆愚の盛んに真似る偶像なわけだが、この人達の都心に暮らしながら別荘地を巡るという中華皇帝を模倣した生活様式が、劣っているのだ。なぜなら都心は過密や自然破壊のため汚染されており、不衛生で生活に不適かつ不快だからであり、別荘地を近隣の自然の中にもっていたとしても普段の生活面での害毒を補うに足らないし、逆に自然の中は非人間的かつ不便なので長く留まれないから。一般国民が郊外に居住し、まれに自然に親しみつつ都会に通勤したがるのはそれが生活上最も快適で、合理的だからである。つまり茨城県がつくるべき環境とは、自然と都会を残しながら両者を調和させた郊外で結ぶ事であり、いま現在、日本人一般の生活環境に対する趣味は宮内庁発記者クラブをはじめ都内中華マスコミによる醜い洗脳の為か極々悪いので、既に快適な住環境において東京圏より先に進んでいる茨城県含む首都圏北部を認識することすらできていないのである。西日本人の東京コンプにうろたえた様子や、都民の凄まじいうぬぼれと高慢をしっていれば、およそ今後とも、かれらにはできないだろう。哲学が理解できなければ相手は彼らより上位の存在であって、価値観含む存在そのものを認知できない。
  具体的に今後我々がつくるべきなのは、茨城空港を巡る日水筑三大都市圏での仕事づくりと、県内各地からそこに通じる大動脈交通網だといえる。核シェルターを兼ねた重厚なコンクリートチューブを地下に通す県道や、地下鉄網が必要ではないだろうか。またTXを東京側からみるのでなく、茨城側からみて、いかに茨城の為に利用するかだけ考えればよい。その為には筑波、水戸、日立が世界で最も優れた職場や学校の町になる事が優先されるべきで、税制面で起業家を優遇し、世界で最も起業や会社・資産移転をし易い自由人主義的施策の為に、想定される商法面での全規制撤廃が必要である。TXを水戸まで延伸させる場合、首都圏人口を丸ごと水戸ーつくば間に引っこ抜きつつ更に全世界から吸引するつもりで、先に水戸か日立へ遷都を行ってからするべきだ。つまり県北県央に人口流入の誘引がない段階で延伸をするのはただの悪手で、東京の植民地として埼玉、千葉、神奈川のあとに加わるだけの結果になってしまう。全世界人類が必然に茨城県央、県北で生活したくなるしかない鼓舞が首都圏との交通網の完全整備に先立たねばならない、というのがこの小論の結論だが、いわばストロー効果に対してコップ作りに集中せよというわけだ。
 じゃあもっと具体化すればそのコップがなんなのか。次の点が全て具備されるべきだ。
1.茨城ではBI(基礎所得)がもらえるので生存権が保障される
2.茨城では金融所得に課税がなく寄付にも無課税なので投資と慈善が進む
3.茨城では起業資金を出世払いで借りられるのでベンチャーリスクが世界一とりやすい
これら茨城県庁が率先すべき三大革新は若年層を主とした全世界の人々が夢を見られる環境の最低条件である。同時に、命を害する不安の源泉であって子育てに最大公害の上に防衛上の致命的弱点である原発を日本で最初に廃炉成功する事は、ひとさまを呼び込むのに先立つ第一前提だというほかない。過ちて改めざるを過ちという。むしろ、大井川氏を含むこれまでの茨城県民は東京都民と日本政府、一部の自民党員、そして日本原電の株主共から完全に騙されてきたのであり、お人よしの田舎者の命を我欲のため換金している原発ヤクザとは、金輪際、断固として即座に、縁を切らねばならない。君子豹変。極悪人と手を組む者も極悪人たらざるを得ない。
 もしこれらの革新を県庁が遅々として行わなければ、北茨城市が単独で先行実験し、県北発展の礎となるべきだ。なおここでいうBIで負の所得税として、高所得者が払い、中所得者は払いも貰いもせず、低所得者がもらうという累進化をはかるか、それとも単なる全員一律で生存所得を保障するかだが、どちらが望ましい結果をもたらすかについて社会実験が必要だ。財源を全市民分の生活保護費とし、期間を区切り二通りやってみて、市民アンケートや経済状況の変化からより優れた方を残せばいい。

2018年3月12日

和歌山県政の模範点

 和歌山県では、リスク分析付きの避難場所表示、携帯・スマホやデジタルFMを使った災害情報発信、災害時に被災地に派遣する要員を予め任命しておく災害機動支援隊や瓦礫処理システム、芝居でない実践型防災訓練、災害復興計画の事前策定、などを行っていて、世界で唯一地震の実測データを使って全県で津波浸水予測ができるという。
 更に、和歌山県知事の仁坂吉伸氏は『稲むらの火』の説話にみられる濱口梧陵の行動から学んでいると思われるのだが、すなわち津波来襲後に自らの畑の藁を燃やし暗闇の中で村人へ避難路を示した史実から(物語のなかでは、津波に気づいた五兵衛が、わざと高台にのぼって稲を燃やした。火事が高台の方でみえたので、火事をとめるため、高台へのぼって来た村人は、しらずしらず津波から守られた、という話から)、仁坂氏も和歌山で予想される津波災害時に、どこまで被害があるかを事前に計画し、その後の復興計画まで立てて災害に備えているという。なぜなら復興に遅れるほど被災前までの回復が不可能になってしまうため、被災後にすぐ県民へ行動の筋道を与えられ、しかも津波によって町の一定の部分が破壊されてしまえば都市計画なども真新しくできる為だという。
 仁坂氏は他に、日本の企業が新卒しか採用しない悪習というべき慣行をもっているため、その時点以後に就業の機会を失ったり、転職者の人々の為の「第二の就活サイクル」を作り、多くの企業や団体に協力を願って新卒就活サイクルの終わる9月の後、10月から2月にかけ、企業等に改めて中途採用の求人を出してもらい、それを集めて宣伝や就職イベントなどをどんどん行って、新卒以外のひとびとが就職を決めやすくしているという。さらに、一度民間企業で働いた元公務員などが再び公務員にもなれるよう、年齢制限などを廃し、中途退職者に就業の機会を与えるとともに、民間の知恵を公務に生かすようにしているという。
 これらの事はそのまま茨城県や北茨城市が習い、真似るべき事だといえるだろう。仁坂氏は名君だといえる。
 茨城や愛知もそうだが、旧徳川の支配地は薩長イデオロギーに染まった東京マスコミから不当な差別を受けたり軽視されたり、偏見で虚報されたりするのが常だが、和歌山も決して例外ではなさそうで、いかに善政徳政を行っても、或いは和歌山県民にとって望ましい内容でも、東京の報道では少しも取り上げられない事を仁坂氏は随筆の中で苦慮しておられた。この憂慮は茨城県が長い間被ってきた、都内からのありとあらゆる偏見虚報についてもほぼ全く同様で、むしろ和歌山の方が東京から遠い分ましであって、我々の場合は直接都内から県知事選のときだけ内政干渉に来て県内自治を破壊し尽くし、その後はケロッと忘れて平気でいる自民党系のテレビ政治屋国会議員だらけという有様である。茨城県がやる事為す事なんでも悪解釈し、善意を悪意で受け取るばかりか、善政を悪政かのように罵っておきながらその茨城県側で行われた政策は、内閣府とか国土交通省とかの日本政府側の事業であったという事が茨城空港の開港、日本原電の東海第一第二原発、筑波学園都市事業以外にも腐るほどある。要するに都民や都内マスコミは正真正銘の馬鹿なわけだが、馬鹿であるのみならず品性は最低級の下賤であるから、都外を天皇だか政府だか大企業だかを後光にした空虚な自己優越感に基づいて完全に無意味に見下す有様であって、この種の衆愚をかかえた東京都知事の苦労が並々ならぬものである事も、恥知らずにも垂れ流す都政の乱れっぷりで全国放送されている。そしてその都民の醜態は、当然ながら、我々の地方自治や日常の平穏な暮らしより遙かに堕落している。簡単にいえば、東京都は既に衆愚政状態なのであって、その事は国政についても同様だ。
 和歌山の様にしっかりとした地方自治を行っている自治体こそ、日本の本位であり、わが県わが市も和歌山県知事の徳政を模範にし、災害から就職までの対策を自発的に十二分に完成させていなければならない。東京や日本政府が何度ぶっ潰れようが、わが県わが市がしっかりした賢民良官のもとで自治領土を守り切っていれば、何の心配もいらない。和歌山県政はその事を教えてくれている好例だ。

2018年3月11日

石川県知事の再多選から導かれる結論

 石川県知事谷本正憲氏が7選され、前茨城県知事橋本昌氏の6選を超過した。しかし、見ての通り、全ての自民党議員も都内マスコミも全く何の批判も非難もしていない。谷本氏を自民党が推挙していたからである。自民党の国会議員や地方議員達は、茨城県知事選挙の時には「多選の弊害」と罵り、それまで散々お世話になってきた橋本氏をひたすら侮辱していた。特に小泉進次郎氏、石破茂氏、野田聖子氏の三者は地方自治権と何の関係もない、他県選出の国会議員の分際で、県内各地で当時の知事を散々罵った。このうち小泉進次郎氏については、復興担当大臣として茨城県知事橋本氏の世話になっていたにもかかわらずだ。これら以外に菅義偉氏はこの時期に故梶山静六氏の墓参りに来てマスコミの前で橋本氏を罵り、大井川和彦候補を支援するとし、示威行動ととられかねない言行をとっていた。これらすべてを鑑みると、わざわざ党規を乱してまで多選中の安倍晋三氏の元で、各自民党議員が口々に唱え都内マスコミを扇動していた「多選の弊害」という虚偽の理屈は、完全に国民県民を騙す悪意ある自民寡頭主義の戯言であったと理解できる。
 大井川知事が大真面目に多選の弊害を防止すると述べているのは余りにうぶであって、現に石川県では7選という30年近くに渡る長期独裁が実現しているし、その後援をこれまた長期独裁中の安倍という党首がやっている。これらに加えて、125代という狂った超長期独裁中の天皇明仁あるいは天皇家、皇室と名乗る一族も、象徴という名義で日本政府に寄生し続けている。大井川氏は一体何をどう見てこれら自民党寡頭政治や、都内マスコミ、邪教祖天皇、それらにあおられた日本衆愚の偽善や欺瞞を言い訳できよう。もし長期政権が本当に腐る必然があって変えねばならないのなら、既に茨城県知事については叶ったのだから、次期からは石川県知事、自民党首、天皇のいずれかの地位の世襲多選を全力で一挙破壊してもらわねば理屈が立たぬではないか。それとも、自民党員や天皇その他の日本衆愚と一緒で、単なる利己心の為に「多選の弊害」という嘘をついて、都道府県知事とか、最後の将軍とかの善政徳政を人格批判していたのだろうか?

 答えを聴くまでもなく、これら衆愚は単なる利己心の為に虚偽の理屈を並べ立てていたのだ。自民党は腐敗しきった寡頭政党に過ぎず、己の権力増長の為ならどんな嘘でも述べて全ての人を騙してきたし、最悪の場合疑獄や冤罪、共謀罪、どんな悪しき権力濫用、違憲違法反人道行為だろうと平気でやってきている。現に党首の安倍氏をみるがいい。天皇明仁が国事行為を超えた違憲立法を国民と内閣、立法府に実質的に押し付けた現実をみるがいい。そしてこの悪魔的最悪政治は何も今に始まった事ではなく、飛鳥時代に天皇が身を起こした時代からはじまり今に至る。なるほど、大井川氏の言う通り。「多選の弊害」があるなら、それは天皇家にはじまるのである。長期政権になればなるほど腐敗する。その通り。だからこそ名目的地位という偽装を施し、退位法やら侵略内乱の命令やら、独裁権力をほしいままにする為に手先の信者を散々私利私欲を満たす使い捨ての道具に用いてきたわけだ。歴代将軍も歴代首相も、今の安倍氏でさえ、本当はこの「多選の弊害」を最も身に宿した悪魔的教祖、天皇の操り人形に過ぎず、いずれ潰されるし、その事を知らぬ日本人衆愚のがわも搾取対象の奴隷として騙され放題、平城遷都以来1300年にもわたってこの邪教政治から被害にあいつづけてきたのだ。大井川氏は確かにアメリカ帰りのごくごく単純なアメリカ模倣を正義と奉る人物なのかもしれない。もし彼が本当にこれら日本政治の真相を知っていて、単なる政権与党の自民党に後押しされた、人権侵害につながる違憲な嘘の理屈である「多選の弊害」を述べたのならだが。
  ここまで事態がこじれまた暴かれてしまったからにはもう遅い。我々国民を欺き、自民や天皇に媚びを売る卑怯な衆愚にも重ねて媚びを売り、中身のない虚偽と悪意からの扇動を弄して国政県政市政に干渉するというなら、この様な腐敗した政治体制は全て何一つ容認できないであろう。天皇も日本政府も上皇制度を復活させて全国を京都中華思想で差別しかかっている京都市政も京都府政も、いや、自民党という寡頭的悪党も、その悪党に後援されている大井川知事も、石川県知事も、何一つ信用できないという事である。信なくば立たず。安倍氏をみるがいい。嘘八百をつきまくり、長州閥原理主義の権力亡者としてTPP不参加詐欺を行って不安な衆愚を扇動し、遂に売国極まって民の天たる食料危機まで招いている。餓死だらけになる悪政。この状態をみるにつけ、天皇も亡ぼされ、日本政府も亡ぼされ、自民党も亡ぼされ、京都市も亡ぼされ、京都府も亡ぼされ、東京都も亡ぼされ、石川県も亡ぼされ、自民党や天皇の腐った長期多選の弊害悪疫が及ぶ全国地域が亡ぼされていくであろう。福島県をみるがいい。わが県に置かれた原発が東京都の日本原電株式会社の持ち物であって、わが県民は全員が致命的危険の犠牲なのである。それなのに、投票者の過半の支持を受けたはずの知事が命の危険と生活を奪う不幸の塊を県民におしつけるとは何事なのか。勿論、悪意である。自民党という寡頭政の背骨を失わない為に、県民の命を売り飛ばしている。金欲しさのさもしい考えだと思われる素振りをして、原発推進派という他人の命を換金したがる極悪人共に付け入る隙を与えている。だからこそ、坂本龍馬などという売国テロリストを模範だと述べたのだ。恐ろしい腐敗。一選目の数か月目で既でこれほど腐敗した知事がどこにいるだろう? 石川県知事30年長期弊害も日本国天皇1300年長期弊害も真っ青というべきだ。いや、これは言い過ぎかもしれない。本当に腐敗して発酵しきっている天皇家や、谷本氏、そして薩長藩閥の暴力蛮政の末裔であらしゃる安倍氏や麻生氏にも、大井川氏より遙かに腐敗している等という現実は、到底受け入れていただけないであろう。なぜなら、日本という国とその国民性そのものが、天皇家の長期支配という弊害で腐り切ったもので埋め尽くされているのだからである。
 なるだけ近いうちに、天皇、自民党、日本政府、石川県知事、これらのうち、大井川氏のいう「相場観」から、「多選の弊害」を伴う人物を除去しなければならないであろう。そして京都市だろうと京都府だろうと東京都だろうと、天皇が住まう場所について何一つ公共に関わる政治上の地位を与えてはならぬ。金輪際、天皇が日本の政にかかわることはゆるさぬ。それはいうまでもなく、世襲という変装を施した「多選の弊害」の権化たる皇族閥全員であり、「多選の弊害」の権化たる自民党員安倍晋三含む自民党閥全員であり、「多選の弊害」の権化たる石川県知事谷本正憲氏を当然含むであろう。これらをきっかりと果たすことこそ、わが県民の地方自治権を侵害しまくった自民党、都内マスコミ、日本人衆愚にとってのせめてもの前茨城県知事橋本昌氏へ着せた汚名への償いというべきだ。橋本氏がいかに県民の為を想った善政をしていらせられたについて既知の者にとって、これら皇室、安倍氏含む自民党、谷本氏らの解職は当然の事というべきだ。そして「相場観」などとどうとでも印象操作できる虚偽の弁を述べて前知事の人格を名誉毀損した大井川氏についても、最大限の罰として謝罪を要求しなければならず、その後はすぐに仕事をやめていただこう。仮にいくら有能だとはいえ、党利党略を国民県民の地方自治権より優先する大悪党の支援を受けた悪代官では県民が何をされるか分からない。信がない者を相応の地位につけてはならない。疑わしい事が完全に晴れ、「多選の弊害」という法律にない虚偽による人格毀損ついての罪を完全に裁くまで、我々は天皇家含む皇室、安倍氏含む自民党閥とその操作を受けている日本政府、都内マスコミ、日本人衆愚、そして谷本知事や大井川知事を疑う必要が絶対にある。これらの人々は我々国民を根底から欺こうとして嘘の言行をおこなっている。多選の弊害が最もある天皇、安倍家、麻生家、石原家、小泉家、石川県知事、これらの蛮族は自民党寡頭政治の推進及び容認を通じ、己の多選並びに世襲の弊害という悪業について何一つとして自己批判していないのに、世襲の政治家でもなければしっかりと地方自治権のもと県民の為を想う愛県政治を行っていらせられた前知事橋本氏を誹謗中傷の限りを尽くして貶め、或いは貶めさせたのである。悪代官大井川氏に至っては、極悪自民党が県知事選挙に際し収賄罪を犯した事について正直に指摘していた北茨城市長豊田稔氏を第一に選挙戦中に、第二に前高萩市長市政報告会で名指しで中傷さえし、抗議文について無視を決め込んでいる。断じて全員ゆるすべきではない。これら政道を乱している大悪党共が全滅するまで宇宙の果てまで追いつめて責め続けねばならぬ。
 先ず国民の象徴と名乗っている皇室が全政務と国事行為をやめ二度と日本政府に関わらず日本国税に寄生しない事を憲法並びに国際法、そしてわが国の暗黙知において確約しなければならぬ。京都市、京都府、その他いずれの場所についても箔付け、権威づけ、特権や後光の間接享受あるいは背乗りのため皇族の末裔が居住する事を許可してはならず、いかなる地位もなく残った皇族の末裔は滅亡まで未来永劫、一般国民と同等の立場で基本的人権を超えたいかなる特権もなしに生活せねばならない。次に地方自治権を侵害し続けてる大悪党自民党閥は長州閥安倍家を含み全員が解体分離され解党せねばならず、今ある日本政府はこれらの腐敗勢力なしにわが県において新政府を樹立、抜本から再構築されねばならぬ。石川県知事は7選という多選の弊害が明らかでありながら再選されてしまっている。前茨城県知事が多選を理由に職を追われた以上、この知事についても国政の名において罷免が絶対に必要である。最後に、自民党閥と共に虚偽の弁によって選挙戦を行い国民県民の自治権を侵害しかつ前知事や北茨城市長の名誉を棄損侵害した大井川知事はリコールによって現職を解任されねばならず、新知事選挙を大井川氏抜きで、また自民党から如何なる干渉も無しに、断固として即断即決で実行しなければならない。罷免後の大井川氏については前知事橋本昌氏と北茨城市長豊田稔氏へ謝罪文の公共への提示と然るべき賠償、そして両者への名誉回復措置を命じるべきである。

2018年3月7日

幸福論

 平成の資本主義に欠けていたのは、カネを己の属した社会へ還元する為に儲ける、あるいは己の社会をよりよくする為に働く、という利他に包括された自利という見方である。この利他に含まれる自利は、功利主義の命題、最大多数の最高幸福 The greatest happiness of the greatest numberによく現れている。仏教語でいう抜苦与楽は、功利主義をいいかえたものだと解釈できる。
 幸福を大まかに分類すると、 主観的幸福、客観的幸福、またそれらの中間にある中庸的幸福に分けられ、主観幸福の本質は没頭、客観幸福の本質は比較、中庸的幸福の本質は社交である。
 没頭とは或る人が夢中で熱中できる作業が、チクセント・ミハイによってflowと定義されている没我状態を生み出すことである。ここで、思考を言語や観念の抽象的行動と定義すると、没頭しているとき脳の中ではその人の学習サイクルが、ドーパミン(目標設定)、アドレナリン(興奮状態)、オキシトシン(目標達成)の循環で、広義の行動に関する難易度が快適域から大きく外れないまま(つまり難しすぎでも易しすぎでもない)、ほぼ最適化されて回されているのだと考えられる。この状態を生み出す脳内作用はしばしば行き過ぎたり、自他の生命維持に害をもたらす事もあり、その場合には嗜癖 Addictionとか、狭義の中毒 Poisningと定義されていることもあり、また日常語において何らかの嗜癖が行き過ぎて当人に害がありさえする場合、比喩的な意味で広義の中毒と言う場合もある。いずれにしても、主観的幸福はそれが何らかの自害性を含む自利ではあるにせよ、極端なら害他性や公害を伴う時もあり、このうち、自己への有益性にある程度の自害性を含むとして、自他へ共に有益な場合が最善の没頭、自己のみに有益で他に無益無害な場合を次善の没頭、自己のみに有益で他に有害な場合を悪しき没頭と定義できる。没頭は哺乳類に近似した生物にあって脳が快楽の輪を回し続ける事を指すので、ここでいう主観幸福は、非常に狭義ではむしろ快楽追求性という方がふさわしく、脳のない生物の場合は、細胞の持っている嗜癖の傾向にまで分解される。
 また客観幸福は、国連が幸福度として示している指標や、各種の統計に表れている様な、他の人と比べてのみ認知される、主に物質的な状態を指す。但し、主観の介在する疑似統計、つまり価値観や好感といった印象操作が可能な誰かの感じ方の調査は、意図や見方によって評価が変動するものなので、ここには含まれない。
 中庸的幸福は、或る個人が自らの没頭できる対象について、他者と比較しながら社交できる時に感じる状態の事であり、狭義ではこれが或る仲間や共感を生み出す、好ましい人間関係形成の原因である。一般にこの作用をcommunicationとか、やりとりとか、通信といい、情報はこの通信という目的を媒介するものである。

 ところで、幸福を公私に分類すると、 私的幸福は自由によって最大化され、公的幸福は保障によって最大化される。ここでいう自由は個人が他人に害がない限り自らの趣味を完全に満足させる没頭経験を最大化する事を意味し、保障は自らに害をなす他者からの苦痛を最小化する法律と倫理両面からの公的保護を意味する。
 具体的にそれぞれの特徴を定義すると、先ず私的幸福については、上述の主観幸福の内、自他へ有益な没頭状態を最大化する事が私的幸福の最高程度と考えられる。また最大多数の最高幸福をあわせみると、最善の私的幸福は功利性への没我であると考えられる。ここで功利性という言葉は、utilityをutilitarianisticに解釈した場合の概念であり、狭義では有用性、広義では多目的性を指し、使用 useを語源にもつこのutilityという単語を、単に自己にとって有益なだけではなく他者にとっても有益である様な状態に適用するものである。カントのいう義務は、時に自分に害があっても利他行為を追求せよと命じる点で、幸福を超越している概念であると考えられるが、この義務の功利性というものは、良心の満足という没我の究極状態として得られるのだと再定義できる。一般に、この義務の功利性を、我々は自己犠牲や献身と呼んでいる。もしマズローの欲求階層を引用すると、自己実現の上位段階として定義されている自己超越とは、私的幸福の充足の果てに、最も満たしがたい欲求として利己性の克服という、小脳の司る本能(仏教語でいう煩悩、精神医学でいう自我)を大脳の理性(精神医学でいう超自我)が完全に征服した状態が見いだされる事と定義できる。新渡戸稲造が『武士道』で定義している義の概念は、同書での義士の定義にみられるよう、この理性的な利他主義者が自己犠牲的にふるまう際に最高度の状態を指すと定義されている。切腹、諌死、仇討ちといった義行は、この義務の功利性の最高段階として嘗て侍に認識されてきたのであり、私的に解釈されるときは単に義、公的に解釈されるときは忠義といわれ、一般的には正義という言葉で定義されてきた。言語や図像、観念、身振りといった抽象度の高い概念の操作を広義の行動、具体的に自らの体を動かすという狭義の行動と定義し、これらの行動を包括して言行と定義すると、ロールズの格差原理における最不利者の利益最大化という原則は、我々が善行と呼ぶ言行一般のうち、無償で分け隔てのない森羅万象への慈しみを指す概念である、agapeに最も近い言行の理念である。つまり、私的幸福は何らかの没頭対象への極度の心酔の果てに、慈善と自らの言行が一致している状態で最終段階へ達すると考えられる。なぜなら人類のもっている脳の究極の使い方とは、単なる本能をより合理的に満たす為の社会行動の道具として生まれただろう初期の大脳を、徐々に功利性を満たすべく改良し、最後には我々が全徳の存在と想定する神的な慈善の担い手として、超人類的な進化へともっていく事だからだ。人類が聖人と見なしてきた人徳者達は、彼らの置かれた環境下での私的快楽をそれぞれの節制によって見限り、自己超越的な利他、その中でも勧善懲悪ともいわれる利他の言行に嗜癖を持っていた人々であり、しばしば救世主願望に憑り付かれてもいた。ある時点、ある場所で最不利者をさらに不利にする事は虐めと定義できるが、この弱肉強食から最も遠い人格が、慈善へ没頭する者だといえると共に、我々のうちの弱者がなぜ宗教を信じるかの訳として、聖人は自己犠牲の傾向の為に遺伝的に最希少種となり易く、同時代の同じ場所に存在する確率は極めて低いので、偶像として観念化された慈善の言行者を想定し救いや助けを求める事のみが心理的な頼りや支えになるからだ。そして人によって信じる宗教が異なるのは、彼らの学習環境下で見つけられた最慈善者が異なるからであり、無宗教の人がいるのは、この最慈善性を体を持たない単なる抽象概念と捉えているか、そもそも慈善に興味がない利己的な人物であるか、どちらかであろう。またこの抽象概念をある思想形態、考え方、Ideologieと捉えると、一切の主義や思想を信じていない人物、つまり無思想の者に大脳が働いていて成人している場合、善悪を本能を超えて判定したりしなかったりするだろうから、その言行についての矛盾度は最大であり、人類は矛盾度の高い情報量を認識できないものとみなすので、この人については殆ど理解されないだろう。無宗教かつ無思想で、単に状況に応じて考え方を変えている様な状態に最も近いのは、本能以外の嗜癖を持たない幼児の状態であり、幼児の語る事が理路から最も遠いのは矛盾度が甚だ高いからである。また、幼児を裁判官に置いた場合の社会的混乱を想定すればわかる様、無思想とは無秩序な言行を意味し、その対極にある最慈善は秩序度の最高段階を意味するといえる。さて、この秩序の度合いとしてみた慈善度を比較的なものと考えると、或る社会集団の慈善度は構成する人々の平均的な功利性に由来しているので、よりよい社会を私的幸福の面から批評すると、その構成員の内できるだけ多数が、功利性の高い没頭癖を持っている状態を指す。没頭癖の社会的側面を広義の仕事あるいはその語源である「する事」、没頭癖そのものの能動的側面を趣味と定義すると、利他度の高い趣味を評価するには他者の立場が必要だが、一般にこの趣味を極める為には他人に害がない限り邪魔や干渉をされない自由が前提となる。なぜなら誰かがこの功利性をより強度の高い段階で見いだす為には、当時一般的に考えられている低俗な趣味の傾向を逸脱する必要があるからであり、また単に私的満足だけを目的にし全然公益性がない没頭の場合についても、当人がそれを超えた私的幸福をみいだせない限り、その人にとって主観幸福を満たせるが故に有益である。自己犠牲は義務の履行に際して自害性と利他性が共に最大の場合を指し、この実践について他人からの強制は単なる拷問に過ぎないので、当人の意思に基づく自由が必要である。但し、この自由が認められる為の最低限度の条件は、他人に害がない事であって、もし他人に害をなす傾向の趣味であれば、その外部不経済の程度に応じて法的あるいは倫理的な制限が社会から与えられることになるだろう。また単に自害性を含む趣味であるなら、他人がその人に与えられるはずの公益性を縮減する程度に応じて、直接の制御から間接的な残念まで、何らかの干渉が想定できるだろう。麻薬の販売と使用や、売買の主体が共に自主的な性売買、或いは自傷癖等の自虐的な嗜癖で想定される被害は、第一に当人達の健康、経済、対人関係にもたらす自害性の程度であり、第二にそれらの行為によって間接的に起きるミラー・ニューロンの模倣効果による公害性、特に幼児等の模倣を通じた負の学習の結果、自害性のある嗜癖あるいは依存症が自他に広まる害他性、第三にそれらによって特定の人のもたらすはず公益性が減り、場合によっては不可逆的に減耗する事であるといえる。よってこれらの自由は程度こそあれ、或る個人またはその社会の共通認識として制限されるが、その制限度はもたらす公害度と正に相関しているといえる。
 最後に、公的幸福である保障が意味するのは、私的幸福が快楽の積極的な最大化を意味するのと異なって、単に苦痛の最小化であるといえる。なぜならそれぞれの個人は各々何について快を感じるか、何に没頭できるか趣味が異なる傾向にあり、もし普遍的、一般的、大衆的な趣味を追求すれば、それは一部の人を余り満足させない事になるからだ。他方で苦痛を最小化する事については本能に近い程度に応じて人類一般にある程度の共通性をみいだせ、場合によっては他の生物も含めて、苦痛を感じる脳内物質、ブラジキニンなどが働く機会を抑制する事によっているといえる。社会的支援や偽薬が苦痛を和らげると経験的に仮説づけられている事から、公的支援が確実に受けられると安心できる場面では、人はより不幸を最小化できると考えられる。我々が高福祉の実現した社会にみいだしている種類の幸福のうち、最も消極的な面は、この社会保障の充実であるといえる。例えば治安維持は公害から与えられる苦痛の逓減であり、原発等の危険施設の廃止や事故を起こす可能性の高い自動車や道路についての法的統制、災害への備えは将来与えられるであろう苦痛の最小化である。ところで侵略戦争の否定を謳う憲法その他の法規は自他のうち特に他人に与える筈の苦痛を最小化するものであり、単に戦争放棄の法は、最小限度の自己防衛を除けば、戦争時に自他が伴う苦痛を事前に最小化しようとするものである。究極的戦争放棄としての非暴力主義は、それが同時に抵抗的なら非暴力不服従となって少なくとも主権の侵害や拷問によって与えられる自己への苦痛を拒否し、服従的なら無条件降伏となり想定される苦痛の回避をも放棄する事になる。また帝国主義や侵略主義を信じる者は己の行う侵略戦争を是認して自他に苦痛を与える邪悪な権謀術数主義者であり、このうち自らの侵略のみを是認し他者の抵抗や主権、自己防衛を否定する者は他人の苦痛を自らの快楽と考える悪魔崇拝者である。これら戦争に関する態度のうち、公的幸福の面からみれば、自侵略を是認し他防衛を否定する悪魔崇拝者が最悪、次悪が自他の侵略を是認する権謀術数主義者であり、無条件降伏がその次に悪質で自他に無責任な態度である。対して、非暴力不服従は十分に防衛が行えない時の次善であり、一般的な自己防衛のみを是認する戦争放棄は最善のふるまいであり、ここには侵略戦争の否定が含まれている。個別自衛の名目で侵略を行う事は侵略に含まれる権謀術数的な次悪に過ぎず、集団自衛の名目で侵略を行う事はそれを共謀する事であるから、次悪より邪悪さと罪の程度がより酷いものである。集団安全保障の名目で、国連が命じる多国籍軍が米軍と共謀し、特定の国や集団の独立を侵害したり圧力を加えている場合、それらの少数派の苦痛を最大化する事に他ならないので、悪魔崇拝的な最悪であると認定できる。この様な場合の国連組織や米軍は、少なくとも国連に属するか否かに関わらず、現に独立を主張しているか独立をめざす少数派の諸権利を認容しなければならず、独裁政権といった名目で、王政に類した単独支配を行っている集団を諸国から除外するべきでは全くない。王政か独裁政かは或る単独者が支配する政体についての主観的評価、つまり肯定的に王政と尊称するか、否定的に独裁政と蔑称するかによるのであり、これらの評価は国連や米軍の主体である外部者のみが行って十分とはいえない。なぜなら異なる考え方に基づく政体を構成員が自ら選び取っている場合、この政体が他の政体と組織において全く異なるとしても、また規律や法、風習、慣習、文化、風俗について他国や他集団の価値観と隔たりが大きいとしても、外部者がその政体を自らの理想が実現しているとみて賛美するか、己の属する政体と引き比べて理解不能さのあまり過度に差別するかは、単にそのひとの主観的価値づけにすぎない。したがって国連や米軍その他いずれかの国、集団が、言動や象徴的表現などの抽象的次元や行動という具体的次元のいずれかまたは両面で、世界のどれかの集団自治を侵害する場合、このおこないは単に安全保障を破壊するだけではなく、内政干渉による侵略の害、苦痛のばらまきそのものである。日本国内で東京都民や京都府民、奈良県民、あるいは薩長土肥ら西軍が、大和王朝の萌芽がみられた飛鳥時代以来、天皇と共謀し行ってきた苦痛のばらまきも、この自治権侵害という大悪行に他ならず、これらの内政干渉を行った公害の程度に応じて、それぞれの国や集団あるいは個人は法的、倫理的制裁を業の次元で受けねばならない。

 結局、上述の自由に関する私的幸福とあわせみれば、単に私的趣味を追求する為の自由の程度と、社会保障は両立し得るのであり、自由は個人が他者に害をなさない限りの最大限の権利確保によって、保障は社会的不公平や自由市場における競合の結果生じたなんらかの不平等について最不利者へ最大の、比較不利者への累進的な調整による。因みに、最有利者への最大の負担、比較有利者への累進的負担の度合いは、それらを行ってもなお、それぞれの状態の最有利、比較有利が維持されていれば、十分なのである。自由人主義や新自由主義が誤っているのは、これらの最有利、比較有利さとは、他のより不利な人々と比べてのみ認知される状態なのだと知らないが故に、市場競争の結果生じる高所得や高収益性、高売上高、高株価、高生産性等の有能性についての指標を絶対化しているせいなのである。いいかえれば、最有利者や比較有利者が徴税され、その分が最不利者や比較不利者へ調整済みの状態でも、或る資本についてそれらの構成員らの順位付けが変動しない限り、保障の為の累進課税は十分行われるべきなのである。特に、所得格差の大きな状態では最不利者を含む比較不利者らがそうでない相手に嫉妬を感じ易く、この嫉妬感情は脳内では苦痛と区別されていない為に、何らかの努力や工夫の末にも到底匹敵しえないほど集団内での格差が広がりきっている場合に、不利な側が感じる苦痛は不幸の原因に他ならない。単に市場の問題に還元すると、管理価格の形成や談合、企業連合等で示される独占や寡占が進めば進むほど消費者利益もまた害されていくが、単に消費者に対する害だけではなく、競争相手がいない状態の優越企業は株主や経営者を主とした資本家にとっても、より投資収益率の高い投資対象をみいだす比較優位の機会を失うために、有害である。また政府の問題でいえば、世襲による血縁者支配や、特定の地域や家系、学閥などによる門閥支配がはびこっていればいるほど、公徳に欠けた人物あるいは無能な上位者が組織全体の有効性を害する場合が頻出するので、天皇や皇帝、王爵の位を含む公職世襲を廃止したり、地域、家系、学閥等の門閥による就職を無差別化する必要がある。他方で、公職の任期が長いほど腐敗し易い為にその期間を事前に制限するという法は、その集団で公徳の高い人物が単独か少数な時に、より不徳な人物が代位してしまう為、決して合目的でない。これは世襲や寡頭とも捉えられる前権力者の血縁者が優越して公徳的であった場合も含み、政治において役割を決める際に為すべきなのは、いかなる人物も公徳の質や程度に応じてその職に選ばれるべき、という厳選である。選挙や解職の手続きが滞りなく簡素化され、極めて公平公正な事が必要十分であり、これは多数支配の場合だけでなく、単独支配や少数支配の場合にも、王や貴族が何らかの手段で選ばれ、また辞める事がいつでも可能でなければならない。

2018年3月4日

茨城観光地不足仮説

 最初に結論を述べると、
1.魅力度調査は主に、県外国民の調査対象者にとって憧れの観光地という意識度である。
2.したがって対象者含む大衆一般に訴える、傑出した県内観光地を国内へ伝達する必要がある。
3.観光地化の副作用をかんがみると、この場所は県内一か所に集中するべきである。
4.まずはネモフィラの丘を茨城と完全に紐づけ国内に宣伝し(茨城の丘と改名するのも有効か)、さもなくば大衆観光地を作るしかない。
5.我々が魅力度差別で学びうるのは、虚報の分析による問題解決そのものである。
 上記の抽出について、以下に詳述する。
 重農主義や農本主義を否定し、重商主義や資本主義を妄信する、という平成日本人の一般的妄信は、明治期以来の富国強兵論を継続的に狂信する、薩長イデオロギーに原因があるといえる。この考え方は天皇家のいる東京を中央政府、つまり中華と考え、そこに近いほど上、そしてそこから遠い農村を収奪対象として差別的に侮蔑する、日本的都鄙差別の直接的起源の一つである。そしてこの薩長イデオロギーの奥にあるものは、水戸学から松陰や西郷が薩長の利己の為に剽窃した神道原理主義である。天皇を神格化し、天皇に近い存在ほど上で、そこから遠いほど下と考えるこの狂信的民族宗教は、近くは首都圏北部への全国からの魅力度差別や明治から昭和にかけての日亜侵略をもたらし、遠くは弥生時代以来の政教一致による天皇独裁政をもたらしてきた、と仮定しよう。
 2018年3月4日付茨城新聞の論説で、蓮見孝氏は謙譲の美徳を無視し、自慢という反儒学的な言行を茨城県民へ勧めているが、江戸時代以前の本州・徳川文化、武士道とは異質な北海道に儒教的価値観が根付いていないのは当然だし、逆に謙虚や謙遜を美質と考えるだろう常陸国水戸の後継が君子の道ではない自慢をする様に退化すると思うのも、文化人類学的に間違った見解だと思われる。『論語』で孔子がいう「君子は人の己を知らざるを憂えず、己の人を知らざるを憂う」を実践しているからこそ、日本国民にすら茨城県のもつ数多の美質は有名でないのであり、烈公が積極的に蝦夷地開拓にのりだし間宮林蔵が最北部まで測量した史実をあわせみても、今日の北海道民が屈託なくお国自慢に耽るのは、儒教的徳目を未経験なうぶさであり、また異なる文化だというべきだ。
 上述の天皇制的華夷秩序とあわせみると、北海道と沖縄は首都圏から遠く、東京や京都という天皇家在住や遺跡を誇る中華思想的な場所から離れているにもかかわらず、日本の平均的な民衆一般から魅力があるとみなされている。つまり、これらの事例と茨城や福島の置かれた状況を鑑みれば、平成日本人の刷り込みには、明治から平成にかけての薩長藩閥と天皇家の体制による、徳川派支配地への印象操作や差別や偏見による迫害を通じた事実上の国民弾圧があると仮定できる。日本人の無意識にある薩長イデオロギーと神道原理主義が、天皇制を通じて、茨城県民という徳川御三家からの専制支配に遭っていた民衆を、更に痛めつけ差別している、というわけだ。これがブランド総合研究所・田中章雄による、日本国民の一部の意見を抽出した、魅力度差別の最も根底にある原因だと、仮に考える事ができる。客観的にみて、茨城県のもっている観光や居住における価値は十分高いものがあるからだし、もし日本国民一般が首都圏北部やこの県の美質について無知だとしても、本質的原因は別にあると考えるのが妥当である。ランキングが変動しないのは一定の偏見や物の見方に関する盲点を、日本国民の調査対象者らが維持する方が快適だと考えているからであり、いいかえれば茨城県を筆頭に、栃木、群馬、佐賀といった地域を見下げて、低価値とみなし差別し続ける事、それと対照的に北海道、沖縄、京都を見上げて贔屓し続ける事が、それらの調査対象になっている日本人らの或る願望に合致する、としよう。しかしここで佐賀県という薩長土肥の肥前国の末裔が登場し、薩長イデオロギーと矛盾をきたす。つまり、徳川派迫害や薩長史観はこの魅力度差別の直接原因ではない可能性がでてくる。
 魅力度差別願望の元凶を掘り当て、その患部を完全に治癒しないかぎりは、茨城をはじめとしていずれかの都道府県が田中章雄一派に扇動された衆愚から深刻な被害を受ける事は必定だ。上述の分析から新たに提出できるのは、日本国民一般は大自然や大都市ではない、田園や郊外の風景を見下げて差別しているのだ、という仮説である。現実には大規模な郊外型店舗が小さな商店や職場としての工場と共に遍在する中小都市は生活の利便性に長けているだろうし、人にとって過ごしやすい程度に整えられた田畑や里山は単に生産的で多機能面で人間を守っているばかりか心を癒す調和的環境であり、人の手の入っていない極端な大自然や、逆に満員電車や物価地価の高騰しているまずい水や空気の悪さが特徴の過密都市より、生活の為に魅力的である。このことは、茨城県守谷市、茨城県常陸太田市がともに、民間調査で住みやすい街、住みたい田舎で1位を得ている事から、統計面でも一定の信頼度で実証されるはずだ。よって前の橋本昌茨城県知事が、ブランド総研の魅力度調査は観光地としての評価であると仰っていたが、この分析が最も的確だったということになりそうである。
 最終的にいえることは、魅力度調査とか地域ブランド調査いう名前をつけられているが、諸々の背景と結果から分析すると、このブランド総研による調査は観光地としての魅力を日本人民衆の一部にききとるものだというわけである。前知事は生活大県をめざし、茨城県民自身の幸福を最大化しようと考えていた。だからこそ、県外人にとっての観光先としての茨城を後回しにする結果をもたらし、これが我々自身の生活空間としてのわが県の盲点になっていた、と結論づけることができる。この仮説を大衆的観光地不足仮説、あるいは単に観光地不足仮説と定義すると、茨城県がとるべき対策は次のような事だ。
 第一に、京都市民がふえつづける観光客にある種辟易し、実際に犯罪率増加や交通問題等がおきてきているだろう事、また所得面からみれば北海道や沖縄が殿様商売のごとく努力なしにやってくる観光客へ収入依存状態になっている一部の業者がいるだろう事、という観光地化に伴う暗面をあわせみると、これまでと同じく、茨城県民というこの地域の生活者にとって最善な、世界一幸福な県をめざす事が大前提でなければならない。確かに魅力度差別を受け続ける事は不愉快であり、この種の心無い偏見は誤解や悪意に満ちているから、県内外の衆愚をますます増長させるし、そもそもマズロー欲求階層でいう承認欲を既存の県内観光について無知な人との話題や観点において君子道徳式の自己抑制による合理化でしか満たせないので、自己満足にとどまるというある種の貴族的ないし高潔な態度が県民全般に要求されてしまうということだ。もし蓮見氏の述べるよう北海道民がそうしている風に、素でお国自慢でもしようものなら、県内外の東亜人一般はやたらに自慢される事への武士道的・儒教的解釈から多かれ少なかれ相手を軽蔑すると思われるし、むしろ相手を知ろうとする意欲をなくしたり、ますます差別するかもしれない。日本国の本州文化ではいまだに謙虚が尊ばれ、あまりに自慢する自己中心的な人は有名にはなっても、決して好意で遇されるとはいいがたいのが現実であって、この面ではある程度似た謙譲の美徳が存在するイギリスの中上流や儒教圏の読書人階級の様な特殊な例かもしれないが、必ずしも全人類的に謙遜が無意義とはいえない。卑屈の対義が傲慢で、中庸が謙虚であるとすれば、我々茨城県民がこれまで水戸徳川文化を通じて涵養されてきた儒学、水戸学、武士道を通じた謙遜という特質は、なるほど今日世界的にまれであるにせよ、今後も維持されるだけの道徳的完成度があるし、聖価値が十分にあると自分は思う。
  第二に、我々は既に幾多の観光地をもっているし、長く住んできた県民自身はそれを多かれ少なかれしっているが、これらが県内外の日本人、特にブランド総研の調査対象者になっている数百人にとって競争相手である他都府県に比べて魅惑的ではない、というのが、問題なのである。ターゲットとなっている調査対象者であるブランド総研会員をブランド総研自身が公開していないので、我々がとれる対策はまずブランド総研に対して何らかの手段でこの会員を具体的にひきだし、その対象者が好む観光地の傾向を探り、それにちょうど適合する観光地を県内につくりだしてそれらの人々へ鼓舞情報を植えつける事である。もしこの対象者を直接知るすべがないなら、ブランド総研自身と契約し、カネの力で直接伝えさせる事が次善の策かもしれない。そしてこれらが不可能ならターゲットを具体化できない為に、最も非効率的になるが、最後の手段として調査対象年齢になっている全国民から満遍なく憧れる観光願望をひきだし、その理想を茨城県内に移植実現すること、そしてこの観光誘客の情報を全国民へ最大限ばらまく事である。
 第三に、観光地づくりにあたっては、県内の或る地点に集中するべきという事である。もしかすれば、SNS拡散効果を企図し、写真写りのよいネモフィラの丘だけをひたすら美化し喧伝する事で十分なのかもしれない。この地点がかつては県民への事故被害が起きた米軍基地だったのであり、県民自身の自主的な返還運動、そして徹底した美化の努力によって今日の美しい姿をとるに至った、という物語伝達も日本の若年層の傾向である右傾心情に訴えかけるだろうし、米国を含めた世界中へも茨城県民の望む万民の為の平和と幸福の象徴として有効であると考える。県民からの働きかけでここを「茨城の丘」と改名する事も有効である。茨城の由来になった天皇軍による侵略被害の悲劇から、復興と平和への願いという同じ文脈にこの負のイメージをもつ名義を忍び込ませることも、何らかの工夫でできるかもしれない。その理由を以下に詳しく述べる。安倍政権の行っている全国観光地化政策の実態は米国への媚びを目的にした円安誘導を正当化する事であり、実質的には、製造業にせよ観光業にせよ日本を外人に安売りしているのである。これによって日本全体は貧乏になる。製造業が国内産業に占めるGDPの割合は全体の20%と決して多くないし、それどころか日本のGDPの7割以上が内需依存、つまり今の日本において円安の恩恵を受ける輸出がGDP全体に占める割合は少ないからだ。結局なぜ安倍晋三がこの方途をとるかというと、米国に媚びを売る事による権力保持と、株価つりあげとあわせて期待される経団連からの献金が目当てなのだろう。また観光業を主要産業にしている地域は、北海道、沖縄、奈良、或いは京都にみられるよう一般に所得が低い傾向にあり、(奈良は大仏商法といわれるよう)向こうからやってくる客を次々よびこむ歴史遺産を飯の種にしていると産業開発の努力を怠る傾向もでてくるのだろうから、別要因もあるかもしれないがギリシアの様に財政破綻した例すらある。フランスは世界一の観光国だが、観光業を主要産業にするつもりがある様には見えないのであって、それは賢明なのだ。つまり、今の茨城がそうなるようにはみえないにせよ県内産業全てを観光に依存するほどの観光推進の行き過ぎをはかれば、副作用として治安悪化、周辺を外来者がうろつく事の心理的不安、マナーやルールの違う国々から来た人や旅の恥をかき捨てる人々からごみを捨てられる事による汚染(毎日山ほどのごみが捨てられていくパリに顕著である)など、複数の問題が生じうることだ。農地は繊細だからこれらから致命的影響を受けやすいので、日本一の農地面積・農家数をもつ県として、観光地づくりの副作用を他人の振りから最初に勘案して後に、県内の特定地点、特異点にこの施策を集中するべきだということだ。また魅力度調査の対象者は決して教養人に限定されるものではないので、六角堂、弘道館、偕楽園、西山荘、筑波山などの歴史学的な好奇心に訴える貴族的観光地は、世界遺産にするには十分有効かもしれないが、卑俗な趣味にすぎない大衆一般を魅了するには不適格だろうということである。この点からもネモフィラの丘をひたすら前面に出してインスタ映えしたがる通俗勢を席捲し、更にこれを超える観光地を、県内特定地点に絞ってもっぱら開発すべきということである。ネモフィラの丘は国立公園内にあるから、あまりその外を汚す心配もないし、ごみについては国税で処理されるので安心できるが、何らかの働きかけでこの観光地を保存しなければならないだろう。つまり、一か所に絞って外部に出ないような観光客隔離政策が、県内観光地の開発にあたって前提的である方がよいというわけだ。ちなみに県内の観光業者とは別の話だが、我々自身は生活するうえで県内の観光地について特に不満に思ってもいない事が県民世論調査からもわかっているのだから、田中章雄とブランド総研という汚名やスティグマ、風評被害をばらまく差別発生の元凶が死亡するなり倒産解体されれば、その時点でまた我々の幸福に対する価値観を再点検するべきということになるだろう。飽くまで茨城県と茨城県民への田中章雄による魅力度調査を種にした差別を防止し、我々の名誉と承認欲を多かれ少なかれ害する結果を招かない為の便宜的な観光地づくり対策であり、その目的が我々の幸福と相反しないよう、また将来にわたって合理的であるよう考えるべきである。
 最後に、これらの対策は茨城県自身の問題を直接解決する可能性があるに過ぎないが、田中章雄とブランド総研が倒れない限り、将来にわたって別の都道府県へ東京からの報道を通じ次々魅力度差別が起き続けることから、わが県民が非常に長い時間をかけてあらゆる状況を分析し、全県民の知力と行動を尽くし試行錯誤によって問題解決をしようとしてきた経験は、今後も虚報やポスト真実による被害を受けていく全人類にも重要な勇気を与えるであろう。我々が受けた差別を解消できたら、その後も、悪意ある無知な民衆や虚報から差別と偏見の被害に遭い続けている全人類へ、我々のしてきた経験則から何らかの助け船を出せるよう我々自身が成長できるかもしれないし、それこそが田中章雄のもたらした魅力度差別に打ち勝つ事で我々が得た最大の経験値になるであろう。

2018年3月2日

脱覇道論

 Americanism(アメリカ人主義)は均質化を生み出し、移住による相互参照や、自らの道徳的価値観に合う地域への編入を妨げてしまう。Globalism(地球主義)はアメリカニズムの商売面である。またこれらはモンロー大統領以来の孤立主義からの逸脱でもあり、ヘーゲル的な覇権、即ち世界精神という名で、自由やdemocracyなる、ある種の中華思想を焼き直す覇道を目指し、世界の警察として各国へアメリカに都合がよくそれらの国々に不利な、或いは普遍的不徳な制度を内政干渉や間接・直接の軍事征服によっておしつけていく。在国米軍はアメリカニズムのヘーゲル的側面である。
 対して国連や地域連合は少なくともアメリカの覇道に異を唱える試みであり、部分的に成功してきた。普遍的正義の観点によれば、個性のない地域は何らかの文化的変異を保存せず、学び合いのきっかけを欠落させているので、アメリカ人主義や地球主義、そしてヘーゲル主義の覇道はいずれも不正となる。
 日帝時代は明治から昭和前期までとすると、松陰『幽囚録』の侵略主義に基づく長州閥や中華思想による天皇家、或いは植民地主義によりイギリス帝国などの欧米諸国がめざしアメリカが現在代行している覇道は、地球各地の制度的均質化がむしろ、発展と進歩の芽を摘んでしまうという落ち度の為に、時代遅れである。畿内や京都を自称し全国を下位者と差別する自文化中心主義をもつ京都府や、首都として都鄙差別による華夷秩序もどきを傲慢に主張している東京都は、国内での小型のヘーゲル信者であり、既に敗れた考え方に固執している地方公共団体といえる。
 これらの傾向は、まとめて覇権主義あるいは覇道という概念と上位互換できるだろう。
 安倍晋三は長州閥と皇族財閥を兼ねる人物として、アメリカ主義の背後にある日本操縦者ら資本家の利己心に媚びを売りながら彼個人の利権を維持している。なおかつ、彼は三菱軍産を通じ彼の兄・寛信に利益誘導し、やがて日本軍の復活や米国によるアジア内乱の誘致へ自衛隊を派遣させ、松陰的侵略主義を復活させる、米政府の覇道に共鳴しているといえるだろう。勝てば官軍という薩長藩閥の野蛮な論理は、アメリカ軍が世界最強の軍備と証明されている限り、明治やそれ以後の侵略・内乱史を成功体験と西日本の各地域や日本政府から植え付けられた西日本の人々の信仰であり続け、この為に覇道を前提とする米軍は薩長土肥をはじめとする西日本人一般の模範とみなされている。島津家や天皇家に琉球王位を簒奪され、日米両軍に蹂躙された沖縄県の歴史的文脈はこれら西軍と異なる為に、西軍信者あるいは自文化中心主義者であろう大阪府警や自民党長州閥と必然に摩擦を生じる。総じて、これらの過ちも覇道妄信の末路である。
 茨城という言葉は、奈良からの天皇軍による侵略と、先住の日本人への一方的迫害を由来にしている。この2文字は関東地方という山城国・京都府や奈良県から見た華夷秩序的で地域差別的な意味を伴う用語と相俟って、自らを中央や中華と過信する傲慢を戒めるのに役立っている。これら茨城や関東という言葉は常陸国、茨城県や首都圏にもともと5万年以上住んでいる日本人にとって、関西地方に2800年前頃から移民してきた中国・朝鮮半島に住んでいた人々からの単なる偏見に基づいた差別と侮辱であり、東北(畿内からみて東の国の北)や河北(白河より北)、陸奥(朝鮮語で奥)、東京(京都から見て東の僻地)といった関西人がつくった数々の中華思想的差別用語にも同様に現れている。いいかえれば、京都中華思想や東京中央思想、これらの震源である天皇家の中華思想といった覇道に対し、反骨心、すなわち自らを中心と考え他の文化圏を軽視する驕りへの戒めとして我々はこれら、茨城や関東という脱中央的な言葉を記憶しているべきだろう。これらの言葉を用いて多かれ少なかれ茨城県や関東地方を見下げてくる人々を、我々は不屈の精神でひたすら名実ともに打ち負かし続けねばならない。最終的に我々を全世界が当然の如く敬仰し尽くすまで、あらゆる面で現茨城県の領域を聖域とし、我々自身が全世界で最も貴い見地に立って全地域に住む全ての人々や全生命への慈悲として勧善懲悪を司る威風を完全に確立する迄、我々自身の存在を神格に類した全知全能全徳へ漸近させ続けねばならない。

福祉主義論

 効率を害さず、腐敗を防いだ高福祉な地域に茨城県や北茨城市をする為には、公共事業費を最大限、競争的に民間委託する事(これは、郵政に見られたような業務の財源自体を民間に手渡す民営化では必ずしもない、なぜなら最不利者への慈善事業には必ずしも収益性がないからだ)、無差別的で公正公平な公務員採用を図るため民間人や公務員自身が通報する事による簡素化した免職手続きを皇族を含む全ての公務構成員にいかなる特別扱いもなしに適用する事の2つが重要である。
1. 公共事業費の民間委託、非公益的事業の民営化
2. 公務員を無差別的かつ公平に解職可能
 以下にこれらのわけを詳述する。
 資本主義あるいは営利が自己目的化した状態は、社会福祉という弱者や貧者の救済を無視している。 自由人主義(Libertarianism)が有害なのは寄付や慈善を行う誘因がないまま政治的調整の効果を無視すると、全体の相対貧困化が進むからである。いいかえれば過剰資本が相対不利者から順に社会還元される誘因が、資本主義にも必要である。嘗てこれは宗教や政府によっていたが、前者がお布施として内発動機、後者が徴税として外発動機に基づいているにせよ、いずれも福祉の完成に対しては不十分であり、しかも新自由主義的体制のもとではこれらの調整的正義の形はより軽視される傾向にある。しかも資本主義者や自由主義者は、自己責任論を弄して配分的正義への偏重で十分だとか、そもそも調整は正義ではないと述べる。部分的正義が配分と調整の両方を含む限りこれら低俗さの無知やそれと見分けのつかないほど狡猾に偽装された悪意はいうまでもないが、一部の経済学者と名乗る自由主義信者らの空想内でさえ、市場経済が過度に万能化されている。なぜならこれらの人は相対貧困という概念を知らないかその重要性を故意に無視なり軽視していて、格差の固定が第二封建制度に他ならず、しかも世界史上最悪の極端な独占により致命的な独裁と維持不能な乱費による環境破壊、そして奴隷化された労働者への差別を必然に導出すると予想だにしていなかったか、他人の苦痛を見る事を楽しみにする偽善的知性として単なる悪魔に過ぎないのだ。
 日本国の単位でこれは天皇制による皇族財閥の独裁を意味している。徴税権を独占し政府に寄生したこの宗教権力者らは、資本収益と経済成長の両方から暴利を占める唯一の幕府である。国際的には租税回避を通じた別の財閥が存在し、(エドワード・スノーデンによれば、米CIA・英MI6、イスラエル・モサドがユダヤ国家保護のため共謀し中東におけるスズメ蜂の巣作戦The hornet’s nest strategy、つまり反イスラム内乱を国際的に実行させていると噂されるよう)アジア内乱の誘致による武器輸出入や原発に名を借りた核拡散等をはかっている軍産複合体の背後にある政商勢力なのだろう。地球規模でみれば、いまある天皇家はこれらの軍産閥の一つに過ぎない。また三菱財閥は、高知県(土佐国)出身者が坂本以来行ってきたこの内乱・侵略などの戦争誘致による軍閥であるといえるし、安倍家は晋三の兄である安倍寛信が三菱商事社長を務め、皇族財閥と三菱財閥の両方を兼ねている上に、明治内乱を理想視しているので、米英イスラエルと共に極東における蜂の巣を擾乱している最中に緊急事態条項の制限下で独裁体制を完成させる事を野望しているといえるだろう。
  調整的正義を回復するには、資本主義、自由主義、自由人主義、新自由主義などの市場原理論を拒否なりその欠点を批判的に再解釈する必要がある。経済力はある観点からは他人から貪るという悪意の程度である。市場は、経済力がない即ち悪意のない一般人のうち、最も利他的な人としての最善者を最冷遇する。つまり市場は人でなしに過ぎないのだ。人でなしを万能と論ずる人々は、需給の一致による産費の最適化が、営利にすぎず慈善でないが故に、社会的不公平に基づく嫉妬の苦痛や不幸の蔓延と結び付いていると認識できない。自己目的な営利活動は天国を永久につくりえず、無限に地獄を掘り続ける。
  調整的正義を何らかの愛国心や身贔屓(びいき)と結びつける事、たとえば愛郷主義Patriotismや地域主義Regionalismは、それが外部との差別化、差異化に基づいている限り地域紛争の原因になるが、少なくともそれらが本来の古代政治の姿である。いわば内外の別を何らかの理由に基づいて行い、自らの属する領域内をその外より優良化しようとする縄張り意図は、その領域が外部に比べ自らに快適だからであり、地域間の移動と再所属が可逆的にできれば、相互参照による意外の発見や個の適応の為にそれは少なくとも発展や進化の原因でもある。初めは開祖と小集団から成った全宗教も、村が拡大した国と同様に、地域主義単位あるいは縄張り単位の種類として存在する。結局、地球規模あるいはそれを超えた何らかの単位での調整と、世界的調整の違いは、縄張りにどの程度の寛容性を持たせるかという意識問題でしかない。そして国連、国、県、郡、市町村、家、世帯、個、或いは連合や州、区、果ては星や銀河といった単位集は、いずれも所属優先的な身びいきを図る際の単位でしかない。つまり地域主義的な調整をはかろうとする意図のいずれも、空観的な汎神等価視や、博愛、慈悲に基づく普遍的救済心と比べて卑小な自利である。但し、脱所属的な地域主義、たとえば国際主義や無政府主義、他集団尊崇による反骨、他集団を美化する外集団崇拝、外敵を利した自集団または他集団への裏切り等、地域主義には無数の多岐があり、必ずしも利己性の発露ではなく、自集団が他集団に比べ利他道徳的に劣っている時の啓蒙、修身・斉家・治国・平天下といったより利他的な余裕をもつ為の自己啓発等の複雑な利他性も含んでいる。東京や京都にみられる自文化中心主義や中華思想、自民族中心主義、或いは右翼一般にみられる民族主義や愛国主義だけが地域主義の形ではなく、それらは地域主義が堕落した姿である。ある人が一定の土地に適応して暮らしているとき、この土地と人に完全な対応関係はない。よって地域主義の本体は適応と、その恒常性を保とうとする自己統治であると分かる。そして宗教や政治思想が多様化した今日、調整的正義を再現する為には、適応をはかる他者との間に働くなんらかの地域主義やその単位が利己に閉じるのではなく、むしろ無限の利他を目指す世界的正義に開かれている必要がある。だから害他的憎悪演説や、自己中心的なnationalism、自衛を名目にした侵略内乱等の戦争、天皇家にみられる性差別や人種差別、薩長藩閥による徳川方の地域や所属者への侮辱や迫害、京都や東京による中華思想的な都鄙差別の傲慢などはみな根底的に不正である。抽象的定義としての世界的正義は、具体的現実においては、地域を通じた最不利者の救済と、最有利者の監査あるいは制御になる。よって或る人が地域主義的であっても、自地域を優先すべきかどうかは、時と場合によっているだろう。
 鳩山由紀夫が「日本列島は日本人だけの所有物ではない」 と発言し物議を巻き起こしたが、ある人格が他国の土地を保有したり、多重国籍がある人がいたり、外国人参政権が部分的なり完全に存在する様な国々が存在している為、単に現実的にみてこれは真だが、自民族中心主義をもつnationalistが自集団優先の観点からこれを悪解釈し売国呼ばわりをした。たとえば山口県は百済人や弥生人が入植してきた土地であり、日本の先住人である縄文人やアイヌ、琉球人が主に保有している訳ではない。したがって山口県民を民族浄化したり、国外追放したり日本列島から排斥したりする事が最も愛国的で民族主義的な事になる。しかし実際にこれを行う事に日本人は失敗してきたばかりか、逆に明治期以後、日本列島は山口県出身者(広義の長州閥)から、内乱を行うテロリズム、恐怖政治によって大規模な侵略を受けてしまった。不思議な事にというべきか、無知ゆえにというべきか、安倍政権を称揚する自称保守達はこのテロリストの末裔というべき山口県選出・出身の晋三を首相にしようとしている。それどころか、天皇家の先祖も諸々の状況証拠から弥生人や百済人だから、本来の日本人ではない。つまり平成日本の一般的右翼、民族主義者、愛国主義者、保守主義者らは、その言行において、日本の本来の先住権を持つ人間ではない他民族や他集団への外部集団贔屓と、自集団内差別や冷遇をひたすらしているし、それら外来者或いは移民、帰化人の支配権強化は却って自集団の支配を弱めるため自害的で、致命的に矛盾している。この様に時代や場所によって自他の集団や領域、縄張りを意味する観念そのものが変動している。結局、鳩山の述べた国際的友愛の観点からの冷徹な所有概念は、政治学的には真理である一方で、平成時代に右傾していた一部の自民族中心的な利己主義者達の不評を買ったわけだ。しかし平成右翼一般の基調は学問的真ではなく、非科学的妄想を含めた唯の自己愛的な利己であると分かれば、なぜこの日本国という全体主義的地域概念が欺瞞的かつ偽善的であるか、さらに俗受けを狙う大衆媒体が結束的自画自賛を都鄙差別的にくりかえすかも理解できよう。それは人口の多い国内自治体の集団が自己愛や利己心を満足させ人気を取りカネを儲ける為の衆愚的意図。大衆迎合によっているので、ただのpopulismがなぜる業なのだ。全体主義的大衆迎合の合理化が日本国や日本という地域単位信者の脳内妄念として無意識に定義されている絶対善なのであり、この目的から外れる事物をその人は排除しようとする。恐らくその根源原因は、日本列島に暮らす人々が遺伝的に恒常セロトニン値(セロトニン・トランスポーター数)が世界一程度に少ない不安脳からくる、自己目的な群衆化の傾向である。個人主義や真の自由人主義は、平成日本では大衆迎合に相反するため排除される傾向にある。勿論、この群衆は群れられさえすればいかなる害毒もいかなる暗愚卑賎も正当化していくので、半面が衆愚である。小泉進次郎が大衆迎合的人気政治の傾向をもっているのは、安倍による利己的独裁政の次にも、自民党閥が衆愚政の政党であり易い状況を形作っている。進次郎信者の様なポピュリストらは非群衆性や個人性を悪と認定したがる為、大都市圏にますます集密化し衆愚政治を自慢するが、この結果たる悪疫を避けるには地域単位を脱時代・脱場所的に見る脱地域性を上位認知しながら、群集心理の利点を取り汚点を避ける事だろう。要は、世界的調整の部分適用として政府や政党が構想されるのであり、過度に富裕な人は羨望される事にも指数関数的に急激に慣れ(フェヒナーの法則によれば、感覚量は刺激強度の対数に比例する。E=KlogR、E=KR、E: 感覚量、K: 定数、R: 刺激強度)無感覚・無感動化するので、金持ちの一部が蓄財分を慈善に回す事によって受け得る感謝や単なる良心の満足がそれに代わるという社会学的見地によれば、最貧者や最不利者を恵もうとする社会的利他性、つまり正義は、富裕度の応用として実践される。裏返せば相対貧者や相対不利者が害他的を含み利己的になり易いのは、その時点で保有する資産や成長率を見込んだ収益見込みに余裕がないからである。文化資本の不利はますます無知や浅学を促進する圧力でもあり、階級固定をよびこみやすい。例えば新自由主義者や自由人主義者といった資本主義の利己的分派が生じるのは、調整的正義に関する無知と、市場原理万能論を信じる非論証性であり、これらは共感知能や普遍的正義としての一般善に欠けている事、つまり文学や社会学、哲学といった後自然学的・人文学的な認知の不足に由来している。他方で北欧諸国が社民的福祉国家を維持できるのは地域住民の平均文化資本を充実させ易い条件があったからであり、日本国民一般の中で独裁政と社会主義が混同されているのはGHQ含むアメリカ政府からの洗脳や外圧を批判的に再解釈する知性やその為の自由教養が欠けているからである。茨城県の単位が、その世間で一般幸福を高めたければ、わが県民の中に郷土愛に基づく富裕な慈善家や、より功利的・福利的な政治体制を作る自由教養人を、質量ともに充実させねばならない事になる。
 県内市場を政府にとって無干渉的で、自由で、開放的に保つ事すなわち配分的正義と、そこで暮らす最も不利な立場に置かれた人の福祉を公的扶助によって充実させる事すなわち調整的正義は、調和的正義として両立されるべきである。
 正義はいついかなる場合にもあてはまる普遍的正義と、時と場合によって異なる部分的正義に分類され、更に部分的正義は配分的正義と調整的正義に分けられ、配分的正義と調整的正義の中庸に見出されるのが調和的正義である。
普遍的正義ー部分的正義
部分的正義ー配分的正義、調整的正義、調和的正義
 上記の正義の定義によれば、政府が行うべきなのは調整的正義である。対して、政府が自由主義的になり営利的になると、競合性としての市場原理は最不利者や最も経済力のない人、最も利己的でない人を冷遇し易くなり、場合によっては外部不経済としての公害を及ぼし、政府の実入りにならない限り反省しない。東京電力による世界最悪の原発公害にもかかわらず、その暴利を占める東京都や日本政府での生活を変えようとしない今日の安倍政権や自民党閥、皇族閥はこの不正な状態に陥っていると解釈される。と同時に、日本の一般大衆は教養や判断力の不足、そして群衆化し易い遺伝的性質の為に不安がり、改善を怠ってこれらの旧体制に固執している。一方で、政府や役所を含む公共団体即ち公社は、税収という恒常収入が警察の武力や軍事力を背景にした強制力としてもたらされ、特別な努力や工夫なしに維持されてしまうので、(パーキンソンの法則に言われる様)非効率組織として膨張し易い。日本人一般が社会主義組織の欠点とみている主要な点はこの浪費性にあり、独裁政や寡頭政と民主的・議会的な社会主義を混同している人(にもかかわらず天皇家の事実上の独裁や自民党寡頭政治を信奉する人)は無知か悪意である。もし効率的な高福祉を目指せば、福祉や教育をはじめ公共事業費を競争市場における民間事業者に計上すればよい。仮に癒着や票田化した賄賂による特定の民間事業者への非効率な委託が行われれば、その地域の福祉状態は、別のよくやっている地域に比べ低下する。ここで幸福を、自らの望むことを夢中かつ自由に中毒的に行い得る程度としての主観幸福、他者と比べた諸々の生活状態としての客観幸福、両者を含む快適な社交的状態としてみいだされる中庸幸福に分類すると、巨視的には地域政府単位間の客観幸福度としての福祉状態は、単に比較競合的に理解される事になる。公的扶助の為にある地域での最貧者が別地域の最富者だったり、障害支援の有無の為ある地域の最有利者が別地域の最不利者となる様な事は、客観幸福の落差で生じている。移住の自由が維持されているなら、低福祉な地域から高福祉な地域へ引っ越す事で客観幸福の度合いは向上するので、政府を地域全員が参加する公社として一種の企業体とみなせば、調整的正義の度合いとは、この公社に代表或いは代理として参加する一般・特別の公務員(及び広義で特別公務員たる皇族)がどれだけ公徳的か、そしてどれだけ財源と有能な民間事業者を確保できるかによっている。
 鈴木荘一が『明治維新の正体――徳川慶喜の魁、西郷隆盛のテロ』で述べている様、水戸学の本質に万民平等の考え方があったという意見には一理あり、それは烈公による『弘道館記』の忠孝一致の概念や、尊皇・愛民思想の中に原型的にみいだされる訳だが、平成時代までの政治的実例を鑑みると、松陰を通じて中国の皇帝制から移植された一君万民論は決して道徳的でも合理的でもない。明治から平成までの天皇制は変則的な物で、弥生時代以前、天皇侵入未然の日本人共和政としての縄文時代・石器時代を含めると、皇族を含む全ての公務員は地域の構成員が何らかの公正な方法で免職させられねばならない。天皇は南北朝の交代や平成までで8人10代の女性・女系天皇、桓武の母系を含め血統をいれかえてきたのであり、水戸学的万代一系論、つまり天皇とは正室によるのではない養子を含む単なる代によって維持されているという現状認識に基づけば、なおかつ今の天皇家が弥生時代以後の渡来人の末裔として本来日本列島の大部分の主権をもっており先住権をももつはず縄文系日本人のY染色体ハプログループD系統の男系遺伝子ではないだろうと想定される事からも、天皇の地位には人種的にも性別的にも、いかなる混血も認められるといえる。天皇制が廃止される時代にあっても、又皇室や皇族閥その他華族等の勲位の一切を含めて、公務員が民間人によって解雇できない状態はすべて不正の温床であり、調整的正義を怠らせその公務員自身が最不利者への奉仕より利己をはかる原因になる。したがって、少なくとも茨城県の単位においては、仮に将来の日本国やその他の国々もそうなるとしても、皇族や王侯貴族その他のいかなる末裔をも含め、全公務員が全構成員に対する職責違反、つまり公共の福利に反する場合に、公平公正な裁判その他の手続でいつでも辞めさせられる状態が確保されねばならないし、それは安倍内閣の策定した緊急事態条項を撤廃させる義務を意味し、憲法その他の法規下で皇室への特別扱いや性別を含む人種的差別をも廃止させるべきと示している。独裁政、寡頭政、衆愚政の原因なのは、議員や裁判官、公共学校における教員、公共施設の従業員、その他いかなる公社に属するこれらの公務員についても職務上の怠慢や不正があった時に免職される危険性がない事によっているのである。
 まとめると、効率を害さず、腐敗を防いだ高福祉な地域に茨城県や北茨城市をする為には、上記のうち、 公共事業費を最大限、競争的に民間委託する事(これは、郵政に見られたような業務の財源自体を民間に手渡す民営化では必ずしもない、なぜなら最不利者への慈善事業には必ずしも収益性がないからだ)、無差別的で公正公平な公務員採用を図るため民間人や公務員自身が通報する事による簡素化した免職手続きを皇族を含む全ての公務構成員にいかなる特別扱いもなしに適用する事の2つが重要である。
1. 公共事業費の民間委託、非公益的事業の民営化
2. 公務員を無差別的かつ公平に解職可能
民営化が有効なのは全体奉仕としての公共性、つまり最不利者にとっての公益を満たさない不要事業についての整理や外部化であり、競争的な事業者選択によって効率性をはかる民間委託が有効なのは無駄の嵩み易い公共事業全般に対して言えることだといえる。政府や役所が株式を買う事は、その目的としての公共性を十分に満たす時に、財務収支の一部であるといえる。又この2つの目標に照らせば、資本主義や自由人主義、新自由主義といった市場経済の開放性は、より単位が小さく、部分の奉仕者たる企業や個人事業者にとっての考え方であり、社民主義や社会主義は、不要の事業についての民営化や非効率な事業についての民間委託を含む政府の考え方であるという事ができる。そして資本主義的市場、自由競争市場と、民営化・民間委託を中心とした社民主義や民社主義、一般的社会主義は両立できるという事ができる。これらに反するのは、解職できない公務員利権としての官僚主義や皇族自身の世襲暴利を永続化する為の天皇制、そして自由市場の効率を害して政府銀行(日銀等)や一般企業に干渉する(安倍政権にみられる)国家社会主義や自民党独裁、自民党閥寡頭政治、或いは自己責任論を弄して弱肉強食を正当化したがる政治的自由主義、そして政府自身が保有する公社を拡大していく共産主義である。平成の日本国民一般が社民や民社を含む社会主義と共産主義を混同し、自由民主主義や保守(明治保守、薩長藩閥、明治寡頭政治)と名乗る皇族閥寡頭制を妄信しているのは、アメリカ政府からの同調圧力という内政干渉があるとはいえ、単なる政治・経済学的無知によるのである。また社民と民社の違いは、社民は広義で共産を含むが民社は含まない、という事が原則の様だが、これらが市場統制的な面を含む限り、市場や金融へ容易に介入し株価をつりあげたり労賃や報道への圧力をかける安倍と安倍が党首時点の自民党も広義の社会主義者、特に国家社会主義者であるといえる。すなわち、この論考でいう高福祉化は狭義で民社主義に他ならないが、これらの用語はともに社会主義という言葉を含み、一般に誤解を呼びやすい為に、私は通常、福祉主義Welfarismという言葉を用いるべきだと考える。福祉主義の立場からみれば、部分最適をはかる自由市場や、相対不利者を恵む民間委託や公務員の浪費を省く積極的な民営化はともに両立する一方で、夜警国家やサンディ・スプリングス市のよう極小政府をめざす完全民営化論や、弱者に対する福祉政策のきりすて、金融緩和の名目で日銀が過剰に株を買い上げ株価を釣り上げたり労賃低下を招く非正規雇用法を通しながら労賃上げを経団連に圧力したりするアベノミクスと称する市場介入・市場壊乱の矛盾は否定される。厳密にいえば、安倍政権はアメリカからの内政干渉を避け権力維持の為にアメリカの日本操縦者や米政府の戦略に従属する行動をとっており、量的緩和の名目でのGPIFや日銀の買い上げによる日経平均株価のつり上げは、ゼロ金利政策で日本人投資家にも投資を促している日銀の黒田総裁やNISA制度等で若年層を含めた資産形成の不安をあおる金融庁と財務大臣の麻生太郎による意図如何に関わらず、特にアメリカ系の外国人投資家によって既に買収されてきていた日本企業を日本勢を養分にしアメリカのバブル崩壊までに売り抜けさせる為の米犬的媚び、つまり安倍晋三個人の生前の権力欲を満たすため日本人の貯金をアメリカ系投資家に吸い上げさせる売国策、そして自民党の主要財源である経団連からの献金を募る為の金権政治的腐敗に他ならない(因みに北朝鮮危機を煽る事での独裁政の完成や軍産閥の形成は、米軍産複合体のみならず安倍の兄・寛信の属する三菱財閥への利益誘導でもある)。また人種的な差別と宗教的偏向、品位を名目にし世襲の浪費利権を含む公共税収に寄生した独裁政治体制たる天皇制や、強制的で定期的な党首交代や三権分立的権力の制限を含まず皇族閥や軍産閥等の世襲政治家、今日でいう安倍晋三や麻生太郎、石原伸晃が両院を独裁した党首の地位を延長させようとする自民党閥寡頭政治あるいは皇族閥寡頭政治はともに利己的かつ非公共的なので否定される。なおかつ、官僚主義的な国家公務員の利権を維持する為の体制、つまり国家社会主義や、神道原理主義による洗脳を通じ信者や皇族血縁者の権益を最大化しようとする結束主義Fascismや全体主義、皇族に近いほど優遇しようとする弥生・百済系移民中心の民族主義や、中華思想的な東京・京都主義は否定される。中華思想が否定されるので大都市部の住民を過疎地や郊外、田園部の住民より優遇する理由もなく、群衆化自体も少数派の迫害という意味で公害なので大都市優越論や都鄙差別、即ち日本型華夷秩序も否定される。福祉主義の観点からは、出身や人種、民族によらず地域の公益、最不利者への傾斜的調整が公共事業の目的なので、帰化人や外国籍居住者についても、ただ乗りの行き過ぎや害がない限り最大限の人権を認めねばならず、よって公用語は我々の地域が既存事実として用いている言語であるべきだ。公用語を確定する事は新奇性や少数派への抑圧につながるので、法定しなくていいことになるだろう。

2018年3月1日

日立建国論

 日本国の近い滅亡を予期し、今日の茨城県は主権を確保し独立、日立国として単独で国連に参加する。この為に金融業を根幹に据え、今日の茨城県民には年少期から早期の金融教育を導入しておく。日立国の人口規模は、日立、水戸、筑波の三大都市圏に人口集中を図り、広大な農地と共存する事で一千万人を目安にする。
 また国連参加後は、国際調整税を国連会議で主張し、より貧しく恵まれない国々を優先し公的に支援する地球的体制をつくるべきである。

2018年2月25日

遷都準備論

 今後30年以内に首都圏南部及び水戸市で震度6以上の揺れが起きる確率は80%と見積もられている(調査研究推進本部・地震調査委員会資料(平成29年4月))。
 この事実は、 首都圏は一度壊滅する事を示している。その際には巨大な復興特需が起きるだろう。茨城にとって重要なのは、他の首都圏と自己を差異化し、この際の損害を最小化し、特需による利得を最大化する事だ。前提として東海第二原発の廃炉が必須だが、次に為すべきは遷都を、安全圏化しつつ新政府に有利な県内へ行わせる為に全ての手筈を整えておくことだ。先ず復興庁や国交省らを動かし、県内の耐震・制震・免震化を助成金によって最大限おこない、液状化で住みようがなくなる首都圏南部と完璧にすみ分ける。次に東南海地震によって破滅する東海道と異なり、災害に絶対的安全を確立するべきである。

2018年2月24日

日立国論

 今の日本国民全般はマスメディアやサブカルチャー、また文科省の与えた教育等、東京都に洗脳された情報環境を通じたものの考え方や見方をする。そしてセトロニン・トランスポーター数の少ない脳の遺伝的変異をもっていて、この為に群衆化を自己目的に行い、周囲の日本人一般と見なした集合意識へ同調したがる。この東京発の情報環境下での全体主義集団心理が魅力度報道をはじめとする一切の日本人の典型的偏見や差別を生み出している。又、彼らにとってこの偏見や差別を自己批評的にのりこえる事は極めて困難なばかりか、恐怖のあまり吐き気を催す体験であり、科学的真や道徳的善をはじめ、美醜や価値判断の一切を集合的他者と見なせる多数派世間に頼り、自分自身でこの国家規模の洗脳から抜け出す勇気も意欲もない。逆に、日本国民全般は、積極的に東京のマスメディアや政府、その他ネット世論等、周囲に同調できる多数派集団と見なした相手へ、卑屈なまでに追従したがる。
 少なくとも、ブランド総研の田中章雄はじめ、都民の一切にとって、他県を差別や偏見で塗り固めて貶める事は、単なる商売であって、それによる法的・倫理的制裁が政府機関や世間から行われない限り、罪も恥も全く感じないであろう。この決まった千人程度のブランド総研会員に対する主観的なイメージ調査を毎年くりかえす事による稼業は、田中章雄にとってもその他の日本国民にとっても門地差別エンターテインメントとなっており、その集団虐待の対象がどの自治体になろうと、単にストレス解消の為の特定自治体に属する一部国民への汚辱ゲームとしか日本人全般は考えないであろう。この決まった会員を対象にしても、その他の人々を対象にしても、田中章雄やマスコミの主要関係者が住まう東京都が47位になる可能性が十分に低いので、いわば絶対的安全地帯から不利な条件に置かれた日本人に汚名を着せ差別と偏見で侮辱する事を、これら一部都民は生業にし、その他の衆愚的日本人も半ば悪意で同調しているのである。
 上述のことを十分に省みると、具体的に問題を解決するには、
1.田中章雄と総合ブランド研究所を地上から除去するか、
2.東京都のマスコミ各社に差別・偏見の報道を禁じる法制を布くか、さもなければ
3.日本国民全般の遺伝子を地上から除去するか、
これらの3つのうちどれかしかないように見える。1で田中章雄の寿命によって解決する場合をいえば、この特定自治体への差別・偏見による商売が終わるにはあと10年以上かかるかもしれない。それ以前に、田中が事故、病気、その他の事件で死亡した場合は、もっと早く、この報道公害が終わるかもしれない。3で日本国民全般という差別や偏見を厭ったり情報の批評的理解力に欠けた同調脳を持った衆愚をこの世から民族浄化する場合については、米中軍や国連軍等による大規模な戦争が起きたり、何らかの天災、或いは疫病の流行等で、一網打尽にしたりする事が考えられる。2の差別偏見の報道公害を防止する道筋については、自由圏においてかなり難しい事ではあるが、安倍政権ならやりかねないという意味で、国政と内閣に強く訴える事はかなり有効といえようが、報道公益への弾圧の糸口にもなる諸刃の剣ともなりうる。
 大井川知事を含め、茨城県民も日本国民も、この問題が報道公害や日本人の衆愚的集団虐待の悪意という、構造的な差別問題なのを自覚していない。そしてそもそもこの集合無意識が出てくる源泉は、神道という奈良発の弥生系民族宗教と、その教祖である天皇という象徴的権威が都心に住んでいるという都鄙差別の構造である。この根底にあるのは、遣隋使以来、天皇が中国風の中華思想を模倣し華夷秩序を述べてきた事にあり、いわば「京都思想」と言える当時の天皇が住む大都市における自文化・自民族中心主義と、その蔑視対象であり搾取対象としての田園地帯という神道的帝国主義そのものといえる。逆に、イギリスは荘園領主以来の紳士や郷紳の貴族政治が上院に維持され、イングランド国王は連邦各地を封土として特権階級に付与するという形式をとるので、近代都市よりむしろ田舎地帯が尊く、美しく、守られるべき原風景という国風や民情をもっている。明治以後の日本人全般は田舎や農地を頭ごなしに差別し、農民階級をも蔑視し、都心部での商人生活や官吏が格上の存在だという一種の妄想をもっている。もしこの事が中国の文化構造の忠実な移植なら、なぜ日本や中国に限って、イギリスの価値観が植民地を通じて世界では一般的なのに対して、これほど極端な都鄙に対する価値観の違いが生まれたのか。この都鄙差別の根本原因をとりのぞく事こそ、唯一、わが県民がこの世界において誉れ高き誇りと気高い名誉をとりもどす最初にして最後の手段と言う他ない。それは、水戸学において貫かれていた尊皇考を否定し、のりこえる事に如くはない。
  中華皇帝の模倣者として奈良で奈良時代に捏造された、奈良人の先祖たる中朝系の特定弥生人崇拝の新宗教は、それまで日本に遍在していた自然崇拝を、中国風の多神教に染めて、いわば在来日本人を奈良の中朝移民の奴隷に仕立てようとした。この自然崇拝と、神道という新しい多神教は、歴史の長さにおいて数万年の開きがあり、別の信仰形態である。実際、明治時代に天皇政府が強要するまで、アイヌはこの原型的自然崇拝を維持していた。最低でも3万年以上日本列島に住んできた縄文民族こそ本来の先住権をもつ本州の日本人であり、天皇の先祖であろう弥生民族は、今から7000年前の弥生時代に侵入ないし侵略してきた異民族であったのだし、この末裔たる天皇も我々日本人の直接的な先祖とはいいがたい。外来目線でいえば征服者、日本目線でいえば侵略者の天皇を天皇自身と共犯的に、政府権力にとりこんできた歴代将軍や首相は、自ら執政する都心を神格化・偶像化させ、礼拝なり崇敬させる事によって日本人の帰順や服従を宗教的な洗脳や情報操作によって誘導してきた。つまり現時点の安倍晋三氏も、或いは側近にいる麻生太郎氏も、かつての華族や公卿連中、徳川家や毛利家、島津家の様に天皇と血縁・親戚関係を結ぶ事で、自らの政治的権威を絶対化しようとはかっている。そして茨城県、かつての常陸国並びに下総国が東京都民や日本国民全般から、意識的にせよ無意識的にせよ魅力度報道にみられるよう実質的な差別対象にされている理由といえば、この薩長藩閥と天皇家の東京政府における血族支配体制による、旧徳川家の強権的支配地への冷遇に違いない。勿論、徳川氏も天皇の親族であったが故に、その権力を確固たるものとするべくして、家康の代においても、義烈・慶喜公の代、水戸家においても皇族との縁戚関係が結ばれていた。勿論、単に民放テレビ局をもっていないから外部に知られていないとか、まだ知られていないだけとか適当な理由をひねりだして、薩長閥、皇族閥による徳川支配地への差別をなかったことにしようとする者がいるのは理解できなくはないが、尾張こと名古屋市が都市の魅力度で最低と同じく差別されている事についてかんがみても、また福島や新潟、青森といった奥羽越列藩同盟側の主要な地域に東電や日本原電による原発災厄が準備されているのは、明らかに西軍からなる日本政府関係者、及び日本国民全般からの悪意によるものだとみなす方が自然な証拠におもう。これが被害妄想であるというのは簡単だが、現実に福島原発事故時の菅直人、それ前後の安倍晋三という山口県出身の長州閥首相をみるに、これらの人々は明らかに明治イデオロギーによる日本国内の旧徳川方への侵略内乱罪含むありとあらゆる嫌がらせと悪意を、全く恥じたり罪と反省する気配がないどころか、心底からの悪で暴挙をしているというべきなのである。勿論、これらの手先に実行させてはいるにせよ、天皇家が真の悪の親玉なのはいうまでもない。端的に結論をいうと、茨城県が再び常陸国として国内及び世界に名誉を回復するには、天皇家と薩長藩閥による日本政府を一旦滅ぼし去り、新政府を現茨城県内に茨城県勢から樹立し、その新政府において、常陸国(日立国)を立国、完全に日本国から独立し直す事しか道のりはなさそうである。上述の1~3の選択肢のうち、1について田中章雄の死後、報道を通じて散々洗脳された日本人衆愚は相も変わらず茨城県を偏見と悪意から差別し、侮辱し続けるかもしれない。また2について、東京の報道がどれほど悪意と偏見、差別、虚偽と暴挙に満ちていても、結局は県外人のmedia literacyや文化人類学的な他地域への批評的理解力が低いままなら、別のさらに邪悪な洗脳を受けて同じ差別をくりかえすだけであろう。これは県内に限っては然るべき教育によって改善しようものの、神道的中華思想、京都思想を持った衆愚にあっては全く希望はない。現東京政府がいかに全国民へ博愛精神やそれぞれの地域文化や伝統に対する理解と敬意を教え込もうとしたところで、天皇独裁あるいは将軍専制による都鄙差別という二千年間にも及ぶ愚民化・奴隷化政策のあとで、どれほど民情の回天に時間がかかるだろう。そもそも弥生時代以後の日本各地は、おもに縄文人と弥生人の間で、あるいは弥生人間での内乱が平均150年単位でくりかえされてきており、その混血がかなり進んだ今日にあっても、150年前の戊辰戦争が最後の両民族間での内乱だというべきである。この様な内乱が起きる理由は、日本の先住人と、弥生系侵入者との間にはY染色体ハプログループに関する限り遺伝的距離が7万年も離れていて、弥生人は既に住民のいた大陸・半島から排斥されたり何らかの訳で移住して無人の西日本に植民した以上、そもそも日本人の為に移民してきたわけではないので呉越同舟に過ぎない事、その上考え方や感じ方といった文化にあまりに違いがあり、日本や東南アジアの肥沃な大地に狩猟採集生活をしてきた縄文人の共和的利他主義に対して、おそらく不毛な草原地帯の続く北アジアや中国朝鮮に暮らしてきた弥生人の簒奪的利己主義というその傾向の真逆さは、長らく日本国内の武力を伴う摩擦の原因になっている。はっきりいえば、この傾向は性格遺伝子の違いに由来している可能性もあるので、相互の本性自体を変える事はおそらく難しいであろう。勿論、個人の単位では利他的弥生人や利己的縄文人の末裔も存在し、文化の詳細にはもっと複雑な地点もあるだろうが、ここで単純化して理解した両者の違いが、結局は薩長や西日本人の人々の自己賛美と東国蔑視、そして東京に来た彼ら弥生系移民の末裔による自己崇拝と、周辺の田園地帯や工業地帯を朝貢する農奴・奴隷の居住区とでも言いたげな、中華官僚的差別意識を生み出している原因なのである。この華夷秩序において自己神格化をはかってきた天皇の様に、弥生人が歴史的にもっている利己性や簒奪性という傾向は、平成時代においては農工の侮蔑と士商の賛美という二極化をもたらした。なぜなら、東京に入ってきたこの天皇家という簒奪者や薩長土肥京の末裔たる華族・官僚連中はひたすら周辺国民を暴力や権力濫用で収奪すればいい、あるいは政商の癒着によって暴利すればいいと解釈したからである。岩手出身の先住日本人の民主政治を冤罪にかけてまで冤罪報道・疑獄する割に、山口出身の中朝移民といえそうな人物だとか奈良に帰化したその末裔による違憲行政や金権政治の数々を称賛する東京以西の衆愚を鑑みよ。これらの人々は、端的にいって純粋に利己的にふるまう事を本性に基づいてしているだけで、日本人全般を奴隷化する事に何の疑問もないからそうしている。他方で、日本人全般は、もし彼らが先住人の血筋を引いていれば猶更、もともと利他的で共和的な平和文明を数万年にわたり国内で維持してきた種族であるから、これらの横暴を働きたがる独裁者・寡頭政治家らを一種の内に秘めた反抗心を保ちながらも、むしろ許容してしまうのである。『古事記』に記録されたところ以前にも、古墳時代以前においてこの侵略者たる弥生人集団と戦った各地の長は間違いなくいたし、それ以後も、天皇家が悪意をもって抹消してきた数多の先住日本人達の長、そして住民らがいた。靖国神社が慶喜公の末裔である徳川宮司において尊皇親幕の会津合祀や、徳川派への裏切りや濡れ衣の果てに最後には長州閥にも抗った西南戦における薩摩閥の合祀を行おうとしたところ、一部の山口県民の利己のみが目的の長州閥原理主義右翼がそれを非難したわけだが、この背後には、天皇の独裁権に反抗する者を徹底して差別し汚辱し歴史的に抹消しよう、という利他心を一切もたない完全悪の邪教神道の教祖・天皇による悪意が横たわっている。そして弟への常陸宮という親王任国の名義づけを天皇家が踏襲しながらに、天皇支配の平成政府下の民衆が、当の茨城県を軽侮し、差別し、偏見により蔑視する事は、それが天皇崇拝と国民蔑視、結果としての都心崇拝と田舎蔑視という神道教義の実践段階だと考えているからに他ならないのである。しかも、長州閥独裁政権下で日本人衆愚がこの卑しい差別心と邪教崇拝の邪念から蔑視対象にしているのは、常陸水戸や尾張名古屋といった旧徳川御三家の歴史と伝統が息づいている地域なのである。
 これが魅力度報道の決定的な民族精神分析であって、 大井川知事が単純に考えている様な外部に知られていない、という宣伝効果だけでは決して説明できない事なのだ。司馬遼太郎ら明治賛美の長州閥原理主義または神道原理主義右翼らは、その尊皇考や象徴天皇の体制論が当の水戸に直接由来している事など、全く知らない。逆に統一日本による欧米からの植民侵略を防ごうとした専守防衛理論たる正義の水戸学を、天皇を箔づけにした利己の権力簒奪の為の倒幕イデオロギーや侵略内乱の松陰植民地主義の正当化に悪解釈し、明治以後の内外侵略や神道原理主義的創氏改名・廃仏毀釈等の天皇帝国主義に至らせたのが、薩長藩閥を主とした西軍と天皇家である。この事も、利他的傾向をもつ縄文文明の末裔としての水戸の平和主義やそれを支援した奥羽越列と、利己的で害他的な傾向を恥もしなければむしろ誇ってさえいる弥生系移民の末裔の西国諸地域に対極的にみられる傾向の摩擦だといえる。滋賀出身の原田伊織は幕府の忠臣を述べてありながら天皇家や徳川家に攻撃した、忠義の点で日和見的な行動を幕末にとった井伊家を正当化する為に、浅薄な悪解釈で水戸学を非難しているが、一言でいえばろくに文献を読んでもおらず、その思想体系について何も理解していないといえよう。これらの全ての悪意は、徳川宗家が戦国時代の末期に内治を完成させ、江戸時代を通じて行った専制政治への恨み、そして水戸家の尊皇を貫いた慶喜公が天皇を守り大局的判断で第二の関ヶ原というべき東西主力軍の内乱分裂により日本の欧米による植民侵略を避け、自己犠牲的に継いだ宗家や一橋家、自らの実家水戸家の地位を捨ててまで祖国防衛を両立すべく禅譲した事への無理解・誤解と悪解釈、或いは暴力至上主義や反平和主義からの罵詈雑言や讒言、侮辱が原因だといえる。日本人衆愚が水戸家や水戸学、徳川慶喜の立場を理解するには程遠いが、それは薩長藩閥中心主義、薩長史観、明治史観、天皇史観によって禅譲した慶喜や徳川家への敗者の烙印を押し続け、しかもこの利他的な、本来の意味で純日本的な行動原理を、本性から理解しえない弥生民族の末裔という生まれも育ちも悪い移民集団による無理解・誤解・悪解釈の偏見と差別によって迫害しよう、というのが、天皇家、安倍家、麻生家、そして日本政府や日本国民全体ぐるみでの悪しき目的なのである。要するに、これらの水戸の徳川家による政治は、実際には我々茨城県民、そして常陸国民におしつけられたものである。我々は自らそれを選び取っては全然いない。我々の土着の支配者は佐竹家だったのであり、それ以前には武田家や伊達家など様々な群雄が割拠していたのであり、さらに遡れば純日本人達が平和文明を建国していた。徳川氏は群馬、愛知経由で武蔵・江戸に出てきて、そこから佐竹を退けさせて徳川家の末裔を我々の領地におしつけてきた。そしてこの支配に逆らったとみなされた、生瀬村の事例にあるよう、単に役人もどきの詐欺に騙されただけでも、水戸徳川氏の軍によって村ごと惨殺され消されてしまったのである。この様な厳格な支配体制下で何とか生き抜いたうえ、忠義に基づいて最大限、祖国防衛の為の利他行動に死力を尽くしたのが水戸と茨城の先人であって、天狗党も諸生党も含め、その後の全ての人々も含め、単に常陸一国、下総国のことだけを考えていたのではなく、むしろ会沢正志斎や藤田東湖、桜田義士や芹沢鴨らのよう、今日の日本全体を思い、日本と言う国号を実質的に制定した烈公や、象徴天皇や議会政治の直接の祖である慶喜公のように、明らかに普遍的政治道徳に基づいた正道を辿ってきたのは、薩長土肥でも京都でも広島でもなく、それどころか攘夷が不可能なのに征夷大将軍という防衛省の役割を放棄して義勇軍の天狗党を弾圧をしたり西郷と島津の暗躍で冤罪にかけられた水戸へ疑獄内乱を起こし自己崩壊を招いて江戸・東京でもなく、茨城こと常陸国の人々なのである。
 全国民から収奪したカネや財物を消費するので商人が集まった都心に住まう中韓移民の天皇が主で、その侵略犯に農作物や工業製品を貢納するのが日本先住の国民であり、この飛鳥時代以来の日本人差別に基づく腐敗した独裁政の主従関係は、今をもって終わりを告げた。確かに水戸の徳川家は、5億年以上続く常陸の全史に重要な時代を作り、特に歴史学の分野で一家言を作り、儒教や国学を大成した偉大な史書や派生した思想をもたらしたし、それは常陸を含む日本全体の近代化の原理となって統一国家を形成し植民地侵略を防いだし、殖産興業や愛民思想に基づいた仁政徳政の事績は常陸を全国二の農業大県にしたし、烈公が発展させようと考え命名した北海道も全国一の農業県になった。これらは農本思想に基づいた民を慈しむ儒教的仁政の理想と水戸学者によって宮中祭祀に復活した新嘗祭に象徴される秋津洲の瑞穂の国を体現しているし、私以外の誰も水戸家の偉大な貴族性をもはや評価していないとしても、私は最大限に彼らの理想的な統治者としての資質を理解しているつもりだ。ユネスコが弘道館と偕楽園の構想に今は無き武士の平和国家を守る清冽な気概をみてとれないとしても、もし義烈両公が今日の常陸を見渡せば、恐らく民の努力に感激し、彼らの理念が忠実に再現されていったその後の発展史に満足する事だろう。敵の辱めを受けぬ前に水戸城を焼き払った高潔においても、慶喜家を歓待しその最期を常陸国水戸において畏敬の念において見送りえた事の忠節においても。一方で、日本国民全体から貶められ辱められた武士道と常陸水戸の地位は、いかなる手立てをとろうと最高の名誉をもって復活されねばならないし、その為には、県外のいかなる日本国民を犠牲にしようが、もはや躊躇も寛恕もいらない。なぜ県外人が茨城県民の名誉を貶めるか、辱めるかと言えば、彼らの無知のみならず、当の常陸人によって確立された尊皇の理念を衆愚が誤解し、君民一和、尊皇愛民どころか天皇を崇め国民を蔑んでいるからであり、挙句の果てに食のありがたさや農工尊重の念をも忘却し東京商人のカネ儲けと腐敗官僚の贅沢を卑しい町人都民の扇動によって偏重しているからに他ならない。この事態の根源原因は天皇という邪教祖なのも、又明らかである。義公は皇国史観を通じ古代王朝の末裔としての天皇を神格化し、妻である皇族を通じて水戸徳川氏の尊皇愛民の副将軍たる地位を確固たるものにしようとしたのだろう。だが、その尊皇精神こそが衆愚の都心妄信と田舎蔑視の原因となっているのなら、これはもはや主権者たる茨城県民自身のただの本末転倒の自損に過ぎないのであって、今や我々は尊皇主義を破却しなければならない。一体、この宇宙のどこに差別される為に悪しき侵略者の教祖を崇める愚か者がいるだろう。日本国民という県外衆愚に我々の名誉がけがされない為には、天皇や日本政府と手を切り、たとえ一県なりといえども一国として再び独立し、自律自衛の軍事増強の為に富国強兵を徹底し、県外国外からの内政干渉のそしり一切を完全に排除する事が必要だ。県外の天皇政府に財政的に依存していたり、日本政府からの軍事的支配を受けている事こそ、わが常陸の国民が自らの自律を侵害されている原因に違いない。
 もし日立国が独立後も、外人がわが国をそしり、貶め、辱めてきたとしたら、その事を歯牙にかける必要は全くない。わが国がその歴史と伝統において傑出した偉大さを保ち続けている事が重要なのであり、それには国民一人が自らの尊厳を宇宙で最も高い次元に保ち、尽忠報国と主権の権化であればそれで十分である。日本国という烈公が植民地化を防ぐべく名付けた単位は、期限切れのものとなり、わが日立国の前に滅び去る事になるだろう。現時点では誇大妄想と受け取られる見解にみえるだろうが、私は必然の未来を見通し、単に近い将来の世代から見れば当然の事実を述べているにすぎない。日立国外人は我々自身とは関係がない。単に、必要なのは主権を完全に樹立し、それを永遠にたもつ為の軍事独立に他ならず、この為には300万国民全員が最後の1人になるまでゲリラ戦を続け、日立国の独立の為にあらゆる手を尽くす事が最善だ。またこの独立を維持する為の武器の開発を何より最優先とし、ひたすら各国の軍事を学習し続けるべきである。金融業を国家産業とし、ここで得た利潤は全て、日立国の尊厳を自律によって守るべく、軍事費に費やす覚悟がいる。金融軍事大国が、茨城県の後裔たる日立国の執るべき方途である事を明記しておく。なぜなら、武士が発祥し最後の将軍の末裔が亡くなったこの常陸は、正真正銘の武士の国であるからだ。この武士道を完成させる事こそ、首都水戸に託された使命だといわねばならない。日本国民にいかに侮辱され罵られ偏見で差別を受けても、我々自身が誇り高き正道を辿ってさえいれば、完全に無視できる。その正道こそ、常陸あらため日立を国家として日本から独立させ、我々国民自身による国民の為の本来の共和国家を統治する事である。抑圧者・弾圧者・侵略者・内政干渉者である日本国民こそ、我々日立国民の敵に他ならない。天皇は敗れ、亡び去る。日本政府は廃れ、消え去る。その後に残るのはわが国だけである。我々は今から、偉大な先人たちのあとを継ぎ、我が国が世界中から正しく理解され、尊敬され、最も名誉ある国民の一人であるとひたちの全員が見なされる事を当然と考え、その為にもてる限りのあらん限りの死力を尽くさねばならない。国外の衆愚を我々が脳ごと取り換える事はできない。いくら説得しようが宣伝しようが、明治イデオロギー狂信者や、水戸学の尊皇論を誤解し神道京都思想で田舎蔑視して恥じぬ愚民愚官愚皇になにをいおうが無駄である。これらの愚者、卑人はサルと考え、完全無視が唯一の対処法である。代わりに、我々自身がいかなる理想の幸福を、いかなる理想の福祉を、いかなる理想の尊貴なる永遠国家を作りうるか、そして最大の力と正義をもって我が国日立を軍事的に防衛し続けられるか、試さねばならないのだ。

2018年2月23日

磁気浮上式滑走部による常磐線とTXの電磁浮動化

 常磐線の各列車、スーパーひたち、TXにIronLev社の磁気浮上式滑走部を採用し、後に県内企業がこの磁気浮動式滑走部を改良した特許を再取得してグローバル展開を図るべきである。これによって通勤通学時間を短縮でき、県内へ過剰人口流入中の首都圏における住宅と職場の建設を誘致、開発特区にできる。又それにあたっては、私鉄を呼び込むべくJRの鉄道を民間事業者に共有するよう国会議員と法制に働きかけるべきだ。TXを水戸駅まで延線する事も、県南から県央まで人口流入をはかる事になる。

イタリアのスタートアップであるIronLevが2018年2月に発表した特許は、すべて「メイド・イン・イタリー」の磁気浮上式走行装置だ。最大の特徴は、既存の線路で使えるよう考案されている点にある。新しくレールを敷設することも、列車を設計し直す必要もない。車輪をIronLevが開発した磁気浮上式の滑走部に交換するだけでいいのだ。
「滑走部を列車に取り付けるだけで、つまり新しい車両をつくらなくても、世界中の150万km以上の鉄道路線を利用できるようになります」とIronLevの社長、アドリアーノ・ジロットは説明する。
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IronLevの磁気浮上式滑走部を活用した列車では、消費電力がより小さくなると見込まれている。環境保護につながるだけでなく、レールの摩耗も少なくなるため、レールの製造と維持にかかるコストも低減できるだろう。
ジロットは「パッシヴ磁気浮上の原理により、10キロの重量を持ち上げるのと同じ力で10トンの車両を動かすことができます。使われる唯一のエネルギーは、車両を動かすためのものだけです。路線によっては、そして技術の発展の度合いによっては、音速より速く走行できるでしょう」と主張する。https://wired.jp/2018/02/23/ironlev-from-italy/

2018年2月21日

安倍独裁下での茨城県政論

 アリストテレスのいう部分的正義について平成の現在にあてはめて解釈すると、配分に偏り過ぎた拝金主義や自由人主義(libertarianism)、調整に偏り過ぎた労働主義や生保主義(生活保護主義)はいずれも合目的ではない。配分と調整の両極をもちあげた中庸、即ち調和といえるのは、民社主義や社民主義だといえる。民社または社民主義による高福祉化にあたっては、官僚制の弊害を避ける為、民営化が同時セットでなければならない。
 また以下にその理由を詳しく説明するが、非正規雇用法の撤廃あるいは改善によって、非正規労働者の方が正規労働者より給与が高くなるよう企業に義務付ける事が第一に必要な施策だろう。なぜなら、非正規雇用法を通した小泉政権と、その後裔としてさらに金融緩和を非正規雇用法撤廃より先に行い中流没落を招いた安倍政権を主とした自民党が、平成の日本経済及びその百年の計たる国政に深刻な失敗を招いた第一原因である。一言でいうと自民政治が失敗しているわけだが、その理由の最たるものが、アメリカかぶれの竹中平蔵が新自由主義を小泉・安倍両政権下で日本に導入しようとし、先進国でアメリカに次ぐ相対貧困大国にしてしまった上、社民的福祉化も社会主義への偏見や、麻生・安倍という皇族閥の既得権益維持の為の保守信仰、または安倍の親米的保身によって怠ったので、国民全体の低所得化によって人口減少による国家衰退が決定的になった事だ。竹中はパソナグループによる人材派遣業で政商としてしこたま儲けたが、途中で自らの政策的失敗に気づき北欧を称賛しだすころまでおこぼれ理論を本気で信じていたのである。
 2018年段階で安倍独裁とその支持者達は日本の拝金化を極端に進めているが、それは経済ではない政治の調整的役割を理解していないからであり、いいかえれば彼らは調整的正義を認知しない衆愚だといえる。拝金は社会的不公平を拡大し、多数を占める人々の相対貧困化を進め、低教育・低教養の蔓延は階級移動を妨げるので、民衆一般に客観的幸福度が低くなる。安倍政権下で日本国内衆愚中に結束主義的愛国心の強調が見られるのは、批判的思考の欠如からくる無思考と生得的に少ないセトロニン・トランスポーター数による不安脳の故に自己目的な群衆化の確証偏見を強化してしまうと同時に、北朝鮮・韓国・中国の軍事的脅威を強調する安倍の仮想敵扇動による独裁権力強化の作戦から更に不安脳を煽られているからであろう。つまり、平成の労働者達が安倍独裁下での拝金的な格差拡大政策が彼らに不利で彼らの信じる労働主義と対立しているのに肯定するのは、およそ、独裁者を結束的に狂信する事が最も複雑な社会状況を考えたり、社会批評的に解析しなくて済むからである。 平成末期はこの様な衆愚政状態だったと後世に知らせる事は有益だ。幕末から明治に薩長土肥、京都、芸州(広島)等の西軍が松陰の無政府的侵略主義に染まり、天皇が帝国主義を狂信し大規模な内乱・侵略罪を働いた事を、東京以西の西南地方が美化しだす時、そこには覇道、即ち権謀術数主義による暴政の絶対化が必ず含まれている。これらの西南地域の民族は、弥生時代以後にユーラシア大陸の中国江南地方界隈や朝鮮半島から移民してきた弥生人と言われる人々の末裔が主だが、この人々は元来が日本侵略によって生存圏を得てきた歴史を罪悪視しておらず、究極のところ暴力による野蛮の勝利を経験的に信じている。いいかえれば、西南地方から東京地方の人々は一般に利己を利他より、善悪より強弱を重要と考え、縄文時代以前の日本における、およそ身分平等な原始共産制を経験していないので、社会的公平や正義に基づく徳政が存在する事や、その功利性、福祉性を信じていないのだ。安倍晋三の様に、東京生育の長州閥を自称する人物が独裁政、社会的不公平や違憲行政を拡大する暴政や悪政と呼べる不正の数々を行っていても、それを疑問視しないどころか協賛する西南地方の民衆は、弥生民族としては天皇を教祖の神輿とした、弥生人達の長による絶対政治が行われれば、その内容より形式に満足するのだと理解できる。特に、西日本の右派の中で、尊皇主義者慶喜の天皇への禅譲を徳川政府の自己敗北と解釈し内乱を起こした明治時代を理想視する薩長土肥らの自己過信によって、この天皇を玉として担いだ長州閥独裁原理主義は極端になっている。西日本の民族にとって、内乱・侵略罪を起こした明治時代は、日本征服あるいはアジア侵略の成功体験と解釈されてしまっている上に、それを単なる利己的・害他的な植民地主義のなせる、欧米の傀儡としての内乱だったとか、アジア同胞を裏切った我執の誤謬だったとか、神道原理主義による狂騒的な混乱だったと反省する理由は、西南地方の人々にとっては存在しない。東京都にとって、今日の天皇制を正当化する事は、都民の権威を強化すると想定されており、この薩長史観に沿った司馬遼太郎の小説に殆どを拠ったNHK大河ドラマの歴史解釈の構造をみればわかるよう、西軍正当化と徳川時代における新渡戸的武士道の否定、東京の成立は一体化している。九州地方大分県から江戸・東京へ出てきた福沢諭吉が薩長幕府たる明治政権の成立後に、『脱亜論』で欧米崇拝と中朝蔑視を述べた事は、薩長藩閥の残滓たる安倍独裁を支持する右翼の中でいまだに生きている。しかもこの明治イデオロギーは、CIA諜報だった岸信介の孫としての安倍の従米的意図との協働で、沖縄への負担をはじめとした在日米軍の脱法的間接統治状態の維持強化や、安倍の生育した東京を除き東北・東日本一般へのTPP押しつけでの農業冷遇、更に武士道に基づいて徳川擁護に回った会津を主とした福島県で安倍が検査を怠らせた結果起きた原発事故からの復興の無視と対比的な安倍の生育地東京での賄賂五輪といった権力濫用をもたらしている。端的にいうと、安倍晋三という人物は、同じく長州閥を気取っていた菅直人と同様、山口県の毛利が西軍の大将だった戦国時代以来の、戦国の最終勝利者たる徳川統治下の社会への復讐心、幕末から明治にかけての侵略・内乱罪の暴政正当化、そして戦中戦後に岸以来の対米追従による自民党内外での長州閥独裁権力の維持、またそれらの根底にある吉田松陰『幽囚録』で示されているアジア侵略による植民地主義、これらの意志傾向をもつ長州閥原理主義者なのであるということができる。なぜこの人がそれほど絶対的な独裁権力欲にこだわるかといえば、この長州閥原理主義を正義と混同しているからである。社会をよりよくする為の政治とか、政治学的な知恵に基づいた行政という考えは、安倍という人の中ではかけらもない。それ故に違憲行政を平気で行うし、立法の長と自称して恥じず、反長州閥的な国民を徹底的に冷遇し、独裁権力を妨げる追従者すら冤罪にかけて罪とも思わないのである。一言でいうと、幼稚な上に狂信的なサイコパスなのだろう。安倍と麻生は、一度政権から転落し、絶対的独裁者になり続ける事でしか、祖先崇拝を満足させる自己血統崇拝の自尊心を、それは自称名門の虚栄心なわけだが、保つ方法はないと考えたのだろう。しかし、問題はこの狭量な祖先崇拝を通じた自己愛しか目的のない精神病質を首相に仕立てている日本国民の一定数であって、それらの人々は消極的な理由で自民党という多数派政党を支持しているが、実際には明治寡頭政の美化と当時以来の犠牲の隠蔽という西日本人の利己心と悪意ある弥生民族主義者の右翼に欺かれているが、それに悟って自己修正するほどの知力も公徳に関する意思もない。父たる裕仁の敗戦がトラウマの明仁は起こりうる侵略戦争可能な安倍新安保法制下での戦争、または戦争憲法下での戦争責任逃れの為か、違憲立法を命じて、天皇が政府以上の独裁権力をもつ真の独裁者であると示してしまった。それは明仁が宮内庁経由で鳩山政権下で内閣の命令に背き、当時の民主党内の小沢一郎の国事行為解釈に苦言を呈するばかりか、宮内記者会経由で小沢を冤罪にかけた時点で、多かれ少なかれ見え隠れしていた事だが。結局、平成衆愚は天皇明仁から安倍内閣の全員、また自民党から右翼まで一貫して、長州閥原理主義に洗脳された、勇気や政治理解のない集団だった。大阪等の大都市に北朝鮮スパイがスリーパーセルとして潜在しているという確証のない流言をテレビ番組でばらまきつつ安倍独裁に媚びを売る発言で売名する東大閥の御用学者とか、安倍昭恵夫人と親密になる事でネットメディア番組で対立政党の党首を私的かつ無礼な質問で公に侮辱して右翼の下卑た歓心を買い売名する慶応卒の御用学者とか、或いはもっと酷いもので共謀罪において多少の冤罪も仕方ないといいながら安倍独裁にテレビ番組で媚びを売る大阪出身の人気お笑い芸人とか、こういった南蛮人或いは電波芸者は単に独裁者へのすり寄りを売名の道具にしているというほかないが、日帝下での狂ったような独裁政礼賛の結果、亡国致命傷の原因になったのと同様の連中が、衆愚の無思考や群衆化したがる不安脳の結束的狂信を更に煽る、これらの学歴や経歴をたねに保身と売名を図るべく徹底的に政権称揚していた衆愚扇動者だったのを記録しておく。
 今後、社民党が与党になる時まで、国政の迷走は続き、衆愚は安倍独裁下での長州閥原理主義がもたらす不幸な格差社会と天皇制・官僚制の腐敗にまきこまれていく。だが労働者階級は無教養や、政治学的無知によって無思考に陥り、御用学者やテレビ芸人といった連中を通じ、この傾向を東京政府権威化の道具とする都内スポンサーに牛耳られた都内マスメディアからの扇動もあって、安倍の導入する移民と進む非正規労働者への置き換えや人件費削減の為の低賃金化の元で競合する。特に、ゆとり世代といわれる、削減され簡易化された義務・高等教育を受けた20代~10代後半の人々は学業成績が国際比較及び他の世代との比較で低下しており、媒体偏見に対する批判力が弱く洗脳され易い上に、大多数が2chまとめサイトを通じた匿名ネット右翼暴徒を仲間と見なし共感しており、世界の政治体制に無知である上に、実質的には軍事占領された属国だが単純に世界一の先進国と思っているアメリカ追従を理想視している。この為、自己の能力を過信する人々にあってはビル・ゲイツやウォーレン・バフェット等の億万長者やドナルド・トランプを頂点とする拝金が、自己の能力を卑下する人々にあっては無職やニートを自尊心の為に差別する為の同調集団としての労働が、又これらのアメリカ追従的人生観を満足させる為の自民党閥及び安倍独裁の狂信を通じた愛国主義が、ゆとり世代の信仰におきかわっている。そのうえ彼らは長州閥原理主義や薩長土の征韓論を通じ、またネット右翼を同類とみなして、明治寡頭政からの侵略被害を受けた中国や韓国、北朝鮮といったアジア諸国を、差別対象にしている為、この愛国主義を強化する民族主義や人種差別が当然だと考えている。敢えて不幸を増産する存在とみれば、これらのゆとり世代の人々の大多数は若害である。しかし日本はこれらの必然的な革新に対して反動的な存在の存在如何に関わらず、少なくとも安倍独裁や自民党閥が解体されたり、その明治主義の本体ともいえる天皇制の瓦解などがない限り、やはり急激に衰退していくであろうし、ピケティがいうようその日本滅亡の傾向は既に決定的なところまで進んでしまっている。仮に、安倍自民が移民によって欧米の模倣を図っても、右傾したゆとり若害との間で、低学力地帯としておもに東京以西の西南地方で民族排斥の憎悪や、暴力団の多い九州界隈では暴徒による内紛がくりかえされるであろう。アメリカは世界最悪の相対貧困国として反面教師だが、日本の衆愚には相対貧困の概念が理解できず、途上国最低級の貧困と、日本人貧困層を比較し自国贔屓の虚栄に耽る事で米国風の資本主義を妄信し、資産の二極化を合理化しようとし続けるであろう。
 では日本国の近未来はすべてが絶望的なのか。対策といえるのは、地域連合や、県の単位に連邦的権限を最大限に復権させる事である。我々でいう常陸国の単位で、或いはそれより小さな市町村の単位で、賢明な体制を実現していく事だ。日本国という明治イデオロギーの単位を否定する事はその第一歩として、必須だ。自由人主義は政府の最小化をはかり、調整的正義を無視する点で、決して理想的ではない。だからおもに資本家が、この考えに基づいて遊牧的に租税回避地へ資産を移動させたり、自ら移住したりして政府から逃れようとする事は必然だとしても、現実的に可能なのはサンディ・スプリングス市の様な政治業務の民営化である。それと同時に、地球規模でいう国連や、国の単位から、この自由人特区に何らかの徴税が図られていきやすいのが当然ともいえるから、結局、ある地域住民の中央値的富裕さが、その周囲と比べ大きく富裕な時により配分的で投資・自由人的、逆に周囲と比べ貧困な時に調整的で生保・労働的になるのであって、これらが生じるわけは、おもに地域住民の一般的な金融literacyである。北茨城市や、茨城県がいかに年少或いは時代的に早期からの金融教育を重視するべきかがこれで理解できる。縮小していく日本経済下で生保や労働を保つのは容易ではなく、何らかの資本収益がその財源となるだろうことは疑いようがないからである。尤も、仮に超拝金的都市が生まれても、我々はそこを理想郷と見なす事は恐らくないだろう。人類の知能には生まれつき何らかの偏差や特性が生じるし、ほぼ全構成員が金儲けの巧い人でできている社会より、単に多様性の高い社会の方が、行動や考えの偶有的な組み合わせによって発展的になりうるだろうからだ。調和的正義が十分に実現された社会とは、構成員の何らかの特徴について中央値をとったとしても、認容される個性の幅の裾野が極めて広いままで成立している世間であって、単に資本家らが租税回避的な利己心の為に集密しただけの地域ではないのであろう。今日の茨城県単位で、或いは最低でも北茨城市の単位で、国政における長州閥原理主義者達や、自民党閥からの影響を最小化するか、緩和しながら、拝金や労働に偏らない社民化をはかる事、しかも官僚の天下りなど行政との癒着を避ける民営化を前提に福祉の向上をはかり、県民市民に対しては金融教育の早期実践を行い、投資収益率の高い生業へ自由人を集中させていく事が、維持できる社会として日本亡国から常陸国を救済する道のりである。現状の我々の国の致死的な欠陥は、安倍独裁下では特に、貧困層への冷遇や、皇族閥の優遇といった資産格差に基づく身分差別によって、国民一般の生存権が蹂躙されている事だ。生活保護の権利は腐敗した行政によって完全になおざりにされ、それどころか、変死扱いを煽る警察とつるんで多くの貧民が国家単位で集団自殺に追い詰められている。中国大陸からの移民としての天皇は飛鳥時代以来の傲慢によって、国民を納税奴隷と見なしこの状態を変える気はないどころか、自らの子孫をのみ人種的に優遇する。原発を田園部に設置し、そこで暮らす我々の生命と財産を害し、皇族閥の暮らす都市圏や、商業圏から退けて恥じないのも、神道邪教祖としての天皇の中華思想の為であり、或いは金満的商人の害他的で貪婪な我執の為であり、金権政治に陥った皇族閥と自民党閥の癒着の為である。これらの県外勢力の影響を、茨城県民は自らの安全を守る為の強い独立心と誇りによって完全に排除しなければならない。東海第二原発を茨城県内に立地させ再稼働までさせたがっている日本原電は茨城県の会社ではないし、その資本は全国の電力会社の物に過ぎず茨城人のものではない。即ち、これらの県外人達は、茨城県民の命を犠牲に、自分のカネを儲けようと言うだけなのである。この事は、自らの子孫の地位と権力の永続的維持にしか目的を持たない天皇家についても同様だと断定できる。

2018年2月19日

県北の公共施設共同利用案

 北茨城市長は新高萩市長と早期に直接会談し、地方自治はそれぞれの自治体の市町村民の為に、お互いにできるかぎり協力して行う事を確認するべきである。また、県内で最大の人口流出度である日立市と、高萩・北茨城の両市は通勤圏としても、多賀郡としての古代からの歴史伝統上も、日立関連の産業上も密接な関係にある為、将来的には日立地区という広域自治体に合併される事を見越して、日立市やいわき市とも共同で連携してそれぞれの保有する文化的・経済的資源の共有をはかるよう提案する。たとえば五浦美術館での展覧会、市立図書館や雨情記念館、商工会館、ふれあいセンターなど市の公共空間でのイベント、とおりゃんせ温泉の共通パス、工業団地や市営住宅の相互提供と共同出資による開発、或いは駅前の再開発にあたっての日立市街地・高萩市街地・北茨城市街地にわたる共通のコンセプトによる共同設計などを提案する。図書館の利用券やバス等は相互利用できるよう共通規格化する(将来的には県央、県南、その他の県外でも利用できるように計画する)。また、市役所での住民票移動等の手続きも県北3市+いわき市間でできるだけ電子化し、簡略化・民営化するようにするべきである。

2018年1月28日

鮟鱇の生命倫理

魚は痛みを感じる、と科学者はいう(Fish do feel pain, scientists say)
魚が痛み感じる能力 ヒトの新生児や早産児以上であると判明
エビやカニなどの甲殻類は痛みを感じることができる可能性が高い
 上述の記事によれば、魚類や甲殻類には痛覚が存在する為、鮟鱇の吊るし切りという調理法については、それ以前に確実に気絶させ死なせておく事が、生命倫理の点から望ましい事になる。市内外の漁協にこのことを周知させるべきだろう。

2018年1月20日

ひたち大動脈論

 茨城県を世界で最も移民の割合が多い、世界一人口の多いの大都市にする事で人口減少をカバーし、全世界の発展を茨城を中心に担う事を期さねばならない。専ら第一公用語を日本語(茨城弁ないし首都圏方言を含む)、第二公用語を英語と条例で定義、近いうちに第三公用語を中国語と定義する事が必要になるだろう。
 これにはTXを水戸まで延伸した上で、筑波~水戸間の県有・国有地を開発、大規模な分譲化と宅地造成を行い、東京圏を遙かに超えた世界最大のメトロポリスを水戸~筑波~日立の大動脈上につくりださねばならない。この常陸中央大動脈と茨城空港を再び高速鉄道その他の交通機関で結び、世界の国際ハブ空港を接続する事で、世界中の人々が東アジアに出入りする際の主要な玄関口となる事を計画する。常磐線とTXを特急で直通運転し、更にリニアを敷設する事でユーラシア大陸の発展を日の出ずる国である日立が中心となる状態にもっていかねばならない。この常磐リニアは北海道の間宮海峡を通じてロシアと接続させ、西は福岡から朝鮮半島を経由する事で、大陸との連絡通路となるだろう。岩城には国際宇宙ステーションが立地するだろうから、茨城県は世界最大の都心として、宇宙とアジアの玄関先として機能する。
 これらを実行するにあたって、早速、県名を「ひたち県」に改名する事が有益かつ有徳だ。 これが本来の国名であるばかりか、気分を刷新する結果になるからだ。都道府県令が解消され、本来の連邦にもどった暁には、ひたち国にするのがよい。この際の漢字はひた道に由来する常陸と、義公の銘に由来するとされる日立があるが、国名漢字としては日立の方がわかりやすく、Orient・東洋の原義である日の出ずる場所という字義にも合致するので、日立のほうがよいかもしれない。

常磐線出産運動

 常磐線で子供を産んだ女性と現場にいた看護師を茨城県、千葉県、福島県の各自治体は愛でたい事として表彰し、常磐圏で出産する事を奨励するキャンペーンを打つべきである。

北茨城市立図書館の改善

 北茨城市立図書館の1階部分は浸水時に児童書が全滅する状態にある。ピロティはル・コルビジュエの近代建築5原則に基づけば、自動車社会によってよごれた地上から生活を切り離す、という目的をもって考えられた鉄筋コンクリート造の手法だったわけだが、この建造物についてはその役割を放棄して、単に河川敷と連続的な開放空間を作る為に使われてしまっている。以前の図書館建築の方が、地上階を浸水に備えて1メートル以上高くしていたようだったので、まだ危機に備えていたといえるだろう。
 また図書館長の責任回避のためか、現図書館も屋上庭園を市民に開放していないのも疑問が残る。
 図書館を3階以上に増築し、児童書をこの3階以上に備え付け、またさらに屋上庭園を足す事によって、浸水対策をするべきだと自分は思う。新築後にこの様な改良をしなければならないのは非効率だが、市役所の建築計画の理解不足によったのだから致し方ない。

2018年1月16日

大井川知事の一連の言動についての分析

 東日本大震災(2011年3月11日)時に、茨城県内で最大の被害を受け、唯一死者を出したのが北茨城市だった。そして県全体のみならずこの市の復興にも尽力してきたのが、橋本昌氏と豊田稔氏だった、というのが事実である。特に橋本昌氏は県全体に関わることだが、原発立地県かつ電力供給圏である権利を当時の日本国政府に訴えて計画停電の範囲から県を外した功績が大きい。豊田稔氏の初動は橋本昌氏に比べ鈍かったように見えたが、いわき市からの避難者を徐々に受け入れていったり、防災放送を作ったり、堤防を強化したり、被災者用の公営住宅を建設したりしてきた。復興庁や天皇行幸に関連しても橋本氏と豊田氏は密に連携して県の復興をはかってきた。
 対して大井川和彦氏はこの間何をしていたかと言えば、ドワンゴの役員をしていた。
 恩義の観点からいえば豊田氏が橋本昌氏を選挙戦において支持する事は当然だといえよう。むしろそのような立場にあった人物が、ドワンゴ役員が突如県知事選に名乗りをあげたとき、県知事選で支持を支援しない、などという事は先ず考えられないし、もしあったとしたらサイコパスだと疑われるだろう。その上、2017年8月16日常陸大宮市役所広場での豊田稔氏の茨城県知事選挙橋本まさる候補への応援演説の冒頭で豊田氏自身が述べているよう、豊田氏が当時、県の市町村会長をしていた経緯から、常陸大宮市長の三次真一郎氏に「是非あなた(豊田稔氏)が(橋本まさる選挙対策本部長を)やれ」と指摘されたためにその役割を引き受けた、という事らしい。くりかえすが、県内で最大の被災地であって心身に傷を負っている北茨城市の長が、震災から最も世話になった、という恩がある以上、橋本昌氏の支持をする事は自然といえる。またこの演説内で述べられているとおり、自民党幹事長や大臣等を歴任した梶山静六氏が当時の県知事選で橋本昌氏を支持せよと命じた事から、豊田稔氏は橋本氏との信義が長い。それにもかかわらず、静六氏の息子である梶山弘志氏は、安倍晋三氏の元にある現自民党の意向を受けてその橋本昌氏を裏切るような命を自民党県議に与えている。この梶山弘志氏の橋本昌氏への不義を、演説の後半で豊田氏は常陸大宮市の聴衆に訴えている。そして自民党が茨城県にある日本国民の為より、党利党略を目的にしている事をこの自民党側の御都合主義的翻意の背理法的論証により指摘している。
 対して震災当時、高萩市長だった草間吉夫氏は2014年に退任した。小田木真代氏はこの後に入った元県議である。元々小田木氏は県議だったが、彼女の父も県議である。選挙期間中に大井川氏に会談を申し込まれ、その後に大井川氏を支持する事に決めた為、市町村会と相反した形になった。過去の記事でとりあげたことだが、大井川氏は高萩市長の小田木真代氏と選挙前、個人的に会食していて、そこで小田木氏は茨城県内に新幹線を通したいという大井川氏に、小田木氏の父親がその様な人物であったし、(新幹線敷設が父の)夢だったなどと述べていたらしい。
 では大井川氏がどのような意図で次の高萩市長選の会合において示されてるよう、平成30年1月5日(金)茨城県知事定例記者会見(文面)で豊田氏から抗議されたような「植民地発言(「植民地」という言葉を用いて、県北地域の発展は高萩市を中心に考え、他市町を軽視するような発言をした)」をしたのだろうか。
抗議文などによると、大井川知事は昨年末、小田木真代・高萩市長の市政報告会で、壇上から二度にわたり、豊田市長を指差し、「市長は逃げた」などと発言した。実際は、知事選前に、大井川知事が豊田市長に応援依頼のため面会を求めたが、公務出張のため面会を断ったという。ーー東京新聞:「知事の言動 名誉毀損」 選挙戦しこり 北茨城市長が抗議文:茨城(TOKYO Web)
この新聞記事がもし真実だとすれば、2017年度末の高萩市政報告会の場で、大井川氏は豊田氏に対して名誉毀損罪を行ったのだ、という事になる。
(大井川)知事:(豊田市長の抗議文に)書いていてあることは概ね事実だと思いますし,別にそんな大きく取り立てて騒ぐような話ではないと思っていますけれども。ーー平成30年1月5日(金)茨城県知事定例記者会見(文面)
このように、大井川氏自身も、名誉毀損罪について自認しているようでもある。名誉毀損罪とは、
(名誉毀損)
 230条
   1項 公然と事実を摘示し,人の名誉を毀損した者
      →(その事実の有無にかかわらず)
      3年以下の懲役もしくは禁錮または50万円以下の罰金ーーhttp://park.geocities.jp/funotch/keiho/kakuron/kojinhoueki3/34/230p1.html
この様な罪を容易に犯してしまっている、という事は、端的に言えば大井川和彦という人がドワンゴのニコニコ動画のコメント弾幕にみられる「インターネット上の匿名犯罪文化」から県政に飛び入りした事と密接に関連しているように思われる。自分がみてきた限りニコ動は川上量生氏(川上氏は「マストドン(オープンソースのミニブログ)の中で、「えっ? 東海村って茨城県だったの? 静岡県だと思ってた。」と発言した、愛媛県出身者である)が主導し元がYouTube動画をコピーし、MAD化するという違法またはグレーゾーンの増長から現れ、西村博之氏(西村氏はこの動画の中で茨城県を「ださい」と侮辱している、神奈川県出身者である)が2ch的な匿名コメントを導入した。この経緯からも読者はわかるだろうが、ドワンゴの主な事業であるニコニコ動画とは、一種の地下文化として違法すれすれのことを、ベンチャー起業家という立場から、人格的に心もとないという意味で若い不良達がやってきたのである。単純にいうとクソガキ達の金儲けである。そして大井川氏は水戸一高、東大、経産省、マイクロソフト・アジア、ドワンゴを経て、県知事に立候補した人物なのである。マイクロソフトまでは理解できるが、最後のキャリアにドワンゴを選んだというところに、自分を含めてネット文化にある程度詳しい人は疑問符をつける事は間違いない。だがそれが杞憂ではなかった、という事が、豊田氏に対する大井川氏の一連の対応からどうやら一定の確度でわかった、という結果になった。要するに大井川氏はまだ子供すぎるのである。大井川氏は何といっても軽口を叩きすぎるし、名誉毀損に類する事を公然と壇上から発言する、選挙期間中の攻撃についても豊田氏は第三者として客観視して見ても自民党県連の橋本昌氏への不義理や(県議への自民党本部からの賄賂を含む)地方自治権の侵害についての指摘にとどめているのに比べ、大井川氏の方は安倍政権や自民党本部同様に、これまで自民党と親密で長いつきあいもある橋本氏や、義に基づいて言動していることが明白な豊田氏ら市町村会への直接的で敵対的な侮辱を行っている。これが事実である。
 国政にも日本史にも世界史にも深い関心をもって茨城県政を観察している者の目には明らかな事だろうが、安倍家を含む長州閥や天皇家という存在は、権力志向の悪政を何とも思わない人々である。天皇家の先祖を含むのだろう弥生人達が弥生時代に日本列島への侵略を始めてから、この事実は変わらない。徳川家はこの状況を変えようと努力したが、長州閥の裏切りや、天皇家の不義理によって被害者になった。安倍家や天皇家の中では暴力による覇道の方が、徳政善政による王道政治より重要なのである。さもなければ、単に安倍家や天皇家が徳川家や私より徳に劣っているか、どちらかだ。何といっても、これら長州閥や天皇一門は侵略犯に他ならず、日本国土やアジア一帯への植民地化を行ってきているのはこれらの弥生系移民達なのである。大井川氏が選挙期間中に植民地発言をしたのは、彼が最も相手側に言われたくない発言であろう「自民党(や天皇家ら日本政府側が地方に彼ら悪党)の植民地を作ろうとしている」という批判を無意識に避ける為に、なぜか、たまたま震災の経緯から市町村会長と選対本部長を任されていた小さな市の市長に濡れ衣を着せた、ということのようだ。
 自分は全く公正に、場合によってはこの問題に絡んでいるいずれの人をも善悪について裁くつもりで調べて、検証したわけだが、結論をいうと、
大井川氏「(豊田氏が)火をつけて回っている」「(豊田氏からの抗議文について)ばかばかしい」
と述べている事は、全く以て大井川氏自身が2017年度末の高萩市政報告会の場で行った言動についていえることなのであり、彼の仁義や相手の立場をおもんばかるEQを含む公徳の修養面での未熟さについていえることではないだろうか。豊田氏がなぜこのような抗議をしているかといえば、上述した様に、震災前後を含めた長い茨城県や日本国、常陸国、人類史の歴史の流れの中で、苦労した時に世話になった人物への恩義を欠かさない、という事は、後世の為に人道的であるからだろう。しかし大井川氏の方は、自民党本部の安倍氏らを含めてまだ人間的におさなすぎるので、豊田氏らの道義的理解においつかず、大井川氏が同様の言動をするなら相手を敵とみなして攻撃する場合だ、という主観に基づいた実に幼稚な解釈をして、うらみに侮辱で返している。その背後には、大井川氏は新しい事業に果断に挑戦する事がアドレナリン等やドパミンの脳内物質を生み出すという脳科学的原則に基づくのだろうが、次々新しい経歴に進出する勇気や利点がある一方で学習済みとなり飽きてしまえば長続きしない、という性格的欠点があるとも解釈できるわけだが、どうせ長い付き合いにならないであろう老いた相手(豊田氏や橋本氏)に対して、十分な政治上の功績があるか(これは長いほど県民・市民から支持された期間が長いのだから当然あるのだが)について無知であるのに勢いだけで蹴落とそうとする、その場限りの行動原理があるのかもしれない。
 ブランド総研にイメージアップ大賞の特別賞を与えた、という奇策が、大井川氏が県知事に就いてから起きた、県政上の革新である。しかし、全体の奉仕者と公務員法に定義されている知事が、特定の市町村に肩入れして、他の市町村を自身への選挙戦での事情から相対的に冷遇する発言、またはそう受け取られる考えをもっているとしたら、この人は民間気分で公務を行ってしまっており、全ての県民から納税を受けて生活している、そして公僕としてそれら全県民という主権者に奉仕するのが役割である、という政治的本義を、大井川氏は見逃しているといえよう。また、豊田氏がもし抗議文を彼個人の名義で出した場合、それは私事としての名誉毀損への抗議なのか、公務としての名誉毀損への抗議なのかを峻別する必要がある。様々な経験を経て成熟した政治家である豊田氏が単なる私怨で大井川氏に抗議文をあてつける、という事は想像の限りありえないことであるから、北茨城市が茨城県政から排除され冷遇される、といった不条理を、茨城県民の一員である北茨城市民らが被ることがあってはならない、という義務心から、直接、県知事あてに、さきの高萩市での大井川氏の言動について、抗議を行ったのであろうと思われる。豊田氏の大井川氏あての抗議文の真意は(公開されていないので読めないが)、北茨城市民という(福島県からの避難者を含む震災によって傷を負ったままの)茨城県民を冷遇してはならない、それは知事としての分を逸脱した言動である、高萩市長が仮に選挙戦において大井川氏を支持していようがいまいが、北茨城市長が選挙戦において大井川氏を支持していようがいまいが、これらの自治体について、県知事たるものは差別や厚冷遇をおこなうべきではない、それが公をつかさどるよう任されている者の務めでなければならない、したがって、名誉毀損に関しての疑義はさておき、この公の分についての反省を求める、といった事ではないか、と一県民・市民として推測する。そしてこの公の義務に大井川氏が理解及ばず、一民間企業人であったときのよう、組織内の権力闘争によって能力に基づいた差別をおこない、自分の子分となる者を厚遇し、(今回の様、必然の恩義に基づいて)そうでなかった者を冷遇するようでは、政道が歪むばかりか、善なるものが虐げられ悪しき者が尊ばれる腐敗政治の結果、くにが敗れる、という、安倍晋三氏や自民党本部にあてても同様の指摘ができる抗議なのであろうとおもわれる。
 現実的にいって、現時点の自民党員は岸信介という発祥から長州閥の党首独裁体制(或いは吉田茂に連なる麻生家という皇族閥、薩長藩閥による寡頭政治体制)になっている、操作しやすい傀儡を地方自治におしつけて、相も変わらず侵略罪の正当化や徳川家や東アジアへの裏切りを天皇家という邪教祖をもちあげることでくりかえす、という旧態依然な集団蛮行をしているにすぎない。だからこの邪悪な衆愚を背後にして居丈高な大井川氏の権力基盤は、単に自民党とその背後にいる移民宗教家の天皇という儚い暴力団達に由来している。日本国民の殆どは神道にテレビ政治や皇国史観を含む日本史を通じて洗脳され、神道教祖や自民党という多数派政党が正義と信じて疑わない状態だろうが、彼らの政治理論は単なる侵略蛮行の正当化という脆すぎる欺瞞に過ぎない。つまり大井川氏のよって立つところも、実際は彼自身の私徳、公徳的な未熟さをシリコンバレーIT革命の熱波を受けた戦後アメリカ化で安倍自民党や天皇家の米犬至高の波を利用して糊塗している、といった程度の資本主義もしくは労働者主義的なものなのである。シュンペーターの革新理論がアメリカ資本主義や実用主義と混じってシリコンバレー起業家らのよりどころになってきたわけだが、大井川氏の脳内にあるマインドセット、思考の型はこういう意味でわかりやすく、資本主義によるアメリカ化、または多数政治による天皇制の維持を考える、安倍家、麻生家ら自民党閥、或いは米国傘下での民主化による勢力維持を目指してきた皇族にとっても都合がいい。茨城県南の人々は東京圏に一部含まれ物理距離が近い為に、資本主義化に追随するか更にその流れを先導する事が是と単純に信じているのだと思われる。
 最後にこの一連の問題についての自分の見解を付け加えるが、国政のレベルでいう皇族、自民党、安倍・麻生両家の寡頭政治体制は侵略罪の正当化という脆弱な基盤に立っている砂上の楼閣であるから寿命が近いと自分には見える為、遠からずこれらの勢力によって牛耳られた国政は崩れて別の体制に切り替わるだろう。したがってその時点での大井川氏の政治権力の理論的根拠は自民党閥が背後にいなくなった資本主義の容認になるだろうが、現時点の資本主義は格差拡大にこそ働けどますます弱肉強食を広めていく、という配分にかたよった非政治的思想であるから、北欧を主とした社民主義諸国のように政治的に調整を図る賢明な国々に比べて国民の福祉、生活程度、客観幸福の状態が低下し、遠からず反面教師になる。今の時点でもアメリカという世界最大の相対貧困大国が模範だ、と思っている人は、時代遅れの人だけであろう。当然、安倍氏や皇族といった野蛮な性質をもつ侵略主義者が信じている、米英追従の潮流が国民の不幸に直結する事から、賢明な国民性であるほど、相対貧困率が先進国でアメリカに次ぐ現日本も失敗例という事はとうに気づいている。つまり、資本主義盲従という昔ながらのアメリカ追従は、トランプ大統領が諸国の笑いもの、裸の王様であるようもう全く通用しなくなっているのだが、大井川氏はこのアメリカ型資本主義の単純な追随者である事が問題なのである。配分、調整の中庸にある調和がめざすべき政治道徳なのであると私はこのブログの中で述べた。政治が世の仕組みのなかで行うべき仕事は調整にある。ある産業構造について適応度を偏差値化した場合、あらゆる事業についてその数値を集計した結果、分布がほぼ標準偏差に漸近すると仮定すれば、中央値から約半数はより無能、約半数はより有能となるわけだが、このうちより無能と判定される側に税による補填をおこなって慈善的社会を強化し、再挑戦の機会を常に維持し次の産業構造転換時への再適応を担うランダムな不適応行動群を多様化したまま保持しておくことが、調整的正義の目的である。アメリカは多数政治によってこの面を補うか、少なくとも正当化しようとしてきたのだが、低福祉が進み過ぎた為に国民の不平不満が高まっているとされる。豊田氏が大井川氏に対して疑義を呈しているのは、北茨城市はどう見ても人口5万人程度の弱小市なのであって、その小さな市政を担っている人物が震災という致命的な事態において世話になった、新人時から長く仕えている橋本昌氏を裏切りようもない事から、大井川氏のその場限りの浅薄な判断において長幼の序を少しも顧みず名誉毀損して済まそう、という無礼が公儀に反するであろう、という抗議であると同時に、調整的正義を軽視するアメリカかぶれの大井川氏の姿勢に対する本質的過ちの指摘ではないだろうか。むしろ弱小市こそを一切の政治家らは支援し、手助けしなければならない。強い立場の者をますます強くするのなら、商業で十分だからである。

2018年1月11日

北茨城市立図書館の屋上庭園

 北茨城市立図書館は、屋上庭園を全市民に常時開放し、ボランティアによって植栽を加えることで、市民憩いの場とするべきである。

2018年1月10日

世界一美しい街

 北茨城を世界一美しく、幸せな街にする事が、北茨城市政の専らの目的であるべきだ。それには単に自らの市の美化にとりくむだけでは十分ではない。世界中の素晴らしい街を学び、それぞれの長所をとりいれ、短所を避ける必要がある。またこの目的のために十分な外貨を得て、この目的に合わない事を避けるか、無視する必要がある。
 全人類、全世界、全国民から、北茨城が世界で最も美しく、幸せな街であると完全に理解が進むまで、この目的をひたすら求道し続けねばならない。

2018年1月7日

中西会長との協創

 以下記事にみられるよう、日立製作所の中西会長がつぎの経団連会長に就任する可能性が高い。中西会長は大甕での勤務から出発しており、わが県に縁が深い。よって茨城県単位で革新的な協創を合言葉にする事で、少なくとも東京五輪前後まで自民党政府及び日本人多数派からの期待と支援が受けやすくなりそうだ。
 しかしこのことと、日本史上初めての原発の商用化、過酷事故、そして脱原発をも日本でつぎつぎ実現してきた先進県としての実績、つまり老朽化した旧技術である東海第二の廃炉義務とは矛盾なく調和させられるべきだろう。
「小宇宙」な人材や経営者は通用しない
 社会課題を解決するビジネスを展開する上で、重要な視点がある。社会や顧客の知見を取り込み、さまざまな企業と協業することで新たな価値創造につなげる「協創」の発想だ。グローバル企業の幹部らもオープンな意識を持ち始めていることを実感する。
 振り返ると、わたしにとって「協創」の原点は、技術者としての一歩を踏み出した「おおみか工場」(現おおみか事業所)時代にある。制御システムの開発現場は、社内外問わずコミュニケーションが活発だった。
 とりわけ成長著しい鉄鋼メーカーとの関係は深く、相手の表情まで思い浮かべながら設計書を書いたものだ。わたしは日立の言葉で言う「茨(いば)地区」の出身だが、情報通信やエレクトロニクスの拠点が集積する「京浜地区」でも顔見知りが多く、「これぐらいのLSI(大規模集積回路)は作ってくれよ」などとやり合った。
 そもそもイノベーションは、自由闊達(かったつ)に議論する土壌があってこそ、生まれるものだとあらためて思う。今の日立製作所をみていると、顧客との関係はもとより、自社内でさえ人脈の広がりがないように映るのが気がかりだ。
 製品ごとに組織が縦割りの企業にとっては工場がひとつの「小宇宙」となりがちだ。だが、工場が持つ経営資源や能力の枠組みの中で経営を考える発想から脱却しない限り、画期的なイノベーションは起こせない。
 市場との対話を起点に、「工場をどう食わせるか(採算をとる)かは後からついてくる」ぐらいの気概で「協創」する組織へ変えたい。製品別カンパニー制を顧客の市場別に組織再編したのは、その覚悟の表れである。
経団連会長への就任が確実な日立・中西氏の「日本改革論」
1/6(土) 14:55配信 ニュースイッチ
https://newswitch.jp/p/10588-3
https://web.archive.org/web/20180107040935/https://newswitch.jp/p/10588-3
若い人に大きい仕事をやらせて欲しい
 ー中西さんは大きな仕事をしたいと思って日立に入社したとおっしゃっています。最近の若い人たちはそういうモチベーションを持っているように見えますか。
 「10年くらい前は、すごく内向き志向だと感じた時期もありましたが、最近は意欲の高い人が多いですよ、特に女性は。でも、入社した時に指導する人が、スキルばかりを教えると良くないと思っていて、若い人にこそ、大きい仕事をやらせて欲しい。そのほうが面白いんだよ。僕が最初に配属された大みか工場(茨城県日立市、現大みか事業所)は、伝統ある日立工場(同、現日立事業所)などからあぶれた人を集めてできたようなものだから(笑)、反骨というか自由にやらないと生きていけなかった。上司がなんといおうと、声を大にして、お客さんがこう言ってますから、と言えば通ってしまう雰囲気もあって。でも最近の大みか事業所は、IoTの主力拠点なのにエスタブリッシュになり過ぎているので発破をかけています。常に壊していかないとダメなんだよね」
2017年10月02日
日立・中西会長インタビュー「常に壊していかないとダメなんだ」
日刊工業新聞2017年10月4日
https://web.archive.org/web/20180107040935/https://newswitch.jp/p/10588-3
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180106-00010007-newswitch-bus_all&p=3
*傍線筆者 

2018年1月6日

空中交通法


 近い未来、空中を移動する乗り物が商品化され、地上とは違う交通網ができてくることになる。県北の国道の渋滞を解消する為にも、空中交通の法的基礎を事前に構築しておくべきだ。

2018年1月5日

茨城仮想通貨非課税策

 茨城県は県内での仮想通貨上の利益及びその消費、使用の一切に関して、全世界に先駆けて、一律非課税とする法律を通すべきだ。これは仮想通貨自体による消費や産業を促進すると同時に、連動して金融工学業の中心地を世界で最も茨城に集中させる近未来を生み出す施策である。
 納税に関しては「円」を通した決済のみに適用する事が、基軸通貨を円建てにしている日本国政との調整である。まだ全世界が方向性に迷っている仮想通貨についての将来的な租税回避地として茨城県が機能する事を即座に決定しなければならない。

2017年12月30日

茨城県政の課題

 新自由主義者らが本当にするべきだったのは、まず基礎収入によって安全網を十分に確立してから、金融緩和によって市場の競争性を高める事だったのだろう。日本政府側は自民党閥と共にすでに失政したあとなので手遅れだし、BIを再導入するほどの知恵や善意は皇族閥にない。彼らの快は階級化の上位に自らを置く、独裁や寡頭政だからだ。新自由主義と寡頭政が結びついている、というのが日米英に共通の失政点だということになる。  大井川知事が新自由主義の信奉者である以上、調整的正義を理解する事は難しく、高福祉高累進の社会が相対幸福を実現しているという現実を受け入れるのも難しいかもしれない。さらに自民党員は新自由主義寡頭政で暴利するほど衆愚が独裁・寡頭を狂信するのを知っているので、低福祉低累進の相対不幸社会へ一直線で進みたがっている。つまり、茨城県単位で相対幸福社会をめざすと不可避に、自民党皇族閥の独裁・寡頭的体制の方向性の逆張りが必要になってしまう。  調和的正義を実現するに、茨城県政、北茨城市政が実践するべきことは、専ら所得制限ありのBIとしての生活保護捕捉率100%化を含む、貧困層や低所得層への傾斜的税調整である。底上げなしに維持できる経済成長がありえないというのが日米英の社会的失敗だから。大井川氏に期待されているのは、いかにして寡頭的新自由主義信者となっている財務省・経産省や自民党員を説得しながらだましだまし、先進財政を先行するかでしかない。自惚れの激しい中央官僚や自民党員は、真に県民・国民の為になる事より、寡頭的に彼ら自身の為になる思い込み、つまりglobalismに基づいた逆進体制を優先するからだ。  新自由的経済体制と、社民的に高福祉な公設民営化政治体制は矛盾しないどころか一致する。このことは北欧諸国の幸福度や人間開発指数でもはや明白だが、日本国民一般や、中央政界にそれを認めさせるのはほとんど不可能だ。できるのは、茨城県や北茨城市単位でその便宜的解決を実践する事に他ならない。即ち茨城が実現するべきなのは自由社民主義の新体制である。そこで必要な考えは、護送船団方式で、(護送船団が最も速度の遅い船に合わせて進むことから)社会的最弱者に対する扶助を最大化しながら進む、調整正義なのだといえる。他方で新自由的市場の規制緩和については自民党の手法を踏襲し、県内市場を輸出収益化に向けながら、同時に累進課税を徹底する事であるが、こちらは既に国政規模で軌道に乗っているので不公平な行政と市場の癒着をなくすだけで十分なのだろう。新自由主義者の誤りは、生産性や株価収益率のみに注目し、賃金上昇や社会保障費による消費喚起という片輪を無視したことにあった。特に社会保障費を削る事は人口の約半分側に消費を減少させる為に、企業の国内収益率を下げるため海外投資へ内部留保を振り分ける誘因になっている。この失点を社民与党によって避けてきた北欧圏の方が、国民一人あたりの可処分所得が多くなって当然だということになるし、7割を内需依存の日本経済ではこれは致命傷になって、経済成長率も155位と絶望的になってきた。

2017年11月24日

茨城魅力度ファンドと茨城地方創生の国家的要請

 おもに県外への、県単位での広告・宣伝費に、世界最大の費用を使うだけの体制を県単位で作り続ける事が、魅力度向上の最大の技だ。この予算を国または県内外の企業、個人から募集し、ファンド状に増やす事が最も有効だろう。茨城魅力度ファンドを作り、県内企業から一定額の広告宣伝税を徴収し、かつ全世界から投資を募り、地方交付税からも日本最大の額を配分することが重要だ。なおかつ、日本政府に、常にこの魅力度報道による「門地差別」の問題を訴えて、都内マスコミその他、日本人による差別を禁止させ、政府をあげての茨城県への全地方で最大の支援と擁護を地方創生の文脈で、四六時中徹底要請する事が必要である。政府移転先として茨城を政府に指定させ実行すると同時に、世界一の広告事業費を得るべくITと金融企業体の全世界最大の集積を促進する国家支援を要請する必要がある。

2017年11月23日

茨城県の魅力度を世界一にし続ける目標

 茨城県民は「世界一魅力的な県に成り続ける」ことを目標にしよう。
 この目標設定は極めて正しく、必ず成功する。なぜなら既に最下位だと確証偏見によって、マスコミに弱い日本国民の衆愚から、毎年貶められ差別を受けてきた事から、今後我々がいかにふるまおうとも絶対に向上しかありえないからだ。つまり100%成功する目標である。
 この目標は達成値が無限大なので、たとえわずかに魅力的と思われる様になった、程度ではまだ完遂されない。だが重要なのは、わずかなりとも、一歩ずつとも粘り強く、辛抱強く、我慢強く自己向上に努める事である。無限大に成長していくvisionさえ手にすれば、もう怖い物はない。茨城県の魅力を世界一と全人類に認めさせるまで、或いは他の惑星の生物を含めてそうなるまで、どこまでも宣伝力や魅力の開発に努め続ければいい。どれほどこの過程が困難でも、我々は非常に恵まれた状態にある。なぜなら、絶対にこの目標は達成されるのだからだ。我々は既に上昇の余地しかないのだ。どの様な努力も、茨城の魅力度が全人類の目に明らかになりきるまでやり遂げるのに益するに違いない。

2017年10月31日

負の所得税に関する考察

 負の所得税は部分的に所得制限ありの基礎収入と同じ働きをもつ。

勤労所得税額控除(Earned Income Tax Credit:EITC)は、「マイナスの所得税」と言われる税制の1つ。定職に就いているが、ある一定額以下の収入しかない世帯は、確定申告の際、税金を支払うのではなく、政府からお金を支給される。この制度の目的は勤労意欲を高め、低所得層の家庭を金銭的にサポートし、理想的には貧困から抜け出す術を与えることだ。
https://www.businessinsider.jp/post-1106

 所得制限ありの基礎収入は一定額以下の収入しかない世帯の中に、生活保護の捕捉率を100%にする事を含めている上に、基準額以上の所得を持つ人々に対して減税が可能となる。つまり勤労所得税額控除は、言い方が違うだけで負の所得税と所得制限ありの基礎収入とほぼ同じ内容を示していて、その控除対象に捕捉率を100%にした生活保護者を含めるかどうかのみが議論対象だということだ。労働主義者、勤労主義者はねたみの感情から生活保護者を目の敵にする傾向がある。が経営者側からみれば消費力の高い世帯の方が好都合なだけであり、賃下げをしても労働争議をしない社畜化が株主資本主義の観点からは望ましいだけである。つまり経営目線ではBI世帯が消費することは望ましく、勤労者が賃上げ要求しなければさらに望ましい。つまり自民党のような寡頭的資本家政党が労組を弾圧している状態で、BIの財源を消費税などの多少あれ逆進的性質をもつ税で補ってくれれば経営的にはプラスとなる。つまり基礎収入制を妨害する最大の原因は労働階級の生活保護階級へのねたみなのだ。
 上述の勤労所得税額控除を述べているのはビルゲイツで、勤労意欲をもちだして人件費を削る為にBIを否定しているわけだが、総じて富裕層側からみてBIの財源が逆進的に確保されていれば損害はない。しかし累進度が社会の幸福度である事も確かであるから、富裕層の利己を功利的には重視する価値はないことになる。
 結局、勤労所得税控除、所得制限ありの基礎収入、どちらの表現でも、日米の社会的課題が相対貧困率の低下、つまり所得調整である事が明らかであり、そのための手段としてr>gの法則がある限り既存の労組による最低賃金の強制的引き上げによっては永久に目的である調和が十分達成されないことからも、文化的生活水準以下の基準額しか得られない人々に生活保障を累進課税の元で行う事が必要である。つまり第一に、国民あるいは県民全員への勤労主義、労働主義という生産性信仰を否定しなければいけない。パレートの法則からいっても、一人当たり国民・県民所得を引き上げるには全体の2割の商才に恵まれた人々が圧倒的な成果をあげるのに適した環境を残せば十分なのである。戦後の自由主義者らは賃上げによって高度成長期が再来する事を望んでいるが、仮にそれが成功しても再び平成期のような踊り場に出るだけであり、その中途でも幸福度は決して上昇しない。なぜなら相対貧困率をあげたままにするという自由主義者の自己責任論、つまり弱肉強食的社会ダーウィニズムを政治家がもっている限り、その社会で暮らすことは物質的絶対水準に関わらずは必ず相対不幸だからだ。
 ここまでくると、物質的絶対水準派と、福祉的相対幸福派という2つの考え方が先進国の中で対立している、という事が浮き彫りになる。ビルゲイツはビル自身が有利になる前者を全力で推進する。もしビルが生まれつき商才に恐ろしく欠けた人物で、代わりに共感知能の高い社民主義者であったなら、後者を当然と考えたろう。
 大井川知事は日本一の幸福県を目指すと銘打っているが、福井県のGDPや県民所得をみれば物質絶対水準はわが県とほぼ変わらないか少し低いくらいだろう。福井の幸福度とされる指標の原因は、日本海側の雪国の傾向としての高学力と関西の商人気質が合体し、人口当たりの中小企業数が最大である事に関係していると思われる。それにもかかわらず、県民所得や一人当たりのサラリーマン収入では茨城の方が福井より指標が高い(一人当たり総生産では福井の方が高い)。失業率が高いと幸福度を低く見積もる傾向があるので、これらをあわせてみると、福井は労働・勤労主義的な社会指標の故に高幸福度と指標づけられている事がわかる。生活保護の受給比率は両方低いが、茨城が35位なのに比べ福井が46位と極端に低い。ここまでで新自由主義的な規制緩和政策によって一部のIT長者を生み出し彼らの物質的絶対水準を茨城県があげても、IT企業の雇用者数は少ない傾向もあり、福井のような低失業率をそのままでは実現できない事がわかる。
 即ち低失業率を便宜的に回避するのに勤労所得税控除、所得制限ありの基礎収入が使えるとして、同時に、常に市場に買い手市場となる負圧を与えておくような誘因付けが幸福度向上に役立つ、ということになりそうだ。橋本知事がそうだったよう、高付加価値の分野招致を前提に仕事場を量産しながら、負の所得税となるおちこぼれの高捕捉率によって護送船団的に全体の高福祉を実現していく。これが茨城の幸福度を上げる方法だ。

自然エネルギーと公害装置事前賠償制

 茨城県内の一般家庭用エネルギーを全て自然発電でまかなうよう、太陽光の売電に際して県助成金を設けるべきだろう。  他方で東海村が目先のカネほしさに公害装置を誘致したり、悪意の国政に対して無抵抗な事が茨城県や首都圏の最大の損害になっている現状では、県の全自治体が一致団結して東海村の外部不経済を内部化させるよう、東海村が原発を再稼動した時の東海村の損失の方が県の他自治体の得る事前賠償利益より大きくなるように制度設計をする必要がある。それは常陽や陽子加速器などの事故時の公害度が高い装置についても同様で、東海村への圧力を最大に高めることで再稼動及びその他の危険施設誘致を完封しなければならない。

2017年10月30日

観光公害と観光収益

 観光公害を最小化し、観光収益のみを最大化する事が、京都の反例から我々が学べる事だ。魅力度という差別は日本国内におけるメディア偏見が茨城を最も観光公害を置きづらい状態に誘導しているとも言える。一般に観光収入に依存する地域は生産性が下がる傾向にある事とあわせみても、訪日客と国内客のどちらに対しても、観光収益最大化という観点からのみ利用価値があると考えて間違いがない。観光公害が起き辛い好条件においては、他地域の高観光収益部分のみをまねて、公害を発生させている観光都道府県からその悪例をさけるように分析を進め、観光体系を整えていく必要がある。

 観光学会を商工会が作り、他地域の成功例と失敗例をあわせみて、公益としての観光収益を最大化しつつも、観光公害を最小化するよう、慎重に新方式を提案し、茨城県内に導入していくべきということになるだろう。


 いわゆる「観光公害」が京都で起きているのである。

「観光公害」とは聞きなれない言葉であるが、観光客急増による様々な弊害が目立ち始めた現在、我が国において徐々に使われ始めている新しい造語だ。これに関連して、6月15日に発売された拙著「『夜遊び』の経済学 世界が注目する『ナイトタイムエコノミー』」(光文社新書)では、第三章の「夜の観光を振興する」において観光振興を考えるにあたって以下のように記述した。

《観光客は「ただそこに来る」だけでは経済効果は生まず、むしろそれを受け入れる側の地域にとっては、一義的に「コスト要因」に他ならない。観光客が訪問先でゴミを発生させれば、それを処理するのは地域の自治体であり、その原資は地域に住む住民の治める税である。観光客が歩く公道、使用する公衆トイレは全て自治体財源によって維持管理される公共物であり、ましてや観光客を迎え入れるために新たなインフラ整備を行うということになれば、当然そこには地域住民の血税が投入されることとなる。

そのような様々な財源部分の話をさっぴいたとしても、そもそも域外から得体の知れない人間が多数来訪し、道端でワイワイガヤガヤと大騒ぎし、私有地や進入禁止地域にまで入り込み、「旅の恥はかき捨て」とばかりにトラブルを巻き起こすなどというのは、地域の住民にとって必ずしも歓迎されるものではない。はっきり言ってしまえば、観光客というのはそこに根ざして生活する人間にとっては、根源的に厄介者であり、迷惑以外の何ものでもないのである》(以上、引用)

・・・

 繰り返しになるが、観光客が地域に来訪する事は根源的に、そこに居住する市民にとってはコストである。観光客を多数誘致したにも拘わらず、そこで発生する様々なコストを上回る経済効果が地域に生まれなければ、観光振興施策はただ地域のリソースだけを浪費して、リターンを生まないマイナスの政策になってしまう。

 現在、我が国は観光振興ブームの真っ只中にあり、どの地域に目を向けても「猫も杓子も観光振興」状態にあるが、各地域で観光振興を主導する人々は、ただ「地域に客を集める」ことだけでなく、「そこからどうやって消費を生み出し、地域にそれを還元するのか」にもっと真剣に取り組む必要があるといえるだろう。

http://president.jp/articles/-/22664?page=3

2017年10月29日

IT化の盲点と好条件

 IT化が生産性の向上につながるのは、職場のしくみそのものから変えた場合であり、古い働き方を維持したままで中途半端にIT化を進めると、特に金融、建設、飲食業などでは生産性が低下してしまう事が、以下の記事で示されている。つまり事業革新をする有為な経営主や事業主が現場のしくみ自体から抜本的に変えようとしなければいけない。
 IT化即高生産性という安直な考えに一石を投じる見地といえる。

・・・
 日本経済研究センターの調査によると、日本のIT投資は必ずしも生産性向上に結びついていない。とりわけ情けないのはサービス業の実績だ。
 金融や建設、飲食などの業種では、ITに投資すればするほど生産性が低くなる、という負の関係があることが判明した。
 効率化に寄与するはずのIT化が、むしろ足を引っ張るのはなぜなのか。大きな理由は、古い仕事の仕組みや組織の体制を温 存したままITを導入しても効果は薄い、ということだ。
 逆に、IT化と連動して事業の見直しにまで踏み込めば効き目は大きいだろう。銀行であれば、ITシステムの強化でネットバンキングを充実する一方で、街の店舗やATMを絞り込んで投資にメリハリをつければ、生産性の向上に直結するはずだ。

 こうした会社の方向性を決める意思決定は、ITの専門部署ではなく経営トップの仕事である。「ITを使って会社を変える」という戦略性を、これからの経営者はもとめられる。

 IT技術者の人事については年功序列からの脱却と若手の登用が急務だ。AIに詳しい松尾豊東大特任准教授は「日本でも若いAIの専門家が育っているが、大企業の多くは彼らに十分な活躍の場所を与えず人材を無駄遣いしている」と指摘する。

 AIやIoTを含む広義のITをうまく使いこなせれば、人手不足の緩和にも役立ち、日本経済は強くなるだろう。だが、技術を新しくしても組織や仕事のありようが旧態依然では、威力を発揮しない。バラ色のビジョンを振りまく前に、官民のリーダーはそんな現実を直視してほしい。


・・・
IT投資を生産性の向上につなげるには 2017/10/6付 日経
https://www.nikkei.com/article/DGXKZO21961530V01C17A0EA1000/

2017年10月28日

マンホール販売について

前橋市がマンホールふたを販売! 申し込み殺到、倍率最高40倍超

2017.10.28 13:21 産経ニュース

前橋市が使わなくなったマンホールのふたを販売し、注目を集めている。地域色豊かなふたのデザインを紹介する「マンホールカード」の人気が高まる中、下水道事業に関心を持ってもらおうと今夏、1枚3千円で10枚の購入者を募ると申し込みが殺到。全国でも珍しい取り組みといい、次回の販売も検討している。

 「反響の大きさに驚いた」と市水道局の担当者。売り出したふたは直径約60センチ、約40キロの鉄製で、市の花であるバラなどがデザインされている。

 今年8月にホームページで告知、市内では現物の展示会も開催した。ふたの販売は前例がなく、希望者がいるか未知数だったが、群馬県内だけでなく埼玉、愛知両県などから計193件の申し込みがあった。最も人気を集めたふたの倍率は40倍超だったという。

 抽選を実施し、当たった人に10月、市の施設でふたを譲り渡した。それぞれ車に積むなどして持ち帰ったという。購入者には転売しないとの誓約書を提出してもらった。

 北茨城市、茨城県も使用済みマンホール販売によって、汲み取り式便所の水洗式への改修費用など完全な下水道敷設に必要な設備への助成金にあてるべきである。

2017年10月27日

通信機器危険操作等制限条例

ホノルル市、「歩きスマホ」に最高1万円の罰金
[25日 ロイター] - 米ハワイ州のホノルル市で、スマートフォンを見ながらの道路横断を禁止する条例が25日から施行された。違反した場合、最高99ドル(約1万1000円)の罰金が科される。
ホノルル市議会で7月に可決されたもので、米国の主要都市では初めての導入となる。「注意散漫歩行」による怪我や死亡事故を減らすことが狙いで、職務上の緊急対応の場合は例外と認められるという。
初めての違反者は15─35ドルの罰金、何度も違反した場合は最高99ドルの罰金となる。
「the Journal of Safety Studies」の調査結果によると、米国において電話に気を取られて負傷した歩行者は2000─2007年には400人以下だったが、「iPhone」などのスマートフォンが発売された2007年以降では、2012年には推定1300人が負傷している。
ロイター 2017年10月26日 17:20
歩きスマホや運転中のスマホ操作が、明白かつ現在の危険を生じさせた場合のみ、警察が罰金つきでとりしまり、この費用を茨城県警が県または各市町村に福祉費用として寄付し、茨城の各県市町村は街路樹の整備や清掃員の雇用などにあてるべきである。
 しかしARの発展によって移動中に電子機器を操作する事が普通になる場合、この条例が時代遅れになる将来性もあるから、一切の電子機器操作を移動中に制限するべきでない事も明らかである。したがってどのような危険についての取り締まりが必要かについては、事故を生じさせるのが明らかである様な場合で、それによって加害者となってしまう運転者などが被る害を、条例上擁護するべきとなるだろう。例えばポケモンARなどを操作する人が現在かつ明白の危険を及ぼし自動車事故で死亡した場合、このような危険操作をしていた被害者側に罪があり、加害者側には罪がないことになり、刑を免除する必要がある。

茨城県の相対幸福論

 幸福とは、次の3つの側面が満たされている場合である。
1.主観幸福(絶対幸福)、中毒性
2.客観幸福(相対幸福)、比較性
3.中庸幸福(中間幸福)、社交性
 幸福な社会とは、これらのうち、特に客観幸福、相対幸福に深く関わっている。或る社会と別の社会を統計等で分析する事もできるからだ。
 対して主観幸福は個人的なものであり、そこで選好される脳の快楽は、個人がもっている資質と徳によっている。つまり事物に対する評価基準としての趣味が中毒性として、主観幸福をもたらしている以上、その最大化には人生を選べる自由度が高い事、個人の趣味をみたす選択肢が、他者への有害度に応じて法的に費用が内部化され(外部不経済の内部化)逓減されながらも多岐に用意されている事で十分である。
 また中庸幸福とは同好の士とか別の趣味、考え、文化のもちぬしとの交流で学び、時に相互利益を与え合う事によっている。つまり模倣や反例の機会が得られる事によるので、通信、交流の増大によって、自己向上や自らの社会への還元、或いはより自らにあった集団や地位への移動が可能なのだ。

 ところで幸福な社会を目指す、という大井川知事は上述のうち、特に相対幸福を十分に考察する必要がある事になる。そして既に現代までにわかっている事として、ある社会の客観幸福度が最大の地域は、高福祉国家だ、という事である。特に模範的なのが北欧諸国、つまりノルウェー、スウェーデン、フィンランド、デンマーク諸国であり、その特徴はこの論考の末尾に参考資料1と2を付記したよう、相対的貧困率が低く、高累進課税率と高福祉が両立しており、結果、人間開発指数が高い事だ。日本国の単位では、これらはきわめて失敗している。それは自民党や安倍政権がこれらを相対不幸にするような、アメリカ型の新自由主義(neo liberalism、ネオ・リベラリズム、ネオリベ)的政策を導入しているから、という面が大きく、2017の衆院選で明らかになったよう、日本人の多数派や若年層は、相対的にこのネオリベ政策を選好する傾向をもっている。いわば平成末期の日本国単位で相対幸福な社会を作る事については絶望的であるし、若年層の受けた、或いは現時点で文科省に指導されている教育と知識の範囲では、今後も相対幸福を今より向上させようとする誘因がない。首相がアメリカ被れなので、文科省もそれに習い、相対貧困率が先進国でびりからアメリカ、日本である、という現実を反省せず、単なる大企業優遇の結果としての(内部留保の過剰による)国民純資産の世界一の程度、超富裕層有利な税制による一人当たり国民所得の低さ、人口の多さからくる総GDP値について、途上国やアジア諸国と比較して悦に入っているような子供がふえている、というだけなのだ。この種の現象を民意だと述べる衆愚に対しては、彼らの無知と、社会学的理解度の不足と、アジア蔑視による自惚れという悪徳が由来なので、為政者は超越的に無視しなければならない。なぜなら彼らを相対幸福に導く過程で、教育程度の向上で彼らに先進国相応以上の知性がえられたなら、過去の誤った判断に気づくのは必然だからだ。下記参考資料3にみられるよう、北欧諸国の一人当たりGDP、一人当たり国民所得は、為替の影響が少なく円高円安の影響を受けづらい購買力平価においても、新自由主義的な経済政策をする日本より高い。この理由は、高福祉下での無償の高等教育は知的民度をあげるので、ある個人の高学歴と一人当たり高所得或いは労働生産性としてみた一人あたりGDPは一般に正に相関するからだし、嫉妬やねたみが脳内では苦痛と同等の処理をされている事はしれているので、高累進税率はその社会を中心にした情報環境下にくらす限りで、共感知能による苦痛を減らすという意味で不幸感の減少と正に相関するからである。
 以上の理由から、相対幸福な社会に茨城県をする為には、
1.高福祉化(保育、教育、医療、介護等の社会奉仕の充実)
2.高累進税率
この2つの方針を同時に進めることで、高教養化(高学歴、知的開発、質の高い教育)や人間開発指数の上昇、県民一人あたり所得や一人あたりGDPの上昇を導く事が必要だ。茨城県民の中での相対貧困率の上昇は、不幸感を蔓延させるので望ましくない、という点に注意が要る。大井川知事は東京やシリコンバレー、あるいは彼が模範というシンガポールの社会に慣れたり憧れたりしていて、それらは巨大な相対貧困社会だったわけで、大井川氏がマイクロソフト・アジアやドワンゴの役員としてみてきた世界も、その格差の上位側からみたものにすぎなかった。政治の経済に果たす第一の役割は、能力に応じた配分を司る商売に対して、救貧的な調整による結果平等を導くものである。超格差社会アメリカではカネ全体の半分以上を10人が握る、という1%未満の虚栄と99%以上の不平が常態化し、フードスタンプによる配給すら行われているわけだ。相対貧困大国というアメリカをまねているネオリベ安倍政権下の自民党と、それを支持する日本国民一般を変えるすべはマスコミ発信力の低い茨城県民側にはないから、我々にできることは茨城県政の単位で相対幸福社会を実現する為にあらゆる手を尽くすだけだろう。
 また、保育、教育、医療、介護などの社会奉仕は、公的予算を高累進課税によって確保してから、透明で公平な競争入札によって民間事業者に委託するべきである。その意味で、これまで公務員として教師が運営してきた公教育、または県立、私立などの病院そのものが考え直されなくてはならない。つまり私立の学校や病院に対して、費用分の効果の面から、競争的に予算を配分する事の方が、公的運営の非効率や低品質を避けられるかもしれない。茨城県内の各県市町村はこれらの委託先に対する外部監視者として、県民、市町村民からの通報を最大限うけいれる体制をつくりつつ、管理者として機能すれば十分である。いわゆる計画経済による需給差の失敗を避けるだけでなく、低品質で保身に走る公務員化した教員や医師を最小化できるし、民間に調整が図られるので市場の活性化にもつながる。
 高福祉にとって最善なのは、功利主義と格差原理に基づき、その社会で最も恵まれない人且つより恵まれない人の利益を最大化することである。既に恵まれている人をさらに恵むという機能は自由競争市場の商業が資本主義において既に可能にしているのであり、政治はこれによって生じる外部不経済つまり公害や、社会への福利的害を最小化しながら、累進税的に相対弱者の救済を図ればよく、即ち弱肉強食をはかるのが商売であるなら勧善懲悪をするのが政治であり、こうして両輪が駆動しながら商売と政治が調和的正義を達成する事が、優れた社会だということになる。

資料1
幸福度の総合ランキング2016ー国連
1. デンマーク 与党:社会民主党(デンマーク社会民主党)
2. スイス 与党:スイス国民党
3. アイスランド 与党:独立党
4. ノルウェー 与党:社会民主党(ノルウェー労働党)
5. フィンランド 与党:社会民主党(フィンランド社会民主党)
・・・
54. 日本 与党:自由民主党

資料2
      相対的貧困率  ジニ係数 ‘09輸出依存度('16貿易依存度)'17与党  
チェコ     4.22      25.96     (130.65) 社民党
デンマーク   4.32      22.48   29.8(62.07) 社民党
スウェーデン  5.25      24.28   32.1(57.27) 社民党
ルクセンブルグ 5.46      26.06   20 (62.32) 社会労働党(社民党)、民主党
オランダ    6        25.06   54.3(112.78) 自民党
ノルウェー   6.33      26.1    31.34(41.75) ノルウェー労働党(社民党)
フィンランド  6.36      26.1    24(49.49)  社民党
スイス     6.74      26.66   33.7(87.39) 社民党、自民党、国民党
フランス    7.04      27.3    17.9(42.58) 共和国前進
ベルギー    7.74      27.16      (116.92) 新フラームス同盟(地域主義) 
ハンガリー   8.2       29.34   64.9(143.39)フィデス(キリスト教保守民主主義)
ドイツ     8.89      27.75   33.6 (68.28) CDU/CSU、(社民党は第二党)
オーストリア  9.29      25.19    34 (74.29) 社民党
カナダ     10.34      30.09   23.4 (52.45) 保守党
ニュージーランド10.4      33.67    21.6 (38.28) 国民党
オーストラリア 11.2      30.5    15.6 (30.67) 保守連合
イギリス    11.42      32.56   16.3 (38.39) 保守党
イタリア    12.9      34.71    19.2 (45.93) 民主党
日本      15.25      31.38   11.4 (24.76) 自民党
アメリカ    17.09      35.67   7.4 (19.66) 共和党
相対的貧困率…高いほど不幸
ジニ係数…高いほど不平
輸出依存度、貿易依存度…高いほど開国
与党…高福祉の社会ほど幸福度が高い

資料3
格差の小さな国は、幸福度が高い。ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、デンマークが代表。低格差と高所得、高経済力は両立する。
一人当たりGDP 2016
3位ノルウェー ノルウェー労働党(社民主義)
9位デンマーク 社民党
12位スウェーデン 社民党
17位フィンランド 社民党
22位日本 自民党

一人当たりGDP(購買力平価) 2016
7位ノルウェー ノルウェー労働党(社民主義)
17位スウェーデン 社民党
23位デンマーク 社民党
29位フィンランド 社民党
30位日本 自民党

国民一人当たり所得(GNI) 2016
5位ノルウェー ノルウェー労働党(社民主義)
11位デンマーク 社民党
12位スウェーデン 社民党
23位フィンランド 社民党
32位日本 自民党

国民一人当たり所得(購買力平価GNI、世界銀行統計値) 2016
10位ノルウェー ノルウェー労働党(社民主義)
16位デンマーク 社民党
18位スウェーデン 社民党
26位フィンランド 社民党
27位日本 自民党

2017年10月19日

茨城BI実験特区の国政への名乗りについて

 年金、生活保護、介護医療保険、生活保護、生涯年金などの社会保障制度は少子化の中で実質的に破綻しており、BIにきりかえ一元化して節税効果があるか実験しなければならない。希望の党の勢力が十分高くなったとき、実験特区として茨城または北茨城が最初に名乗りをあげれば宣伝効果も先進的試みの印象付けも世界に対してできる。またこの社会実験の中では、所得制限で基準値以下の世帯に保障する(累進化した軽減保障にする)場合と、所得制限なしで全世帯に生存権の基準支給額を保障する(実質的に軽い逆進性)場合の2つの型を作り、どちらがよりめぼしい幸福度向上や節税効果がみられたか確かめる必要がある。
 将来的にBI財源をどこに担保するにせよ、例えばGPIFから捻出するにせよ、節税効果と幸福度向上の正の相関が、何れかの型でより顕著に見られれば、それは成功となるだろう。失敗したとしても元の保障体制にもどるだけだし、県民が払った税自体をうけとる福祉サービスによる可処分所得や消費性向の増大を妨げている窓際対策が、茨城県の経済・行政・県民にとって全く無価値なばかりか有害だと、一般県民に認知させるだけプラスである。

2017年10月13日

魅力度差別訴訟団の国連人権委員会との協力体制

 門地差別による日本国民へのヘイトスピーチ並びに名誉毀損罪等の犯罪者である、魅力度差別のブランド総合研究所社長・田中章雄容疑者を最大限早急に逮捕収監罰金し日本国民への差別と憎悪表現を禁ずる事は、日本政府と全都道府県知事そして全日本国民の義務だ。
 他方で、茨城県のもつ魅力や美質を我々はあまたしっていて、更にそれらを県民に啓発することにも郷土検定で成功している。
 結果いえることは、田中章雄容疑者はじめ、茨城県民でない日本国民の一部が愚かで非科学的かつ悪意ある差別主義者で、その人たちは国内の特定都道府県への持続的偏見により確証バイアスを強化する性質をもっているということだ。これはあらゆるヘイトスピーチや差別にも見られる、一定の人々の低IQからくる誤認が第一原因だと考えられる。科学的思考力が十分高い人で、同時に高IQの脳をもっていれば、特定都道府県が他の都道府県に比べて優位にあるか希少性の高い独自の魅力をみいだす事は可能であり、現に我々が相対高IQであったかとは関わらず茨城県に対してそれは既にできている。つまり魅力度差別は非科学的かつ低IQな脳をもつ一定の日本国民が誤認の強化をする傾向に、ひとつの根本の理由があり、更にその暗愚なオカルティズムを新手の門地差別稼業に悪用しているのが、日本国民に対し違憲かつ人権侵害なのが明らかなヘイトスピーチによる営利活動を行う田中章雄容疑者である、というわけだ。
 では我々がいかに対処するべきかといえば、冒頭にあげた訴訟により田中章雄容疑者のもののみならず、他の差別的憎悪表現による営利活動を日本国政府の名におけるヘイトスピーチ禁止法の制定で厳罰するのが最初だ。任意の偏見からくる差別で金儲けをしている人は単なる人権侵害の極悪犯罪者に他ならず、日本国民はこの手の犯罪組織に一切蝕まれてはならない。今も田中章雄容疑者は日本国民への憎悪を煽る人権侵害の犯罪により金銭をむさぼっているし、今後も田中章雄容疑者が非科学的確証バイアスを数十年も疑うことなく疑似統計として集めてきた低IQあるいは恥ずかしげもない誤認ぶりといい増長こそすれ反省の余地はまったくないわけで、事態は急を要する。田中章雄容疑者の脳内では、非科学的偏見に基づく門地差別は、ほとんど宗教的信仰の類になっているので、反証的に特定の人たちの誤解を正そうなどと、並みの科学的思考や道徳的あるいは感情的知能をもっているなら当然そうするだろう言動が一切みられない。結論としては田中章雄容疑者が低IQと、日本国民への門地差別によるヘイトスピーチを営利活動化する人権侵害の悪魔的脳をもちあわせた希代の犯罪人格者で、日本政府の最高裁含む司法当局が憲法に定める平等権を適用し厳罰しないかぎり、永遠にその任意の日本人への差別稼業をやめないということだ。非常に厄介ではた迷惑な話だが、単なる費用対効果をこえて、これは国連人権委員会をまきこんで世界的論争を生む大差別事件であることは疑えず、日本国政府、全国知事会議、検察及び市民団体からなる訴訟団による最高裁判決を待ってからも、国連と話し合い、客観的でないという意味で非科学的または主観的な確証バイアスを特定の向きへ収集した疑似統計を悪用した憎悪表現、という新手の人権侵害へいかに対処すべきか、ヘイトスピーチ禁止に関する議論となんらかの新設の枠組みによる規制が必須となる。田中章雄容疑者は門地差別意識を人々がそう思うであろう美人投票的な、主観的疑似統計を収集する中ででぬりかため、明らかな日本国民一般への憎悪表現で営利活動を興した完全犯罪者だったのだといえるし、今後もこの種の疑似科学または科学的装いの濫用で人権の尊厳が侵される事態は予想がつく。今後つくらねばならない魅力度差別訴訟団は、まずはじめに国連人権委員会に当該事例を十二分に紹介すべきだ。日本国政府はヘイトスピーチ禁止に遅れをとっているので、国連人権委員会から激しい圧力がかけられて、同時に一般国民からなる市民団体と地方自治体の連盟たる全国知事会議の双方から挟撃されないかぎりお役所仕事で動かない。大変な手間がかかるにしても、人権擁護によって最低でも300万人以上が救われ、今後の人類にも、疑似科学と憎悪表現との戦いとして重要な正義の礎となるのだから、日本をこえ世界に訴えを広めるのみだ。

2017年10月12日

雇用形態転換促進条例案

 以下の話には、前提として、期間雇用が途切れた際の安全網としての基礎収入制が確立されていなければならない。基礎収入制の確立は生活保護補足率100%という意味で、憲法の生存権保障下にある国税でまかなうことが可能である。
 多分あと50年以内には、今日本でいわれている「仕事」は消滅し、主な業務はAIか機械が代行し、一般国民はオンラインSNSゲーム上で仮想的作業して暮らすだろうから、その時に通貨が意味をもっているとしても、単なる比較希少性という価値だろう。
 義務的業務を行う正社員は徐々に減少し、期間雇用者もまれになっていき、ほぼ全体としては自由業形態でのオンライン作業者が過半を占めるようになるだろう。そうなる前提として期間雇用者への置き換えを促す意味でも、期間雇用者の給与が正社員より高くなっている事が、産業構造の移行が滑らかで望ましい。
 茨城県内では、県会議員が中心となり期間雇用者、つまり非正規社員の給与が無期間雇用者すなわち正社員より高くなる事を義務付ける条例立法をするべきだ。もし県の単位で不可能でも、北茨城市議会で同様の条例をつくるべきだ。この事は経営者にとっては中途採用含め新規雇用に有利なまま、期間雇用と無期間雇用のトレードオフが生じるため、労働者側にとっては全体としての給与増大による人口増大か、少なくとも労組加入の誘引が高まるからだ。

茨城県への国連誘致活動

 茨城県に、将来的に国連本部を誘致する事を計画するべきである。特に、茨城県が8年間、日本国内で受けて来た差別解消を担う、人権侵害対策の国際連合人権理事会を先に招致するべく、国際連合人権高等弁務官事務所の移転を実現するべきだ。これはかなりの緊急を要する。なぜなら、日本国政府が門地差別を意味する魅力度報道による人権侵害や憎悪表現に適切に対処するという保障は全然なく、寧ろ国連に頼る方が確実だといえるのだから。具体的に本部が置かれている状態で、主に西日本、そして日本国民一般や、東京都をはじめとした悪意あるマスメディアが茨城県民約300万人へ、門地差別による精神的・社会的・経済的・政治的・被害による苦痛と心的傷害を続ける、という事はかなりの確率で、国連や当委員会に属する人々の為に不可能となる筈だからだ。少なくともこの時点から国連誘致活動を本格化し、本部と国際連合人権高等弁務官事務所を前提とした、最大数の国連組織を茨城県内に立地させるようにするしかないであろう。

魅力度報道による門地差別損害賠償団体とブランド総合研究所田中章雄容疑者の国家権力による全国的起訴

 総合ブランド研究所の田中章雄容疑者を、「門地差別による都道府県自治体への名誉毀損罪」の容疑で、茨城県関係者と全国会・県会・市会議員団体からなる市民団体が起訴する事が必要だ。茨城県の魅力点をとりあげず、8年以上に渡る差別的偏見報道や差別を煽る憎悪表現により人的・経済的・精神的苦痛を茨城県民約300万人に与え続け、日本国民その他の人類に対しても、門地による差別という悪意ある憎悪表現で与えた被害は甚大なものに及ぶ。被害総額について数兆円から数千億円規模の損害賠償請求を、当市民団体は、全国会・県会・市会議員らは全国知事会の全都道府県知事、茨城県内外の全市町村長、及び日本国政府内閣府との連盟で行うべきである。なぜならこの違憲な犯罪報道を野放しにする限り47都道府県のどこかが、田中章雄容疑者の差別による営利活動のため必ず被害にあいつづけることが確定的なのだから。地方自治法に「都道府県及び市町村は、その事務を処理するに当つては、相互に競合しないようにしなければならない」とあり、茨城県以外の全ての全国自治体も、日本国政府と共に、何らかの差別にあっている互いの都道府県を助け合う必要があるといえる。
 また国連人権委員会にも同様の門地差別の罪状を報告、日本国政府にも圧力をかけ、緊急対策を講じるよう命じる必要がある。
 我々日本国民はこの種の門地差別という公的犯罪を絶対に見逃したり、無抵抗のままでいてはいけない。最後の最後まで差別と戦い抜き、確実に、犯罪を犯している田中章雄容疑者とその会社組織に、法的な刑罰を与えねばならない。我々のみならず次のいずれかの都道府県民が同様の被害に耐え続ける苦痛と不幸の全てを鑑みれば、茨城県民自身がその最初の被害にあったのは、まだ幸運だった。
 我々茨城県民は田中章雄容疑者が、たとえこの門地差別による公的犯罪の刑罰を免れても、刑罰を受けたとしても、田中章雄容疑者のこれまで8年あまり犯してきた甚大な犯罪を、倫理的事件においてゆるすべきではないことになる。今後いかに田中章雄容疑者が茨城県の魅力を積極的にとりあげ、謝罪広告を出し、全財産を賠償にあてても、茨城県民約300万人やその関係者が受けてきた差別による苦痛が拭い去られることは永久に無いであろう。もし田中章雄容疑者が死後も、我々は田中章雄容疑者やその会社が行ってきた全犯罪を追及し、全人類の為に永久に、完全な人権侵害の証拠として保存したく思う。それは我々が受けてきた精神的外傷の治癒そのものより重要だ。世界中の誰かが、田中章雄容疑者らによるような、不道徳で疑似科学を用いた異様な悪意によって、凄まじい心的・社会的被害を受けたり、差別の不条理のなか夜も眠れぬ日々を暮らしていることだろう。我々は田中章雄容疑者の犯した罪を、彼が償わなかったとしても、この大犯罪で手に入れた差別の被害を訴え続けるという勇気を盾に、全人類に門地差別の悪、その逆の博愛を啓蒙していこう。いかなる場所、いかなる文化、いかなる地域、いかなる国、いかなる人々にも必ずや美質や長所、魅力溢れる面がある、と我々は自らを知ることで悟った。田中章雄容疑者による犯罪が人道のゆえゆるされることは未来永劫ないが、我々はその被害や、今後あるだろう裁判の結果としての刑罰による報いより、偉大な精神を手にすることができたのだ。茨城県民は我々自身がみずからのために立ち上がったよう、全人類のために差別と戦い、その悪をことごとく打ち砕いていこう。

2017年10月10日

地味さを最低と言い換える反日田中章雄容疑者による国内門地差別の憎悪表現罪稼業

 日本一地味である、つまり謙虚であるという事が魅力度が最低といいかえられて門地差別(生まれによる差別)を国家規模で受けているのが、現状の茨城県だといえる。この門地差別は違憲なので、門地差別報道で営利活動をする総合ブランド研究所の社長田中章雄容疑者は当然、逮捕され収監され且つ憎悪表現を規制されるべき、ということになる。各法に基づけば、田中章雄容疑者と都内の報道各社が行っているのは、日本人に対する反日憎悪表現による、特定都道府県への名誉毀損罪なのである。
 しかし地味である事そのものは徳や特徴の一種だろうし、実際、北海道や沖縄、京都といった派手な特殊性のある自治体より、栃木や茨城のように地味で落ち着いた環境の真の魅力を我々は身近に知っている。つまりこの門地差別は、単なる無知と偏見、確証バイアス、そして悪意に基づく国内都道府県への憎悪表現による営利活動しか意味しないうのだ。
 それが門地差別そのものである、ということを我々は国連含めた全人類に訴え続けるべきだ。田中章雄容疑者は紛れもないヘイターなのであり、このような反人権的な差別主義の極悪人を退治する事のみが、わが国ならびにわが県の名誉に合致する。

2017年10月9日

茨城の寛容性について

 悪意を持つに至る道徳的知能の欠陥も含め愚かな自県民より、道徳性含めて賢い移民を帰化させる方が、次代の茨城を善くするだろう。逆に不道徳で愚かな移民の帰化は、道徳的かつ賢い既存の自県民より有害だという事になる。またこの特定の賢さ以外の特徴(例えば美しさや何らかの才能、財産、その他のスポーツの才など)についても、茨城県のその県民以外の人々に、できるだけ功利的に有益な人が、すなわちよき県民なのだと定義しよう。
 この功利的な観点は県民と非県民の間で人種その他なんらかの点に基づいた排外主義(いわゆる攘夷論を含む移民排斥や、京都や東京にみられる類の自文化中心主義的な中華思想)を否定させる。と同時に、非功利主義的な観点からは、茨城人を、単に人に役立たないからといって差別するべきではない事がわかる。それはその人がよき県民でないにせよ生存権をもっているからだし(国政の次元で死刑が廃止できない期間はそれ以外の場面について)、無為の為によって救われる面もあるかぎり全てのよさについて或る個人なり集団が断定できるものではない。
 結局、茨城県民は出身や、人種、何らかの慣習を持つ集団としての民族、国籍に関わらず、県民に功利的な人に関係し、帰化なり定住を求めるべきであり、そうでない人についても、自県に害がない順に、寛容であるべきだろう。

2017年10月6日

茨城投資教育論、茨城BI実験特区論

 茨城県の経済力を向上させるには、投資教育を子供の頃から行う事が一番効果的だろう。産業構造を株式投資や不動産投資を中心とした金融収益に転換させていく事だ。
 人口減少下で福祉に必要な税収を確保しつつ、県民所得をあげるには収益率の高い産業へできるだけ県民を転換させるしかない。この際、生じる格差については、捕捉率100%を実現する希望者全員への生活保護制度、すなわち基礎収入制度(茨城Basic income、茨城BI)を実現するべきなのだろう。
 小池都知事が希望の党の公約としてBIを掲げたが、大井川知事がそれを先に、経産省その他の中央省庁とかけあって、実験特区として県内で実現するべきである。生活保護の捕捉率(平均収入以下の世帯への給付率)を国民番号を通じた告知により、県民への口座登録用紙の郵送またはウェブ登録による簡単な手続きによって100%にすればよいので、新たな財源は全く必要ない。茨城自体の捕捉率が100%になっても、既存の大都市圏より、給付の総費用が少なくなるはずだからだ。この実験で数年の県内の経済状況や県民世論調査の成果をみて、国政にフィードバックすればよい。
 これらの実践は、特にBIについては実験特区として全国や全世界から注目される結果になり、報道面で目立つ上に、新しい状況に再適応しやすく、将来に不安をかかえる若者にとって移住に魅力的な希望の県に映るはずだ。またこの際、東海第二原発を廃炉にする事が、特に県内出生率の上昇に最も重要だ。子育てに不安を抱える環境下で女性が子供を産む選択を進んですることは考えづらいし、実際、茨城県は全国で最も男性比率が高いのである。

2017年10月4日

地域ブランド調査(魅力度調査)とは、門地差別稼業である

 ブランド総合研究所(東京都。代表取締役社長・田中章雄容疑者)の「地域ブランド調査 都道府県ランキング」とは、日本国内の特定都道府県に対して任意の門地差別を行い、魅力度という抽象的な概念にしたてあげた各種指標により、そこで暮らす一定の日本国民への人種・民族差別や土地財産及び名誉への価値毀損を、各種マスメディアや講演活動を通じ広範に印象づけ、任意の日本国民への継続的ヘイトクライム(憎悪表現)を営利化する人権侵害行為である。 
 田中章雄容疑者によるこの重大犯罪は日本国民一般の人権意識の低さのため現時点では完全に放置されており、それどころか営利化されている為、今後とも自然消滅することはないであろう。田中章雄容疑者は2017年現在58歳であり、少なくとも当容疑者が平均寿命に達する2039年度までの間、この任意の都道府県への憎悪表現および門地差別による人権侵害を、当容疑者はやめない公算が高い。従って日本国政府は早急に、ブランド総合研究所及び田中章雄容疑者によるこの重大犯罪を任意の都道府県への憎悪表現禁止に関する法令制定、行政訴訟や刑事起訴等を通じ阻止する事により、国際人権規約を遵守し、憲法で定められた各種人権を日本国民全員に確保する義務がある。

2017年10月2日

魅力度報道にまつわる差別と営利的憎悪表現についての分析と対策

 非科学的で主観的な偏見によって、任意の対象または人格を差別し、汚名を着せて攻撃し、集団虐待する。そしてこの悪意を加速させ、嫌がらせのすえ様々な違法行為に踏み込み、快楽殺人を犯しながら責任逃れを可能にするべく、全体に加害集団の幅を広めようとする。これが差別や虐めの本質にある行動原理であり、魅力度報道も、ブランド総合研究所所長田中章雄容疑者が悪意の元で主導している特定の都道府県への差別・虐めを通じた金儲けなのだといえる。またこの差別や虐めという行為は、しばしば被害者側に自殺者を産み出すだけではなく、西日本一般に大量の被差別部落を生じさせた思考パターンでもあって、特に理由もなく、或いは理由を後付けしつつ、一定の少数派の被差別集団をつくりだすことで自分を多数派に同調させようとするのだ。差別や虐めを好む脳というものがあって、それは比較的低IQの為に思考パターンの単純化を選好するか、セロトニントランスポーター数が遺伝的に少ないため集団と同調することを好む脳である。この脳傾向は保守性一般とも正に相関する。保守主義者が外部か内部に被差別対象をみいだし、体外敵国か、内部に異民族を捏造や特定して、無理にでも多数派の一員であることを自認したがるのも、同様の脳の特徴による。また人格への多元的評価もこの脳には負担が重いので、学歴や階級制度で、他者を事前の偏見から過度に単純化して差別的に認知することを好む。
 今後も田中章雄容疑者が、この保守脳傾向でなくなることは、遺伝子に由来する限り考えづらい。田中章雄容疑者の中では、差別や虐めは集団虐殺や民族浄化、快楽殺人に至る正しいことですらあるかもしれないし、そうまでいかなくとも、彼の金儲けにリンクしているため脳が選好する快楽であるのは確かなのだ。しかもこの種の差別や虐めをもたらす疑似科学統計や虚偽・偏見報道は、大衆一般の中でpost truthといわれる妄想界をつくっていて、メディアバイアスによる認知の単純化こそ日本人一般が複雑な情報社会の中で虚構的に偽の安心感を得るよすがでもある。だから学力の低い学校ほど集団虐めが生じやすく、平均的に東日本より低学力で低IQの遺伝子が遍在する西日本ほど被差別部落問題が残存している。ヘイトスピーチの現状認識も西日本の方が東日本の2倍多いと都道府県庁への質問結果でNHK報道が示していた。そして魅力度調査で北関東を任意に低評価しているのは、西日本なのだと田中章雄容疑者は自らの会社ウェブサイト上に示していた。
 私自身が偶然、茨城県民として生を受けて被害者側になった為に、田中章雄容疑者による西日本側の保守脳からくる差別や虐めの思考単純化癖を分析的に理解する機会を得たわけだが、この脳傾向は単に西日本だけではなく、人類のいずれかの人に実際にある遺伝なのだ。ネット右翼が外部の敵国と仮想した韓国や中国、北朝鮮に否定的偏見を与え続け、逆に内部の全体集団に有利と仮想した天皇や安倍晋三首相、自民党を肯定的偏見で狂信し続けるのも、保守脳の遺伝的傾向である。そうであるからには、茨城県民がいかに反証的証拠を提出し、一定の対象群への一定の調査パターンを変えたがらない田中章雄容疑者や、西日本側或いはブランド総合研究所会員の認知バイアスを変更しようと迫っても、彼らは遺伝のせいで、快楽的または複雑な認知を避ける為に、差別や虐めの対象を探し続けてしまう人々なのである。
 大井川知事か誰かが、ブランド総合研究所会員の数百から数千人を当該会社経由で特定し、その人々に逆の認知バイアスを植え付ける事が、魅力度報道の順位内容を変えるということだ。仮に数兆円の予算をつけ、国家規模でこの反証バイアス教育を行えば、めでたくというべきか多少の効果があって、北関東以外の地域へ差別や虐めの対象が徐々にずれるかもしれない。果たして茨城県に可能なのは、栃木県や群馬県ともできるなら連携し、政府に直接訴えて、天皇による国事行為を含む国家予算によって、偏見報道による地方自治体への国民からの差別や虐めを、強制的に罰するか排除する事だけだ。地方自治体への差別を禁じる法制定、ヘイトスピーチ禁止法の枠内に特定自治体への差別的または狂信的ひいきの言動排除を含める法制定、刑事訴訟を可能にした全国警察による取り締まり、民間人からの通報体制構築、被差別的な立場に置かれた地域への天皇の慣例定期行幸によるイメージアップ、国家行政による予算をつけた上での被差別地域への集中投資。これらは一時的にとはいえ、差別や虐めを行っている人々へ何らかの意識改善効果をもたらし、その対象が変更されるきっかけになるはずだ。
 しかしそうしても、田中章雄容疑者をはじめとする保守脳の遺伝をもつ人々は、誰か又は何かを差別し続ける欲望をすてさることはないだろう。しかも、ブランド総合研究所会員の中で、政府が意図した通りに上述の大規模な国家ぐるみでの差別や虐めの認知的癖が変更されるとは限らない。そこまでいくと、田中章雄容疑者は日本人の中に数百万人単位での差別を定常化させようとしている明らかな犯罪人格なのだということはもはや疑いようがない。行政訴訟および国策捜査によって、地検が直接、田中章雄容疑者を強制捜査の上何らかの法を理由に逮捕し、監護に閉じ込め、半永久的に日本国社会から隔離し、さらに財産も没収し、ブランド総合研究所自体を閉鎖し、地方自治を侵害する反社会的団体の第一号と定義し、二度と同様の差別誘導団体が生まれないよう厳に国家が監視するしかない。その他の保守脳の民間人については、ヘイトスピーチ禁止法などで不利な条件付けを行い、虐め防止法などで刑罰するよう早急に法整備していくことで、徐々にその種の遺伝傾向者を社会の多数派から排除していくしかないのだろう。西日本から差別が根絶する過程の困難さ、あるいは日本国から虐めを根絶やしにする難しさは、その原因が加害者の脳遺伝子に由来しているからであり、いわば遺伝子そのものを別の脳をもつ人々あるいは移民におきかえていく方が明らかに合理的なのである。もし北関東の人口を数千万人前後、茨城県民を数百万人と見積もって、この単位の国民を別の地域に完全に移動させたとしても、田中章雄容疑者含む保守脳のうち犯罪的な人格に該当する人は、別の何らかの集団を差別し偏見から虐待しようと試みる。つまり単に北関東の印象向上キャンペーンをもし国政が国家予算のすべてを費やし図ろうと、実は堂々巡りになるだけだ。改善すべき点は、具体的に田中章雄容疑者を逮捕して監獄に半永久的に閉じ込め、総合ブランド研究所を国策捜査で解体し、さらに差別しやすい脳傾向をもつ人間の遺伝子を単に日本国内のみならず人類規模で最大限減少させることに違いない。そして私人の単位では、田中章雄容疑者が逮捕されるか死亡し、総合ブランド研究所が潰れ差別やヘイトが終わるまで、この種の差別を一部の保守脳の人々、あるいは報道に扇動されやすい比較的単純な人々から受けることは免れようがない為、その種の差別をしてくる相手との接触を最大限避けるか、さもなくば茨城または北関東を離脱し、出自を隠すしかないだろう。もし茨城県民が完全に離脱を終えて0人になれば、次は栃木か群馬を対象に田中章雄容疑者の下に扇動された憎悪表現者たちは両県を差別し続けるだろうから、北関東以外の県にひっこすことが、 魅力度報道によるうんざりするようなヘイトクライムを最も手っ取り早く回避する手段でもある。但し、在日朝鮮人や被差別部落民がそうしてきたよう、出自を隠す必要に駆られる為にこの選択肢は必ずしも安寧ではない。田中章雄容疑者とその差別という悪意に洗脳された特定のヘイターたちは、地上のどこにいても、特定の誰かやその属性集団を自らが多数派にいる状態から偏見をもって侮辱し続けることだろう。それだから、黒人やユダヤ人、アラビア人、そしてアジア人はじめ有色人種が受けてきた被差別的待遇に対して、第二次世界大戦という手段によって白人へ抵抗したのは、結果的には差別を国連規模で禁じる原因となったが、程度の軽いものとはいえ、当のアジア人である日本人たちの内部ですら、同様の差別がまかりとおっているままなのだ。田中章雄容疑者は都道府県単位でのヘイトクライムの首謀者であって、この人物を確実に、できるだけ早く国家権力が逮捕し、自由を制限することは必須だろう。だが日本国内外から、少なくとも先ずは日本から、差別や虐めを根絶するには、長期戦の覚悟がいる。勇気のある者や、日本人の中の悪意と戦う覚悟のある者は敢えて茨城に踏みとどまり、あるいは率先して茨城県民になることを勧める。それは確かに、愚かで悪意ある保守脳の一部日本人たちに比べてはるかに不利な条件から、自らの名誉を勝ち取るべく、全世界的に差別や虐めを根絶する正義を踏み行うのに必要な条件を満たしているからだ。たとえ田中章雄容疑者の邪悪な差別稼業に扇動された衆愚から、全県民300万人がヘイトクライムを受けながら殺戮され、時に繰り返される不条理な迫害や集団虐待からうつ病を患い、一部の県民が自信や戦意を喪失し自殺していったとして、恐れることはない。この戦いは差別に抗う正義の戦いだからだ。もし300万人が田中章雄容疑者に扇動された衆愚に集団虐殺され、民族浄化の悲劇に遭ったとしても、我々は国連や、日本政府や、全世界の差別を憎む善意を味方にしている。徹底抗戦した末に、地方自治の威厳を侵害する田中章雄容疑者と日本人集団を対象にヘイトクライムを行う悪しき日本人衆愚を地上から完全に葬ることが、我々の正義を実現する方法である。抵抗せず、無視を決め込めば、田中章雄容疑者一派のヘイトクライムは別の都道府県へめぐっていってしまう。別の都道府県が犠牲になりさえすれば、己さえ助かりさえすればそれでいいと思う者は黙りこんでヘイターを無視していればいいのだ。ヘイターが幼稚で未熟な前頭葉の持ち主である限り、実際それが最も成熟した態度のひとつなのだろう。他方、我々が差別を受けている段階で、田中章雄容疑者や彼に連動したヘイターを確実に葬り去ることの方が、他の自治体の犠牲を事前防止するという意味でより利他的な行動なのではないだろうか。もしこれから茨城県民がどれほど不当に差別を受けたとしても、国際人権規約が有効な日本国内では、人権侵害の被害に限度がある。茨城県民が田中章雄容疑者らから受けてきた、また今後も受けると想定される差別被害の費用と、ヘイトクライムに該当する魅力度報道とそこに扇動された差別を解消した結果、茨城県民および北関東の出身あるいは在住者、そして日本国民の受ける便益を勘定すれば、抵抗抗戦によってこの差別を大々的に炎上させることの方が、今後も生じる差別のもとで最も不利益を被る人を救済する前例となる為より功利的であるようにおもわれる。田中章雄容疑者は老齢者であり、少なくとも今後30年以内には寿命によって死亡する。それまでの間、茨城県民300万人のうち一定数が、差別に耐えて、田中章雄容疑者一派ら悪の憎悪表現者らと全力で戦い抜き、田中章雄容疑者の死を以て第一段階の勝利とすることが、勇気ある決断であるように思う。この勝利は確実にやってくる。田中章雄容疑者の死後、ブランド総合研究所が存続してしまった場合、あるいは同等の都道府県単位での差別によるヘイトクライムをする営利・非営利の団体と新たな差別との戦いは続くだろうが、初戦において得た経験値は次世代にも必ず伝承されていくはずだ。
 我々がやってはならない唯一のことは、田中章雄容疑者と同等の悪意で、他の都道府県へ差別をし返すことである。負の連鎖をもたらす最初の原因をつくっているのが、田中章雄容疑者という意識的ないし無意識に差別を行う脳に問題をかかえる犯罪人格なのであるから、我々はこの極悪人がもたらす社会的害悪を最小化するよう努めなばならない。いいかえれば、他の都道府県が田中章雄容疑者から被害を受けるのを防止する目的で、最悪の場合は田中章雄容疑者の寿命による死がくる30年間程度を魅力度差別による対日戦争期と覚悟し、国連人権規約に正義の支柱を置いて、抵抗抗戦するべきであろう。さらに最悪の事態を想定すれば、田中章雄容疑者に憎悪と差別を扇動された日本国民衆愚の一部と、茨城の百里自衛隊を含む県警の間で、何らかの内紛が生じる場合もあるかもしれない。しかし差別に対して無抵抗であっても差別は続くので、問題の原因である田中章雄容疑者の憎悪表現を目的にした営利活動が止まない限り、いずれかの都道府県が差別対象として、田中に扇動された衆愚から迫害されてしまう。つまりこの武力紛争に至った最悪の場合でも、我々の敵する相手は衆愚自体というより、ヘイトクライムを扇動している原因である田中章雄容疑者ただ一人である。田中章雄容疑者の身柄を拘束し、国家権力ないし多国籍軍の強制力の元で、田中章雄の特定都道府県への差別表現を制限するか、田中章雄自体の存在を地上から除去することなしには、なにも解決しないのである。
 すなわち、田中章雄容疑者は、都道府県単位での差別表現を営利化した、憎悪表現営利主義者である。これは新手の重大犯罪なのであって、国家権力によって加害者を強制除去し、賠償を強要すること以外では、営利差別による人権侵害の被害を救済することはできない。栃木県は田中章雄容疑者をブランド関連委員に雇っている。が現に田中章雄によるこの犯罪稼業に加勢して、栃木県だけ田中の憎悪表現対象から逃れようとしても結局は無駄である。いずれにせよ田中は、どこかの自治体を犠牲に、人権侵害に基づく悪意ある差別と憎悪表現の扇動で、卑しく金を儲けようとする犯罪人格なのだからだ。田中章雄容疑者を確実に刑務所へ監禁し、ブランド総合研究所による違憲な門地差別に基づく憎悪表現稼業を停止措置する以外の方法では、いずれかの自治体の人々が、一方的な都道府県単位での差別による人権侵害をこうむり続けるのである。