2018年3月7日

幸福論

 平成の資本主義に欠けていたのは、カネを己の属した社会へ還元する為に儲ける、あるいは己の社会をよりよくする為に働く、という利他に包括された自利という見方である。この利他に含まれる自利は、功利主義の命題、最大多数の最高幸福 The greatest happiness of the greatest numberによく現れている。仏教語でいう抜苦与楽は、功利主義をいいかえたものだと解釈できる。
 幸福を大まかに分類すると、 主観的幸福、客観的幸福、またそれらの中間にある中庸的幸福に分けられ、主観幸福の本質は没頭、客観幸福の本質は比較、中庸的幸福の本質は社交である。
 没頭とは或る人が夢中で熱中できる作業が、チクセント・ミハイによってflowと定義されている没我状態を生み出すことである。ここで、思考を言語や観念の抽象的行動と定義すると、没頭しているとき脳の中ではその人の学習サイクルが、ドーパミン(目標設定)、アドレナリン(興奮状態)、オキシトシン(目標達成)の循環で、広義の行動に関する難易度が快適域から大きく外れないまま(つまり難しすぎでも易しすぎでもない)、ほぼ最適化されて回されているのだと考えられる。この状態を生み出す脳内作用はしばしば行き過ぎたり、自他の生命維持に害をもたらす事もあり、その場合には嗜癖 Addictionとか、狭義の中毒 Poisningと定義されていることもあり、また日常語において何らかの嗜癖が行き過ぎて当人に害がありさえする場合、比喩的な意味で広義の中毒と言う場合もある。いずれにしても、主観的幸福はそれが何らかの自害性を含む自利ではあるにせよ、極端なら害他性や公害を伴う時もあり、このうち、自己への有益性にある程度の自害性を含むとして、自他へ共に有益な場合が最善の没頭、自己のみに有益で他に無益無害な場合を次善の没頭、自己のみに有益で他に有害な場合を悪しき没頭と定義できる。没頭は哺乳類に近似した生物にあって脳が快楽の輪を回し続ける事を指すので、ここでいう主観幸福は、非常に狭義ではむしろ快楽追求性という方がふさわしく、脳のない生物の場合は、細胞の持っている嗜癖の傾向にまで分解される。
 また客観幸福は、国連が幸福度として示している指標や、各種の統計に表れている様な、他の人と比べてのみ認知される、主に物質的な状態を指す。但し、主観の介在する疑似統計、つまり価値観や好感といった印象操作が可能な誰かの感じ方の調査は、意図や見方によって評価が変動するものなので、ここには含まれない。
 中庸的幸福は、或る個人が自らの没頭できる対象について、他者と比較しながら社交できる時に感じる状態の事であり、狭義ではこれが或る仲間や共感を生み出す、好ましい人間関係形成の原因である。一般にこの作用をcommunicationとか、やりとりとか、通信といい、情報はこの通信という目的を媒介するものである。

 ところで、幸福を公私に分類すると、 私的幸福は自由によって最大化され、公的幸福は保障によって最大化される。ここでいう自由は個人が他人に害がない限り自らの趣味を完全に満足させる没頭経験を最大化する事を意味し、保障は自らに害をなす他者からの苦痛を最小化する法律と倫理両面からの公的保護を意味する。
 具体的にそれぞれの特徴を定義すると、先ず私的幸福については、上述の主観幸福の内、自他へ有益な没頭状態を最大化する事が私的幸福の最高程度と考えられる。また最大多数の最高幸福をあわせみると、最善の私的幸福は功利性への没我であると考えられる。ここで功利性という言葉は、utilityをutilitarianisticに解釈した場合の概念であり、狭義では有用性、広義では多目的性を指し、使用 useを語源にもつこのutilityという単語を、単に自己にとって有益なだけではなく他者にとっても有益である様な状態に適用するものである。カントのいう義務は、時に自分に害があっても利他行為を追求せよと命じる点で、幸福を超越している概念であると考えられるが、この義務の功利性というものは、良心の満足という没我の究極状態として得られるのだと再定義できる。一般に、この義務の功利性を、我々は自己犠牲や献身と呼んでいる。もしマズローの欲求階層を引用すると、自己実現の上位段階として定義されている自己超越とは、私的幸福の充足の果てに、最も満たしがたい欲求として利己性の克服という、小脳の司る本能(仏教語でいう煩悩、精神医学でいう自我)を大脳の理性(精神医学でいう超自我)が完全に征服した状態が見いだされる事と定義できる。新渡戸稲造が『武士道』で定義している義の概念は、同書での義士の定義にみられるよう、この理性的な利他主義者が自己犠牲的にふるまう際に最高度の状態を指すと定義されている。切腹、諌死、仇討ちといった義行は、この義務の功利性の最高段階として嘗て侍に認識されてきたのであり、私的に解釈されるときは単に義、公的に解釈されるときは忠義といわれ、一般的には正義という言葉で定義されてきた。言語や図像、観念、身振りといった抽象度の高い概念の操作を広義の行動、具体的に自らの体を動かすという狭義の行動と定義し、これらの行動を包括して言行と定義すると、ロールズの格差原理における最不利者の利益最大化という原則は、我々が善行と呼ぶ言行一般のうち、無償で分け隔てのない森羅万象への慈しみを指す概念である、agapeに最も近い言行の理念である。つまり、私的幸福は何らかの没頭対象への極度の心酔の果てに、慈善と自らの言行が一致している状態で最終段階へ達すると考えられる。なぜなら人類のもっている脳の究極の使い方とは、単なる本能をより合理的に満たす為の社会行動の道具として生まれただろう初期の大脳を、徐々に功利性を満たすべく改良し、最後には我々が全徳の存在と想定する神的な慈善の担い手として、超人類的な進化へともっていく事だからだ。人類が聖人と見なしてきた人徳者達は、彼らの置かれた環境下での私的快楽をそれぞれの節制によって見限り、自己超越的な利他、その中でも勧善懲悪ともいわれる利他の言行に嗜癖を持っていた人々であり、しばしば救世主願望に憑り付かれてもいた。ある時点、ある場所で最不利者をさらに不利にする事は虐めと定義できるが、この弱肉強食から最も遠い人格が、慈善へ没頭する者だといえると共に、我々のうちの弱者がなぜ宗教を信じるかの訳として、聖人は自己犠牲の傾向の為に遺伝的に最希少種となり易く、同時代の同じ場所に存在する確率は極めて低いので、偶像として観念化された慈善の言行者を想定し救いや助けを求める事のみが心理的な頼りや支えになるからだ。そして人によって信じる宗教が異なるのは、彼らの学習環境下で見つけられた最慈善者が異なるからであり、無宗教の人がいるのは、この最慈善性を体を持たない単なる抽象概念と捉えているか、そもそも慈善に興味がない利己的な人物であるか、どちらかであろう。またこの抽象概念をある思想形態、考え方、Ideologieと捉えると、一切の主義や思想を信じていない人物、つまり無思想の者に大脳が働いていて成人している場合、善悪を本能を超えて判定したりしなかったりするだろうから、その言行についての矛盾度は最大であり、人類は矛盾度の高い情報量を認識できないものとみなすので、この人については殆ど理解されないだろう。無宗教かつ無思想で、単に状況に応じて考え方を変えている様な状態に最も近いのは、本能以外の嗜癖を持たない幼児の状態であり、幼児の語る事が理路から最も遠いのは矛盾度が甚だ高いからである。また、幼児を裁判官に置いた場合の社会的混乱を想定すればわかる様、無思想とは無秩序な言行を意味し、その対極にある最慈善は秩序度の最高段階を意味するといえる。さて、この秩序の度合いとしてみた慈善度を比較的なものと考えると、或る社会集団の慈善度は構成する人々の平均的な功利性に由来しているので、よりよい社会を私的幸福の面から批評すると、その構成員の内できるだけ多数が、功利性の高い没頭癖を持っている状態を指す。没頭癖の社会的側面を広義の仕事あるいはその語源である「する事」、没頭癖そのものの能動的側面を趣味と定義すると、利他度の高い趣味を評価するには他者の立場が必要だが、一般にこの趣味を極める為には他人に害がない限り邪魔や干渉をされない自由が前提となる。なぜなら誰かがこの功利性をより強度の高い段階で見いだす為には、当時一般的に考えられている低俗な趣味の傾向を逸脱する必要があるからであり、また単に私的満足だけを目的にし全然公益性がない没頭の場合についても、当人がそれを超えた私的幸福をみいだせない限り、その人にとって主観幸福を満たせるが故に有益である。自己犠牲は義務の履行に際して自害性と利他性が共に最大の場合を指し、この実践について他人からの強制は単なる拷問に過ぎないので、当人の意思に基づく自由が必要である。但し、この自由が認められる為の最低限度の条件は、他人に害がない事であって、もし他人に害をなす傾向の趣味であれば、その外部不経済の程度に応じて法的あるいは倫理的な制限が社会から与えられることになるだろう。また単に自害性を含む趣味であるなら、他人がその人に与えられるはずの公益性を縮減する程度に応じて、直接の制御から間接的な残念まで、何らかの干渉が想定できるだろう。麻薬の販売と使用や、売買の主体が共に自主的な性売買、或いは自傷癖等の自虐的な嗜癖で想定される被害は、第一に当人達の健康、経済、対人関係にもたらす自害性の程度であり、第二にそれらの行為によって間接的に起きるミラー・ニューロンの模倣効果による公害性、特に幼児等の模倣を通じた負の学習の結果、自害性のある嗜癖あるいは依存症が自他に広まる害他性、第三にそれらによって特定の人のもたらすはず公益性が減り、場合によっては不可逆的に減耗する事であるといえる。よってこれらの自由は程度こそあれ、或る個人またはその社会の共通認識として制限されるが、その制限度はもたらす公害度と正に相関しているといえる。
 最後に、公的幸福である保障が意味するのは、私的幸福が快楽の積極的な最大化を意味するのと異なって、単に苦痛の最小化であるといえる。なぜならそれぞれの個人は各々何について快を感じるか、何に没頭できるか趣味が異なる傾向にあり、もし普遍的、一般的、大衆的な趣味を追求すれば、それは一部の人を余り満足させない事になるからだ。他方で苦痛を最小化する事については本能に近い程度に応じて人類一般にある程度の共通性をみいだせ、場合によっては他の生物も含めて、苦痛を感じる脳内物質、ブラジキニンなどが働く機会を抑制する事によっているといえる。社会的支援や偽薬が苦痛を和らげると経験的に仮説づけられている事から、公的支援が確実に受けられると安心できる場面では、人はより不幸を最小化できると考えられる。我々が高福祉の実現した社会にみいだしている種類の幸福のうち、最も消極的な面は、この社会保障の充実であるといえる。例えば治安維持は公害から与えられる苦痛の逓減であり、原発等の危険施設の廃止や事故を起こす可能性の高い自動車や道路についての法的統制、災害への備えは将来与えられるであろう苦痛の最小化である。ところで侵略戦争の否定を謳う憲法その他の法規は自他のうち特に他人に与える筈の苦痛を最小化するものであり、単に戦争放棄の法は、最小限度の自己防衛を除けば、戦争時に自他が伴う苦痛を事前に最小化しようとするものである。究極的戦争放棄としての非暴力主義は、それが同時に抵抗的なら非暴力不服従となって少なくとも主権の侵害や拷問によって与えられる自己への苦痛を拒否し、服従的なら無条件降伏となり想定される苦痛の回避をも放棄する事になる。また帝国主義や侵略主義を信じる者は己の行う侵略戦争を是認して自他に苦痛を与える邪悪な権謀術数主義者であり、このうち自らの侵略のみを是認し他者の抵抗や主権、自己防衛を否定する者は他人の苦痛を自らの快楽と考える悪魔崇拝者である。これら戦争に関する態度のうち、公的幸福の面からみれば、自侵略を是認し他防衛を否定する悪魔崇拝者が最悪、次悪が自他の侵略を是認する権謀術数主義者であり、無条件降伏がその次に悪質で自他に無責任な態度である。対して、非暴力不服従は十分に防衛が行えない時の次善であり、一般的な自己防衛のみを是認する戦争放棄は最善のふるまいであり、ここには侵略戦争の否定が含まれている。個別自衛の名目で侵略を行う事は侵略に含まれる権謀術数的な次悪に過ぎず、集団自衛の名目で侵略を行う事はそれを共謀する事であるから、次悪より邪悪さと罪の程度がより酷いものである。集団安全保障の名目で、国連が命じる多国籍軍が米軍と共謀し、特定の国や集団の独立を侵害したり圧力を加えている場合、それらの少数派の苦痛を最大化する事に他ならないので、悪魔崇拝的な最悪であると認定できる。この様な場合の国連組織や米軍は、少なくとも国連に属するか否かに関わらず、現に独立を主張しているか独立をめざす少数派の諸権利を認容しなければならず、独裁政権といった名目で、王政に類した単独支配を行っている集団を諸国から除外するべきでは全くない。王政か独裁政かは或る単独者が支配する政体についての主観的評価、つまり肯定的に王政と尊称するか、否定的に独裁政と蔑称するかによるのであり、これらの評価は国連や米軍の主体である外部者のみが行って十分とはいえない。なぜなら異なる考え方に基づく政体を構成員が自ら選び取っている場合、この政体が他の政体と組織において全く異なるとしても、また規律や法、風習、慣習、文化、風俗について他国や他集団の価値観と隔たりが大きいとしても、外部者がその政体を自らの理想が実現しているとみて賛美するか、己の属する政体と引き比べて理解不能さのあまり過度に差別するかは、単にそのひとの主観的価値づけにすぎない。したがって国連や米軍その他いずれかの国、集団が、言動や象徴的表現などの抽象的次元や行動という具体的次元のいずれかまたは両面で、世界のどれかの集団自治を侵害する場合、このおこないは単に安全保障を破壊するだけではなく、内政干渉による侵略の害、苦痛のばらまきそのものである。日本国内で東京都民や京都府民、奈良県民、あるいは薩長土肥ら西軍が、大和王朝の萌芽がみられた飛鳥時代以来、天皇と共謀し行ってきた苦痛のばらまきも、この自治権侵害という大悪行に他ならず、これらの内政干渉を行った公害の程度に応じて、それぞれの国や集団あるいは個人は法的、倫理的制裁を業の次元で受けねばならない。

 結局、上述の自由に関する私的幸福とあわせみれば、単に私的趣味を追求する為の自由の程度と、社会保障は両立し得るのであり、自由は個人が他者に害をなさない限りの最大限の権利確保によって、保障は社会的不公平や自由市場における競合の結果生じたなんらかの不平等について最不利者へ最大の、比較不利者への累進的な調整による。因みに、最有利者への最大の負担、比較有利者への累進的負担の度合いは、それらを行ってもなお、それぞれの状態の最有利、比較有利が維持されていれば、十分なのである。自由人主義や新自由主義が誤っているのは、これらの最有利、比較有利さとは、他のより不利な人々と比べてのみ認知される状態なのだと知らないが故に、市場競争の結果生じる高所得や高収益性、高売上高、高株価、高生産性等の有能性についての指標を絶対化しているせいなのである。いいかえれば、最有利者や比較有利者が徴税され、その分が最不利者や比較不利者へ調整済みの状態でも、或る資本についてそれらの構成員らの順位付けが変動しない限り、保障の為の累進課税は十分行われるべきなのである。特に、所得格差の大きな状態では最不利者を含む比較不利者らがそうでない相手に嫉妬を感じ易く、この嫉妬感情は脳内では苦痛と区別されていない為に、何らかの努力や工夫の末にも到底匹敵しえないほど集団内での格差が広がりきっている場合に、不利な側が感じる苦痛は不幸の原因に他ならない。単に市場の問題に還元すると、管理価格の形成や談合、企業連合等で示される独占や寡占が進めば進むほど消費者利益もまた害されていくが、単に消費者に対する害だけではなく、競争相手がいない状態の優越企業は株主や経営者を主とした資本家にとっても、より投資収益率の高い投資対象をみいだす比較優位の機会を失うために、有害である。また政府の問題でいえば、世襲による血縁者支配や、特定の地域や家系、学閥などによる門閥支配がはびこっていればいるほど、公徳に欠けた人物あるいは無能な上位者が組織全体の有効性を害する場合が頻出するので、天皇や皇帝、王爵の位を含む公職世襲を廃止したり、地域、家系、学閥等の門閥による就職を無差別化する必要がある。他方で、公職の任期が長いほど腐敗し易い為にその期間を事前に制限するという法は、その集団で公徳の高い人物が単独か少数な時に、より不徳な人物が代位してしまう為、決して合目的でない。これは世襲や寡頭とも捉えられる前権力者の血縁者が優越して公徳的であった場合も含み、政治において役割を決める際に為すべきなのは、いかなる人物も公徳の質や程度に応じてその職に選ばれるべき、という厳選である。選挙や解職の手続きが滞りなく簡素化され、極めて公平公正な事が必要十分であり、これは多数支配の場合だけでなく、単独支配や少数支配の場合にも、王や貴族が何らかの手段で選ばれ、また辞める事がいつでも可能でなければならない。