茨城という名義に対する反応で、相手の品性がわかる。この名義へ差別的にふるまっている相手は第一に下賎で、第二に無教養である。我々はこの県、常陸国の偉大な歴史と尊厳を知っており、茨城に無礼を働く相手はそれをしらないのだし、よく知らない相手を軽侮や差別する時点で人格的に劣悪であるばかりか、もし知っていて非礼を働いているなら二重に悪辣だからだ。つまり、茨城という言葉は嘗て先住権蹂躙の侵略罪業を行った皇族閥を含め、相手の品格のリトマス試験紙に使える。
ブランド総研の田中章雄や、この会社の会員、そして東京マスコミは、非常に品性下劣で無知な人々だという事が明らかである。人品には貴賎がある。自分に劣る相手とのつきあいは自分に害がある。魅力度調査という母数集団の限られた疑似統計による虚報とか、傲慢な都内マスコミの都鄙差別に基づいて、負の後光効果から偏見をいだき、向こうから差別的に扱ってくる相手というのは、確率において先ず100%卑しく、愚かな相手に違いない。田中は特定都道府県を差別する確証バイアス情報でカネを稼ぐ、という極めて卑しい生業を行ったに過ぎないが、我々の側は長い間この不当な人権侵害と地域差別を受け、日々状況を観察し尽くした末、汚名を着せられるという一見した不合理とは逆に、我々にとってごく好都合な徳目をみいだすに至った。虚報の偏見に洗脳され易い無知蒙昧な差別主義者を、単に我々の出身地名、居住地名を表すだけで遠ざける効果があるのだ。その種の悪人とつきあうな、という自衛に、魅力度という確証偏見は確かに使える。事実、私の人生経験上も、茨城県に偏見をもち差別してきた相手は、例外なく卑賎で愚かな、つきあう価値のない人々だった。即ち、北海道、沖縄、京都や東京といった地域を偏見に基づきひいきしている人々も救いようがなく下劣なのだろう。
たとえこの種のテストの利用法をしらないとしても、無意味に差別してくる相手と自分からつきあおうとする鼓舞は無い筈なので、自然にその愚人卑人から遠ざかる結果になってきたのではないだろうか。茨城という言葉は天皇による人権侵害と日本人虐殺の史実という非常に独特の語源をもっているし、一般にはこの様な負の印象を与えかねない語源の名義を己につけはしないのであって、その事をも知らない相手が、或いは都内の悪意ある下衆なマスコミの偏見報道に簡単に染まって、無色透明な相手を罵るとしたら、天皇家同然に人の痛みがわからないばかりか罪なき人を殺害して驕る最悪の蛮族だという証拠になる。
今上天皇は弟に常陸宮という親王任国の慣例による名義づけをしたわけだが、水戸藩尊皇志士の多大な犠牲からなった近代化と対照的に、水戸学を悪用し水戸藩を踏み台にした薩長藩閥以後の茨城県域への皇室やその母体である日本政府からの冷遇ぶりは目に余るものがあるし、平成以後はネットで田中を含む西国移民や都民らが凄まじく悪意ある差別偏見を茨城へ持っている事も実証された。よって貿易を除けば下品な県外南蛮西戎とつきあう価値は無いことになるが、松陰や西郷、木戸孝允にみられた通り、一見敬ってくるようにみせかけ内情を偵察し、松陰や木戸は倒幕論に転向し水長同盟を裏切り、西郷は戊午・倒幕の偽勅を皇族閥に書かせ首都圏で内乱させるなど、のちに悪意を込めて平気で裏切って茨城に汚名を着せ、ありとあらゆる害悪を為す、という手の込んだ悪人も薩長からやってきた厳然たる史実があるわけで、単なる差別主義者より余計に、茨城を表向き敬ってくる面従腹背の相手は疑わしいと考えるべきだ。
たとえば国民主権と尊皇論は政教分離原則の前で二律背反し、或る場合に一方を取ればもう一方は取れないので根本から矛盾している。尊皇と愛民を国体論で統一した烈公と藤田東湖の思想が、松陰の中華皇帝風一君万民論の影響が弱まった戦後政府で影響力を回復し、象徴天皇という徳川時代の大義名分的な体制に国政はとりあえずおさまっているとはいえ、天皇皇族の政治利用によって公卿的な京都人寡頭政をめざす京都市門川大作・京都府山田啓二の両首長が省庁再編に介入している上に、松陰を神格化する長州閥原理主義の残滓である日本会議や神道政治連盟議員が再び天皇主権による帝国主義を復活させようとしている為、また事態は複雑化してきた。
茨城という名義は、黒坂命を含む皇族閥という飛鳥時代に大陸・半島から移民してきた一部の弥生人や任那人、百済人らが、先住権者の日本人を一方的に虐殺したという、天皇家の侵略罪業を表している。と同時に、水戸家が尊皇論を藩士へ植えつけた経緯として、殉死した尊皇志士がこの県では極めて多く、特攻隊員や皇道派の人々を含め、極大の自己犠牲による忠誠の証拠が山ほどあるにもかかわらず、今日の皇室含む日本政府や東京都・京都府京都市といった天皇を政治利用中の後援者、そして天皇制に依存し或いは神道に帰依する日本国民からの軽視、蔑視、差別がある、という矛盾した情報が読み込める。したがって茨城史を知る者にとってこの2文字の情報量は非常に大きいわけだが、何も知らない人にとって、この文字は「茨」という苦難に満ちた路程を意味する茨の道なる慣用句の他あまり使われないため、少なくとも日本では好印象をもって捉えられない傾向があるのか、悪解釈からの偏見や確証バイアスに基づく差別的汚名をひたすら着せてくる衆愚が続出するわけだ。
全てを鑑みると、 たとえ維新胎動を僭称し、奥羽越や徳川領、北海道と沖縄、他の東亜諸国を犠牲に幕末の内乱罪を美化する、薩長土肥の様に利己的なだけの明治右派であれ、たとえ弥生時代以後に日本人を奴隷化してきた中国移民の天皇家であれ、又その手先であった全華族やその末裔であれ、これらの人々は過去から現代に至るまで自分の事しか考えていないし、他人に害悪を与えて平気でいるばかりか逆に貶めている性質の人達であり、その種の利己主義者が飛鳥時代頃から徐々に全日本を王朝とか宮中とか殿上とか幕府とか政府とか宮内とか名乗る暴力団の集まりから支配正統性の偽装で洗脳してきた。これらの人々について脳科学的には遺伝子上、線条体ドーパミンD2受容体密度が低い(自己優越の錯覚をもち易い)とか、共感知能が低いとか、教育上、利他主義が軽視されているとか、天皇家や公卿公家、薩長土肥のやった悪事を合理化して教わってその洗脳を批判できていないとか、色々な理由があるだろう。またこの洗脳を受けて平気でいる日本人衆愚のがわには、脳のセロトニントランスポーター数が遺伝的に少なく常に不安を感じ無意味に群衆化し易いとか、それに加えて受けた教育上、数の暴力や強弱を善悪と誤認し易いとか、弱肉強食や勝てば官軍を信仰していて善き敗者とか、負けるが勝ちとか、判官びいきを理解し辛いしその立場にたとうとしない、また事大主義の傾向があって当時の政府や権力者、多数派に媚びを売るとか、そもそも卑屈だとか、こういう性格的傾向があるといえるだろう。
我々が茨城という烙印によって相手のもつ内心の反応を分析し、見分けられるのは、冒頭に示したよう、これら下品で日本史に刻まれた過去の経歴が悪い人々か、それとも、冷静で科学的にわが県の事績を踏んで貴族的に我々と接する相手か、あるいは、悪意をもってわが県の内情を探るつもりがあり、将来にわたっても裏切る可能性がある相手か、である。法則として、茨城という言葉に対する反応が
1.差別的な時 → 下衆
2.中立的な時 → 無知な人
3.敬仰的な時 → 知識人
4.敬仰的かつ卑屈な時 → スパイ(あるいは裏切る可能性がある人物)
といえるかもしれない。ここでいう卑屈とは、相手が自分から下手に出てくることだ。自ら卑屈にふるまう事を心地よいと感じる人は先ずいないので、敬仰的かつ卑屈なのはその態度が下心を含むと示しているし、本心では見下しているからわざと卑屈にふるまって相手の弱点を探ろうとしているか、面従腹背で相手を侮っている、つまり慇懃無礼か、いずれかである。松陰や西郷はこの種の奸賊で、弘道館で藤田らに教えを請う卑屈に思えるふるまいの後、わが県に及ぼした災いは最大だった。150年もこの二者を寛容の精神で水戸藩士がもてなしてしまった災厄は続いているのだ。
おもてなしだの観光立国だのが、己の権力維持の為アメリカへ媚びる円安誘導目的の安倍晋三や、賄賂五輪の東京都、古都誘客の京都から唱えられ、財政基盤が脆弱な各地の自治体も同調する傾向にあるが、わが県の経験則からいえるのは、招かざる客がもたらす災いのすさまじさからいって、決して非選択的な来訪者歓迎はよい結果を伴わないと確信できる。日本含む世界には悪意ある人物、根っから性悪な人物が数多いて、天皇家や皇族、原発をもってきた都民、薩長の人物がそうであったよう地域破滅の原因になる。我々は北茨城市や茨城県に公益をもたらす人とのみつきあうべきで、上述の分類によれば、少なくとも平成日本で最多なのは下衆、次が無知な人であり、知識人はつくば市があるとはいえ相対的に数が少ない。裏切る可能性がある人物という意味では自民党の国会議員や皇室が現にそうであるし、実際に隣県の状況をしりながら原発再稼働を推進したり、差別主義者のたかる中華思想の都内から暴利して何一つ還元せず、わが県民を裏切り続けている。上述の分類ではスパイが最悪であって最も気をつけねばならず、我々にもたらす災いを考えれば、最大限排斥されるべき相手である。次が下衆であるが、この人々はもともと偏見や無知を悪意で糊塗する卑しい連中であって、そうであるからには進んでわが県に用はないから、観光業にとっても好ましい客でなくわが県を訪れるだけ害悪である。そうすると我々が集客するべき標的は、第一に定着と観光どちらについても我々の公益になる可能性が最高の知識人や教養人であり、第二に無知な人である。ただし、無知な人だけでなく知識人の中にも道徳心がなく利己的なだけのスパイに転化する者もいるので、結局、集客フィルターは誰に対しても必要だ。既に田中や都内マスコミによる洗脳下の下衆は最初からつきあう相手としては元より集客対象から外すべきだが、それ以外の人々については、卑屈で利己的な人物かどうかを見分けるのが重要である。端的にいうと、卑屈な態度で生きている人は人格的に劣悪であって、利己的な人物がわが県についてある程度より知識を持っている状態のとき内心を隠すため慇懃無礼な態度をとる筈だから、この点で疑わしい相手を遠ざける事がとりあえずのフィルターになる筈だ。たとえば大政奉還を記念しながら水戸市はじめ、行方市、北茨城市を呼ばなかった現京都市長は第一に下衆か無知であり、第二にこれから何かを調べてがわが県を訪問すれば先ず確実に慇懃無礼な態度をとる事だろうが、この卑屈な態度をとる人がわが県の為になる可能性は万に一つもなく、却って自分の事しか考えていない証拠である。従って専ら呼ばずばこまいが、例え機会があってもこの市長はつきあうべきでない相手、自ら忌避し、遠ざける必要がある相手なのが明らかである。
又上述のよう便宜的分類をいくらしたところで、相手が完全に理解できるものでもないから、我々にいえるのは誰とでもつきあったり、誰でもいいから集客しようという考えは一切捨て、品性において我々以上の人物にのみ親しむべきだという事だ。