2017年10月9日

茨城の寛容性について

 悪意を持つに至る道徳的知能の欠陥も含め愚かな自県民より、道徳性含めて賢い移民を帰化させる方が、次代の茨城を善くするだろう。逆に不道徳で愚かな移民の帰化は、道徳的かつ賢い既存の自県民より有害だという事になる。またこの特定の賢さ以外の特徴(例えば美しさや何らかの才能、財産、その他のスポーツの才など)についても、茨城県のその県民以外の人々に、できるだけ功利的に有益な人が、すなわちよき県民なのだと定義しよう。
 この功利的な観点は県民と非県民の間で人種その他なんらかの点に基づいた排外主義(いわゆる攘夷論を含む移民排斥や、京都や東京にみられる類の自文化中心主義的な中華思想)を否定させる。と同時に、非功利主義的な観点からは、茨城人を、単に人に役立たないからといって差別するべきではない事がわかる。それはその人がよき県民でないにせよ生存権をもっているからだし(国政の次元で死刑が廃止できない期間はそれ以外の場面について)、無為の為によって救われる面もあるかぎり全てのよさについて或る個人なり集団が断定できるものではない。
 結局、茨城県民は出身や、人種、何らかの慣習を持つ集団としての民族、国籍に関わらず、県民に功利的な人に関係し、帰化なり定住を求めるべきであり、そうでない人についても、自県に害がない順に、寛容であるべきだろう。