最初に結論を述べると、
1.魅力度調査は主に、県外国民の調査対象者にとって憧れの観光地という意識度である。
2.したがって対象者含む大衆一般に訴える、傑出した県内観光地を国内へ伝達する必要がある。
3.観光地化の副作用をかんがみると、この場所は県内一か所に集中するべきである。
4.まずはネモフィラの丘を茨城と完全に紐づけ国内に宣伝し(茨城の丘と改名するのも有効か)、さもなくば大衆観光地を作るしかない。
5.我々が魅力度差別で学びうるのは、虚報の分析による問題解決そのものである。
上記の抽出について、以下に詳述する。
重農主義や農本主義を否定し、重商主義や資本主義を妄信する、という平成日本人の一般的妄信は、明治期以来の富国強兵論を継続的に狂信する、薩長イデオロギーに原因があるといえる。この考え方は天皇家のいる東京を中央政府、つまり中華と考え、そこに近いほど上、そしてそこから遠い農村を収奪対象として差別的に侮蔑する、日本的都鄙差別の直接的起源の一つである。そしてこの薩長イデオロギーの奥にあるものは、水戸学から松陰や西郷が薩長の利己の為に剽窃した神道原理主義である。天皇を神格化し、天皇に近い存在ほど上で、そこから遠いほど下と考えるこの狂信的民族宗教は、近くは首都圏北部への全国からの魅力度差別や明治から昭和にかけての日亜侵略をもたらし、遠くは弥生時代以来の政教一致による天皇独裁政をもたらしてきた、と仮定しよう。
2018年3月4日付茨城新聞の論説で、蓮見孝氏は謙譲の美徳を無視し、自慢という反儒学的な言行を茨城県民へ勧めているが、江戸時代以前の本州・徳川文化、武士道とは異質な北海道に儒教的価値観が根付いていないのは当然だし、逆に謙虚や謙遜を美質と考えるだろう常陸国水戸の後継が君子の道ではない自慢をする様に退化すると思うのも、文化人類学的に間違った見解だと思われる。『論語』で孔子がいう「君子は人の己を知らざるを憂えず、己の人を知らざるを憂う」を実践しているからこそ、日本国民にすら茨城県のもつ数多の美質は有名でないのであり、烈公が積極的に蝦夷地開拓にのりだし間宮林蔵が最北部まで測量した史実をあわせみても、今日の北海道民が屈託なくお国自慢に耽るのは、儒教的徳目を未経験なうぶさであり、また異なる文化だというべきだ。
上述の天皇制的華夷秩序とあわせみると、北海道と沖縄は首都圏から遠く、東京や京都という天皇家在住や遺跡を誇る中華思想的な場所から離れているにもかかわらず、日本の平均的な民衆一般から魅力があるとみなされている。つまり、これらの事例と茨城や福島の置かれた状況を鑑みれば、平成日本人の刷り込みには、明治から平成にかけての薩長藩閥と天皇家の体制による、徳川派支配地への印象操作や差別や偏見による迫害を通じた事実上の国民弾圧があると仮定できる。日本人の無意識にある薩長イデオロギーと神道原理主義が、天皇制を通じて、茨城県民という徳川御三家からの専制支配に遭っていた民衆を、更に痛めつけ差別している、というわけだ。これがブランド総合研究所・田中章雄による、日本国民の一部の意見を抽出した、魅力度差別の最も根底にある原因だと、仮に考える事ができる。客観的にみて、茨城県のもっている観光や居住における価値は十分高いものがあるからだし、もし日本国民一般が首都圏北部やこの県の美質について無知だとしても、本質的原因は別にあると考えるのが妥当である。ランキングが変動しないのは一定の偏見や物の見方に関する盲点を、日本国民の調査対象者らが維持する方が快適だと考えているからであり、いいかえれば茨城県を筆頭に、栃木、群馬、佐賀といった地域を見下げて、低価値とみなし差別し続ける事、それと対照的に北海道、沖縄、京都を見上げて贔屓し続ける事が、それらの調査対象になっている日本人らの或る願望に合致する、としよう。しかしここで佐賀県という薩長土肥の肥前国の末裔が登場し、薩長イデオロギーと矛盾をきたす。つまり、徳川派迫害や薩長史観はこの魅力度差別の直接原因ではない可能性がでてくる。
魅力度差別願望の元凶を掘り当て、その患部を完全に治癒しないかぎりは、茨城をはじめとしていずれかの都道府県が田中章雄一派に扇動された衆愚から深刻な被害を受ける事は必定だ。上述の分析から新たに提出できるのは、日本国民一般は大自然や大都市ではない、田園や郊外の風景を見下げて差別しているのだ、という仮説である。現実には大規模な郊外型店舗が小さな商店や職場としての工場と共に遍在する中小都市は生活の利便性に長けているだろうし、人にとって過ごしやすい程度に整えられた田畑や里山は単に生産的で多機能面で人間を守っているばかりか心を癒す調和的環境であり、人の手の入っていない極端な大自然や、逆に満員電車や物価地価の高騰しているまずい水や空気の悪さが特徴の過密都市より、生活の為に魅力的である。このことは、茨城県守谷市、茨城県常陸太田市がともに、民間調査で住みやすい街、住みたい田舎で1位を得ている事から、統計面でも一定の信頼度で実証されるはずだ。よって前の橋本昌茨城県知事が、ブランド総研の魅力度調査は観光地としての評価であると仰っていたが、この分析が最も的確だったということになりそうである。
最終的にいえることは、魅力度調査とか地域ブランド調査いう名前をつけられているが、諸々の背景と結果から分析すると、このブランド総研による調査は観光地としての魅力を日本人民衆の一部にききとるものだというわけである。前知事は生活大県をめざし、茨城県民自身の幸福を最大化しようと考えていた。だからこそ、県外人にとっての観光先としての茨城を後回しにする結果をもたらし、これが我々自身の生活空間としてのわが県の盲点になっていた、と結論づけることができる。この仮説を大衆的観光地不足仮説、あるいは単に観光地不足仮説と定義すると、茨城県がとるべき対策は次のような事だ。
第一に、京都市民がふえつづける観光客にある種辟易し、実際に犯罪率増加や交通問題等がおきてきているだろう事、また所得面からみれば北海道や沖縄が殿様商売のごとく努力なしにやってくる観光客へ収入依存状態になっている一部の業者がいるだろう事、という観光地化に伴う暗面をあわせみると、これまでと同じく、茨城県民というこの地域の生活者にとって最善な、世界一幸福な県をめざす事が大前提でなければならない。確かに魅力度差別を受け続ける事は不愉快であり、この種の心無い偏見は誤解や悪意に満ちているから、県内外の衆愚をますます増長させるし、そもそもマズロー欲求階層でいう承認欲を既存の県内観光について無知な人との話題や観点において君子道徳式の自己抑制による合理化でしか満たせないので、自己満足にとどまるというある種の貴族的ないし高潔な態度が県民全般に要求されてしまうということだ。もし蓮見氏の述べるよう北海道民がそうしている風に、素でお国自慢でもしようものなら、県内外の東亜人一般はやたらに自慢される事への武士道的・儒教的解釈から多かれ少なかれ相手を軽蔑すると思われるし、むしろ相手を知ろうとする意欲をなくしたり、ますます差別するかもしれない。日本国の本州文化ではいまだに謙虚が尊ばれ、あまりに自慢する自己中心的な人は有名にはなっても、決して好意で遇されるとはいいがたいのが現実であって、この面ではある程度似た謙譲の美徳が存在するイギリスの中上流や儒教圏の読書人階級の様な特殊な例かもしれないが、必ずしも全人類的に謙遜が無意義とはいえない。卑屈の対義が傲慢で、中庸が謙虚であるとすれば、我々茨城県民がこれまで水戸徳川文化を通じて涵養されてきた儒学、水戸学、武士道を通じた謙遜という特質は、なるほど今日世界的にまれであるにせよ、今後も維持されるだけの道徳的完成度があるし、聖価値が十分にあると自分は思う。
第二に、我々は既に幾多の観光地をもっているし、長く住んできた県民自身はそれを多かれ少なかれしっているが、これらが県内外の日本人、特にブランド総研の調査対象者になっている数百人にとって競争相手である他都府県に比べて魅惑的ではない、というのが、問題なのである。ターゲットとなっている調査対象者であるブランド総研会員をブランド総研自身が公開していないので、我々がとれる対策はまずブランド総研に対して何らかの手段でこの会員を具体的にひきだし、その対象者が好む観光地の傾向を探り、それにちょうど適合する観光地を県内につくりだしてそれらの人々へ鼓舞情報を植えつける事である。もしこの対象者を直接知るすべがないなら、ブランド総研自身と契約し、カネの力で直接伝えさせる事が次善の策かもしれない。そしてこれらが不可能ならターゲットを具体化できない為に、最も非効率的になるが、最後の手段として調査対象年齢になっている全国民から満遍なく憧れる観光願望をひきだし、その理想を茨城県内に移植実現すること、そしてこの観光誘客の情報を全国民へ最大限ばらまく事である。
第三に、観光地づくりにあたっては、県内の或る地点に集中するべきという事である。もしかすれば、SNS拡散効果を企図し、写真写りのよいネモフィラの丘だけをひたすら美化し喧伝する事で十分なのかもしれない。この地点がかつては県民への事故被害が起きた米軍基地だったのであり、県民自身の自主的な返還運動、そして徹底した美化の努力によって今日の美しい姿をとるに至った、という物語伝達も日本の若年層の傾向である右傾心情に訴えかけるだろうし、米国を含めた世界中へも茨城県民の望む万民の為の平和と幸福の象徴として有効であると考える。県民からの働きかけでここを「茨城の丘」と改名する事も有効である。茨城の由来になった天皇軍による侵略被害の悲劇から、復興と平和への願いという同じ文脈にこの負のイメージをもつ名義を忍び込ませることも、何らかの工夫でできるかもしれない。その理由を以下に詳しく述べる。安倍政権の行っている全国観光地化政策の実態は米国への媚びを目的にした円安誘導を正当化する事であり、実質的には、製造業にせよ観光業にせよ日本を外人に安売りしているのである。これによって日本全体は貧乏になる。製造業が国内産業に占めるGDPの割合は全体の20%と決して多くないし、それどころか日本のGDPの7割以上が内需依存、つまり今の日本において円安の恩恵を受ける輸出がGDP全体に占める割合は少ないからだ。結局なぜ安倍晋三がこの方途をとるかというと、米国に媚びを売る事による権力保持と、株価つりあげとあわせて期待される経団連からの献金が目当てなのだろう。また観光業を主要産業にしている地域は、北海道、沖縄、奈良、或いは京都にみられるよう一般に所得が低い傾向にあり、(奈良は大仏商法といわれるよう)向こうからやってくる客を次々よびこむ歴史遺産を飯の種にしていると産業開発の努力を怠る傾向もでてくるのだろうから、別要因もあるかもしれないがギリシアの様に財政破綻した例すらある。フランスは世界一の観光国だが、観光業を主要産業にするつもりがある様には見えないのであって、それは賢明なのだ。つまり、今の茨城がそうなるようにはみえないにせよ県内産業全てを観光に依存するほどの観光推進の行き過ぎをはかれば、副作用として治安悪化、周辺を外来者がうろつく事の心理的不安、マナーやルールの違う国々から来た人や旅の恥をかき捨てる人々からごみを捨てられる事による汚染(毎日山ほどのごみが捨てられていくパリに顕著である)など、複数の問題が生じうることだ。農地は繊細だからこれらから致命的影響を受けやすいので、日本一の農地面積・農家数をもつ県として、観光地づくりの副作用を他人の振りから最初に勘案して後に、県内の特定地点、特異点にこの施策を集中するべきだということだ。また魅力度調査の対象者は決して教養人に限定されるものではないので、六角堂、弘道館、偕楽園、西山荘、筑波山などの歴史学的な好奇心に訴える貴族的観光地は、世界遺産にするには十分有効かもしれないが、卑俗な趣味にすぎない大衆一般を魅了するには不適格だろうということである。この点からもネモフィラの丘をひたすら前面に出してインスタ映えしたがる通俗勢を席捲し、更にこれを超える観光地を、県内特定地点に絞ってもっぱら開発すべきということである。ネモフィラの丘は国立公園内にあるから、あまりその外を汚す心配もないし、ごみについては国税で処理されるので安心できるが、何らかの働きかけでこの観光地を保存しなければならないだろう。つまり、一か所に絞って外部に出ないような観光客隔離政策が、県内観光地の開発にあたって前提的である方がよいというわけだ。ちなみに県内の観光業者とは別の話だが、我々自身は生活するうえで県内の観光地について特に不満に思ってもいない事が県民世論調査からもわかっているのだから、田中章雄とブランド総研という汚名やスティグマ、風評被害をばらまく差別発生の元凶が死亡するなり倒産解体されれば、その時点でまた我々の幸福に対する価値観を再点検するべきということになるだろう。飽くまで茨城県と茨城県民への田中章雄による魅力度調査を種にした差別を防止し、我々の名誉と承認欲を多かれ少なかれ害する結果を招かない為の便宜的な観光地づくり対策であり、その目的が我々の幸福と相反しないよう、また将来にわたって合理的であるよう考えるべきである。
最後に、これらの対策は茨城県自身の問題を直接解決する可能性があるに過ぎないが、田中章雄とブランド総研が倒れない限り、将来にわたって別の都道府県へ東京からの報道を通じ次々魅力度差別が起き続けることから、わが県民が非常に長い時間をかけてあらゆる状況を分析し、全県民の知力と行動を尽くし試行錯誤によって問題解決をしようとしてきた経験は、今後も虚報やポスト真実による被害を受けていく全人類にも重要な勇気を与えるであろう。我々が受けた差別を解消できたら、その後も、悪意ある無知な民衆や虚報から差別と偏見の被害に遭い続けている全人類へ、我々のしてきた経験則から何らかの助け船を出せるよう我々自身が成長できるかもしれないし、それこそが田中章雄のもたらした魅力度差別に打ち勝つ事で我々が得た最大の経験値になるであろう。