2018年2月21日

安倍独裁下での茨城県政論

 アリストテレスのいう部分的正義について平成の現在にあてはめて解釈すると、配分に偏り過ぎた拝金主義や自由人主義(libertarianism)、調整に偏り過ぎた労働主義や生保主義(生活保護主義)はいずれも合目的ではない。配分と調整の両極をもちあげた中庸、即ち調和といえるのは、民社主義や社民主義だといえる。民社または社民主義による高福祉化にあたっては、官僚制の弊害を避ける為、民営化が同時セットでなければならない。
 また以下にその理由を詳しく説明するが、非正規雇用法の撤廃あるいは改善によって、非正規労働者の方が正規労働者より給与が高くなるよう企業に義務付ける事が第一に必要な施策だろう。なぜなら、非正規雇用法を通した小泉政権と、その後裔としてさらに金融緩和を非正規雇用法撤廃より先に行い中流没落を招いた安倍政権を主とした自民党が、平成の日本経済及びその百年の計たる国政に深刻な失敗を招いた第一原因である。一言でいうと自民政治が失敗しているわけだが、その理由の最たるものが、アメリカかぶれの竹中平蔵が新自由主義を小泉・安倍両政権下で日本に導入しようとし、先進国でアメリカに次ぐ相対貧困大国にしてしまった上、社民的福祉化も社会主義への偏見や、麻生・安倍という皇族閥の既得権益維持の為の保守信仰、または安倍の親米的保身によって怠ったので、国民全体の低所得化によって人口減少による国家衰退が決定的になった事だ。竹中はパソナグループによる人材派遣業で政商としてしこたま儲けたが、途中で自らの政策的失敗に気づき北欧を称賛しだすころまでおこぼれ理論を本気で信じていたのである。
 2018年段階で安倍独裁とその支持者達は日本の拝金化を極端に進めているが、それは経済ではない政治の調整的役割を理解していないからであり、いいかえれば彼らは調整的正義を認知しない衆愚だといえる。拝金は社会的不公平を拡大し、多数を占める人々の相対貧困化を進め、低教育・低教養の蔓延は階級移動を妨げるので、民衆一般に客観的幸福度が低くなる。安倍政権下で日本国内衆愚中に結束主義的愛国心の強調が見られるのは、批判的思考の欠如からくる無思考と生得的に少ないセトロニン・トランスポーター数による不安脳の故に自己目的な群衆化の確証偏見を強化してしまうと同時に、北朝鮮・韓国・中国の軍事的脅威を強調する安倍の仮想敵扇動による独裁権力強化の作戦から更に不安脳を煽られているからであろう。つまり、平成の労働者達が安倍独裁下での拝金的な格差拡大政策が彼らに不利で彼らの信じる労働主義と対立しているのに肯定するのは、およそ、独裁者を結束的に狂信する事が最も複雑な社会状況を考えたり、社会批評的に解析しなくて済むからである。 平成末期はこの様な衆愚政状態だったと後世に知らせる事は有益だ。幕末から明治に薩長土肥、京都、芸州(広島)等の西軍が松陰の無政府的侵略主義に染まり、天皇が帝国主義を狂信し大規模な内乱・侵略罪を働いた事を、東京以西の西南地方が美化しだす時、そこには覇道、即ち権謀術数主義による暴政の絶対化が必ず含まれている。これらの西南地域の民族は、弥生時代以後にユーラシア大陸の中国江南地方界隈や朝鮮半島から移民してきた弥生人と言われる人々の末裔が主だが、この人々は元来が日本侵略によって生存圏を得てきた歴史を罪悪視しておらず、究極のところ暴力による野蛮の勝利を経験的に信じている。いいかえれば、西南地方から東京地方の人々は一般に利己を利他より、善悪より強弱を重要と考え、縄文時代以前の日本における、およそ身分平等な原始共産制を経験していないので、社会的公平や正義に基づく徳政が存在する事や、その功利性、福祉性を信じていないのだ。安倍晋三の様に、東京生育の長州閥を自称する人物が独裁政、社会的不公平や違憲行政を拡大する暴政や悪政と呼べる不正の数々を行っていても、それを疑問視しないどころか協賛する西南地方の民衆は、弥生民族としては天皇を教祖の神輿とした、弥生人達の長による絶対政治が行われれば、その内容より形式に満足するのだと理解できる。特に、西日本の右派の中で、尊皇主義者慶喜の天皇への禅譲を徳川政府の自己敗北と解釈し内乱を起こした明治時代を理想視する薩長土肥らの自己過信によって、この天皇を玉として担いだ長州閥独裁原理主義は極端になっている。西日本の民族にとって、内乱・侵略罪を起こした明治時代は、日本征服あるいはアジア侵略の成功体験と解釈されてしまっている上に、それを単なる利己的・害他的な植民地主義のなせる、欧米の傀儡としての内乱だったとか、アジア同胞を裏切った我執の誤謬だったとか、神道原理主義による狂騒的な混乱だったと反省する理由は、西南地方の人々にとっては存在しない。東京都にとって、今日の天皇制を正当化する事は、都民の権威を強化すると想定されており、この薩長史観に沿った司馬遼太郎の小説に殆どを拠ったNHK大河ドラマの歴史解釈の構造をみればわかるよう、西軍正当化と徳川時代における新渡戸的武士道の否定、東京の成立は一体化している。九州地方大分県から江戸・東京へ出てきた福沢諭吉が薩長幕府たる明治政権の成立後に、『脱亜論』で欧米崇拝と中朝蔑視を述べた事は、薩長藩閥の残滓たる安倍独裁を支持する右翼の中でいまだに生きている。しかもこの明治イデオロギーは、CIA諜報だった岸信介の孫としての安倍の従米的意図との協働で、沖縄への負担をはじめとした在日米軍の脱法的間接統治状態の維持強化や、安倍の生育した東京を除き東北・東日本一般へのTPP押しつけでの農業冷遇、更に武士道に基づいて徳川擁護に回った会津を主とした福島県で安倍が検査を怠らせた結果起きた原発事故からの復興の無視と対比的な安倍の生育地東京での賄賂五輪といった権力濫用をもたらしている。端的にいうと、安倍晋三という人物は、同じく長州閥を気取っていた菅直人と同様、山口県の毛利が西軍の大将だった戦国時代以来の、戦国の最終勝利者たる徳川統治下の社会への復讐心、幕末から明治にかけての侵略・内乱罪の暴政正当化、そして戦中戦後に岸以来の対米追従による自民党内外での長州閥独裁権力の維持、またそれらの根底にある吉田松陰『幽囚録』で示されているアジア侵略による植民地主義、これらの意志傾向をもつ長州閥原理主義者なのであるということができる。なぜこの人がそれほど絶対的な独裁権力欲にこだわるかといえば、この長州閥原理主義を正義と混同しているからである。社会をよりよくする為の政治とか、政治学的な知恵に基づいた行政という考えは、安倍という人の中ではかけらもない。それ故に違憲行政を平気で行うし、立法の長と自称して恥じず、反長州閥的な国民を徹底的に冷遇し、独裁権力を妨げる追従者すら冤罪にかけて罪とも思わないのである。一言でいうと、幼稚な上に狂信的なサイコパスなのだろう。安倍と麻生は、一度政権から転落し、絶対的独裁者になり続ける事でしか、祖先崇拝を満足させる自己血統崇拝の自尊心を、それは自称名門の虚栄心なわけだが、保つ方法はないと考えたのだろう。しかし、問題はこの狭量な祖先崇拝を通じた自己愛しか目的のない精神病質を首相に仕立てている日本国民の一定数であって、それらの人々は消極的な理由で自民党という多数派政党を支持しているが、実際には明治寡頭政の美化と当時以来の犠牲の隠蔽という西日本人の利己心と悪意ある弥生民族主義者の右翼に欺かれているが、それに悟って自己修正するほどの知力も公徳に関する意思もない。父たる裕仁の敗戦がトラウマの明仁は起こりうる侵略戦争可能な安倍新安保法制下での戦争、または戦争憲法下での戦争責任逃れの為か、違憲立法を命じて、天皇が政府以上の独裁権力をもつ真の独裁者であると示してしまった。それは明仁が宮内庁経由で鳩山政権下で内閣の命令に背き、当時の民主党内の小沢一郎の国事行為解釈に苦言を呈するばかりか、宮内記者会経由で小沢を冤罪にかけた時点で、多かれ少なかれ見え隠れしていた事だが。結局、平成衆愚は天皇明仁から安倍内閣の全員、また自民党から右翼まで一貫して、長州閥原理主義に洗脳された、勇気や政治理解のない集団だった。大阪等の大都市に北朝鮮スパイがスリーパーセルとして潜在しているという確証のない流言をテレビ番組でばらまきつつ安倍独裁に媚びを売る発言で売名する東大閥の御用学者とか、安倍昭恵夫人と親密になる事でネットメディア番組で対立政党の党首を私的かつ無礼な質問で公に侮辱して右翼の下卑た歓心を買い売名する慶応卒の御用学者とか、或いはもっと酷いもので共謀罪において多少の冤罪も仕方ないといいながら安倍独裁にテレビ番組で媚びを売る大阪出身の人気お笑い芸人とか、こういった南蛮人或いは電波芸者は単に独裁者へのすり寄りを売名の道具にしているというほかないが、日帝下での狂ったような独裁政礼賛の結果、亡国致命傷の原因になったのと同様の連中が、衆愚の無思考や群衆化したがる不安脳の結束的狂信を更に煽る、これらの学歴や経歴をたねに保身と売名を図るべく徹底的に政権称揚していた衆愚扇動者だったのを記録しておく。
 今後、社民党が与党になる時まで、国政の迷走は続き、衆愚は安倍独裁下での長州閥原理主義がもたらす不幸な格差社会と天皇制・官僚制の腐敗にまきこまれていく。だが労働者階級は無教養や、政治学的無知によって無思考に陥り、御用学者やテレビ芸人といった連中を通じ、この傾向を東京政府権威化の道具とする都内スポンサーに牛耳られた都内マスメディアからの扇動もあって、安倍の導入する移民と進む非正規労働者への置き換えや人件費削減の為の低賃金化の元で競合する。特に、ゆとり世代といわれる、削減され簡易化された義務・高等教育を受けた20代~10代後半の人々は学業成績が国際比較及び他の世代との比較で低下しており、媒体偏見に対する批判力が弱く洗脳され易い上に、大多数が2chまとめサイトを通じた匿名ネット右翼暴徒を仲間と見なし共感しており、世界の政治体制に無知である上に、実質的には軍事占領された属国だが単純に世界一の先進国と思っているアメリカ追従を理想視している。この為、自己の能力を過信する人々にあってはビル・ゲイツやウォーレン・バフェット等の億万長者やドナルド・トランプを頂点とする拝金が、自己の能力を卑下する人々にあっては無職やニートを自尊心の為に差別する為の同調集団としての労働が、又これらのアメリカ追従的人生観を満足させる為の自民党閥及び安倍独裁の狂信を通じた愛国主義が、ゆとり世代の信仰におきかわっている。そのうえ彼らは長州閥原理主義や薩長土の征韓論を通じ、またネット右翼を同類とみなして、明治寡頭政からの侵略被害を受けた中国や韓国、北朝鮮といったアジア諸国を、差別対象にしている為、この愛国主義を強化する民族主義や人種差別が当然だと考えている。敢えて不幸を増産する存在とみれば、これらのゆとり世代の人々の大多数は若害である。しかし日本はこれらの必然的な革新に対して反動的な存在の存在如何に関わらず、少なくとも安倍独裁や自民党閥が解体されたり、その明治主義の本体ともいえる天皇制の瓦解などがない限り、やはり急激に衰退していくであろうし、ピケティがいうようその日本滅亡の傾向は既に決定的なところまで進んでしまっている。仮に、安倍自民が移民によって欧米の模倣を図っても、右傾したゆとり若害との間で、低学力地帯としておもに東京以西の西南地方で民族排斥の憎悪や、暴力団の多い九州界隈では暴徒による内紛がくりかえされるであろう。アメリカは世界最悪の相対貧困国として反面教師だが、日本の衆愚には相対貧困の概念が理解できず、途上国最低級の貧困と、日本人貧困層を比較し自国贔屓の虚栄に耽る事で米国風の資本主義を妄信し、資産の二極化を合理化しようとし続けるであろう。
 では日本国の近未来はすべてが絶望的なのか。対策といえるのは、地域連合や、県の単位に連邦的権限を最大限に復権させる事である。我々でいう常陸国の単位で、或いはそれより小さな市町村の単位で、賢明な体制を実現していく事だ。日本国という明治イデオロギーの単位を否定する事はその第一歩として、必須だ。自由人主義は政府の最小化をはかり、調整的正義を無視する点で、決して理想的ではない。だからおもに資本家が、この考えに基づいて遊牧的に租税回避地へ資産を移動させたり、自ら移住したりして政府から逃れようとする事は必然だとしても、現実的に可能なのはサンディ・スプリングス市の様な政治業務の民営化である。それと同時に、地球規模でいう国連や、国の単位から、この自由人特区に何らかの徴税が図られていきやすいのが当然ともいえるから、結局、ある地域住民の中央値的富裕さが、その周囲と比べ大きく富裕な時により配分的で投資・自由人的、逆に周囲と比べ貧困な時に調整的で生保・労働的になるのであって、これらが生じるわけは、おもに地域住民の一般的な金融literacyである。北茨城市や、茨城県がいかに年少或いは時代的に早期からの金融教育を重視するべきかがこれで理解できる。縮小していく日本経済下で生保や労働を保つのは容易ではなく、何らかの資本収益がその財源となるだろうことは疑いようがないからである。尤も、仮に超拝金的都市が生まれても、我々はそこを理想郷と見なす事は恐らくないだろう。人類の知能には生まれつき何らかの偏差や特性が生じるし、ほぼ全構成員が金儲けの巧い人でできている社会より、単に多様性の高い社会の方が、行動や考えの偶有的な組み合わせによって発展的になりうるだろうからだ。調和的正義が十分に実現された社会とは、構成員の何らかの特徴について中央値をとったとしても、認容される個性の幅の裾野が極めて広いままで成立している世間であって、単に資本家らが租税回避的な利己心の為に集密しただけの地域ではないのであろう。今日の茨城県単位で、或いは最低でも北茨城市の単位で、国政における長州閥原理主義者達や、自民党閥からの影響を最小化するか、緩和しながら、拝金や労働に偏らない社民化をはかる事、しかも官僚の天下りなど行政との癒着を避ける民営化を前提に福祉の向上をはかり、県民市民に対しては金融教育の早期実践を行い、投資収益率の高い生業へ自由人を集中させていく事が、維持できる社会として日本亡国から常陸国を救済する道のりである。現状の我々の国の致死的な欠陥は、安倍独裁下では特に、貧困層への冷遇や、皇族閥の優遇といった資産格差に基づく身分差別によって、国民一般の生存権が蹂躙されている事だ。生活保護の権利は腐敗した行政によって完全になおざりにされ、それどころか、変死扱いを煽る警察とつるんで多くの貧民が国家単位で集団自殺に追い詰められている。中国大陸からの移民としての天皇は飛鳥時代以来の傲慢によって、国民を納税奴隷と見なしこの状態を変える気はないどころか、自らの子孫をのみ人種的に優遇する。原発を田園部に設置し、そこで暮らす我々の生命と財産を害し、皇族閥の暮らす都市圏や、商業圏から退けて恥じないのも、神道邪教祖としての天皇の中華思想の為であり、或いは金満的商人の害他的で貪婪な我執の為であり、金権政治に陥った皇族閥と自民党閥の癒着の為である。これらの県外勢力の影響を、茨城県民は自らの安全を守る為の強い独立心と誇りによって完全に排除しなければならない。東海第二原発を茨城県内に立地させ再稼働までさせたがっている日本原電は茨城県の会社ではないし、その資本は全国の電力会社の物に過ぎず茨城人のものではない。即ち、これらの県外人達は、茨城県民の命を犠牲に、自分のカネを儲けようと言うだけなのである。この事は、自らの子孫の地位と権力の永続的維持にしか目的を持たない天皇家についても同様だと断定できる。