2018年3月17日

産業や芸術文化の振興面からみた基礎所得論

 観光振興も過度なら観光公害をもたらすし、そもそも観光依存度の高い地域は土産物を除けば高付加価値品を販売できない為かGDPと負の相関傾向がみられるようだし、北海道、沖縄、京都、或いは東京という大衆観光集客を進めている地域は、反面教師という面も大きい。単に観光業という意味では民間によって、できる限り、高付加価値をもたらす客を選び、それにふさわしい高品位の奉仕を、世界に範を探して自ら研究するべきだといえる。大井川氏は高級ホテルを誘致しようとしているが、これも県内の既存の旅館ホテル業者に対して害悪だし、自由市場に対する干渉に他ならない。もしそうする合理性や勝算があるなら自分が民間で起業するなり、いずれかのホテルに投資して大株主になって総会で命じればいい話である。例えば山口県は農業生産高は低いが工業化されており、一人当たりGDPはかなり高く、長門市が経営破綻した白木屋グランドホテル跡地に星野リゾートを誘致した。この県民は長州閥一般がそうであるよう国家社会主義的であり、安倍晋三も含め、政商行為を平気でやる傾向があるわけだが、政治家に商才があるなら最初から商売をやるべきなわけで、自分がみる限りかなりの高確率でこの行政が企てた温泉街再生は失敗する筈だ。大井川県政がこの県から何かを学べるとしたら、市場放任の合理性に逆らった地域での骨折り損のくたびれもうけであり、また県有地を工業団地化し市場に放出する事によって一人当たり所得やGDPを上げる結果を鼓舞できるという点だろう。しかし、所得やGDP、人口の増加の為には県内に集積の利益がある商業地である大都市圏をつくる方がより効果的であって、高さ制限でこの高密度化を妨げている水戸市街地を改造するか、日立、筑波、土浦のいずれかの都市部の人口密度を高めるか、いずれかの方が優れているといえる。水戸市は芸術館塔の高さに合わせ条例で市街地の高密度化を防いでいるわけだが、この事が土地辺り生産性を低める結果になっているし、集積の利益に逆らう結果を伴っている。京都市は古都の体裁を繕う為に高さ制限を導入したわけだが、県内外の誰にとっても水戸市がもつ江戸時代の歴史景観に価値を認める人は少なく、歴史家にとってを除けばただの中小都市だと思われている結果になっている。例えばドバイをみればわかるよう、ランドマークになっているブルジュハリファは世界一級の高さをもっていて、周辺地区はその高さに追いつくよう開発され大都市化したわけで、水戸市街のどこからでも芸術館塔がみれるように、という水戸市議会の考え方は、塔の高さが現代都市にとっては低すぎるという問題点を解決できていない。京都市自身、高さ制限が経済合理性を阻害している。よって、今後の県都の発展を考えれば高さ制限を撤廃するか、さもなくば新たな高さの基準となる世界一高いランドマークを建設し続けるかだが、このどちらについても高さのあるランドマークを行政がつくる意味は何らかの都市計画についても特にないのであって、単なる自己満足でしかないだろう。
 結局、目指す県の理念や夢が何かによって、観光集客、産業振興、都市計画、がそれにあわせて生起するともいえるのであり、この点について茨城県知事は日本一幸福な県、という路程標しか建てていない。しかし日本一幸福ということは非常に低い目標だ。日本の客観幸福度は国連調査で示されてるよう万年下位だからだ。めざすべきは世界一幸福な県たり続ける事であべきだ。高い(不足していると考えられる観光的)魅力度というのは、観光業者の繁盛に加えて県民一般の尊厳欲求を満たす手段としてこの世界一の幸福の部分を為すものであり、目的に達するまでに経過すべき一里塚にすぎない。尊敬されたいとか羨望されたい、という俗物根性的な名誉欲が尊厳欲求の一部に含まれている限り、下衆や無知な人から魅力度差別を受け続けるのは不合理であろう。勿論、この俗物的承認欲を超越し、いくら不条理に下衆共から侮辱されようがわが道を行く事がより尊い態度だろう。京都市や東京都における自文化中心主義的な中華思想の例を見れば明らかなよう、承認欲に限度がないのも明らかなので、寧ろこの種の国内魅力度競争を避けて、全く自分の為にも他人の為にもふさわしい生き方をする方が悟っており、もっと大人びているといえそうだ。
 最初に挙げた通り、観光推進を今の自民党がはかっている訳は、安倍晋三という人が円安誘導に理由をつけてアメリカ政府と日本操縦者から内政支持を受けつつ権力行使をし、徳川に負けた恨みから形成された長州閥原理主義を狂信したい、というもので、はっきりいえば根底にあるのはただの山口県出身に執着する門閥の利己心であって、幼稚な話である。また観光業界でしばしば世界一の評価を受けている京都市の市長・門川大作という人の根底にあるのは、昭和の市長が作った世界文化自由都市宣言の延長として、平和や文化交流という名目で自文化中心主義をまっとうし、世界中から賞賛されたいという名誉欲と俗物根性である。皇族を含み、東京都民の目的は権力欲の満足であり、家康の頃は平和を実現する天下統一のため関西圏の覇権を切り崩す目的があったかもしれないが、慶喜以後は徳川家の影響力圏を出て、天皇が予てそうだったよう帝国主義的中華思想の権化に成り下がった権勢欲の俗物趣味そのものである。薩長土肥らの権勢欲は敗者側になった幕藩体制への恨みに由来し、現段階では西国一般同様、東京のカネと日本政府を含む権力への嫉妬と羨望がその由来におきかわっている。北海道と沖縄については珍しい自然環境をもっているので天然で観光振興している。人口減少に悩んでいた東北は震災復興に大変で、事態を傍観している。これらが現時点の日本人らがもっている欲望一般なのである。どうだろう。我々の模範に足るところがどこかに一つなりともあったろうか? この種の俗物達から差別され、侮辱されたところで、我々とは何一つ関係ないのが分かるのではないだろうか。我々茨城県民や北茨城市民の精神性、道徳心の方が、根底から言って、彼ら県外の、皇族を含む、おもに西南地方の人々より高いのではないだろうか。何しろ我々にとって中国韓国北朝鮮を差別しながら欧米模倣したり白人から名誉を与えられるためとかく権勢欲を満たしたい、という大分県出身の福沢諭吉的野望は特に身近でないし、天皇家のよう自分が皇帝だの現人神だの自分の先祖が中国人の神だのといった自己優越の妄想をいだいて全国民を差別蔑視暴虐暴利して回る様な野蛮人は先ずみたことがない。冷徹にいって、南西日本の我執によった傲慢な権勢欲から学ぶに足る点はない。
 仮説としてもし理由をみいだすなら、我々がこの種の上位の精神性を得るに至ったのは、嘗てこの地を支配し、先日ご当主が亡くなられた徳川慶喜家からの伝承ではないだろうか? この慶喜という人は、水戸学を弘道館で習った後、自ら大政奉還し、開国のうえ軍事を近代化し、天皇のもとでの合議政体をつくりつつ大変な苦労をされて、烈公からの庭訓を守って朝廷に弓を引かず、恭順しながら貴族院議員として薨去した。にもかかわらず下衆から名誉毀損され続け150年、母と正室が皇族であった事とあわせて悲劇の将軍というべき人物だが、彼を信じて亡くなった天狗諸生両党の思いを汲んでも、これほど権勢欲と無縁だった人物は歴代将軍の中にいないのであって、初代頼房が天下が欲しいと天守閣から家康の前で言ったとされる夢が15代目で叶ってからも、我々この県で生まれ育った者の中に或る達観をもたらしているのではないだろうか。それは権勢欲のむなしさ、権力の無常に対し一定距離を置いた、定府的で、副将軍的で、メタ認知的で、批判的で、自己超越的な物の見方であり、上述の承認欲に根差す俗物達について我々が余り、或いはほとんど共感できないとすれば、慶喜公という先人の偉大さに精神の高貴さについて少しも及ばないからかもしれない。ゆめ朝廷に弓を引くなかれ、という彼の家の哲学としての当為に対し、徹頭徹尾自己犠牲的にふるまい、世間の誹謗にも耐え、遂に当主も亡くなられたという現実の前で、やれ自分が維新の胎動だの、日本人をスコットランド人との武器取引を経て殺しまくってやっただの、当時の政府警察をテロで殺戮しただの、自分の先祖は神だから崇拝するだの、世界の文化中心が自分の町だだの、世界の都市格でわがみやこが一番だの、まことに卑小な連中というべきではないだろうか。この尊皇論というものの原型が、義公による名目的君主政体の定義、といういまでいう象徴天皇制の理論的根拠にあるとしても、イギリスかぶれの皇室や宮内庁は、GHQに命じられて類似の制度をもっていたイギリス王室を模倣しているのだと思っているのではないだろうか。なぜ将軍を首相という名義に代えて、絶対君主による帝国主義という逆行を経てまで、世襲の天皇が日本を一度亡ぼしたかというと、この天皇家の知恵が、慶喜を含む水戸の徳川家に劣っていたからだといえるだろう。岩倉、伊藤、毛利に島津ら西国諸藩主に、五摂家その他の華族連はいうまでもない。気宇高邁な主君の統治を経てきたわれわれからみれば、薩長藩閥の外様大名の領地から東京に出てきて暴れまわる人々の権勢欲それ自体に意味がないどころか、天皇を自称して恥じない家の様な、子供じみた我執そのものが愚かしく見えるのも、当然だ。

 最初の問題に戻ると、世界一幸福な県とは諸々の欲望のうち、最も高貴なものを満たしている状態であろうし、それは恐らく自己超越にあるのだろう。自慢合戦や大衆観光集客を主としたメディア洗脳ゲーム、工場誘致による仕事場作り、あるいは芸術祭による集客や傑作の収集、大都市化だか低層都市だかによる人口密度の調整、世界で名誉を得る為のノーベル賞だの国際賞取得の努力、万世一系だか万代一系だかの当人は平気で政治干渉するが民主党政権からの政治利用は禁忌という腐った世襲祭祀長の護持、はいはい、外様大名のもとにいた下士の身分制度への反発、復讐劇としてのアジア侵略自慢、異民族同士に内乱させて征服するジェンタイル・フロント戦略じみたスコットランド商人経由のイギリス製銃器で自衛戦争ぶった日本人同士の内乱罪や侵略罪の山を糊塗する薩長クーデター妄信、まことに結構。これらの事はすべて俗事であって、われわれの幸福とはほとんど関係がないように見える。なぜならどれも他人より自分の方が優れた状態になりたい、比較して自分の方が優越していると信じたい、という利己心の発露なのであり、この種の競争の本質が無我でばかげていると分かればこそ、現実の位相の上に或る理想の世界観を持てるのだ。万民平等とか、調和とか、四海兄弟とか、永久平和とか、こういった理想に比べれば、国家や地域連合の単位を含む自治体間の競争とか、個々人の間の優劣とかは、まったく意味をなしていない。結論をいうと、世界一幸福な県や市というのは、誰とも競争していない、そして誰の事をも見下したり見上げたりしていない人の考え方を指している。少なくともいわゆる空観(クウガン)にできるだけ多くの人ができるだけ長い間とどまっている様な状態を、主観的な意味では世界一幸福だというのである。無欲であればそれ以上を求めもしない。対して、物質的、欲望的な充足としての客観的幸福は、その競争と開発にきりがない。全ての観点からみて最も、物質的、欲望的に充実しきっている人が、おそらくもっとも俗物的にみえるであろうことも確かだから、この比較に基づく客観幸福というものは、実際には永遠に満たされえないのである。
 スカンジナビア半島の北欧三国の人々に、あなたは完全に幸福で満たされているかと問えば、大抵の人ははいと答えると同時に、世界中のどこかを探せば、彼らより物質的、欲望的に満たされた人はきっといるであろう。知らぬが仏という通り、情報不足のためにこの人達は自分の身近な人達と比べて、物質的、欲望的な満足度が高いと考えている。
 この例と同様に、現実にある諸々の物質的欲望は、彼らの認識している他者に比べて自分の生活が優越していると認識する、嫉妬を感じない状態であって、かつ、うぬぼれを満たしてくれる様な状態を目指しているのだ。これこそ、仮観(ケガン)の世界である。帝国主義はこの我欲を満たす為に物質的状態を全ての人よりまさった状態に置き続けようとする、一人の権勢欲から生み出された考え方であり、今日、蓄財を手段とする資本主義がこの後継者になっている。
 天台宗の理論、一心三観では、空観、仮観をもちあげた中観(チュウガン)が覚めている事だとされるが、究極の主観的幸福としての無欲と、客観的幸福と呼べる単なる物質的欲望の優位な充足とのふさわしい関係は、できるだけ多数の人が、できるだけ長い時間、無欲にとどまる為に丁度いい程度の物質的条件が最上なのである。ここで物質的欲求に、マズロー欲求階層でいう自己実現以下の全ての欲求(生理、安全、愛と所属、尊重、自己実現)を含むとすると、これらはそれぞれの段階について無限に追求できるのだが、より高次の欲は低次の欲を包含する関係にあり、或る人が低次の欲について持っている期待がなくなるか、その期待が十分満たされた時に飽きる。そして自己実現を超えた段階が無欲なのである。苦痛をなくし快楽を味わうべく欲望を満たす、という快苦の原理に基づいて言行している限り、それ以上求めるべきいかなる快楽もない状態は、不足がないという意味で現実に求められる限り最上の幸福だといえる。脳内で何らかの不足を感じるということは、ドーパミンによって意欲が惹起され、アドレナリンに導かれ多かれ少なかれ言行を起こさざるを得ず、目標達成によってオキシトシンが満足の合図となるまでのあいだ、多かれ少なかれ苦痛を味わうことに等しい。したがって、資本主義における情報化とは、比較対象を視聴覚を主としたメディアを通じて無数に展示させ、嫉妬や羨望の感情を起こさせることによって、仮観的誘惑を行い、消費活動を鼓舞するものに他ならない。平成の一般的不幸の原因は、この情報メディアの氾濫による嫉妬という苦痛の蔓延である。無限の競争は、新たな欲望が起きる限り無限の苦痛の原因発生をも意味し、より高い品物を消費したい、羨望されたいという承認欲を満たす為、商人や成金という生活様式に陥った人々の集まりが、東京圏や関西圏、名古屋圏といった商業都市の実態である。
 我々が幸福でありたければ、自らをとりまく情報環境を、我々自身が無限の仮観的競争に巻き込まれない程度に矯正しなければならない。時に引きこもりとは社会病理ではなく、現代社会への賢明な適応の仕方の一つだといえる。人が集まるところほど比較対象がふえ、羨望させる為の罠も、広告や公然たる浪費によってふえてくるからだ。欲望を刺激する機会が少ないほど、その人の現状への満足度もます事だろう。大都市生活が不幸にさせる誘引で満ちている限り、今後、過密都市に移住した人類はもっと内向的になるかもしれない。もし仮観そのものを目的にしたとき、天皇家にみられるよう、終わりなき虚飾に追われ生涯、心休まる暇はない。この事は帝国主義者たる天皇家の業である。

 大都市化や、情報化はその程度が物質的欲望を惹起しすぎない程に中くらいである時に、最も幸福と正に相関する。極端な大都市も、一切の情報の遮断も、合目的ではない。
 観光集客は自文化を羨望させるのに役立つ、という京都市や京都府にみられる俗物根性は、観光客や文化庁、官公庁、皇族を、京都人自身の承認欲を満たす手段にするものであり、この種の京都教義的志向は多かれ少なかれ客に嫉妬させるという苦痛を与え不幸を増すので、遠からず逆の評価が反動として与えられるであろう。これは手前味噌のうぬぼれで世界の人々を呼び込もうとしている安倍自民党の政策についても、各地方自治体についても同様だから、日本自体が世界から、羨望や嫉妬の苦痛を与え不幸にした仕返しを受けることだろう。茨城県は逆に、水戸学に抽出された儒学的教養の伝承によって謙遜の美徳が維持されていた為に、これら飽きがきた観光客らによって与えられる反動の悲惨から多かれ少なかれ免れるだろう。我々が観光業態について持つべき哲学は、顧客に自分達のもっている観光資本を自慢するのではなく、さも顧客自身が我々の気づいていない貴重さをみいだすかのように仕向ける事である。要するに、我々は茨城県内、北茨城市内を観光客向けにわざわざ美化したり、不自然に装飾したり、案内板を設置したり、いかにも観光地であるかの如く、外からの目線を意識して整形したりするべきではないのだろう。この種のわざとらしさが微塵もないかのよう、単に我々が幸福に暮らす為の生活様式を存続していればいいのであって、その種の作られていないありのままの暮らしこそが、本来の意味での文化多様性であり、観光客にとって最も興味深いものであろう。我々がどこかへ旅に出て、大衆観光客向けの整った道路とか、ルート整備とかがされていたら、その人の印象には全くこの種の事は残らなくなるし、寧ろつまらないと感じるのであるが、目的地までの道路が整っていないとか、何も知らない地元の人達に紛れて行ったとか、外部の人の目が意識されていないため外の何かを模倣しようという意図がないとか、昔からの生活における信仰の跡がちゃんと残っているだとか、要するに外部とは違う状態が自然な形で残されている、という事が、良い意味で最も印象に残る。逆説的な命題であり、大衆観光と正反対の見方だが、真の観光魅力度を向上する為には何もしないのが最善なのだ。県内のホテルや旅館におけるアメニティの充実とは別にしてである。この事はブランド総研の田中章雄やその他の卑俗な日本人一般にはまったく理解できないかもしれないし、某調査への即効性がある解決策でもないが、観光学的真である。したがってこの基本原則、即ち観光誘客のため特に何もしない、むしろ生活者にとっての満足度をはかるという事を徹底すれば、世界で最も優れた観光資本をもっていると口コミによってひとりでに認められる日がやってくるであろう。実際、我々は栃木や福島を観光し、京都や東京を観光したより不快だったり、不満だったりしたことがあるだろうか? 事実は、魅力度調査とまったく逆の様である。ということはこの調査は観光魅力度ですらなく、数百人足らずの主に大都市住民の観光素人であったり俗物趣味であったり、単に身びいきな会員によるきわめてかたよった偏見であり、統計的真からほど遠い事しか示されないであろう。根本的に、多数派が好む観光地は低俗という意味で最も下らないところだろうし、この母数やアンケート先が定常的で偏った疑似統計が示している羨望の的も、やはり通俗的な結果になっているのである。

 また産業についていえば、高付加価値化を進めるべきとはいえ、近隣諸県や世界全体と比べて遜色がないか、多少あれ優っていればそれで十分といえるだろう。もし所得や一人当たりGDPについてある地域が世界一を達成しても、ある地域内偏差としては一定程度の所得を超えるとそれが幸福感と正に相関しないという仮説がリチャード・イースタリンによって示されている。つまり幸福と所得の相関には飽和点がある、という仮説である。他方、ミシガン大学のジャスティン・ウォルファースとベッツィ・スティーブンソンの仮説では、お金があればあるほどますます幸せになって飽和点はないことになり、その伸び幅は収入の対数と幸福のグラフを描けば無限になると考えられている。金森茂樹は、2017年3月雑誌『プレジデント』の記事中で、収入を一定の水準を超えて指数的に伸ばせる人は現実に殆どいないので、両仮説の実質的帰結は同じと述べている。また大竹文雄は論文『失業がもたらす痛み』(『勤労者福祉』No.71、2003年1月)の中で失業経験や失業不安を含め、失業が単に所得低下という以上に幸福度を引き下げると示している。
 これらを鑑みると、幸福追求に最も合理的な行動原理として、第一に、地域の所得水準をなるだけ高めようとする努力そのものは正しいが、或る個人の能力を超えて収入を高めようとすると、それに伴う苦痛は要する指数的努力に見合わなくなるかもしれない。つまり幸福感が高まると感じるまでに必要な収入が倍々に、自乗で増えていく。100万円に対する1万円を増やす努力と、100億円に対する1億円を増やす努力は、経験効果を省みても、後者の方が多大であり、その苦労の倍々の増大に対して、有り余る大金から得られるだろう幸福感は割に合わなくなる傾向がある、という事なのだろう。この逓減の程度は、感覚量は刺激強度の対数に正比例するというフェヒナーの法則と関係しているかもしれない。
フェヒナーの法則
E=K log R=KR
E: 感覚量
K: 定数
R: 刺激強度
いいかえれば、成金趣味や皇族閥の贅沢、顕示的消費が生まれるのは、この羨望されたいという承認欲に要する感覚量を得る為に、指数的な収入増大が必要となるからな可能性がある。文化資本という名目で地域自体が成金趣味や俗物根性を奨励する傾向がある京都や、江戸幕府や明治政府を経て覇権的な自己優越の錯覚を顕示的消費によって強化する傾向がある東京は、この様な理由で、競争相手や比較対象の多さの為に幸福感を感じ辛い環境であり、法政大・坂本光司の調査による客観幸福度も低くなっていると考えられる(2011年4月~9月の調査では京都が42位、東京が38位)。また神奈川、大阪、兵庫、千葉、埼玉、福岡や、宮城、北海道といった大都市圏をもっている地域も、失業率の高さのため同調査で軒並み幸福度が低いとされているといえる(これらの大都市地域群は上記の調査で、33位に位置する千葉以下であり、茨城は30位とされている)。求職者は就業先の絶対数が多いと考える大都市部へ進んで集まる傾向があるからなのだろう。
 第二に、失業経験や失業不安は、将来にわたる所得低下を予想させる事が多い為に、幸福感を削ぐのかもしれない。そうであるなら、これまでこの論文で示された通り、失業による幸福度低下の効果も、所得や収入向上による指数的な幸福度増大の効果も、また顕示的消費から得られる幸福感逓減の効果も、所得と幸福の経験的法則としてまとめられる事になるだろう。すなわち、茨城県や北茨城市が施政の中でとるべきなのは、基礎所得を将来にわたって保障するか、それが不可能なら失業率低下の為にありうべき対策を打つことであり、また地域内の所得水準をできるだけ上げるとともに、できるだけ不幸を感じるだろう最低所得の人の水準底上げの方に力を使い、見栄の為の浪費に関しては京都や東京といった自己優越感の錯覚が強い中華思想的な傾向をもつ人々の方にまかせておくことだろう。なぜならこの浪費によって得られるだろう承認欲は、有り余るカネの使い道としては決して県内市内住民の幸福感の増大に対して割に合うものではない事が、必要となる財源を得る指数的努力の苦難に対して明らかだからだ。それに比べて、県内市内で最貧の人々の客観幸福度を増大させるには、極めて少額の保障でもそれら比較貧者にとって幸福感が得られる効果は極めて大なので、功利的な投資対象としての費用対効果が高いことになる。この様な理由で、高福祉高税率の北欧諸国の客観幸福度が世界最高水準を維持してきたのだ。我々茨城の人が学ぶべきなのはこの北欧的福祉主義の幸福合理性であり、見栄を張る為に自慢をくりかえす東京や京都、或いは福祉を軽視し、調整的正義を殆ど完全にばかにしきっている一部のリバタリアン社会ではない事になるだろう。もしこの種の自由人主義(アイン・ランドの客観主義的なものや、選民的なユダヤ思想、self-made manや独立心を尊重する開拓者的気質を内に含む)に一理あるなら、それは経済社会における政府からの無益有害な規制のなさに対してであって、政治社会とみた最貧者を含む社会全体の幸福増大には役立たないどころか、かなりのところ有害でさえある様だ。したがって、茨城や北茨城において産業の高付加価値化を進める事は是非必要で、例えば金融庁の国内FX業者への高レバレッジ規制は少ない資金で高利益が見込める事からこの点で投資家育成に極めて害悪であり、今後、茨城県域や北茨城市域について法や条例を改善できるなら、県内・市内で開業した仮想通貨商品を含む為替業者にゼロカット導入を義務づけながら、ロストカットがスリッページによって遅れた際の損失補填を業者に負わせる様にするべきとなる。そして現在の高付加価値産業の代表は金融業であり、次点がIT業なので、幼少期から金融literacyの高さで世界一を目指したり、ネットでの自宅学習を中心にプログラミング教育をはかり、またこれら金融とITを専らとした高付加価値産業の規制緩和に対して世界一の優遇措置をとりつつ、農工業に関してもありうるかぎり高付加価値化、つまりより投下資本収益率(ROIC, Return On Invested Capital)、特にそのうち有利子負債を除いた株主資本利益率(ROE, Return On Equity)の高い事業形態を民間人が選択し、集中的転換を進めるべきとなる。未上場であったり、株式会社化されていない事業形態や個人事業についても、ROEをさらに高くする事業形態を集中的にとりつづけていれば、この事業は投資する為に割安になり、株価収益率(PER, Price Earnings Ratio)を下げる結果となって投資資金が次第に集まり、最初にあげたROICの増大につながる好循環が生まれる筈だ。これらの始原はROEの向上、つまり元手に対して得られる利益が高い、効率の高い商いをめざす事だが、その根源にあるのはrisk reward比率(平均利益/平均損失。損益率)の高い生業、つまり平均した損失の割に利益の見込める事業の選好である。一般に、高付加価値化と言われる行動の根底にあるのが、損益率についての選択眼だといえるわけで、たとえば農業の6次産業化が損益率を下げる可能性がある時、これは望ましい選択ではないだろう。鹿児島県知事の三反園訓(みたぞのさとし)氏は2017年1月に紀ノ国屋社長と5月に千疋屋総本店常務と県庁で会談し、同年5月20日から県産マンゴーを紀ノ国で、同年6月26日から千疋屋総本店で県産パッションフルーツを販売してもらっているという。
(記者)
それは,いずれも知事がトップセールスで実現したということなのでしょうか。
(三反園知事)
私自身が決め手になったかどうかというのは,逆に先方に聞いていただいた方がいいかと思います。いずれにしろ社長にお会いして頭を何回も下げたことは事実でありますし,常務さんにお会いして「なんとかお願いします,千疋屋(せんびきや)に置いていただくことがブランド化になります」と。「ブランド化になることによって,生産者の所得を上げたいのです。やっぱり後継者を育てなければいけません。そのためには,本当にいい物を提供いたします」と。そして「途中で生産が追いつかないということにはいたしません」等,いろんなお話を率直にさせていただきました。ただ,今後とも置いていただけなければいけませんので,ある意味でフォローアップといいますか,そういった努力もしていきたいと。もっともっと増やす努力をするということでありまして,そういった努力もしていきたい,その結果によってたくさんの物を置いていただくような,そうなればいいという気持ちの中で努力していきたいと思っております。
鹿児島県、平成29年7月26日定例知事記者会見
この施策は一見すると鹿児島農業にとってプラスの様にも見え、六次産業的なものに見えなくもないが、農業の最終責任主体が県庁ではない事、特定業者と官民の癒着を招く事を考慮すると、この種の行政行為はあまり望ましいとは思われない。また愛媛農協が生果出荷時に厳格な糖度コントロールを敷き高く売り、そうでない蜜柑をポンジュースに回して、農家の損失分を農業全体で補償していたことに学んだ和歌山県庁が、同様の糖度管理を通った蜜柑にラベルを張り、糖度不足の物にラベル不許可とし、損失分を農協に加え県庁が補填した結果、単価アップしたうえ蜜柑産出額で日本一となったという。他方、和歌山産蜜柑の販売単価は(2017年段階で)7位に留まるのだが、その理由として和歌山産は早生に出荷集中し、市場が品薄になる晩生のころ静岡産が出て高い値で売れていくとわかり、和歌山県の研究所で和歌山産にも高い値をつけられるよう晩生の新種を開発普及を行っているという(和歌山県、知事からのメッセージ、平成29年3月のメッセージ)。計画経済は不可能というハイエクの洞察が正しければ、民間事業者が行うべき生業について県の研究所が深く関与するこれらの事例は、本当に合理的なのか疑問に思われもする。新自由、自由人主義側の見解では、市場の需給とずれが生じ供給・生産過剰で価格低下を含む市場の失敗を招く、つまり民業圧迫という事なのだろうが、もしそうなら、鹿児島と和歌山の県知事、県庁が行政の立場から県産品をより高く値づけさせる事は、結局失敗を招くとみていいのだろう。私がみるところ、価格が高いと需要が減るという需給曲線の関係からも、また消費者がブランド価値に高い値段を払うのは結局その裏付けがある時なのであって、実が優れていないのに高い値を付けて売ろうとするのは矛盾しているわけで、すなわち優れた商品を作るか、それにふさわしい販売まで行う技量と資本が必要なわけだが、これらの事をうまくやる才能があるのは結局、民間の経営者とか労働者のがわなのだといえるだろう。なぜならこの種の才能、商才があるなら最初から起業したり民間事業体で自ら働く方が収入上昇も能力発揮も上限がないからだし、民業圧迫の末に事業を倒産させても減給や失業という責任を負わなくて済む行政という立場にある以上、どうしても本腰を入れて取り組むはずがないだからだ。その上、行政は全体の奉仕を行う調整的役割だから、特定事業に肩入れした結果、別の事業をなおざりにしては本位にもとるとなるし、そもそも民間企業のうち成功する者が現れるのは市場競争の淘汰によるのであり、無数の会社や起業家のうち、どれが潰れどれがうまくやった結果になるのか、未来は変わるので基本的には誰にも事前にわからないのである。高付加価値化をめざす産業振興という面の最終結論を茨城県や北茨城市についてだせば、行政の立場からの民業圧迫を最大限に避け、経済に関する事は公害を及ぼす民間企業についての全体調整役に徹すればよい。具体的には企業連合による過度の独占や寡占を一定程度制限したり、原発や産廃の不法投棄、善良の風俗に害のある生業といった外部不経済を内部化する、つまり公害について企業や有害な事業者自身に責任を負わせて公共の費用負担を減らすよう努めればいいのだ。究極の場合、起業資金を希望者に提供するがなんの返済も義務づけないエンジェル投資家のような事、をもし行政がやろうとしても、さきに挙げた通りそもそもROICやROEを上げるべく行う高付加価値産業の振興にならない事は明らかである(投資あたりの収益が目的でない以上、投資家側に立つ行政と起業家側の民間事業者どちらの意図にも関わらず、収益力のない事業に対しカネをどぶに捨てるのと一緒になるから)。
 これは芸術祭への投機とか、市民祭りの開催という現時点の北茨城市長豊田稔氏が行っている事業体について当てはまる事で、この効果は京都市が進める類の文化振興という名の部分への奉仕と同然で、大盤振る舞いの結果として、税金を貰った個人とそうでない個人の間に不平を招いて民業を圧迫し、人々へ多かれ少なかれ行政の長による浪費の影響力をみせつけることで幸福感を低減させてしまう。また豊田氏は子育て支援住宅という名で、教職員住宅の跡地を県から借り上げ、土地を民間に貸し、管理建設させた集合住宅を市が借り上げるという複合的で実験的といえるだろう政策をとったわけだが、この施策は豊田氏自身は人口減少を憂うという善意でやった事なのかもしれないが、子供がいる世帯をひいきして市税を投入し、子供のいない世帯を結果的に冷遇する事になるし、憲法15条2地方公務員法29条、30条に記されている全体奉仕者たる公務員の旨に反するというべきだし、そのうえ税金で補填した分、割安な価格で一部の市民に限定し市場に住宅を供給しているので、不当な競争条件を与えている意味で民業を圧迫する結果にもなり、二重の意味で矛盾している。市営住宅を公設公営で作るより、管理が民間委託された分だけ市税の費用負担と集合住宅管理の質が高くなる可能性がある、程度の進歩に留まるだろう。より本質からこの事を分析すると、端的に言って人口が減るのは必ずしも悪い結果ではなく、幸福度という面からみれば人口523万人のノルウェイ、549万人のフィンランド、人口990万人のスウェーデン、或いは573万人のデンマークといった国々の例からいっても、人口の多さと幸福度に相関関係はない。つまり豊田氏が人口減で市税が減るとか、消滅自治体となって最低限度の人口すら持続できないかもしれないという不安を憂いているとしたら、この事はごく勘違いした考え方で、心配するべきなのは今現在生きている市民と今後生まれ来る市民にとって生あるうちの市内での体験が幸福かどうかなのである。失業の結果としての低所得が幸福感を減らす事実があるとすれば、それは最貧者をおもとして比較貧者へ累進的に基礎所得を与える事で最大化するのだから、その為の市の財源を確保したり、それ以前に市内の最低限度の所得水準を上げる為に国からとってくる財源によっている生活保護補足率を100%に近づくまで高めるとか(腐敗行政による人権侵害に他ならない水際作戦の正反対を行く必要があり、希望者全員に保護を与えるという事だ)、それらの分を市内でまかなうには上述のよう市内産業の高付加価値化、具体的にはROEの向上、いいかえれば商才のある市内民間人の出現率を高めるような規制緩和とか環境整備、更に具体的には失敗しても再起できるだけの基礎所得保障と、成功が見込まれる損益率の事業へくりかえし挑戦できるだけの投資資金源の貸与、あるいは現時点の市の財政を例にとれば主な財源である工場用地の取得と販売を、外部不経済の内部化にあたる環境排出による費用負担の企業への転嫁という環境保護条例の制定と共に進めるべきである(2割の人が8割の成果を上げるというパレート法則によると、市内経済人のうち2割の上位能力が市内経済力の上限をひきあげるので、資本を集中させる必要がある)。
 仮に人口が減っていっても、市民全員の所得が徐々に向上していく傾向しかなければ、この市での暮らしは幸福な経験になる可能性が高い。仏教の見解によると子供のいない解脱した無欲の生、最低でも少欲知足の境地に留まる事が最も安らかな人生であり、旧約聖書を含むキリスト教や、イスラム教の見解では、産めよ殖やせよとか、アッラーが育てて下さるというよう子供が多い事を奨励している。この種の両極端な人生観の立場をまとめていえば、或る世帯の子供の有無に応じた人生観が選択され得るのであり、子供が多くとも少なくとも或いはいなくとも、これらは生きる経験において必然に生じる多様性の一端に過ぎず、どれも必要不可欠ではない事になるだろう。たとえばピケティが2015年1月29日の来日シンポジウムで日本全体について述べた事(『週刊朝日』2015年2月13日号)のうち、継続的人口減が恐ろしいとか、長期的人口増大が相続財産の偏りを緩和し格差縮小につながる、といった意見は眉唾ものであり、彼が主張する事のうち、2015年1月31日記者クラブ会見で述べた(『読売新聞』2015年02月03日)低所得者への低課税、若者に有利な税制という2つの点については、上述の様、今後の所得低下の予想が幸福感を減らすという幸福学に一致する分だけ善の可能性がある。仔細にいえば、高齢者が人口減を憂う理由があるとすれば、ミラー・ニューロンを通じた共感性の次元で、将来にわたる所得低下が若年層の不幸を予想させる、という親近な同族連帯への心配にあるのだろう。又この種の共感知能が摩耗した不徳な人であればあるほど、原発を推進し子供を地獄に叩き落したり(自民党閥や一部の東京都民など)、神道原理主義に基づく皇族閥とか薩長藩閥の明治維新と名づけた侵略・内乱戦争を誇って嘗ての内乱罪や植民地収奪での犠牲を美化したり(薩長土肥京芸、いわゆる西日本各地の人達、或いは皇族と西軍)、武器輸出で金儲けしたり(兄が三菱財閥の安倍家や、坂本龍馬、米国軍産を賛美する人々)、自然環境破壊を何とも思わなかったり(例えば東京五輪関連の産業廃棄物を茨城県内に不法投棄している都内業者)するわけだ。まとめていえば、豊田氏は市民の将来を心配するあまり、善意によって子育て世帯に偏って税を再分配するという違憲行政を行っているともいえるが、これは子供がいない最貧市民にとって税を不公平に子育て世代へ優遇調整する悪政に他ならないし、子供がいる事で不幸を被る事例を含め、老婆心というべき単なる杞憂を超えてみれば、住宅に需給の選択肢が多い民間事業で十分なしうることであるからには、単に無益有害な市政といえそうだ。既に作ってしまった子育て支援住宅を民間に売却するべきである。そして芸術祭に関していえるのは、例えば武家が狩野派に城内装飾を施させた事例とか、ナポレオンが美術品を収奪し宮殿を飾ったとか、現に皇室が日本芸術院に皇居内を装飾させているとか、佐賀県が県内出身画家の絵を県立美術館を飾る為1億3000万前後で複数買い上げているだとか、こういった己の権威を強調するため官が発注する美術というものがしばしば存在してきたとはいえ、自分がみるところ決してかわいいとはいいがたい悪趣味なゆるキャラを選んだり、そもそもディズニー並の子供向け遊園地ではあるまいし、ゆるキャラというサブカルじみてはいるが意味不明かつ横並びで笑止千万な流行を模倣している豊田氏の元での市役所の審美眼が特別優れているとは思わないし、他にも豊田市政になってから磯原駅の改札正面に飾ってあった市内名勝の立派なホログラム・アートは低俗な広告もどきで詩とみてもつまらない文句が重ねられた低品位な画像(ここにも醜いゆるキャラが並べられていてキッチュさに驚く)に入れ替えられてしまい、また仮設展示が主な祭りは蓄積する物が残らないだけ単なる一過性の浪費に終わるので、正直いって福祉に回すべき財源を減らす無用な事だといえるのではないだろうか。裏返せば、ごく優れた審美眼をもつ市長なり知事が歴史的価値をもつ作品を購入し、その保有や展示によって市の権威を上げるとか、芸術祭という形をとっていてもいなくても、仮設展示を除外し、恒久展示の公的作品のみを増やしていくという形で市内装飾につとめるのなら、これは前の作品が次々残るという意味で文化資本の蓄積になるため一定の環境美化効果があるかもしれない。尤も、審美眼が非常に優れた人がやった時にしか陸なものが残らないだろうし、審美眼がない人がやれば却って長い間、どうしようもない作品を公に飾る結果になって恥を売る結果にすらなる筈だが。但し、この種の方法で過去の世界遺産だらけになっている京都市の事例でいうと、庭や建築を含む何らかの恒久展示物を役所が管理すると費用が必要になるので、その管理費がユネスコから貰える世界遺産登録をめざすわけだが、パブリックアートの管理費が嵩んだ結果、撤去を余儀なくされたり管理費が市税を圧迫する可能性もあり、またそもそも贅沢品、奢侈の支出である芸術品の購入や芸術活動の助成は幸福論の観点からいえば将来の所得漸増を予想させるという市民全体に対する福祉政策より公益への効果が薄く、最悪の場合は見栄を張る事で逆に成金趣味が軽蔑されたり、不公平感が蔓延する事で市民の幸福度を下げる可能性もある。基本的に公的支援を受けない市内の作家に対する民業圧迫につながるので、市や県の芸術支援による町おこしなるものは、市長や知事の善意の正反対の結果を伴うのであって、はっきり一言でいうと害悪でしかないと思われる。そもそも市民の中にいる作家も払った税金が、市外からきてすぐに去る旅芸人のような人々の遊興費に使われて消えていくというのは、どう見ても市内作家への嫌がらせでしかないし、それならルネサンス期のイタリアやフランスの都市国家とか、戦国時代に秀吉が利休を召し抱えたような例でみられたよう、行政の長が直接この市内在住作家らへ公務員に類する形で給与を払った方がまだましである(例えばダ・ヴィンチはフランス国王フランソワ1世に招かれてその地で亡くなっているが、館や年金をもらっていた)。勿論これも民業圧迫に該当するだろうし、選ばれる作家についても市長の好みが反映されるにすぎないだろうから、全体の奉仕にふさわしい結果が得られるとは余り考えられず、私個人はこの方法論が望ましいとは思っていないが。又これらは芸術史という観点から高尚な立場で言っているが、逆にこの種の例が単なる通俗的な意味で成功していると民衆によってみなされるのは、京都市とか奈良市、鎌倉市といった古都がそうであるよう羽振りの良かった或る権力者の嘗ての栄華を誇る、という後から偶然観光地になった場合とか、伝統工芸という形で現代の需要がしぼんだ死んだ技術を絶滅しない程度に保全する様な文化保護という名目の慈善活動、すなわち退行的な場合に違いないのだが、自分がみるところ、これらはすべて本来の芸術があるべき姿から遠い、ただの欺瞞である。最も典型的にその事がわかるのは、フランスのアルルという町であり、ここの人々は当時の前衛画家だったゴッホを狂人扱いして精神病院に幽閉し、絵を一つも買ってあげず、困窮した画家の生活を助けてあげたりもせず、ついに困り果てたゴッホが自殺してしまってから徐々に評価が上がった彼を、今度は町の宣伝材料に使っている訳である。この事例からいって、アルルの住民は現時点でも、ゴッホ同然の暮らしをしている不遇な芸術家を信じがたい冷遇の境涯に置き去りにしている事は疑いようがないのではないだろうか。却って芸術の天才が最も活かされている市があるなら、その市は今現在生きている市民に芸術の需要があり、現に盛んに供給されている様な市であって、ルネサンス期のイタリアのフィレンツェは、商売で成功したメディチ家という大金持ちが当時のキリスト教で推奨されていた慈善の手段としてできるだけ立派な聖像を求めた事から、我々が知っているダ・ヴィンチとかミケランジェロとかを呼び寄せ、一生を芸術の研究に捧げても食い扶持に困る事がない食客の身分を多数設けたり、教会の礼拝堂を庶民に理解できる宗教画で飾る目的で、そもそも仕事を盛んに発注したわけだ。対して現代美術は第二次大戦で戦場にならなかったアメリカに西洋の作家が移民し、商売で儲けた人々が広大な自宅を飾ったり、美術館への寄付が税額控除の対象となる税制をつかってより高く査定されるだろう作品を進んで買う流れができて、先物買いの投機を駆動力とした前衛美術の画廊ができるようになった事に由来し、これに経済的に衰退したが見栄を張りたいイギリスの人や、パリに近代画家が集まっていた栄光をとりもどそうとするフランスの人などが追随者となって、多かれ少なかれ欧米の民間画廊による美術品オークションを中心とする形でできている。日本はこの流れから大変取り残されていて、美術史の教育などもなおざりにされているので、この投機市場に現役でとりくんでいる様な人はほとんどいない。大衆商業芸術であった漫画アニメを、越境文化的な差別化の戦略で投機市場に持ち込んだ事が、アメリカのポップアートや、大衆的な工業製品を模造し独創性というオーラを失った流用作品との関連付けで評価された村上隆や奈良美智が、一応日本側で欧米における現代美術界の嚆矢になっているのはこういった訳だが、対して豊田氏がこれら欧米の動向との明白な位置づけを伴って芸術祭を行っているのではないのが目に見えているのであって、誰が観衆であり顧客かにもよるが、何を目的とした芸術振興なのかもいまいち分からないほどである。豊田氏の単なる自己満足でないというなら、天心を指導者として大観ら五浦派の美術家らが過ごしていた歴史がある市が、一体、世界の誰に向けていかなる芸術の需要喚起をしたいのか、またなにを供給しているのかについて、適切な美術振興の戦略を、税負担している市民へ予算案と共に提示するべきではないだろうか。
 尤も、このブログでは遥か以前から指摘してきた事ではあるが、全員協議会という市議会前に密室で非公開のまま行われている市議全員を伴う会議が、豊田氏という行政の長を座長にして行われている事から、この市の行政と議会は癒着しているとみなせるのであって、独裁とは三権分立論に立脚する或る定義によれば行政と議会が相互監視と批判検証を伴う牽制の能力を失い一致してしまっている状態を指す言葉なのであり、それは現時点の国会で自民党の安倍党首がまったく同じ状態になっているが、豊田氏も例外ではない。今の日本政府は国会議員から首相を選ぶという行政権の独立が図られていない劣った制度なので、早急に大統領制または首相公選制の導入が必要だが、市政については市長が直接選挙で選ばれている以上、市民自身がこの豊田氏の野放図を自ら選択しているともいえる。豊田氏自身が全員協議会をやめようとしない市政運営の誠実さに欠けている事をあわせみても、市政の腐敗の一つの原因がこの全員協議会という二権癒着あるいは二権混同の害悪にあるのが明らかであり、公開された市議会の場で、市議会議員が市長の行政権行使に関して、きちんと批判的検証を行う必要が絶対にある。その検証が正しい物か、単なる誹謗の類なのかを判断するのは市民の側の役割なのであり、この種の公開された外部検証が行われなければ、市長の行政行為がいかに不条理で、恣意的かつ反市民的なものであっても、そのこと自体を市長自身が反省的に懐疑する機会すら失われかねない。たとえば新市民病院の位置が市の中央部により近く初期計画の場だった現在の新消防署がある高台より、どうみても市長の自宅がある北側に近く移されたり、これに伴って市南でより人口比が高くなっている中郷地区をはじめとする多数派の人々の公益と利便性は大幅に低下したわけだが、この事は診療所の設置でなんとか補填される形式をとったにせよ、市長は高萩市側に病院があるといった市の責任とはいいがたい答弁に終始し、結局はきちんとした理由づけがみあたらないようであり、市長の身びいきだったのではないだろうか。この種の事例は、単に病院建設の場合を引いたが、ここで取り上げた目的がはっきり全市民に公示されているとはいえない芸術祭とかその為のアトリエに使う小学校改造を市北にあたる関南地区を中心にして行うとか、市民や公開済みの会議の場で公正な審査を経たとはいいがたい経緯で参加作家が選ばれている不透明な市税供与とか、あるいは国道沿いには津波の被害も想定される極めて老朽化した市営住宅がまだ残されているのに、子育て世帯向けの住宅をのみ優先する部分奉仕の施策とか、どちらかといえば不公平で全体の利益とはいえない市の行政の例については、市長自身の善意とは別として現に、ただの市長の身びいきに多少あれ該当し、恐らくその様な行政を行っている理由は、彼の暴走を止める職員は当然いないし、市議会が全員協議会で市長から統率されてしまい、市政を監視したり批判的に意見を述べる人が議員の中で殆どゼロになっているせいが大きいのではないだろうか。つまり全員協議会をやめろという話だ。集団浅慮や全会一致の幻想が致命的な集団心理、集団思考の過ちをもってくる。科学一般が反証可能な命題についてしか真理らしさを保ちえないことからも、多数政で反論者がただ1人もいない案件が間違った結論な可能性は100%だといっていいだろう。もし、この案件が本当に善であると論証できるなら、少なくとも1つ以上の観点からそうでない証拠があげられるはずだからだし、もしこの種の反対証明となる証拠が見つからないとするなら、その案はそもそも正しさがまったく検証されていないのと同じなのである。善か悪かの判定についても真偽判断と同様の規則が使えるとすれば、多数の者が参加する議会の有効性は、単に条例という法の整備についてだけでなく市政に関する一切の事についてのこの反証可能性にあるのであって、神ならぬこの世で人の行う絶対善が存在しない事は明らかだから、少なくとも幾つかの選択肢の中から最もましな相対善を選び取ることしかできず、それが相対善と証明される為には、必ず他の選択肢と比べた何らかの悪い面をもっているという反証による比較検証が必要となる。嘗て王が道化を隣席させ猥雑な諧謔の中で王の過ちを周りには冗談に聞こえる形で指摘させたり、今日の企業で外部監査という専門の批判者が用意されているのは、この反証の為なのだ。日本で共産党が政権をとる可能性は極めて低くなっているが、何でも反対するという一つの重要な資質において、この政党は非常に重要な位置を占めているといえる。少数意見の尊重という一般に言われる多数政の長所は、この反証可能性を最小の支持者しかいない人からまっとうさせるという点に求まる。実際、賢愚や善悪は相対的だから、偏差値の様にその意見の正解度を分布させうるとすれば、或る案件の問題解決案の提示で最も良い成績の人物は、ある集団の中でたった1人しかいないはずだ。殆どの人、ほとんどの市民は、この最優秀者の成績を100点とし、最劣等の成績を0点とした時、それらの中間点のどこかに該当する意見しか持ちえないはずだ。アリストテレスが公徳の面で最優秀者の単独政(いわゆる王政)を最善といいい、多数政を消極的な意味で誤り辛いとしか述べなかったのは、何らかの形で君臨する王か、多数派が選出した長によって行政が行われるどちらの場合でも、王自身が極めて賢明であって他の全市民より自己批判に優れている様な場合があるとしても、特にこの行政権の行使に関する反証可能性を満たす様な場合に過ぎないといえるだろう。市長を少数者である貴族的集団から選ぶときについても同様である。
 具体的に市議の場についていえば、市長の政策立案についてそれが相対的に正しい可能性があると証明する為には最低でも1人以上の反対者が必要になり、この検証の見地が市長自身が気づかない盲点をついたものであればあるほど優れて望ましい指摘にあたる。よってある議題について全員一致で賛成の案件については破棄するか、要検証として保留する様な条例を、単なる市議の慣行としてのみならず既存で作っておくべきだ。逆にこの条例のもとで或る案件に市長以外の全議員が反対の場合、市長の意図を集団浅慮で全議員が読み違えている事しか証左されない為、議会と行政の分離の旨から、この案を推進する事に問題はない可能性がある。なぜなら市長が最善者だった場合、必ずそれより劣る公徳しか持たない全議員が全員反対に回る事になるだろうからだ。市長が独裁化し明らかに最悪の政治を行っている時にも全議員が反対に回る事が考えられるので、全員賛成、全員反対のいずれの場合でも、全会一致はその案の盲点が反証されていない事になる。よって、たとえそれが最善案にも関わらず全員反対だった場合でも、少なくとも本当に最悪案かどうかわからない為、保留するか、さもなければ再考が必要と考えるべきである。市民は市政から給与をもらっておらず、専用の議員を選出してもいるので、全立案について無償で市民に監視する役割を担わせるのは困難である。つまり議員か、それに類した外部監査役の中からこの市政監視の役割を担う人が必要である。

 結局のところ、産業に関して、北茨城市長や茨城県知事は、全体調整的で、公害がない限り民業放任の原則に立つ経済政策をはかると同時に、保障に関しては、最貧者を最優先とし、比較貧者の側へ傾斜的・累進的な基礎所得保障を進め、BIと負の所得税を茨城、北茨城行政が導入し、県・市域の幸福度を最大化する事が必須となるだろう。

  水戸市の高さ制限に話を移すと、これは市街地の人口密度を低下させる要因となっており、集積の利益に有害だが、他方で大都市化をある程度防ぎ、結果として失業者を生み出す潜在要因も、求職者を南関へ吐き出す事によって未然防止する結果になっているかもしれない。したがって、この正反両面をもちあげて、集積の利益を発揮させながら失業に伴う所得低下という潜在要因を防止する必要があるが、前提として電車で都内へすぐ通じる距離に留まる鼓舞がなければならない。それは事業を行うにあたって水戸市の方が少なくとも都内より、できれば世界で最も有利な何らかの誘因でなければならず、この産業誘因が現存する場合において、市街地の超高層化が合理的なら条例の撤廃か、ランドマークの改変どちらかが有益になるだろう。また産業誘因が現存していても、市街地の超高層化が不利になる場合、例えば同じ業務あたりより広い敷地が必要なので市の地価が高騰する場合は、高さ制限を維持するべきになる。いずれにしても、比較優位となる産業集積の条件が市街地に必要であり、基礎所得の保障による人口減少率の低下もこの事に役立つかもしれない。無限の大都市化そのものへの志向は、上述の仮観論で述べた通り、際限ない情報氾濫がもたらす嫉妬を呼ぶ競争対象に起因した不幸感という面で決して、合目的ではない。幸福からみれば、都市住民全員の所得増加が無限の未来に向かって見込まれる様な状態が合目的である。
 イギリスが高福祉化の果てに、被生活保護者の人口増加によって生産性の低下を伴い、サッチャー時代に中福祉的な新自由主義政策へ転換した。日本政府は小泉・竹中のペア以後、広がる格差を縮減すべく民主党時代に高福祉化を部分的に図ろうとしたが、東日本大震災後の混乱や菅直人政権の暴走、自民党による妨害が反動をもたらし、結局いまみられる低福祉化を進める新自由主義路線を続けている。この路線は安倍長期政権下で偶然起きた団塊の世代の大量離職と少子化の二重の幸運によって失業率の低下をもたらしはしたが、就職先ほしさの若年層が、倫理自粛のないインターネット文化として匿名の悪意が集積した2chまとめサイト等の極右メディアから差別主義に洗脳されていた事とあいまって、長州閥原理主義に基づく明治右翼を自称し退行的ともいえる民間介入を伴う国家社会主義や、アメリカ経済のやり方に追従する富裕層優遇の金融緩和政策(つまり金融商品の利益にかかる減税と、日銀や年金機構による日本株買いでの株価釣り上げで、国内外の投資家、特に外国人投資家へ日本企業の売却をはかるバブル誘発政策)をとるアベノミクスの成功と勘違いする状態になっている。端的にいって安倍独裁政権は小泉・竹中路線以後の自民党政権がGDPの低下、国力低下をもたらした国家的失墜と帰一であり、報道統制や北朝鮮の砲撃に恐れおののく近隣国への差別意識から洗脳されていた衆愚がこの独裁者の失脚以後に日本経済の敗北をしったところで、時は既に遅いとなっているであろうし、現になっている。イギリスの経済政策についてもいえる事として、金融緩和という名目で投機や投資を煽る路線は必然に格差拡大をもたらし、少なくとも低所得側に不公平感や嫉妬の苦痛を与える為に幸福度を低減させるという事であり、金融緩和策をとる前には十分な社会保障、特に将来も所得低下が起きないという意味での基礎保障の充実が必要だったという史実である。アメリカはオバマ時代にフード・スタンプという形で、少なくとも配給による低所得者向け基礎保障を行ったが、日本の側は皇族閥に属する安倍、麻生両氏が総理・副総理になったという世襲財閥の寡頭政治が進んでいる事、また被災者がこれら薩長藩閥の末裔と対抗した福島を主とする東北側の人々であったことからも、小泉・竹中が進めた非正規雇用法の延長下で低所得者を冷遇する事の方が優先された。安倍独裁下で日本の相対貧困率や子供の貧困率が上がったと同時に、安倍の生まれ育った都内の富裕層の数が増えたのはこの為であり、総じて、安倍党首のもとで自民党の一党独裁あるいは自公寡頭政治は、新自由主義の牙城であるアメリカより一層、国民全般を不幸にする様な施策をとった。その上、軍艦島や松下村塾を含む、侵略主義の証拠を、政治学的に疑義が呈される中で世界遺産登録するといった、安倍の地元である山口県への不当かつ周旋的な利益誘導もこの中に含まれているし、既に決まっていた栃木福島地域への国会等移転を無視して大都市であると同時に安倍の地元への道のりの途中にある京都市を他の過疎自治体より優遇して省庁移転を決定させる等、森友や加計学園だけでない数多の権力濫用を含みつつである。この醜い現実から目を背け、差別主義や独裁者への狂信を補完する確証バイアスを得ようとした愚民は、都内マスコミが視聴率めあてに模倣する、極右的な自画自賛の愛国番組を、まこと恥ずべき事だが熱心にみて、現実逃避していた。日本国民の過半数が愚民であるという事は、過去の歴史や他国の有様と比べて何ら遜色ない(これは全体主義軍事独裁政権が天皇帝国の元で行っていた数々の蛮行を省みれば余りに傲慢な意見であろう)が、先進国と呼ばれる国々の中にあって、その政治民度の低さは最下位級であるという事がまぎれもない真実である。我々が政治的に愚昧な制度をもっている、という事実について我々は冷静に認め、抜本的改善につとめるしかない。神道という自民族中心主義の教祖が象徴と名乗り、議員全員を全会一致の幻想で無理やり洗脳しつつ退位法を違憲立法させ得るほど三権の中核について実質独裁し、しばしば宮中祭祀といって徹夜で怪しげな儀式を行っている恐ろしく時代錯誤で旧態依然な現状からいって、政教分離すらはかれていない悪質で後進的な体制であり、中華思想的な態度に終始する官僚主義とか、平気で企業献金を受け取って恥じない一党独裁の体制等、他の全ての面についてむべなるかなと現実の国政が証明している。
 県内で最大都市といえる水戸市が、或いはそれ以外のいずれかの県内都市が産業面で高い占有率をもち、競争優位に立つには、上述の事情からいって、起業リスクを世界一とりやすい基礎所得保障が最も有効だといえる。ある会社、またはある事業、ある投資が成功するのは確率にも依存し、失敗する危険を侵す必要があるが、それら挑戦を行うには、失敗しても再起できる最低限度の損益率の管理が必要である。ところが日本政府の経済政策は、低い資本金でも挑戦できる高レバレッジの為替取引や仮想通貨取引を規制してみたり、低所得に留まる非正規雇用法の維持とか、学歴フィルターをかけた新卒一括採用の慣行と中途採用の少なさといったひたすら国民の再挑戦を阻むあらゆる陋習にみられる通り、むしろ危険とか例外的才能を最小化する方へ傾倒する。これは日本政府だけでなく、セロトニン・トランスポーター数が少ないため不安を感じやすい脳の遺伝子をもっている、日本に在来してきた人々の生得的な性格傾向にも原因がある。悪い意味でお役所仕事といわれるよう公務員がその最たる存在だが、日本人の頭が固く、融通の利かない場面がとても多くみられるのは、機械のよう型にはまった事をくりかえすのが最も不安を感じ辛いからなのだろう。事業の成功にはその裏に凄まじい数の失敗という試行錯誤がどうしても出てくるものであり、素早く問題解決学習をはかる事ができこの種の失敗を他人に比べてし辛い人がいたとしても、なおそうである。要はこの様な安全志向の脳をもっている在来の遺伝を考慮し、それでも膨大な失敗にめげず挑戦に次ぐ挑戦を行うよう鼓舞する条件づけが、県内の人々のうち一部の人が大成功する為の最低限度の方法論である。行政が為すべきなのは、起業や投資、事業を興して失敗しても、その他、研究や探検、探求のいかなる事例の失敗を含む試行錯誤についても、最低でも挑戦する姿勢を何もしない臆病より奨励する前提に立って、致命的にならない範囲での失敗を損益率の計算から許容しつつも、県民の全数が何らかの事業で失敗した後に少なくとも再起できるだけの基礎所得保障を徹底する事だ。ごく簡単にいうと、何もしないよりやってみる方がましであるとし、リスクを許容する考えでいなければならない。大抵は失敗するかもしれないが、工夫を重ねて目的を達するよう続けていれば、少なくとも県内の誰かが何かについて、圧倒的に傑出した成果を上げる結果になる筈だ。またもともと不安を感じやすい脳であるからには、この種の危険を取る事を極度に嫌がる人もいるのだから、進んでリスクをとる挑戦者という気質を全体主義的に押しつけるようなことは避け、飽くまで当人の意思と好みに基づいて自由の範囲で、この種の行動原理や環境づくりを促進し且つ推奨しなければならないのだ。大井川氏も、あるいは豊田氏も、水戸市の高橋靖市長を含む県内の全郡市町村長も、特に大井川氏が見逃している事は、或る危険度の高い事に挑戦するには、少なくともリスク・リワード比の点で自分が死ぬことはないとか、失敗してもやり直せるという確信が持てない限り、人は命がけの無謀さをなかなか持てないものなのである。無謀は危険の過小視、臆病は危険の過大視に由来し、両者の中庸である勇気は危険度を適切に見分けるところにある徳である。再起可能な最低限度の基礎所得さえ確約され、危殆に及んでは実際に手に入れられていれば、県民市民は死なない範囲で好きに行動するはずであり、殆ど成功する見込みがない様な事とか、間違えれば損害を被るような事についても、自分からやってみる人がいるのである。つまり、起業を奨励するとか、産業上の成功を求める為には、実際には事業をする側へ手を加えるとか助成するのではなくて、その地と図を反転し、失敗した場合の安全度、つまり基礎所得保障が完全であればあるほど挑戦しまくり易く、結果として成功者を続出し易くもなるのである。上述の人々のうち、和歌山県や鹿児島県の事例は具体的な農業の革新そのものを主体となっている県庁に依存したり頼る癖を呼び込んでしまい、京都市や佐賀県、あるいは北茨城市や茨城県の事例は文化という名で芸術の挑戦そのものを行政が身びいきな大甘の判断によって保護する結果になり、却って前衛性を損なうであろう。これらは市場の合理性とか、現代美術が欧米オークションでの投機市場を中心に回る様になっている現状(つまり現代美術の審美眼について素人級の一行政人が現代美術の流れを変える様な業績を、他にも用途がある税金を顕示的に消費する範囲で主導できるとは思えない事)にかんがみ、官製の民業圧迫が基本的に全て害悪であるという見地に基づいて、寧ろ県政市政はすべて、これらの不安がりの人々の主観からみて損益率が必ずしも芳しくない様に見える挑戦をも進んで行えるような基礎所得保障の側に一切の舵を切るべきであると知らせているといえるだろう。勿論、損失に対して利益の割合が高い、つまり損益率が高い生業を選ばねばならないのだが、保守主義の傾向をもつ人がそうであるよう、過度に臆病な人々はこのうち損失を課題に見込む傾向があるのだ。俗な言い方をすれば、「下らない事あれこれやるならとりあえずそのカネくれよ(そうすれば好きにやるわ、なにしろ税金が定収入としてもらえている公務員には終ぞわからないのだろうけど、庶民は明日食うものにすら困っているんだから)」、という事であって、寧ろその方が県民市民を幸福にするし、芸術を含む文化や産業の振興にも結果的になるという論証がこの論文の趣旨であった。