2018年2月24日

日立国論

 今の日本国民全般はマスメディアやサブカルチャー、また文科省の与えた教育等、東京都に洗脳された情報環境を通じたものの考え方や見方をする。そしてセトロニン・トランスポーター数の少ない脳の遺伝的変異をもっていて、この為に群衆化を自己目的に行い、周囲の日本人一般と見なした集合意識へ同調したがる。この東京発の情報環境下での全体主義集団心理が魅力度報道をはじめとする一切の日本人の典型的偏見や差別を生み出している。又、彼らにとってこの偏見や差別を自己批評的にのりこえる事は極めて困難なばかりか、恐怖のあまり吐き気を催す体験であり、科学的真や道徳的善をはじめ、美醜や価値判断の一切を集合的他者と見なせる多数派世間に頼り、自分自身でこの国家規模の洗脳から抜け出す勇気も意欲もない。逆に、日本国民全般は、積極的に東京のマスメディアや政府、その他ネット世論等、周囲に同調できる多数派集団と見なした相手へ、卑屈なまでに追従したがる。
 少なくとも、ブランド総研の田中章雄はじめ、都民の一切にとって、他県を差別や偏見で塗り固めて貶める事は、単なる商売であって、それによる法的・倫理的制裁が政府機関や世間から行われない限り、罪も恥も全く感じないであろう。この決まった千人程度のブランド総研会員に対する主観的なイメージ調査を毎年くりかえす事による稼業は、田中章雄にとってもその他の日本国民にとっても門地差別エンターテインメントとなっており、その集団虐待の対象がどの自治体になろうと、単にストレス解消の為の特定自治体に属する一部国民への汚辱ゲームとしか日本人全般は考えないであろう。この決まった会員を対象にしても、その他の人々を対象にしても、田中章雄やマスコミの主要関係者が住まう東京都が47位になる可能性が十分に低いので、いわば絶対的安全地帯から不利な条件に置かれた日本人に汚名を着せ差別と偏見で侮辱する事を、これら一部都民は生業にし、その他の衆愚的日本人も半ば悪意で同調しているのである。
 上述のことを十分に省みると、具体的に問題を解決するには、
1.田中章雄と総合ブランド研究所を地上から除去するか、
2.東京都のマスコミ各社に差別・偏見の報道を禁じる法制を布くか、さもなければ
3.日本国民全般の遺伝子を地上から除去するか、
これらの3つのうちどれかしかないように見える。1で田中章雄の寿命によって解決する場合をいえば、この特定自治体への差別・偏見による商売が終わるにはあと10年以上かかるかもしれない。それ以前に、田中が事故、病気、その他の事件で死亡した場合は、もっと早く、この報道公害が終わるかもしれない。3で日本国民全般という差別や偏見を厭ったり情報の批評的理解力に欠けた同調脳を持った衆愚をこの世から民族浄化する場合については、米中軍や国連軍等による大規模な戦争が起きたり、何らかの天災、或いは疫病の流行等で、一網打尽にしたりする事が考えられる。2の差別偏見の報道公害を防止する道筋については、自由圏においてかなり難しい事ではあるが、安倍政権ならやりかねないという意味で、国政と内閣に強く訴える事はかなり有効といえようが、報道公益への弾圧の糸口にもなる諸刃の剣ともなりうる。
 大井川知事を含め、茨城県民も日本国民も、この問題が報道公害や日本人の衆愚的集団虐待の悪意という、構造的な差別問題なのを自覚していない。そしてそもそもこの集合無意識が出てくる源泉は、神道という奈良発の弥生系民族宗教と、その教祖である天皇という象徴的権威が都心に住んでいるという都鄙差別の構造である。この根底にあるのは、遣隋使以来、天皇が中国風の中華思想を模倣し華夷秩序を述べてきた事にあり、いわば「京都思想」と言える当時の天皇が住む大都市における自文化・自民族中心主義と、その蔑視対象であり搾取対象としての田園地帯という神道的帝国主義そのものといえる。逆に、イギリスは荘園領主以来の紳士や郷紳の貴族政治が上院に維持され、イングランド国王は連邦各地を封土として特権階級に付与するという形式をとるので、近代都市よりむしろ田舎地帯が尊く、美しく、守られるべき原風景という国風や民情をもっている。明治以後の日本人全般は田舎や農地を頭ごなしに差別し、農民階級をも蔑視し、都心部での商人生活や官吏が格上の存在だという一種の妄想をもっている。もしこの事が中国の文化構造の忠実な移植なら、なぜ日本や中国に限って、イギリスの価値観が植民地を通じて世界では一般的なのに対して、これほど極端な都鄙に対する価値観の違いが生まれたのか。この都鄙差別の根本原因をとりのぞく事こそ、唯一、わが県民がこの世界において誉れ高き誇りと気高い名誉をとりもどす最初にして最後の手段と言う他ない。それは、水戸学において貫かれていた尊皇考を否定し、のりこえる事に如くはない。
  中華皇帝の模倣者として奈良で奈良時代に捏造された、奈良人の先祖たる中朝系の特定弥生人崇拝の新宗教は、それまで日本に遍在していた自然崇拝を、中国風の多神教に染めて、いわば在来日本人を奈良の中朝移民の奴隷に仕立てようとした。この自然崇拝と、神道という新しい多神教は、歴史の長さにおいて数万年の開きがあり、別の信仰形態である。実際、明治時代に天皇政府が強要するまで、アイヌはこの原型的自然崇拝を維持していた。最低でも3万年以上日本列島に住んできた縄文民族こそ本来の先住権をもつ本州の日本人であり、天皇の先祖であろう弥生民族は、今から7000年前の弥生時代に侵入ないし侵略してきた異民族であったのだし、この末裔たる天皇も我々日本人の直接的な先祖とはいいがたい。外来目線でいえば征服者、日本目線でいえば侵略者の天皇を天皇自身と共犯的に、政府権力にとりこんできた歴代将軍や首相は、自ら執政する都心を神格化・偶像化させ、礼拝なり崇敬させる事によって日本人の帰順や服従を宗教的な洗脳や情報操作によって誘導してきた。つまり現時点の安倍晋三氏も、或いは側近にいる麻生太郎氏も、かつての華族や公卿連中、徳川家や毛利家、島津家の様に天皇と血縁・親戚関係を結ぶ事で、自らの政治的権威を絶対化しようとはかっている。そして茨城県、かつての常陸国並びに下総国が東京都民や日本国民全般から、意識的にせよ無意識的にせよ魅力度報道にみられるよう実質的な差別対象にされている理由といえば、この薩長藩閥と天皇家の東京政府における血族支配体制による、旧徳川家の強権的支配地への冷遇に違いない。勿論、徳川氏も天皇の親族であったが故に、その権力を確固たるものとするべくして、家康の代においても、義烈・慶喜公の代、水戸家においても皇族との縁戚関係が結ばれていた。勿論、単に民放テレビ局をもっていないから外部に知られていないとか、まだ知られていないだけとか適当な理由をひねりだして、薩長閥、皇族閥による徳川支配地への差別をなかったことにしようとする者がいるのは理解できなくはないが、尾張こと名古屋市が都市の魅力度で最低と同じく差別されている事についてかんがみても、また福島や新潟、青森といった奥羽越列藩同盟側の主要な地域に東電や日本原電による原発災厄が準備されているのは、明らかに西軍からなる日本政府関係者、及び日本国民全般からの悪意によるものだとみなす方が自然な証拠におもう。これが被害妄想であるというのは簡単だが、現実に福島原発事故時の菅直人、それ前後の安倍晋三という山口県出身の長州閥首相をみるに、これらの人々は明らかに明治イデオロギーによる日本国内の旧徳川方への侵略内乱罪含むありとあらゆる嫌がらせと悪意を、全く恥じたり罪と反省する気配がないどころか、心底からの悪で暴挙をしているというべきなのである。勿論、これらの手先に実行させてはいるにせよ、天皇家が真の悪の親玉なのはいうまでもない。端的に結論をいうと、茨城県が再び常陸国として国内及び世界に名誉を回復するには、天皇家と薩長藩閥による日本政府を一旦滅ぼし去り、新政府を現茨城県内に茨城県勢から樹立し、その新政府において、常陸国(日立国)を立国、完全に日本国から独立し直す事しか道のりはなさそうである。上述の1~3の選択肢のうち、1について田中章雄の死後、報道を通じて散々洗脳された日本人衆愚は相も変わらず茨城県を偏見と悪意から差別し、侮辱し続けるかもしれない。また2について、東京の報道がどれほど悪意と偏見、差別、虚偽と暴挙に満ちていても、結局は県外人のmedia literacyや文化人類学的な他地域への批評的理解力が低いままなら、別のさらに邪悪な洗脳を受けて同じ差別をくりかえすだけであろう。これは県内に限っては然るべき教育によって改善しようものの、神道的中華思想、京都思想を持った衆愚にあっては全く希望はない。現東京政府がいかに全国民へ博愛精神やそれぞれの地域文化や伝統に対する理解と敬意を教え込もうとしたところで、天皇独裁あるいは将軍専制による都鄙差別という二千年間にも及ぶ愚民化・奴隷化政策のあとで、どれほど民情の回天に時間がかかるだろう。そもそも弥生時代以後の日本各地は、おもに縄文人と弥生人の間で、あるいは弥生人間での内乱が平均150年単位でくりかえされてきており、その混血がかなり進んだ今日にあっても、150年前の戊辰戦争が最後の両民族間での内乱だというべきである。この様な内乱が起きる理由は、日本の先住人と、弥生系侵入者との間にはY染色体ハプログループに関する限り遺伝的距離が7万年も離れていて、弥生人は既に住民のいた大陸・半島から排斥されたり何らかの訳で移住して無人の西日本に植民した以上、そもそも日本人の為に移民してきたわけではないので呉越同舟に過ぎない事、その上考え方や感じ方といった文化にあまりに違いがあり、日本や東南アジアの肥沃な大地に狩猟採集生活をしてきた縄文人の共和的利他主義に対して、おそらく不毛な草原地帯の続く北アジアや中国朝鮮に暮らしてきた弥生人の簒奪的利己主義というその傾向の真逆さは、長らく日本国内の武力を伴う摩擦の原因になっている。はっきりいえば、この傾向は性格遺伝子の違いに由来している可能性もあるので、相互の本性自体を変える事はおそらく難しいであろう。勿論、個人の単位では利他的弥生人や利己的縄文人の末裔も存在し、文化の詳細にはもっと複雑な地点もあるだろうが、ここで単純化して理解した両者の違いが、結局は薩長や西日本人の人々の自己賛美と東国蔑視、そして東京に来た彼ら弥生系移民の末裔による自己崇拝と、周辺の田園地帯や工業地帯を朝貢する農奴・奴隷の居住区とでも言いたげな、中華官僚的差別意識を生み出している原因なのである。この華夷秩序において自己神格化をはかってきた天皇の様に、弥生人が歴史的にもっている利己性や簒奪性という傾向は、平成時代においては農工の侮蔑と士商の賛美という二極化をもたらした。なぜなら、東京に入ってきたこの天皇家という簒奪者や薩長土肥京の末裔たる華族・官僚連中はひたすら周辺国民を暴力や権力濫用で収奪すればいい、あるいは政商の癒着によって暴利すればいいと解釈したからである。岩手出身の先住日本人の民主政治を冤罪にかけてまで冤罪報道・疑獄する割に、山口出身の中朝移民といえそうな人物だとか奈良に帰化したその末裔による違憲行政や金権政治の数々を称賛する東京以西の衆愚を鑑みよ。これらの人々は、端的にいって純粋に利己的にふるまう事を本性に基づいてしているだけで、日本人全般を奴隷化する事に何の疑問もないからそうしている。他方で、日本人全般は、もし彼らが先住人の血筋を引いていれば猶更、もともと利他的で共和的な平和文明を数万年にわたり国内で維持してきた種族であるから、これらの横暴を働きたがる独裁者・寡頭政治家らを一種の内に秘めた反抗心を保ちながらも、むしろ許容してしまうのである。『古事記』に記録されたところ以前にも、古墳時代以前においてこの侵略者たる弥生人集団と戦った各地の長は間違いなくいたし、それ以後も、天皇家が悪意をもって抹消してきた数多の先住日本人達の長、そして住民らがいた。靖国神社が慶喜公の末裔である徳川宮司において尊皇親幕の会津合祀や、徳川派への裏切りや濡れ衣の果てに最後には長州閥にも抗った西南戦における薩摩閥の合祀を行おうとしたところ、一部の山口県民の利己のみが目的の長州閥原理主義右翼がそれを非難したわけだが、この背後には、天皇の独裁権に反抗する者を徹底して差別し汚辱し歴史的に抹消しよう、という利他心を一切もたない完全悪の邪教神道の教祖・天皇による悪意が横たわっている。そして弟への常陸宮という親王任国の名義づけを天皇家が踏襲しながらに、天皇支配の平成政府下の民衆が、当の茨城県を軽侮し、差別し、偏見により蔑視する事は、それが天皇崇拝と国民蔑視、結果としての都心崇拝と田舎蔑視という神道教義の実践段階だと考えているからに他ならないのである。しかも、長州閥独裁政権下で日本人衆愚がこの卑しい差別心と邪教崇拝の邪念から蔑視対象にしているのは、常陸水戸や尾張名古屋といった旧徳川御三家の歴史と伝統が息づいている地域なのである。
 これが魅力度報道の決定的な民族精神分析であって、 大井川知事が単純に考えている様な外部に知られていない、という宣伝効果だけでは決して説明できない事なのだ。司馬遼太郎ら明治賛美の長州閥原理主義または神道原理主義右翼らは、その尊皇考や象徴天皇の体制論が当の水戸に直接由来している事など、全く知らない。逆に統一日本による欧米からの植民侵略を防ごうとした専守防衛理論たる正義の水戸学を、天皇を箔づけにした利己の権力簒奪の為の倒幕イデオロギーや侵略内乱の松陰植民地主義の正当化に悪解釈し、明治以後の内外侵略や神道原理主義的創氏改名・廃仏毀釈等の天皇帝国主義に至らせたのが、薩長藩閥を主とした西軍と天皇家である。この事も、利他的傾向をもつ縄文文明の末裔としての水戸の平和主義やそれを支援した奥羽越列と、利己的で害他的な傾向を恥もしなければむしろ誇ってさえいる弥生系移民の末裔の西国諸地域に対極的にみられる傾向の摩擦だといえる。滋賀出身の原田伊織は幕府の忠臣を述べてありながら天皇家や徳川家に攻撃した、忠義の点で日和見的な行動を幕末にとった井伊家を正当化する為に、浅薄な悪解釈で水戸学を非難しているが、一言でいえばろくに文献を読んでもおらず、その思想体系について何も理解していないといえよう。これらの全ての悪意は、徳川宗家が戦国時代の末期に内治を完成させ、江戸時代を通じて行った専制政治への恨み、そして水戸家の尊皇を貫いた慶喜公が天皇を守り大局的判断で第二の関ヶ原というべき東西主力軍の内乱分裂により日本の欧米による植民侵略を避け、自己犠牲的に継いだ宗家や一橋家、自らの実家水戸家の地位を捨ててまで祖国防衛を両立すべく禅譲した事への無理解・誤解と悪解釈、或いは暴力至上主義や反平和主義からの罵詈雑言や讒言、侮辱が原因だといえる。日本人衆愚が水戸家や水戸学、徳川慶喜の立場を理解するには程遠いが、それは薩長藩閥中心主義、薩長史観、明治史観、天皇史観によって禅譲した慶喜や徳川家への敗者の烙印を押し続け、しかもこの利他的な、本来の意味で純日本的な行動原理を、本性から理解しえない弥生民族の末裔という生まれも育ちも悪い移民集団による無理解・誤解・悪解釈の偏見と差別によって迫害しよう、というのが、天皇家、安倍家、麻生家、そして日本政府や日本国民全体ぐるみでの悪しき目的なのである。要するに、これらの水戸の徳川家による政治は、実際には我々茨城県民、そして常陸国民におしつけられたものである。我々は自らそれを選び取っては全然いない。我々の土着の支配者は佐竹家だったのであり、それ以前には武田家や伊達家など様々な群雄が割拠していたのであり、さらに遡れば純日本人達が平和文明を建国していた。徳川氏は群馬、愛知経由で武蔵・江戸に出てきて、そこから佐竹を退けさせて徳川家の末裔を我々の領地におしつけてきた。そしてこの支配に逆らったとみなされた、生瀬村の事例にあるよう、単に役人もどきの詐欺に騙されただけでも、水戸徳川氏の軍によって村ごと惨殺され消されてしまったのである。この様な厳格な支配体制下で何とか生き抜いたうえ、忠義に基づいて最大限、祖国防衛の為の利他行動に死力を尽くしたのが水戸と茨城の先人であって、天狗党も諸生党も含め、その後の全ての人々も含め、単に常陸一国、下総国のことだけを考えていたのではなく、むしろ会沢正志斎や藤田東湖、桜田義士や芹沢鴨らのよう、今日の日本全体を思い、日本と言う国号を実質的に制定した烈公や、象徴天皇や議会政治の直接の祖である慶喜公のように、明らかに普遍的政治道徳に基づいた正道を辿ってきたのは、薩長土肥でも京都でも広島でもなく、それどころか攘夷が不可能なのに征夷大将軍という防衛省の役割を放棄して義勇軍の天狗党を弾圧をしたり西郷と島津の暗躍で冤罪にかけられた水戸へ疑獄内乱を起こし自己崩壊を招いて江戸・東京でもなく、茨城こと常陸国の人々なのである。
 全国民から収奪したカネや財物を消費するので商人が集まった都心に住まう中韓移民の天皇が主で、その侵略犯に農作物や工業製品を貢納するのが日本先住の国民であり、この飛鳥時代以来の日本人差別に基づく腐敗した独裁政の主従関係は、今をもって終わりを告げた。確かに水戸の徳川家は、5億年以上続く常陸の全史に重要な時代を作り、特に歴史学の分野で一家言を作り、儒教や国学を大成した偉大な史書や派生した思想をもたらしたし、それは常陸を含む日本全体の近代化の原理となって統一国家を形成し植民地侵略を防いだし、殖産興業や愛民思想に基づいた仁政徳政の事績は常陸を全国二の農業大県にしたし、烈公が発展させようと考え命名した北海道も全国一の農業県になった。これらは農本思想に基づいた民を慈しむ儒教的仁政の理想と水戸学者によって宮中祭祀に復活した新嘗祭に象徴される秋津洲の瑞穂の国を体現しているし、私以外の誰も水戸家の偉大な貴族性をもはや評価していないとしても、私は最大限に彼らの理想的な統治者としての資質を理解しているつもりだ。ユネスコが弘道館と偕楽園の構想に今は無き武士の平和国家を守る清冽な気概をみてとれないとしても、もし義烈両公が今日の常陸を見渡せば、恐らく民の努力に感激し、彼らの理念が忠実に再現されていったその後の発展史に満足する事だろう。敵の辱めを受けぬ前に水戸城を焼き払った高潔においても、慶喜家を歓待しその最期を常陸国水戸において畏敬の念において見送りえた事の忠節においても。一方で、日本国民全体から貶められ辱められた武士道と常陸水戸の地位は、いかなる手立てをとろうと最高の名誉をもって復活されねばならないし、その為には、県外のいかなる日本国民を犠牲にしようが、もはや躊躇も寛恕もいらない。なぜ県外人が茨城県民の名誉を貶めるか、辱めるかと言えば、彼らの無知のみならず、当の常陸人によって確立された尊皇の理念を衆愚が誤解し、君民一和、尊皇愛民どころか天皇を崇め国民を蔑んでいるからであり、挙句の果てに食のありがたさや農工尊重の念をも忘却し東京商人のカネ儲けと腐敗官僚の贅沢を卑しい町人都民の扇動によって偏重しているからに他ならない。この事態の根源原因は天皇という邪教祖なのも、又明らかである。義公は皇国史観を通じ古代王朝の末裔としての天皇を神格化し、妻である皇族を通じて水戸徳川氏の尊皇愛民の副将軍たる地位を確固たるものにしようとしたのだろう。だが、その尊皇精神こそが衆愚の都心妄信と田舎蔑視の原因となっているのなら、これはもはや主権者たる茨城県民自身のただの本末転倒の自損に過ぎないのであって、今や我々は尊皇主義を破却しなければならない。一体、この宇宙のどこに差別される為に悪しき侵略者の教祖を崇める愚か者がいるだろう。日本国民という県外衆愚に我々の名誉がけがされない為には、天皇や日本政府と手を切り、たとえ一県なりといえども一国として再び独立し、自律自衛の軍事増強の為に富国強兵を徹底し、県外国外からの内政干渉のそしり一切を完全に排除する事が必要だ。県外の天皇政府に財政的に依存していたり、日本政府からの軍事的支配を受けている事こそ、わが常陸の国民が自らの自律を侵害されている原因に違いない。
 もし日立国が独立後も、外人がわが国をそしり、貶め、辱めてきたとしたら、その事を歯牙にかける必要は全くない。わが国がその歴史と伝統において傑出した偉大さを保ち続けている事が重要なのであり、それには国民一人が自らの尊厳を宇宙で最も高い次元に保ち、尽忠報国と主権の権化であればそれで十分である。日本国という烈公が植民地化を防ぐべく名付けた単位は、期限切れのものとなり、わが日立国の前に滅び去る事になるだろう。現時点では誇大妄想と受け取られる見解にみえるだろうが、私は必然の未来を見通し、単に近い将来の世代から見れば当然の事実を述べているにすぎない。日立国外人は我々自身とは関係がない。単に、必要なのは主権を完全に樹立し、それを永遠にたもつ為の軍事独立に他ならず、この為には300万国民全員が最後の1人になるまでゲリラ戦を続け、日立国の独立の為にあらゆる手を尽くす事が最善だ。またこの独立を維持する為の武器の開発を何より最優先とし、ひたすら各国の軍事を学習し続けるべきである。金融業を国家産業とし、ここで得た利潤は全て、日立国の尊厳を自律によって守るべく、軍事費に費やす覚悟がいる。金融軍事大国が、茨城県の後裔たる日立国の執るべき方途である事を明記しておく。なぜなら、武士が発祥し最後の将軍の末裔が亡くなったこの常陸は、正真正銘の武士の国であるからだ。この武士道を完成させる事こそ、首都水戸に託された使命だといわねばならない。日本国民にいかに侮辱され罵られ偏見で差別を受けても、我々自身が誇り高き正道を辿ってさえいれば、完全に無視できる。その正道こそ、常陸あらため日立を国家として日本から独立させ、我々国民自身による国民の為の本来の共和国家を統治する事である。抑圧者・弾圧者・侵略者・内政干渉者である日本国民こそ、我々日立国民の敵に他ならない。天皇は敗れ、亡び去る。日本政府は廃れ、消え去る。その後に残るのはわが国だけである。我々は今から、偉大な先人たちのあとを継ぎ、我が国が世界中から正しく理解され、尊敬され、最も名誉ある国民の一人であるとひたちの全員が見なされる事を当然と考え、その為にもてる限りのあらん限りの死力を尽くさねばならない。国外の衆愚を我々が脳ごと取り換える事はできない。いくら説得しようが宣伝しようが、明治イデオロギー狂信者や、水戸学の尊皇論を誤解し神道京都思想で田舎蔑視して恥じぬ愚民愚官愚皇になにをいおうが無駄である。これらの愚者、卑人はサルと考え、完全無視が唯一の対処法である。代わりに、我々自身がいかなる理想の幸福を、いかなる理想の福祉を、いかなる理想の尊貴なる永遠国家を作りうるか、そして最大の力と正義をもって我が国日立を軍事的に防衛し続けられるか、試さねばならないのだ。