2017年9月30日
茨城の置かれている国際化条件
うらをかえせば、愚者か悪人を見分けるのにこの印は使えるのであり、茨城県の名義を目立たせた場合、リトマス試験紙のように日本人内の知能の質の検査になる。偶然にも、我々の文化では他者に差別的ないし侮辱的な態度をとる人は、一般に社交上不愉快であって、我々からの交際を断る理由になるに十分である。つまり、ブランド総合研究所の田中章雄容疑者自身が、この種の愚劣かつ悪質な犯罪者であることはいうまでもないが、彼のたちの悪さと同等以下の暗愚さと悪意の持ち主だけが、魅力度報道にあおられ、弱者虐待に繋がる門地差別の類を多少あれ喜んでいるのだ。魅力度報道は単に違憲であるばかりではなく、関西地方や西日本に根強く残っている差別という悪質な文化形質を、福井県出身者である田中章雄容疑者が首都圏にもちこんできて、低民度の東京マスコミを扇動して、差別を強化する報道で金儲けしながら伝播させたものなのである。この種の弥生系移民のもつ階級なり人種差別が前提の文化が一般的ではない東日本人、つまり縄文系の先住日本人にとって、茨城県内外において西日本の渡来人達が中国朝鮮からもちこんできた差別という悪質な行動形質は余りに違和感があり、共感知能の差もあって、容易に同調も理解もしえないのであって、その必要もない。
勿論、この種の暗愚で悪質な人をバリアの様に見分ける為に、魅力度報道は利用できよう。すなわち主に県外人のうち愚劣であったり、悪意ある人種を事前に見分けられる利点が、茨城人にはあるということだ。最も功利的には、魅力度報道に関して侮辱的態度を示す人は、愚かか悪人かどちらかであるから、極力避けるに越したことはない。
強烈な被差別部落問題をいまだに抱え込む西日本では、田中章雄容疑者にみられるよう、十分に愚かであるか、悪意に満ちているほど前頭野が未発達か、どちらかの人間がかなりの数にのぼるのだ。知能のほとんどは遺伝する。したがって、我々がどれほど彼ら低知能な人々へ、科学的知見や別の角度からの主観的印象、あるいは正義についての道徳的啓蒙を行ったとしても、別の差別を続けるだけにとどまるだろう。この意味で、茨城の未来は差別的風土の西日本と縁を遠ざける方へますます進むことだろうし、低民度で衆愚化した東京圏とも違って、自律的な国際文明を志向していくことになるだろう。我々の文化あるいは民度では、差別を喜んで行うなど想像もつかないほど愚昧であって、もはや田中章雄容疑者の望む程度の前近代的段階へ退行することは考えられない。むしろ反動として脱南西日本と県民多国籍化の条件づけに、この固定的門地差別という田中章雄容疑者のもちこんできた絶望的に悪質な関西文化はなりうるものである。
2017年9月28日
茨城経済政策論
ここまでみてくれば、竹中、小泉、安倍、麻生らが内閣やその参与に属した自民党政権が平成経済の致命傷に働いたのが完全に理解できる。その根本原因は新自由主義政策による中間層以下の所得水準と消費性向の低下、つまり実質賃金低下である。小泉政権下で、竹中が己が経営者に就いた私企業の人材派遣業パソナに利益誘導しながら非正規雇用法を押し通させたのが、経済政策面で第一の失政だった。また森喜朗内閣時代に通した大店立地法により、自民党が地方商店街を破壊したのがその前座だったのだろう。池田勇人が所得倍増計画下で団塊の世代とそのジュニアという悪性の過剰人口を生み出した事も、不自然な人口ピラミッドによる年金・介護負担の過度の負担による急激な少子化をもたらし、現在の縮小経済の直接的原因になっている。
これらから分析可能なのは、
1.中間層以下の茨城県民における県民所得の上昇
2.県内外における消費性向の高い集団に対する県内業者の販路拡大
3.不自然なユースバルジ(youth bulge若年層の過剰人口)を生じさせないまま壮年の職住定着率を漸増させていく
4.大店法による県外の郊外型企業の虫食いを回避する商店街復興の条例
が茨城の発展に有効だという事だ。
1.については厚い中間層以下の可処分所得の上昇が即ちその地域の量的消費性向を意味するからだが、注意すべきは、この消費が県外からの購買につながる限り、GDP算定においても、県内の富の流出を意味することだ。極論すると、身近な恵まれない人に対する寄付を好み、しかも県外からの消費を嫌い、県内慈善の為の県外からの蓄財を是とする資質が最も望ましい。名古屋市や愛知県は尾張宗春以来のの藩風から「けち」を是としている。これは水戸藩の質実剛健や質素倹約の是とは趣が大分ことなる。愛知のそれはただ単なる守銭奴的態度である。茨城にあっては東京や京都の様な無駄な支出、見栄の為の浪費を戒める事による、自己資本拡大につなげるべきである。県外からの購買を可能な限り嫌い、身近な県産品を愛好する精神をはぐくみ、これまで通り、江戸・東京とすみ分けて、成金的浪費を下品とみなす精神的態度や地味を好む質素への上質な趣味を維持すればよい。
2.については東京圏以外に海外販路を拡大する必要があるのだろう。茨城JETROと共に県内企業に海路・空路の両面から直接輸出政策、日本産という銘柄を利用した高品質農産物の販売網構築、あるいは輸出に有利な工場誘致などの外貨獲得政策を推進するべきだろう。
3.については、出生率の急拡大または学生など若年層のみ、老年層のみの過度の人口急増を避け、賦課方式による負担を避けるよう人口ピラミッドの若年がわの微増を目指し、なおかつ、生産性の上昇につながる壮年の流入を図るべきである。だが、これには仕事場が必要だ。県内に職住近接型の工場又は企業とストレスなしで行き来できるセットになった住宅用地の確保が役立つ。公共事業で自然を保全したまま会社・住居(及び大型公園などの保養地)を最大限近接させた土地を、商店街の近隣に開墾した上で企業誘致し、宅地開発にあたっては需要に応じる能力のある民間事業者を募集する事である。この為の費用は国の復興交付金あるいは地方交付税など国の特別税から捻出するか、県産品を最大限に活用したふるさと納税で賄い、県又は市の公有地を市場価格より安価に提供する事で開発事業者を競争入札するべきである。
4.については各地の商工会と協議の上で、県外企業が県内或いは市内に大規模店舗を立地するに際しては厳しい法人税、事業所税、地方税、土地税、特別法人所得税などの事業関税上乗せを徹底し立地を完全に制限するよう、茨城県大規模店舗立地制限条例を施行するべきである。また県内企業については、郊外型の大規模店舗より指定した中心商店街に店舗を立地した場合に、税制面で一定の優遇措置を行う事で県内活性化に益する様にするべきである。
移民民度の選好について
これらの魅力度調査は、茨城に低民度な移民を遠ざける効果をもつに違いない。西国の衆愚や、東京圏の下層階級が流入しづらい事は、優れた地域であったり、今後もさらに優れていくためには極めて有効な条件だ。利用すればいい。田中章雄容疑者は悪意で地方差別を行い、風評被害や名誉棄損罪で犯罪稼業をしているちっぽけで恥知らずの罪人だが、この小人を泳がせてますます、茨城について非科学的な悪印象の偏見を、衆愚層に影響力のあるテレビ・マスコミを通じてつけさせる事は、我々県民にとっては極めて有利なのである。
代わりに、最低でも反証能力以上の知能がある、高民度な移民、或いはそれに伴う相対富裕な人々がわが県を選好するために、彼らに有利な条件を作っていくことが有益だ。既に研究所の集積は日本一だが、さらに世界一を目指して徹底した研究所誘致を図る事。それに伴う高規格でありながら他の自治体より比較安価で明らかに快適な住環境の開発と、高程度の学校誘致、県内食品の高品質・低価格化を県関税によって図り徹底してすでに低いがジニ係数をさらに下げる事。英語の第二公用語化を通じ、国際空港である茨城空港を通じ、国外ハブ空港を直接介して世界との交通利便性を増すこと。そして豊かな自然を最大限に残すことだ。シリコンバレーの発祥も研究施設を通じた軍需である。実例として学力のトリクルダウンはありうる。既に国の研究施設は集積済みなので、今後は全地球民間企業の研究所にとって、世界一望ましい環境を構築していく事が有用である。
県内給食の自給自足案
個性の多様性にあわせて、県内・市内の給食を、栄養価のとれる範囲でバイキング方式にするか、希望者には弁当持参または外食可能にすることも考えられるべきだろう。サッカーの中田英寿選手は幼い頃から肉のみを食べていたというが、特殊な肉体を作るにはこの種の合理的偏食が必要という事もあるし、実際にアレルギーによって何らかの食事を残さざるを得ない場面もある。
既に体力テスト平均値で1位か2位の実力がある茨城県の子供だから、県内の豊かな食を前提にする事でさらに、身体の健康性が高くなるはずだ。
県・市米の買い上げについては、飼料米への転換分の農家にとっての費用損失をいくらか低減する。税による補填として余剰分を福祉施設に必要量を調査したうえで無償で寄付できるし、県・市の公共施設及び役所内の食堂にも市場価格より高く買い上げて、より安く卸すことができるだろう。同様の措置を、何らかの原因で市価が県外平均価格より急落した場合、他の県産農作物についても適用することができるだろう。
2017年9月27日
農業自給県関税
県産作物の県内の市場価格を下げ、提携する関税県同士ではより安価に流通させる代わりに、東京・関西圏をはじめとした域外の市場に卸すには高い余剰所得を得る。こうして量産性と県民の生活水準の向上、そして農家の高所得性を両立でき、なおかつ、東京関西圏の暴利による損害や自給率低下を阻止できる。さらに、場合によっては名古屋圏もこの関税対象にすることで、三大都市圏のエンゲル係数を上げさせ、或いは輸送コストのかさむ九州地方と国外への低価格作物依存を進めさせる事で都市圏の食糧低品質化をはかり、都市部の生活困難さを増し、三大都市圏の人口減と域内移入の促進に役立つ。国外輸出についてこの関税は除外すればよい。域内で仕入れ、域外に流通させようとする卸業者については、家庭内で消費する分以上の転売を禁じるべく一度に仕入れられる量について制限を設けるべきである。
2017年9月22日
多選と少選についての分析
また特定個人への被選挙権の侵害は違憲の可能性もある。多選が悪とする論拠や根拠は乏しい。少選の首相による全面降伏へ至る大敗戦や侵略戦争を経験した国民として、米大統領の制度をまねるわけが、米国が第二次大戦の戦勝国側だったというだけなら滑稽という他ない。
米国が大統領の少選を制度化しているわけは幾つかあるだろうが、恐らく民衆の為に、内閣成員を総いれかえする効果による新陳代謝と、国政内容を民衆内に還元する事での政治民度の底上げが意図されているのだろう。絶えず民間から選ばれた大統領と閣僚を行政の長に就ける事で、政治と民衆の距離を近づけておく意図もあるかもしれない。いずれにせよ、政治が民衆を中心に回るような意図があるのだろうし、文字通りの意味でdemocracyを志向した制度なのだろう。
アリストテレスの中でrepublicの堕落した姿としてdemocracy やmobocracyが考えられていたとすれば、米国人は古典的な知識の不足から、デモクラシーという民衆政治を意味する英単語を、文字通りに読んで理解したのだろう。そしてこの逐語的理解に基づくリンカーン演説を通じ、彼らは民衆による民衆の為の政治を制度化しようとしていたのだろう。今の米国は学歴主義や資産格差による階級固定化のごく強烈な社会となり、ここでいう民衆が民衆のどの房なのか、単に全体なのかは疑問だが。
大井川氏は以上の様な道理からいえば、恐らく米大統領制のまねをさせようというのだろう。しかし、彼の弁舌から読み取れるのは、他の都道府県に同調せよという圧力の言辞だけで、「相場観」という独特のいいまわしで国民多数派のもっている何らかの思い込みにあわせようとする他人志向でしかない。これは当然、大井川氏の主張する差別化された県と矛盾する。もし相場観なる世論同調を誘うイデオロギーが万一あったとしたら、それに断固逆らってでも、自らの信念と正義に基づいて行政するのが真に堅固な政治家であるのに違いない。利己しか見ないパワーエリートに操作されやすく、営利しかないマスコミに扇情されやすく、無意味な同調圧力で異なる意見が正しくとも弾圧しやすく、気まぐれな上に時に信用に足らず、要は易きに流れやすい。それが世論なる水物であって、この種の圧力に帰依する人は単なる人気者でしかない。人気者は芸能人としてはうまくやるだろうが、堕落した政治家でもある。この世には俗受けするより正義を踏み行う方が重要な局面があり、全体の福祉を図る行政は常に、不人気な政策を要求される部署でもある。
まとめると、大井川氏の相場観という言いぐさは、彼が定年退職になる年齢頃まで彼が再選できればよく、単に現職の橋本知事を放伐するのに自公政権からの後ろ楯をえるための方便でしかなく、その上、論拠となっているのが大衆世論の思い込みに同調させようとする人気取りでしかない。さもなければ米大統領制のまねだが、この場合、閣僚全員を民間人にするだとか、県民による県民の為の政治だとか、より米国的な民衆中心の考え方が大井川氏の主義主張から読み取れそうなものだがそういう面はなかった。つまり前者なのである。大井川氏のいう多選禁止条例は、定年まで職を確保しうるという意味で彼に都合がよく、候補者の被選挙権を侵害するためおそらく違憲なばかりか殆ど確実に基本的人権を侵しているし、当の自民党が世襲政治家の党首への多選を党規を反民衆的に改悪してまで強行している最中であるから尚更詭弁でしかない。勿論、世襲の天皇制も選挙によらない絶対多選でしかなく、多選の弊害というものが存在するならその権化である。象徴が絶対多選の権化である国が、いかにして多選の弊害を退けうるのか。大井川氏が本当に多選の弊害を憎んでいるのなら、まずは象徴の地位を少選化し、国政ならびに県政与党の党首を少選化してから、県知事選挙における少選主義を主張するべきではないだろうか。なぜなら、県知事選は直接選挙なのであって、主権者の直意なのだし、民主的という意味では有権者の多数意見を反映しやすい状態にあるのだから。つまり県民の便宜的意思の上で選ばれた県知事より、直接選挙でえらばれていない以上あきらかにより非民主的な与党党首からなった首相だとか、選挙を経ず世襲する天皇の地位だとかの方が、腐敗しているのに民間人のチェック機能が定期的に働かないためどう考えても多選の弊害を多く持つのである。
2017年9月21日
よき多選はあしき少選にまさる
単独者が他にまさって公徳について有能であるとき、その人が多選されるのが望ましい。そして古代からプラトンや孔子など理想主義者によってこの体制は何度も至上視され、凡そすべての時代、どの国にとって最も輝かしい繁栄を遂げた時期というのは、名君が君臨する時代なのだ。米国がdemocracyを主張しだしたのは、植民地で本国イギリスの王政を非難する方便にすぎなかった。即ち単独者支配としての王政(その堕落した独裁政)、多数者支配としての共和政(その堕落した民衆政(デモクラシー)または衆愚政)は、いずれもその土地の政治民度によっている。その土地で多数者が公徳において少数者よりまさっているような場合、つまり公徳が多数の個々人にまたがって存在し分散されているような場合にのみ、多数政治が有効なのである。裏を返せば公徳が単独者にしか存在せず、大多数が愚劣な状態である様な場合には、王政を維持しなければならないのである。
大井川氏が議会を牛耳れるかどうかは不明だが、自民党が現に党首を多選し、しかもその党首は党規まで改悪して世襲を継続している党是の民主主義を破る悪党というのだから、失笑に耐えない。自民党は完全に腐敗政党なのであって、今県知事選挙にあっても、はした金というしかない賄賂によって良心を売った公職選挙法違反の違法政党なのだから、この様な連中の跋扈を理由に議会で明らかに不徳な条例を押し通そうとするなら、大井川氏も県民全体の良識を敵に回したと断言せざるをえないであろう。
2017年9月19日
茨城県内核シェルター道構想
また、県北部や海浜部の道路については、景観面での魅力向上を図り、コートダジュール等避暑地の道路を参考に、海浜部を通している場合どこからでも車内からきれいな砂浜と海が見えるようにしつらえるべきである。またこのとき、景観破壊にすぎないテトラポッドを最大限撤去し、代わりに自然のままの砂浜を破壊しない消波構造と道路より砂浜側につくった海辺に降りていける遊歩道、津波に備えた海辺の住宅群を、建築家らと共に考え実現しなければならない。
茨城は飽くまで君子の県たるべし
他県が無知であることは、茨城県民が有知であることと同時に存在するなら、我々に有利でしかない。君子は人の己を知らざるを憂えずとは、自分側に有知の比重のある情報非対称性が知識人にとって有徳であるという意味だった。つまり、西日本人の一部の無知を我々が啓蒙することにはなんの誘因もない。更に仮に茨城について知っていてもそれを悪用し汚名を着せようとする小中華思想的な東京都民ならびに報道機関そして田中章雄容疑者の悪意については、無視という埋没費用を0にする大人の対応が最善である。なぜなら、日本人一般は自慢に対しては嫉妬するが自虐に対しては嘲弄し、悪意ある地方差別にどちらの対応をとるのも無駄な費用でしかないからだ。第一、地方差別の報道をし続ける費用を、相手が無視してきて東京都民の虚栄心も満足できず、また無知な衆愚をあおって虐待させ小中華思想を補完する機会を得るなど、なんの効用も得られないのに捻出し続けられるほど東京都民が非経済的に言行できる訳でもない。嘗て都内での宣伝活動の全てはスポンサー費用が都内メディア以上であるか、都内メディアの営利にとって茨城の宣伝が相利的でもなければ、無駄だった。
単に、昨日より今日が、今日より明日が、自分達茨城県民にとって住みやすく、快適かつ誇りに足る魅力に満ち溢れ、希望をもって生きがいをみいだせる地域であればそれで十分すぎる。他県に茨城県民のみが知る美を喧伝する必要は、一切ない。それがすばらしいものであればあるほど、むしろ隠しておくべきかもしれない。観光地となった京都は我々の模範ではない。京都や東京のもつ小中華思想は反面教師でしかありえない。さらには、経済的にも産業的にも失敗し、あるいは成功せず、県民所得は低いままわずかな観光収入に頼る構造になっている北海道や沖縄も、我々茨城の模範ではない。
皇族の権威やら政府の存在やらGDP規模やらで自らの優位に驕り、自らの欠点に目をつぶりながら他県の分析を怠って、華夷秩序さながら他の地域を差別して卑しい虚栄心を満足させるような下衆根性に染まらないこと。これが我々茨城県民が、極悪人の田中章雄容疑者と、東京都内のマスメディアという下賎な存在、そして西日本の一部の無知なる人々から、反面教育として学び得た第一の教訓である。我々はたとえ全世界で突出した世界一優れ尽くした並外れた地位と栄位に到達し、繁栄と名誉と最高の幸福の限りを極め続けることになったとしても、絶対に、極悪人田中章雄容疑者や、東京都のマスメディアや、西日本の一部愚民の様に醜悪な言動をとるまいと心に定めよう。何が起きようと、驕り高ぶることなく、全世界を緻密に調べて徹底的に分析し、全世界で最も恵まれない立場にある地域や、そこにいる筈の弱者を率先して助けていく人々になろう。常に統計を疑い、報道の虚偽を見抜き、決して衆愚の偏見や野蛮な差別に従うことなく、皇族の権威にも買収工作にも微動だにせず、ひたすら真実を追究しよう。
そして他県や、他人からどう思われるか気にして己の立場を卑下したり自慢するという俗悪な虚飾に逸ることもなく、根っから悟りきり、橋本知事が予てから行ってきたよう自分達の幸福のみを大事にしよう。おろかな他人、悪い他人にあわせ、自分自身を見失わないよう、常に自分達を冷静かつ客観的に批評するようにしよう。自分より愚かな人は自分を正しく評価しえない。自分より悪意ある人は自分の評価をわざと貶めてくる。本当に信頼に足る評価は、自分の自分自身に対する、最大限に客観的な評価だけである。全ての観点から見直して、最善の自治体であるのなら、過不足なく、欠点なく、長所が十分に発揮され、最も恵まれない人が最もよく助けられ、最も恵まれた人も己の天分を十全に発揮でき、中くらいの人々も模範を模範とし敬い人助けを是として己の自治体にあって日々の成長とよりよくなっていく社会を実感できているのなら、それがすべてなのだ。
自分自身のもっている長所がいかにほめられたとしても、むしろ己の短所を恥じて一層謙遜するべきだろう。他人より優位といわれれば、その立場の下に大勢がいることを思い、ますます自分の姿勢を低めねばならない。茨城県が学んだのは、東京都民の反面教師性だった。東京都のようにだけはならないようにしよう。田中章雄容疑者は長年の嘘が祟り、地獄に堕ちて見るも無惨に死ぬかもしれない。都内マスコミは偏見や差別や、虚偽と虚栄と自慢の限りを述べ尽くし暴利を貪りつくした末、全人類からその悪徳を侮蔑されて破産し、散り散りになるだろう。だが我々が東京同然の悪業をおかさなければそれで十分だ。西日本人の一部のよう、他県について無知であるのは恥ずべきことだと、そして致命的に判断を誤り、とりかえしがつかない失敗さえするのだと、我々は知ることができた。むしろ、魅力度報道という田中章雄容疑者の犯した疑似科学による衆愚扇動の悪徳商売に、我々は大いに学ぶことになった。勿論、完全に反例としてでしかないが、そのことについては、田中章雄容疑者にも、衆愚な都内マスメディアにも、知識のない西日本人の一部にも、感謝するべきだろう。
我々は全世界の模範に足る自治体としてこれからあらゆる分野で傑出した成果をあげつづけ、すべての栄誉を得る結果になるだろうとも、田中章雄容疑者の様な疑似科学による他県への名誉毀損には風評被害による商行為として県民と検察が一致して厳しく対処しつつ取り締まり、二度と東京同様の悪質なマスメディアを産み出さないよう、風評被害防止条例に定めよう。また、主観的言質をさも科学的統計かのよう誤認させる愚劣な都民の民度を反面教師とし、疑似科学を見破るためのしっかりした反証主義的科学教育を行い、恣意的統計による印象操作や、マスメディアの流す情報の一切を常々懐疑的にのみ見る重要性を、県民全体にきちんと教育していこう。最も不利な立場にいる人を更に貶めて嘲笑する東京都民の下劣な民度を恥ずべき反面教師とし、茨城県民は最も不利な立場にいる人を進んで助けその人の長所を伸ばし欠点を補ってあげられる立派な正義の人になろう。たとえ西日本の果てであれ、その県について何事も知らないとは不勉強だと恥じる心を持とう。自らが無知である事は自らの過ちをもたらす災厄だと認識し、自分が全知であると思い込むことなく無知である自分を知り、他県にせよ縁もゆかりもない人々にせよ、正しい科学的知識やそこで暮らす人々の心情を知らない事に自慢するような愚か者には断固としてならないように、悪意や偏見から逃れ、学び続けよう。そして今まで通り自らの長所をことさら自慢することもなく、欠点と自覚できた点を着実に修正しつつも、むしろ他県から知られようとするより、他県のありさまを他山の石として歩みつつ、他県の正反両面に及ぶ知識情報を知らぬを憂い、まことの君子としてふさわしい県にますますなるべきであろう。
茨城県民教育について
2017年9月16日
ゲーム型賭博罪禁止条例
2017年9月15日
常陸秋そばノンカップめん
学校の二分化について
IT批判行政論
IT起業家の一部は、
最も不幸で恵まれない立場にある個人が、
大井川氏の選挙期間中の言動には、
2017年9月13日
市立図書館の貸し出し点数未制限など
市民向けに書籍や視聴覚メディアのリクエストを募り、一定の枠でそのメディアを購入するべきである。
茨城県遺伝子くみかえ作物禁止条例
茨城県議は遺伝子くみかえ作物禁止条例を採択し、県内の農業が特定の外資あるいは特定企業に寡占される最悪の状況を未然防止しつつ、県内で食される県産農作物の安全と高品質、そして県内農業市場の健全な競争性が飽くまで維持されるよう農政を図るべきだ。また、そうして保った高品質な食料を卸す最大の消費市場として、東京圏ではなく、茨城県民自体の人口をそれ以上にふやすべきなのである。この時に最も有効なのは、県内の最大都市である水戸に人口増大の傾向を持つサービス業(ICT関連のインターネット・サービス業を含む)を集積させそれらへの交通網を県内各所と最短移動距離でつなぐ事だ。この時、つくばエクスプレスを通じての東京圏との交通利便性は、電車網を含めて、可能な限り断絶するべきだ。東京圏から水戸への人口の流れが確保された時点でつくばエクスプレスの延伸を図るべきなのであり、それ以前に東京圏交通網を整備する事は自殺行為というしかない。東京圏からつくばへの人口移動が過剰になった時点で、更に水戸側に延伸を図るという逼迫した必要需要が発生する以前には、茨城空港と水戸、そして水戸と県西、県北、鹿行、県南の各地、そしていわき、郡山、宇都宮、或いはさいたま市、そして水戸以下の人口規模の各海外都市との接続性の方が考慮されるべきである。
2017年9月11日
虐めゼロ耐性の啓蒙の為の市教育裁判所案
虐め(集団犯罪)対策論
水戸ホーリーホックの好戦的応援理論
2017年9月10日
最善の世間について
ある集団で虐めが生じる原因は、固定メンバー内でこの種の収束進化への圧力が生じる事にある。固定成員は何らかの価値づけの変動幅を中央値に近づけやすい条件づけであり、この固定性が極端になると、不合理な場合にすら固定した役割を維持しようという組織的な癒着関係としての階級制度が作られる。封建制やその名残としての天皇制は、関西圏における被差別者・被差別地帯としての「洛外」の存在と表裏一体であり、『枕草子』には御所から出た火で被災した周辺国民が御所に救援を求めに来たのを、清少納言ら宮内の皇族閥側の人間が嘲笑し合い、そのまま差別的に捨て置く描写が出てくる。現在、東京都民が再現しようとしている23区外、都外、或いは23区内においても江戸城・皇居のある千代田区を中心とした区外差別の構図は、拡大されれば田舎蔑視と地方差別という小中華思想に繋がるわけだが、いわば原理的な虐めと崇めの両極を捏造する事、そして固定化する事による同調圧力に他ならない。
選挙権を与えられた平成の国民一般は、多数派と目される世間が、この同調圧力を加える主権者だという妄信をもつようになった。西村博之が運営していた2ちゃんねるは、自己を匿名化した衆愚が牛耳る様になり、ますます村社会的・島国根性的に、この圧力を強化していった。川上量生の運営するニコニコ動画も、コメントを匿名で書きつけられるという匿名掲示板的な群衆化の条件を与えるネットメディアとして、この同調を煽りなしてきた。日本版ウィキペディアの内部で排除的世間を作っている日本語メンバーも同様の衆愚である。これら、半匿名を可能にするメディアを根城にしだしたネット衆愚は、ひたすら多数派の振りを相互の空気読み連鎖で偽装する事によって、ウェブ進出が遅れたテレビをはじめとした都内マスメディアに情報源として利用される様になった。藤田晋の運営するアメーバブログは広告収入を得る為に、閲覧数を容易に稼げる芸能人達を集客しだした事をテレビ側の態度変更の背景としていた。ツイッターがブログを書くほど文章力や思想のない一般大衆以下の知性の人々に、発信源としての地位を獲得させていくにしたがって、ウェブブラウザへの常時接続を可能にしたスマートフォン(スマホ)普及とともに、インターネットの方が現場の第一次情報を先に載せるという現実にマスコミ業界が直面したことが、これらの変化と関係しているのだろう。こうして衆愚はネットの匿名性を悪用しながら、現実社会では差別乃至排除されてきた暗いパソコンオタク達の道具を飽くまで応用しだし、シリコンバレーのITバブルの流れに自己を埋没させつつ、暴徒としての陰鬱な日本語圏世間に自己を同化させてきた。平成時代における同調圧力を主義する衆愚層は、親が首輪をかけるつもりで渡しているスマホの若年層への普及とともに、ネット虐め空間を学校裏サイト等あらゆる陰湿な目的で悪用できる地場を確保していったのだ。衆愚はちばけんま事件やaiueo700への攻撃で有名な電凸文化、つまり匿名の不良らが突然、インターネット上で標的にした個人を集団犯罪の対象にするという凄まじい悪行、或いは2ちゃんねる上で初期から見られる名誉棄損から冤罪による集団圧殺まで無数の違法乃至無法な犯罪の数々、勿論、麻薬取引や性犯罪など現実における実刑に至るあまたのインターネットの負の面を日本に定着させていった。このとき日本人衆愚は、社会正義を気取る大義名分として、匿名にして自己埋没させた群衆状態によって、ひたすら無目的の同調圧力を加え続けるだけなのであり、その論拠は多数決原理主義としての世間の目なのである。
虐めの裏側に同時にあるのは差別意識・逆差別(贔屓)意識からくる崇めであって、この自己責任を徹底して回避している卑怯なる衆愚は、天皇という絶対者を仮想した。つまり、ネット衆愚は、日本人一般の潜在意識同様に、天皇を崇めるという神道狂信的態度を維持してさえいれば、いかなる集団犯罪もなしうると固く信じているのである。この盲従的奴隷根性の原因は、まず平成時点の日本人一般の脳がもっている遺伝的欠陥として、セロトニン・トランスポーター不足の為、常に不安感に駆られて群衆に紛れたがるという無条件な共感を求める本能(「甘え」と呼ばれてきたものと同一だろう)がある。また、日本列島の風習が長い孤立によって余りに他国から比べて特殊であるという言語を主とした文化障壁のため、遺伝的に近縁でよく似た同質な個体が多いという、遺伝的偏差のばらつきの少ない分布が、もう一つの原因としてあるだろう。明治時代以後、ナショナリズムの強化は更にこの種の同調圧力を日本人の属した各種国内社会に正当化させてきたのであり、戦後に起きた対中貿易の発展による工場の移転が契機となって日本も巻き込まれたグローバル経済のみが、この種の世間を不合理だと見なす思想的急先鋒となっているのが現状である。冒頭にあげた幾つかの傾向のうち、労働者中心主義は、同質性の高い個体集団のうち最も多数派となる個体の特徴を制度設計の標準とし、そこから逸脱している全ての個体を不良とか失敗とか負け組とみなすという、悪い意味で国家社会主義的な自民党政治と歩調を一にしてきたのであった。国民を奴隷としてできるだけ楽に、機械的に管理すること、まるで機械部品を製造する様に型にはめ、個性を殺し、はみだした存在を排除ないし世間からの差別で虐殺し、天皇崇拝を教え込んで同一のマスゲームをさせ続ける事。そして給料天引きとか国税という名の搾取によって、支配層に都合のいい、世間に逆らわない、下層民同士で足の引っ張り合いのみをする労働者を量産する事。これが「空気を読め」という労働階級のせりふに、天皇制を中心とした東京発のマスメディアや文科省からの画一教育、自民党政治の固定化によってくりかえし刷り込まれ、仕込まれている悪意なのであって、その同調圧力による自己奴隷化の悪意が、日本国内では虐めとして個性への迫害としてあらわれてくる社会病理なのである。或いはこの悪意は、天皇を中心とした支配層発の悪意なのであって、洗脳された愚民側にとってはただの無知なのかもしれないが、反省力なく虐めという社会犯罪をくりかえす当の愚民側にも、同罪があるというほかない。
多様性を重視する。個性を尊重する。生き方の多様性を認める。遺伝的多様性や性の多様性を寛容に肯定する。これらのどれも、日本人一般や、ネット衆愚の仕込まれている排外的本性と正反対の、教養高い態度である。だからこそ、公益的な政策を行う時、民に理解させるべきではなく、実行後にそれに従わせる方が楽だ、という孔子の見解が出てくる。現実的にいえるのは、一般教養の集団における高下は程度であって、ある集団に特定の公益に繋がる政策意義を十分にわからせてから実行する、つまり住民合意をとるというのは、その集団における世間が理解できる質でのみ有効だという事だ。そしてその住民の或る知性の中央値に理解不能である様な公益政策である場合、行政の長が世間の理解を待たず強制実行してしまうべきなのだ。茨城BIとか、人口流動化とか、ニッチを探る非典型個性への尊重とか、これらの思想的根拠を衆愚に理解させることは現時点では無理だ。もし大衆一般向けサブカルチャーが感情をあおる低俗な表現形態によって、世間に何らかの公徳概念を伝達しようとしたとして、この種の行政的態度が住民への同調圧力を扇動する装置にすぎない事は明らかだから、寧ろ思想面での単一化につながってしまうだろう。虐めをなくすという事は、反対の極にある崇めの対象として、差別や贔屓の原因となる偶像を破壊する事をも意味するのであって、天皇制や世間、或いは日本国とか茨城県といった何らかの帰属集団、多数決の原理、民主的選挙制、資本主義といった互恵的甘えが期待できる存在を否定する事になる。同調圧力の起源が依存できる準拠集団、或いは思想形態という背景にあるという事がこの文章内で述べた分析であり、そこから結論して、平成日本、或いは茨城県内の社会にも現れている虐め(差別)とか崇め(狂信)といった衆愚的な社会病理を治癒するには、ひたすら非典型的な自由学芸、即ち一般教養を域内住民に推奨するしかないのだ。
役に立つものであれそうでないものであれ、経済合理性を含む合目的性から離れた行動系列を常に尊重する事。たとえ多数派が有罪判決を下す様な新奇な行動でさえ、非典型的というだけで面白がり、喜ぶ精神的態度を県内住民に植え付ける世間こそ、常に最適性が変動し続けている現代社会下でも、偶有的に最適の事象を見いだす最善の世間なのだ。
茨城県農作物関税論
小沢一郎氏の農家戸別所得補償政策は、この目的を果たす為の一手段だったが、安倍政権は経営所得安定制度と名前だけつけかえた上に来年撤廃させようとしている。この施策は国内自給率をへらし米豪からの輸入を受け入れるという安倍晋三個人の対米追従の態度を、農家と日本国民への負担をまし、安定的国家の食料基盤を破壊する事で維持しようというのである。市場競争下で国内農業が十分競争力を持つに至った段階でTPPにおける農作物の関税撤廃、或いは経営保障をやめるのなら順序は正しいだろうが、まず比較劣位の段階で米豪農業に国内農業を破滅させる時点で、安倍の国家運営能力は先進国水準にないというべきだ。そしてその種の悪農政を行う自民党の支持する候補を知事選で当選させた県内都市民の悪行も甚だしい。
県内・市内のエンゲル係数をへらしつつ、自給率を安全域に保つ。これには茨城県、または北茨城市単位で農作物に関税を設けるのが最善だろう。域内の農作物を県外に輸出するにあたっては、一定の関税をかけて域内で比較安価に農作物を購入できると同時に、余剰生産物については市価に比べて県外では関税を上乗せてすら比較優位に販売する体制を、安倍内閣のおしつけている悪しき減反政策を県内で全廃しながら、生産量の最大化によって行うべきなのだ。
2017年9月9日
炎上商法を無視するべし
レジ袋を北茨城市指定ゴミ袋化にする制度
https://www.buzzfeed.com/jp/kazukiwatanabe/20170907?bfsource=bbf_jajp&utm_term=.objprq93r#.vhRZdy8Od
北茨城市でも市内の小売店に、レジ袋を出す場合に市指定のごみ袋として使える規格のものを出した場合、一定の免税を図る制度をつくるべきである。
2017年9月8日
高萩駅前広場案
空地というものを経済価値の高い場所に残す事が、心の余裕としての広場を作る考え方そのものである。
匿名性と情報収集について
具体的には、我々が普段の暮らしで匿名によって行動する方が気楽だと感じる全場面について、茨城県名のつく概念の一切は国内的に有効である。県外人一般はなんらかの印象をもつどころか、殆どなにも茨城をしらない。相手にこちら側の情報を知られる事なく行動した方が有利である様な場面は、実際はほぼ全場面である。日本人一般が普段、匿名で行動するのを好むのは、出る杭を打つという村八分的島国根性がこの列島民にあるからだ。すなわち目立つ者は損をするのが日本国の国民性に他ならない。平等志向とかねたみによる足の引っ張りあいとか幾つかの原因はあるだろうが、五人組時代の通弊として村社会的同調圧力が現役で生きており、個性を尊重するほど欧米化された国民は殆どいない。たとえば国内旅行するとき、どこからきたか問われても、県外では茨城がどこかさえ先ずしらないのであるから、外部の色眼鏡なしに行動できる。
茨城県庁はこの条件を利用して、46県にそれぞれ内部調査員として1人以上の駐在大使を居住させ、行政の公開あるいは非公式情報から県民生活の実感についてまで、ありとあらゆる分析済みの内情を県知事直轄の秘密情報機関に集積させるべきである。またこの情報機関を今後も強化し、茨城単独で国外外交を十分おこないうるよう、全国連加入国をはじめ世界の国々についても情報収集用の駐在大使を準備し、県交に有利となる情報を熟知しなければならない。民間シンクタンクが同種の事をする場合営利目的に傾く可能性が高いため、県知事室が情報収集部を持つ方が合理的だろう。
目立つこと、有名であることは、出る杭を打つ日本国内では不利なのである。実るほど頭を垂れる稲穂式に、ひたすら謙遜や自己隠蔽を続け、県内福利の充実に努めつつ、県外情報の収集と分析に完璧な基盤を作ることが重要だ。たとえおろかな日本国が倒れても、賢明な茨城県が未来永劫、単独国家としての役割を自ら代替できればよいのだから。
北茨城市版の簡易強制BI制
この政策はBIと異なり、現状の憲法下で国家の行う最低限度の義務を、行政側の怠慢と悪意によって行っていない状態を率先して改善するにすぎないのだから、実現可能性も100%であり、しかも国税から調整される額なのだから、対外純資産とみた市民の生活費増大の結果として消費促進や人口増にも益する。この種の義務を怠った場合、悪いのは違法・違憲行政の構成員側なのであり、市役所がこの種の業務を率先垂範しないとしたら、その時は市役所が100%悪い事になるだろう。公務員は国税に寄生して生活しているのに、市民に対する義務を怠っているとしたら、その公務員達は腐敗の極みにある。つまり行政自体をとりかえるしかなくなるであろう。
2017年9月7日
政治権力と社会変革による進歩について
政治権力の本体は、軍事的な暴力なのである。天皇のポピュリズムも、安倍の右翼ごっこも、トランプのお道化も、キムの反抗児ごっこも、単純に暴力支配の遊びにすぎない。この意味で、現政権とか、現在の与党、その時点で存在していた天皇、或いは現時点の大衆一般がこの暴力を如何に正当化していても、その正統性は仮構にすぎない。もっといえば嘘でしかない。永続する権力はない。たまたま条件が重なって権力の姿をとって表れている暴力が、その他の暴力を弾圧しているだけなのである。
従って、革新を目指す個人か集団が、その時点の政権与党の軍隊・警察による暴力に対して議会か選挙での穏健な掌握以外の手段をとって支配を試みたとして、天皇家や薩長藩閥の自己正当化が現にそうしている様に、勝てば官軍と自慢しだすに過ぎない。王覇の論でいえば、暴力によって徴税する民衆単位の支持という公徳の基礎づけが欠けていたら革命によって覆される、という観点は、実際には暴力の強大さを維持できる条件に依存している。もしイスラム国軍や北朝鮮軍の軍事力が米軍や多国籍軍より強くなれば、当然の様にイスラム国や北朝鮮の存命が確保され、米軍やそれを支持する国連は弾圧さえされうる。
社会変革が茨城県にとって短・中・長期いずれでも競争優位、或いは比較優位をもたらす場合、その変化は政治的に正しい。ところが現政権はテロ等準備罪における共謀罪に該当した法制によって、思想信条あるいは良心の自由を侵害する事で社会変革に至る何らかの変化を、穏健な選挙と議会以外で防止しようとしている。これは革命権の否定にすぎず、フランスに共謀罪は存在しない事からも、アメリカにおける人権に関わる刑法体系が日本より緻密ではない、より不正であるという事象を米国追従の安倍晋三は理解していなかったのである。長州閥がテロリスト集団として天皇に発砲しながら政府要人を暗殺し、或いは各地の警察と市民を殺戮しながら明治政府を寡頭支配していったことは事実だし、現時点でも安倍の仕切る自民党の権力を維持しているのは自衛隊と警察の暴力に他ならず、要するに安倍の権力に都合のいい暴力だけを正当化し、それ以外の暴力を弾圧する、という独裁主義が、日本における共謀罪なのである。これは治安維持法下における軍部独裁の再生でしかないし、この種の退行は必然に国政上の失敗を連鎖させる。
結局、いかなる思想に対する政治的圧力や弾圧も、その国を亡ぼす原因になるだろう。誤った理論を提出した人がいれば、その論旨を否定すればいいのであって、元々この種の理論の正誤が同等以上に知的な複数人からの批評や実験がない限り事前に検証できない以上、すべての思想信条への侵害は現状維持の同調圧力となり、社会の停滞をもたらす結果にしかなりえない。反証可能性を確保するにはいかなる理論の提出も自由でなければならない。安倍晋三の政権下ではその支持者と共に愚劣な後進国的政治体制をおしつけられる、という悪条件は確かに足かせでしかなく、茨城県外の日本国の平均知的民度が我々より低い場合、日本国から茨城県が軍事的に独立する事が最も合理的だろう。この為、最高法規から各法まで茨城県議会が単独で決定できる段階まで、茨城県域の政権与党が軍事的実力を世界随一の程度まで上げていく事は、全く正しい。即ち、県外を変えようとするのはやめて、むしろ国政を含む県外を愚劣にしたままでも、茨城県庁が世界に単独で軍事的に独立できる程度まで域内軍事力を向上させ続ける事のみが、我々の幸福に益するのである。この為には県内の対外純資産を世界一にする事を目標とすると共に、軍事工学的研究をも県庁及び県警主導で奨励するべきだ。
現代思想と大井川県政における茨城県民の立ち位置
想像の共同体を国より大きな単位にすることでこの仲間意識らしさを補
それぞれ、利益社会は搾取、
イスラム国は資本主義による利益社会の侵食に抵抗したがる人々を
問題は資本主義経済、
日本単位で2chやニコニコ動画は(設立者でいえば西村博之や川上量生は)
結局、イスラム国や、ネット右翼、或いは神道信者や自民党支持者、安倍支持者、トランプ支持者、北朝鮮におけるキム政権支持者、TPP推進論者を含む地域連合主義者、これらの人々は程度こそあれナショナリストでしかない。彼ら新民族主義者はグローバリズム経済下で不利な条件に置かれている為、内集団贔屓の期待に基づいて、儚い懐古趣味に耽っている。グローバリズムは不可避で、現時点でも格差を拡大させているし、タックスヘイブンに共同で対処しようした時点では手遅れなほどその差は開ききっているだろう。喜捨を是とした一部のイスラム原理主義者に見られる、調整的な正義に基づく抵抗としての無差別テロの対象が一般市民であるような場合、一般人の次元では単なる無法集団による反社会行動としか解釈されず、より強大な警察権力に弾圧され終わってしまう。この様な圧倒的過当競争下で、元々商才を付与されていた2割の金儲けが得意な人々は、自らの都合のためグローバル経済やリベラルに思想形態を寄託し自己正当化しながら、8割の凡人を搾取する。Liberalismはこの地点においては8割の不幸を納得させる、偽善の触媒になってしまう。元々そこにはアダム・スミス的な神の手、経済成長への期待効用が含まれ、人種や民族差別、植民地主義、単文化への反命題、democracyや民主化との結託という複数の状況的な補完性があった。自由は米国型の資本主義をおしつけるのに最も便利な道具にされた。フランスの知識人が人権思想と共に反既得権益、反王・反貴族・反中産階級(反ブルジョワジー)として始めたこの自由への信仰は、社会主義や共産主義といった革新思想を生み出し、アメリカに渡ってからは多数支配の正当化とグローバル経済、アメリカニズムによるそれらのおしつけといった考えを生み出した。つまり、グローバリズムが自らのうちに支配層として起きたがる富裕層にとって都合の良い体制は、自由を大義名分にした、不平等と共に底上げによって発展していく未来という資本主義的な幻想または市場原理を拡張させたがっている。
ここで描いてきた現代社会の分析として、状況を整理すると、先ず利益社会側の頂点にビル・ゲイツをはじめとしたglobal資本主義者が存在する。そして彼らと同様に、搾取能力を使って利益を独占したがる、全体の2割を占める勝ち組としての富裕層が存在する。皇族や自民党員、経団連企業の上役などの既得権はこの層に属す。この富裕層は、自己利益に都合がいい搾取維持の体制と、それを補完する思想形態としてのliberalism、自由主義を信奉しがちである。他方で、中産階級は彼らの企業や政府に多少あれ生活を依存しているしそれに自覚も多少あれあるので、反グローバル資本主義者となるだけの誘引がない。従って保守という用語で、これらの既得権を維持したがる人が、中産階級の中の殆どである。このため中流はおもに自民党を消極的に選んできた。衆愚はまともな理解力がない為、単純にグローバル資本の牛耳るマスメディアから、富裕層に都合がいい奴隷として洗脳され群衆化する。他方、8割が同時代において負け組になる資本主義経済のしくみは社会に於ける不平等を拡大させるので、一部の知識人はこの状況が不正義であると気づく。多少あれ倫理的な利他心を持つこの賢者達は、自らの目的として定める不平等の低減と、より結果平等に近いため8割が幸福に暮らせる社会に向けて幾つかの考え方に分かれ、革新的な思想を持つに至る。最も軽い類型としての新民族主義から、社会主義、共産主義、社会民主主義、民主社会主義、或いは最も極端な類型としての宗教原理主義の類である。これらはどれも何らかの単位の共同体に家族社会的な互助性を寄託し、寄付、慈善、喜捨、福祉といった利他的な意思を啓蒙しようとする考え方である。幾つかの国々ではこれらの革新派が政権与党となる事に成功し、福祉国家や宗教国家が成立している。イスラム国も、国家単位での革新派与党を目指す集団として、シリア界隈に現れている存在である。北朝鮮も、単なる民族主義的な統制経済体制による革新派の国家である。これらの国々はテロ国家でもならず者国家でもなく、現米国大統領のトランプや日本政府の安倍内閣構成員、自民党、東京マスコミによる扇動やレッテル張りに関わらず、ただの革新的な集団でしかない。いいかえれば日米政府はグローバル資本主義の既得権を維持したがっている保守派でしかない。
日本には天皇家という特殊な存在がある。(家という単位を認めない神道信者自身は、一般家庭全ての上位者という超越的地位の偏見を強調する意味で皇室と自称しているが、imperial familyという英訳でわかるよう、単なる言い換えでしかない。宗教による洗脳や衆愚に対して特別さを偽装する子供だましの虚構で自己神格化を謀る、神道狂信者の前近代的な言語IQの低さを示すに過ぎない事例である)。なぜ特殊かといえば、天皇家は平成末期時点で年間300億円近く(毎日8000万~1億円程度)を国税から搾取する既得権に属していながら、同時に、神道という弥生系移民中心教義の民族宗教によって共同体の長を自称しているからだ。どっちつかずの風見鶏や二義的な存在が、生贄の対象になりやすいというscapegoatingの法則からいえば、天皇を屠る、或いは集団から排除する事が、矛盾の解決になり、国民の再統一を意味する筈だ。しかし皇族閥は、GHQと交渉に当たって既得権を維持しようとした吉田茂の末孫かつ皇族血縁者としての麻生家、安倍家をはじめとした取り巻きの利権維持のため、神道による国民洗脳での専制支配に好都合な政治体制の維持といいかえてもいいが、この排除に最後まで抵抗する。島津家、毛利家、徳川家といった旧華族も全く同様である。天皇家自身にとっても富裕層の位置取りを世襲により苦もなく維持できた方が都合が良い。要するに天皇は保守と革新の両取りをしていて、いかなる変革があっても自分自身の世襲の地位を維持できる状態に自らを置こうとしている。保守派の信じる資本主義にとっては日本最大のキャッシュフローがある資産家として、革新派の信じる共同体主義にとっては民族宗教という仮想の枠組みによる日本国民全員を補完する上位者としての建前によって、普段は中産階級向けに善良な資質を持っているかの様に偽装し象徴と自称したマキャベリスティックな世襲君主としての面だけを流させる宮内庁記者クラブの悪意と、地方差別によるマウンティングを目的とした東京都民利権を意味する皇室タブーでの悪徳商人集団的な報道統制によって。いずれの場合にも天皇は天皇自身が最も好都合になる様な体制を、世界第3位のGDPを持つ集団を専制的に搾取しながら独裁する世襲の邪教祖として、あらゆる手段でとっているのである。水戸の徳川家が、素朴な国民国家ナショナリズムの啓蒙として天皇の非易姓革命的な不可侵性を語りだした時、旧常陸国民のうち幕末時点での水戸藩領域の侍らは、不動の天皇とその命を受けた警察組織としての将軍府による、一種の象徴天皇制を志向していた。私以外の世界中の誰もそれに気づいていないにせよ、徳川領を超えた全国統一による植民地主義への抵抗として、日本の独自性を定義したという意味で、水戸学派は当時として世界史に有色人種の民族独立と復権という最大の影響を及ぼすだけ至極真っ当な考え方だったのだろう。他方この日本独自の体制思想を、薩長は吉田松陰の欧米・中国模倣的なアジア侵略主義と一君万民論によって改造し、将軍府の位置に自らが明治政府として就く事によって天皇の権能を自らの傘下に置く、薩長藩閥寡頭政治体制を志向した。結果として主に西日本人達は利己心から薩長藩閥に扇動され、東国やアジアを侵略し、米国による2発の西日本への原爆投下で、薩長の悪意に自らの権益拡張を目的に乗った浅はかな天皇家もろとも、日本帝国下の民衆に誠に甚大な犠牲を払わせた末に、国連へ降参した。戦後70年、愚民洗脳力をGHQによる円滑な統治に利用された天皇家は、取り巻きである皇族閥に利権目的で地位を維持されながら、ぬくぬくと繁栄してきた。7000年前の鬼海カルデラ噴火の後遺症でほぼ無人の西日本に、2800年前に侵入したのが、中韓東部に定着していた弥生民族であった。彼らの作った新たな移民ナラ(朝鮮語で国を意味するのがナラであった)界隈における一部族長として、封建的な専制支配体制をあらゆる手段で敷いてきた天皇家は、全てを顧みると、権力志向の完璧な利己主義者である。既に述べた様その存在は保守派にとっても革新派にとってもどっちつかずで、中産階級の洗脳によって自らに都合のよい搾取体制を維持しようとする。裏返せば、保守と革新のどちらにも、衆愚洗脳や反意を煽る道具として利用される駒である。この地位に天皇が就いた理由は、弥生人として隋時代の中華皇帝に遣隋使が謁見した際、嘗て中国東部の江南地方に住んでいた弥生人特有の劣等感や自尊心が刺激され、ナラにもどってからいわばナショナリストとなったため日本列島側に日本人を奴隷にした小中華帝国を作ろうとした所に原因がある。つまり天皇とは、原型から今に至るまで単なる帝国主義者なのだ。彼らはこの専制の意欲に基づいて神道という自らを神格化させる幼稚な多神教を、大陸の文物を援用して日本在来の自然崇拝と混淆しながら構築したのであり、日本人衆愚はそれに洗脳されたのである。旧華族や安倍・麻生両家を筆頭とした現自民党員の皇族閥は国税に寄生する天皇家同様に、神道による日本人洗脳構造を利用し、自らの権益を伸ばしたいだけの、専制政治屋ということなのだ。中流も労働に追われて、この事実に気づく暇がない。保守派は利己の悪意、又は無批判なグローバル資本主義信仰でこの専制支配体制を維持したがる。革新派は天皇を槍玉にする場合もあるが、日本では逆に復古神道や王政復古といった、過去の(といっても弥生人の移民以後、ここ2800年間の)共同体概念の回復による革命を維新と呼んで天皇を利用しようとする場合もある。いずれにしても天皇は自らの帝国主義を補完するのに都合がいい政治家を選好し、それ以外の政治家を、例えば国民主権論者であった小沢一郎氏の様な人物を宮内記者クラブ発の偏向報道による国民洗脳で迫害する。そこには保守も革新も中道もなく、資本主義経済下における封建領主あるいは富裕層の頂点的な天皇家の保身を図る利己心と、納税・貢物を行う国民奴隷の維持という中華皇帝あるいは西洋圏の王族モデル模倣心だけがあるのだ。
では、我々茨城県民あるいは北茨城市民が一体どうするべきかといえば、グローバル資本主義、各種の共同体主義、新ナショナリズム、天皇制、これら全てに対して狂信的な態度を避け、一定のメタ認知的な距離を保って冷静に、自己に好ましい思想上の立場と態度を選択する事にすぎない。ここで公徳あるいは善、正義といった利他性は、思想上の立場に関わらず自分自身の生活形態にとって互恵的基礎を持つ行動系列にすぎず、簡単に言えば、相手に或る類型に基づいて行動して欲しいとする考え方はそのひと個人の信仰でしかないのだ。相手、或いは他者の考えが自分の考えと同じである事を期待するのは、単に愚かであるか、一種の宗教だ。勿論、何らかの宗教集団が、何らかの点で成功する場合もあるだろう。いずれの信仰や主義思想についても、それら諸々の行動系列の中で、或る程度偶然に基づいて選ばれた思想形態に関し、時間経過の結果として何らかの意味で成功したとされる規則がみいだされ、たまたまその考えが合理的だったと言い訳されるのだ。だから大井川氏或いは茨城県知事がグローバル資本とか当県単位での地域共同体とか、或いは新ナショナリズムといった彼の行政を執る範囲の人々に何らかの観念形態をえらびとるよう主導するとしたら、それは商業面でみれば単なる計画経済か、政治面でみれば地域社会主義的な個人の思想・信仰・良心干渉にすぎないであろう。思想的なリベラルの立場が地球資本の触媒だという批判については、その他の思考形態のうち、調整的正義を主張する派閥、たとえば恐怖政治によるイスラム原理主義者などについても一切の先入観を持たず、絶えざる再判断を期し、同等に等距離で価値判断し直して行くことで、必ずしもあてはまらないというしかなくなるだろう。
2017年9月6日
茨城県における新教育
�� 茨城県史
�� 金融
�� 哲学(倫理学と基礎法学を含む)
の3であり、特に1が重視されるべきだ。日本最古の地層、前石器時代から始まり、現代に至るまで常陸と下総および茨城が辿ってきた全歴史を概略化した上で一通り習得すれば、この県がいかなる理由で今かくあるのか、自分達県民の立ち位置がわかる。その上で、幼児のうちに投資、経営、労働、納税、寄付の実践をさせ、株主、経営者、労働者、失業者の存在する現代社会の経済環境を体感させる必要がある。
またすべての学問の根元にあるのは哲学であり、そこから、世界のより真に迫る現状認識(知識)と改善の意欲に至る理解、批判的思考や工学技術が生まれる。倫理と、その社会における最低限の共有としての法律はこの哲学から生じている。根がしっかり張っている事が大樹の条件であり、何らかの
道徳を問う課題について生徒からの作文の提出による自分の考え方の表明の習慣、そしてこの課題を深める議論の習慣づけが必要だ。この際、米英仏あるいは北欧など欧米圏から、哲学や倫理を修士以上で専攻した経歴のある、討論の授業を指導できる教員を招くべきだろう。
ITは流行の新産業となってきたが、これは金融資本にとって一つの手段となる分野にすぎない。可塑性をかんがみて、金融リテラシーが前提にあった上でのIT能力が望ましい。
これらが選択可能であるか必修であるかに関わらず、県内の学校では生徒の長所を徹底して褒めて伸ばす教育を図るべきだ。このとき、例外的な取り扱いを許可すべきで、画一的な一律の教育を撤廃する必要がある。また塾と連携して、塾における学業とのあいだに単位互換性をもうけるべきだ。
内部快適性と外部都合性
簡単にいえばおもに西日本のど田舎者を悪意の都民に騙させるままにしておき、ますます人口を東京に集めさせ、その対比効果として都民に驕らせ北関東を「旧態依然のいなか」「(西日本のどいなかから出てきた田舎者にとって)地元の風景と変わらない環境」「遅れた場所」という虚偽情報だけで塗り固めさせておいた方が得策だ。つまり、今までの茨城がとっていた方向性は、費用対効果で居住快適性が圧倒的に高い環境を実現できていたのであり、謎の風評から魅力度が高いと思われてしまえば穴場として地元を知る人だけにとって好都合な点を失う上に、観光地として居住性が最悪である京都市のように、生活者にとって地獄化してしまう。何らかの風評や、古都としての観光収入があがれば努力の必要がないため、大仏商法化してGDP最下位の奈良のように県民所得が下がる。要するに、県外から何もないと思われ都民が悪意で差別している茨城県内に、県外人にとってではなく(これが大事なところだ)、県内人にだけ快適性が向上するあらゆる工夫をし尽くす事が、県政のとるべき道なのだ。
魅力度なるものは「都道府県外の人」にとって、その土地の持つ何らかの特徴が好都合かどうか、という外人好都合性、市民不都合性に相関した指標なのである。内外人にとって同時に魅力がある、という場合も考えられるかもしれないが、現時点でその様な例は見受けられない。県内人にとって不都合だが県外人にとってのみ好都合な改悪は、県民に対する迫害だというべきだろう。
日本国民の9割は田舎に住んでいる。現実の都心を知らない田舎者の憧れといえば、原宿、渋谷、六本木、千代田区の皇居辺、或いは京都市の洛中である。これらの妄想は天皇制と神道への狂信、テレビやマスメディア、インターネットを通じた日々の洗脳、拝金主義による成金への羨望、大衆商業文化による精神汚染などが原因として考えられる。他方で現実に都会生活している側は高エントロピーからきた不快や不条理の鬱積した高ストレス環境なので、大自然への憧れが生じる。このため手付かずの自然と思われている北海道、沖縄といった北国・南国のイメージを担う両極端な自治体に憧れられる。これらが魅力度調査に現れている傾向である。いいかえると、生活にとって快適で過不足のない調和的な環境が最も低く評価されるのだ。低魅力度とおもわれる地域が憧れの対象ではないと見なされるのは、現実的快適性や功利性が大衆一般の妄想の中では、完全に見逃されているからだ。いいかえると、現実の快適さ、県民の質的・量的快楽の最大化による幸福が、茨城県の現に高く保っている特長であって、更に我々県民の生活環境における幸福に直結する調和を高めていく方に進化するべきなのである。国民の9割を占める田舎者はバカなのであり、1割の都会人も悪意に過ぎない。その様な人々からの評価を受ける必要は何もない。現に自分たちが快適ならいいし、自分たちの快適性のみを上げ、田中章雄という福井出の田舎上がり新東京人による悪意と偏見報道を利用して、外部の人たちについては茨城限定の快適性を享受できないほど愚かなままに保った方が、我々には誠に好都合なのである。
2017年9月5日
謙遜による情報非対称性の徳について
県外人一般が初期状態で茨城の味方だとは一切思わない方がよい。日本人一般とは、根本的に営利や搾取のみを目的に茨城並びに関東北部に接してくるだけの、暗愚な存在である。県外人に県内情報を知られる事にはなんの得もないし、損害のみある。政治的にも軍事的にも、茨城から発信する情報は必要最小で、営利に限らねばならない。互恵的な意図を持つ茨城県民自身が県内で幸福に益する情報を共有しながら知り尽くし、なおかつ、受信機能と受信機会の最大化によって外部情報も知り尽くしている事が最も重要だ。
他方で日本政府については、茨城県の営利が政府のよき目的と一致する場合に限って、利用価値がある。国政一般が県政の味方と思うべきではないが、当の政権が茨城の功利性にとって有利、もしくは長期的得という意味で有徳になる場合のみに、政府に県内の何らかの情報を伝達する価値があるのだ。
茨城県内にのみ流通する内外情報量の最大化と、県内にのみある情報の発信を最小化する事。この情報非対称性を強化し続ける事のみが戦略的に正しいのである。魅力度報道は日本人一般の階級固定による思考単純化の習癖に合致する(つまり衆愚に都合のよい低知能さにあわせた心地よい嘘を更に強調する、post truth)。今後とも、国内において東京発のマスメディアに扇動され続けたがる衆愚側に、情報強者や道徳的存在となるだけの向上の余地は全くない。端的に言えば虐めが大好きな日本人一般は、一度虐めの対象を定めて相手が何らかの反応をしようものなら、相手が自殺するまで追い詰め続ける。田中章雄をみよ。彼が東京都民や西日本人一般と共に死ぬまで茨城を偏見報道で虐待しながら、金を儲け続けることは100%疑いようがない。田中や県外人一般が確証バイアスからきた何らかの錯誤によって場合によっては致命的に損害するは明らかだから、我々がわざわざ我々の費用で彼らに損害のある誤解を解く意味は全くない。彼らは悪意な上に愚劣だが、その邪悪で、失敗している不良集団から逃れ出る為の誘引がないのだ。
逆に茨城県がなすべきなのは、日本という国の民一般からの侮辱や差別を受けたとき、更に我々について理解させないよう自己謙遜で素通りする事だ。徹底して自己ステルス化し、相手側に内情を見抜かれない事が重要だ。他方、相手がどの程度我々についての正確な情報を知っているかを暗に調査せよ。衆愚を無視して素通りし、県民の実質幸福度を最大化する事。かつ、直接国外の我々にとって役立つ自治体とつきあうこと、つまり日本人集団からの抜け駆けと自己差別化による県民の幸福最大化にすぎない。
最後に強調しておくが、重要なのは茨城県民、茨城人の幸福に益する県民利得なのである。決して県外人からの羨望とか、憧れとか、人気とか、誤解を含む名誉などではない。県民の幸福が重要なのだ。ここでいう幸福の中で、マズロ―の欲求階層でいう「尊厳・承認」の欲求が満たされないという事を不満に思っている県民は、現実に北海道やら沖縄やら東京やら京都やらに住んだことのない人々でしかない。虚栄は当人の幸福には全く益さない。県外人が我々について無知で、場合によっては悪意の東京都民にあおられて誤解している事、つまり何らかの角度から無知な県外人が偏見を持ち、差別し、我々について正確な判断をできなくなっている状態は、我々には完全に有利でしかない。なぜならそれらはリトマス試験紙のよう、県外の差別主義的で非科学的な愚か者を見分けさせるから。我々は愚かな、或いは悪意ある県外人からの誤解を真に受ける必要はないのであり、単に、県民自身の価値基準に基づいて、外部からの評価を超越し、自分自身の幸福のみを極めればよいのである。北海道や沖縄に住んでいる人が、道県の外部者からうらやましがられたとしても、それが誤解に基づくものであれ、何等かの偏見によるものであれ、或いは正確なある科学的観点からのものであれ、単に己の承認欲を満たす程度のことなのだ。茨城県民は、もし県の内外について同時に知る機会があったなら、県民自身が、他県と比較して茨城には明らかに優れた点が無数にあることを熟知する結果になるので(実際に相対指標とみて多くの面で優れているから)、その時点で自尊心を十分にもつ結果になるはずであり、県外の何も知ろうとしないか、知っていても差別に使おうとする愚民を超越することになるだろう。馬鹿だの悪人に好かれて羨ましがられることは、自分自身の破滅を意味する。愚者の称賛や非難より、賢者の称賛や非難の方が優れている。共感してくる愚者は破滅の原因なのである。我々は情報の非対称性の為に、幸運にも県外人の暗愚さ、すなわち県外の日本人大衆一般が都内マスメディアから悪意で簡単に欺かれるという驚くべき暗愚さを熟知する結果になったのだから、県外日本人一般という愚者に好かれるのではなく、むしろ彼らとの縁を遠ざけ、我々のもつ長所について知っている賢者とのみ親しむよう動くべきなのである。
茨城県内虐め撲滅策
1.外人含めて出入りだらけにする(人口流動性)
2.賢い子供ばかりにする(県内に知識集約産業を集積させ高給職が主な地域にする)
が主な対策で、学校については
3.県内単位制によってどの学校のどの教師のどの授業を誰とでもいつでも選択可能にする(選択流動性。オンライン授業でも可とする)
4.職場・職業・仕事の人間関係上の流動性を高める(新卒一括採用禁止条例、中途採用促進条例を通す。非正規社員(契約社員)高給条例、正社員課税によって正社員より契約社員の給与を上げ有利な環境にして固定的社員をなくす。配置転換選択義務条例によって社員の配置転換願いを一定期間内に会社側が受け入れなければ罰金刑とする)
さらに、
5.英語第二公用語化
によって、人口構成比について多様な外国人及び移民を多数派にする。
2017年9月4日
反格差財政論
r≦g
なおかつ、昨日より明日の方がより良くなると確信できるだけ経済成長率が高い方が望ましい。
但しこれらの総合値が他の地域より高い事が十分である。つまりrもgも他県より高い事が要求される。
安倍内閣の財政は失敗どころか破綻していて、彼らに反省力もなければ安倍晋三個人のマクロ経済学上の知性が低すぎ、それを補うだけの賢者も経産省や財務省にいないので、自民党政権が安倍を総裁に選出する限り国単位での経済政策の成功はおそらく今後数年の間ないだろう。衆愚国民も、東京財界村や経団連村に都内マスコミ経由で扇動され自民党狂信状態にあるのだから、なんの期待も持てない。未来があるのは、賢明な県知事あるいは市町村長を採用できる自治体であり、少なくとも橋本氏の段階から優れた経済政策をおこなってきた茨城県単位にはまだ希望がもてる。
では何をすれば茨城経済が成功するかといえば、日本政府単位での金融緩和を利用しながら、県内では経済成長政策を徹底することだ。具体的に県庁が行うべきは、県内で株式投資をする個人にNISA制度の啓蒙等を行って外貨獲得の誘引を与えつつ、県内金融機関を通じての地方税や住民税納入に電子化による手続き簡素化や手数料の減税措置を図る。更に建設投資額を可能な限りあげるべく、県内公共施設、特に公立学校の全面耐震・免震化を行い、或いは個人宅等も含め耐震工事費を全面補助する。これらの財源は県議全廃と県民所得税、県内消費税で賄うべきだ。より詳しく説明すると、まず累進化した県民所得税はrを下げてgをあげる誘引になる。また消費税の実質負担者は消費者ではなく企業なのだが、企業はマスコミのスポンサーを通じた印象操作で衆愚を騙してきた。他方、県内消費税をあげると県民にとって県外消費の誘引となるかのように勘違いされやすいだろう。従って名称を欧州風にかえて、付加価値税とするべきだ。茨城BI分は国から実験費用として徴収すればよい。これらによって県民間の所得格差をへらしつつも、県民平均所得をあげて幸福な県を作る誘引ができる。
2017年9月3日
行政による起業促進は計画経済に過ぎない
金が減る事での人口減など何の問題もない。移民が来るか、その集団が地上から少数民族として消失していくだけで(或いは先住民として保護される)、それ自体に特別意味はない。競争力のない集団や個人が減っていく事が多様性の喪失だという批判は、生命の利己性を軽くみすぎではないか。人類は自分の利益になる範囲でのみ、他の生命を保護する。宇宙人が人類に生存価値を認めねば一瞬で滅ぼされるだけである。人類は利他的な目的で生物多様性だとか民族多様性を認めているのではない。その利他的な目的において後押しした特定の生命や種が互恵的にふるまうとは限らないし、結果的に自己の全死を伴うなら、その判断が合理的ではないのは明らかである。つまり金がなくなる事による人口減少を憂うのは、単なる杞憂である。生命は別に死んでもいいのである。自分の慣れている既存の社会が変化し、別の遺伝系統の人種が入ってくるなり、混血するなり、そもそもそれらの人種が消えて別の生命が栄えるなり、どれもありうることだが、どの様な経路をたどろうが、遺伝子が絶えようが増えようが、別にどうでもいいことなのだ。自己の遺伝的子孫が永続しうる環境をつくろう、という将来への計画本能は、根本的に不可能なことをしているのであり、なしうることといえば想像できる範囲の変化に対してある程度の準備をしていること位なのだ。金をふやさねばならない、という計画の仕方は、金が必要でないとか、金の重要性が低い社会の到来を予想できていないのだから、平成の価値観で将来を延伸させて考えている以上、確実に何らかの過ちを含んでいる。もし金の重要性がより高い社会がくるとしたら、その種の構造をたまたま計画していた部分が有利になるだけである。人口減少社会で金が足りなくなってきているのだから、もっと県外貨幣を高利率で儲けよう、という考えは、単なる地域ナショナリズムを含む資本主義イデオロギーだということだ。その考えが未来においても正しい保証はない。つまり行政が市場に何らかの計画性を持つことは、その市場の需給壊乱によって自由競争性を損なう規制に他ならないのだ。
規制を最大限なくす。上述の様に、市場に対して特定のイデオロギーから、計画性を持たせない事が規制をなくすという事でしかないのである。行政人が金儲けとか商売について語らない事。武士の様に。それが最も賢明なのだ。
民間人が需給秩序の中で勝手に商う。行政は、生じる公害について外部不経済を内部化させる。過度の儲けについては一定の累進課税を行う。最低限度の生活保障を除けば、徴税したものが余った上に当県が大不況に陥って失業率が高すぎた場合に限って建設投資によって雇用を創出する。普段は節税に努め、公務員は小さな政府をめざし、清貧を是として清く正しく生きる。基本的には、これで財政的に十分なのである。行政による余計な起業の促進は、単なる無駄の制度化であり税金の浪費なのだ。それどころか商業が無用か、有害にさえなる状況がやってくるかもしれない。行政単位でのシリコンバレー模倣は米国追従による計画経済にほかならず、市場の失敗をもたらすにすぎない。それどころか世界一熾烈なIT利益の奪い合いをしているシリコンバレーと競合するのだから、それを超える世界一のIT能力者を県内外から多数ひきつける方途がない限り、茨城の取り分が増える事はありえない。少なくとも赤い海である。茨城県政がなすべき事は、市場の秩序に対して特定の肩入れをしない事でしかありえない。そして市場の競争者の一部がたまたま見いだした青い海から、所得として上がりうる成果について、一定の地方税を徴収するだけなのである。
わざわざ世界で最も過酷な競争をしている最中の分野に、自ら飛び込むというのなら、勝算がなければならない。大井川氏に世界IT界での勝算があるのか。最低でも国内で覇権を握るだけの方途があるのか。もしある程度はっきりとした勝算がないなら、飛んで火にいる夏の虫のよう無惨にIT業界で敗残し、起業促進に費やした税金は無駄になる。その分を既定路線で利益のあがっていた、経験効果を十分蓄積してきた日本トップレベルの農工業の環境整備に費やした方が、得策だったとなるはずだ。産業単位での差別化とは、農工両全の究極の方にあるのではないか? 多角化は選択集中の逆である(厳密にいえば高い程度の多角化は選択集中の逆である)。高利率とは選択集中である。競争力とは市場シェアである。可能ならITを農工業の洗練に適用する事、それによって既存の茨城の強い農工業を更に強くする事。これが全てと私には思える。IT産業を単独で、県内で新たに創出したサービス業の促進に適用させようとするなど、創造には模倣より高費用がかかる上に、単に海外の強豪と競合する。国内ですら六本木界隈の既存業種と被る。よって勝ちづらく利益をとりづらいだろうし、実際にやる前から経営判断として不合理だとわかる。万一この路線を行くなら綿密な勝利の筋書きを大井川氏には提出してもらいたい。
認知バイアスの利用
魅力度バイアスは、無知(愚かさ)と、悪意の2つの面がある。西日本人一般は相対的に所得と学力が低く、発信したがらない首都圏北部について基本的に無知であるし、知ろうとする誘引もない。他方、関東南部人、東京圏の人々は都会で過酷な生活をしている上に商人根性に染まり、意地が悪く、競争的で差別する相手を常に探し、炎上させて視聴者を稼ぐ事で金儲けをしようという悪意がある。この為、東京都民、南関東人には、群れて魅力度バイアスを悪用している面がある。田中章雄は明らかに後者の類型である。名誉棄損による敗訴費用を大したことがないと見積もり、47県のうちどれかを差別する確証バイアスをあげつらい、都内マスコミに疑似科学的ないんちき統計情報を売りながら衆愚扇動で金儲けして逃げ切ろうという、福井出身の東京人が田中容疑者だ。ハンロンの剃刀(ハンロンのかみそり、英: Hanlon's razor)とは、次の文で表現される考え方のことである。
例えば、ある製品に欠陥が見つかった場合、(大抵の場合、一般論としては)それは製造した企業が無能であるか愚かであるということを示しているのであって、消費者を困らせるために企業が悪意を持って欠陥を忍ばせたわけではない、という考え方を示すのに用いられる。
このうち無知な人々、特に西日本人一般に対して何らかの情報を提供する事で認知度を上げる、という事は恐らく可能だろう。だが魅力度調査対象者である総合ブランド研究所に登録している西日本のほぼ固定的な数百人を調べ上げ、彼らに対して茨城について当該調査で高い評価を与える誘引を与えたとして、それにどの様な実益があるのか。県内の観光業者にとって利益誘導である面。県民一般にとって名誉心や自尊心を満足させる面。そして前評判の上昇による何らかの得。Loss効果(事前評判が実力より高すぎると欠点がよけい目立つ)など、幾つかの面がある。それらを総合的に計算し、西日本人一般の無知を正すような、県が使えるなんらかの税源からの宣伝費支出、または、特定のブランド総研会員への誘引提供費の支出について、費用対効果は高いといえるだろうか。私の印象にすぎないが、あまり有益な方途とは思えない。Gain効果を意味する実入りと、情報非対称性を利用した各種面で有利な取引の方が茨城の為ではないだろうか。観光業が主要産業になった地域は経済衰退していく。それは大規模雇用になりえないからだ。京都、東京、北海道の前評判を無駄に上げていく認知バイアスを強化させる事は、それらの地域との対比で割安感を得られやすい茨城の地元界へ、実利的に有利な結果をもたらす。その上、県内外人についてマスコミの報道を鵜呑みにしているかどうかという面で、茨城についてどの程度の認知バイアスを持っているか見極められるので、その面で無知な人間、知性の低い人間が見分けやすい。西日本の無知と東京圏民の悪意による謎の汚名を着せられているという一見不利に見える条件下にいれば、人間性の美醜を見分ける条件としてかなり有徳である。
また、田中章雄を代表とした東京マスコミ、東京圏人の悪意についていえば、救い様がない。寧ろ彼らにはその悪意をまっとうさせ、さらに扇動しますます悪徳に染めて、破滅に至らせるのが賢明だ。チバラキだとかグンマーだとか川崎国のバカナガワだとかダサイタマだとか、トンキン(東京の唐音読みで中華的であると揶揄する差異化語)周辺の自治体を侮辱するネットスラングは、東京都民がどの様な知識も自己利益と他者損害を目的とした悪知恵に乱用するという悪意のみを示している。この東京都民性は幕府と天皇の中華思想、明治旧政府の藩閥的傲慢、そして町人・商人達の抱くダニング・クルーガー効果(無能の自己評価は過度に高い)による過剰に高く見積もった自己評価バイアスからきている。都民の全てが無知とは言えないにもかかわらず、少なくとも西日本よりは関東北部に出入りする確率の高い立場にもかかわらず、東京圏人の中では悪意の方がまさっているのだ。この様な場合、いくら東京人に宣伝してもむしろその知識を東京に有利で茨城に不利な方へ悪用してくることは疑いようがない。
このどちらの類型についても、この状況で対県外人に印象付けられる魅力度、或いは総合ブランド研究所の登録者達の高評価誘引を上げようという意思は失敗なのである。逆に東京人の悪意を極めさせ、ひたすら非科学的で誤った認知をおごり高ぶった都民に持たせながら、東京圏民に無知をも与える事が必須である。悪意に無知が重なれば最悪の状態になるが、西日本人は東京の悪意などつゆ知らず、マスメディアや東京圏発の悪意ある虚偽情報を「都会から来た立派なもの」として仰ぎ奉るだろうから、ますます悪質な東京圏人による詐欺に遭い破滅的になっていくだろう。無知な人、愚かな人、不勉強な人が損害する事は、どちらかといえば人道の為には正当なのであって、それ以上助けてやる必要は何もない。悪意も無学も自業自得というべし。県外人に比べて、県民が共有しつつ県内利潤の最高化に応用できる知識や知恵が多ければ多いほど、我々に有利なのだ。石破氏の様に茨城県の統計的真実をかなり深く知ってしまっている県外人を脅威と感じるべきだし、その様な人を1人でも減らす必要がある。逆に橋本氏の様に県内事情を知悉する人、郷土検定で育つ子供の様に茨城学に徹底して詳しい県民に愛県心をも喚起する事が何より重要だ。それには、茨城が県民同士に利他的な風土である事が最も役立つ。茨城愛の啓蒙。茨城人同士の助け合いの精神。これが最後に役立つ。なぜならこの県内で人助けされたという幸福な経験がある事で、反抗期や何らかの理由で県外に一度流出した人も、もっと意地の悪い県外での経験をへて、望郷の念や何らかの自己利益の為にUJIターンの確率があがるから。ふるさと納税などでの利益も期待できるうえ普段の県民生活にとっても幸福感に直結する。
県政革新論
更に国政革新を図るべく、偕楽園内にある旧レイクボウル付近に妹島和世設計による全面ガラス張りの前衛建築として全国知事会議事堂を建てる。そして国会を知事会議で代替する事で国会議員と国会を全廃し、大幅に節税する。これを大井川県政第一期目、つまり2021年までに実現させる。
茨城経済学――トップバリュー効果とノンブランド戦略
さらに青木氏はかれのサイト『茨城王』「茨城県が裏魅力度調査2010で第1位を獲得」 のページで、次の様に述べている。
ここにみられるのは日本や世界の賢い消費者を馬鹿にしている、高く余分をとった高付加価値のわりに質の低い、東京や京都の様な見栄っ張り「ブランド志向」の逆の発想で、コストパフォーマンスを最重視した高品質の割に無名であるから値段が安い「ノンブランド志向」が茨城県の既存の好条件を最も生かしやすいのだ、という観点である。このブログの中でも何度か似た意見を述べてきた。茨城ブランドとは現時点でノンブランドと同質の意味を持っている。「有名じゃないから大したことがないのだろう」という日本人の偏見をゲイン効果に逆利用して、国内市場では有利に高品質・低価格な製品サービスを提供できる、というわけだ。橋本県政が工場誘致力を日本でトップにしたのも、農業力も2位にまで成長させたのも、この消費者にとって最もありがたいトップバリュー効果を活かしていたのだ。しかも、茨城産の商材は国外では日本ブランドに他ならず、国内で費用対効果面で競争力をもった時点の茨城製品・茨城サービスは、国外ではブランドマージンを得られるのだからさらに高値で売れる。これ、ほんとにこんな値段するの?いくら有名だからって高すぎでしょ・・・って正直思ったことはありませんか?
ブランド力が高い商品ほど、はっきりいって値段も高いですね。●海道の有名なお菓子はみんな高いでしょ。←水海道じゃないですよ(笑)。
「払った対価に比例して満足度は高まるものですから」なんて言われちゃうと、なるほど確かにそうかもなあ・・・なんてだまされねえって(笑)。それより、もっと「安くていいもの」のほうが普通はいいでしょ。この指標は主に農産物や特産品を対象としていますが、質が高いにも関わらず、あえてブランド価値を高めずに、なるべく安い価格で提供しようとしている生産者や商品をもっと高く評価すべきであるという主催者側の意図が見て取れますね。
茨城県はこのノンブラン度でも第1位を獲得しています。
評価の高い産品を挙げていけばキリがありませんが、コシヒカリ、メロン、栗、水菜などその品質のわりに価格が安いものが多いです。以前農業関係の仕事に就かれていた方がおっしゃった一言を私は忘れることができません。
その一言とは「かしこい消費者は茨城産のコメを食う」。
なるほど!と思いました。
グルメ志向、ブランド志向の方だったら●沼産などに手を出しそうなものですが、賢い方は同レベルの品質であるにもかかわらず価格の安い茨城産を選ぶということなんですね。高けりゃいいってものではなくて、いいものを安く買うのがかしこい消費者です。メロンだって夕張が有名ですが、たくさん作って安く提供しているのは茨城産ですし、栗なんて有名な小布施の栗菓子にどんだけ茨城産が使われていると思ってるんですか。
水菜にいたっては、京都産の半額ですからね。
そりぁ日本一の産地になっちゃいますよ。
水菜は元々京野菜で関東ではあまり食べられていませんでしたが、これだけ水菜が普及したのはきっと茨城産の水菜があったからといってもいいすぎではないでしょう。
それと、茨城には有名な割には値段の高くないブランドというのもありまして、それは水戸納豆ですね。納豆って栄養価が高い割には値段が安く、非常にコストパフォーマンスの高い食品だと思います。
茨城県の特質を生かして高付加価値を生み出す要因は、ブランド価値を最小化する事の方にある。目立つ宣伝をしたり、押し付けがましいブランド名をつけて高級感を演出したりしてはいけない。素っ気ない、どう見ても過剰サービス精神のない、あたかも売る気がないように見える。しかし裏返せば消費者には全然ありがたくない宣伝費や無駄に他ならない過剰包装的・偽装的な価値の上乗せに過ぎない余分を極限まで切り詰めてあり、お徳感、実のコスパにおいて圧倒的に世界一の水準にある、という商品価値の実感を奨励する方向に進むのが、逆差別化という茨城経済のノンブランド(無名)戦略に違いない。既に無印良品とかプライベートブランドとかに似た傾向の戦略はあったが、県単位で自覚的にこの経済戦略をとろうとしたところはないのだろう。
他方、マージンを取れないなら製品サービスのコモディティ(日用品、似たり寄ったり)化によって(過当競争の血の海の様に)赤い海になりやすいという批判が考えられるが、競争力を持って市場で勝利できる限り、隙間市場においても同様の、魅力を削いだ実の効用を求める製品サービスの入り込む余地はあるかもしれない。たとえばオーディオスピーカー分野で実を求める人に有名なオラソニックや、海外ではおそらく日本一のクラフトビールである常陸野ネストの木内酒造、皇室献上品でもあるカガミクリスタル等はこのような例なのかもしれない。要は市場競争力を志向しながらも、品質/価格において勝利する事を目指し、虚栄より実質をとる賢い消費者のみにターゲティングする。裏返せば、ブランド志向で見栄を張り、低品質・高価格な製品サービスを購買したがる愚かな消費者を標的から大胆にはずし、過剰な高値付けをもたらす非消費者目線の余分を極限まで切り詰めた良心価格を目指す。京都・東京・北海道・沖縄の逆を張ってブランド依存またはブランド志向を脱却する事が茨城的なのだ。
もしこの種の戦略が現実に成功度を高めていった場合、必然に、市場シェアを独占する分野が複数生まれるはずだ。結果的に、世界市場における持続競争力を茨城が確保していく事ができるだろう。この戦略をとる場合、いかに県内の企業・労働環境を低費用化できるか、しかも、県内の何らかの職人的な起業風土、社内外教育(ON-JT・OFF-JT)に有利な条件付けによって市場と比較して高品質な製品サービスを生み出して当たり前だ、という意識をどう作るかが重要だ。いいかえると、品質/価格の高い商品において潜在価値をうみだす両輪として、低費用化と高品質化の誘引が必要になる。前者については公害を主とした外部不経済の内部化を除いて、企業活動に世界一有利な県内誘致環境を生み出す事が重要で、これは法整備を含む税制改革によって県庁に十分なしうる。また労働者に関しては公務員が高い税を貪らないという県内公務員の給与削減によって模範を垂れる効果と、公務のIT化・高効率・合理化によって、武士道的な、高利益を得る事のない低廉な仕事の方が立派で、代わりに名誉を付与されるのだという貴族精神の啓蒙が重要だ。後者、高品質化については教育風土によると思われるが、恐らく高品質の飽くなき追求と言う意味での芸術家・職人気質の啓蒙が役に立つのだろう。求道的な職人は無限に高品質を志向するものだし、それはいかにも売らんかなというデフレ経済下の消費者にとってはうんざりする態度、もしくはより高い差額を得ようという商人気質の逆を張る為、ノンブランド戦略との調和がし易い。前衛芸術家(後衛の作家はそうではない)はまだ評価されざる領域へ決死で常に挑戦していくという意味では革新の原点だし、この種の人々を集める事は精神面でのイノベーティブな環境を生み出しうる。
堤防の工夫
同様に、北茨城市も今つくりなおしている高さのある海辺堤防に、どこからでも海の眺められる遊歩道を付属する、そして景観に害を及ぼすテトラポットはむしろ海水浴場部以外で積極的に撤去し、自然のままの砂浜を残すという考え方をしなければならない。いわゆる災い転じて福を為す、転んだら只では起きないという発想である。
水戸遷都の最優先
茨城BIによる世直し
だから青年を搾取して暴利を得ている年金を廃止し、代わりに生活必需品を無税にした軽減消費税を欧州並みに引き上げ財源を確保した上、社会保障を一元化した茨城独自のBI、最低所得保障制度を導入して、世代間格差を是正するべきなのだ。今すぐに。待ったなしで。これをなしえないかぎり茨城も日本も100%滅亡する。断言してもいい。裏返せばこれを実現したばあい、茨城の若年人口は同等の制度をもつ欧州並みに回復し、経済成長率と或る種の繁栄を確保できる上、若い世代の移民による人口増大と起業の為の必要最小資本が確保され県内とその関連経済も回りだし、暴利を貪る老人世代の実質負担率があがることによる非生産・非消費集団の県外排出を促し、老害の貪欲という悪徳による風紀紊乱も糾すことができ、タンス預金の切り崩しで死資本の淀みも一気に解消する。
国民政府論
竹田恒泰の様な皇族利権にたかる民間人も、あるいは皇族閥にしがみつき国税利権やら後光による虚栄にあやかりたがっている京都府知事および京都市長も、国権の正当な行使が図らしめる範囲において、同時に地上から粛清するべきである。
2017年9月2日
日本国の人口減少は、世襲権力者への人道の裁きにして復讐である
政治家が恐れている被侵略の恐怖など、侵略者である弥生民族の末裔に他ならない西日本に生まれ育った人間が言えた義理ではないのは明らかで、それをいうなら弥生人の末裔達は最初から侵略犯なのだからそれを言うなら今すぐ天皇を連れて日本国から、朝鮮半島、或いは中国江南地方を経由し、故郷であるユーラシア北部へと帰ってもらうべきである。しかもこの西国の薩長土肥だの関西地方の弥生民族の末裔たちは、今から150年前に自分から東国だの周辺諸国だのを侵略し、賠償に値する多大な生命への恐怖と現実の殺戮という大犯罪の数々をもたらしてきたのであるし、今現在も商売、利己、性悪、金儲け、そして民族・人種・門地差別と天皇狂信といった移民初期から健在のあさましい本性を手に、日本中・アジア中・世界中を目下侵略中である。つまり天皇家だの長州閥だの関西人をはじめとした弥生人の末裔の政治屋らは、自分達の世襲権益が侵害されるのを恐れているだけなのだ。大体、東日本にこの人たちが入ってきている事そのものが、2800年間も迷惑極まりないのである。侵略者は帰れとしか言いようがない。現に濃度こそあれ混血者も多かれ少なかれいるにせよ、この弥生人と呼ばれてきた侵略者連中は自分が犯している侵略罪に自覚がなく、他人から侵略される事はゆるせないという無礼千万かつ無神経極まりない無感覚で、大公害の恥知らず、浅はかで陰険で自己中心的な大ばか者としかいいようがない、救いようがない連中なのである。
人口が減る事について、天皇家のような生まれつき付与された「世襲権益」を持っているのでない、一般人には何の心配もいらない。我々はどちらにしても、天皇家という侵略者に毎日、被支配という不愉快な経験を2800年間もさせられているのだし、天皇家が故郷の中韓ならびに大陸北部にさっさと帰ってくれない限り、京都だの奈良だの中韓系帰化人の植民地に引っ込もうとその被侵略状態という移民社会の状態は何も変わらないからなのだ。百歩譲って自分と遺伝傾向が近い人間が同調し易いという妄念があったとする。これをいうなら、縄文系の本来の日本人であるハプロDと、弥生人という中韓人の末裔であるハプロO1bは、7万年分も遺伝子分岐の時点が離れているのだから、完全に赤の他人なのだ。いやいやながらの呉越同舟なだけで弥生人という汚い侵略犯を、アイヌはじめ日本人は昔も今も少しも好んでなどいなかったし、卑劣な暴力で2800年の間、独立を侵害され抑圧され文化文明を破壊されたという完全な民族弾圧犯罪の被害者にほかならず、今後もそうだろう。混血があるという反論については、天皇家が自分で万世一系とほざき、男系がハプロO1bという中韓人の系譜なのは出自からも身体特徴からも歴史からも完全に明らかで、アイヌや縄文人(中韓系の侵略者である天皇は、日本人を蝦夷と呼んで差別してきた)では全くもってないのだから、はっきりいえば男系の天皇は科学的に、未来永劫、極悪犯罪人にして迷惑千万な、恨み多き罪人にして、移民の外人なのである。
この論理は背理法であって、私は人種差別主義者でもなければ民族差別を奉じる者でもない。人口減少が恐ろしいと述べている人の根底にあるのが、これら、人種差別と民族差別にほかならず、しかも彼らがそれら2つの差別を用いて何をしているかといえば、自分自身の既得権益を維持したいという天皇家レベルの旧態依然なばかげた封建制に他ならないのだと、のべているだけである。日本国など守る必要は一切ない。日本国政府が滅亡したところで、我々一般の個人には何の問題もない。中国を見ればいい。何度王朝が後退し、何度新しい国ができた事だろう。中国人はそんな制度変化に一切関係なく、生き続けていくのだ。
易姓革命のなさを日本らしさの様に定義づけた水戸の徳川家は皇族権益を奉呈して、唯我独尊状態にあった江戸の徳川家とのすみ分けをしていた存在なのであり、水戸家が天皇を崇拝させるように藩士にしつけたのは彼ら自身の女系DNAに皇族経由の流入があったため、完全に封建的既得権の維持促進が目的でしかなかった。明治以後の島津家、毛利家、そして吉田茂を含めて、皇族の親戚関係になった人間が、自分の母系DNAに既得権をあつめる為にいかにあらゆる政治制度的抑圧と報道統制、そして宗教的洗脳を彼らが弾圧してきた水戸藩の学問を乱用してさえ行うかは、天皇2800年の世襲独裁制度そして国民奴隷化の延長にある現在がまざまざと証明している。要するに、搾取する対象である奴隷国民が減るため、こういった既得権が旨みを搾取できなくなり、人口と経済力という意味で、近隣のより健全なまつりごと、国民への利益還元をしている有能な国民集団からの侵略或いは移民で滅び去る事は、人道の正義としかいいようがない。天皇家も安倍家も、麻生家も、いや、東電株を手放していない石破家やら、非正規雇用法を通したポピュリストの子である小泉家であれ、滅び去ればいいのである。これらの人々と私に何の関係もない。私にこれらの人々が、1円でもくれたことはない。一方的に徴税され、私は被害だけを受けた。何の利益還元もない奴隷側が、搾取だけされ極貧状態の中ふえられるわけがないのである。経団連から不道徳な献金を受けながらぬくぬくと世襲政治屋を続けてきた自民党員だの、国民全体を、どんな貧民からさえ税金を搾取しつくして贅沢三昧で2800年の天皇家など全員滅び去れ。それが正義なのだ。日本国民がどんどん人口減少し、搾取する対象がいなくなって慌てている悪の天皇家とその手先の自民党員共は、(彼ら自身の、西日本側とおもとする大部分が移民そのものなのだが)新たな移民の奴隷欲しさに躍起になっているが無駄である。なにしろ、苛斂誅求の暴利によってひたすら民を虐殺し、2800年間もの間、すさまじい悪政をしているのだから、今後来る移民についても同じく、不幸な奴隷国を作ろうと最後には滅亡する。
天皇家と自民党員は、奴隷が足りなくなって慌てだし、どんどん移民を増加させようとするだろうし、それによって政治参加者も投票傾向も帰化した人々や混血した人々により激変し、遂に彼ら既得権を寡占する支配者らが、悪の世襲独裁者や独裁政党員として国政から排除され、場合によっては国外追放もされるであろう。それでいいのだ。奴隷に再び生まれなおすより、国ごと滅びた方がよい。無論、天皇家や安倍家や麻生家や小泉家や石原家や石破家を、つまり世襲権力者の悪政既得権の連中を、全員我が国の政治界から永久追放できれば今すぐにでも、我が国の税金について本来の恵まれない国民への健全な利益還元が可能になる。だがこれらの極悪集団は、国民側の正義に最大限の悪意で弾圧し続けるだけだ。日本人の衆愚、ニコ動だの2chだの東京大阪の愚鈍マスコミに洗脳された馬鹿な若者だの中年だの老人側には群衆化や自己奴隷化の狂信傾向以外でまっとうな思考力や理解力が欠けている。天皇家含む政治屋も衆愚も両者とも今後も反省や精神的成長が期待できないこともまた疑いようがない。こうして日本国が周辺諸国に侵略されるまで、徹底的に日本人が減少し経済衰退した方が全人類の正義の為なのだ。
ちなみに、相対的に他の列島より人口増大傾向にある愚劣な九州人は貧しさのなか増大しすぎた若者やくざ集団が余って暴走し、再び自らの口減らしのため侵略戦争の惨禍をくりかえしたがるだろう。もっぱら我々はアジア諸国及び多国籍軍と協調し、国内外でバカな九州人暴力団からの侵略被害を防止する事、彼らの暴虐を最大限の暴力による実力行使で徹底的に潰す事だけで十分である。
平成維新論
この際、安倍晋三並びに安倍内閣のみならず、自民党及びそこからきた悪の子分に他ならない平成日本政府の一切を解体しきるまで、安倍晋三の不正による独裁罪業の追及を未来永劫ひたすら怨嗟と怨恨によって続けるべきである。唯一の正解は倒幕だ。
茨城の独自性について
資本主義の制度に乗る範囲で、米国の今現在はやっている商業をまねよう、少なくとも金儲けになる範囲で商品を差別化しようという考えは、秀才的な発想でしかない。資本主義潮流にそのまま乗っているだけだからだ。管理された独自性、合法な商取引というルールの中にある革新、これは真の革新ではない。単に資本主義の改良だ。
過去の茨城県・常陸国・下総国史できわめて独創的だといえるのは、全世界でこの地域にしかない水戸学が代表的なものだ。象徴天皇制と明治維新、広くは植民地独立、人種差別への反対、民族独立運動の礎となったのはこの思想であり、人々が気づいていようがいまいが全人類にプラスの影響を与えている。共産主義が生まれる前の考えだから、マルクス主義以降の知識人にとっては乗り越えるべき批判対象かもしれないが、非西洋圏における近代化の基礎理論となったことは明らかであると同時に、単に茨城県のみならず日本国、そしてアジア、いや有色人種の多かった全地球の国々単位での非西洋性、独立の背骨を保つよすがとなったのも、この水戸学なのである。特に天皇家はこの思想を生み出した偉人達に未来永劫、感謝するしかないほどだ(現時点の皇室は単なる英米追従者であるうえに傲岸不遜で無知かつ不勉強だからそうはしないだろうが)。岡倉天心の『茶の本』をはじめとした著述と思想にも、水戸藩士である横山大観の父、そしてその子である天心第一の弟子・大観当人から来た、日本の独立、独自性尊重の思想が流れ込んでいるのは、偶然ではない。
では水戸学とそこから流れ出た独創性について、世界人類が何らかの高い評価を与えているかといえば、決してそうではないだろう。なぜそうなのかといえば、単に理解していない、理解する誘引もなければ必要もない、それどころか未来永劫この種の哲学に関心を持つほどの知能がない等、いくら優れた意義を持つ達成であれ、他者からの評価がそれに比例するとは限らない。では、大井川氏は一体、この水戸学の様な独創性をまっとうに評価し、その種の独特さをのみ選好しようと思っているだろうか。思っていない。
彼は単にアメリカかぶれ、その追従者である東京かぶれなのである。はっきりいうと、米国の評価基準に合わせた何らかの価値等級を、茨城県域にもたらせばそれが革新だと思っているのだ。シュンペーター理論は経済学にすぎない。大井川氏が革新を興したいと思っているのは、実は「商業」という、全体から言えばごく限られた分野であるか、少なくとも商業性を経由したイノベーション理論の援用であるというほかない。勿論、生き方の多様性とか、傑出した個性とか、独特の能力といった言葉で、その理論体系を補う様な発言もしばしばみられるが、大井川氏の行政論の本質にあるのはイノベーションという概念を中心にした米国的な技術革新の模倣であるというべきだろう。
この議論で見えているのは、真の独自性は潮流或いはパラダイムそのものが違う為に、外部者から正当に評価されえない、という観点である。芸術でいえば真の前衛が同時代人から常に無理解にあい当の芸術家らは孤立しながら貧窮に陥り、場合によっては悲劇的な死を遂げた、他方で過去の同時代に高く評価される類の今日では全く知られていないいわゆるサロン芸術家らが伝統模倣者にすぎないがゆえ、当時の俗物受けがよく当時の凡愚な称・文化人らにとっても重要とされていた上に、経済的にも人気的にも全く恵まれていたといった例に事欠かない。イノベーション理論でいえば、市場参加者には下記の別がある。
これらの種類の展開のうち、イノベーターの中には単に革新的であっても商業上の流行が決定量(クリティカルマス)に到達しなかったままの、無数の前衛的な実験、発見や発明が含まれているというべきで、その様なものの中には非利益的な探求、それどころか努力なしに得られた特殊性も大いに含まれている事だろう。大井川氏は、一体この問題についてはどう考えているのだろう。
- イノベーター(Innovators:革新者):
冒険心にあふれ、新しいものを進んで採用する人。市場全体の2.5%。- アーリーアダプター(Early Adopters:初期採用者):
流行に敏感で、情報収集を自ら行い、判断する人。他の消費層への影響力が大きく、オピニオンリーダーとも呼ばれる。市場全体の13.5%。- アーリーマジョリティ(Early Majority:前期追随者):
比較的慎重派な人。平均より早くに新しいものを取り入れる。ブリッジピープルとも呼ばれる。市場全体の34.0%。- レイトマジョリティ(Late Majority:後期追随者):
比較的懐疑的な人。周囲の大多数が試している場面を見てから同じ選択をする。フォロワーズとも呼ばれる。市場全体の34.0%。- ラガード(Laggards:遅滞者):
最も保守的な人。流行や世の中の動きに関心が薄い。イノベーションが伝統になるまで採用しない。伝統主義者とも訳される。市場全体の16.0%。http://www.jmrlsi.co.jp/knowledge/yougo/my02/my0219.html より
私の意見をいえば、茨城からビルゲイツをとかジョブズみたいなのを出せとか出そうぜいうのは、戦後日本の典型的思考法、単なる模倣者でしかない。実際、まねがうまい国民性だから川上量生だの孫正義以上の存在は、本気でやればうみだせるだろう。どころか、その種の類型に当てはまる人物は既に、茨城にもいたのだ。Winny開発者の金子勇氏。今もいるに違いない。ウィニー事件にあった京都みたいに陰湿な社会では反社会的個性を弾圧するから、ジョブズみたいな本物の不良、狂人が潰されてしまうという面は大いにあるだろう。ジョブズはソニーの不完全模倣者だったかもしれないが、ビルゲイツはだれかを模倣したろうか。真の独創性とは世界に類例がないことなのだ。ビルの様になろうとした時点で革新的では全くないのだ。「金儲けなんてどうでもいいや」とか、「武士はくわねど高楊枝」とか、「役に立つ仕事なんて下民がやる事だ」と言って、金になるかならないかわからない対象に命懸けで取り組んでいる人の方が、非米国的かもしれない。金儲け以外の目線から見て幸福追求に成功した人の方が、実は市場にあっても十分に差別化されて青い海を泳いでいるかもしれない。つまり大井川氏が本当に茨城を独自にしたければ、米国追従をやめるべきなのである。シアトルだのシンガポールだの、フランスだのといった前例はある種のモデルかもしれないが、それらから何をどう学んでいようが、或いは学ばなかろうが、自分自身にしかありえないもの、しかも価値観や評価基軸そのものを独自で作り上げる事が重要なのだ。独りよがりになるからそんなものは意味がない、県外から中身があろうとなかろうと何らかの妄想だか事実の側面だかによって魅力があると思われる自分になりたい、こういう発想は間違っているのだ。ランキングは無意味なのだ。他人に順位付けされない価値は、自分自身が作り出すしかないのである。そしてこういう意味で、橋本氏は正しかったのである。なぜなら橋本氏独自の哲学を持ち、他人からどう思われようが、彼の理想とする茨城の理想像をいだき、それを実現していったからなのだ。
もっと根本的に言うと、独自になろうとする努力そのものが、元からある個性が非独自な場合に限るのだから、最初からある自然や文化条件が沖縄だの北海道みたいに非典型であるとき、或いは朝鮮人植民地として始まった中世都市の京都みたいに出自からして非日本的である場合、普通や平凡になる事自体が難しい。彼らは逆に、あまりに正規分布から外れた各種の特殊性のため日本で「普通の人」になる為に努力さえ必要なのだ。自分の持っている個性を丸ごと受け入れる事。底抜けの自己肯定感、そして自分自身の現時点でもっているありのままの個性の特徴をそのまま、他人の前に押し出す事。これが本当に独自であるという事なのだ。アリストテレスは言っている、変化するのは悪い特徴なのだと。最高の存在である不動の動者が神なのだと。平凡な人が特殊な人に憧れるのは矛盾しているのである。茨城の良さは、かなりの程度、中庸にあるのだ。人徳の最高の特性とは中庸にある。『常磐線中心主義』の中で、茨城はコモディティの供給地というイメージ、つまりは平凡な農工業地帯といわれる。魅力がないと思う人達は、その個性を嫌っているだけだ。我々が満足しているのに、我々は生まれ故郷の良さ、なつかしさ、美しさ、言葉にならない崇高な光景、自然の奥行と神秘、偉大な文化文明を生み出してきた立派な人々、親しみのある仲間を語りつくせないほど、幼児のころから知っているというのに、くだらない人達に嫌われたからなんだというのだろう。自分が好きな人とだけつきあえばいいではないか。茨城は神のごとき世界一優れた自治体であり、その本質において、変わる必要がない。他人から好かれるために作った偽物の個性などになる必要は、まったくない。自分達が理想の中庸に到達する様に努力していればいい。中庸より極端を好む人達は、おろかなのである。愚かな人の評価基準に合わせる人も愚かなのである。
茨城県という法人格としての行政単位と、その中に属する個人達、或いは県内企業を比べて、後者が中庸でなければならない、という事は確かにないのかもしれない。個人が市場における利益を得る能力としての差別化された仕事が必要だ、として、それを行政がおしつけることは完全に誤りだ。個性や企業は自由でなければならない。中庸を選ぼうが極端を選ぼうが、その個人の選択が正義だ。特定の企業優遇についても、ハイエクの論理によれば、実際は市場原理によらなければ計画経済的な非効率や失政を免れないだろう。対して、行政単位としての茨城県が極端な個性になる、つまり、あらゆる観点から見て大いに欠けたところと大いに優れたところがある、という事が、道徳的に正しいのかについては議論の余地がある。全体奉仕という理念と矛盾をきたすからだ。むしろ行政単位というものは欠けた所のない全能を志向するべきなのかもしれない。その単位で暮らしている人たちは現代世界の市場原理秩序に最適化しきってしまえば、産業転換に追随できず、古都となって滅び去れるのだからだ。茨城、常陸国は3万年以上、一貫して持続発展をしてきた世界一偉大たるべき自治体なのであり、未来もこの星が太陽に呑まれて滅びる50億年後までの期間、最低でもそうあるべきだ。
茨城経済学
TED(米国ニューヨーク市に本部のある非営利の講演団体)における演説の中で、アメリカの超富裕層に属するニック・ハノーアー氏は、安定した消費力を持つ豊かな中流階級が起業家の母体になるにも、彼らの購買する商品・サービスのある安定的な市場を形成するにも必須で、さもなければ暴動が起きるであろうと述べている。下記に引用した当演説の要旨にあたる記事でわかるように、資本主義の最も重大な欠陥は、格差拡大が極大化し、あたかも資本奴隷制下での新封建主義の様相を呈することにあるのだ。
シアトル市の最低賃金を他連邦に比べ2倍にした、というニック氏が良識的な上に賢明な、特別な金持ちだという事は明らかで、この様な高徳の持ち主は、残念ながら現日本には私の知る限りだが一人もいなかった。勿論、商売人は言うに及ばず政治家の中にも皆無だった。柳井正の様な悪質な成金は、年収100万でしょうがない等と、ニック氏の真逆の悪徳を述べてさえいた。安倍晋三は賃上げ要求をしていたかもしれないが陸に実現もしていないし、経団連から企業献金という不正な受益をしている立場の自民党員が、民主・民進党と結び付けて蔑視した労働組合を排除しながら経団連に何を要求しても、出来レースであり同じ穴の狢でしかない。
単なる模倣だから二番煎じに見えるかもしれないが、ただシアトルのまねをして茨城の最低賃金を旧来の2倍にする条例をのみ制定するのではなく、欧州で一般的な秩序をとりいれ、非正規雇用者の最低時給を正規社員以上にすることを企業に義務付ける条例を通しつつ、その最低額を5千円にするべきではないだろうか? 必然的に、生活保護を受けているより非正規雇用者になった方がかねがもらえるし、そのうえ先の知れない正社員にとどまるより流動的であっても挑戦的な新雇用に属する方が、むしろ安定的に豊かな生活を送れる土壌が作れるはずだ。豊かな中流の厚みが、結局は、消費やら資本増加の差益による搾取を旨とする富裕層の躍進についても有利なのだという啓蒙が、茨城の役割として期待されていると思えてならない。大井川氏は「【Pivote TV】Pivote Meeting”新しい茨城”の話を聞いてみよう!ゲスト:大井川かずひこ氏 from YouTube」の動画中で、知事・社長報酬が高すぎるという司会の指摘について無視を決め込んで、むしろ社長報酬より知事報酬の方が少ないのだから、といった横柄な態度でさえいる。大井川氏は、ニック氏のTED動画で述べている内容に比べて資本主義の本質的欠陥について無知だし、改善についても積極的でないということかもしれない。が、ニック氏のいうCEO、つまり取締役員もしくは社長の数と取り分の増大に比べて、末端労働者側の取り分の減退という致命的な社会複利の失敗について、もっと自覚的になるべきだ。はっきりいえば、複数いる会社役員もしくは社長に当てはまるのと同様に、知事報酬を現状の非正規雇用者が納得できる程度に下げたうえで、逆に非正規雇用者らの報酬を正社員以上に増大させれば、それが最大の経済効用を持つのだ。これは知事局の仕事の大変さに比べて低すぎる報酬による過酷労働をもたらすという点については、社会的共通認識として許せる程度に知事周辺の取り分を減らすべきだといえるだろう。
また、この演説の中で、ニック氏はもう一つ重要な観点を提出している。それは「住民のために生産を改善した解決策の度合いが、起業家の報酬であるのだが、この解決率は、問題解決に参加できた起業家と消費者の母数によっている」即ち可処分所得の面で豊かな中流を意味する消費者がいない限り、生産・消費不順の解決率、つまり経済成長率は大幅に下がる、といいかえられる見解だ。単に起業家を育てようとするだけでは不十分なのだ。どれほど優れた製品サービスがあっても、それを消費しうるだけの可処分所得がある人々、つまり最低限度以上に余ったかねのある一般県民も育っていなければ、県の優れた経済を構築することはできないのだ。
竹中平蔵を有して以降の自民党の経済政策とは頑として縁を切る必要がある。トリクルダウン、おこぼれは起きなかったし今後もごく一部の高級品の需要、それも県内に事業があるとは限らないものを除いては、起きないだろう。竹中は単に愚劣で自身の人材派遣会社で儲けただけの意地汚い政商で、政治家として完全に無能だったのだ。そして竹中に騙され非正規雇用法を通して以後の小泉純一郎、その後の安倍晋三、麻生太郎らによる自民党政権も、経済的には完全に無能だったと評するほかない。科学的に誤りであった施策を継続している、不正選挙までして権力維持に躍起の、反国民に違いない資本家による資本家のための租税回避地を無視する、腐敗した世襲権益・自民党幕府から離れよ。茨城単独で正しい理想の模範国ヒタチとなって、国連と全世界のトップを率いる世界一の国として、全人類にあるべき人道を教える。わが県に新しいリーダーとして期待される責務をはっきりと目標化して、旧日本国という失敗した泥舟から出よう。
ニック・ハノーアー: 超富豪の仲間たち、ご注意を ― 民衆に襲われる日がやってくる
8/25(金) 13:57配信
TED
皆さんは私をご存じないでしょうが 私は皆さんがあちこちで耳にする 上位0.01%の富裕層の一人で つまり紛れもないプルートクラット (超富豪 政治権力者)です
(中略)
問題は 格差そのものではありません 高度に機能する 資本主義下の 民主主義において ある程度の格差は必要です 問題は今日の格差が 史上最大であり 日々悪化しているということです そして もしこのまま富や力や所得を 一握りの超富豪に 集中させていたら 私たちの社会は 資本主義下の民主主義から 18世紀のフランスのような 新封建主義へ変わってしまいます それは革命前の 農具を持った民衆が 反乱した頃のフランスです
私には伝えたいことがあります 私と同じ超富豪や大金持ち バブルの世界で 優雅に暮らす人々へのメッセージです 「目を覚ませ」 目を覚ましましょう いずれ終わりが来ます 私たちがこの社会における あからさまな経済格差に対して 何もせずにいたら あの民衆が襲いに来ます 自由で開かれた社会で 今のような経済格差の拡大が 長く続くはずがないのです 過去にも 続いた例はありません 極めて不平等な社会には 警察国家や 暴動が付き物です 手立てを講じなければ 世直し一揆が私たちを襲いますよ 可能性の話ではありません 時間の問題です その時が来たら それは誰にとっても 酷いことになりますが 特に私たち超富豪にとっては最悪です
(中略)
私が訴えたいのは この経済格差の拡大は 馬鹿げていて 最終的には自滅につながるということです 格差拡大は私たちが 民衆に襲われる危険性を 高めるばかりでなく ビジネスにも大打撃を与えます 私たち金持ちの手本は ヘンリー・フォードでしょう フォードは有名な 「日給5ドル」という― 当時の一般的な賃金の 倍増計画を導入しましたが 彼の功績は 工場の生産性を 向上させただけではなく 貧しく搾取されていた自動車工たちを 自分たちの作る商品を買うことができる 成長した中流階級に転換させたことです フォードは直感していました 現代の私たちが認めるとおり 経済は生態系になぞらえて考えるのが 最適で 自然界の循環システムと 自然界の循環システムと 同様の特徴があり 経済にも企業と顧客の間に 循環システムがあるのです 賃上げによって需要が増し 需要によって雇用が増え それによって賃金や 需要や利益が増えます この景気の好循環こそが 今日の経済回復に 欠けているものです
だから私たちは 両政党で強い勢力を誇る― トリクルダウン政策とは手を切って 私が「ミドル・アウト経済」と呼ぶ やり方を採用する必要が あるのです ミドル・アウト経済では 経済というのは効率的で線形で メカニズム的であるから 均衡や公正に進む傾向があるという 新古典派経済学の考えを却下し 21世紀型の考え方を採用します 経済は複雑、適応的、生態系的なので 均衡や公正とは逆方向に進み 不平等になる傾向があり 効率とは程遠いが うまく管理されていれば 効果的であるという考え方です この21世紀型の観点でとらえると 現存する資源の効率的な分配によって 資本主義が機能しているのでは ないということが はっきり見えてきます
資本主義は人類が抱える問題に対して 新たな解決策を生み出すことで 機能するのです 資本主義の特質は 解決策を見つけるべく 進化するシステムだという点です 他の人たちの問題を解決した人々に 報酬が与えられます 貧しい社会と豊かな社会の違いは そこに住む人々のために 生産という形の解決策を どれほど生み出したかという 度合いの問題であることは明らかです 私たちの社会が保有する 解決策の総和が すなわち 私たちの繁栄であり このことが グーグルやアマゾン マイクロソフトやアップルなどの会社や こうした会社を作った起業家たちが 我が国の繁栄に大きく貢献したと言える 理由になるのです
この21世紀型の観点でとらえると 私たちが問題を解決した率をもって 経済成長を理解するのが 最も適切だということも はっきりしてきます しかしその率は問題を解決した人の数― 問題を解決する能力のある多様な人々を 私たちが何人持っているかに かかっています つまり私たち市民のうち何人が 解決策を提供できる起業家として また その解決策を購入する消費者として 積極的に参加できるかによるのです しかしこの参加の最大化というのは 偶然 起きたりはしません 自然に起きる訳ではないのです 努力と投資が必要です だからこそ大いに繁栄した 資本主義下の民主主義は どれも皆 中流階級と 彼らの生活を左右する インフラに対し 大規模な投資を行うという 特徴があるのです
私たち超富豪は この 私たちがさらに富めば 他の人にも富が浸透するという トリクルダウン経済から 脱却する必要があります トリクルダウン理論は間違いです そんなはずがないでしょう 私には平均賃金の 千倍の収入がありますが 千倍多く買い物したりはしません そうでしょう? 私はこのズボンを2本買いました パートナーのマイクいわく 「経営者ズボン」 私はこれを2千本買えますよ でも買ってもしょうがないでしょう? (笑) 私が床屋に行く回数も 外食する回数も そう多くはありません 超富豪がいくら富をかき集めたところで 国家規模の経済を動かすことは 絶対にできません それが可能になるのは 中流階級の成長によってのみです
「手の打ちようがない」と 超富豪の友人たちは言うかもしれません ヘンリー・フォードの頃とは 時代が違います 出来ないことはあるでしょう でも出来ることもあるでしょう
2013年6月19日 ブルームバーグに私の書いた記事が 掲載されました 『最低賃金15ドルという資本家の理論』 という題です 賢明なフォーブス誌の人々の中には 私の熱狂的なファンがいますが 彼らに「ニック・ハノーアーによる とんでもない提案」と呼ばれました しかし その記事が掲載されて ほんの350日後 シアトル市長のエド・マレーが シアトルの最低賃金を 時給15ドルに上げるという条例を 法律として成立させました これは連邦内で一般的な 時給7ドル25セントの 倍以上に当たります 何故そうなったのか 分別ある方なら疑問に思うでしょう その理由は私たちが共同で 中流階級の人々に 彼らこそが資本主義経済の 成長と繁栄の源であると 再認識してもらったからです
労働者が持つお金が増えれば 企業は顧客が増え 雇用を増やす必要が出てくると 再認識してもらいました 企業が労働者に生活賃金を払えば 納税者は食糧配給券や 医療扶助、家賃補助などの 労働者が必要とする 生活保護制度の財源を 負担することから 解放されるということを 再認識してもらいました 低賃金の労働者は 納税状況が極めて悪く すべての企業が 最低賃金を引き上げれば どの企業も潤い 競争も起きるということを 再認識してもらいました
(後略)
2017年9月1日
交通網について
つくばエクスプレス沿いが人口増大に成功したと考えている人は、スプロール現象は都市計画的に失敗だという観点がないのである。職住近接の反対である様な郊外からの長距離通勤や、大都市民の中で決して所得が高い方でない人達のベッドタウン化は、どちらも大企業本社の属する都民にとっての好都合でしかない。茨城側にとって都合がいいのは、県内に本社が属し、そこを中心として交通網が存在し、県内都市に比べて人口比の少ない自治体としか利便性の高い交通がない状態をさす。高萩にとっても例外ではない。県の振興にとって筑波型の開発計画は必ずしも模範ではないのだ。
この動画「大井川かずひこの街頭演説、石破茂元地方創生大臣激励の挨拶」の冒頭に近いところ、2分頃から、石破氏は出生率が最高の沖縄から最低の東京に人口、特に若い女性が集まる事で、人口が半減していくといっている。更に食料・人口・エネルギーの生産地である地方が、それらを消費する一方の東京に人口を搾取されて、滅びに向かっているといっている。この意見については統計的にはその通りかもしれない。そしてなぜ人口が東京で減るか、沖縄でふえるかといえば低俗な退廃社会である東京は悪い売春・商業社会であって2割の若い女性は性搾取され事実上、子供を産めない悪習に堕落させられ殺され、8割の若い女性は限界まで仕事にこき使われて子育てにも嫉妬羨望させる見栄を張らされる浪費生活の面にも最悪の環境である都内では子供を産み育てる費用を払えないからだし、逆に沖縄で出生率が高いのは学力が極端に低い上に雇用先が少ない上に暑すぎて勤労意欲がわかないから所得が極端に低い人が過半で、が為に先のことなど考えずに性欲のまま妊娠するからに他ならない。日本国民の多数派はこの様な事象について無知な衆愚であって、都内立地企業への利益誘導・利ざや自慢に過ぎない東京を過度に美化した宣伝や、田舎へのネガティブキャンペーンを鵜呑みにしつつ上京が理想であると妄想し、なおかつ批判的な思考の欠如によって、群衆化してこの大勢の失敗もしくは自死に流されるばかりだからだ。東京都民の悪意など変えようがない。彼らは性だの労働力だの電気だのエネルギーだの資源だの食料だの人材だの知恵だのの搾取によって単なる我欲で利益を独占したいだけだし、虚栄心の塊として、善良で騙されやすい田舎者を偏見流布で差別する事で天皇家の中華思想を後光に、ひたすら個人単位で利己的に金儲けをしていればいいと信じている。要するに都民一般とは、福島原発事故の原因となっていながらに再稼働を要請している現実をそのまま映し、しかも東電株の主要株主が都庁だから東日本中にばらまかれている原発汚染の原因が最終受益者である東京人だと自覚すらしていない、うま味である暴利だけ得ながらに最終処分場を貧しい自治体に平気でおしつけたがってさえいる完全な人間の屑なのだ。冷たい現実を悟っているのは都内に内部事情まで深く出入りし客体的に知悉しながら、その悪徳に満ちた大都市の考えと対極にある、自然と調和した田園地帯に生まれ育つ事のできる茨城県民の一部はじめ、一部の啓蒙的な北関東人、その他のUJIターン組くらいだろう。
江戸から至る東京圏は、農民が9割だった江戸時代の土地相続にあずかれなかった次男坊以降の実質的な口減らしスラムが出自で、現代においては商人および皇族閥の虚栄を目指す強欲スラムとして、労働者或いは娼婦としての実質的な人身売買による相変わらず口減らしを内部の機能的目的にしているという事実を顧みても、東京圏との交通網の接続は茨城人の人口比や生活健全性を減少させ、悪意ある都民にのみ都合がいい。高萩市長は駅前に私企業の格安ホテル誘致を図る条例などに手をだしているが、特定の企業への肩入れは行政の不正な癒着というのである。行政は全体の奉仕者でなければならない。空地は全員に得がある様な公園にすればいいのである。高萩駅前にビジネスホテルを作れば地域が活性化するなどまったくありえない。寧ろ悪意しかない都民がそこにきて、性犯罪の現場にするなど、当然のことながら悪用されると予想がつく。目立った観光地のない地帯でこのホテルを運用する会社も東京都民なら、既に周囲に民宿や観光ホテル、ビジネスホテルそのものがあるのだし、割安の場所に一時的に泊まる人が高萩市民ではないのは明らかなのだからだ。尤も近いうちに採算がとれず、高萩駅前からこの会社が撤退するのは明らかだが。
茨城の革新について
大井川氏は経歴からいっても元来、脳の遺伝が学習能力について凡庸な観点からかなり正規分布的によい方で、努力が日本人一般の他人と比べて結果になりやすかったのだろう。しかし生き方の多様性を語るとしたら、ベンチャー起業家の様なごりごりの商売人気質をのみ模範的類型かの様に語ることは単に矛盾している。
経済学においてシュンペーターのいうinnovation、革新が覆っている範囲は、実際は営利追求を是とした企業組織的行動という末端部分でしかない。このイノベーションという魔法の言葉がバズワード、つまり、巷で話題となっている理由は、停滞ばかりか縮小する経済状況下でますます営利にのみ関心を持つおいつめられた商人が多いからだ。現実に何らかの革新的な事業成績の飛躍が産業革命的におきるとき、役に立つかまったくわからない遊びとか無為の為である様な非実用的な発見が先ずあって、それがさらに応用を試みる実験家の手になりいままでなかった事物間の結合をうみだす発明に偶然つながり、最終的にというべきか末端で商人が市販や販促を計画しつつ金儲けに利用して革新と呼んでいる。そしてこの産業構造の転換という現象は、本来、生活現場の工夫として日々おきているが、それが或る特定のまれな結合をとるとき、他とは違った利益またはなんらかの高い効用を伴い、大幅な革新、すなわち営利性の向上となる。おおまかにいってシュンペーターのイノベーション理論はこの様な枠組みをもっている。
そこからいって、単に末端だけをみて利益追求を主張しても、事はそれほど変わらない。単に商人気質の蔓延によるギスギスした、よく解釈すればぎらついたpragmaticな営利的金欲とか自称社会変革をかたくなに信じる資本主義的狂人とかを啓発する。前者がビルゲイツやバフェット、後者がジョブズやザッカーバーグだったのだろう。これら革新者に対してかつてニュートンやガリレオ、小保方氏がやったのが決定的発見なら、エジソンやライト兄弟がやったのが発明といえるだろう。いいかえると、革新を実現するに最も重要なのは、意外性のある、非典型的な、今までとは違う様な知識、技術、商いの結合を見いだす文化風土なのであって、それは独創または新規性の選好といいかえてもいい。米国西部は開拓精神と移民と実用主義、資本主義、そして大戦による軍需とそこからの情報技術のおこぼれ的民営という偶発的な結合があったので、シリコンバレーの世界が生まれた。
結論をいうと、逆説を含む論理だが、革新の模倣は全然革新性とは逆に位置し、本当に革新的である様な人とか地域というのは、シリコンバレー文化とは全く違う新規性とか独創性を明らかに独自の属人的かつ属地的結合について強固にもっている場合をいうのだ。茨城県にしかありえない様な、自然ならびになんらかの風土、集団の文化に、発見、発明、革新の各部位が偶発的にくみあわさり、そこに世界一の強度を伴う成果を見いだせるばあいに、それは革新自治体ということができる。つまり模倣あるいは今までにない角度からの模倣は確かに創造の本質にある要素かもしれないため、シアトルとかフランスとかシンガポールを単にまねて、よせあつめつつ改良した自治体となることは、半分くらいは正しいのかもしれない。だが他人が追随できない企業並びに生活風土という意味で、たとえば役に立たない事をなにより面白がるだとか、実際にイギリスのケンブリッジとかパリはニュートンを筆頭にした探求的学者だのエコールドパリの実例からそういう面があるかもしれないが、逆に田舎らしい田舎なので人間関係が狭すぎて医師が定着しないだの非愛知人に排他的だの非洛中には差別的だの、これらは国内の秋田、愛知、京都にみられる或る側面だが、この種の地域特殊性が偶発的・偶有的に結び付くときに、外から見たときの価値とか、衝撃とか、なんらかの意外性が生じる。後者の例は営利と必ずしも結び付いていない非成果的なものかもしれない。すなわちここでいいたいことは、革新自治体もしくは個人とは非典型的な生存のあり方を偶然を含めて見いだせた者をいうのであり、それはトップダウンの方向づけとは実は逆なのだというわけだ。
もし本当にシュンペーター的な意味のみで革新的な茨城をつくるとしたら、知事がいうべきことは、利益をあげれるなら原則としてなんでもやっていいし、今までとは違う事であれ失敗しようと役に立たなかろうと普通ではないことを含めて自由にします、ということである。但し行政としては外部不経済が生じる様な場面に備えて、公共福利の立場から最低限の法整備と、あまりに所得格差が開きすぎて不平や不幸感がはびこらないために累進税制もある程度はとります、そして全く商売にならないばかりか失敗ばかり起こしてしまう人にも、最低限かもしれませんが生活保障は任せてくださいということである。
保守と進歩という家畜論理
大井川氏はたまたまこの様な悪辣な寡頭政治集団にバックアップされてしまっただけで、この点は罪がないかもしれない。また公明党の山口代表も、小中高大まで一緒の人物に肩入れしたくなるのも、自民党との対立を緩和したいという政略も理解できなくはない。他方で、自民党と天皇家の権力亡者振りがいかに偽善的で、利己心しかないと同時に、彼らを信じる人々を明々白々に裏切るかという事はどれほど強調してもしすぎはないといえるだろう。福島県の現状をみながら、原発再稼働を茨城県に要請する。この様な偽善、いや、完全な悪意が平気で表意できるような人間はもはや悪魔以外なにものでもない。長州閥のマキャベリズムや、天皇家の神道による自己洗脳を超えて、ポピュリストの小泉進次郎氏はバカな市民をあおって諧謔を弄し、現実には保守性と呼べる何も中身などないにもかかわらず、愛県的かつ良心的な県民を自民党やらその総元締めである天皇家の言いなりにしようというだけなのだ。
ここまで分析できれば、ナショナリズムの正体も明らかになる。それは支配者、具体的には独裁権益を持つ政治屋連に都合のいい衆愚を、あたかも良識めかした自縄自縛の妄信、「仲間意識」という嘘によって相互依存的な洗脳にかかりやすい精神状態にしておくための扇動でしかなかったのである。水戸駅前での進次郎演説に現れていた、茨城人の素朴な価値観をあおる様な皮肉や、保守政党に属しながらの進歩の希求つまり自民党独裁の誘導、それにもかかわらず口さがない落語的な韻を踏むことで一種喜劇的に聴衆の心理を自分に都合がいい方向へ扇動する手法、これらは不仁の特徴に違いない。剛毅木訥の対極にある進次郎氏には扇動政治屋、デマゴーグの称号が相応しい。だが、問題の本質はこの扇動屋以外にあり、要するに権力維持のためには手段を択ばず民衆を操作する、という本格的な悪意が自民党や天皇家の行動にはっきりとみられるという事の方にある。現代の皇族は全く保守的ではない。私大から米英の一流大に単身留学しつつマックを操る。20代半ばで数億円の持参金をもらいながら結婚する。これらは国民からの税金でやっていることだ。一体、この様な生活をなしうる保守的な国民、県民がどの程度いるというのか。進歩的な己(官)が保守的な民からの搾取構造を独占し続けたい。これ以外に、自民党や天皇家の目的はないという事が明らかになった。
大井川氏はもっと単純で純粋だ。本気で地元に還元したいのだろう。彼が経てきた一般的に華麗に見える経歴は、実際は彼の鋭い努力の経過を意味していて、その高いハードルを自己へのプレッシャーによって乗り越えてきたという自信から、海外の高い進歩力を持つ地域同様に、自分自身の生まれ故郷を革新できるはずだと信じてやまないのだろう。だが彼を今回背後から後押ししながら国民を操り人形にしようとしていた勢力、自民党とその奥にいる皇族は、茨城や福島、その他、青森、新潟など東京に被害がないと想定する地方に住む民の犠牲のもと、原発再稼働から得た税収益でぬくぬくと、贅沢に暮らしたいだけなのである。
地域ナショナリズム、愛国あるいは愛県心は二重の意味で岐路に立たされている。第一に、この考えは多数決の結果に従順たることを要求するという意味で、多数派が支持しやすい寡頭政治政党のもたらす独占という結果、もしくは弊害にいかにも好都合である。第二に、この考えをもたない完全に利己的な個人や多国籍企業が、国家や国税、地方税さえ無視しtax haven・租税回避地を利用していても、皇族や自民党員あるいは官僚といった調整的正義を軽んじながら搾取の末端にいる連中が継続的に収奪できる財産の母数がへるのを危惧して何の指摘も対策もしなかったよう、つまり既得権益を持つ世襲政治家連が金持ちに逃げられるのを恐れていたよう、超国家的な個人主義者、単なる利己主義者が有利になる現代社会の構図に対して、自称民主主義国家はまったくの無力だという事だ。要するにナショナリストはその規模が小型でも、他人などキャッシュディスペンサーにしか思っていない根っからの商売人に簡単に騙され、搾取される存在でしかない。その事をしりながら愛国心、愛県心、愛郷心を家畜民の洗脳に都合がいい理屈として、既得権を持つ連中は彼らの良心を堂々と悪用しているのである。愛国心や愛郷心など天皇の金蔓に他ならない。それなのに、この偽善や悪質さに多かれ少なかれ勘付いているのに、なおも自分自身の利益のためだけに皇族閥に関連付けられた既得権の側に属していよう、というのが、進次郎であり安倍晋三であり麻生太郎なのだ。これらの人々はここまで見ていくと極悪人に違いないが、その極悪人達に善人面で支援された大井川氏に何の罪もないといえるだろうか。やはりすべてを顧みると、橋本氏の方に正義があったとしか言い様がない。なぜなら橋本氏は良心を持つ純朴な民を守ろうと戦っていたのだからだ。自民と皇族は今日、民衆抑圧目的の既得権益に他ならず、その利益の片棒を、ビルゲイツや川上量生の様な純粋な利己主義者の組織で、或いは裕仁や明仁の様なより巧妙な偽善者の組織で、自己洗脳の癖を身に着けて担ごうとしている大井川氏は、はっきりいえば騙されているのである。いや、彼自身を欺いてもいるのだ。彼はやりがいという言葉で、公然と金を儲けていた商売人や、隠然と金を儲けていた世襲権力者といった利己主義者たちが、さも社会のため、さも人類のためと嘯く様子をまのあたりに、自分自身さえ欺いて、高い給料をもらえるだけ自分の働きには価値があったのだと思い込もうとした。現実には彼らの作り出した巧妙な策略によって貧民を貪っていただけなのだが。
保守と進歩という論理は、どちらも既得権を奪い合う野蛮な政争の具にされているにすぎず、置き去りにされた、或いは狡猾に扇動された民衆の側は、いずれにせよ搾取収奪の対象でしかありえない。経営者を兼ねた大資本家・大株主が最も目立つ独占者だとしても、現実には皇室関連予算として毎日9000万円以上を国税から公然と浪費している天皇家の方が悪質だ。この顕示的消費によって愚民に威圧的な後光効果をもたらし、格の差を見せつける事によって、帰依させ洗脳する。既に権益の維持とは完全犯罪に他ならない。だが衆愚がこの事実に悟り、怒りや悲しみや憤りのあまりに、清貧な君主を求め真の共和政を志向するのでない限り、そして専らその様な賎貨思想の価値観は米国の前で時代遅れの様にうちすてられているが、民衆が家畜や奴隷として都合よく誘導される現実は変わらないだろう。もし大井川氏が真に善良な人物であったら、却って、国政の悪意、寡頭政治を目指す悪党である自民構成員や、神道信者の露悪的本性と、良識的県民の板挟みにあって進退相極まるかもしれない。なぜなら本当に民衆の便益と弱者の優先救済をめざして善政を行う清貧な首長、ホセ・ムヒカの類が登場したなら、大井川氏がそうなる可能性はかなり低いにせよ、利己的な天皇、自民、東京マスコミといった商売人達に唆されている愚かな民衆は、スポンサー企業の意向やら宮内庁2階の記者クラブやら官邸の大本営発表やらそれらの煽りに祭りといって馬鹿踊りするニコ厨やらに群衆として群れながら、聖徳の持ち主に逆上して濡れ衣まで着せて倒そうとするだろう。そればかりか、彼ら衆愚は搾取され気ぜわしい自分達が経営資本家たちに騙されるほど愚かなのが苦しい労働生活の原因である事を反省していないため目先の利益欲しさ或いは無能な人々への悪意ある嫉妬と虐待の意図によって、最初からこの種の君主道徳の持ち主を自主的に選びえないのである。