2018年3月25日

芸術における聖俗と品性について

 芸術には高尚なものと低俗なものがある。美術用語として低俗な芸術を表すlowbrow、又これらに対して高尚な芸術を(慣用句としては半ば軽蔑的に)表すhighbrow、それらの中間を表すmiddlebrowという言葉があり、(browは眉)、それぞれ理解に要する知識の難易度を高中下で示していると考えられる。これに対してハイブローな芸術をhigh artとかhigh cultureと呼ぶ事もあり、ローブローな芸術をsub-cultureと呼ぶ事もある。これらはある作品の理解に要する知識の難易度による分類だといえる。ローブローを自嘲気味にいう漫画という言葉が、ハイブローな本画に対しての概念だという事も同様の枠組みで説明される(白川字学によれば、漫はさんずいと婦人の目の美しさを表す曼の組み合わせで、とりとめのないという意味もある文字である)。
 また芸術には上品なものと下品なものがある。上品さとは欲望の直接性を否定している程度であり、下品さとは欲望の直接性に肉薄している程度である。日本語における上品下品、そして中品は、それぞれ仏教語であり、悟ったブッダを上品、悟っていない凡愚を下品、半ば悟っている修行者を中品と呼んでいると考えていいと思われる。芸術についてもこの観点を援用すれば、上品な作品とは或る欲望を具体的に表さず、寧ろありとあらゆる欲望を表現上に否定しているほどそうなのである。苫米地英人によれば、仏教哲学でいう究極の抽象概念である空は、有と無をもちあげたもの(止揚したもの)であり、情報量が極小の概念である一方、情報量が極大で人類には把握できない概念は矛盾だという。もし芸術が現実の具体的模造なら、クローンとしての完全複製が矛盾に該当し、逆に宇宙の時空間そのものが空の最も抽象的な表現形態だといえるだろう。いいかえれば、とりあえずの定義として、芸術とは時空間そのものという最も上品な作品から、クローンという最も下品な作品までの間にあるものである。我々が世界の諸現象を芸術という情報形式の中で再認する事は、抽象化された学習の一種だといえる。例えば科学とか哲学と呼ばれている知識体系の修得も、言語記号を通じて為される限り、広義の言語芸術を経由している。なぜ我々が芸術を通じた学び方をとるかといえば、嘗て人類が編み出した諸々の学習法の中で、模倣による再現可能性がある形式という意味で、それが最も合理的だったためなのだろう。
  ところで、子供は一般に、大人、或いは美術に造詣の深い専門家が解釈できるより低俗な芸術を好む傾向がある。他方で、この低俗さは必ずしも下品さではない。すなわち低俗さは下品さと等しくない。高尚だが下品な作品とか、低俗だが上品な作品というものがあるのだ。前者は回りくどい文体で和歌を差し挟み高尚めかして書かれてはいるが内容は皇族・公家による単なる卑賎な不倫劇である『源氏物語』(紫式部による物語文芸)の様な作品であり、後者は大抵の子供にも入り込みやすい具体的な人物の心情表現であって背景知識も要求されないが表している事は人類による自然・環境破壊で暮らしを追われる小人に対する同情の念を通じた近代文明への根本的懐疑である『借りぐらしのアリエッティ』(宮崎駿によるアニメーション映画)の様な作品である。そして我々が子供の教育の際に重視するべきなのは、高尚・低俗の違いではなく、むしろ作品の上品さの方だ。その作品がわかりやすいという事を、ここでは低俗である、ローブローである、という言い方をとっているが、子供のもっている美術史、芸術史の知識は限られており、したがってどうしても古典様式に対する否定媒介的な進歩性として弁証法的に更新されていく規則をもつ高尚な作品を段階に順じて理解するのは難しい。しかし今日、低俗な作品群のかなりの部分は、同時に下品でもある。なぜなら東京の商業出版社とか、映画配給会社、そして大衆作家は俗受けするほど大量に売れて金が入るという商業作品の条件から、ますます低俗かつ下品な作品を大量供給する鼓舞に駆られているからだ。
 ではそもそも上品な芸術を愛好する事で育まれる高貴な趣味の意義とは何かといえば、究極では、道徳の高い人格、即ち多少なりとも利他的な人を作る事であり、それはとりもなおさず、全ての利己につながる直接的欲望を否定し、無欲に限りなく近い態度で生きる悟った人を理想としている。この人徳者は利他的な人物だから、少なくとも他の人にとっては有り難い人物、最上の場合は聖人だといって差し支えなく、逆に下品な人間であればあるほどますます我執的で利己的、且つしばしば害他的でもあるだろうから、この様な俗人が最悪の姿をとるとき極悪人や大犯罪者になるであろう。

 上述のことをまとめると、この世にある高尚な芸術は理解に要する知性を高める結果にはなっても、 必ずしも道徳的な意味で上品な作品とはいいきれない。逆に、サブカルチャーやlowbrowな作品一般を含め、低俗で幼稚といわれる作品の中にも、時に上品な物も含まれており、子供は知識の少なさのため絵本とか漫画、アニメーション、ゲームといったよりわかりやすいと同時に複合的で情報量が多い応用芸術を好む傾向があるにしても、その子の道徳性を育てるという意味では、親や教師が作品を精査してできるだけ上品なものに親しませる様にするべきだ、という事である。
 また高尚かつ上品な作品というものがこの世には最善の物として存在し、それが純粋芸術一般の目的とする姿だといえるだろう。少なくとも嘗て人類が美術史の中で、中心領域として辿ってきたのはこの傾向をもつ真面目な作品であり、我々の審美的な哲学が深化するにしたがって芸術作品の質もまた洗練されてきたといっていいだろう。たとえば過去の人類は色々な種類をもった抽象絵画どころか、その前座として現れたキュビズムさえ殆ど理解できなかったのだが、美術史を修得した現代の美術家らはこれらをもはや援用されるに過ぎない単なる過去の様式とし、先へ進もうと試行錯誤してきた。逆に、低俗かつ下品な芸術、具体的にその中でも最悪な作品として、極めて分かり易くサブリミナル的に悪意を植えつけたり、ありとあらゆる品性下劣な大犯罪や醜行を正当化する様な悪魔的作品が現に卑俗さの程度として存在するのだし(例えば猟奇殺人後の死姦等の凶悪行為を美化する石原慎太郎の小説群)、この種の作品が年少者の心象形成にもたらす悪影響を勘案すると、村上隆がスーパーフラット理論で全てをミドルブローと事実上混同させようとして言うのと異なり、到底、最善最美の純粋芸術と同日の談で語りえない事は明白であろう。要するに全てを実質的に中間中品と同列に見なすスーパーフラット理論の観点は、結局、趣味の一切についてなんの判断も持たないという無知や無批判、思考停止をもってくるだけであり、それは糞味噌という言葉に示される様、聖俗を混同する悪趣味自体より酷い混沌状態をもたらすだけである。
 我々は高尚かつ上品な純粋芸術や、わかりやすい表現ではあっても少なくとも上品な作品が望ましいと考えるべきであり、それは決して聖俗を混同したり、上下の品を転倒する事にあるのではない。