2018年3月21日

世俗的日本人にみられる理論の軽視についての分析

 動物は理論的な行動をとらない。人類が文明を築いた第一の原因は、記号や言語による抽象的行動としての理論性にある。
 屁理屈という侮辱語を使う人は、単なる愚者である。特に指導的な立場、権力をもった人間がこの侮辱語を用いてより整合性の高い理論を貶めようとするときその災いは果てしない。なぜならより愚かな理論、またはなんの理論にも基づかない行動は体系的たりえず、成功度が低い為、結局あらゆる損害を自他へ及ぼすに過ぎないからだ。
  知行合一という概念を陽明学がもってきた事から、実践的ではない理論の価値を貶める人々は、遂に原始的社会を抜け出す事ができなかった。純粋理論は全応用の基礎なのであり、技術的発展や法規範という実践的側面にのみ、その価値が求まるのではない。また愚かさにこだわり、行動偏重の考え方を受け入れた人々は、脊髄反射の様、より低い次元での誤りやすい行動、或いは愚行をくりかえす結果になり、悉く失敗していく。実際には、理論、実践、それらのくみあわせである技術は、それぞれ異なる価値をもつ体系であり、特にこのうち実践に関わらない、或いは実践を超えた理論だとか、全く理論に基づかない実践だとかが価値そのものとして存在する限り、知行合一は両者の中間性にしか関心をもたない単なる技術主義にすぎない。
 アリストテレスが言う通り、理論的生活が人間にとって最も高度な活動であり、技術や実践はこの理論を別の目的に応用したものにすぎない。より獣的で、大脳新皮質が未発達な人間であればあるほど、本能に近い、多かれ少なかれ利己的でしばしば害他的な行動しかとることができず、最低限度規範としての法的学習やのなさや、倫理学的思考の不足とも相まって、違法性や不道徳性を犯しやすく、結果として自らの悪業の故に自滅していきやすくなる。悪人とか愚者とか卑しい人が生じるのは、理論の軽視によっている。

 不完全性定理やその物理的側面である不確定性原理の存在からいえるのは、抽象度、抽象性の高い言語記号的行動としての理論の内部自体でさえ、命題における真から偽まで、また、同一律(A→B)、排中律(A∨¬A)、矛盾律(¬(A∧¬A))という最も基本的な論理法則まで、あらゆる論理的結合がありうるのであり、それらのどの理論も理論そのものとしての価値があるという事だ。現代文芸、現代詩の世界で現にみられる通り、矛盾律や偽の命題を含む不合理な想像的世界がつくりだされているし、究極のところ、脱構築という概念を口語一般を含めて拡張すれば示される通り、全言語記号のくみあわせについて、それを示した人物がどの様な意図をもっていたかについて本当に知るすべはない。
 一般に、真の言語記号のくみあわせを探求する分野を科学や知識と現在我々は呼んでいて、同様に、美については(現象の一切を広義の象徴的な言語記号と見れば)芸術、善については哲学と呼んでいる。これらの言語記号による部分集合は、全宇宙という全体集合に対して、それぞれ、真に対しては偽、美に対しては醜、善に対しては悪という価値づけの部分集合を含まない様な集合である。これらの全言語記号の定義を脱構築し続ける活動が、我々の学術活動である。その中で、より価値が高いとみなされるのは、常により専門的な分類の中で或る分類規則について、これまでより優れた分類規則をみいだす様な活動である。我々が真善美という、それぞれ、理論、技術、実践の基本的価値についてより精密な定義を知る、この学術活動の必要性は、誤った知識に基づいた迷信(地球は亀の背中に乗っている等)、劣った醜い技術(整備された上下水道のない暮らし)、悪辣な行動から成る社会(暴力、殺人、盗みに満ちた状態)を想定すればわかる。真善美の上位概念は聖であり、その対立概念は俗である。即ち、理論という或る聖性の最も基礎的な出発点を軽視している様な人にとって、単に世界認識について無知や誤解に留まるのみならず、偽に基づいた劣った技術、冤罪について真偽を問う事すらない悪しき俗世間により害悪を受けることは明らかである。端的にいって、理論的でない事を合理化する言葉としての屁理屈、という侮辱語は、人類にとって最悪な堕落を最初にきっかけづける悪魔的言行だといってまずまちがいない。この言葉は暴力、悪意、あらゆる蛮行を第一に正当化する為に、最も愚かな人、全知と思いあがる人、知識や技術に基づかずでたらめに実践すれば成功すると猿未満の考え方で自滅する人の自虐的信念だといってもいい。
 我々はこれまで人類が発見した諸々の文明的な段階からいって、技術や実践のどの側面についても、理論的批評や批判的考察が有用だと知っているのであり、理論を軽視する卑俗な態度こそが、その観点からいえば最も軽蔑に足るといっていいだろう。たとえ聖俗の分類が究極のところ不確定だとしても、それを再定義する際にさえ、言語記号や象徴的行動による理論性が必要なのである。特に、我々を含むある人類が、決定的かつ飛躍的に進歩を果たし、人々の幸福を増大させる様な場合、明らかにこの理論的進歩によってこれまでの行動規則を見直し、新たな展開を行える様になった場合だけだ。ニュートン力学や電磁気学、相対論、量子論が理論そのものを目的に確立されてから、ようやく、それらの基礎知識に基づいて我々は自動車、電車、宇宙船、そして量子コンピューターや宇宙エレベーター、タイムマシンを生み出していくだろう。現代に至っても理論を侮辱する人、理屈を罵る人は、単にこれらの技術的恩恵にあずかりながら、世界の理論的認識においてより進歩した人々の前で、己の無知に自覚せず誤り易いくらしをしている自分を合理化しているという点で、愚者なのである。しかし、我々はこの愚者を説得できないかもしれない。なぜならこの人は、言語記号認知の知能が劣っている、或いは言語記号的学習を怠るか、そもそもできないという自らの大脳の変異において、理論的認識を避けるような行動原理を自己に癖づけてしまった人だからだ。我々が文明化したにもかかわらず、全ての人が善良でもなく、等しく賢くもなく、また何らかの点で器用な技を身に着けているでもなく、或いは政治体制が異なったり、資本という意味で貧富にも差がある理由は、この種の脳変異を含む別の個体が生じる可能性があるからだ。理論的能力の低い人、即ち一般的な意味で言語知能の低い人から受ける害を最小化する為に、我々は法を作り、場合によっては理論家らの集団を作って粗野な人々から自らを学園集団や文化サロンとして隔離する。或る社会が確定的に進歩する時、この様な理由で、その根底には理論上の進歩があるといえる。
 例えばコンクリート、鉄、ガラスという近代建築の素材がはじめに西洋で現れた時、これらを使った建築物が石や木という古典的素材によるより醜いとみなされていたのであり、ル・コルビュジエやデ・ステイルに属した人々は盛んに理論的啓蒙活動を行って、近代建築の美を宣伝しようとした。彼らへの正当な評価は死後随分たっても、古典的美に泥んでいる西洋の人々の中でも十分行われているとは言えないだろう。ここには技の鑑賞における批評という理論が、人々の生活に与える重要な進歩がみられる。木と紙によった日本建築は、明治以後の西洋崇拝に基づいて、石造建築とコンクリート・鉄による近代建築をまとめて一挙にまねようとしたため、西洋に於いて起きた様な近代材料との審美的衝突はそれほど激しくは起きなかったとおもわれる。寧ろ近代化としてこの鉄筋コンクリートや鉄骨造の建物が好意的に受け入れられた結果、いまみられる茫漠たるコンクリート・ジャングルの東京都ができたのである。
 また実践的理論としての基本的人権とか国民主権の導入が、それまで水戸学に基づいた祭政一致や、松陰に基づいた一君万民とかが天皇主権の帝国主義をつくりあげていたところに大きな政治的変革をもたらしたのは誰が見ても明らかである。哲学はこの自然学の後の分野として社会学を含み、道徳を定義する言語記号的な活動であり、この理論的認識を具体化すると政治になるのだ。つまり、或る善についての理論が前提になければ、我々の政治さえ古代未然の類人猿段階まで退行していくのである。法学や、その再定義を行う法哲学を含む実践的な理論を軽視しながら政治活動をする、ということは、そもそも不可能なので、人間界において最も実践的な活動、最も具体度の高い活動というべき政治、そのなかでもかなり行動に依存していると思われる行政活動ですらそうなのだから、人が己の無教養や言語知能の低さを正当化する為に理論を蔑視するということは、単に愚かさの自己証明になるに過ぎないであろう。また、例えば運動競技とか、芸能活動といった一見して学識を使わない様に見える活動にあっても、それぞれの秩序の中では一定の象徴的な記号の規則が存在し、多かれ少なかれ理論的なのである。全く理論性のない、単なる実践の為の実践という活動がありうるなら、それは最も無秩序な行動にあたり、およそ文明と呼べる活動の範囲には入らないことだろう。もし人が国に管理されていない無人島や無人の荒野にたどり着き、そこで全く目的性のない行動を乱雑にとるとき、それより実践の為の実践活動は無い筈だが、この行動はそもそも意味をみいだす理論においては無意味といわれるであろう。
 したがって論理的整合性のない矛盾を述べる事や、単なる利己性を言いつくろう詭弁を指して屁理屈、という侮辱語を用いるのは一定の意味付けがあるとしても、寧ろこれらについてはそれぞれ「矛盾」とか「詭弁」というそれ自体ととれる表現の方が正確であって、理論を軽視するという陽明学の悪解釈は、単に俗悪な末路を結果すると言ってまず間違いがないであろう。経営者が行動を重視する発言を述べている時、この人はより理論的に正しい行動という意味を述べているのであり、いかなる象徴的理論にも基づかず無目的かつ無秩序に行動する事が正しいという場面は、単なる息抜きとか、偶然性を生かす芸術といった無意味さが要求されている様な、特殊な場面に限るのである。

 これらは技術的知能や、実践的知能そのものの価値を少しも貶めるものではない。例えば失語症や、言語知能の低い人が、運動や技能において優れていることもあるし、そもそも実践的活動や技術的活動の一切が、理論より技や具体的行動について人より優っているといえる人にとっての適所である。そして一切の事について劣っている人もいるし、それ自体が生の無価値を意味するとはいえない。なぜなら道化や慰めといった有用さの側面だけでなく、何かについて劣っているということは別の面からみれば優れていると解釈される場面があり、例えば勇気のない人は消極的な意味で平和を作り得るし、愚かさのため核分裂の知識や応用する技術のない人は原子力発電所事故や核爆弾投下すら起こしえないであろう。知的障害とよばれている程度に言語知能が低い人についても、サヴァン症候群の様な別の能力が突出した場合だけでなく、単に劣っていると思われる事が逆に何らかの長所と解釈される場合がある。実際、人類の中の一定数の人が知的障害を伴って遺伝される事は、慈悲深い世話好きな人を見分ける条件づけとなっているとか、慣行と異なる行動をする人が集団の盲点になっている何らかの気づきのきっかけとなるとか、かつては無意識を表現するという神がかり的な人物と解釈される事で偶然性を伴う事象を占ってとりあえずの安心を得る、といった様々な利点があったから、単に直接的な意味のみならず、縁を生み出す間接的な意味でもその遺伝子が残ったのである。