茨城県が1位のことは沢山あるが、我々が悟るべきなのは、この既に1位の分野をますます圧倒的に傑出させるよう力を使い、かつ力が余ったら(その機会は圧倒的な集中に対してはるか少ないが)現時点で2位の為もう少しの努力で1位になれる分野をも1位にし、この「圧倒的な1位」を茨城県の単位でますますふやす方が、欠点の克服より戦略的に望ましいということだ。
鹿島アントラーズの小笠原満男選手が「1位以外は2位も最下位も一緒」という王者のアイデンティティで士気を鼓舞しているのは、勝負の本質を示している。と同時に、茨城は実際には孤独ではなく、他46都道府県と同じ国に属しており、茨城が世界1を取ったということは、同時にそれが日本が世界1を取ったことでもあるのだ。つまりチームプレーとは互いの傑出した長所をかけあわせて最も優れた協調性を発揮するものなのであり、国という単位に属する観点からは、個性に他ならない欠点を自ら補うより、他都道府県の長所で我々の欠点をカバーしてもらう様にした方が総合力を発揮し易い。例えば既に京都(あるいは北海道、沖縄、東京)といった自己の魅力を喧伝する事について傑出した自治体が国内にはあり、わざわざ赤い海としての観光集客的な自己宣伝を我々までが行ってみたところで、既に有名なブランド価値をもっている自治体を茨城がのりこえるのに要する費用は莫大となる。費用対効果が低い。そして欠点のない自治体はどこにもなく、それどころか茨城県がもっている欠点はどちらかといえば少ない方に属する。全般的に長所が多い分、はっきりした欠点が極めて目立つというわけなのだ。
嘗て分析されてきたよう、ここでいう欠点として県民がここ最近の共通課題としているブランド総研の魅力度調査は、生活先としてより観光地としての魅力度をつよく反映している傾向があり、実際にくらしている県民である我々自身は県内の優良観光地をしっているにせよ、それ自体が県外人の趣味嗜好と異なっていると同時に、資本を投下して宣伝したりますます有名にしていく傾向について日本で最も欠けている、と県外日本人の一部から評価されているのである。例えば偕楽園、水戸弘道館、西山荘、例えばネモフィラの丘、例えば筑波山、例えば霞ヶ浦、例えば五浦、磯原海岸、雨情記念館と生家、例えば鹿島神宮、例えば日立駅、例えば大洗水族館、大洗海岸、例えば花貫渓谷、例えば久慈川の渓流、例えば水戸線の田園風景、例えば見渡す限り地平線まで黄金の稲穂の稲敷市、例えば袋田の滝、例えば利根川、例えば古河の桃まつり、例えば大津の御船祭り、例えば水郷潮来のあやめ祭り、例えば水戸芸術館、例えば鵜の岬、例えば牛久大仏、例えば常陸風土記の丘、例えば虎塚古墳、例えば那珂湊反射炉跡、例えば日立の工場、例えば佐竹寺、例えば板谷波山記念館、例えば茨城県庁の展望台、例えば美浦トレーニングセンター、例えば筑波サーキット、例えば筑波学園都市、例えば奥久慈しゃも、例えばあんこう鍋、例えば吉原殿中、例えばローズポーク、例えば雨情の里牛、例えば竜ケ崎コロッケ、例えば天心焼、例えば結城紬、等々、これら県民にとっての有名どころでさえ数え上げればきりがなく、北茨城市民のみならず、茨城県民自身が身近に愛好し、極めて高い歴史的価値、魅力を感じている観光資産はほとんど無限にあるのだが、県外の人々は我々について日本で最もなにもしらない。そしてそのことについて、県外の人々は関心をもとうともせず、却って無知を合理化するべく何もないと差別的に我々の名誉を侮辱し、我々自身はこの不条理な県外日本人らの態度にがっかりし、内心軽蔑感を感じつつも、自足している。なぜなら我々は県内外の観光を共に充実して行えるし、実際に行ってきたのに、県外の人々は我々の観光資源について余りに無知すぎ、その事を恥じたり反省する気配すらないので、茨城人と県外日本人の間のすれ違いは終わらないからだ。こうしてみると、茨城県という地域は不思議な運命に導かれている、ある種の聖域といってもいいだろう。首都圏の情報が直接入るので自前の民放テレビ局を持つ必要がなかった、という条件は、栃木や埼玉、千葉、神奈川についても同様だったはずだが、儒教を経由した水戸学上の謙遜の美徳の為か、それとも茨城放送の経営基盤の脆弱さの為か、茨城の情報についてひとりでに県外に対して隠密化させた。前知事橋本氏がいばキラTVを作って以来、多少なりとも県内情報が発信される様にはなったが、これを除けば日本で最も自己発信しない、日本で最も謙虚な自治体が茨城であり、その目立たない地味さを好むわが県の処世態度が、魅力度が最低であるという偏見を県外の愚民に持たせる原因になったと洞察できる。そしてこの自己謙遜という美徳は、今日の世界でみればむしろ嘗ての封建領主や貴族が多かれ少なかれ上品さとしてもっていた特殊な思慮深さに由来しているのであり、インスタグラムとかツイッター、ユーチューブ等の情報発信を気軽にできる媒体が増え全人類がその自己宣伝に感けている今日、ますます希少になりつつある。もし如何に県外の無知な日本国民、ブランド総研の田中章雄を含む衆愚から、我々茨城県民が侮辱され、誤解され、わが県が不当に辱められていたとしても、これに心ある者なら全人類のだれでも感じるだろう怒りを抑え、愚かな日本人を相手にしてもできるだけ寛容に接しつつ、県内の良所について謙虚に述べる事ができたなら、それはわが県民が功徳の結晶によって聖なる人々な証拠である。尤も、多少なり知性がある人物ならわが県についても好奇心に基づいて既知の筈だから、この種の無意味な差別や偏見を喧伝している、田中章雄や今日の虚報に満ちた都内マスメディアの衆愚性へ何らかの仕方で憂慮を表明してくるであろうし、最低でも知らない相手について侮辱するとか、田園地帯を訳もなく都心中華思想で差別するといった明らかな愚劣さを示す事はない。
ところでわが県に既存の長所のうち、現時点で研究機関数の人口比が圧倒的に1位である事が、今後も世界1をとりつづけていく一つの有効な戦略であろう。すなわち、全世界から研究機関を茨城県域へ集積させる様、この点に集中した誘致・起業活動を行うべきである。IT事業といってもその中で、シンクタンク、研究所という情報分析・戦略的な研究分野の起業や誘致をはかり、制度的に鼓舞するのがおそらく最も、わが県が世界史に重要な貢献をする為に有効である。四六駢儷体の民俗学的地誌『常陸風土記』からはじまり全編漢文による正史『大日本史』、筑波大における3つのノーベル賞受賞者等の伝統的傾向にみられるよう、常陸と下総の一部を含む茨城県民は知性を発揮する事にかなりの実績をあげてきたのであり、より上位概念としては、知識集約的な産業集積をはかるのに好適な環境条件が揃っているのだろうと考えられる。例えば年間を通して穏やかな気候や、分散型の都市構造をもつために大都市の喧騒から離れ研究に集中し易い事、また広大な土地は研究機関を立地させるのに好ましいのだろう。県民の平均学力という点でみても比較的上位に位置する状態だが、更に知的労働者を集めた結果として、県民の知性の中央値をひきあげる結果をもたらす事が、一般知能や学歴と正に相関しやすい生涯年収または所得、そして所得の対数に比例する主観的幸福度へと県規模でつながっていくだろう。
他にもメロンや栗といった17品目以上の農作物の出荷高とか卸売市場での青果物シェアや、真珠の産出量とか、平野、川、工場、耕地、住宅の広さ、等々についても1位であり、公園や湖の広さ、小中学生体力テスト成績、五輪選手の金メダル数等々についても2位が多数あるわけだが、これらについては別のところで考察する事にする。
最後に北茨城市の現状に上述のことをあてはめると、伝統の傾向から美術家を集めようと考える事は、美術一般もそうだが、特にそのうち特に純粋芸術は知識集約的なしごとだから、同様に茨城県の未来を拓く基本戦略と合致し得る。既に県内取手市には東京芸大のキャンパスが存在するわけだが、そもそも芸術系大学という制度はその創始たるフランスのエコール・デ・ボザール教育にみられるとおり、古典の模倣をさせる傾向をもち、歴史的には前衛性に対する反動として機能した。芸術の本質が独創にあるからには、芸術は学習しえず、むしろ教育し得るのは単なる学習可能な知識の体系としての美術史や芸術史、或いは個別の素材についての材料工学くらいのものである。これらは科学に属し、多かれ少なかれ、学生が前例をまねることができるからだ。したがって最も知識集約的な美術分野とは、これら美術史の教養を背景に、材料工学の応用として表現される、前衛的な純粋芸術そのものだといえる。ところで、この種の前衛作家が市内に多数集積する為には、彼らの作品が市内でできるだけ高額で盛んに購買される需要がなければならない。特に世界最大のシェアをもつ競売会社が未来のいずれかの時点で市内にでき、ここが世界の投機美術市場を牽引する事で、世界中からわが市に最先端の美術家を必然にあつめる事を企図しよう。また同時に、そもそも市民がより知的な負荷の高い、理解しがたい前衛芸術を好んで高額で購買する様な条件づけが必要なわけだが、アメリカに倣い、投機商品として前衛性のある作品の先物買いや、その種の潜在的才能をもつ作家への先行投資が、この市にて世界で最も活発におこなわれるようにならなくてはいけない。これは絵画を中心とした美術を嚆矢とし、彫塑、建築、音楽、文芸といった純粋芸術一般、或いは応用芸術としての陶芸や民芸、その他のサブカルチャーといった商業芸術一般についても同様になり得るが、選択と集中が投資収益率や市場シェア占有率の乗数としてより効果的であるかぎり、特に五浦派の前例がある絵について、模範的な役割を示すべきであろう。
そもそも、これらの美術を装飾品として買うに足る資産家が、市内に多数存在している必要があり、それには金融教育を通じ、できるだけ稼いだ額について些細な消費に回さず、投資を行う習慣をつけるべきである。個人投資家・与沢翼の説では、圧倒的な富裕層になる筋道は2つしかなく、1つは経営者になる事、もう1つは投資家になる事である。このうち、経営者は起業または出世・相続によって自らの事業をもち、その純利益を高める必要がある。投資家になるには証券口座を開いたり、仮想通貨を含む為替取引業者に送金し金融商品を売買すればよい。すなわち、北茨城市内に既にある会社か、それ以外に自ら起業し、組織か個人で事業の採算性を高めていくという筋道か、合理的な投資知識、金融工学に基づいて利益の上がる金融商品を保有する、どちらかの道を辿り、このうち経済的には投機・投資商品の一種とみなせる美術品を市内において活発に取引する文化を形成していくしかない。市内に作家が糊口をしのぐ以上に多数集積する為には、潜在的構造として、この経営・投資的な経済人が美術史的教養をもって、存在していなければならない。またこの経済人は金融資産の一部または全体を使い、市内作家の前衛芸術、前衛美術を買う必要があり、できればこの美術品の購入にかかる消費税を市内で無税または減税措置とするか、購入した美術品を市内・県内の公的美術館へ寄付しそれが美術館側へ受け入れられた場合、または市内で取引した場合に、作品の市場査定額を税控除する制度が有効である。そうすれば寄付を目的に進んで購入した先物的な前衛作品を、市内にこの経済人が寝かせておく条件をつけられるし、作品売却代で市内に作家が生活でき、またこの経済人の寄付後は市内・県内の美術館は査定額の高い作品を実質的に無償で寄贈される事ができ、行政にとっても民間の経済人にとっても相利的になる。美術館が既に市場査定額の高くなった、美術史上、または美術いちばの評価が定まった作品を購入する税負担より、先物買いのリスクを民間人が進んでとってくれる、この北茨城市・茨城県美術品寄付控除税制の方がたやすく傑作を手に入れやすく、美術館のみならず市県の名声を高めるのである。