2018年3月25日

ヤンキーという概念から分析した茨城県域の情報非対称論

 第一に京都府の少年刑法犯の人口当たり割合は2009年に全国ワーストとなり、その後徐々に減少してきたものの人口比で見ると依然高く、かたや虐め発生件数は京都府が4年連続で全国最下位であった(つまり全国で最も年少の犯罪者や虐め発生件数が多いのが京都)(2012~2016年度、文科省)。また少年刑法犯数は東京がワースト、ついで神奈川、埼玉の順に多く、人口比で見てもこの順位は首都圏内で変わらない(2016年、警察庁統計)。対して、茨城は人口比で京都より少年刑法犯の数が少ない事に加え、首都圏内では群馬に次いで少ない。つまり、首都圏で非行少年が多いのは東京、神奈川、埼玉、千葉、栃木、茨城、群馬の順である。茨城は全国規模で見ても、少年刑法犯数は人口比で23位に位置し、都道府県人口が11位に位置するにもかかわらず、総数でも14位であり、全国平均よりどちらかといえば少年刑法犯の数や人口比が少ない県に属する(2012年、少年刑法犯検挙人員)といえる。
 これらの統計からいえるのは、茨城では非行少年がとりわけ多いわけではなく、首都圏でも少ない側に入り、人口比で見ると首都圏で群馬に次いで少なく、また全国平均でみても平均より少ない方に属するとわかる。

 他方で、私が現に経験した事だが、或る京都府の人とSNS上で話した時、初対面で面と向かって「茨城はヤンキーのイメージしかない」と、極めて差別的な発言をされた。その人物は30~40代女性で、どこかの地方から京都へ嫁いだ人物らしく、京都を鼻にかけるあまり、非常に無分別で無礼千万な発言を茨城県民に対してしたのだろう。水戸の徳川家が京都の皇室を尊崇していたという事について聞いたその女性は、初対面で私に向かって非常に差別的な発言をし、茨城と京都は天と地ほど違うかの様に全く似ていないと侮辱的な言動をとり、挙句の果てに上述の発言をしたのである。恐らくこの女性は茨城県について何も知らないであろうし、一度も訪れた事も無ければ、今後も関わる気はないだろう。
 これは一つの例にすぎないわけだが、それにもまして京都の人々のこの種の非常に差別的な中華思想や自文化中心主義、自己中心な利己性は平安時代から何も変わっていないし、京都市長や府知事を見れば一目瞭然なよう、今後も強化するつもりこそあれ、自己反省したり、己の差別観を疑うような事はないであろうと考えて間違いない。私はこの一例だけでなく、他にも数限りなく京都出身者が同様の言行をする場面を見たし、自己愛障害的に京都を自己崇拝し、他の地域を差別的に蔑視する京都出身者達の中華思想というものは、寧ろ京都では千年来、文化的慣行の一部にまでなっているし、その虚栄心を傲慢に誇示する態度そのものが生きがいとさえ彼らの中で考えられているといっていい。更に、東京都内の人々も、江戸幕府以後にできた新都市という負い目を、古都という虚栄心をもつ京都へのある種の敬慕として思い描きがちであり、この京都の人々の差別主義を一層、増長させる様な卑屈な賛美に終始しがちである。その京都劣等感、古都劣等感における卑屈さの反動として、東京都民は他の地域への蔑視を京都からの不当な差別に乗っかってさらに強調する様な、二重の田舎差別を行う傾向がある。この都民の屈折したコンプレックス、即ち京都への古都劣等感と、他地域への新都市優越感という二重の複合観念は、東京発のありとあらゆる情報に乗って散布され、日本国民全体を洗脳し尽くしているといってもいいであろう。また横浜市民あるいは神奈川県民は、みなとみらい地区の国による再開発後、同様の優劣観念を都の陰でもつようになり、京都の人々や都民の差別意識に乗っかって自己宣伝しようとする傾向がある事があげられる。

 ところで前述の統計をみれば、これらの人口密度、経済規模、皇居の立地、政府機関の集積度といった首都的要素に基づいた想像上の優越感と、現実の年少者の犯罪傾向は違いがある。上述の京都の女性が想像上の差別を多かれ少なかれ意図して発言した茨城の少年は、京都の少年より非行の度合いが低い。また一部の都民がマス・メディアを通じ好奇に供するため盛んに北関東、ことさら茨城を侮辱する為に、田舎、ださい、ヤンキー、不良といった確証バイアスに基づいた偏向した差別情報を県内から取材し、喧伝し全国民を洗脳しているのと逆行して、現実の東京は日本で最も少年刑法犯の数が多く、また人口比でみても首都圏で最も非行少年が多いのであって、しかもその衆愚的な攻撃対象としての茨城は全国比でみても、非行少年が少ない側に属するのである。それどころか、ブランド総研の田中章雄の調査で高魅力度として盛んに称揚されている北海道、沖縄、そして京都の各所は、少年刑法犯数でいずれも茨城より多く、特に京都と沖縄は人口比でも非行少年が多い
 ここから導けるのは、マスメディアを通じた偏った確証バイアスの流布は、統計や事実とはいかにも異なる情報操作に過ぎないという事、そして京都や東京の人々がもっている中華思想的な虚栄心や、田舎差別観は、彼ら自身とメディアを通じた洗脳によって日本国に暮らす人々の正常な認知を大幅に歪めているという事だ。茨城県民の為に正しい情報を述べておけば、茨城で他の地域より明らかに統計的に多いとみなせるのは研究機関数(2014年、偏差値85.76。経済センサス)である。また農業経営体(家族経営体と組織経営体を合わせたもの)の数は最も多いといわれているものの(2015年、農林業センサス)、農業就業人口そのものは2位、人口比では20位にすぎない。これらからいえるのは、茨城県民の真実の姿としては研究機関に務める研究者の数が人口比で他県より圧倒的に多いのである。ということは、上述の京都の人や、多くの都民、日本国民は極めて真実から遠い茨城イメージを固定観念や先入観として持ち、しかもそれをマスコミを通じ拡散しているのである。なおかつ彼らはこの偏見を、神道や皇室崇拝の念、或いは資本主義的観念からくる皇居・都心崇拝と田舎差別という彼らが人生観の一部にしている確証バイアスで補完し糊塗しようとしている。この種の中華思想の震源である天皇家、皇族を擁する都民、嘗て擁してきた京都人の自己愛障害的傲慢さと裏返しの田舎差別主義からはじまった、低俗で、非科学的な偏見や差別観が反映されたのが魅力度調査というバイアスなのだと言っても、ほぼ間違いないであろう。そしてこの都鄙差別のモデルである華夷秩序の観念は、天皇家の千年以上にわたる専制的独裁政を通じて、また東京圏や関西圏のメディアや政府発の教育を通じた洗脳によって、日本国民一般の差別主義の心底まで染み込んでおり、一朝一夕で消え去るとは到底思えない。
 確かに茨城にもヤンキーというアメリカ人の愛称を、非行少年少女への蔑称に援用したことばで呼ばれる様な人々は、他都道府県、或いは首都圏より数や人口比は少ないにせよ存在する。一般論としていえるのは、この種の人々は生まれつき一般知能が低いので、社会において要求されている適応行動を理知的にとるほど賢くない。したがって建設作業員、いわゆる土方とか、工場労働者といった種類の、高度に知的な専門職や企業経営者に比べれば比較的低賃金なブルーワーカーになる割合が任意に高いであろうし、親から同様の遺伝や少ない資産を継いでいる可能性もかなり高いので、長い期間をかけて自己への高等教育を志す人もまれであろうから、低学歴であり易い。この様な人は単に日本全国にいるのみならず、全世界に存在する。一方で、一般知能が比較的高い為に高学歴になり易く、結果として晩婚化し、ホワイトワーカーに属し易い人々の遺伝より、彼らブルーワーカーの遺伝の方が現時点で、数が多いであろう。またこのブルーワーカー階級の中で、最も法的に反社会性を伴った行動傾向をもっている人々が、少年刑法犯として検挙される確率も、そうでない人に比べて高いのだろう。実際、小・中卒、高卒、大卒の比(中退者を卒業者とみなす)でみると、低学歴な人に刑務所入所者数が偏っている(法務省「矯正統計」)。これは基礎学力と相関している可能性のある一般知能が遺伝的に低いと、より法を学ぶ機会が少なくなり、また遵法の意味を理解できなくなる傾向があるからかもしれないし、もし一般知能が遺伝的に高かったとしても、高等教育を受ける機会を逸失すると同様の学習を得る機会を失う為かもしれないし、またこれらと異なって社会の側が学歴差別によって低学歴者へ圧制を行い、任意に検挙率をあげているからかもしれない。いずれにしても、少年刑法犯の検挙人員の構成比からわかるのは、大都市に多い傾向がある少年刑法犯にもかかわらず、人口の多い自治体順でみて茨城県の少年刑法犯の人口比は北海道、静岡に次いで少ないのであって、上述のよう研究機関数の人口比が圧倒的に多いという茨城の特徴からいって、むしろ一般知能が低い人はこの県においては全国に比べて有意に少ないのではないかと考えられる。

  では具体的に、このヤンキーと呼ばれる様な人々を茨城県への確証バイアスで県内に見出し、差別したり蔑視したりする都民とか、京都人、日本国民に対して、我々はどう対処するべきだろうか。それは対自的に最も身近な例でいえば、このヤンキー達の趣味といえば、騒音を鳴らす二輪自動車の改造で公道を暴走する事以外考えられないのであって、茨城県条例、かつ北茨城市条例において、二輪車や自動車を通じた騒音を鳴らす事を罰金刑や警察による取り締まり・啓発活動によって防止し、その種の改造にも同様の罰金刑を与え、また公道の暴走行為に関しては拘留や刑期を含む罰則を与える事である。年少者がこれらをした場合も更生施設へ入れる措置を盛り込むべきなのだろう。それ以外の非行として何等かの公害が見つけられれば、適宜、条例を作って対処するべきなのである。これらの条例策に加え、根本的には一般知能が低い人の中で、法的な学習が欠けている人が違法行為を犯しやすく、かつ、道徳的な知能の低い人が公害を起こしやすいと考えられる。茨城は既に全国比で県民の平均値を見れば一般知能は高い側に属するであろうし、実際、全国学力テストでも継続的に上位の成績をあげている傾向もあり(2017年度は10位)、いいかえれば、幼少期から法的・道徳的な教育を適切にはかれば、寧ろますます少年非行の数は比較的容易に減っていくと考えられる。既に茨城は橋本県政の元で道徳教育を国より先にとりいれてきたし、次は最も基礎的な法教育を、県や市の教育委員会が小中高校で年少者に与えるべきだといえるだろう。文科省の学習指導要綱に法教育は含まれていないし、場所や時代、或いは人の信念によって変わる特定の道徳を与えるものとして上意下達で教える事には矛盾が多い。したがって茨城県の公教育では暴走行為を行う年少者の発生防止を前提として、交通ルールを最も基本とし、刑法と民法の基礎中の基礎について、道徳副読本と道徳の時間の中で最も先に触れる事を前提とするべきだろう。そして道徳については作文と討論を通じて、或る倫理的命題(例えば自分が急いでいる時に困っている人を助けるべきか、といった善悪の判定に関わる命題)についてそれぞれの子供が自由に意見を述べ、教師はそれらについてどれが正解かを決めつける事なく教師自身の意見として批評する、そして生徒自身にもう一度考えさせるという形式が最も優れているのではないかと思われる。それなら生徒自身が将来にわたっても善悪の判断について自己反省的に考えたり、新たな社会的認識を得るたびに己の判断を吟味する習慣をつけられるからだ。但し、この際、教員には倫理学の専門知識が要求されるだろうから、県や市の教員養成課程や資格試験の中に必須科目として、倫理の講義を導入しなければならないだろう。これらは公教育についての対策だが、飛び級や専門化が容易である自宅学習や独学をおもとした子の個性に応じた生き方も今後ふえてくることが見込めるので、この種の副読本、つまり法の基礎を含む茨城県・北茨城市の道徳教育の本については求めに応じて民間にも販売するか、さもなくば民間の優れた本を採用する事が有益である。実際、今日ではこの一冊では時代にそぐわなくなっているかもしれないが、嘗ては『論語』がこの目的で使われていたわけだ。高校では洋の東西に渡る網羅的な形而上学の基礎知識が含まれる既存「倫理」科目の参考書や、「現代社会」科目に含まれていた法学の基礎知識をよりわかりやすく解いている参考書などで専ら十分だろう。
 また、県内・市内における教育・教養水準の底上げは、より付加価値の高い為事を選好する人をつくるという意味で高所得と正に相関しやすい。したがってこれまで通り、研究機関を全世界から誘致し、県内・市内へ高度な頭脳を世界で最も多く茨城に集積させる事は、所得の対数と正の相関がみいだせる主観的幸福度をも底上げするであろう。

 もし上述の全てが体よくいって、茨城県内の非行がさらに減り、教養の程度も上がり、幸福度も上がったとして、京都や東京、その他の日本人が茨城県民を相も変わらず事実と相反するヤンキーの先入観で糊塗し、確証バイアスを強化し続けたり、都内から田中章雄が現にそうしているよう魅力度差別で地域全体を蔑視したりしてきたとしても、これらは我々県民自身が対策できる範囲を超えているといえるし、対策するべきでもないと思われる。なぜなら、元々この魅力度差別が首都圏北部、特に茨城に対して継続的に行われている理由は、茨城が日本で唯一、民放テレビ局によるマス向け情報発信を行っていない県である事、及び、商人階級が過半となった日本人一般からの農業差別感や田舎蔑視に由来していると考えられるからだ。先ずこれらの差別的観念のうち、農業差別感や田舎蔑視についていえば、農本思想や重農的な考えに基づいた水戸家が茨城県域を国内有数の農業生産性をもつ地域へもっていった事が、これと逆行し極端な商業化を進めた江戸・東京から蔑視される結果になった訳だが、現実に茨城と東京に長く暮らせば分かる事として、農業の多面的機能としての環境整備効果は茨城の公園的な緑に満ちた生活環境をコンクリートジャングル化した過密都市の東京に比べて良好にしているのである。この生活環境の緑の多さ、環境良好性は他の田園地帯でも同様だが、県内最大都市の水戸市にさえ世界2位の広さをもつ大都市公園・偕楽園がある事からも、とりわけ水戸家の農本政策の功徳と結びつけて考えられるはずだ。少なくとも茨城のエンゲル係数が他の自治体より非常に低い状態にある、つまり食費の負担が47県中40位と非常に小さいのは、食料多産地である事に原因の一つがあると解釈してもよさそうであり、たとえばネット通販が発達した今日、大商業地の買い物における利便性はますます低下していくのであって、全てを考慮すると、田舎を蔑視している人達の根拠は単なる過密都市に固執する夜郎自大に過ぎず、真剣に相手どるに値しないただの傲慢に他ならないといえそうである。実際、イギリスの様に田舎を過密都市より生活に好適な環境とみなす考え方の方が、世界全体で見れば当然の認識に近く、世界の奇形民族というべき東京都民や京都市民がもっている様な都心中華思想の源泉は中国の皇帝制度を模倣した天皇にあり、この種の皇帝もどきが全国民を奴隷化する為に植え付けた華夷秩序を大真面目に信じこまされ、その田舎差別意識が通用する範囲とて彼らの洗脳が成功した日本衆愚の一部や、皇帝制の残滓がある中国国民の一部に限られるといってもいいであろう。即ち、都鄙差別を伴う中華思想は中華皇帝の模倣者として天皇が日本国内に広めた考え方であって、この日本人奴隷化の為の洗脳劇場へ大真面目に追従している都民や京都人の方が世界規模のまなざしでは少数派で、風変わりな異人なのであり、またこの種の語るに落ちる傲慢かつ卑俗な悪意ある差別観をそのままマスメディアや日本政府を通じて鵜呑みにしている日本人愚民の差別主義についても、一顧だに値しないといえるのではないだろうか。
 差別とはそもそも、愚者が事物を単純化して認識する為の偏見に基づく非科学的な省略装置であり、思考を大雑把にショートカットしてしまう上に事実や道徳的善とは正反対になり易い。一般に、低IQと差別意識には正の相関関係がある、つまり低IQなほど思考を節約せざるをえず物事を過度に単純化して捉える目的で、差別意識を偏見として己の思考パターンに刷り込み易いと考えられる(2016年、Social Problems誌、トロント大学ジェフリー・ヴォトケ(Geoffrey Wodtke)による「言語能力テストで高スコアな人は黒人の知性や職業倫理にネガティブな見方をする人が少ない」とする研究。2012年、オンタリオ州のブロック大学、Gordon Hodsonチームによる「低IQの子供は、偏見を持つ大人になる可能性が高い」とする研究など)。我々にとって重要なのはこの種の差別から最大限自由に判断し、事実と空想、あるいは何者かによって捏造され流布されている通俗的偏見を峻別し、最も適切な人生上の選択を適宜冷徹に行っていく事である。
 総じて、我々が社会を形成する理由は、単独生活に比べた何らかの公益を他者の存在から受ける為である。この種の公益を最も高次的な概念で表し幸福とすると、我々は茨城県民や北茨城市民として自らの幸福に益する範囲でのみ、市外、県外の人々と接すればよい。なぜなら無制限の交際が我々の不幸につながる場合、この種のつきあいは有害だからだ。このつきあいの中に市外、県外の人の思考習慣や偏見、差別感を何らかの啓蒙や情報提供などで変更するというかなり大変な手間を含めるとすると、上述のよう差別的な人は同時に低IQな傾向があるかもしれないという見解、そしてこの種の人々の低IQさが低学歴や低学力、低所得といった成績と正に相関しているという一般論からいって、どちらかといえば我々が市外・県外の愚者を見分ける有効な手段として、茨城県に対する差別意識の有無が使えると考えて専ら間違いないであろう。都民や京都人が神道や皇室への中華思想的な妄信や自己愛妄想の為に流布する通俗的偏見や田舎差別を、何の批判的意識もなしに鵜呑みにしている人々は、想定される限り低IQだろうし、それに加えてヤンキーという非行少年に関する確証偏見を、全国平均より少ない数と割合でしかこの種の少年刑法犯をもたないわが県へ悪意からあてつけてくる市外・県外の劣悪な性情の者については、二重につきあうべき価値をもっていないといえるだろう。この種の衆愚的差別主義者が単に都内だけでなく京都をはじめとした関西圏、あるいは日本国内に非常に多いとするなら、これらの人々はその様な差別意識をはじめからもっていない、或いは今後もつ由もない茨城県民一般より知性、道徳性のどちらの面についても劣っているのだから、我々は努めて、この種の差別や偏見をもっていない国外の自分より知徳に優れた人達とつきあうようにしなければならないのである。この場合、愛国心やナショナリズムという固執的な全体主義の偏見に基づいて、日本国という単位にこだわり、人間性において自分以下の連中と関わるのは害悪ですらある。

 『孫子』に「彼を知り己を知れば百戦して(あやう)からず」とあるのは、自己に有利な情報の非対称性こそ敵の出方を予想する戦術的上策という意味であろうし、この彼という言葉を任意の市外・県外人にあてれば、茨城に民放テレビ局がない事や水戸学に結晶されている儒教的な謙遜を尊ぶ君子道徳は寧ろ好運な偶然とはいえ、魅力度調査に明らかに表れている様、県外との情報の非対称性をうみだしている。私はこの事象を茨城のステルス性、隠密性と呼んでいるが、我々は世界のあらゆる情報摂取と分析に長け、市内・県内情報をできるだけ茨城圏内にとどめながら市民・県民だけで共有し、ますますその外に知られないよう自己隠蔽的な情報環境を今後もこれまでの路線で構築していくべきだと信じる。そもそも、孔子が『論語』で「君子は人の己を知らざるを憂えず、己の人を知らざるを憂う」と述べている情報非対称性についての道徳的態度と、孫子の見解は一致している。この逆を行っているのが都議や都政の混乱をさも全国ニュースかのよう不躾にばら撒く都民や、文化交流の中華を志向する過度の自己宣伝によって観光公害を併発している京都市、そして観光先としての魅力度を強調し47都道府県を差別する疑似統計で商売をしているブランド総研・田中章雄の立場ではないだろうか。茨城が世界の情報にますます通じかつ県外・市外への情報発信を抑え今後さらにステルス化され、外部から如何なる誤解や差別、何らかの汚名や負の偏見を受けたとして、またそれが我々の尊厳欲求を傷つけ、名誉感情を損なう様な結果を伴っていたとしても、逆に外部に全てを知られているが我々が県外・市外について何も知らない井の中の蛙である状態に比べて遙かに優れた結果を伴うだろうことは疑いようがない。なぜなら、我々が知識とか、学力と呼んでいる能力の本質は、実際には多かれ少なかれ抽象的な次元における世界に対する情報の非対称性そのものなのだ。いいかえれば、茨城県民の知性が高まれば高まるほど、我々の存在が無知なままの県外に知られる機会は減り、寧ろ我々が世界を知っている程度が高まる筈だ。
 究極のところ、所得の対数に比例すると考えられる主観的幸福度に格差が生じる根本原因も、学ぶ習慣として自らに有利な情報非対称性を選好する人々が、情報交換としての相互利益のため或る一か所に集まり易い傾向からきているのだと考えるのが自然である。この現象をより素朴に解釈すると、主に言語記号や芸術といった抽象的思考の体系を通じた学習能力の高い人々がより高所得を得やすい、即ち、一般知能の高い集団側がより恵まれたくらしをする傾向にある、と考えられる。
 敢えてこれらに加えれば、我々が芸術一般を有益な文化とみなすのは、それが現実の諸情報の抽象・具象度を調節し、主観的情報量という意味で圧縮・解凍して表す能力があるからである。例えば宇宙という文字は現実の宇宙を形相化したものだが、我々はこの言葉を通じて具体的な宇宙について或る縮減した認識をもてる。他方、宇宙についての詩や小説、絵、漫画、アニメなどは、この宇宙という概念についてより具体的かつ詳細に説明できる。つまり芸術の意義は世界の抽象度を或る理解にとってふさわしい程度に調節できる事なのだ。
 芸術が政治的喧伝の装置に使われている時、嘗て天皇家がそうしてきたよう、天皇居住地を中心とした華夷秩序に類する表現、例えば『古事記』や『源氏物語』、その他、皇国史観を連想させる書籍や絵画、儀式芸能的な表現を流布したり褒賞する事で、人々の現実解釈の仕方を皇室にとって恣意的な方向へ歪ませることすらできる。今日、都民はマスメディアやサブカルチャーを通じ、同様の目的で東京大衆社会の低俗さを日本国民含む商業上の客層に向け盛んに喧伝している。これらはどちらかといえば応用芸術を通じた洗脳だが、歌会始のよう、短歌という短詩形式の言葉を天皇を主催者として朗詠する儀式によって、国民全般を皇室崇拝者へ変更しようという純粋芸術的かつ宗教的な喧伝活動もみられる。逆に、これらの喧伝による洗脳を啓蒙的に打ち消す様な表現も、本来の芸術の役割である。現代の都民は自らの後光の為にその種の反天皇的な表現をタブー視し、マスメディア業界から封じ締め出す事で、水戸学の尊皇論へ知らぬうちに追従しているのだ。前衛的な芸術は常に、当時の禁忌を表現の中で破っていく筈だ。それは政治的、宗教的喧伝の手段にされていない、純粋芸術にとっては表現の可能性を拡張し、世界に対する多義的な再解釈の手段を提供するという意味で、本来的な事ですらある。
 もしわが市、わが県民が芸術を、我々に有利な情報非対称性をつくりだす有効な手段の一つと考えるなら、我々はできるだけ高尚な芸術を目指すべきである。なぜなら低俗な芸術が人気を博するなら、それはやはり低俗な人々の間だからであり、ここでいう低俗さが、鑑賞の前提とする知識の少なさだとすれば、それは愚者にとっての慰み物に他ならないからだ。一般に高尚さが理解しがたさ、難解さだとすれば、或る芸術の抽象度が高ければ高いほどそれを理解する為に要する情報非対称性の度合いも高い筈であり、高尚な作品を愛好する人が茨城県域や北茨城市に多ければ多いほど、わが県わが市の教養水準が高いことも同時に要求される。主観的幸福度を高める端的な方法が所得を指数的に倍増させる事であるからには、より合理的な商業上の立場をとりつづけるべく世界を分析し将来予測する情報について学習効率も高める必要があり、したがって情報の圧縮性が高いほど、その作品を鑑賞する意義も高い事になるだろう。北茨城に美術品競売界を今後構築するにあたっても、より前衛的であり、より高尚な作品を選好するのが、即ちわが県わが市の幸福度を間接的に高める結果になるであろう。わが県わが市が高尚な人々の間で有名になり、愛好される為にも、高尚な芸術表現の中でこそ集中的に茨城にまつわる諸情報が頻繁かつ必要不可欠に登場する事が極めて有徳である。